帝都高速度交通営団
Teito Rapid Transit Authority | |
略称 | 営団、交通営団 |
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前身 | 東京地下鉄道株式会社、東京高速鉄道株式会社 |
後継 | 東京地下鉄株式会社 |
設立 | 1941年(昭和16年)7月4日 |
解散 | 2004年(平成16年)3月31日 |
種類 | 特殊法人 |
法的地位 | 帝都高速度交通営団法 |
目的 | 東京の地下鉄整備事業 |
本部 | 東京都台東区東上野三丁目19番6号 |
関連組織 | 地下鉄互助会 |
ウェブサイト | アーカイブ |
帝都高速度交通営団(ていとこうそくどこうつうえいだん、英: Teito Rapid Transit Authority)は、東京都特別区(23区)の地下鉄を経営するため、1941年(昭和16年)から2004年(平成16年)まで日本に存在していた日本国政府および東京都が出資する鉄道事業者である。
概要[編集]
経緯[編集]
帝都高速度交通営団法に設立根拠を持ち、交通関係の省庁所管[1]であった「公法上の法人」[2]である。通称交通営団(こうつうえいだん)または単に営団(えいだん)あるいは営団地下鉄(えいだんちかてつ)。イメージソングは井上大輔作曲の「未来よ君は美しい」。
日中戦争中に、国家による統制管理のために設置された経営財団、いわゆる「営団」の一つである。「帝都」とは大日本帝国の首都、すなわち東京のこと、「高速度」とは新幹線のような高速鉄道の意味ではなく、かつて市内交通の主役であった路面電車に対して「高速」である『都市高速鉄道』の意味である。英語表記は「Teito Rapid Transit Authority」で、「TRTA」という略称もあった。
東京地下鉄道と東京高速鉄道によって行われていた東京市の地下鉄建設・運営事業を統合し、一元的に東京の地下鉄を建設・経営する公共企業体として発足した。陸上交通事業調整法に大きく関係している。いわば戦時統合であったが、第二次世界大戦後、日本を占領した連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の指令により、帝都高速度交通営団を除く営団は解散もしくは公団へ移行した。地下鉄を運営していた当営団はそのまま維持され、旧憲法下の「帝都」を名称に含む組織は新体制移行後60年近くという長期に亘って存続した。
その間、東京都の直営による地下鉄事業開始(1960年〈昭和35年〉)や国鉄分割民営化(1987年〈昭和62年〉)など交通経営を取り巻く情勢の変化もあったが、当営団はあまりそれらの影響を受けなかった。21世紀に入ってから小泉内閣による特殊法人改革の一環として廃止され、唯一残った「経営財団」の名残は幕を閉じることとなった。2004年(平成16年)4月1日、東京地下鉄株式会社法の施行により、当営団の一切の権利及び義務、設備、車両は東京地下鉄株式会社に継承された。
性格[編集]
「営団」という組織形態は、官民による共同出資を大きな特徴としており、当営団もまた設立当初は、民間鉄道による出資が含まれていたが、こうした民間資本は1951年の法改正により排除され[3]、以降は日本国有鉄道(国鉄分割民営化後は、日本国有鉄道清算事業団を経て、大蔵省→財務省)と東京都の出資による純粋な公法人に変容した[3]。従って、営団地下鉄は、名称として「営団」の名をなお残しながらも、その組織実態としては、国の外郭団体である公団や公社と似通ったものとなっていた。
地方公営企業(市営交通など)、株式会社である第三セクター鉄道とも異なり、日本国有鉄道と東京都の出資による公企業として、独特な位置づけであった。
日本民営鉄道協会(民鉄協)に加盟し、団内労働組合も日本私鉄労働組合総連合会 (PRU) に加盟するなど私企業のような行動をとる一方、テレビCMなど対外的な広告は規制されており、民営化直前の2003年6月までは一切行われなかった。日本国有鉄道と異なり、その地下鉄事業は地方鉄道法(のち鉄道事業法)に基づいていた。
なお、営団の地下鉄施設は部外者による撮影を容認していなかった時期があり、かつて『鉄道ダイヤ情報』で掲載された撮影ガイドは、その旨から営団の敷地外および相互直通先の路線からの撮影ポイントで構成されていたことがある[4]。また、NIFTY-Serve内の「鉄道フォーラム」では、東京メトロ移行後の2012年まで施設内を撮影した画像の投稿が禁止されていた[5]。尤も、駅の掲示やウェブサイト等で対外的に撮影を「禁止」する告知がなされたことはなく、『鉄道ファン』など、読者投稿を受け付ける鉄道雑誌でも施設内で撮影した写真の掲載に規制がかけられたことも無い。これに加えて末期には、ラッピング車両の運行や営団赤塚・営団成増両駅の改称を記念したイベントを開催するなど、写真撮影を前提とした施策も行われるようになった。
「営団」[編集]
前述のように、大半の営団が終戦直後に廃止となった結果、中後期は単に「営団」の意味は「帝都高速度交通営団」を表すことがほとんどとなり、「営団線」と言えば、その経営する地下鉄路線全体を指していた。そのため「営団」の語が固有名詞化し、当営団が経営する地下鉄路線を営団地下鉄と通称していたことも相まって、組織名が「営団地下鉄」であると誤解されることもあった。末期では、これを逆手にとる形で「営団地下鉄」と組織名に代わって表記する旅客向け資料もあった[6]。
駅のロゴ表記は単に「地下鉄 SUBWAY」であった。運賃・乗車券など特に「営団線」として区別しなければならない場合を除き、東京で単に「地下鉄○○線」という場合は、営団の路線である場合が多く、都営の駅を含む駅の案内などでは、路線名のみの表記(「銀座線」など)が多用された。対して後発の都営地下鉄は、都営線内でも「都営」を冠した路線呼称(「都営三田線」など)が多用された。この方式は、営団が廃止されて東京地下鉄に継承された現在でも引き継がれている。
一方、「地下鉄互助会」(現:メトロ文化財団)[7]など関連団体、職員で作る政党職場組織[8]には設立当初から当営団の意味で「地下鉄」を冠したものがある。
4S[編集]
団章(シンボルマーク)はSを図案化したものとなっており、地下鉄を意味する英語SubwayのSのほかに以下の4つのSのつく英単語(4S)を意味し、営団の基本理念だった[9]。
- Safety 安全
- Security 正確
- Speed 迅速
- Service サービス
営団発足から1960年(昭和35年)までは、丸にトンネルの断面とレールを配したものが団章として使われていた。Sマークは営団初の新規開業路線である丸ノ内線開業前年の1953年(昭和28年)12月1日に、宣伝・広告・電車車体に使用する記章として制定され[9]、1960年(昭和35年)3月1日より正式に団章となった[9]。
東京地下鉄への移行の際に、この「Sマーク」の団章を継続して欲しいという意見が多数あったが、結局メトロ(Metro)のMを抽象・図案化した「ハートM」のシンボルマークを採用した。ただし、この団章の日本での商標権は現在も東京地下鉄が保有しており[10]、イベントなどで使用されることもある。また、「帝都高速度交通営団」「営団地下鉄」も民営化直前に日本において商標登録を出願し、民営化後に登録されている[11]。
歴史[編集]
1941年(昭和16年)3月6日に公布(同年5月1日施行)された帝都高速度交通営団法に基づき[3]、東京府東京市(1943年、東京都制施行に伴い東京都になる)及びその付近の“地下都市高速度交通事業”を目的として、1941年(昭和16年)7月4日設立された[3]。資本金6,000万円は、大日本帝国政府の4,000万円、東京市の1,000万円のほか、東京横浜電鉄(東横)、東武鉄道(東武)が各200万円、京成電気軌道(京成)・小田急電鉄(小田急)が各100万円、西武鉄道(西武)、武蔵野鉄道、国鉄共済組合が各50万円を出資した。
同年9月1日、日中戦争中の戦時体制のため、陸上交通事業調整法(1938年8月施行)により、現在の銀座線を運営していた東京地下鉄道及び東京高速鉄道の路線を引継いだほか[12]、両社の未成線、東京市の地下鉄道未成線、京浜地下鉄道の未成線免許を譲受した[12]。譲受代価は総額1億232万3,500円であり、主に交通債券で支払われた[12]。
- 東京地下鉄道 譲受代価6,955万4,000円
- 東京高速鉄道 譲受代価3,097万4,000円
- 京浜地下鉄道 譲受代価149万4,000円
- 東京市 譲受代価30万1,500円
戦時中の新路線建設計画[編集]
営団設立後の1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争が始まったが、営団地下鉄は設立の使命である地下鉄新路線の建設計画を進めた[14]。
緊急施工路線として新宿 - 東京間を建設することとし[14]、四谷見附 - 赤坂見附間を1942年度(昭和17年度)着工、1945年度(昭和20年度)完成、新宿 - 四谷見附間および赤坂見附 - 東京間を1943年度(昭和18年度)着工、1946年度(昭和21年度)完成予定とした[14]。車両120両および新宿車庫計画を含めた建設費用は1億4,050万円を計画した[14]。
続いて池袋 - 東京間(車両162両を含めた建設費用は1億5,506万8,000円)、築地 - 五反田間(車両118両を含めた建設費用は1億1,544万6,000円)を1942年度(昭和17年度)より順次着工[14]、1947年(昭和22年)以降の完成を目途に建設することとした[14]。
そして1942年(昭和17年)6月5日(この日は日本軍がミッドウェー海戦で惨敗した日である)に四谷見附 - 赤坂見附間の起工式を行い、弁慶濠付近の建設工事が行われた[14]。しかし、以降は戦局の悪化により資金、資材、労働力が不足したことから、1944年(昭和19年)6月に建設工事は中止した[14]。
第二次世界大戦後の1951年(昭和26年)4月、営団の公的性格の明確化、運輸政策審議会の答申で財政投融資による東京の地下鉄建設促進を計る観点から、各民間鉄道の出資金を引き上げ、日本国有鉄道と東京都への移管が行われた。
その他の主な特記事項[編集]
- 1975年(昭和50年)12月 - 各列車の先頭車両(434両868個所)にシルバーシートを導入。
- 1987年(昭和62年)4月 - 国鉄分割民営化により、日本国有鉄道の出資持分が、日本国有鉄道清算事業団に継承される。
- 1988年(昭和63年)
- 1990年(平成2年)
- 初頭 - ドアステッカーを更新。国際花と緑の博覧会開催に伴い、その宣伝の一環としてベースはそのままで、従来のキャラクターのイラストが書かれている下に花博の広告が入った丸いデザインのものへ変更。
- それまで、ツーマン運転の路線では車掌による肉声車内アナウンスが主流だった中、当時の旅客サービスの一環と車掌の負担軽減のため声優の清水牧子を起用した車内自動放送を導入。01系の一部・02系・03系・05系の一部・6000系の一部・7000系の一部・8000系8110編成で使用開始。それ以外の車種・編成については肉声車内アナウンスのままだった。
- この年から自動改札機の本格的導入開始。
- 6月 - 「日本国有鉄道清算事業団の債務の負担の軽減を図るために平成2年度において緊急に講ずべき特別措置に関する法律」の施行により、日本国有鉄道清算事業団の出資持分が、日本政府に譲渡される。
- 1991年(平成3年)
- ドアステッカーを更新。従来のキャラクターのイラストから、ネコのキャラクターがドアに挟まれているデザインのものへ変更。南北線開通直後までは、その下に「『自動改札』営団地下鉄では平成2年度から5年計画で全駅に設置いたします。」と自動改札機導入を知らせる告知を表示していた。このデザインのドアステッカーは民営化後もS 営団地下鉄の表記を削除したうえで、2007年まで使用されていた。
- それまで車内自動放送の言い回しが「次は○○、○○でございます。」だったものを、南北線開通に伴い運用開始した9000系より「まもなく○○、○○です。」へ変更。翌年までに全線において更新された。
- 同時に制服を営団としては最後の変更。
- 南北線に、それまでのパタパタ式や方向幕式と呼ばれていた、行き先の表示しかできないホーム行先案内表示機に代わり、発車時刻表示対応の発光ダイオード式ホーム行先案内表示機を導入。
- 南北線にそれまでの旧型の垂直のボタン式券売機から、高さが低くなり傾斜があるボタン式券売機を新設(これは東京メトロ化後も交換がしばらく完了せず、垂直のボタン式券売機は2005年まで現存していた)。
- 1993年(平成5年) - 南北線以外の営団全駅で、前述の発車時刻表示対応の発光ダイオード式ホーム行先案内表示機への交換を順次開始(ただし、一部の駅では表示をLEDにはしたが、従来型のタイプを踏襲したものを使用)。
- 1995年(平成7年) - 自動改札機の営団全駅への導入が完了。ただし、一部の改札には有人改札が残存。
- 1996年(平成8年)
- 1999年(平成11年)
- 2004年(平成16年)3月31日 - 翌4月1日の東京地下鉄株式会社発足により、帝都高速度交通営団は廃止・解散(営団としては廃止・解散だが、職員・社屋・駅・鉄道車両・施設は東京地下鉄にそのまま引き継がれる)。
歴代総裁[編集]
- 原邦造:1941年7月3日 - 1944年6月20日
- 喜安健次郎:1944年6月21日 - 1946年7月9日
- 鈴木清秀:1946年7月9日 - 1961年7月8日
- 牛島辰弥:1961年7月9日 - 1970年4月1日
- 荒木茂久二:1970年4月1日 - 1978年7月14日
- 山田明吉:1977年7月15日 - 1983年7月14日
- 薗村泰彦:1983年7月15日 - 1986年7月15日
- 中村四郎:1986年7月15日 - 1991年7月14日
- 永光洋一:1991年7月15日 - 1996年7月14日
- 寺嶋潔:1996年7月15日[17] - 2000年6月29日
- 土坂泰敏:2000年6月30日 - 2004年3月31日
サインシステム[編集]
営団は日本の鉄道事業者として初めて、サインシステム(案内標識のシステム化)を導入した事業者とされているが(1973年5月に千代田線大手町駅に導入)[18]、実際に設置された時期では1972年12月開業の横浜市営地下鉄1号線の方が早い(開業時から全駅で導入)[19][20][21]。それまでは案内サインの様式が全く統一されておらず、大量の文字情報が無秩序に羅列されているような状態だったが、それを外部の専門家に委託し下記のようにシステム化した[18](参考:実際に導入された案内サイン)。案内サインの表示書体にはゴシック4550が使用された[22]。
- 白地に黒文字を基本として(方向指示の矢印は黒色の正方形を地の色で抜いたもの)、改札口のカラーを緑色、出口のカラーを黄色とし、遠くからの視認性を高めるため表示板が通路を左右に横断するような形で掲示した。
- 路線ごとのラインカラーで色付けした○印の路線シンボルを設け、路線名の表示には必ず付すようにした。
- 改札口・出口付近には地下構内図と地上周辺地図を同一の図面内に一体化した、2メートル角の図解サインを配置した。
- ホームに降りる階段の上部垂れ壁には路線の停車駅案内を表示し、案内を読むために階段の途中で立ち止まることが無いよう文字を大きくした。
- ホーム上には柱付け型の乗り換え路線案内を15メートル間隔で配置した。
また、今まで目立つ場所にあった広告や広告とタイアップした案内サインを撤去し、そこにサインシステムに基づいた新たな案内サインを設置しようとしたため、広告収入の減少が見込まれたが、旅客案内を最優先とした[22]。その代わりに列車車両内に新たな広告媒体を設けることで、広告代理店などの了解を取り付けている[22]。
このようにシステマチックに構築された営団地下鉄のサインデザインは、1989年の「'89デザインイヤー記念日本デザイン賞」を受賞し、出口のカラーとして用いた黄色は、1995年に出口明示色としてJIS規格化された[18](ただし、サインシステム導入前の営団大手町駅・銀座駅[18]や1964年の東海道新幹線開業時の日本国鉄などのように、既にいくつかの鉄道事業者において出口に関する案内サインに黄色が用いられていたことに倣ったものであり、1973年の営団のサインシステムが出口を示すために黄色を用いた最初の例というわけではない[22])。
1991年に開業した南北線の単独駅を皮切りにサインシステムを一部修正。これまでの線区ではの地下駅への出入口上部には丸で囲んだSマークが掲げられていたが、この年以降に開業した駅および大規模改修を実施した駅では、駅入口にある駅名看板と統合する形で廃止された(Sマークは駅入口の駅名看板に記載するように改定し、同時に駅名看板のベースカラーを濃い青地のものに変更[23])。また南北線と有楽町新線では駅名標のデザインも一部変更され、ゴシック4550は踏襲されたものの、ラインカラーの位置を最上部に持ってくるように修正し、そのラインカラーの中央に逆三角形の図柄を描いたものに変更された。
営団では、サインシステムを「一種の公共財」と考え、大手町駅でのサインシステム導入後に完成したマニュアルを全国各地の地下鉄事業者に無償で配布し、京都、名古屋、札幌、福岡などの各都市の地下鉄がそれを参考にサインシステムを構築したといわれる[18]。
しかしながら、個性が強く表れた営団地下鉄のサインシステムは、民間企業となった東京メトロには○印を除いて引き継がれず、紺地に白文字をベースとする新しいサインシステムが導入され、既存の案内を順次置き換えた(ただし、民営化直後以降でも現在に至るまで一部で営団時代のサインシステムが残っている場所もある)。
新サインシステムでは、路線シンボルを表示する際には紺地を白抜きにした上で、○印とアルファベットの路線記号を表示しているため、デザイン的に煩雑で、○印のサイズも小さくなり、視認性が低下しているとの意見もある[18]。
トンネル冷房[編集]
営団では、車両からの排熱を懸念して車両冷房には消極的であった。代わりに駅構内の冷房化(駅冷房)や駅間のトンネルの冷房化(トンネル冷房)を積極的に進めていた[24][25]。
そのため、高温多湿となる夏季には車内扇風機が稼働し、なおかつ窓を開放して車内に風を通していた。他社線直通列車では、会社境界駅を過ぎると乗客が一斉に車窓を開閉する光景が日常的に見られた。
1988年度に方針を大きく転換、車両冷房化に踏み切ることになった。
路線[編集]
(2004年3月31日時点・初区間の開業順)
- 銀座線 浅草 - 渋谷間
- 丸ノ内線 池袋 - 荻窪間および中野坂上 - 方南町間
- 日比谷線 北千住 - 中目黒間
- 東西線 中野 - 西船橋間
- 千代田線 綾瀬 - 代々木上原間および綾瀬 - 北綾瀬間
- 有楽町線 和光市 - 新木場間(小竹向原 - 池袋間の有楽町新線含む)
- 半蔵門線 渋谷 - 押上間
- 南北線 目黒 - 赤羽岩淵間
車両[編集]
発足以降両開き扉、WN駆動方式、アルミ合金車体、電機子チョッパ制御、着席区分つき座席など時代毎の先端技術を積極的に採用しており、その後国鉄・JR・私鉄各社に影響を与えた車両も多い。しかし、車両への冷房装置搭載については消極的であった。これは営団地下鉄が車両技術面や廃熱処理の問題から、車両よりも駅構内とトンネルの冷房化を推進していたためである[26]。本格的に車両冷房が導入されたのは他社から大きく遅れた1988年からであり[27]、1996年までに全車の冷房化が完了している[28]。
既に営業運行を終了した車両および未成車両も含む。
- 銀座線
- 1000形(1968年運行終了、1975年廃車)
- 1100形(1968年廃車)
- 1200形(1986年運行終了)
- 100形(1968年運行終了、1981年廃車)
- 200形(発注のみで終わった未成形式)
- 1300形(1986年運行終了)
- 1400形(1986年運行終了)
- 1500形(1986年運行終了)
- 1600形(1986年運行終了)
- 1700形(1986年運行終了)
- 1800形(1986年運行終了)
- 1900形(1987年運行終了)
- 1500N形(1993年運行終了)
- 2000形(1993年運行終了。一部が日立電鉄、銚子電気鉄道に売却)
- 01系(東京地下鉄が継続保有。2017年運行終了。一部が熊本電気鉄道に売却)
- 丸ノ内線
- 300・400・500・900形(1996年運行終了。一部はアルゼンチン・ブエノスアイレス地下鉄に売却。現地での廃車後、東京地下鉄が保存のため4両を買い戻し[29])
- 100形(支線用。1968年運行終了)
- 2000形(支線用。1993年運行終了)
- 02系(東京地下鉄が継続保有)
- 日比谷線
- 東西線
- 千代田線
- 有楽町線・新線(現 副都心線)
- 半蔵門線
- 南北線
- 9000系(東京地下鉄が継続保有。民営化後も製造を継続)
事故[編集]
- 1968年(昭和43年)1月27日 - 日比谷線六本木駅 - 神谷町駅を走行中の東武鉄道2000系回送列車が火災で運転不能となり、6両中1両が全焼、1両が半焼。乗務員と消防士11名が負傷した。乗客は、床下からの発煙が認められた六本木駅で全員降ろされたために無事であった。
- 1972年(昭和47年)11月27日 - 同じく日比谷線の下り電車が広尾駅手前600 mの地点で異常停止、起動不可能となり同駅で運転を打ち切った後、側線での点検中に床下機器から出火。職員の慎重な判断により死傷者は出ていない。この事故は、同年同月の6日に国鉄が起こした北陸トンネル火災事故の直後のもので、同事故と明暗を分ける形になった。
- 1990年(平成2年)6月5日 - 丸ノ内線新宿駅の折り返し線に入線し停車しようとした02系電車が、ブレーキをかけ遅れ車止めを超えてポンプ室の壁に電車激突する事故が発生した。この事故により折り返し線が使用不可能になり、新宿止まりの電車は2駅先の(当時西新宿駅は未開業)新中野駅まで回送させ折り返したが5日の新宿止まり列車2本は運休し、7日の15本は荻窪駅までの延長運転することになったが、利用者には事故が発生した事を公表せず、警視庁にも届け出なかったため公表したのは7日夜にまでずれ込んだ。事故車は6月10日までに取り除かれた[33]。
- 2000年(平成12年)3月8日 - 日比谷線中目黒駅付近で電車がせり上がり脱線を起こし、対向電車と衝突し大破した。死者5名。「営団日比谷線中目黒駅構内列車脱線衝突事故」を参照。営団地下鉄が原因となった事故で、旅客の死亡を生じたのは後にも先にもこの一度のみである。ただし、職員のみの死亡事故ならば、1977年12月に東西線で便意を催した車掌が列車から放り出されて死亡したもの、1998年(平成10年)3月11日に千代田線代々木公園駅 - 代々木上原駅間にて線路上を背行歩行していた職員4人のうち3人が営業運転終了後の回送電車にはねられた例がある。
重大事件[編集]
1963年(昭和38年)9月5日、一連の「草加次郎事件」中、最も重大な事件となった「地下鉄銀座線爆破事件」が発生した。銀座線京橋駅に到着直後の列車最前部座席下(車両最前部まで座席を持つ、半室運転台構造の戦前型車であった)に仕掛けられた手製の時限爆弾が爆発。乗客10名が重軽傷を負った。翌日女優の吉永小百合宛に、草加次郎名で100万円を要求する脅迫状が送付されるが、未遂に終わり、以後行方をくらました。犯人は検挙されないまま1978年(昭和53年)9月5日に時効が成立した。
1995年(平成7年)3月20日、「地下鉄サリン事件」が発生した。日比谷線・丸ノ内線・千代田線に、宗教法人オウム真理教の信者により、戦争の化学兵器として使用される神経ガスのサリンが散布され、乗客や駅員ら13人が死亡、5,510人が重軽傷を負った。銀座線・東西線・半蔵門線も当日午前中は運休した。詳細は「地下鉄サリン事件」を参照のこと。
営団の廃止・株式会社化[編集]
帝都高速度交通営団(以下、営団)の民営化については、1995年(平成7年)の閣議で南北線もしくは半蔵門線が完成した頃を目途に、第一段階として特殊会社化する方針を閣議決定した。その後、2001年(平成13年)12月に当時の小泉内閣が約160あまりの特殊法人・認可法人を対象とした特殊法人改革基本法を閣議決定し[34]、その中で営団を半蔵門線延伸開業後の翌年である2004年(平成16年)春に特殊会社化することを決定した。
このような民営化は国鉄分割民営化と比較されることがあるが、日本国有鉄道の場合は、巨額の債務によって実質的に経営破綻を起こしていたのに対し、営団は日本国政府の行政改革の一環として、特殊法人改革を行っていたことに由来する。そのため経営には問題はなく、また東京の地下鉄建設というインフラストラクチャー整備の必要性が残っており、民営化には反対意見が多かったが、都市高速道路建設の必要性があった首都高速道路公団も民営化されるため、営団も例外とせず民営化の対象とした[35]。同法案作成時に新会社名を「東京地下鉄株式会社」と定めたことから、新会社名もこの段階で事実上決定した。
新会社では新株発行・代表取締役選定など、重要な事項に関しては行政機関との協議・認可が必要であるが、事業計画・決算は日本国政府(国土交通大臣)への報告のみとなる。またそれ以外の関連事業・社債募集などは、営団時代では国の認可が必要であったが、新会社ではこれが不要となる。その他、発足段階では日本国政府と東京都が新会社へ出資(出資率は国が53.4%、都が46.6%)しているが将来的には全株式を上場させ、完全民営化させる計画になっている。
脚注・出典[編集]
- ↑ 鉄道省→運輸通信省→運輸省→国土交通省
- ↑ 帝都高速度交通営団法第一条
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)、pp.75 - 77。
- ↑ 「鉄道ダイヤ情報」2002年2月号 P.33
- ↑ “【お知らせ】東京メトロ施設内での写真撮影が解禁になりました”. 鉄道フォーラム (2012年4月18日). 2020年12月5日閲覧。
- ↑ メトロカードなど。画像:「メトロカード」等の使用終了と残額の払い戻しについて 東京地下鉄 2014年12月15日発表
- ↑ 沿革
- ↑ 日本共産党地下鉄委員会
- ↑ 9.0 9.1 9.2 東京地下鉄道荻窪線建設史、p.51。
- ↑ 日本第3077244号、第3098355号、第3102904号
- ↑ 日本第4796893号、第4796894号 権利者東京地下鉄株式会社
- ↑ 12.0 12.1 12.2 12.3 12.4 12.5 12.6 東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)、pp.82 - 84。
- ↑ 高田馬場 - 洲崎間は、現在の東西線とほとんど同じルートである。
- ↑ 14.0 14.1 14.2 14.3 14.4 14.5 14.6 14.7 東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)、pp.84 - 86。
- ↑ 『鉄道ジャーナル』第30巻第08号、鉄道ジャーナル社、1996年8月、 91頁。
- ↑ “営団地下鉄の総合指令所 4指令の一元化実現”. 交通新聞 (交通新聞社): p. 4. (1996年10月22日)
- ↑ “帝都高速度交通営団 総裁に寺嶋氏 きょう発令”. 交通新聞 (交通新聞社): p. 1. (1996年7月15日)
- ↑ 18.0 18.1 18.2 18.3 18.4 18.5 赤瀬達三『駅をデザインする』ちくま新書、2015年
- ↑ 日本サインデザイン協会 第7回日本サインデザイン賞 銀賞(1973年)
- ↑ 『横浜市高速鉄道建設史』 横浜市交通局、1987年12月、283ページ
- ↑ 赤瀬達三『サインシステム計画学』 鹿島出版会、2013年9月、ISBN 978-4-306-07303-6、55-61ページ
- ↑ 22.0 22.1 22.2 22.3 藤岡長世 公共交通のサイン計画――営団地下鉄のサイン計画を通じて―― 公益財団法人国際交通安全学会 2015年4月13日閲覧
- ↑ 駅入口の駅名看板は、南北線後楽園駅の出入口の一部では白地に青文字のものであったなどの例外もあった
- ↑ 「「東京メトロにおける冷房化の歴史」編 (PDF) 」- 東京メトロニュースレター2017年8月(第69号)。
- ↑ 「地下鉄における空気調和設備 (PDF) 」 - 日立製作所『日立評論』1977年6月号。
- ↑ 1980年代以降になると直通運転を行う国鉄・私鉄から冷房を搭載した車両が乗り入れるようになったが、地下鉄内では冷房スイッチを切って運行していた。
- ↑ 但し、1980年代以降の新造車の一部は将来の車両冷房搭載を前提とした「冷房準備車」として落成していた。
- ↑ 東京メトロにおける冷房化の歴史 東京メトロニュースレター 2017年8月
- ↑ “アルゼンチン共和国ブエノスアイレスで活躍した丸ノ内線旧500形車両が約20年ぶりに東京に里帰りします! - 東京メトロ プレスリリース(7月20日)”. 2016年9月3日閲覧。
- ↑ 東京メトロ03系が北館林まで廃車回送される 鉄道ファン(交友社) 2017年2月3日
- ↑ 【東京地下鉄】06系、新木場へ - 鉄道ホビダス RMニュース、2015年8月13日
- ↑ 東京メトロ06系の解体が始まる - 交友社「鉄道ファン」 railf.jp鉄道ニュース 2015年9月25日
- ↑ 「暴走地下鉄を”放置” 2日間折り返せず 営団新宿駅構内」 朝日新聞1990年(平成2年)6月8日朝刊
- ↑ 鉄道ジャーナル 2003年3月号 (No.437) P.103 東京地下鉄株式会社 (RJ ESSENTIAL)
- ↑ 鉄道ジャーナル 2004年7月号 (No.453) P.59 東京の地下鉄と一元化論
参考文献[編集]
- 『東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)』帝都高速度交通営団、1960年3月31日。
- 『東京地下鉄道荻窪線建設史』帝都高速度交通営団、1967年3月31日。
- 帝都高速度交通営団編『営団地下鉄五十年史』帝都高速度交通営団、1991年7月。
- 東京地下鉄株式会社編『帝都高速度交通営団史』東京地下鉄株式会社、2004年12月。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
関連項目[編集]
- 人物
- 営団関連
- 地下鉄を経営する他国の類似形態企業
- その他
- ブエノスアイレス地下鉄 - 丸ノ内線用300・500・900形電車を中古導入。のちにこれがインドネシアへ輸出するきっかけともなる。
外部リンク[編集]
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