第二次世界大戦
第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、英: World War II、略称:WWII)は、1939年(昭和14年)9月1日から1945年(昭和20年)8月15日または9月2日まで約6年にわたって続いたドイツ・イタリア・日本などの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス・フランス・中華民国・アメリカ・ソビエト連邦などを中心とする連合国陣営との間で戦われた戦争である。また、中立国も存在した。最終的には連合国陣営の勝利に終わったが、第一次世界大戦以来の世界大戦となり、人類史上最大の死傷者を生んだ。
1939年8月23日の独ソ不可侵条約と付属の秘密議定書に基づいた、1939年9月1日に始まったドイツ軍によるポーランド侵攻が発端であり、終結後の2019年に欧州議会で「ナチスとソ連という2つの全体主義体制による密約が大戦に道を開いた」とする決議が採択されている。そして同月のイギリスとフランスによるドイツへの宣戦布告により、ヨーロッパは戦場と化した。
その後、以前から日中戦争で戦争中だった日本の1941年12月8日午前1時35分に開始されたマレー作戦による、イギリスやオランダの東南アジア植民地地域とオーストラリアへの攻撃で太平洋に戦線が拡大した。そして同日に行われた真珠湾攻撃によりアメリカとカナダとの間にも開戦し、同月にドイツとイタリアもアメリカに宣戦布告し、これを皮切りに交戦地域は全世界へと拡大し人類史上最大の戦争となった。
この戦争は当初枢軸国軍が優勢を保ったが、1942年中盤にはヨーロッパ戦線で、1943年中盤にはアジア太平洋戦線で連合国軍が反攻に転じ、1945年5月にドイツが敗北、8月9日のソ連対日参戦後に日本がポツダム宣言の受諾を決め、8月15日に戦闘停止、9月2日に降伏文書に調印したことで終結した。
なお、核兵器が使用された史上唯一の戦争であり、1945年8月6日には原子爆弾のリトルボーイが広島に、9日にはファットマンが長崎に投下されている。
参戦した国[編集]
枢軸国とは1940年に成立した三国同盟に加入した国と、それらと同盟関係にあった国を指す。一方、連合国とは枢軸国の攻撃を受けた国、そして1942年に成立した連合国共同宣言に署名した国を指す。また、日本と中華民国のように、第二次世界大戦前より戦争状態(1937年に始まった日中戦争。これにはアメリカも義勇軍という形で事実上参戦していた)を継続している国もあった。
全ての連合国と枢軸国が常に戦争状態にあったわけではなく、一部の相手には戦地が遠いことなどを理由に宣戦を行わないこともあった。しかし1943年にイタリアが降伏し、大戦末期の1945年5月のドイツの降伏後には、中立国と占領地を除いた国家の大部分が連合国側に立って参戦した。
枢軸国の中核となったのはドイツ、日本、イタリアの3か国で、連合国の中核となったのはアメリカ合衆国、イギリス、フランス、ソビエト連邦、中華民国の5か国である。また、フランスやオランダなどのように本国が降伏した後、亡命政府が一部の植民地とともに連合国として戦った例もある。またイタリア王国などのように、連合国に降伏した後、枢軸国陣営に対して戦争を行った旧枢軸国も存在するが、これらは共同参戦国と呼ばれ、連合国の一員とは見なされなかった。
枢軸国の主な参戦理由は、国により異なる。 ハンガリー王国は第一次世界大戦で領土の2/3を失っていたために奪還すべく参戦した。ブルガリアも領土の奪還のため参戦した。 両国はルーマニアに干渉を行い領土を広げた。ルーマニア国民は激怒しルーマニアも参戦した。 なお、ユーゴスラビアも参戦したが、クーデターにより中立国に戻り、ドイツに侵攻される(ユーゴスラビア侵攻) フィンランドはソビエト連邦との冬戦争で割譲したカレリアの奪還目指し参戦した。多くの国はフィンランドを枢軸国としているうえ、国際連合の敵国条項に含まれるが、フィンランド政府は認めていない。
戦域[編集]
第二次世界大戦の戦域は、ヨーロッパ・北アフリカ・西アジアの一帯(欧州戦線)と、東アジア・東南アジアと太平洋・北アメリカ・オセアニア・インド洋・東南アフリカ全域の一帯(太平洋戦線)に大別される。
欧州戦線ではドイツ、イタリアなどを中心にイギリス、フランス、ソ連、アメリカなどとの戦いが、太平洋戦線では日本などを中心にイギリス、アメリカ、中華民国、オランダ、オーストラリア、ニュージーランドなどとの戦いが繰り広げられた。
欧州戦線はドイツやイタリアを中心とした枢軸国とイギリス、フランス、オランダ、ベルギー、カナダ、アメリカ、ブラジルなどが戦った西部戦線および北アフリカ戦線、東南アフリカ戦線、南アメリカ戦線と、同じくドイツやイタリアを中心とした枢軸国とソ連が戦った東部戦線(独ソ戦)に分けられる。なお欧州と東南アフリカ戦線では、派遣された少数の日本軍も戦った。
太平洋戦線は連合国により太平洋戦争と呼称され(日本側の呼称は「大東亜戦争」)、日本とイギリス、オーストラリア、アメリカ、ニュージーランドなどが太平洋の島々とアラスカやハワイ、アメリカ本土やアリューシャン列島を含むアメリカやその領土のフィリピン、カナダなどで戦った太平洋戦域(英語版)、オランダ領東インドやイギリス領マラヤ、フランス領インドシナなどで日本とタイ王国がオランダ、イギリス、アメリカ、フランスなどが戦った南西太平洋戦域(英語版)、イギリス領ビルマやイギリス領インド帝国、イギリス領セイロンやフランス領インドシナで日本とドイツがイギリスやオーストラリア、ニュージーランドなどと戦った東南アジア戦域(英語版)。日本とドイツがイギリスやフランスと戦った東南アフリカ戦線。中国大陸などで日本や満洲国が中華民国とアメリカ、イギリス、ソ連などと戦った日中戦争に分けられる。なお中国と東南アジア戦線では、派遣された少数のドイツやイタリア軍も戦った。
しかし、これら以外に中東や南米、中米、カリブ海、オーストラリアなどでも枢軸国と連合軍の戦闘が行われ、文字通り世界的規模の戦争であった。戦争は完全な総力戦となり、主要参戦国では戦争遂行のため人的、物的資源の全面的な動員、投入が行われた。当時の独立国のほとんどである世界61か国が参戦し、総計で約1億1000万人が軍隊に動員され、主要参戦国の戦費は総額1兆3,013億ドルを超える膨大な額に達した。アメリカに限れば、第二次世界大戦の戦費は2,960億ドルであったが、これを2008年で換算すると4兆1,140億ドルにも及ぶ。
比較[編集]
第一次世界大戦と比較すると、ともに総力戦ではあったが相違もあった。第一次世界大戦は塹壕戦と戦艦、ケーブル切断を主体に展開されたが、第二次世界大戦では航空戦力による空襲、空母と潜水艦を用いた機動戦、無線通信の本格運用の結果、戦線が拡大した。また、無線は電信と異なり、敵に傍受されるため、暗号による作戦伝達や、その解読による戦果がもたらされた。
使用された兵器には、著しく発達した航空機や戦車、潜水艦などに加え、レーダーやジェット機、長距離ロケットなどの新兵器、さらに原子爆弾、つまり核兵器という大量破壊兵器が含まれる。
被害[編集]
総力戦で航空機の発達により、空爆や偵察爆撃などが第一次世界大戦より徹底された。この戦争では主に航空機の進化により戦場と銃後の区別がなくなり、民間人が住む都市への大規模な爆撃や人類史上初の原子爆弾投下により、多くの民間人や捕虜が命を失った。またドイツは、戦争と並行して、自国および占領地でユダヤ人・ロマ・障害者の組織的大量虐殺を進めた。これはホロコーストと呼ばれる。これらによる大戦中の民間人の死者は、総数約5500万人の半分以上の約3000万人に達した。
また大戦末期から大戦後にかけては、ドイツ東部や東ヨーロッパから1200万人のドイツ人が追放され、その途上で200万人が死亡している。またアメリカとカナダ、オーストラリアやイギリス、ブラジルなどでは、数十万人の日本人だけでなく日系人の強制収容が行われた。新たにソ連領とされたポーランド東部ではポーランド人も追放され、大幅な住民の強制収容が行われた。またソ連で捕虜となった枢軸国の将兵や市民は、戦後も数年間シベリアなどで強制労働させられた。
戦後[編集]
戦争中から連合国では、国際連合の設立など戦後の秩序作りが協議されていた。戦場となったヨーロッパと日本では戦後の国力は著しく低下しており、戦争の帰趨に決定的影響を与えたソビエト連邦とアメリカ合衆国の影響力は突出して大きくなった。この両国は戦後世界に台頭する超大国となり、覇権争いで対立し、その対立は1990年代に至るまでの長い間冷戦構造をもたらし、世界の多くの国々はその影響を受けずにはいられなかった。
第二次世界大戦の結果により、アジア、アフリカ、中東、太平洋諸国にある有色人種の、欧州の植民地であった地域では、白人諸国家に対する民族自決そして独立の機運が高まり、大戦終結後数年から十数年後に多くの国々が独立した。その結果、大航海時代以来の欧州列強の地位は著しく低下した。
こうした中で、相対的な地位の低下を迎えた西ヨーロッパ諸国と大多数の東ヨーロッパ諸国では、大戦中の対立を乗り越え、さらに1990年代まで続いた冷戦を超えて欧州統合の機運が高まった。しかし21世紀に入ると、ソ連の継承国のロシアなど一部の国はそこから外れ、かつての強国の座を取り戻そうとしている。
経過(全世界における大局)[編集]
1939年9月1日早朝 (CEST)、ドイツ国とスロバキア共和国がポーランドへ侵攻。9月3日、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告した。9月17日にはソ連軍も東から侵攻し、ポーランドは独ソ両国に分割・占領された。その後、西部戦線では散発的戦闘のみで膠着状態となる(まやかし戦争)。一方、ソ連はドイツの伸長に対する防御やバルト三国およびフィンランドへの領土的野心から、11月30日よりフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。ソ連はこの侵略行為を非難され、国際連盟から除名された。
1940年3月に、ソ連はフィンランドにカレリア地峡などを割譲させた。さらに1940年8月にはバルト三国を併合した。1940年春、ドイツはデンマーク、ノルウェー、ベネルクス三国、フランスなどを次々と攻略し、ダンケルクの戦いで連合軍をヨーロッパ大陸から駆逐した。さらにイギリス本土上陸を狙った空襲も行ったが、大損害を被り(バトル・オブ・ブリテン)、その結果9月にヒトラーはイギリス上陸作戦(アシカ作戦)を無期延期とし、ソ連攻略を考え始める。その9月下旬、ドイツはイタリア、そして1937年より日中戦争を戦う日本と日独伊三国軍事同盟を締結した。しかしまだ日本はイギリスなどへは宣戦布告しなかった。
1941年にドイツ軍はユーゴスラビア王国やギリシャ王国などバルカン半島、エーゲ海島嶼部に相次いで侵攻した。6月にドイツはソ連への侵攻を開始し、ついに第二戦線が開いた(独ソ戦)。これによりドイツによる戦いは東方にも広がったため、戦争はより激しく凄惨な様相となった。日中戦争で4年間戦い続けていた日本は、12月8日午前1時(日本時間)にイギリスのマレー半島を攻撃し(マレー作戦)、ここに太平洋アジア戦線が始まる。日本軍は続いて午前5時(同)、アメリカのハワイを奇襲してアメリカ太平洋艦隊に大損害を与える(真珠湾攻撃)。ここに日本がイギリスとアメリカ、オランダなどの連合国に開戦し、11日にドイツやイタリアもアメリカに宣戦布告し戦争は世界に広がり、世界大戦となる。日本軍は12月中に早くもイギリスの植民地の香港やアメリカのグアム、ウェーク島などを瞬く間に占領し、アメリカ西海岸で通商破壊戦を開始した。
1942年1月にベルリン郊外ヴァンゼーにナチス党の重要幹部が集結すると「ユダヤ人問題の最終的解決」について協議したヴァンゼー会議が行われた。これ以後、ワルシャワなどドイツ占領下のゲットーのユダヤ人住民に対し、7月からアウシュヴィッツ=ビルケナウやなどの強制収容所への集団移送が始まり、この後ホロコーストが本格化する。しかし破竹の勢いであったドイツ軍には陰りが見え始めており、1941年末からのモスクワの戦いで敗北し、東部戦線の主導権をソ連に奪われると、1942年夏季にはブラウ作戦でソ連南部への再攻勢を開始したが、8月23日から開始されたスターリングラード攻防戦でその勢いは完全に失われた。1943年2月まで続けられたこの戦いでドイツ軍は歴史的惨敗を喫し、戦局は完全に転回した。また、北アフリカ戦線でもエル・アラメインの戦いで惨敗、これ以降はドイツ軍は攻勢を維持できなくなる。
太平洋戦線では日本が、イギリスの植民地のマレー半島一帯やビルマ、オランダ領東インド、イギリス帝国領ビルマ、アメリカの植民地のフィリピンを占領し、戦争目的であった南方資源地帯をほぼ確保した。さらに、日本海軍は版図を広げ、インド洋からイギリス海軍を駆逐するとともに、オーストラリアまで攻撃した。しかし、アメリカ軍空母による東京初空襲が行われ、その後、珊瑚海海戦で戦術的勝利を収めながら、ニューギニアのポートモレスビー攻略に失敗すると勢いに陰りが見え始める。1942年6月、真珠湾で撃ち漏らしたアメリカ海軍空母部隊を殲滅すべく戦われたミッドウェー海戦で、逆に日本海軍は空母4隻を失って敗北を喫すると、戦争の主導権を連合軍に奪われることとなった。1942年8月、連合軍は太平洋戦域の反撃第一弾として「ウォッチタワー作戦」を発動しガダルカナル島に上陸すると、年末までガダルカナルの戦いが繰り広げられ、ここでも日本軍は手痛い敗北を喫して、連合軍の反攻が本格化していく。
1943年に入ると、ヨーロッパ戦線における枢軸国の劣勢はより鮮明となり、2月にスターリングラード攻防戦が決着しドイツ軍が甚大な損害を被ると、5月には北アフリカ戦線でドイツ軍、イタリア軍が壊滅し、北アフリカは連合軍の手に落ちた。北アフリカを席巻した連合軍はハスキー作戦でシチリア島に上陸、ここでもドイツ軍とイタリア軍は敗れ、イタリア本土の目と鼻の先のシチリア島を失ったベニート・ムッソリーニは権威を失墜して失脚、後継政権が連合軍に無条件降伏するが、ドイツ軍は幽閉されていたムッソリーニを救出して、ドイツの傀儡政権であるイタリア社会共和国(サロ政権)を樹立。この後、連合軍側のイタリア王国とドイツ軍側のイタリア社会共和国間で内戦状態となる。海上における戦いでも、イギリスを苦しめていたUボートとの大西洋の戦いも、技術革新とアメリカ軍の介入でUボートは次第に鎮圧されて、大西洋海路の安全は確保された。
太平洋でも連合軍の反攻は勢いを増しており、南太平洋とニューギニアを進むダグラス・マッカーサー大将率いる連合国南西太平洋軍(英語版)(SWPA)はニューギニアを海岸沿いに進み、ソロモン諸島も次々に攻略すると、日本軍の南太平洋最大拠点ラバウルの周囲を封鎖して、無力化させてしまった。チェスター・ニミッツ提督率いる連合国太平洋軍(英語版)(POA)も、今次大戦で唯一敵軍に奪われたアメリカ領土となったアリューシャン列島のアッツ島を奪還すると、大きな損害を被りつつもギルバート諸島を攻略し、日本軍を次第に太平洋の西方においやった。ただし、インドからビルマ奪還を狙ったイギリスの反撃は第一次アキャブ作戦で撃退された。
1944年初頭から、ドイツ軍は東西両方から激しく攻め立てられた。1月下旬、ソ連軍はレニングラードの包囲網を突破し、4月にはクリミア半島、ウクライナ地方のドイツ軍を撃退、6月にバグラチオン作戦が開始され、ソ連軍の圧倒的な物量の前にドイツ中央軍集団は壊滅。ソ連は開戦時の領土をほぼ奪回し、さらにソ連軍はバルト三国、ポーランド、ルーマニアなどに侵攻していった。そして、6月には連合軍がノルマンディー上陸作戦を敢行、そのまま開戦初頭にドイツ軍に席巻された西ヨーロッパを次々と解放していく、ドイツ軍が総崩れとなってあまりの進撃速度に補給が追い付かず進撃が停滞する連合軍に対し、アドルフ・ヒトラーが最後の賭けとしてバルジの戦いで反撃を試みたが、その反撃も撃破され、逆に戦力が抜かれた東部戦線でソ連軍の進撃速度が上がって、いよいよドイツは東西から本土に迫られた。また、前線の兵士のみならず、ドイツ本土の都市は1,000機以上の連合軍爆撃機に空襲され、ハンブルク空襲などで大量のドイツ国民が死傷したり、家を失っていた。
太平洋でも連合軍の進撃速度が上がり、2月にはマーシャル諸島を占領、トラック島空襲で連合艦隊の拠点トラック島を完全に破壊、6月に行われたマリアナ沖海戦で日本海軍が惨敗すると、絶対国防圏の一角サイパン島をアメリカ軍が占領、これで日本本土がアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機の戦略爆撃の行動範囲内となる。10月に行われたレイテ沖海戦で日本海軍は大敗北を喫するなど勢いは完全に連合軍に傾いた。その後、日本軍が決戦と意気込んだレイテ島の戦いでも敗北し戦局の悪化に歯止めがかからなくなった。さらには日本本土への空襲も始まった。 日本軍が支配していたビルマでもインパール作戦で日本軍が敗北、ビルマへのイギリス軍の進撃を許すことになった。連合軍の反攻に対し7月に日本陸軍が中華民国軍とアメリカ軍に対して中華民国内で行った大陸打通作戦でかつてない大勝利を収めたが、もはや大勢には変わりなかった。しかし、この中華民国の惨敗でアメリカは国民党政府に見切りをつけ、戦後の中華人民共和国の樹立に少なからず影響を及ぼした。
1945年には、ドイツ本土に対する連合軍の空襲が更に激化、ドレスデン爆撃などで大量のドイツ国民が死傷し、国土は瓦礫の山となったが、ヒトラーは国民の辛苦を全く顧みることはなく戦争を継続した。連合軍の地上部隊もドイツ本土へ侵攻、東からソ連、西からイギリスとアメリカがドイツ本土を蹂躙し、4月25日には、エルベ川沿岸でアメリカ軍部隊とソ連軍部隊がついに接触し、ヨーロッパの東西両戦線が連結した。その前の4月16日には首都ベルリンにソ連軍が突入し、大量の市民を抱えたまま凄惨なベルリンの戦いが繰り広げられており、追い込まれた総統アドルフ・ヒトラーは4月30日に自殺、同政権は崩壊しイタリア社会共和国も崩壊、ムッソリーニもパルチザンに惨殺された。5月9日にドイツ国防軍は降伏しヨーロッパにおける戦争は終結した。
太平洋でもフィリピンルソン島を奪還したアメリカ軍が日本本土に迫り、2月には硫黄島に侵攻、硫黄島の戦いの激戦を制して占領し、日本本土目前まで迫ってきた。マリアナ諸島から出撃するB-29による日本本土空襲も激化、3月10日の東京大空襲では10万人の一般市民が死亡した。4月には日本本土進攻のダウンフォール作戦の前進基地確保のため、アメリカ軍を主力とする史上空前の連合軍大艦隊が沖縄に来襲、4月には沖縄本島に上陸し沖縄戦が開始された。日本軍は大量の神風特別攻撃隊で連合軍艦隊を攻撃して大損害を与え、地上でも激戦が繰り広げられたが、6月には守備隊が玉砕、多くの沖縄市民が戦闘に巻き込まれ軍民合わせて18万人が犠牲となった。一方でアメリカ軍も死傷者8万人以上と第二次世界大戦最大級の損失を被り、日本本土進攻に躊躇することとなった。沖縄を失いながらも、日本陸軍は本土決戦で敵に大損害を与え有利な講和を結ぶという一撃講和を主張し続けたが、連合国側は、ポツダム宣言で日本に無条件降伏を要求、日本がその要求を黙殺すると、マンハッタン計画で開発した原子爆弾の使用を決定、8月6日に広島市に原子爆弾投下、9日には長崎市への原爆投下が行われた。さらに、8日未明にはヤルタの密約で日ソ中立条約を一方的に破棄して、ソ連が対日宣戦布告し、ようやく10日からの御前会議における昭和天皇の聖断で降伏を決定した。同14日の御前会議でポツダム宣言を正式に受諾。15日に玉音放送で降伏を全国民に伝え、日本軍による戦闘行為は停止された。連合国は多くの将兵や武器を残した日本への上陸を慎重に進め、降伏から2週間後の30日に連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立ち、9月2日に降伏文書に日本軍と連合国が調印し、約6年間続いた第二次世界大戦は終結した。
背景(欧州・北アフリカ・中東・南アメリカ)[編集]
ヴェルサイユ体制とドイツの賠償金[編集]
1919年6月28日、第一次世界大戦のドイツに関する講和条約であるヴェルサイユ条約が締結され、翌年1月10日に同条約が発効、ヴェルサイユ体制が成立した。その結果、ドイツやオーストリアは本国領域の一部を失い、それらは民族自決主義の下で誕生したポーランド、チェコスロバキア、リトアニアなどの領域に組み込まれた。しかしそれらの領土では多数のドイツ系人種が居住し、少数民族の立場に追いやられたドイツ系住民処遇問題は、新たな民族紛争の火種となる可能性を持っていた。
また、南洋諸島や中国、アフリカなどに持っていた海外領土は全て没収され、日本やイギリス、フランスなどの戦勝国によって分割されただけでなく、共和政となったドイツはヴェルサイユ条約により巨額の賠償金が課せられた。さらに、ドイツの輸出製品には26%の関税が課されることとなった。1921年、賠償の総額が1320億金マルクに定められた。
フランスとベルギーのルール地方占領とハイパーインフレ[編集]
1921年、賠償の総額が1320億金マルクに定められた。1922年11月、ヴェルサイユ条約破棄を掲げるクーノ政権が発足すると、1923年1月11日にフランス・ベルギー軍が賠償金支払いの滞りを理由にルール占領を強行。工業地帯・炭鉱を占拠するとともにドイツ帝国銀行が所有する金を没収し、占領地には罰金を科した。これによりハイパーインフレが発生し、軍事力のないドイツ政府はこれにゼネストで対抗したが、クーノ政権は退陣に追い込まれた。その結果、マルク紙幣の価値は戦前の1兆分の1にまで下落、ミュンヘン一揆などの反乱が発生した。
国際連盟設立[編集]
一方、第一次世界大戦の戦勝国のイギリス、フランス、大日本帝国、イタリア王国といった列強が、常設理事会の常任理事国となり1920年に国際連盟が作られた。講和会議後に締結されたヴェルサイユ条約・サン=ジェルマン条約・トリアノン条約・ヌイイ条約・セーヴル条約の第1編は国際連盟規約となっており、これらの条約批准によって連盟は成立した。
戦勝国は現状維持を掲げて自ら作り出した戦後の国際秩序を保とうとしたが、戦勝国のアメリカの当初の不参加や、新興国のソビエト連邦や敗戦国のドイツの加盟拒否によってその基盤が当初から十分なものではなく、国際連盟の平和維持能力には初めから大きな限界があった。
モンロー主義の動揺[編集]
ウィリアム・ボーラやヘンリー・カボット・ロッジら米上院議院がヴェルサイユ条約への参加に反対した。戦後秩序維持に最大の期待をかけられたアメリカは、当初国際連盟に拒否するなど伝統的な孤立主義に回帰したが、モンロー主義は終始貫徹されたわけではなかった。すぐにドイツに対する投資を共にしてフランスとの関係が深まった。
そこで1930年5月、アメリカでは対イギリスとの戦争に備え、主にカナダを戦場に想定したレッド計画が作成された。レッド計画は1935年に更新されたが、同年には中立法も制定され、全交戦国に対して武器禁輸となった。1936年2月29日の改正中立法では交戦国への借款も禁止された。1937年5月1日にも改正され、限時法だったものが恒久化し、なおかつ一般物資に関してもアメリカとの通商は現金で取引し、貨物の運搬は自国船で行わなければならないとされた。中立法の完成にはナイ委員会の調査が貢献したが、上院外交委員会はナイ委員会に法案提出の権限がないとしたので、ナイは個人資格で法案を提出するなどの困難を伴った。
欧州大陸でのドイツの台頭により欧州の情勢が激変し、1939年レッド計画は更新されなかった。アメリカはカラーコード戦争計画において、日英独仏伊、スペイン、メキシコ、ブラジルをはじめ各国との戦争を想定した計画を立案しており、この計画がのちに第二次世界大戦を想定したレインボー・プランへと発展していく。
共産主義の台頭[編集]
ロシア革命以降、世界的に共産主義が台頭し、これの阻止を狙った欧米列強はシベリア出兵などで干渉したが失敗した。ソ連政府は1917年12月、権力維持と反革命勢力駆逐のため秘密警察(チェーカー)を設置し、国民を厳しく監視し弾圧した。新たにソ連に併合されたウクライナでは1932年から強制移住と餓死、処刑などで約1450万人が命を落とし(ホロドモール)、さらに1937年から1938年にかけてのヴィーンヌィツャ大虐殺では9,000人以上が殺害された。秘密警察は1934年、内務人民委員部 (NKVD) と改称され、ソ連国内とその衛星国で大粛清を行い数百万人を処刑した。
旧勢力駆逐後のソ連は対外膨張政策を採り、1921年には外モンゴルに傀儡政権のモンゴル人民共和国を設立、1929年には満洲の権益をめぐり中ソ紛争が引き起こされた。さらに、スペイン内戦や日中戦争等に軍を派遣(ソ連空軍志願隊)し、国際紛争に積極的に介入。1939年には日本との間にノモンハン事件が起こった。このような情勢下でソ連の支援を受けた共産主義組織が各国で勢力を伸ばす。
ヴェルサイユ体制下の安定[編集]
戦勝国のイタリアでは「未回収のイタリア」問題や不景気により政情が不安定化した。このような状況でイギリスの支援により勢力を拡大したムッソリーニのファシスト党は1922年のローマ進軍で権力を掌握し、権威主義的なファシズム体制が成立した。しかしこの頃のムッソリーニとファシズム体制は、イギリスやアメリカなどでも「新しい流れ」だと期待され、チャーチルさえも大いに絶賛した。
同じく戦勝国の日本では議会制民主主義化が進み、1918年9月、日本で初めての本格的な政党内閣である原内閣が組織された。「平民宰相」と呼ばれた原敬は1921年に暗殺されたが、その後1922年に日本はワシントン海軍軍縮条約に調印し、1923年には、四カ国条約の成立に伴い日英同盟が発展的解消された。1925年にはアジアで初の普通選挙制度が導入された。政党政治の下で議会制民主主義化が根付き、「大正デモクラシー」の興隆の中で外相幣原の推進する国際協調主義が主流となり、このまま議会制民主主義が浸透していくかに見えた。
一方、敗戦国のドイツでは、破滅の底に落ちたドイツ経済はルール占領時には混乱したものの、1924年のレンテンマルクの導入やドーズ案に代表される新たな賠償支払い計画とともに、戦勝国のアメリカやイギリスなどの資本も入り、一応は平静を取り戻し相対的安定期に入った。1925年にロカルノ条約が結ばれ、ドイツは周辺諸国との関係を修復し、国際連盟への加盟も認められた。これによって建設された体制を「ロカルノ体制」という。さらに1928年にはパリで不戦条約が結ばれ、63か国が戦争放棄と紛争の平和的解決を誓約。こうして平和維持の試みは達成されるかに思われた。
世界恐慌[編集]
しかし、1929年10月24日から起きた一連のニューヨーク証券取引所、ウォール街から世界に広がった大暴落を端緒とする世界恐慌は、このような世界の状況を一変させた。
ニューヨーク証券取引所1週間の損失は300億ドルとなった。これは連邦政府年間予算の10倍以上に相当し、第一次世界大戦でアメリカ合衆国が消費した金よりもはるかに多かった。アメリカは1920年代にイギリスに代わる世界最大の工業国としての地位を確立し、第一次世界大戦後の好景気を謳歌していた。また1920年代後半に続いた投機ブームは数十万人のアメリカ人が株式市場に重点的に投資することに繋がり、少なからぬ者は株を買うために借金までするという状況であった。しかしこの頃には生産過剰に陥り、それに先立つ農業不況の慢性化や合理化による雇用抑制と複合した問題が生まれた。
世界恐慌を受けて英仏両国はブロック経済体制を築き、アメリカはニューディール政策を打ち出してこれを乗り越えようとした。しかしニューディール政策が効果を発揮し始めるのは1930年代中頃になってからであり、それまでに資金が世界中から引き上げられ、1929年から1932年の間に世界の国内総生産は推定15%減少し、アメリカの失業率は23%に上昇し、一部の国では33%にまで上昇した。恐慌はその後の10年間世界を包んだ景気後退の象徴となった。
ファシズムの選択[編集]
第一次世界大戦で戦勝し列強となった国のうち、植民地を少ししか持たなかった日本とイタリア、そして敗戦国のドイツでは、世界恐慌のあおりを受けて植民地を獲得すべく海外へ侵攻し、その結果軍事が権力を持ち、イギリスやアメリカ、フランスはこれに反発し、軍事独裁政権への移行が見られるようになる。
ファシスト党のムッソリーニ率いるイタリアは、1935年に植民地を獲得すべくエチオピアに侵攻し、短期間の戦闘をもって全土を占領した。敗れたエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世は退位を拒み、イギリスでエチオピア亡命政府を樹立して帝位の継続を主張した。対して全土を占領したイタリアは、イタリア王兼アルバニア王のヴィットーリオ・エマヌエーレ3世を皇帝とする東アフリカ帝国(イタリア領東アフリカ)を建国させた。結果として国際連盟規約第16条(経済制裁)の発動が唯一行われた事例だが、イタリアに対して実効的ではなかった。第二次エチオピア戦争でエチオピアに侵攻したイタリア王国は1937年に国際連盟を脱退した。
金解禁によるデフレ政策を採っていた日本の状況も深刻だった。大恐慌により失業者が激増した(昭和恐慌)。さらに黄禍論が渦巻くアメリカへの移民は禁止されるなど、世界恐慌と人種差別による打撃を受けてしまう。そのような中で、イタリア同様解決策を海外の植民地獲得へと向けた日本は、1931年9月の柳条湖事件を契機に中華民国の東北部(満洲)を独立させ、1932年(昭和7年)3月1日、満洲国を建国した。満洲国を主導する関東軍は陸軍中枢の言うことを聞かずなすがままにされた。さらに翌年には国際連盟を脱退するなど軍の暴走が止まらず、中華民国に利権を持つイギリスやアメリカ、イタリアやドイツからも大きな反発を食らった。
さらに不安定な政党政治や議会制民主主義のもたらした、失業者の増加と汚職に不満を持つ軍部の一部が起こした「五・一五事件」や「二・二六事件」では、相次いで政党政治家と財界人が暗殺され反乱者は処罰されたが、これ以降軍部による政府への介入がますます強くなる。さらに軍部のプレッシャーから広田弘毅内閣時に軍部大臣現役武官制を再度導入し、さらに日中戦争が勃発。その後の近衛文麿政権とともに政党政治を基にした政党政治家率いる議会制民主主義がわずか20年にも満たないまま終焉を迎える。
第一次世界大戦の敗者で、総額が1,320億金マルクと到底支払うことができないと思われた賠償金の支払いを続けながら、アメリカからの投資で何とか潤っていたドイツでも失業者が激増した。
ドイツの政情は混乱し、ヴェルサイユ体制打破、つまり大恐慌下においても第一次世界大戦の莫大な賠償金の支払いを続けることに対する反発と、さらに反共産主義を掲げるナチズム運動が勢力を得る下地が作られた。アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は小市民層や没落中産階級の高い支持を獲得し、1930年には国会議員選挙で第二党に躍進。1931年には独墺関税同盟事件を端緒にクレディタンシュタルトが破綻し、恐慌はヨーロッパ全体に拡大した。1932年、その時点でのドイツの支払い額は205.98億金マルクに過ぎなかったが、国際社会の援助により、賠償金の支払いはようやく一時停止されることとなった。
国際連盟の破綻[編集]
日本とイタリア、ドイツは、イギリスやフランス、アメリカなどと違い、莫大な富と雇用を生み出す植民地をほとんど持たず、国外進出は国際連盟を脱退または国際連盟からの経済制裁を浴びることとなり、孤立し、共通点を持つ3国は1930年度に入り急接近を始める。
1931年に日本は満洲事変を起こし、1932年に建国した満洲国の存続を認めない勧告案が国際連盟で採択された事を受け、1933年に国際連盟を脱退。同年1月にナチ党は、民主的選挙でドイツ国民の圧倒的な支持を得て政権獲得に成功。ナチ党はその後全権委任法を通過させ、独裁体制を確立した。英仏米など列強は圧力を強めつつあった共産主義およびソビエト連邦を牽制する役割をナチス政権下のドイツに期待していたが、ドイツは日本に次いで1933年10月に国際連盟を脱退し、ベルサイユ体制の打破を推し進め始めた。
1935年、ドイツは再軍備宣言を行い、強大な軍備を整え始めた。イギリスはドイツと英独海軍協定を結び、事実上その再軍備を容認する。ドイツ総統ヒトラーはイギリスとフランスの宥和政策がその後も続くと判断し、1936年7月にラインラント進駐を強行。これによりロカルノ条約は崩壊した。
これらに対し国際連盟は効果ある対策を採れず、ヴェルサイユ体制の破綻は明らかとなった。日本、ドイツ、イタリアの三国間では連携を求める動きが顕在化し、1936年に日独防共協定、1937年には日独伊防共協定が結ばれた。また軍部が暴走した日本では1937年に日中戦争がはじまり、ヒトラーは、周辺各国のドイツ系住民処遇問題に対し民族自決主義を主張し、周辺国でドイツ人居住者が多い地域のドイツへの併合を要求した。
ドイツに対する宥和政策とその破綻[編集]
1938年3月12日、ドイツは軍事的恫喝によりオーストリアを併合。次いでチェコスロバキアのズデーテン地方に狙いを定め、英仏伊との間で同年9月29日に開催されたミュンヘン会談で、英首相ネヴィル・チェンバレンと仏首相エドゥアール・ダラディエは、ヒトラーの要求が最終的なものであると認識して妥協し、ドイツのズデーテン獲得、さらにポーランドのテシェン、ハンガリーのルテニアなどの領有要求が承認された。
しかしヒトラーにはミュンヘンでの合意を守る気がなく、1939年3月15日、ドイツ軍はチェコ全域を占領し、スロバキアを独立させ保護国とした。こうしてチェコスロバキアは解体された。ミュンヘン会談での合意を反故にされたチェンバレンは宥和政策放棄を決断し、ポーランドとの軍事同盟を強化。しかしフランスは莫大な損害が予想されるドイツとの戦争には消極的であった。
勃発直前[編集]
ヒトラーの要求はさらにエスカレートし、1939年3月22日にリトアニアからメーメル地方を割譲させた。さらにポーランドに対し、東プロイセンへの通行路ポーランド回廊および国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒの回復を要求した。4月7日にはイタリアのアルバニア侵攻が発生し、ムッソリーニも孤立の道を進んでいった。
4月28日、ドイツは1934年締結のドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、ポーランド情勢は緊迫した。5月22日にはイタリアとの間で鋼鉄協約を結び、8月23日にはソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結した。
反共のドイツと共産主義のソビエト連邦は相容れないと考えていた各国は驚愕し、独ソ不可侵条約の締結を受けて、当時の日本の平沼騏一郎首相は「欧洲の天地は複雑怪奇」との言葉を残し、ドイツの防共協定違反という重大な政治責任から8月28日に総辞職し、日本はドイツとの同盟交渉を停止した。またドイツ政府と「蜜月の仲」で知られたはずの大島浩大使も、ソ連とのノモンハン事件が起きる中で、同盟国のドイツからこの締結を前もって知らされなかった責任を取り、即座にベルリンより帰朝を命ぜられた(帰国後の12月27日に大使依願免職した)。またイギリスは8月25日にポーランド=イギリス相互援助条約(英語版)を結ぶことでこれに対抗した。
1939年夏、アメリカの大統領ルーズベルトは、イギリス、フランス、ポーランドに対し、「ドイツがポーランドに攻撃する場合、英仏がポーランドを援助しないならば、戦争が拡大してもアメリカは英仏に援助を与えないが、もし英仏が即時対独宣戦を行えば、英仏はアメリカから一切の援助を期待し得る」と通告するなど、ドイツに対して強硬な態度をとるよう3国に強要した。
独ソ不可侵条約には秘密議定書が有り、独ソ両国によるポーランド分割、またソ連はバルト三国、フィンランドのカレリア、ルーマニアのベッサラビアへの領土的野心を示し、ドイツはそれを承認した。一方、ポーランドは英仏からの軍事援助を頼みに、ドイツの要求を強硬に拒否。ヒトラーは英仏の宥和政策がなおも続くと判断し武力による問題解決を決断し、9月1日にポーランドへの開戦を決意した。
経過(欧州・北アフリカ・中東・南アメリカ)[編集]
1939年9月1日、ドイツ国防軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスでは首相チェンバレンがベルリンの大使館経由で呼びかけたものの、ヒトラーからの返事がないことを理由に、またフランスも9月3日にドイツに宣戦布告した。なお、ドイツの同盟国の日本とイタリアは参戦しなかった。
まもなくポーランドは独ソ両国により分割・占領された。その国境線は、後の「カーゾン線(英語: Curzon Line)」に大きな影響を与えた。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため国際連盟から非難・除名されたが、1940年3月にフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国に1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。
ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日にドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始。同年6月から日独伊三国同盟を組むイタリアが参戦(英語版)し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月にドイツ空軍機がイギリス本土空爆を開始したが、航空戦(バトル・オブ・ブリテン)で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。
1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。なお日独伊三国同盟を組んだ日本が12月7日にイギリスとアメリカなどとの間に開戦。ドイツとイタリアもアメリカとの間に開戦した。
1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、インド洋では日本と共同作戦を行い、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。
1943年2月、スターリングラードでドイツ軍は大敗。これ以降は連合国側が優勢に転じ、アメリカ・イギリスの大型戦略爆撃機によるドイツ本土空襲も激しくなる。同年5月、北アフリカ戦線でドイツ・イタリア両軍が敗北。9月にイタリアが連合国に降伏し、ドイツの傀儡政権イタリア社会共和国が設立され、イタリア半島に上陸してきた連合国軍と対峙することになる。
1944年6月にフランスのノルマンディーに連合軍が上陸し、東からはソ連軍が攻勢を開始、戦線は次第に後退し始めた。1945年になると連合軍が東西からドイツ本土へ侵攻し、ドイツ軍は総崩れとなる。2月のヤルタ会談でアメリカ・イギリス・ソ連の三国は、戦争犯罪人の処罰、ポーランド東部のソ連領化、オーデル・ナイセ線以東のドイツ領分割などを決定する。同年4月30日、ヒトラーはベルリンの地下壕で自殺、5月2日にソ連軍はベルリンを占領。5月8日、ドイツは連合国に降伏した。なお同盟国の日本は戦いを続けた。
1939年[編集]
ドイツ軍による電撃戦[編集]
9月1日早朝 (CEST)、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など5個軍、機動部隊約150万人でポーランド侵攻を開始した。この際、ドイツによる事前の宣戦布告は行われていない。
ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、開戦演説でポーランド侵攻を「平和のための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前にグライヴィッツ事件など自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた(偽旗作戦)。
ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカース Ju 87急降下爆撃機の連携による機動戦により、なすすべもなく殲滅された。ただ、この当時のドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。
ソ連は当時ノモンハン事件で交戦中の日本と停戦してまで8月23日に結んだ、独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻。カーゾン線まで達した。
一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定があったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国は2日後の9月3日にドイツに宣戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。しかしポーランド救援のためにドイツ軍と交戦はしなかった。
一方ヒトラーも、英首相ネヴィル・チェンバレンと仏首相エドゥアール・ダラディエはそれまで宥和政策を行っていたため、宣戦布告してくるとは想定していなかった。開戦からしばらくは西部戦線の動きがほとんどなかったことから(いわゆる「まやかし戦争」)、ネヴィル・チェンバレンは最前線のフランスに展開するイギリス陸軍を視察するなどしつつ、なおも秘密裏にドイツと交渉を続け、ホラス・ウィルソンを使者としてドイツの目をソ連に向けさせようとした。
9月3日までにアイルランド、オランダ、ベルギー、アメリカは中立を宣言した。また1937年に日独伊防共協定を組んだイタリアと日本も参戦しなかった。
国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒは、ドイツ海軍練習艦シュレースヴィッヒ・ホルシュタインの砲撃と陸軍の奇襲で陥落し、9月27日、ワルシャワも陥落。10月6日までにポーランド軍は降伏した。ポーランド政府はルーマニア、パリを経て、ロンドンへ亡命。ポーランドは独ソ両国に分割され、ドイツ軍占領地域から、ユダヤ人のゲットーへの強制収容が始まった。
ソ連軍占領地域でも約25,000人のポーランド兵が殺害され(カティンの森事件)、1939年から1941年にかけて、約180万人が殺害または国外追放された。
ポーランド分割直後の10月6日、ヒトラーは国会演説で「平和の提案」と「ヨーロッパの安全」という表現を用いて英仏両国に和平提案を行い、これ以降も両国へ和平工作が何度もなされたが、両国が要求するヒトラー政権退陣をドイツは受け入れず、和平を模索する反面、ポーランドの未来は独ソ両国によって決定されるという見解を示した。
ポーランド侵攻後、ヒトラーは西部侵攻を何度も延期し、翌年春まで西部戦線に大きな戦闘は起こらなかったこと(まやかし戦争)もあり、イギリスは軍隊をフランスに派遣したものの、国民の間に「クリスマスまでには停戦するだろう」という根拠のない期待が広まった。
11月8日、ミュンヘンのビアホール「ビュルガーブロイケラー」で爆発があり、家具職人ゲオルク・エルザーによるヒトラー暗殺未遂事件が起きるが、その日、ヒトラーは早めに演説を終了し難を逃れた。その後も国防軍内の反ヒトラー派将校によるヒトラー暗殺計画が何回か計画されたが、全て失敗に終わった。
ソ連はバルト三国およびフィンランドに対し、相互援助条約と軍隊の駐留権を要求。9月28日エストニアと、10月5日ラトビアと、10月10日リトアニアとそれぞれ条約を締結し、要求を押し通した。
しかし、フィンランドはソ連の基地使用およびカレリア地方割譲等の要求を拒否。そこでソ連はレニングラード防衛を理由に、11月30日にフィンランド侵攻(冬戦争)を開始した。この侵略行為により、ソ連は国際連盟から除名処分となる。さらに12月中旬、フィンランド軍の反撃でソ連軍は予想外の大損害を被った。
1940年[編集]
北ヨーロッパの戦い[編集]
2月11日、前年からフィンランドに侵入したソ連軍は総攻撃を開始し、フィンランド軍の防衛線を突破した。その結果3月13日、フィンランドはカレリア地方などの領土をソ連に割譲して講和した。
さらにソ連はバルト三国に圧力をかけ、ソ連軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答を待たずに3国へ侵入。そこに親ソ政権を組織して反ソ分子を逮捕・虐殺・シベリア収容所送りにし、ついにこれを併合した。同時にソ連はルーマニア王国にベッサラビアを割譲するように圧力をかけ、1940年6月にはソ連軍がベッサラビアとブコヴィナ北部に侵入し、領土を割譲させた。
ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ系難民などが、各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていた。当時リトアニアはソ連軍に占領されており、ソ連が各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民たちは、まだ業務を続けていた日本の杉原千畝領事に名目上の行き先(オランダ領アンティルなど)への通過ビザを求めて殺到した。杉原の発行したビザを持って日本に渡ったユダヤ難民の総数は約4,500人で、1940年7月から日本に入国し、1941年9月には全員出国した。
なお、杉原同様に上司や本国の命令を無視して「命のビザ」を発行した外交官として、在オーストリア・中華民国領事の何鳳山や、在ボルドー・ポルトガル領事のアリスティデス・デ・ソウザ・メンデスがおり、ともに戦後のイスラエルの諸国民の中の正義の人に認定されている。
4月、ドイツは中立国デンマークとノルウェーに突如侵攻し占領した(ヴェーザー演習作戦)。脆弱なドイツ海軍はノルウェー侵攻で多数の水上艦艇を失った。
フランス敗北[編集]
5月10日、西部戦線のドイツ軍は、戦略的に重要なベルギー、オランダ、ルクセンブルクのベネルクス三国に侵攻(オランダにおける戦い)。オランダは5月15日に降伏し、政府は王室ともどもロンドンに亡命。またベルギー政府もイギリスに亡命し、5月28日にドイツと休戦条約を結んだ。なおアジアのオランダ植民地は亡命政府に準じて連合国側につくこととなり、オランダ植民地に住むドイツ人は抑留され、外交官と婦女子のみが解放されドイツの同盟国の日本に送られた。同じ日、イギリスではウィンストン・チャーチルが首相に就任し、戦時挙国一致内閣が成立した。
ドイツ軍は、フランスとの国境沿いに、ベルギーまで続く外国からの侵略を防ぐ楯として期待されていた巨大地下要塞・マジノ線を迂回(マジノ線迂回)。侵攻不可能といわれていたアルデンヌ地方の深い森をあっさり突破して、フランス東部に侵入。電撃戦で瞬く間に制圧し(ドイツ軍のフランス侵攻)、フランス・イギリスの連合軍をイギリス海峡に面するダンケルクへ追い詰めた(ダンケルクの戦い)。ここで、イギリス海軍は英仏連合軍を救出するためダイナモ作戦を展開する。急遽860隻の船舶を手配し、ドイツ軍は消耗した機甲師団を温存し救出作戦に投入しなかったため、イギリス空軍の活躍により多くの兵器類は放棄したものの、331,226名の兵(イギリス軍192,226名、フランス軍139,000名)を9日間でフランスのダンケルクから救出し、精鋭部隊を撤退させることに成功した。この作戦では様々な貨物船、漁船、遊覧船および王立救命艇協会の救命艇など、民間の船が緊急徴用され、兵を浜から沖で待つ大型船(主に大型の駆逐艦)へ運んだ。イギリスの首相チャーチルはのちに出版された回想録の中で、この撤退作戦を「第二次世界大戦中でもっとも成功した作戦であった」と記述している。
さらにドイツ軍は首都パリを目指す。敗色濃厚なフランス軍は散発的な抵抗しかできず、6月10日にはパリを戦火から守るべく無防備都市宣言をした。同日、フランスが敗北濃厚になったのを見たイタリアのムッソリーニも、ドイツの勝利に相乗りせんとばかりにイギリスとフランスに対し宣戦布告した。
6月14日、ドイツ軍は無防備都市宣言を行ったことで、戦禍を受けていないほぼ無傷のパリに入城した。6月22日、フランス軍はパリ近郊コンピエーニュの森においてドイツ軍への降伏文書に調印した。
その生涯でほとんど国外へ出ることがなかったヒトラーがパリへ赴き、パリ市内を自ら視察し即日帰国。その後、ドイツはフランス全土を占領し、その直後に講和派のフィリップ・ペタン元帥率いるヴィシー政権が樹立される。これにより、フランス(ヴィシー・フランス)はドイツの傀儡国家となった。
これに対抗してフランス人の手でフランスを取り戻すべく、ロンドンに亡命した元国防次官兼陸軍次官のシャルル・ド・ゴールは「自由フランス国民委員会」を組織し、ロンドンのBBC放送を通じて対独抗戦の継続と親独中立政権であるヴィシー政権への抵抗を国民に呼びかけ、イギリスやアメリカなどの連合国の協力を取りつけてフランス国内のレジスタンス運動を支援した。
なお、フランス主要植民地のアルジェリアやモロッコ、インドシナ、マダガスカルなどはヴィシー政権につき、それぞれドイツ軍や日本軍との友好関係や軍の駐留を引き受けた。
7月3日、フランス領アルジェリアがドイツ側の戦力になることを防ぐため、イギリス海軍H部隊がメルス・エル・ケビールに停泊していたフランス海軍艦船を攻撃し、大損害を与えた(カタパルト作戦)。アルジェリアのフランス艦艇は、ヴィシー政権の指揮下にあったものの、ドイツ軍に対し積極的に協力する姿勢を見せていなかった。にもかかわらず、多数の艦艇が破壊され、多数の死傷者を出したために、親独派のヴィシー政権のみならず、ド・ゴール率いる自由フランスさえ、イギリスとアメリカの首脳に対し猛烈な抗議を行った。また、イギリス軍と自由フランス軍は9月にフランス領西アフリカのダカール攻略作戦(メナス作戦)を行ったがフランス軍に撃退された。
英国の戦い(バトル・オブ・ブリテン)[編集]
西ヨーロッパを席巻したドイツ軍は残るイギリスを屈服させるために、イギリス本土上陸作戦「アシカ作戦」の準備に取り掛かり、ロッテルダムからル・アーヴルまでに、輸送艦168隻、艀1,910隻、タグボートや漁船419隻、モーターボート1,600隻を揃え、25個師団を上陸戦力として準備させていた。勝利続きで意気上がるドイツ兵は、英仏海峡をイギリス本土を望みながら「きょう、ドイツはわれらのもの、そして、明日は全世界がわれらのもの」と高らかに歌っており、ドイツ国内のマスコミを含めた世論もドイツの勝利を確信していた。しかし、強力なイギリス海軍は健在で、艀や漁船でイギリス海軍を突破し、さらに英仏海峡を渡っての敵前上陸成功の目途はついていなかった。そのため、ヒトラーはイギリスとの講和を望んでおり、7月16日にチャーチルに対して「大英帝国を壊滅させることはもちろん、傷つけることさえも私の真意ではない。だが私はこの闘争が続くならば 、その結果は両国のいずれか一方が、完全に壊滅することになると信じる者である。チャーチル氏は、壊滅するのはドイツだと信じるだろうが、私はそれは、イギリスであることを確信している」と呼びかけ、講和を促した。しかしチャーチルはヒトラーの呼びかけを敢然と拒否し、イギリス国民に対し以下の様に徹底抗戦を呼びかけた。
ヒトラーは、この島において我々を破壊しなければ、戦争に負けることを知っている。…だから、我々は身を引き締めて我々の義務を遂行し、もしイギリス帝国とその連邦が1,000年続くとすれば、人が「彼等はあのとき最も立派に戦った」というように、我々は振舞おうではないか。
講和の可能性が無くなると、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングは「アシカ作戦」の準備のためにイギリス本土に対する航空総攻撃を命じ、ここに大英帝国の命運をかけたバトル・オブ・ブリテンが開始された。作戦開始時ドイツ空軍は第2、第3、第5航空艦隊の合計3,350機の作戦機を投入し、この作戦機に搭乗するパイロットの多くが、ドイツの電撃戦を空から支援した熟練パイロットであった。一方でそれを迎え撃つイギリス軍には704機の可動戦闘機しかなかった。イギリス空軍戦闘機軍団司令官ヒュー・ダウディング大将は、戦力が圧倒的に勝っているドイツ空軍との戦いに備えて準備に着手しており、まずはドイツ軍の戦闘機メッサーシュミット Bf109に対抗可能な、スーパーマリン スピットファイアやホーカー ハリケーンなどの新鋭戦闘機の生産強化を図った。ダウディングや航空機生産大臣マックス・エイトケン (初代ビーヴァーブルック男爵)の尽力で、4月には月産256機であったのが、その5か月後には467機と戦闘機の生産は倍増した。また、開発されたばかりのレーダーを活用し、多数のレーダーサイトを構築し早期警戒網を整備、情報を地下の防空司令部にある戦闘指揮所で一元管理し効率的な迎撃を行える体制も構築した。これらのダウディングの準備は、この後の戦いで重要な役割を果たすことになる。
ドイツ空軍はまず、英仏海峡を航行するイギリス船団への攻撃を開始した。当初ドイツ空軍は、ボールトンポール デファイアントなどの旧式戦闘機との散発的な空戦で勝ち誇っていたが、やがて、レーダーに誘導されて正確に迎撃してくるスピットファイアやハリケーンに痛撃を浴びると、8月に入ってから優先攻撃目標をイギリス軍のレーダーサイトと飛行場及び航空機工場とし、イギリス空軍の防空能力に打撃を与えることとした。8月12日には、ユンカース Ju 88 シュトゥーカやハインケル He 111数百機が、メッサーシュミット Bf109数百機に護衛されてイギリス上空に来襲し、それをスピットファイアやハリケーンが迎撃した。そのうちシュトゥーカがレーダーサイト目掛けて急降下を開始したが、電撃戦で猛威を振るったシュトゥーカも新鋭戦闘機の前ではひとたまりもなくたちまち31機が撃墜された、一方でイギリス軍も22機を失う。8月13日にはさらにドイツ軍機の数が増えて1,400機が来襲した。ドイツ軍機は昨日に引き続き、レーダーサイトと飛行場を攻撃し、迎撃したイギリス軍戦闘機と激しい戦いになり、ドイツ軍機45機が撃墜され、イギリス軍は13機を失った。
このように、攻撃するドイツ軍の損失の方が多いものの、イギリス軍も迎撃の度に少なくない損失を被った。さらにドイツ軍はイギリス航空機工場に対する夜間爆撃を開始、爆撃精度は高くないものの着実にイギリスの航空機生産能力に打撃を与えた。しかし、この夜間爆撃がバトル・オブ・ブリテンの戦況を大きく変えることとなる。8月24日にドイツ軍爆撃機170機がロンドン郊外にある燃料タンクの夜間爆撃に来襲したが、そのうち20機が誤ってロンドン市街地に爆弾を投下してしまった。ドイツ軍はこれまで、ゲルニカ爆撃やワルシャワへの爆撃などで市街地への爆撃を躊躇することなく行ってきたが、ヒトラーはロンドン市街地への爆撃は許可していなかった。しかし、このロンドン空襲の報復として、イギリス軍爆撃機がドイツの首都ベルリンを爆撃すると、ヒトラーは激怒して報復のためにロンドンへの爆撃の強化を命じた(ザ・ブリッツ)。この爆撃目標変更によって、ロンドン市民に多数の犠牲が出たが、代わりに航空機工場や飛行場の損害が減って、イギリス軍戦闘機の強化が加速した。戦闘機が増加した分、パイロットが不足したが、イギリス帝国諸国のほか、ポーランド人、チェコスロバキア人、フランス人など、ドイツに国土を占領されている各国のパイロットも、義勇兵としてこの戦いに加わって活躍した。
ヒトラーは報復という理由に加え、空襲によりロンドン市民に恐怖感を与えて、厭戦気分を煽るという効果も狙ったが、不自由な生活の中でもロンドン市民は一致団結してドイツ軍の空襲に対抗し、ヒトラーの目論見は外れた。また、ロンドン爆撃はドイツ空軍にとって致命的な問題を引き起こした。それはロンドンまでは距離が遠く、航続距離の短いメッサーシュミット Bf109では十分な護衛ができなかったので、護衛がつかないドイツ軍爆撃機の損害が激増した。そして、イギリス軍の損失の殆どが単座戦闘機であり、撃墜されても犠牲は1人で済んだが、ドイツ軍の損失の多くが爆撃機であり最大4~5人の犠牲が出た。損害の続出にヒトラーは9月14日に「必要な制空権確保ができていない」として「 作戦」はまだ実行できないと認めた。面目を失ったゲーリングは9月15日にロンドン爆撃に1,000機を投入したが、体制が整ったイギリス軍の激烈な迎撃で60機という大損害を被ってしまい、さらに27日にも55機を損失してしまう。これ以降はドイツ軍の来襲機数は次第に減少していった。ドイツ軍の攻撃が弱体化すると、イギリス軍は反撃に転じ、「あしか作戦」のために準備されていた輸送船やその他船舶の12.6%を空襲によって撃沈破した。そして10月12日にヒトラーは「あしか作戦」の延期を決め、この後の関心はイギリスからソ連に向かっていく。このバトルオブブリテンでドイツ軍は、1,918機の航空機と2,662人の熟練パイロットを失い、その無敵伝説に終止符が打たれた。一方でイギリス軍は915機の戦闘機と、他国からの義勇兵も含めて449人のパイロットを失った。チャーチルはこの戦いを「人類の歴史の中で、かくも少ない人が、かくも多数の人を守ったことはない。」と評した。
参戦したイタリアは9月、北アフリカの植民地リビアからエジプトへ、10月にはバルカン半島のアルバニアからギリシャへ侵攻した(ギリシャ・イタリア戦争)。しかし性急で準備も不十分なままであり、11月にイタリア東南部のタラント軍港が、航空母艦から発進したイギリス海軍機の夜間爆撃に遭い、イタリア艦隊は大損害を被った。またギリシャ軍の反撃に遭ってアルバニアまで撃退され、12月にはイギリス軍に逆にリビアへ侵攻されるという、ドイツの足を引っ張る有様であった。
9月27日にはドイツとイタリア、そしてまだ第二次世界大戦に参戦していないものの2国の友好国である日本は、日独伊防共協定を強化した相互援助である日独伊三国同盟を結んでいる。また第二次ウィーン裁定によりハンガリー・ルーマニア間の領土紛争を調停し、東欧に対する影響力を強めた。
1941年[編集]
北アフリカ戦線[編集]
イギリスはイベリア半島先端の植民地ジブラルタルと、北アフリカのエジプト・アレクサンドリアを地中海の東西両拠点とし、クレタ島やキプロスなど東地中海を確保し反撃を企図していた。2月までに北アフリカ・リビアの東半分キレナイカ地方を占領し、ギリシャにも進駐した。
一方、ドイツ軍は、劣勢のイタリア軍を支援するため、エルヴィン・ロンメル陸軍大将率いる「ドイツアフリカ軍団」を投入。2月14日にリビアのトリポリに上陸後、迅速に攻撃を開始し、イタリア軍も指揮下に置きつつイギリス軍を撃退した。4月11日にはリビア東部のトブルクを包囲したが、占領はできなかった。さらに5月から11月にかけて、エジプト国境のハルファヤ峠で激戦になり前進は止まった。ドイツ軍は88ミリ砲を駆使してイギリス軍戦車を多数撃破したが、補給に問題が生じて12月4日に撤退を開始。12月24日にはベンガジがイギリス軍に占領され、翌年1月6日にはエル・アゲイラ(英語版)まで撤退する。
中立国のアメリカは3月11日にレンドリース法を成立させ、自らは参戦しない代わりに、ドイツや日本、イタリアとの交戦国に対して、ソ連やイギリス、中華民国などへの大規模軍事支援を開始する。
4月6日、ドイツ軍はユーゴスラビア王国(ユーゴスラビア侵攻)やギリシャ王国などバルカン半島(バルカン戦線)、エーゲ海島嶼部に相次いで侵攻。続いてクレタ島に空挺部隊を降下(クレタ島の戦い)させ、大損害を被りながらも同島を占領した。ドイツはさらにジブラルタル攻撃を計画したが中立国スペインはこれを認めなかった。またこの間にハンガリー王国、ブルガリア王国、ルーマニア王国を枢軸国に加えた。
また中東のイラクは1932年10月3日にイギリス委任統治領メソポタミアからイラク王国として独立したが、その後もイギリスによる石油支配は続き、またイギリス軍のイラク国内での自由な移動の権利も認められているなどイギリスとイラクの関係は依然として不平等なものであった。そのためその頃から汎アラブ主義やイスラム主義などの思想が勃興し始め、それが次第に反英闘争へと繋がっていった。そして第二次世界大戦が始まるとイラクはドイツと断交してイギリスを積極的に支援するが、それに反対した民族主義勢力が1941年3月に革命を起こし親英政権を打倒。4月3日には反英親独派のラシッド・アリー・アル=ガイラーニーが首相に就任し、独立以来のイギリスとの不平等な関係を打破しようとした。その結果イラクはイギリスと開戦、アングロ=イラク戦争となった。イギリス軍は4月18日にバスラ、ヨルダン、パレスチナからイラクに侵攻し、イラク軍に勝利して5月30日には首都バグダードを占領。その後ガイラーニーらは中立国のイランに逃れ、最終的にイタリア、ドイツへ亡命した。
独ソ戦開戦[編集]
6月22日、ドイツは不可侵条約を破棄し、北はフィンランド、南は黒海に至る線から、イタリア、ハンガリー、ルーマニア等、他の枢軸国と共に約300万の大軍で対ソ侵攻作戦(バルバロッサ作戦)を開始し、独ソ戦が始まった。冬戦争でソ連に領土を奪われたフィンランドは6月26日、ソ連に宣戦布告した(継続戦争)。開戦当初、赤軍(当時のソ連地上軍の呼称)の前線部隊は混乱し、膨大な数の戦死者、捕虜を出し敗北を重ねた。歴史的に反共感情が強かったウクライナ、バルト三国等に侵攻した枢軸軍は、共産主義ロシアの圧政下にあった諸民族から解放軍として迎えられ、多くの若者が武装親衛隊に志願した。また、西ヨーロッパからもフランス義勇軍(英語版)などの反共義勇兵が枢軸国軍に参加した。
ドイツ軍は7月16日にスモレンスク、9月19日にキエフを占領。さらに北部のレニングラードを包囲するなど進撃を続け、大量の捕虜を獲得したが、ソ連はこれまでドイツ軍が打ち破ってきた西ヨーロッパ諸国の様に、軍の敗北で国家崩壊することはなく、粘り強く戦い続けた。ドイツ軍は開戦以降、初めて苦戦を強いられることとなり、ドイツ陸軍総司令官ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ元帥は、ドイツ軍が猛進撃をしていた7月には「ドイツ国防軍が対決した最初の手ごわい敵」と評価していた。ソ連軍は大損害を被りつつも、確実に自軍が受けた損害の何割かをドイツ軍に返しており、1941年末までのドイツ軍の死傷者は82万人と全兵力の1/4にまで達していた。参謀総長フランツ・ハルダー大将は、対ソ開戦前にヒトラーが「ソ連は腐った建物のようなものだ。ドアを一蹴りすれば崩壊する」などと言ったように、ドイツ軍がソ連軍を過小評価していたことを認めて「我々は巨象ロシアを甘く見ていた。彼らは全体主義国家らしく、徹底的に冷酷な戦いを遂行することを意識して戦争準備を進めていた」と語っている。
ソ連軍の激しい抵抗で進撃は遅れて、ヒトラーが8月に攻略を計画していた首都モスクワには、10月中旬になってようやく接近できた。モスクワ市内では一時混乱状態も発生し、そのためソ連政府の一部は約960km離れたクイビシェフへ疎開した。スターリンは、ソ連邦首都の危機に際して、レニングラードで指揮を執っていたゲオルギー・ジューコフ上級大将をモスクワに呼び戻し、モスクワ防衛の指揮を任せた。ジューコフは1939年5月のノモンハン事件で大日本帝国陸軍に対し、自らも大きな損害を被りながらも、モンゴルに侵攻しようとした1個師団に壊滅的な損害を与えて撃退し、スターリンから厚い信頼を得ていた。ジューコフは防御線を再構築し、攻勢の気配を見せていたドイツ軍を待ち構えていた。ジューコフは粘り強い防衛戦でドイツ軍を消耗させたのちに、タイミングを見計らって反撃に転じようと考えており、ノモンハンの勝利の原動力となった極東軍管区とザバイカル軍管区から戦車8個旅団と、狙撃兵15個師団、騎兵3個師団をモスクワ防衛戦に転用し、反撃戦力として温存していた。
やがてドイツ軍は「タイフーン作戦」と称して、11月にはモスクワを目指して進撃を開始した。ジューコフは計画通りに激しい防衛戦を展開、それでもドイツ軍はクレムリンから23㎞の距離まで達したが、甚大な損害を被って進撃は停滞していた。苦戦するドイツ軍をさらに苦しめたのが冬将軍の到来による寒波で、冬季装備を準備していなかったドイツ軍は零下10~15°という厳し寒さのなかを薄手の夏季装備で戦わなければならなくなった。のちに、ドイツ軍の敗因はこの冬将軍の到来であったとドイツの司令官たちは弁解するようになったが、ジューコフはそのような弁解に対して「ロシアの冬は軍事機密ではない」とドイツの将軍らの弁解を一刀両断し、ドイツ軍の計画の杜撰さを批判している。また、一時混乱したモスクワには戒厳令がしかれて混乱が収まると、祖国の危機にモスクワ市民は一致団結し、老若男女問わずシャベルを手に取って陣地構築を手伝い、銃を取って軍事教練を受けドイツ軍を待ち構えた。このとき軍事教練を受けた市民が、のちにパルチザンとなってゲリラ活動でドイツ軍を苦しめることとなる。
軍民挙げた激しい抵抗の前に、ドイツ軍の侵攻は甚大な損害でついに停止し、12月6日にジューコフはモスクワの北と南で、温存していた兵力で大規模な反撃を開始した。開戦以降、常に戦局の主導権をドイツ軍に握られていたソ連軍はここでようやく戦いの主導権を握ることができた。ソ連軍の反撃には、大日本帝国陸軍との戦闘で経験を積み、極寒にも耐性がある極東から来た熟練歩兵や、ドイツ軍の戦車より遥かに強力な新型戦車T-34中戦車やKV-1重戦車を含んだ、“トラの子”の40万人の将兵、1,000輌の戦車、1000機の航空機が参加した。圧倒的なソ連軍の戦力に対して、ドイツ軍は対抗することができずに大損害を被りながら撤退した。これは連戦連勝であったドイツ軍の初めての惨敗であり、ヒトラーのソ連打倒の野望はここで潰えた。しかし、この敗北でドイツ軍がソ連打倒を諦めた訳ではなく、年が明けてから態勢を立て直すと、再度攻勢に転じることとなる。この勝利には、ノモンハンで戦った極東の部隊が大きく貢献したため、ジューコフは「モンゴルで戦った部隊が、1941年にモスクワ地区に移動し、ドイツ軍と戦い、いかなる言葉をもってしても称賛しきれぬほど奮戦したことは、決して偶然ではなかったのである」と回想している。
8月9日、イギリス・アメリカは領土拡大意図を否定する大西洋憲章を発表した。8月25日、ソ連・イギリスの連合軍は中立国イランに南北から進撃し、占領した(イラン進駐)。イラン国王は中立国アメリカに英ソ両軍の攻撃を止めさせるよう訴えたが、米大統領ルーズベルトは拒否した。ポーランドとフィンランドへの侵攻、バルト三国併合などの理由で、英・米両国はソ連と距離を置いていたが、独ソ戦開始後は、ヒトラーのナチス・ドイツ打倒のため、ソ連を連合国側に受け入れることを決定。イランを占領しペルシア回廊を確保した上で、アメリカの武器貸与法に基づき、ソ連へ大規模軍事援助を行うことになった。またアフガニスタンはこのような中でも第二次世界大戦の終戦まで独立を守った。
ドイツの占領地では、秘密国家警察ゲシュタポとナチス親衛隊が住民を監視し、ユダヤ人やレジスタンス関係者へ過酷な恐怖政治を行った。特に独ソ戦開始後、アインザッツグルッペンと呼ばれる特別行動部隊による大量殺人で犠牲者数が激増した。それを見聞きした国防軍関係者の中には、反ナチスの軍人が増えていく。ヒトラーも軍の作戦に細かく干渉し、司令官を解任した。そのため軍部の中でヒトラー暗殺計画を企てるなど、ドイツの戦時体制は決して一枚岩でなかった。
世界大戦に拡大[編集]
12月7日(現地時間)、日本軍がマレー半島のイギリス軍を攻撃し(マレー作戦)ここに大東亜戦争(太平洋戦争)が勃発した。またマレー半島を攻撃した数時間後に、日本軍はアメリカのハワイにある真珠湾の米海軍の基地を攻撃した。これに対し12月8日にアメリカとオランダが日本に宣戦を布告。日本の参戦に呼応して12月11日、ドイツ、イタリアもアメリカ合衆国に宣戦布告。日本が枢軸国の一員として、アメリカが連合国の一員として正式に参戦し、ここにきて名実共に世界大戦となった。
ドイツの対アメリカ宣戦布告については、日本がソ連に宣戦布告を行わなかったように、ドイツに参戦の義務があったわけではないが、ヒトラーの判断によって決定された。このヒトラーの決断のタイミングは、常勝であったドイツ軍がモスクワ前面でその看板を打ち砕かれたときであり、ドイツが危機を迎えている最中に、なぜヒトラーが新たな危機を抱え込む決断をしたかは不明である。合理的な解釈では、ヒトラーは参戦各国をレンドリースで支えるアメリカとはいずれ戦わねばならないと考えており、しばらくの間は地球の反対側で日本がアメリカを引き付け、ドイツの戦争を邪魔しないようにしてもらうためには、日本とアメリカが協調する可能性を完全に断ち切る必要があり、日本を確実に枢軸国側に引き止めるため参戦はやむを得なかったというものであるが、もっと単純に、これまでヒトラーが散々行ってきたように、自らの退路を全て断ち切って、腹を据えてこの難問を乗り切ろうとしたという推定もある。
このモスクワ強攻と対アメリカ宣戦以降、ヒトラーはこれまで以上に戦略や作戦遂行の細かい部分にまで立ち入る様になり、致命的な判断ミスを次々と犯すようになっていく。そしてその失敗の責任を全て部下の将軍らになすりつけて解任していった。責任をなすりつけたヒトラーは自己反省することはなく、新たな戦場、新たな敵を求めてさらに敗北を重ねていくようになった。そして最終的には戦争の目的を見失って、ユダヤ人の殲滅などという戦局には何の影響もない犯罪行為に力を注いでいくこととなる。そして、この独裁者の犯罪的なエネルギーで最も被害を受けたのが、ヒトラーを支持したドイツ国民であり、破滅の一歩手前まで追いやられることとなっていく。
1942年[編集]
ユダヤ人弾圧[編集]
開戦直前の1939年1月の政権掌握6周年記念演説でヒトラーはユダヤ人に対して下記のような恐ろしい予言をしていたが、ヨーロッパの大半を手中に収めた今となって着々と実行に着手していた。
もしヨーロッパ内外で国際的に活動するユダヤ人資本家が諸国を再び戦争に突入させることに成功しても、その結果起こるのは世界のポルシェヴィキ化でもユダヤ人の勝利でもない。ヨーロッパユダヤ人の絶滅だ。
ポーランド侵攻を皮切りにしてドイツはたちまち200万人の東欧ユダヤ人をその支配下に置き、ヒトラーはヨーロッパ大陸の人種構成を塗り替える機会を手にしてしまった。ヒトラーは親衛隊隊長のハインリヒ・ヒムラーを「ヨーロッパの新たな人種的秩序の設計者」に任じ、ヒムラーはヒトラーの“信頼”に応えて積極的に行動した。まずは戦争により獲得し、新たにドイツに併合された地域から数百万人のポーランド人とユダヤ人を追放し、ドイツ系住民を入植させた。
1939年からドイツ国内では、「T4作戦」と称し、反政府運動家や精神障害者を相手に安楽死処分が行われていたが、当初は国外のユダヤ人に対しては大規模な虐殺は行われておらず、ワルシャワ・ゲットーなど、各地に設けられたゲットーに押し込めるか、文字通り国外に追放していた。しかしその人数が膨大な数に及ぶと、次第にドイツはユダヤ人を持て余すようになり、ヒムラーは東部戦線の最前線にユダヤ人250万人を移送し、塹壕を掘削させるなどの強制労働に従事させることを真面目に検討したこともあった。その後も、ユダヤ人をマダガスカル島に押し込めるマダガスカル計画や、新たに独ソ国境となったルブリンにユダヤ人保留地を作ってそこにユダヤ人を集めるといった「一定の領域に押し込めることで解決」を図ろうとする計画が検討されたが、マダガスカル島はマダガスカルの戦いでイギリスに奪われて計画は白紙となり、他の大規模移送計画も輸送力等の面から実行は断念された。しかし、仮にこれらの計画が実行されても、食糧を得る手段も乏しい地帯に放逐されたユダヤ人数百万人が死ぬことは確実であった。
ユダヤ人問題は棚上げされ、各地のゲットーでは約200万人のユダヤ人が栄養不良のまま放置されていた。一方でドイツは国内でのT4作戦や、独ソ戦で大量に獲得したソ連兵捕虜の虐殺などで、“虐殺技術”を進化させており、これをユダヤ人問題の“最終的解決”に活用しようという流れができていた。1942年1月20日、ベルリン郊外ヴァンゼーにナチス党の重要幹部が集結すると「ユダヤ人問題の最終的解決」について協議したヴァンゼー会議が行われた。これ以後、ワルシャワなどドイツ占領下のゲットーのユダヤ人住民に対し、7月からアウシュヴィッツ=ビルケナウやトレブリンカ、ダッハウなどの強制収容所への集団移送が始まった。まずは、強制収容所に併設された軍需工場などで強制労働に従事させ、強制労働に従事できない高齢者や子供、身体障害者などをガス室を使って大量虐殺することとし、まもなく普通の男女へとその対象は広がった。その後、3月6日と10月27日に2度の最終解決についての省庁会議が行われている。
その後ドイツみならず占領下のポーランドやチェコスロバキア、ルーマニア、ハンガリー、ブルガリア、アルバニア、ウクライナ、フランス、オランダ、ベルギー、ギリシア、ルクセンブルク、ノルウェーまた同盟国のイタリアでも行われた大量殺戮は「ホロコースト」と呼ばれ、1945年5月にドイツが連合国に降伏する直前まで、ドイツ国民の強力な支持または黙認の元に継続され、ユダヤ人虐殺について連合国が騒ぎ立てるのは、第二次世界大戦後のことであった。
また、日本や汪兆銘政府などの同盟国に対しても在留ユダヤ人への殺戮を行うように、ドイツ政府は在日ドイツ大使館付警察武官兼SD代表のヨーゼフ・マイジンガーを通じて依頼したが、ユダヤ人に対する差別感情がないばかりか、日露戦争時にユダヤ人銀行家に世話になった恩義のある日本政府はこれを明確かつ頑なに拒否している。結果的に日本やその占領地では終戦までユダヤ人に対する殺戮は行われていないばかりか、ユダヤ人をドイツの殺戮から徹底的に保護している。
最終的に、上記の地域におけるホロコーストによるユダヤ人(他にシンティ・ロマ人や同性愛者、身体障害者、精神障害者、共産主義者を含めた政治犯など数万人を含めた)の死者は諸説あるが、600万人に達するといわれている。
日本とドイツ、イタリアと開戦したアメリカの大統領フランクリン・ルーズベルトからの圧力を受けて、ブラジルのジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス大統領は1月に連合国として参戦することを決定し、ドイツやイタリア、日本との間に国交断絶、参戦したが、戦場から遠いことを理由に太平洋戦線には参戦せず、ドイツとイタリアなどと戦うヨーロッパ戦線に参戦した。また在ブラジルの日本人と日系人を沿岸から内陸地へ強制的に集団移住させたり、日本語新聞の発禁などの行動をとった。なお隣国でドイツやイタリア、スペインと友好関係を保っていたアルゼンチンは中立を保った。
エル・アラメインの戦い[編集]
北アフリカ戦線では、エルヴィン・ロンメル将軍率いるドイツ・イタリアの枢軸国軍が、1月20日に再度攻勢を開始。6月21日、前年には占領できなかったトブルクを占領、同23日にエジプトに侵入し、29日にはエジプト内の軍事拠点マルサ・マトルーフを占領した。イギリス中東軍(英語版)司令官クロード・オーキンレック元帥は、アレクサンドリアから西方100kmにある小都市エル・アラメインを最終防衛拠点として守りを固めた。イギリス軍を追い詰めつつあるように見えたロンメルであったが、ヒトラーの方針を逸脱して戦線を拡大した結果、同程度の規模と重要性を持つ他のドイツ軍団よりも、比較にならぬほどの多くのトラックなどの輸送手段を与えられ、物資の補給は潤沢であったものの、補給港からの輸送路が長くなりすぎて、前線までなかなか補給物資や補充が届いていなかった。そこでロンメルは、イギリス軍から奪取した物資や食料に頼って無理な進撃を続けており、エジプトに侵入した時点で、戦車以外の車両の85%は鹵獲したイギリスやアメリカ製で、兵士はイギリス軍の軍服や下着や軍靴を着用し、イギリス製の缶詰を食するなど、ドイツアフリカ軍団は寄生虫のような軍隊と言っても過言ではない状態であった。
一方でオーキンレックのイギリス軍は、補給港のアレクサンドリアが近くなったことから補給は潤沢で、次々と増援も到着していた。エル・アラメイン周辺には塩湖や流砂などが広がり、戦車や車両が移動できる範囲が狭く、これまでロンメルが得意としていた砂漠を大きく迂回し、イギリス軍の側面や背後から奇襲攻撃するという戦術が取りづらかった。さらにオーキンレックは、ウルトラ暗号解読によってロンメルの作戦の概要を既に掴んで準備を重ねていた。6月30日にエル・アラメインのイギリス軍防衛線に達したロンメルであったが、これまでの勝利に驕って、連日の砂嵐で偵察が不十分であったのにも関わらず、常とう手段の戦車師団による防衛線迂回を強行した。しかし、迂回した先にはイギリス軍が待ち構えており、激戦の末にドイツ軍戦車師団は撃退された。ロンメルはその後も攻勢を試みるが、いずれも失敗し、逆にイギリス軍の反撃で防衛戦を強いられることとなった。この後、戦いは膠着状態に陥り、両軍は戦力回復のためににらみ合うこととなった。この第一次エル・アラメインの戦いの結果、ロンメルの進撃は止められ、戦いの主導権はイギリス軍に奪われつつあったが、ロンメルがそれに気が付くことはなかった。
チャーチルは北アフリカでの反攻に備えて、中東軍の人事を一新することにし、これまでの敗北続きで信頼を失っていたオーキンレックを更迭、後任にハロルド・アレグザンダー元帥を任じ、さらに主力のイギリス第8軍(英語版)司令官には、バーナード・モントゴメリー中将を任じた。 モントゴメリーは野心家で、部下には容赦がなく、自信過剰であったが、その強力なリーダーシップが第8軍を立て直していくこととなる。8月31日にはロンメルが再び進軍を開始、また砂漠を大きく迂回しようと試みたが、モントゴメリーも暗号解読とこれまでのロンメルの戦術の研究からロンメルの迂回作戦を看破しており、迂回するドイツ軍が通過するであろうアラム・ハルファ高地に強固な陣地を構築して待ち構えていた。迂回に成功したと思ったドイツ軍戦車師団は再びイギリス軍の防衛線に掴まり、激戦の末に撃退された。これは、モントゴメリーの完璧な勝利ではあったが、モントゴメリーは時期尚早として敗退するロンメルを追撃せずに見逃した。これによりモントゴメリーは批判されることとなったが、間もなくロンメルを撃滅するチャンスが訪れると確信しており、実際にその確信通りとなる。
アラム・ハルファの戦いの後、再び両軍はにらみ合いながら戦力の補充を行ったが、アメリカからの豊富なレンドリースによる物量の差で、イギリス軍が枢軸国軍を圧倒的に戦力で上回っており、戦車は1,000輌、兵員は約20万人といずれも枢軸国軍の倍近くに達していた。特に戦車は第2回ワシントン会談の最中にチャーチルが直接ルーズベルトに懇願して供与が決定した、ドイツ軍戦車の性能を凌駕する新鋭戦車のM4中戦車が多数含まれていた。ロンメルが病気療養のために北アフリカを離れていた10月23日にモントゴメリーは攻撃を開始した。地上部隊進撃前の1,000門もの火砲による準備砲撃によって、ロンメルが絶対の自信を持って構築していた「悪魔の庭」と称する大地雷原は掘り返されてしまい、残った地雷を処理しながらイギリス軍は枢軸国軍防衛線の突破をはかったが、猛将ヴィルヘルム・フォン・トーマ装甲兵大将の指揮もあって、枢軸国軍は大損害を被りながらも、どうにかイギリス軍の進撃を食い止めていた。しかし、25日にロンメルが静養先から戻ると、これまでの自分の勝利体験に基づき、また戦車部隊による迂回攻撃による反撃を命じたが、これはモントゴメリーの思う壺で、装甲も火力も勝るM4中戦車と戦った枢軸国軍の戦車部隊は大損害を受けて撃退された。
モントゴメリーはこれをチャンス到来と考え、11月2日に枢軸国軍の防衛線突破の最終攻勢を命じた。ロンメルは既に敗北を認識しており、ヒトラーに撤退の許可を求めたが、ヒトラーから返ってきたのは「死守命令」であった。厳格な軍人であったロンメルは無茶な命令であっても厳守することを決意し、部下将兵に死守命令を出し、多くの枢軸国軍将兵が絶望的な戦いで命を落とし、巧みな指揮でイギリス軍を足止めしてきたトーマもイギリス軍の捕虜となった。ロンメルは11月4日に再度の撤退許可をヒトラーに求め、ようやく認められたが、既に戦線は崩壊しており、ロンメルを含めて車両で逃走できた将兵以外の、歩兵部隊などは取り残されて、イギリス軍に蹂躙されるか捕虜となった。特にイタリア軍歩兵師団は悲惨な目にあっており、わずかな車両を逃走するドイツ軍に奪われて、イタリア兵は見捨てられた。ロンメルはどうにか逃げ切ったが、この第二次エル・アラメインの戦いでの惨敗で、約80,000人の兵士と殆どの戦車や軍事物資を失い、完全に北アフリカ戦線での勝敗は決した。
勢いにのったモントゴメリーは、11月13日にトブルクを、同20日にはベンガジを奪回する。 さらに西方のアルジェリア、モロッコに11月8日、トーチ作戦によりアメリカ軍が上陸し、東西から挟み撃ちに遭う形になった。さらに北アフリカのヴィシー軍を率いていたフランソワ・ダルラン大将が連合国と講和し、北アフリカのヴィシー軍は連合国側と休戦した。これに激怒したヒトラーはヴィシー政権の支配下にあった南仏を占領(アントン作戦)した。イギリス軍は、ヴィシー政権の植民地であるアフリカ東海岸沖のマダガスカル島を、南アフリカ軍の支援を受けて占領した。
スターリングラード攻防戦[編集]
東部戦線では、モスクワ方面のソ連軍の反撃はこの年の春までには衰え、戦線は膠着状態となる。ドイツ軍は、5月から南部のハリコフ東方で攻撃を再開する。さらに夏季攻勢ブラウ作戦を企画。ドイツ軍の他、ルーマニア、ハンガリー、イタリアなどの枢軸軍は6月28日に攻撃を開始し、ドン川の湾曲部からヴォルガ川西岸のスターリングラード、コーカサス地方の油田地帯を目指す。一方ドイツ軍に追い立てられたソ連軍は後退を続け、スターリングラードへ集結しつつあった。7月23日、ドイツ軍はコーカサスの入り口のロストフ・ナ・ドヌを占領。8月9日、マイコープ油田を占領した。
モスクワ攻略に失敗したヒトラーは乾坤一擲の策として、ソ連の指導者スターリンの名前が冠されたソ連南部の重要都市スターリングラードの攻略を命じ、フリードリヒ・パウルス大将率いる精鋭第6軍の22万人が市街に迫った。パウルスもその部下のドイツ軍兵士たちも、これまでの勝利体験から早くて1週間、時間がかかったとしても1か月でスターリングラードを攻略できると信じて疑わなかった。8月23日にスターリングラード市街まで58㎞の位置まで迫っていた第6軍は一斉に進撃を開始し、第二次世界大戦の岐路となったスターリングラード攻防戦が開戦した。
9月13日にはドイツ軍部隊がスターリングラード市街地に突入したが、そこで待ち構えていたのがワシーリー・チュイコフ中将率いる第62軍(英語版)であった。チュイコフはこの戦いの直前まで在華ソビエト軍事顧問団として日中戦争で国民党軍の作戦に関与しており、日本軍との近接戦闘を経験していた。スターリングラードの市街地で戦うドイツ兵は、遠距離から自動火器の弾をばらまきながら前進するといった戦法を取っており、チュイコフの目からは、明らかに日本兵と比較してドイツ兵は近接戦闘を苦手にしているように見えた。そこでチュイコフは「全ドイツ兵に、ソ連軍の銃口をつきつけられて生きていると感じさせなければならない」と部下兵士に命じ、徹底した近接戦闘を命じた。近接戦闘にドイツ兵を引きずり込むことは、敵味方が入り乱れるため、航空機や戦車による戦闘支援を困難にするといった効果もあった。そのため、スターリングラード市街では建物の一部屋一部屋を奪い合うような血なまぐさい白兵戦が戦われ、チュイコフは着実に第6軍の戦力と勢いを削いでいった。それでも第6軍は夥しい損害を被りながらも、10月末ごろには市街地の90%を占領し、チュイコフと第62軍はヴォルガ川の川岸の長さ数キロ幅数百mの帯のような細長い地域に追い込まれた。毎日死闘を繰り返し超人的な努力でスターリングラードを守っていたチュイコフと第62軍の兵士に対して、スターリンは労いの言葉ではなく以下の様な檄を飛ばしている。
諸君はヴォルガ川を渡って退却することはできない。ただ一つの道があるのみだ。その道こそ前方へ進む道である。スターリングラードは諸君の手で救われるだろう。さもなければ、諸君もろともに跡形もなく抹消されるであろう!
第6軍は第62軍に止めを刺すべくじりじりと前進を続けていたが、これはジューコフの罠であり、作戦当初から第6軍をスターリングラード内で生け捕ろうとする野心的な作戦を立てており、チュイコフが第6軍を市街地で果てしない消耗戦に引き摺り込んでいる間に、反撃戦力として50万人の兵士、1,500輌の戦車、火砲13,000門を集結させチャンスを見計らっていた。そして、初雪が降った3日後の11月19日、大地が凍り戦車が走り回れるようになるのを待ってソ連軍の大反撃が開始された。
ソ連軍反撃部隊の猛進撃に前線のルーマニア軍があっさり蹴散らされると、ソ連軍反撃部隊は第6軍に迫った。パウルスは前進を諦めて、突進してきたソ連軍に反撃を命じ、前線ではドイツ軍歩兵が何百輌ものソ連軍戦車相手に、対戦車手榴弾で立ち向かったが次々と倒されていった。第6軍は作戦開始時の22万人から増援もあって最大で334,000人の兵力となったが、戦闘や傷病によって多くの将兵が倒れており、このソ連軍の反撃によって生き残っていた約20万人がスターリングラードで包囲された。そしてこの包囲の中にはルーマニア軍の生き残りやドイツ軍の非戦闘要員数万人も入っていた。11月22日にパウルスは自分の軍が包囲され退路を断たれたことを認識すると、ヒトラーにその状況を報告したが、ヒトラーはパウルスに占領地の死守と、その手段として要塞構築を命じて、第6軍を誇らかに「スターリングラード要塞部隊」と名付けた。
しかし、要塞部隊などと勇ましい名前をつけたところで、食料も武器弾薬も枯渇している第6軍が長くは持ちこたえられないことは明白であった。そこでドイツ空軍は輸送機をかき集めて空輸で第6軍に補給し続けたが、その量は必要最低限の量を大きく下回っていたうえ、ソ連軍戦闘機の迎撃や対空砲火で輸送機536機、爆撃機149機、戦闘機123機、そして熟練パイロット2,196人というバトル・オブ・ブリテンに匹敵する様な甚大な損害を被って、やがて空輸を続けることが困難となった。不足していたのは食糧に加えて、冬季用衣服と装備も足りていなかった。前年のモスクワで痛い目を見ていたのにも関わらず、今回も冬季用装備を輸送していた列車は、スターリングラードより遥か手前でずっと立ち往生しており、前線に届いてすらおらず、第6軍将兵の殆どが薄手の夏季用軍装でソ連の厳しい寒波にさらされていた。ドイツ軍は愚かにも2年続けて戦局を左右する重要な作戦で同じミスを犯してしまった。このような過酷な環境で第6軍の将兵は次々と飢えと寒さで倒れていった。12月12日、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥は南西方向から救援作戦を開始し、同19日には約35kmまで接近するが、24日からのソ連軍の反撃で撃退され、年末には救援作戦は失敗する。もはや第6軍将兵の運命は風前の灯火で、クリスマスにモスクワの国営放送は「ソ連では7秒ごとに1人のドイツ兵が死んでます。スターリングラードはドイツ兵の集団墓地になりました」というコメントを放送した。
1943年[編集]
各戦線でのドイツ軍の致命的な敗北[編集]
1943年元旦、ヒトラーはソ連軍の包囲下で苦しむ第6軍将兵に対し「第6軍将兵に告ぐ、彼等を救出するために、あらゆる努力が払われている」と無線で呼びかけたが、実際にはマンシュタインの救援も撃退され、救出の手立てはなかった。1月7日にソ連軍はパウルスに対して降伏勧告を行った。既に勝ち目がないことを悟っていたパウルスはヒトラーに「行動の自由」を容認するように至急電を打電したが、ヒトラーは仇敵ソ連への降伏を許す気はなく、パウルスの申し出を拒否した。ソ連軍は最後通牒の期限であった1月10日に5,000門の火砲で2時間もの間砲撃を浴びせた後、第6軍の殲滅を開始した。激戦は再開されて、両軍の多くの兵士が倒れるなか、1月30日にパウルスのもとに元帥昇格の知らせが届いた。これはかつてドイツ史上で敵に降伏した元帥はおらず、降伏するなら自決せよというヒトラーからのメッセージであったが、パウルスはそのメッセージを無視し降伏することを選んだ。元帥に昇格した翌日の1月31日に「ソ連軍は我々の防空壕の戸口に来ている。我々は我々の装備を破壊中である」と最後の打電を行わせると、その後は無線封鎖し2月2日にソ連軍に白旗を掲げた。
2月2日に降伏したドイツ軍と同盟軍は、12月の「スターリングラード要塞」攻防戦開始時に255,000人が閉じ込められたはずであったが、投降してきた将兵は123,000人であり、実に2か月の間で13万人近くが戦闘に加えて飢えや寒さで命を落としていた。さらにこの12万人で戦後に生きてドイツに帰れたのはわずか6,000人ほどで、文字通り第6軍は全滅し、ドイツ軍は歴史的大敗を喫した。勢いに乗ったソ連軍はそのまま進撃し、2月8日クルスク、2月14日ロストフ・ナ・ドヌ、2月15日にはハリコフを奪回する。
しかし、ドイツ軍は3月にマンシュタイン元帥の作戦でソ連軍の前進を阻止し、同15日ハリコフを再度占領した。7月5日からのクルスクの戦いは、史上最大の戦車同士の戦闘となった。ドイツ軍はソ連軍の防衛線を突破できず、予備兵力の大半を使い果たし敗北。以後ドイツ軍は、東部戦線では二度と攻勢に廻ることはなく、ソ連軍は9月24日スモレンスクを占領。11月6日にはキエフを占領した。
北アフリカ戦線で敗退を続けるロンメルであったが、このまま高名な将軍が捕虜となることを懸念したヒトラーによって、1943年3月9日にアフリカ軍集団司令官から解任されドイツに呼び戻された。ロンメルが解任されたあとは、ハンス=ユルゲン・フォン・アルニム上級大将が引継ぎ、隷下のドイツ軍装甲部隊指揮官ハンス・クラーマー中将と、イタリア軍司令官ジョヴァンニ・メッセ元帥の巧みな指揮もあって連合軍をどうにか足止めしていたが、西のアルジェリアに上陸したアメリカ軍と、東のリビアから進撃するイギリス軍によって、イタリアとドイツ両軍はチュニジアのボン岬方向に追い込まれていた。アルニムは誇り高いドイツアフリカ軍集団の有終の美を飾るべく、4月28日に自ら指揮を執って残存兵力で反撃を行い、2日後にはジェベル・ブーアウーカーズ高地の連合軍を撃破して奪還に成功したが、所詮は最後の徒花に過ぎなかった。
連合軍はあっさり態勢と立て直しジェベル・ブーアウーカーズ高地を再奪還すると、5月6日にはチュニスへの総攻撃を開始、ドイツアフリカ軍集団は脆くも24時間で街からたたき出された。最後を悟ったクラーマーは司令官を解任されオーストリアで病気療養中のロンメルに「サヨナラ」の電報を打電し、ドイツ軍統帥部には「弾丸はすべて撃ち尽くし、武器、資材は破壊せり。命令に従いアフリカ軍団は、全力をふるい可能な限りの戦闘をなせり。ドイツ・アフリカ軍団は、再起せざるべからず」という最終電文を打電した。その数日後の5月13日に軍集団司令官のアルニムが連合軍に降伏した。ここで捕虜となったのはドイツ軍約10万、イタリア軍約15万人という莫大な人数であったが、ドイツ軍とイタリア軍が北アフリカ戦線で失った戦力は兵員約50万人、戦車2,550輌、車輛70,000台、航空機8,000機とさらに甚大なものとなり、後の戦局に大きな影響を及ぼした。
シチリアでの敗北とイタリア降伏[編集]
北アフリカで枢軸国軍を撃破した連合軍は、地中海の制海権を確立し、ドイツ軍が「フェストゥング・オイローバ(ヨーロッパ要塞)」と嘯き堅守を誇るヨーロッパ大陸の“柔らかい下腹”を突くため、イタリアシチリア島上陸作戦のハスキー作戦を開始した。北アフリカで多大な損害を被ったイタリア軍であったが、こと海軍においては、戦艦6隻、巡洋艦7隻、潜水艦48隻、その他艦艇75隻が残っており、依然として強大な戦力を維持していた。連合軍はイタリア海軍の強力な海上部隊に対抗するため、イギリス海軍で空母2隻、戦艦6隻、巡洋艦10隻、その他多数、アメリカ海軍も巡洋艦5隻、駆逐艦48隻など、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線においては、最大の支援艦隊と水陸両用部隊を準備した。連合軍海軍が懸念したイタリア海軍については、艦隊の見てくれは立派であるが、その戦闘力には疑問符がついており、まずはレーダーを装備した艦艇がないことから探知能力に問題あり、航空支援や対空火器にも乏しいことから敵からの航空攻撃を恐れて、温存というよりはむしろ母港を出港できないという状況であった。
連合軍は事前の徹底した爆撃と艦砲射撃ののち、7月10日になって、これまでのヨーロッパ戦線では最大規模の敵前上陸と、空挺部隊の降下によってシチリア島に侵攻開始した。イタリア本土に目と鼻の先のシチリア島の軍事的な価値は高く、枢軸国軍は部隊を順次増強し、連合軍侵攻時にはイタリア軍約23万人、ドイツ軍約7万人の合計30万人が防衛していた。しかし、沿岸を防衛していたイタリア兵は自国の防衛であるにも関わらず戦意が極めて低く、連合軍兵士が上陸してくると無秩序に逃げ出し、その勢いを見ていたイギリス軍兵士は、イタリア兵の撃つ銃弾より、捕虜になるために走って向かってくるイタリア兵に踏み殺されはしないかと恐れたほどであった。それに対してドイツ兵は勇敢に戦い、上陸してきたアメリカ軍部隊に対し、ティーガーIを先頭にして突撃してきたので、たちまちアメリカ軍1個大隊が壊滅状態に陥り、大隊長が捕虜になったということもあった。特にティーガーIは上陸直後で重火器が不十分な連合軍兵士を相手に猛威をふるい、仕方なく駆逐艦が沿岸まで近付いて艦砲射撃で撃破している。
イタリア空軍とイタリア海軍はドイツ軍と連携し連合軍艦隊を効果的に攻撃した。潜水艦による攻撃で、ドイツ軍Uボート3隻とイタリア軍潜水艦9隻を失ったが、イギリス海軍巡洋艦4隻を撃沈する大戦果を挙げた。また、空からの攻撃は連合軍艦隊を悩まし続け、輸送艦等9隻を撃沈、空母インドミダブルを含む多数の艦を損傷させた。しかし、陸上での戦いでは相変わらずイタリア兵の戦意は低く、粘り強く戦っていたのはドイツ兵であった。そのようなイタリア兵の姿を見ていたあるドイツ兵は以下の様に論評している。
イタリア部隊は疲れ、規律を欠き、目的を持っていなかった。その結果、イタリア部隊が戦闘において戦力となったことは極めて稀である、だいたいいつも負担になるのが常だった。
主にドイツ軍の敢闘により、2週間程度で終わると思われていた戦いは38日間も続いた。ドイツ軍は12,000人の兵力を失ったが、生き残った部隊は、8月10日からハリネズミのような大量の高射砲に守られる中で、メッシナ海峡を渡ってイタリア本土に整然と撤退を開始し、司令官ハンス=ヴァレンティーン・フーベ大将は部下将兵の撤退を見送ったのち、8月17日に最後の便で撤退した。同日にイタリア軍も司令官 アルフレード・グッツォーニ(イタリア語版)以下残存部隊がイタリア本土に撤退した。枢軸国軍が撤退した後、ジョージ・パットン中将が率いる第7軍が、イギリス軍担当区域内の最終目標メッシナを占領してハスキー作戦は終了したが、のちにアメリカ軍とイギリス軍の間でひと悶着起こっている。枢軸国はこの戦いで16万人の兵士を失ったが、その多くがまともに戦うこともなく投降したイタリア兵であった。一方で連合軍の死傷者は20,000人であった。
この戦いの最中、シチリアの島民は敵であるはずの連合軍兵士を歓迎した。これまで北アフリカの砂漠で水にも食糧にも苦労してきたイギリス兵は、シチリアの豊かな自然と住民の歓迎を満喫した。イギリス第8軍 (イギリス軍)(英語版)兵士はこの戦いを振り返って「砂漠から来たので、シチリアでは楽しんだ」と振り返った。その司令官で厳格な性格のバーナード・モントゴメリー中将ですら「時は盛夏、木々はオレンジとレモンが実り、酒はふんだんにあった。シチリアの娘たちはみんな親切だった」と振り返っており、終始戦意が低かったイタリア兵に加えて、イタリア国民も戦争に疲弊しているのが明らかであった。そしてこの惨敗により、ただでさえ綻びが見えていたイタリアのファシズムは破綻に向かい、ムッソリーニの権威は地に墜ち、その失脚とイタリアの現体制崩壊へと繋がっていった。
各地で連戦連敗を重ね、完全に劣勢に立たされたイタリアでは講和の動きが始まっていた。7月24日に開かれたファシズム大評議会では、元駐英大使王党派のディーノ・グランディ伯爵、ムッソリーニの娘婿ガレアッツォ・チャーノ外務大臣ら多くのファシスト党幹部が、ファシスト党指導者ムッソリーニの戦争指導責任を追及、統帥権を国王に返還することを議決した。孤立無援となったムッソリーニは翌25日午後、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世から解任を言い渡され、同時に憲兵隊に逮捕され投獄された。
9月3日、イタリア本土上陸も開始された(イタリア戦線)。同日、ムッソリーニの後任、元帥ピエトロ・バドリオ率いるイタリア新政権は連合国に対し休戦。9月8日、連合国はイタリアの降伏を発表した。ローマは直ちにドイツ軍に占領され、国王と首相バドリオらの新政権は、連合軍占領地域の南部ブリンディジへ脱出した。
逮捕後、新政権によってアペニン山脈のグラン・サッソ山のホテルに幽閉されたムッソリーニは同月12日、ヒトラー直々の任命で、ナチス親衛隊オットー・スコルツェニー大佐率いる特殊部隊によって救出された。 9月15日、ムッソリーニはイタリア北部で、ドイツの傀儡政権「イタリア社会共和国」(サロ政権)を樹立し、同地域はドイツの支配下に入る。一方、南部のバドリオ政権は10月13日にドイツへ宣戦布告したが、これは形だけのものであった。
日本海軍は数度に渡り、遠くドイツの占領下にあるフランスのキールに連絡潜水艦を送っていたが、この3月にイタリア海軍がドイツ海軍との間で大型潜水艦の貸与協定を結んだ後に「コマンダンテ・カッペリーニ」など5隻の潜水艦を日本軍占領下の東南アジアに送っている。しかし昭南到着直後の9月8日にイタリアが連合国軍に降伏したため、他の潜水艦とともにシンガポールでドイツ海軍に接収され「UIT」と改名した(なお同艦数隻は1945年5月8日のドイツ降伏後は日本海軍に接収され、伊号第五百四潜水艦となった)。
なお船員らは日本軍に一時拘留されたが、イタリア社会共和国成立後、サロ政権についた者はそのまま枢軸国側として従事し、日本軍およびドイツ軍の下で太平洋およびインド洋の警備にあたった。しかし、イタリア租界のあった天津港などで活動していたイタリア海軍の艦船のうち「カリテア2」、「エルマンノ・カルロット」、「レパント」が、日本軍やドイツ軍の指揮下に入るのを拒否し神戸港や上海港などで自沈し、「エリトレア」がインド洋で「コマンダンテ・カッペリーニ」を護衛中に逃亡し、イギリス軍に降伏している。この突然の自沈と逃亡は、サロ政権につかなかったイタリア軍将兵に対する日本軍および政府の感情悪化につながり、その後のイタリア軍将兵の捕虜収容所での過酷な待遇につながった。
また、フランスの降伏後、亡命政権・自由フランスを指揮していたシャルル・ド・ゴールは、ヴィシー政権側につかなかった自由フランス軍を率い、イギリス、アメリカなど連合国軍と協調しつつ、アルジェリア、チュニジアなどのフランス植民地やフランス本国で対独抗戦を指導した。
大西洋の戦いの決着[編集]
ドイツ海軍のカール・デーニッツ潜水艦隊司令官率いるUボートは、イギリスとアメリカを結ぶ海上輸送網の切断を狙い、北大西洋を中心にアメリカ、カナダ沿岸やカリブ海、アフリカ西および東海岸、インド洋や東南アジアにまで出撃し、多くの連合国の艦船を撃沈。損失が建造数を上回る大きな脅威を与えていた(大西洋の戦い)。1943年には、ドイツ軍の退潮と連合軍の攻勢は明らかになっていたが、これは一時期イギリスの継戦能力に大きな打撃を与えていたドイツ軍Uボートとの戦いでも同様であった。イギリス軍はアメリカからの護衛空母、駆逐艦、対潜哨戒機をレンドリースで支援を受けるとともに、潜水艦探知能力で著しい技術進化を遂げ、Uボートとの戦いの戦況を大きく変えていた。そして、1943年の3月から5月にかけての大西洋上での戦いが転換点となってUボートは落ちぶれていった。
司令官のデーニッツはこれまでの勝利経験に基づき、連合軍輸送船団に対して群狼作戦を命じたが、対潜能力を強化した連合軍の護衛船団に阻まれ損害を増やしていく、それでも4月のHX234高速船団に対する攻撃では輸送船撃沈5隻に対してUボートの損失は2隻、5月初めのONS55船団に対する攻撃では12隻の戦果に対しUボートの損失は7隻と、戦果と損害が伯仲していたが、5月15日からのSC130船団に対する攻撃ではウルフパック4個群が全力で船団を攻撃したが、ついに戦果を挙げることができず、逆にUボート5隻が撃沈された。デーニッツはこの惨敗で、群狼作戦を諦めてUボートを船団航路から撤退させ、連合軍はついに大西洋上でUボートを征することに成功した。この後Uボートは単艦で船団を攻撃し護衛艦隊の分断を狙ったが、この新戦法で戦果が回復することはなく、損害が積み重なっていくだけであった。1943年はUボートの転機となり、1年間で244隻のUボートが連合軍によって撃沈されたが、これは1942年の損失の約3倍であり、これ以降も損失は加速度的に増加していった。
ドイツ本土上空での戦い[編集]
大西洋の戦いでドイツ海軍の敗色が濃くなる中、ドイツ本土上空では連合軍空軍爆撃機とドイツ空軍の間で死闘が繰り広げられていた。ドイツ本土が連合軍空軍に爆撃されたのは意外にも早い時期で、バトル・オブ・ブリテン前の1940年5月には、イギリス空軍の爆撃機がブレーメンを爆撃している。ドイツ軍がまだ攻勢中であった1942年5月にはイギリス空軍単独で、史上初の1,000機以上(1,047機)の航空機によるケルン爆撃が行われた。ドイツ空軍戦闘機の迎撃による損失は少なくケルン上空での損失22機のうち4機に過ぎなかった(他16機は高射砲、2機は空中衝突)。
それでも、ドイツ空軍はなお質的量的優位性を保っており、イギリス空軍単独の空襲ではドイツの生産力に大きなダメージを与えることができなかった。しかし、ドイツ本土爆撃にアメリカ軍が加わると様相が一変した。アメリカ軍はB-17やB-24といった大型爆撃機を大量に投入して、ドイツの生産施設に確実に損害を与えていた。1943年7月から8月にかけて行われたハンブルク空襲は聖書のソドムとゴモラの故事にちなみゴモラ作戦と名付けられて、1日に4回もの空襲が行われたり、あらゆる種類の爆弾が投下されたりと都市に対する戦略爆撃の実験のようなものが行われ、発生した火災旋風で30,000人~50,000人の民間人が焼死し、100万人がホームレスとなった。あまりの大損害に、ドイツ空軍参謀長ハンス・イェションネク上級大将が責任を感じて自決したほどであったが、ゲーリングはイェションネクの死がドイツ空軍の敗北が原因であることを隠蔽するため、死亡診断書の死亡日と死因を改ざんさせた。
空襲による被害拡大のため、ドイツ空軍は本土防空体制の強化に迫られて、東部戦線から戦闘機を本土防衛に振り向け、戦闘機の70%を西部戦線に投入されることとなったが、その分、東部戦線の空軍力は低下し、ソ連軍に制空権を明け渡すこととなった。また、生産力を高射砲増産に振り向け、実に50,000門のあらゆる口径の高射砲でドイツ本土をハリネズミの様に武装した。なりふり構わないドイツ軍の防空力の強化に対して、連合軍は戦闘機の航続距離の不足から、爆撃機隊を十分に護衛できず、護衛のない爆撃機隊がドイツ軍戦闘機に痛撃を浴びることも珍しくなかった。1943年8月17日、アメリカ第8空軍の376機のB-17は、シュヴァインフルトにあるボールベアリング工場とレーゲンスブルクの航空機工場を爆撃するためドイツ本土上空に侵入したが、そこに300機のドイツ空軍戦闘機が襲い掛かり、25機を失いながら、爆撃隊の19%にあたる60機を撃墜し、第8空軍に大打撃を与えた。それでも第8空軍は1943年10月14日に、シュヴァインフルトのボールベアリング工場を291機のB-17で再攻撃したが、それを上回る数のドイツ空軍戦闘機が襲い掛かり、高射砲による損害を加えて1日で60機のB-17を失うという惨敗を喫した。この2回の大損害によって、第8空軍は一時的にドイツ本土爆撃を見合わせなければならなくなった。
激しいドイツ空軍の迎撃で大きな損害を被った連合軍ではあったが、冷静な分析で既にドイツ本土上空での勝利を確信していた。アメリカ軍はこの頃にB-17やB-24を遥かに凌駕する性能を誇る戦略爆撃機B-29の開発を進めていたが、その指揮を執っていたアメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・ハップ・アーノルド大将は「我々はB-29の爆撃目標をドイツとは考えなかった。B-29の作戦準備が整うまでに、B-17やB-24が、ドイツとドイツの占領地域の工業力、通信網、そのほかの軍事目標の大半を、すでに破壊してしまっている」と考えて、B-29を日本に対して使用することを決定している。
この年、連合国の首脳および閣僚は1月14日カサブランカ会談、8月14日 - 24日ケベック会談、10月19日 - 30日第3回モスクワ会談(英語版)、11月22日 - 26日カイロ会談、11月28日 - 12月1日テヘラン会談など相次いで会議を行った。今後の戦争の方針、枢軸国への無条件降伏要求、戦後の枢軸国の処理が話し合われた。しかし、連合国同士の思惑の違いも次第に表面化することになった。
1944年[編集]
東部戦線崩壊[編集]
1944年の入ると、端から見てもヒトラーの体調は悪そうに見えた。背を屈め足を引きずって歩き、手足は震え、身長165cmに対し体重は美食と極度の運動不足で103㎏に達していた。それでも主治医のテオドール・モレルはヒトラーは健康体だと言い張り、大量の薬品を処方していたが、そのなかにはメタンフェタミンやアンフェタミンといった覚せい剤も含まれていた。ヒトラーの独善的な戦争指導はますます酷くなっていたが、エーリッヒ・フォン・マンシュタインやゲルト・フォン・ルントシュテットといった国防軍のエリート軍人もヒトラーの眼力に怯え、その戦争指導に従っていた。東部戦線においては、前年にソ連軍がイスクラ作戦によって部分的に包囲網を打ち破っていたレニングラード方面でレニングラード・ノヴゴロド攻勢(英語版)が開始された。1月15日にソ連軍はシュリッセリブルクの奪還に成功し、ドイツ軍をラドガ湖南岸から叩き出して、ついにレニングラードは1941年9月以降約900日ぶりに解放された。しかし、包囲下の飢餓や疫病またドイツ軍の虐殺により市民約100万人が犠牲となった。大損害を被った北方軍集団司令官ゲオルク・フォン・キュヒラー元帥は、軍の撤退を進言したが、激怒したヒトラーから軍司令官を更迭された。
スターリングラードで第6軍が殲滅された南部戦線でも、ドイツ軍は引き続きソ連軍の激しい攻勢に晒されていた。ドイツ南方軍集団の第8軍の突出した2個軍団56,000人がソ連軍に捕捉され重包囲下に置かれてしまった(コルスン包囲戦)。スターリンはスターリングラードの再現を狙って包囲した2個軍団の殲滅を命じ、一方で南方軍集団司令官マンシュタインは救出すべく機甲部隊を向かわせたが、天候不良と泥濘によって進撃は捗らなかった。マンシュタインは救援が到着する前に2個軍団が殲滅されるのは時間の問題と考え、ヒトラーに手遅れになる前に自力脱出を命じるよう進言したが、ヒトラーは「ナチス精神に燃え、必勝の信念を保持していれば持久できる」として、持久戦の継続と、救援軍によるソ連軍部隊の撃滅を命じたが、2個軍団からは「崩壊寸前」との報告も寄せられており、渋々マンシュタインの進言を了承した。包囲地区内に滑走路を急造し、空輸で食料の補給を続けて撤退準備を進め、2月16日に2個軍団は全ての重装備を放棄し、ほぼ徒手空拳で脱出を開始した。ドイツ軍にとって幸運であったのは、なぜかソ連軍の反応が鈍かったことで、追撃も不徹底であった。それでもドイツ軍第11軍団(英語版)長ヴィルヘルム・シュテンマーマン(英語版)中将が、撤退中に乗っていた荷馬車に対戦車砲が直撃して戦死し、脱出に成功した将兵も30,000人に過ぎなかった。
第6軍に続き、第8軍も撃破したジューコフは勢いに乗って、そのままウクライナの奪還を目指した。一方ヒトラーも、アメリカ、イギリスによるフランスへの侵攻が懸念される中、ヨーロッパの穀倉地帯であるウクライナを失うわけにはいかずに、死守するつもりであった。その頃、敗戦続きで同盟国のドイツに対する信頼が揺らいでおり、ハンガリーでは首相カーロイ・ミクローシュ(英語版)が連合軍との単独講和を画策していた。ヒトラーはその情報を察知すると、摂政(英語版)ホルティ・ミクローシュを軟禁し、ハンガリーを無欠占領するマルガレーテ作戦を敢行、幸いにこの作戦は成功し、後顧の憂いを無くすとマンシュタインにウクライナの死守を命じた。両軍の戦力はドイツ軍が104個師団90万人に戦車・自走砲2,200輌に対し、ソ連軍は170個師団120万人に戦車・自走砲2,000輌と、ソ連軍反攻以降では珍しく戦力が拮抗していたが、例年より早く訪れた春のため、ウクライナの大地はぬかるんで川が増水しドイツ軍が移動に苦労する中、ソ連軍はアメリカからレンドリースされた悪路に強いトラックを活用して、ドイツ軍を機動力で圧倒した。悪化する戦況にマンシュタインはヒトラーに軍の撤退を打診することが増え、その度にヒトラーは「貴官は、私が与えた部隊を足で蹴ころがして退却を要求するだけで、一度も持久しようとしないではないか」と叱責した。ヒトラーは先のコルスン包囲戦から自分に逆らい続けるマンシュタインに不信感を募らせており、3月30日に騎士鉄十字章を授与すると同時に軍司令官を解任した。しかし、軍司令官の首を挿げ替えたところでソ連軍の侵攻が止まることはなく、ソ連軍は4月には黒海の制海権を左右する要衝クリミア半島に達し、クリミアの戦いが始まった。ドイツ軍第17軍団とルーマニア軍が迎え撃ったが、ソ連軍の勢いの前にセヴァストポリも陥落秒読みとなったため、死守命令を出していたヒトラーも渋々撤退命令を出した。ドイツ海軍が艦船をかき集めて兵士や住民37,500人を脱出させたが、190隻の艦船を失い、脱出できなかった27,000人はそのまま残されてソ連軍に蹂躙され一人として生きて帰れなかった。そしてクリミア半島失陥によりドイツ軍は黒海の制海権をソ連軍に奪われた。
ノルマンディーに連合軍が上陸すると、ソ連軍はそれに呼応してこれまでで最大級の攻勢を行った。ソ連軍は作戦名をバグラチオン作戦と称し、攻撃開始日をバルバロッサ作戦と同日の6月22日に設定、ジューコフはこの攻勢のため、167万人の将兵、40.870門の火砲、5,818輌の戦車と自走砲、6,792機の航空機をベラルーシからバルト海沿岸の約1000キロに及ぶ戦線に配置した。ドイツ軍はこれまでと同様に、ヒトラーの死守命令に縛られ都市要塞に固着して柔軟性を欠いていたうえ、ソ連軍が攻勢前に入念に行ったパルチザンによる破壊工作で連絡網や交通路をズタズタにされていた。ドイツ軍が混乱するなか、正確無比な砲撃と激しい爆撃ののち、ソ連軍大部隊がドイツ軍陣地に殺到してきた。ドイツ軍はヒトラーの死守命令を忠実に守って都市を要塞化していたが、それは圧倒的な機動力を誇るソ連軍に包囲されるだけの結果に終わり、絶望的な戦いの中で多くのドイツ兵は戦死し生き残った兵士は降伏した。6月29日にはソ連軍はバルバロッサ作戦で占領されたミンスクに到達し、ドイツ第4軍105,000人をたちまち包囲してしまった。激戦の末、7月4日にミンスクは奪還され、ドイツ第4軍は5万人が戦死し57,600人が捕虜となった。ソ連軍はわずか5週間で700km進撃し、もはやポーランドの首都ワルシャワも目の前、ベルリンすらこの作戦で前進した距離内にあるところまで進撃した。さらにドイツ中央軍集団38個師団のうち26個師団を壊滅させて、文字通り中央軍集団を消滅させてしまった。ドイツ軍はこの戦いで全体で死傷者40万人、捕虜10万人と空前絶後の大損害を被り、独ソ戦の趨勢は完全に決してしまった。大勝利を収めたソ連軍はミンスクで捕らえた捕虜をモスクワまで移送し、モスクワでのドイツ人捕虜の行進をさせて国民の戦意を煽った。引き回された5万人のドイツ軍捕虜のなかには19人の将軍も含まれていた。
ノルマンディー上陸作戦[編集]
ドイツ軍に侵攻されたソ連のスターリンは、ルーズベルトとチャーチルに対して、可及的速やかに西ヨーロッパに進攻して第2戦線を構築し、ドイツ軍を東西から挟撃するように圧力をかけた。1942年5月29日、ソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外相がルーズベルトの招きでアメリカを訪問し、ルーズベルトやその顧問や軍の高官と協議して、1942年中にヨーロッパに第2戦線を創設するという緊急課題への理解とレンドリースの増加と迅速化の約束を取り付けた。この決定を受けて、アメリカ軍ではラウンドアップ作戦(英語版)やスレツジハンマー作戦(英語版)などのフランス進攻作戦が策定されたが、チャーチルが、フランスへの奇襲作戦ディエップの戦いの惨敗での苦い経験もあって、いきなりフランスに進攻するよりは、北アフリカ戦線で戦闘経験を十分に積んだのちにフランスに進攻すべきと主張したことや、アメリカ軍内でも、太平洋で破竹の進撃を続ける日本軍への反撃を優先すべきとするアメリカ陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルの進言等もあって、フランスでの第2戦線構築は先送りされた。結局、第2戦線構築の確約は1943年11月のテヘラン会談までずれ込むこととなり、その会談でルーズベルトとチャーチルは1944年春のフランスへの進攻を約束し、スターリンには将来的な対日参戦を約束させた。
このフランス進攻作戦は、連合国遠征軍最高司令官に任命されたばかりの、アメリカ陸軍のドワイト・アイゼンハワー元帥に託された。この史上最大の作戦はアイゼンハワーとその幕僚が心血を注いで半年間で計画を作り上げ、準備を進めた。そしてアイゼンハワーの決断で、1944年6月6日に北フランス・ノルマンディー地方に、約17万5000人の将兵、6,000以上の艦艇、延べ12,000機が殺到した。これは、西部戦線における連合軍の反攻作戦となるオーヴァーロード作戦(ノルマンディー上陸作戦)であったが、ドイツ軍側は上陸地点を読み違えていたことや、作戦の不徹底があったうえ、上陸当日には司令官エルヴィン・ロンメル元帥が休暇でドイツに帰国しているなど緊張感が欠落しており、完全な奇襲になってしまったことによって、連合軍に易々と上陸を許すこととなった。奇襲されたドイツ軍は大混乱して、オマハ・ビーチでの激烈な抵抗以外は非常に脆く敗退し、連合軍の損害も予想をはるかに下回る軽微なものであった。連合軍将兵は脆かったドイツ側の防備を見て、堅牢を誇りながらイスラエルの民が角笛を吹いただけで崩壊したと言われるエリコの壁を彷彿したという。戦闘や爆撃に巻き込まれて、ノルマンディー在住の多数の民間人が死傷し、女性の性的被害もあるなど、この日もっとも犠牲を被ったのはフランス国民となったが、1940年6月のダンケルク撤退以来約4年ぶりに再び西部戦線が構築された。
連合軍のフランス上陸を許すなど敗北を重ねるドイツでは、軍部の将校の一部に、ヒトラーを暗殺し連合軍との講和を企む声が強まり7月20日、国内予備軍司令部参謀伯爵クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐により、ヒトラー暗殺計画が決行されたが失敗した。疑心暗鬼に苛まれたヒトラーは、反乱グループとその関係者約200人を残忍な方法で処刑させた。また、国民的英雄エルヴィン・ロンメル元帥の関与を疑い、自殺するか裁判を受けるか選択させ10月14日、ロンメルは自殺した。
またこの頃ドイツは、イギリス経済疲弊を目的としたイギリスポンド紙幣の偽造作戦「ベルンハルト作戦」を実施し、一部のヨーロッパ諸国でポンドの価値が急落するなど一定の成果を出していた。なお、7月から、戦後の世界経済体制の中心となる金融機構についての会議が、アメリカ・ニューハンプシャー州、ブレトン・ウッズで45か国が参加して行われ、ここでイギリス側のケインズが提案した清算同盟案と、アメリカ側のホワイトが提案した通貨基金案がぶつかりあった。当時のイギリスは戦争で多くの海外資産を失い、33億ポンドの債務を抱え、清算同盟案を提案したケインズの案に利益を見出していた。しかし戦後アメリカの案に基づいたブレトン・ウッズ協定が結ばれることとなる。
ヨーロッパの解放[編集]
イタリア戦線でも連合軍はドイツ軍を追い詰め、1月17日にイタリアのモンテ・カッシーノで、連合国軍のイタリア戦線における、ドイツ軍のグスタフ・ライン(英語版)の突破およびローマ解放のための戦いが開始された。1月22日にはアンツィオに連合軍が上陸して、アンツィオの戦いも開始された。2月15日にカッシーノの街を見渡せる山頂にあった修道院に対し、アメリカ軍は1,400トンに及ぶ爆弾で修道院を爆撃し修道院は破壊された。ブラジル軍も参戦し、5月19日に連合国軍は勝利し、6月4日にはイタリアの首都ローマは連合軍に占領された。
フランスではドイツ軍は、ノルマンディ上陸後の連合軍の進撃を辛うじて食い止めていたが、7月25日以降、連合軍はノルマンディー地方の西部を迂回したコブラ作戦の結果、ついにドイツ軍の戦線を突破し、ドイツ軍はファレーズ付近で包囲された。8月頭にイギリス軍やカナダ軍、アメリカ軍を筆頭に連合軍は東へ進み、パリ方面へ進撃を開始した。
ドイツ軍も8月7日にディートリヒ・フォン・コルティッツ歩兵大将をパリ防衛司令官に任命しパリを防衛するも、8月16日には南フランスにも連合軍が上陸し(ドラグーン作戦)、ドイツ軍のパリ防衛も時間の問題であった。
ヒトラーはパリが陥落する際、パリを焼きつくして撤退するよう言明した。(「パリは燃えているか」)パリを防衛するドイツ軍は崩壊し、8月25日に自由フランス軍とレジスタンスによってパリは解放された。しかしドイツ軍はヒトラーの指令に反しパリをほぼ無傷のまま明け渡したため、多くの歴史的建造物や市街地は、大きな被害を免れた。フランス共和国臨時政府がパリに帰還し、フランスの大半が連合軍の支配下に落ち、ヴィシー政権は崩壊した。
フランスを占領中のドイツ軍に協力した「対独協力者(コラボラシオン)」の多くが死刑になり、またドイツ軍と親しかった女性が丸坊主にされるなどのリンチも横行した。さらに、ココ・シャネルのようにドイツ軍将校の愛人とドイツ軍のスパイを務めた上に、スイスなど国外へ亡命する者もいた。
8月1日、ポーランドの首都ワルシャワでは、ソ連の呼びかけでポーランド国内軍や市民が蜂起(ワルシャワ蜂起)したが、ロンドンの亡命政府系の武装蜂起のためソ連軍は救援しなかった。一方、ヒトラーもソ連が救援しないのを見越して徹底的な鎮圧を命じ、その結果約20万人が死亡、10月2日に蜂起は失敗に終わった。ほぼ同時期、スロバキア共和国でもソ連軍支援の民衆蜂起が起きたが、ドイツ軍は苛烈な方法で鎮圧した。
また8月23日にはルーマニア(ルーマニア革命)、9月にはブルガリアの政変で、親独政権が崩壊し枢軸側から脱落した。10月にはハンガリーも降伏しようとしたが、その動きを察知したドイツ軍はパンツァーファウスト作戦でハンガリー全土を占領、矢十字党による傀儡政権を樹立させ降伏を阻止した。しかしルーマニアのプロイェシュティ油田の喪失でついにドイツの石油供給は逼迫する。
9月3日、イギリス軍はベルギーの首都ブリュッセルを解放した。次いで一気にドイツを降伏に追い込むべくイギリス軍のモントゴメリー元帥は9月17日、オランダのナイメーヘン付近でライン川支流を越えるマーケット・ガーデン作戦を実行するが、拠点のアーネムを占領できず失敗する。また補給が追いつかず、連合軍は前進を停止。ドイツ軍は立ち直り、1944年中に戦争を終わらせることは不可能になった。
ドイツ本土空襲激化[編集]
ドイツ本土上空では引き続き激戦が繰り広げられていたが、本土防空体制強化への軍備リソース投入の偏重はさらに高まっており、戦闘機の80%が本土防空に充てられていた。そのため、東部戦線では13,000機のソ連軍戦闘機に、ドイツ空軍は500機で対抗しなければいけないといった惨状で、東部戦線の崩壊を早める原因にもなった。ドイツ空軍は、さらに多大なリソースをつぎ込んで、戦闘機の増産を図り、機上レーダーなどの装備を充実させた。防空体制の強化に対して苦戦していた連合軍空軍であったが、実に単純な方法で戦況を有利にすることに成功した。その単純な方法とは、護衛戦闘機の数を増やし、さらに増槽を装備させて航続距離を延伸させ、爆撃機の護衛を強化することであった。そこでもっとも猛威を振るったのがアメリカ軍の新鋭戦闘機P-51ムスタングであり、その長い航続距離でドイツの奥深くまで爆撃機を護衛し、圧倒的な高速と空戦性能で迎撃してきたドイツ軍戦闘機を次々と撃墜していった。既に1943年の後半から、形勢は大きく連合軍側に傾いており、1943年11月にドイツ空軍は戦闘機の21%を撃墜され、12月になるとその割合が23%に跳ね上がった。ドイツ空軍は甚大な損害に持ち堪えらえず、迎撃機の数は減り続け、パイロットの練度も低下していった。1944年初頭には1,000機以上で来襲する連合軍戦爆連合に対し、ドイツ空軍の迎撃戦闘機はわずか40機、それもごく少数のベテランパイロットに率いられた未熟なパイロットで編成されており、P-51ムスタングに乗るアメリカ軍のベテランパイロットたちは、ドイツ空軍戦闘機の編隊を“ガチョウの行列”と嘲り、たちまちの内に撃墜してしまった。
追い詰められたドイツ軍は世界初の実用ジェット戦闘機メッサーシュミット Me262を投入し制空権の回復に努めるが、兵器としての信頼性ではP-51には遠く及ばず、局地的な善戦に留まった。バトル・オブ・ブリテン時に開始された首都ベルリンへの空襲は1944年に入ると激しさを増し、さらに1944年の後半に連合軍がドイツ本土に迫ると、1944年末から1945年にかけて連合軍の空襲はピークを迎え、ドイツ国民は多大な損害を被ることになった。激化するドイツ本土爆撃に対抗し、ドイツ軍は世界初のジェット爆撃機アラドAr234、同じく世界初の飛行爆弾V1、次いで世界初の弾道ミサイルV2ロケットなど、開発中の新兵器を次々と実用化し、実戦投入した。ヒトラーがこれら新兵器にかけたコストと期待は極めて大きいものであったが、V2が挙げたもっとも大きな戦果は、この後のバルジの戦いの際に、ベルギーのアントワープにあった映画館のシネマレックスに着弾したもので、西部劇鑑賞中の軍民567人が死亡したが、死亡したベルギーの民間人の多くが子供であった。また、V1がもっとも存在感を示したのが、ノルマンディで苦戦するロンメルを叱咤するため、ヒトラーがフランスのエーヌ県にあったヴォルフスシュルフトII(英語版)を訪れた際に、期待のV1がジャイロスコープの不具合で、ヒトラーが就寝中のヴォルフスシュルフトIIに着弾し、これに驚いたヒトラーはその夜のうちにドイツ国内に逃げ戻り、この後死ぬまでドイツ国内から出ないといった効果を生じさせたことであった。
V1とV2は主にミッテルバウ=ドーラ強制収容所において生産された。この強制収容所では、ソ連軍、ポーランド軍、フランス軍捕虜のほか、ドイツで反政府運動で拘束されたドイツ国民など60,000人の収容者が強制労働させられたが、うち20,000人が劣悪な労働環境と危険な作業を強要されて死亡した。この死亡者数は、V1やV2の攻撃で死亡した一般市民の数倍にも上る人数であった。結局これらは兵器としては画期的なものであっても、戦況には殆ど影響を及ぼすことはなかった。
10月9日、スターリンとチャーチルはモスクワで、バルカン半島における影響力について協議した。両者間では、ルーマニアではソ連が90%、ブルガリアではソ連が75%の影響力を行使するほか、ハンガリーとユーゴスラビアは影響力は半々、ギリシャではイギリス・アメリカが90%とした。
バルジの戦い[編集]
この頃になると、ドイツの崩壊は秒読みに入ったと連合国側の首脳陣が認識するようになっていた。アメリカと日本が参戦した直後の連合軍の基本方針は、まずはナチス・ドイツを打ち破ることを優先し、それまでは太平洋戦線での積極的な攻勢は控えるというもので、投入される戦力や物資はヨーロッパ70%に対して太平洋30%と決められていたが、アメリカ陸軍の大物ダグラス・マッカーサー元帥やアメリカ海軍が、日本軍の手強さと太平洋戦線の重要性をルーズベルトに説いて、ヨーロッパと太平洋の戦力や物資の不均衡さは改善されており、アメリカ軍は太平洋上において大規模な二方面作戦を展開していた。
さらにマッカーサーは、フィリピンの戦い (1941-1942年)での汚名を返上すべく、フィリピンの奪還を強硬に主張していた。フィリピンには日本軍が大兵力を配置しており、その攻略には太平洋戦線過去最高規模の兵力が必要であったが、ナチス・ドイツ打倒の優先を主張していたチャーチルも、この頃にはヨーロッパの戦争は最終段階に入っていると考えており、太平洋方面の戦況に大きな関心を寄せていた。そのような状況で、マッカーサーはルーズベルトにフィリピン奪還を認めさせると、政治力を駆使して大量の兵員と航空機を太平洋戦線向けに確保したが、この大兵力のなかには、ヨーロッパ戦線への増援に予定されていた戦力も多く含まれていた。連合国内で激戦の続く太平洋戦線での関心が高まる中、アイゼンハワーらヨーロッパ戦線の司令官たちは、太平洋が優先されて、次第に減少していく増援や補給を憂慮する事態に陥り、進撃は停滞していた。
かねてよりヒトラーは、西部戦線での連合軍に対する反撃攻勢を夢想していたが、連合軍の進撃停滞を見ると、今が乾坤一擲のチャンスとして反撃を決意した。 最大の問題は戦力の準備であったが、ヒトラーは国防軍最高司令部の将軍たちの反対を押し切って、激戦続く東部戦線から25個師団を反撃のために西部戦線に転用するという命令を出した。ドイツ軍は1944年8月の1か月だけでも468,000人の兵士が死傷するなど、1944年後半に入るころから毎月スターリングラード級の惨敗をしているも同然の人的損失を被っており、既この戦争における兵士の損失は336万人に達していた。兵員不足により、ドイツ軍精鋭師団の多くもこれまでの激戦で原型をとどめないほど小規模化していたので、大規模な反攻作戦など不可能と思われていた。しかしヒトラーは強権を発動し、徴兵年齢を拡大して、実質的な国民皆兵を求めた。命令を受けたヒムラーは、徴兵を担当する軍管区司令官を集めると、以下の様な訓示を行い徴兵強化を命じた。
若者たちの命を助けて8,000万人から9,000万人の国民が全滅するよりも、若者が死んで国民が助かるほうがいい。
また連合軍による工場地帯への猛爆撃のなかでも、工場労働者の労働時間の延長などで、ドイツ軍需産業は底力を発揮、戦前・戦中を通じても最高の生産記録を達成し、ヒトラーの計画通り11月中に戦力確保の目途を立てた。作戦計画はほぼ完全に秘匿されて、作戦名も連合軍に反撃作戦と気づかれないよう、防御的な作戦と誤認させるため「ラインの守り(Wacht am Rhein)」と名付けられた。
密かに集結した25個師団約50万人のドイツ軍は、12月16日からベルギー、ルクセンブルクの森林地帯アルデンヌ地方で反攻(バルジの戦い)を開始した。アルデンヌ地方の冬の悪天候を突いた奇襲で連合軍は一時的にパニック状態に陥り、ドイツ軍に進撃を許した。特に、最精鋭の第1SS装甲師団の先鋒を担った、ヨアヒム・パイパー親衛隊中佐が率いるパイパー戦闘団(フィンランド語版)が猛進撃し、作戦目的である連合軍の補給拠点アントワープ港に迫る勢いであったが、アイゼンハワーの強力な指導力もあって連合軍は速やかに立ち直り、ドイツ軍の進撃は一部を除いて、早い段階で阻止された。ドイツ軍は計画通りの進撃ができず一部部隊のみが突出し、戦線はバルジ(「突出部」の意)を形成したので、この戦いはのちに「バルジの戦い」と呼ばれるようになった。
パイパー戦闘団も早々に撃破されたが、それでもハッソ・フォン・マントイフェル装甲兵大将の率いる第5装甲軍が中央部分を進撃し、ミューズ川からわずか9kmのセル村(英語版)まで達したが、アメリカ軍第101空挺師団が守る重要拠点のバストーニュの攻略ができずに攻勢は破綻、包囲していたバストーニュを12月26日にパットン中将率いる第3軍に解放されると、攻守は完全に入れ替わりドイツ軍は進撃を停止して防戦に追われた。その間、東部戦線ではソ連軍の動きも活発化し、これまで何度も作戦中止を進言されていたヒトラーが1945年1月8日になって「これは西部戦線の縮小ではなく“戦略的後退”である」として全軍に向けて撤退を下令した。このドイツ軍の反撃により、アメリカ軍は第二次世界大戦で単独作戦としては最大級の損害となる戦死8,607人を含む、人的損失約76,000人という甚大な損失を被ったが、攻撃側のドイツ軍の損失はさらに破滅的で、人的損失12万人、装甲車両の損失は800輌と補填不可能な損失を被って、ドイツの崩壊を早める引き金ともなった。
1945年[編集]
連合軍東西からドイツ本土に迫る[編集]
1月12日、ソ連軍はバルト海からカルパティア山脈にかけての線で攻勢を開始。1月17日ポーランドの首都ワルシャワ、1月19日クラクフを占領し、1月27日にはアウシュヴィッツ強制収容所を解放した。その後、2月3日までにソ連軍はオーデル川流域、ドイツの首都ベルリンまで約65kmのキュストリン付近に進出した。
ポーランドは、1939年9月以降独ソ両国の支配下に置かれていたが、今度はその全域がソ連の支配下に入った。2月4日から11日まで、クリミア半島のヤルタで米英ソ3カ国首脳によるヤルタ会談が行われた。そこでドイツの終戦処理、ポーランドをはじめ東ヨーロッパの再建、ソ連の対日参戦および南樺太や千島列島・北方領土の帰属問題が討議された。
1月にはイタリア社会共和国 (RSI) 軍の攻勢終了によって再び防戦へと戻り、ムッソリーニは厳冬の中で絶望的な戦闘を続けるRSI軍の前線を訪れ、閲兵式を行って兵士達を激励している。少年兵を含めた兵士達はムッソリーニの期待に応えて希望の失われた状況下で戦いを続け、冬の間は連合軍の攻撃も停滞した。しかし春を迎えた4月になるとゴシックラインは完全に突破され、C軍集団とRSI軍はポー川ラインにまで戦線を後退させ、ミラノでの市街地戦が視野に入り始めた。これを裏付けるようにムッソリーニも「ミラノを南部戦線のスターリングラードにしなければならない」と演説している。
ハンガリーでは1944年12月に赤軍・ルーマニア軍によってブダペストが包囲され、1945年2月13日に残存していたブダペスト防衛部隊が無条件降伏した。ソ連軍はここでも一般兵士から将官までもが略奪・暴行に参加し、10歳から70歳まで、およそ目に付くほとんどの女性が強姦された。ドイツ軍は3月15日から、ハンガリーの首都ブダペスト奪還と、油田確保のため春の目覚め作戦を行うが失敗する。
ヒトラーは敗色が濃くなると、連合軍に焦土以外のものは渡さないと思い付き、さらに連合軍の進撃がドイツ国境に迫ると、その破壊的な妄想を部下たちに語るようになっていた。そして1945年3月に戦況が破滅的な様相を呈すると、ヒトラーはついにこの妄想を実現するときがきたと考えて、「ドイツは世界の支配者たりえなかった。ドイツ民族は栄光に値しない以上、滅び去るほかない」と述べ、ドイツ国内の生産施設を全て破壊するよう「焦土命令」(ネロ指令)を発する。この命令を受けた軍需相アルベルト・シュペーアは、既に敗北は必至と考えており、無駄な破壊は国民を苦しめるだけだとヒトラーに進言したが、もはや狂気に囚われていたヒトラーは聞く耳を持たなかった。そこでシュペーアは軍需相の部下や地方政治家と協力して、「ネロ指令」の実行を妨害することに力を尽くしたが、そもそも指令を実行できるような量の爆薬はなく、また、この指令をまともに実行しようという者もおらず、指令が実現することはなかった。「ネロ指令」の失敗は、物資枯渇とナチ政権の統率力低下を露わにしただけで終わったが、皮肉にも、生産設備や他民間施設の破壊は、敵である連合軍の空襲や地上侵攻によって実現することとなってしまった。
西部戦線のドイツ軍は1月16日、アルデンヌ反撃の開始地点まで押し返された。その後、連合軍は3月22日から24日にかけて相次いでライン川を渡河し、イギリス軍はドイツ北部へ、アメリカ軍はドイツ中部から南部へ進撃する。4月11日にはエルベ川に達し、4月25日にはベルリン南方約100km、エルベ川のトルガウで、米ソ両軍は握手する(エルベの誓い)。南部では4月20日ニュルンベルク、30日にはミュンヘン、5月3日にはオーストリアのザルツブルクを占領した。
これ以降ヒトラーは体調を崩し、定期的に行っていたラジオ放送の演説も止め、ベルリンの総統地下壕に立てこもり、国民の前から姿を消す。ソ連軍はハンガリーからオーストリアへ進撃し4月13日、首都ウィーンを占領した。もはやドイツは何の軍事的合理性のないまま戦い続けた。得られる戦果は僅かなのに対して損失は壊滅的なものであり、1945年1月から終戦までは疑う余地なくドイツ史上でもっとも多くの血が流された。1945年1月だけで45万人のドイツ兵が戦死し、2月から4月までの毎月の戦死者も約30万人に達した。このわずか4か月のドイツの兵員損失数は、1月の単月だけでもアメリカ軍やイギリス軍が第二次世界大戦で失った兵員数を超え、4か月合計でも日本陸軍が1937年の盧溝橋事件からの日中戦争開戦から、1945年太平洋戦争終戦まで8年間に失った148万人に匹敵する莫大な数であった。
この破滅的な損失は、ドイツ軍の指揮官の多くが部下将兵を生かす義務を放棄して、望みのない局面に意図的に追い込んで死ぬまで戦うことを強制したことによってもたらされた。その無責任な指揮官のなかには、大戦中盤まではUボートを率いて連合軍を苦しめた海軍総司令官カール・デーニッツ元帥も含まれていた。デーニッツは部下の海軍将兵に対して「この状況で、重要なのはただひとつ、戦いつづけること、そしてあらゆる運命に逆らい、転機を引き寄せることだ」「そのように行動できないものはろくでなしだ。そんな奴は『こいつは裏切り者』というプラカードをくくりつけて絞首刑に処する」などという訓示を行い、ヒトラーに忠誠心を示した。この訓示に感銘を受けたナチス党の官房長マルティン・ボルマンは、党の全幹部に回覧している。デーニッツはヒトラーに信頼されて、ヒトラーの遺書(英語版)により死亡時の後継者に指名された。
ナチス・ドイツ崩壊へ[編集]
死を強要されたのは兵員ばかりでなく一般のドイツ国民も同様で、1945年に入ってからは、抵抗力を喪失したドイツ防空体制を尻目にして激化する連合軍の都市爆撃で大量の死傷者を出していた。1945年2月13日から15日にかけて避難民でごった返していたドレスデンに対して、延べ1,300機の重爆撃機が合計3,900トンの爆弾を投下、犠牲者数には諸説あるものの最低でも25,000人の一般市民が死亡した。最初に1,000機による空襲を受けたケルンは終戦までに262回も空襲を受け、25万戸の住宅のうち20万戸が焼失し、開戦時76万人いた住民は終戦時に10万人しか残っていなかった。ゴモラ作戦で甚大な損害を被ったハンブルグも開戦時55万戸あった住宅のうち焼失を免れたものは26万戸だけであった。中小の都市ではもっと壊滅的な損害を受けたところもあり、ハーナウでは住宅の88.6%が焼失し、デューレンに至っては99.2%の焼失率と、ほぼまともに建っている住宅がない惨状であった。これらの徹底した破壊は、戦争を終わらせることがドイツ国民を苦しみから解放する唯一の手段であるという明快なメッセージであったが、ベルリンの防空壕の奥深くに潜んでいるヒトラーにこのメッセージが届くことはなく、多くのドイツ国民が防空壕のなかで「ドイツ兵が1918年と同じぐらい利口だったら、戦争はとっくに終わっていただろう」と嘆いていた。
連合軍による戦略爆撃によって、ドイツ本土に述べ144万機の連合軍爆撃機と268万機の連合軍戦闘機が来襲し、合計270万トンの爆弾を投下した。ドイツ軍戦闘機や高射砲による激しい迎撃で、アメリカ軍は18,000機、イギリス軍は22,000機の航空機を損失もしくは大きな損傷を被り、アメリカ軍は79,265人のパイロットが死傷もしくは捕虜となり(うち戦死者数26,000人以上)、イギリス軍も同様に79,281人の人的損失(うち戦死者数は不明)を被った。ドイツ国民は自国の軍隊が行ってきた、ゲルニカ爆撃やロッテルダム爆撃やザ・ブリッツなどと同じ市街地への爆撃を桁違いの規模で受けることとなってしまい、ドイツ国内360万戸の住宅のうち20%が破壊され、50万人~60万人のドイツ国民が死亡した。また、ドイツ軍戦闘機の損失は57,405機と連合軍損失を大きく上回り、他に軍事目標としてはUボート97隻、7,400門の8.8 cm FlaK高射砲、23,000台の車両、最低でも戦車800両が撃破され、ドイツの継戦能力を破壊し尽くした。ドイツ軍はアメリカ軍とイギリス軍による本土空襲に対抗するため、東部戦線での制空権を犠牲にしても、本土防空戦力を強化し続けたが、結局惨敗を喫して、国土を破壊されることを防ぐことはできず、さらには東部戦線崩壊の大きな要因ともなった。アメリカとイギリスは限られた戦力を用いて、多大な成果を挙げており、かなりの低コストで戦争に決定的な影響を与えたとも評されている。
ドイツ国民の受難は空からくる厄災だけではなかった。ソ連軍がドイツに向けて進撃してくると、東ヨーロッパに居住していたドイツ系住民はソ連兵の暴虐を恐れ、ドイツ国内に向けて避難を開始した。ドイツ海軍は、東プロイセン、西プロイセン、ポメレリアから、ドイツ兵やドイツ系住民をドイツ国内に避難させる『ハンニバル作戦』を開始、また、各地にあった強制収容所から収容者をドイツ国内の強制収容所へと移送した。この大輸送作戦のため1,000隻以上の大小の船舶が準備され、ドイツ兵や民間人や収容者はすし詰めに詰め込まれて輸送されたが、連合軍の航空機や潜水艦が待ち構えており、次々と避難船が撃沈された。そのなかの貨客船ヴィルヘルム・グストロフでは、定員1,865人に対して、10,582人の兵士や避難民が積み込まれており、ゴーテンハーフェンを出港後にソ連軍の潜水艦に撃沈されると、救助もままならず9,343人が死亡したが、これは海難事故史上最悪の犠牲者数となった。
他にもカップ・アルコナ7,000人、ゴヤ6,200人、シュトイベン4,500人、ペレトラ(英語版)2,650人などの避難船が撃沈されて大量の犠牲者を出した。この5隻で生じた30,000人の死者は、大西洋の戦いでUボートに沈められた3,500隻の船舶で犠牲となった連合国船員の死者数に匹敵する夥しい死者数であったが、大きな犠牲を出しながらも避難作戦は奇蹟的な成功を収め、約200万人が東ヨーロッパからの脱出に成功している。しかし、この脱出はこれから始まるドイツ国民の苦難の入り口に過ぎなかった。戦禍に追われて自分の居住地から避難したドイツ国民は全国民1/4の1,900万人にも上ったが、その殆どが老人か婦女子であり、過酷な道中で次々と命を落としていき、その犠牲は戦争が終わった後も増え続けた。避難民の犠牲者総数は統計すらないが、最低でも2百万人に上ったものと推定される。
大量のドイツ国民やドイツ兵が命を落としていくなか、総統地下壕に籠るヒトラーは、2月26日と4月2日の2回に渡ってドイツ国民にむけて最後の談話を発表した。その内容は現実から逃避し、ユダヤ人に激しい敵意をむき出しにする一方で、自らの判断ミスによって辛酸を嘗めさせられているドイツ国民に対する謝罪や労いの言葉は一切なかった。
私は、ヨーロッパ最後の希望であった。ヨーロッパには、自己的改革による自己改造などできないことが明らかとなった。ヨーロッパは、自身が魅力と説得に鈍感なことをはっきり示した。
ヨーロッパという女をわがものとするには、腕力に訴えるのほかなかった。
(中略)
さて、我々を2度も大戦に投げ込んだこの残酷な世界で、生存と繁栄の機会を掴める白人といえば、苦難に耐えるすべを知り、事態が切望的になっても、依然として死ぬまで戦い抜く勇気をもつ人々だけであることは、明白である。
こういう特質を体得していると公言できる者は、ユダヤ人の致命的な毒を自らの組織から根絶することのできた国民だけであろう。
4月16日、ベルリン正面のソ連軍の総攻撃が開始され(ベルリンの戦い)、ベルリン東方ゼーロウ高地以外の南北の防衛線を突破される。4月20日、ヒトラーは最後の誕生日を迎え、ヘルマン・ゲーリング、ハインリヒ・ヒムラー、カール・デーニッツらの政府や軍の要人はそれを祝った。その夜、彼らはヒトラーからの許可によりベルリンから退去し始めたが、ヒトラー自身はベルリンの総統地下壕から動こうとしなかった。このような現実逃避を続ける指導者や指揮官に対し、兵士の士気は低下し、戦争の最終局面に入って、脱走や戦闘拒否が相次いだ。それを抑え込むため軍の指揮官たちは親衛隊や憲兵を使って“脱走兵狩り”を始めた。憲兵らに捕まった脱走兵は軍法会議にかけられることもなく銃殺や絞首刑に処されて遺体には首から「臆病者はみんなこうなる」と書いた札を下げられて晒された。軍司令部から各部隊に「脱走兵を処分して前線を督励せよ」という命令も出されるほどの末期的な状態であった。
ベルリンの戦い[編集]
4月25日、ソ連軍はベルリンを完全に包囲した(詳細はベルリンの戦いを参照)。このような絶望的状況の中、ドイツ軍はヒトラーユーゲントなどの少年兵や、まともな武器も持たない兵役年齢を超えた志願兵を中心にした国民突撃隊まで動員し最後の抵抗を試みた。
ベルリンを脱出したゲーリングは4月23日、連合軍と交渉すべく、ヒトラーに対し国家の指導権を要求する。マルティン・ボルマンにそそのかされたヒトラーは激怒し、ゲーリング逮捕を命令するが果たされなかった。4月28日にはヒムラーが中立国スウェーデンのベルナドッテ伯爵を通じ、連合軍と休戦交渉を試みていることが公表され、ヒトラーはヒムラーを解任、逮捕命令を出した。
一方、イタリア北部では連合軍の進撃とパルチザン([[:en: Italian partisan brigades|英語版]])の蜂起により、4月25日、C軍集団はイタリア臨時政府・国民解放委員会 (CLN) の代表団との直接会談に望んだが、C軍集団の休戦交渉を知ったCLNは無条件降伏の要求以外は受け入れなくなった。ムッソリーニは会談の中でC軍集団の降伏交渉について知らされ、最後の最後にヒトラーから裏切られたと感じた。しかし2日後に総統地下壕のヒトラーから戦局の逆転を確信しており、「独伊同盟の最終的勝利」に希望を持っているという電報が届き、ヒトラーもまた周囲から欺かれていることを知った。ここにイタリア社会共和国は名実ともに崩壊した。
ムッソリーニは逃亡中、スイス国境のコモ湖付近の村でパルチザンに捕えられた。捕えられた一行はムッソリーニと愛人ペタッチ、それ以外の閣僚や将兵と分けられ、残されたムッソリーニはペタッチと共にミラノ方面へ車両で移動させられ、しばらくの間ジャコモ・デ・マリアという人物の所有する民家に幽閉されている。
程無くしてパルチザンはムッソリーニについても略式裁判による即時処刑を決定、ムッソリーニはミラノ近郊のメッツェグラ市の郊外にあるジュリーノ・ディ・メッツェグラ(英語版)に設置された処刑場へ護送された。4月28日の午後4時10分にペタッチと共に射殺され、懸念されうるムッソリーニの生存説を払拭することや、依然として残る威厳を失わせることを図って、その死を公布することを計画した。ドンゴで射殺された何人かの重要な幹部の遺体と一緒にムッソリーニの遺体を貨物トラックに載せ、辺境のメッツェグラ市から主要都市の一つであるミラノ市へと移送した。
4月29日朝、ミラノ中央駅にトラックが到着すると駅にある大広場であるロレート広場の地面の上に遺体を投げ出した。続いてパルチザンは反乱者への見せしめである「遺体を建物から吊るす」という行為への意趣返しとして逆さ吊りにした。括り付けられたのはスタンダード・オイル社のガソリンスタンドの建物だった。ただし逆さ吊りについては中世時代に行われていた懲罰を再現したという説や、むしろこれ以上死体が損壊することを避けたという説もある(ベニート・ムッソリーニの死)。イタリア駐在のC軍集団も5月4日に降伏している。
ムッソリーニが殺害された2日後、4月30日15時30分頃にヒトラーは、ベルリンの総統地下壕で前日結婚したエヴァ・ブラウンと共に自殺した。死体は遺言に沿って総統地下壕脇に掘られた穴で焼却された。ヒトラーは遺言で大統領兼国防軍総司令官に海軍元帥デーニッツを、首相に宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスを、ナチ党担当相および遺言執行人に党官房長マルティン・ボルマンを指定していたが、ゲッベルスもヒトラーの後を追い5月1日、妻と6人の子供を道連れに自殺した。
これに先立つ4月29日には、アメリカ陸軍の日系人部隊の第442連隊戦闘団隷下の第522野戦砲兵大隊は、ドイツ軍との戦闘のすえにミュンヘン近郊のダッハウ強制収容所の解放を行った。なお、日系人部隊が強制収容所を解放した事実は1992年まで公にされることはなかった。
イギリス軍とアメリカ軍がドイツ国内、オーストリアへ進撃するにつれ、ダッハウ、ザクセンハウゼン、ブーフェンヴァルト、ベルゲンベルゼン、フロッセンビュルク、マウトハウゼンなど、各地の強制収容所が次々に解放され、収容者とおびただしい数の死体が発見されたことにより、ユダヤ人絶滅計画(ホロコースト)をはじめとする、ドイツの犯罪が明るみに出された。またソ連が新たにソ連領としたポーランド東部からポーランド人とユダヤ人を追放したため、送還先のポーランドではポーランド人によるユダヤ人虐殺事件も起きた(ソビエト占領下のポーランドにおける反ユダヤ運動)。
なお先にドイツ軍を駆逐したソ連軍は各地で行われていた大量虐殺を先に知っていたが、イギリス軍とアメリカ軍はこれをソ連のプロパカンダと思い信じなかった。なお、ホロコーストについて連合国が騒ぎ立てるのは、これらの強制収容所とそこでの大量虐殺が明らかになる第二次世界大戦後のことであった。
5月2日、首都ベルリン市はソ連軍に占領された。その際、ベルリン市民の女性の多くがソ連兵に強姦されたといわれている。女性、果てや8歳の少女までもが強姦され、犠牲者総数は数万から200万と推測されている。ある医師の推定では、ベルリンでレイプされた女性のうち、その後、約10分の1の女性が死亡し、その大半が自殺だった。また東プロイセン、ポンメルン、シュレージエンでの被害者140万人の死亡率は、さらに高かったと推定される。全体で少なくとも200万のドイツ人女性がレイプされ、繰り返し被害を受けた人もかなりの数に上ると推定される(同上より)。
ドイツ政府と軍の無条件降伏[編集]
ヒトラーの遺言に基づき、彼の跡を継いで指導者となったカール・デーニッツ海軍元帥はフレンスブルクに仮政府を樹立し(フレンスブルク政府)、連合国との降伏交渉を開始した。5月7日、フレンスブルク政府の命によってドイツ国防軍と政府は連合国に無条件降伏することが決定した。これはドイツ政府と軍による完全な無条件降伏であった。
結局ドイツはヒトラーが死ぬまで戦いを続けたが、工業先進国が自らの首都まで敵軍に攻めこまれ、首都の住民数十万人を道連れにしながら、国家元首の官邸が敵軍に蹂躙されるほど完膚なきまでに叩きのめされたというのは、現代史上では前代未聞であり、天皇の権威により、やむを得ず事態を受け入れて降伏した大日本帝国とも異なっていた。ナチス・ドイツは非常に驚くべき完全敗北を成し遂げたのである。
アルフレート・ヨードル上級大将がアイゼンハワーの司令部に赴き、国防軍代表として降伏文書に署名し、停戦が5月8日午後11時1分に発効すると定められた(ドイツの降伏文書(英語版))。翌午後11時にはベルリン市内のカールスホルスト (Karlshorst) の工兵学校で、降伏文書の批准式が行われ、ドイツ国防軍代表ヴィルヘルム・カイテル元帥と連合軍代表ゲオルギー・ジューコフ元帥、アーサー・テッダー(英語版)元帥が降伏文書の批准措置を行った。なお日独伊三国同盟には、降伏前に同盟国の日本と協議を行う決まりであったが、もはやドイツに日本政府と協議する余裕はなかった。
なお同盟国であるはずの日本と連合国はフレンスブルク政府に対し、政府としての承認は行わなかった。5月23日には全閣僚が連合国に逮捕され、その機能を失った。その後6月5日のベルリン宣言により中央政府がドイツに存在しないこと(中央政府=ナチ党であり、ドイツ国の降伏とともに消滅したこと)が確認された。敗戦後に中央政府がドイツに存在しない点は、敗戦と占領後に中央政府が存在し続けた日本と大きく異なる。
これによりドイツ国、イタリアの2国の枢軸国が連合国側に降伏し、ヨーロッパでの戦いは終結した。その後も欧州では小規模かつ局地的な戦闘は続いたものの、国家間での戦闘行為は最後の枢軸国である大日本帝国と満洲国など数少ない友好国、そしてそれに対するイギリスやオーストラリア、アメリカや中華民国などの連合国による東南アジアと東アジア、太平洋地域のみとなった。
停戦後[編集]
5月8日午後11時1分に停戦が発効され、8日と9日の2日間はヨーロッパ全土は祝日となった。各地の枢軸軍は順次降伏していったが、ソ連軍らとドイツ軍の戦闘はドイツが無条件降伏したにもかかわらず、プラハの戦いが終結する5月11日まで続いた。なおソ連軍が停戦後も停戦を無視して戦いを継続するのは、無条件降伏ではない対日戦でも同様であり、戦時国際法に明らかに違反するものであった。
ドイツ占領下のノルウェー南端から日本へ向かっていたドイツ海軍のUボート「U-234」が、大西洋上でアメリカ海軍の艦船に降伏しようとした矢先の5月14日に、便乗していた庄司元三と友永英夫の2名の海軍中佐が服毒自殺した。2人の持ち物の中には、当時日本も開発していた原子爆弾の開発に欠かせないウラン235が560キログラム含まれていた。
なおこの前後に、多数のナチス親衛隊員やドイツ軍人、ファシスト党員が、潜水艦や船舶、徒歩でバチカンやスペイン、ポルトガルやノルウェーなどを経由して、アルゼンチンやブラジル、チリやボリビアなどの南アメリカ諸国に逃亡し、その後も数千人が身分を隠して逃亡を続けた。またナチス親衛隊員やドイツ軍人が、残る枢軸国の日本へUボートで逃亡したとの報道もあったが、これは上記のような事件と混合した誤りであった。
ソ連軍に降伏した枢軸国の将兵はシベリアなどで強制労働させられた。さらに終戦直前から戦後にかけて、ソ連を含む中欧・南欧・東欧からは1200万人を超えるドイツ人が追放され、200万人以上がドイツに到着できず命を落とした。
この後、ドイツとの戦いを終えたイギリスやアメリカ、イギリス連邦諸国の将兵が残る日本との戦いの元へ次々に送られたほか、日本との和平条約があるソ連軍も満洲国との国境に隠密裏に送られた。
ポツダム会談[編集]
その後7月17日から、ベルリン南西ポツダムにて、ヨーロッパの戦後問題を討議するポツダム会談が行われた。イギリスの首相ウィンストン・チャーチル(会談途中、7月25日の総選挙でチャーチル率いる保守党が労働党に敗北し、クレメント・アトリーと交代する)。4月12日のルーズベルトの急死に伴い、副大統領から昇格・就任したアメリカの大統領ハリー・S・トルーマン、ソビエト連邦のヨシフ・スターリンが出席した。この会議で、ドイツの戦後分割統治などが取り決められたポツダム協定の締結が7月26日に行われた。
さらに、この会談のさなかには残る枢軸国の日本に対し降伏を勧告するポツダム宣言の発表も英米中の3か国の合意の元行われ(中華民国の蔣介石総統は無線電話での承認。日本と開戦していないソ連は開戦後の8月9日に承認)、日本に向けて送信され、日本側では外務省、同盟通信社、陸軍、海軍の各受信施設が第一報を受信した。
条件付きのポツダム宣言の受託とその行使により、ドイツと違って、敗戦と占領後にも日本には中央政府が存在し続けることとなった。
背景(アジア・太平洋・オセアニア・北アメリカ・東アフリカ)[編集]
満洲事変(1931年-1933年)から、日中戦争と日本の参戦までの経緯(1937年-1941年)[編集]
満洲事変と満洲国独立[編集]
1931年9月18日に南満洲鉄道が爆破されたとして、日露戦争の勝利後にロシア帝国から獲得した租借地、関東州と南満洲鉄道の付属地の守備をしていた日本陸軍の関東都督府陸軍部が前身の関東軍と中華民国軍の間で戦闘が勃発。日本が勝利し関東軍が南満洲を占領する(満洲事変)。
12月に中華民国政府の提訴により、国際連盟では満洲での事態を調査するための調査団の結成が審議されていた。英仏伊独の常任理事国に、当事国の日本と中華民国の代表からなる6ヵ国、事実上4四ヵ国の調査団の結成が可決された。日本の主張も認められて、調査団結成の決議の留保で、満洲における匪賊の討伐権が日本に認められた。1932年1月28日に日本海軍と中華民国十九路軍が衝突する第一次上海事変が勃発したが、3月1日に中華民国軍が上海から撤退した。
同日に愛新覚羅溥儀を執政とした満洲国が中華民国から独立して建国宣言をした。3月3日に、中華民国軍を制圧した日本軍に停戦命令が下ると、聞く耳を持たなかった英仏伊独の国際連盟各国代表も、日本の態度を正当に了解しかけた。
3月に国際連盟から第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットンを団長とする調査団(リットン調査団)が派遣された。この調査団は、半年にわたり満洲国と日本、中華民国を調査し、満洲国皇帝の愛新覚羅溥儀とも面会し9月に報告書(リットン報告書)を提出した。翌1933年2月24日、このリットン報告を基にした勧告案(内容は異なる)が国際連盟特別総会において採択され、日本を除く連盟国の賛成および棄権・不参加により同意確認が行われ、国際連盟規約15条4項および6項についての条件が成立した。
前後して上海事変の勃発で日本への疑念を深めていたイギリスでも、1932年3月22日の下院審議において、与党保守党の重鎮オースティン・チェンバレンは、「労働党議員の対日批判を諌め、日中ともに友好国であり、どちらにも与しない」とした上で、中華民国には「国内秩序をきちんと保てる政府が望まれること、日本が重大な挑発を受けたこと、条約の神聖さを声高に唱える中華民国が少し前には、一方的行動で別の条約を破棄しようとしたこと」を指摘し、「銃剣はボイコットへの適切な対応ではない」としつつ、対日制裁論を退け、国際連盟に慎重な対応を求めた。
国際連盟の対応を受けて5月5日に上海停戦協定が結ばれ日中両軍が上海市区から撤退し、5月31日には塘沽協定が成立し満洲事変が終結、騒ぎは収まるかに思えた。
国際連盟脱退[編集]
だが、翌年の1933年2月23日に日本軍が熱河省に侵攻するなど、中華民国との関係がさらに悪化すると、日本に対する国際連盟加盟各国の態度も硬化した。
翌日にはジュネーブで行われた国際連盟総会で「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」確認の投票が行われ、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム)の圧倒的多数で勧告が採択された。さらに満洲国建国などを国際連盟の場で非難され、松岡洋右代表以下日本代表はこれを不服として、あらかじめ準備していた宣言書を朗読して会場から退場し、日本のマスコミからは大喝采を受けた。
日本代表はジュネーヴからの帰国途中にイタリアとイギリスを訪れ、ローマでは首相ベニート・ムッソリーニと会見している。帰国後の3月27日に国際連盟を脱退する。またドイツも同年脱退した。
なお、日本脱退の正式発効は、2年後の1935年3月27日となり、脱退宣言から1935年までの猶予期間中に日本は分担金を支払い続けていた。また正式脱退以降も国際労働機関 (ILO) には1940年まで加盟していた(ヴェルサイユ条約等では連盟と並列的な常設機関であった)。そのほか、アヘンの取り締りなど国際警察活動への協力や、国際会議へのオブザーバー派遣など、一定の協力関係を維持していた。