内海哲也
埼玉西武ライオンズ #27 | |
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巨人時代 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 京都府城陽市 |
生年月日 | 1982年4月29日(42歳) |
身長 体重 |
186 cm 95 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 2003年 自由獲得枠[1] |
初出場 | 2004年5月25日 |
年俸 | 1億円(2019年)[2] |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
国際大会 | |
代表チーム | 日本 |
WBC | 2009年、2013年 |
この表について
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獲得メダル | ||
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日本 | ||
ワールド・ベースボール・クラシック | ||
金 | 2009 | 野球 |
内海 哲也(うつみ てつや、1982年4月29日[1] - )は、京都府城陽市出身のプロ野球選手(投手)。左投左打。埼玉西武ライオンズ所属。
経歴[編集]
プロ入り前[編集]
敦賀気比高等学校で左腕エースとして活躍し注目された。高校時代は田中良平・森大輔とともに「北陸三羽ガラス」と呼ばれた。仲澤忠厚や李景一らとともに1999年の秋季福井大会・北信越大会では他校を寄せ付けない圧倒的な強さで優勝し、翌年の選抜高等学校野球大会への出場を確実とした。第30回明治神宮野球大会では内海自身は本調子では無かったが、強力打線の援護により準優勝。第72回選抜高等学校野球大会に出場することが決まり、優勝候補に挙げられていたが、他の部員の不祥事により、敦賀気比高校は甲子園出場を辞退した。
高3夏の予選では福井大会決勝で山岸穣・天谷宗一郎を擁する福井県立福井商業高等学校に延長10回の末に2-3で敗れ、あと一歩で甲子園出場は果たせなかった。阪神のスカウトに「高校生では打てない」と評された落差の大きなカーブと恵まれた体格から投じる角度のついた最速144km/hの速球の緩急自在な投げ分けで三振の山を築いた。1試合平均14個を超える奪三振率を誇り、「北陸のドクターK」の異名を取った。
2000年のドラフト会議では複数球団による1位指名での争奪戦が確実視されていたが、祖父の内海五十雄が巨人の野手だったこともあり、ドラフト直前に巨人以外からの指名は拒否することを表明した。そのため、ドラフト会議では巨人が単独で3位以降で[3]指名することが想定されたが、オリックス・ブルーウェーブが1位指名した。指名直後に監督の仰木彬から電話を受けるなどしたため、一時はオリックス入団に傾いたが、高校時代にバッテリーを組んでいた李景一が巨人から8位で指名されたことが逆に巨人への気持ちを強くし[4]、最終的には東京ガスへ進んだ。社会人時代は香月良太・森大輔とともに「三羽ガラス」と呼ばれていた。
2003年の第74回都市対抗野球大会にシダックスの補強選手として出場し準優勝。同年のドラフト会議で巨人が自由獲得枠で交渉権を獲得し入団[1]。背番号は祖父と同じ26に決まった(言われるまで知らなかったらしい)。
巨人時代[編集]
2004年は2軍で9勝を上げイースタン・リーグ最優秀防御率を獲得。勝ち星こそつかなかったが、一軍初先発も経験した。
2005年は林昌範らと競って開幕ローテーションを勝ち取り、4月だけでプロ初勝利を含む3勝を上げるが、その後は打ち込まれ、6月以降は1勝もできず4勝9敗、防御率5点台に終わる。
2006年は開幕は中継ぎでスタートするが、4月8日の中日戦で離脱した高橋尚成の代役として先発し、6回を無失点で初勝利。そのまま先発に定着。スライダーを習得して飛躍の年となり、初完投勝利・初完封勝利を記録するなど、チームトップの12勝(13敗)を記録。オールスターゲームや日米野球にも出場した。リーグ3位の奪三振を記録したが、リーグ最多の9暴投を記録した上、左打者に対する被打率が高いという課題を残した。
2007年3月30日の横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)で初の開幕投手を務め、勝利し、その後も安定した活躍を続け、9月19日の阪神タイガース戦では自己最多の13勝目を上げる。自身初タイトルとなる最多奪三振を獲得。中日と対戦したクライマックスシリーズでは初戦に先発。内海はこの年中日を得意としたが、タイロン・ウッズに2ランホームランを浴びるなど4回4失点(自責点2)で敗戦投手となった。チームはストレートの3連敗で日本シリーズ進出を逃した。シーズン終了後、チームがセス・グライシンガーを獲得したことについて、あるイベントで内海は「(補強する)お金があるなら投手陣に回して欲しい。僕ら3人(ローテーションを投げぬき2桁勝利を挙げた内海、高橋尚成、木佐貫洋)は精一杯やったし、他のみんなもそう」と、球団の相次ぐ補強に物申した。こうした補強に対する反発・苦言とも取れる発言が公になることは全球団でも異例で、この後に球団から厳重注意を受け、さらに公式サイトが予告なしに閉鎖された。内海は発言について反省し、球団批判はしないと述べた[5]。
2008年は春季キャンプ中に脇腹を痛め、オープン戦前半を欠場。開幕投手も高橋尚成に譲るが、ローテーションの軸として1年間活躍し、12勝8敗でシーズンを終了した。打線の援護に恵まれない一方でエラーから自滅する試合や、突然の連続四球で降板する試合も目立ち、与四球68はセ・リーグワーストを記録した。前年4勝1敗と得意としていた中日戦も0勝5敗と相性が悪く、苦しい1年となった。阪神タイガースには相性が良いため、終盤の直接対決で好投する場面も多く(最後の直接対決3試合全てに先発して勝利)、チームの優勝(メークレジェンド)に貢献した。ポストシーズンでは埼玉西武ライオンズとの日本シリーズ第3戦と第7戦に先発し、第3戦では5回3失点ながらも打線の援護に助けられ、勝利投手。第7戦も6回途中までヒラム・ボカチカの本塁打による1失点に抑えたが、第3戦に続き、四球を連発し途中降板。その後、リリーフした越智大祐が打ち込まれ逆転を許し、日本一を逃した。四球の多さに不安こそ残したものの、被本塁打は7本と両リーグの規定投球回到達者中、楽天の岩隈久志、阪神の岩田稔に次ぐ少なさを誇り、防御率はリーグ3位の2.73を記録した。
2009年は開幕前に第2回WBCの日本代表に選出された。3月20日(日本時間)の韓国戦に先発。頭部直撃の死球を出すなど制球に苦しみ、3回途中1失点で降板(勝敗付かず)。今大会ではこれが唯一の登板であった。レギュラーシーズンでは、5月4日の阪神タイガース戦での敗戦後に二軍落ちを経たが、その後再昇格してからは本来の投球スタイルを取り戻し、8月再度不調に陥ったが、9月は1完封勝利を含む4勝0敗、防御率1.16で自身初の月間MVPを受賞。最終的には前年に続いて2点台(リーグ7位)の防御率を残すが、前半戦4勝止まりだったことが響き、4年連続2桁勝利はならなかった。四球を減らすことが出来たものの、逆に被本塁打が激増し、奪三振が減ってしまった。チームはリーグ3連覇を達成し、CSファイナルステージは登板予定の試合の前に勝ち抜けが決まったことで登板はなかった。北海道日本ハムファイターズとの日本シリーズは第2戦に先発し、3回裏2死から5連打を浴び4失点で敗戦投手となったが、その後の第6戦では先発だった東野峻が、初回2死の場面で高橋信二の投直を右手の甲に受け降板した後に急遽マウンドに上がり、4回2/3を無失点に抑えて勝利投手となり、日本一に貢献した。
2010年は巨人選手会長に就任(2013年まで)。開幕前に決意表明として名球会参加資格のボーダーラインである200勝の達成と、背番号26を永久欠番にすると宣言。3月26日の東京ヤクルトスワローズ戦では自身二度目の開幕投手を務め、勝利投手となった。左脇腹痛で登録抹消されたが、再昇格直後に登板した5月9日の対横浜戦で、巨人の左腕投手としては前年の山口鉄也以来となる開幕5連勝を達成した(先発に限れば1971年の高橋一三、2002年・2007年の高橋尚成、2004年の工藤公康に次いで4人目)。6月18日は完封勝利で中日から3年ぶりの白星を挙げた。しかし、8月11日の試合で結果が残せず、原監督から中継ぎ降格を告げられる。翌日の試合で前日からの連投の形で中継ぎ登板し、1回を無失点に抑え、8月27日の中日ドラゴンズ戦で完投勝利し、8勝目。最終的に2年ぶりとなる2桁勝利(11勝)を挙げたが、早い段階で打ち込まれて降板する試合が目立ったことから、防御率が自己最低の4点台(4.38)と精彩を欠いた。尚、契約更改時に年俸ダウンを不服とし、一回目の更改時では保留したが最終的に2000万ダウンで更改した。
2011年は開幕投手を東野に奪われたが、春先から好調を維持。4月13日の対ヤクルト戦(北九州市民球場)でシーズン初勝利を挙げると、5月6日の対中日戦から6月18日の対西武戦まで7連勝した。この期間中、5月28日の対ロッテ戦(QVCマリンフィールド)で完封勝利、前述の西武戦では1失点完投勝利を挙げ、同年5月の月間MVP(月間MVP受賞は自身2度目)と交流戦優秀選手をそれぞれ受賞した。その後も新たに習得したフォークを武器に安定した投球を続け、前年の不調を断ち切るエース級の働きをみせ、7月19日の対中日戦(HARD OFF ECO スタジアム 新潟)でセリーグ投手最速で10勝目に到達。9月25日の対阪神戦(甲子園)では自己新記録となる15勝目を挙げた。巨人の左腕投手の15勝到達は1979年の新浦寿夫以来、32年ぶりであった。最終戦となった10月22日の対横浜戦では、長野久義の代打逆転サヨナラ満塁本塁打で18勝目をあげ[6]吉見一起(中日)とともに、巨人の左腕投手としては1969年の高橋一三以来42年ぶりとなる最多勝を獲得[7]。防御率も自己最高となる1.70の好成績を残した。
2012年は2年ぶりの開幕投手となった開幕戦、ヤクルトと対戦し6回3失点で降板し、黒星スタートとなった。4月12日の対中日戦で史上130人目の1000奪三振を達成し、シーズン初勝利を挙げた。シーズン序盤はやや安定感を欠いたが、交流戦では4勝0敗、防御率1.29の成績でチームをセ・リーグ球団初の優勝に貢献し、MVPを獲得。さらに7月16日の阪神戦(甲子園)からレギュラーシーズン最終登板の10月5日の横浜DeNAベイスターズ戦(東京ドーム)まで8連勝を記録。先発陣の中でただ1人ローテーションを守りきり、巨人では斎藤雅樹(1995年~1996年)以来、巨人の左腕投手では史上初となる2年連続で最多勝を獲得した。防御率は2年連続で1点台ながら、またも防御率タイトルは獲得できず(プロ野球史上では村山実の1965~1966年以来46年ぶりの珍事)。中日とのクライマックスシリーズ第1戦に先発するも6回2失点で負け投手になり、第5戦では5回途中にトニ・ブランコに2点本塁打を打たれ同点とされたところで降板。日本シリーズでは、第1戦目に7回を投げ無失点、第5戦目にも先発し、8回2失点と好投した。その好成績で、同年のセ・パ交流戦に続いて日本シリーズでもMVPに選出された。12月4日に第3回WBC日本代表候補選手34人が発表され[8]候補入りした[9]。また契約更改では年俸4億円で4年契約を結んだ[10]。
2013年2月20日に、第3回WBC日本代表選手28人が発表され[11]代表入りした[12][13][14]。本戦では、2試合に中継ぎで登板し、2回1/3を投げて被安打2・自責点4点・防御率15.43だった。レギュラーシーズンが始まると前半戦も長打を喰らう場面が目立ち、6月16日の福岡ソフトバンクホークス戦で完投勝利してプロ通算100勝を達成したが、前の4試合で計20失点して99勝で足踏みしていた。8月6日の対DeNA戦で通算1500投球回達成[15]。後半戦は調子を取り戻し4年連続の2桁勝利を達成したが、前半戦の不調が響いて3年連続の最多勝は逃し防御率も1点以上悪化、ローテーションに定着した2006年以降で最小の1完投、2005年以来8年ぶりの0完封となった。クライマックスシリーズではファイナルステージ第1戦に登板するも4回2失点で降板した。日本シリーズでは第1戦と第5戦に先発し、第7戦には中継ぎ登板した。
2014年は好投しながらも勝ち星がつかないなど不運もあり開幕から9試合勝ち星がつかず、5月29日の楽天戦でようやく初白星を挙げた。6月には左肩の違和感で先発を急きょ回避して抹消されるなど7月までわずか1勝にとどまる。8月以降ようやく復調し、後半戦は8月と9月で計6勝をマークするなど活躍した。9月26日のDeNA戦では優勝を決める試合で先発し、8回途中まで投げる粘りを見せる。規定投球回への到達は危ぶまれていたが、それでも100奪三振は達成し、防御率は昨季よりも改善した。にもかかわらず、シーズン全体では7勝9敗に終わり、連続2桁勝利も4年で途絶えた。阪神とのクライマックスシリーズでは開幕投手を任されたが、初回にマウロ・ゴメスの2ラン本塁打などで3点を先制され、7回途中4失点で敗戦投手となった[16]。チームもCS史上初の4連敗で敗退した。
2015年はオープン戦で左前腕部を故障し、開幕二軍スタートとなった。6月5日のソフトバンク戦で先発し、4回途中5失点と打ち込まれ、試合後に再びの二軍落ちが決まった[17]。その後杉内が抹消されたことに伴い、7月29日に一軍登録された[18]。DeNA戦(京セラドーム大阪)に先発し、6回まで2失点と好投したが7回に走者をためると足をつりこの回途中で降板した。後を受けたスコット・マシソンが梶谷隆幸に同点適時打を浴び、勝利投手になれなかった。この試合で足にトラブルが起きたことで、再び登録抹消となった[19]。8月12日に再度一軍登録され、その日のDeNA戦(東京ドーム)で先発すると、立ち上がりは良好であったが4回に崩れ始めた。結局は5回2/3を投げて4失点の内容ではあったが、打線の援護とリリーフ陣の粘投があってチームは接戦を制し、内海は今季の初勝利を挙げた[20]。10月4日、出場選手登録が公示された[21]。その日のシーズン最終戦でもあるヤクルト戦で2勝目を挙げたが、1年目を除いて一軍定着した05年以降では最低の成績に終わった。クライマックスシリーズではファーストステージ第1戦に中継ぎとしてベンチ入りしたが第2戦、第3戦はベンチを外れた。そしてチームは2勝1敗で阪神を下しファイナルステージへ進出。そのファイナルステージ第1戦で先発を任された。内海がファイナルステージ初戦の先発を任されたのは2012年から4年連続となった。3回まで無失点で4回に畠山和洋に先制のソロホームランを許したが、チームはその後すぐに逆転に成功。5回に2アウトをとって交代となり、5安打3四球で4回2/3を1失点も勝利投手権利目前での交代だったためまたもファイナルステージでの勝ち投手はお預けとなった。その後はリリーフ陣が無失点で押さえ、チームは勝利した。だが翌日から3連敗で日本シリーズ進出を逃した。
2016年は前半はオープン戦での不振や故障で1軍登板できず、中盤から先発へ復帰。全盛期のような球威はなかったが、緩急を使い、コーナーを丁寧に突く投球術と牽制・クイックなどの技術を駆使して順調に白星を重ね、9月30日の阪神タイガース戦最終登板では、8回無失点で勝利投手権利を持ち降板したがリリーフの澤村が2失点し逆転負け、10勝には届かなかった。2年ぶりに100回を投げるも規定投球回にも届かず完全復活とはならなかったが、中盤から復帰したにもかかわらず、前年・前々年を上回る9勝を挙げた。CSファーストステージ対DeNA第3戦に先発するが2回途中3失点で降板、延長の末にチームは敗退した。
2017年は、シーズン当初はローテーション入りし、初登板のDeNA戦では自らタイムリーを打つなどして白星を挙げたものの、徐々に調子を崩し、また他の先発投手との兼ね合いもあり、登板と登録抹消を繰り返しながらシーズンを過ごしたものの、2勝7敗、防御率も5点台後半に終わった。契約更改では2年連続の減額制限越えとなる50%ダウンの1億円で契約を更改した。
2018年は2年ぶりに開幕二軍スタートとなったが5月30日に一軍登録された。7月31日のDeNA戦で自身4年ぶりの完封勝利を挙げた[22]。最終成績は15試合に登板し、5勝5敗、防御率4.17だった。
12月20日、国内FAを宣言をした埼玉西武ライオンズの炭谷銀仁朗を巨人が獲得したことによる人的補償として、西武への移籍が巨人球団から発表された[23]。12月21日、NPBから公示される[24]。巨人の開幕投手経験者がFA移籍に関わる人的補償で他球団に移籍することは球団史上初のことであった。
西武時代[編集]
2018年12月21日、埼玉県所沢市の西武球団事務所で入団会見[25]。背番号は巨人へ移籍した炭谷が着用していた27番を「いろいろ候補はあったんですが、1つでも上に行くという思いを込めて、(炭谷)銀仁朗君の後になりますが、26番より先に行くという気持ちで」自ら希望して27を選択した[26]。
選手としての特徴[編集]
スリークォーターから投げる平均球速約139km/h[27]、最速148km/hのストレートとツーシーム、スライダー(スラーブ)、スクリュー(チェンジアップ)、カットボールなど多彩な変化球を決め球に投球を組み立てる[28]。加えて2011年シーズン開幕前にフォークボールの習得に挑戦している[29]。
スクリューは2012年までチェンジアップと呼ばれていたが、「最近、チェンジアップがわがまま顔になってきて、スクリューっていう言葉が絶滅しつつある。ぼくはこれからスクリューでいきたい」としてスクリューと呼ぶように求めた[30]。
2008年には突然四球を連発する事も見られたため「突発性四球病」と言われたものの[31]、2009年以降は改善された[要出典]。また、2010年オフより体幹強化や関節の可動域拡大に効果のあるとされるPNF(固有受容性神経筋促通法)トレーニングと呼ばれる調整法を導入した[32]。
クイックモーションは平均1.1秒台を記録し、左投手であることもあって牽制も非常に上手い。2012年の被盗塁企図数は1つのみである[33]。
高校時代はクリーンナップを打っており、プロ入り後も2006年には打率.214を記録するなど、投手としては打撃にも長けている。その反面、バントは苦手としている[34]。
人物[編集]
積極的にファンサービスを行っており、練習後には100人以上のファンにサインや写真撮影を行うこともある。試合で使用するグローブに「家族」と刺繍を入れている。あえて名前を入れずに「家族」と入れたのは、「家族を守っていく」「家族からも支えてもらいたい」と言う意味からで、家族には親も含まれているという。自身も2007年、25歳の時に一般女性と結婚し、4児(3男1女)の父親である[35]。
プロ入り後から仕送りを欠かしたことがなく、その額は年俸の半分になることもあった。これについて、内海の母は「うちは母子家庭。3人の息子がいて、末っ子の三男は大学に通っているんですが、お兄ちゃん(内海)は、その学費のことまで『心配するな』と言ってくれているんです。私が言うのもなんなんですが、本当に気持ちの優しい子なんです」と語った。03年のドラフトで巨人入りした直後、契約金で実家のある京都に2階建て5LDKの一軒家をプレゼントした。内海は「ボクは一家の大黒柱だし、母と弟2人を養っていかなきゃならない。ずっと野球を続けてこれたのも、女手一つで育ててくれた、おかんのおかげですからね」と語っている[36]。
移動中や遠征先では漫画をよく読んでおり、少年期はドラゴンボールやSLAM DUNKを読んで育った世代[37]。
オフに施設訪問を毎年行っており、2008年から奪三振の数だけランドセルを寄付を行っていて[38]、2012年時点で655個のランドセルを寄付している[39]。2013年から寄付するランドセルの個数を、奪三振数より値の大きい投球回数分に変更した。また球団の公式通販サイトとオフィシャルストアで発売される「ジャイアンツオリジナルランドセル」(4万7250円)を届けることを発表した[40]。2014年は、144の寄付をしたことが公表された。2015年は128個を寄付したことが公表された[41]。また2014年からは東日本大震災被災地の児童養護施設への支援も行っており、それらの活動が評価され2016年にゴールデンスピリット賞を受賞した[42]。
エピソード[編集]
自身が中継ぎのころ、毎試合後にブルペンのゴミを拾い、きれいに片付けてから引き揚げていた。スタッフは「初めて見たとき、感動した。後にも先にも彼だけ」と語った[43]。
2005年、監督の堀内恒夫は二軍で投げていた内海の才能を見抜き、先発ローテーションの一角として登板させている[44]。結果は4勝9敗、防御率5点台だったものの、堀内が去った翌年は二桁勝利を挙げる活躍を見せ、以後はチームのエースピッチャーへと成長した。内海自身も「今の自分があるのは勝てなくても堀内さんが使ってくれたおかげです」と堀内に感謝している[45]。
自らが台頭した2006年から2015年まで監督を務めた原辰徳には「ニセ侍」、「突発性四球病」と呼ばれもしたが、実はその裏では「お前が必要なんだ」といつも励まして使い続けてくれたという。様々な環境の中、押しつぶされそうだった内海を温かく見守ってくれた原の恩には、必ず「日本一」で報いたいと語っている[46]。
チームメイトの山口鉄也とは仲が良く、山口は2012年に日本一を達成した際に「はじめて会った時から、内海さんは何も変わっていない。育成で入った僕を見下さなかった。最初から気さくに声をかけてくれた。何かがある時は必ず相談する。結婚も最初に報告しましたし、公私関係なくです。なぜかと言われればわからないんだけど、人柄、なんでしょうね」と語っている。2015年からチームキャプテンを務める坂本勇人とも、年こそ離れてはいるが公私ともに仲が良く、坂本は「もし自分が女性だったら、内海さんと付き合いたい」と語っている[47]。
2012年巨人に在籍した中谷仁は、内海を選手としてだけでなく、ひとりの人間として尊敬していると語る。2012年、中谷は古巣楽天との試合で、アーリーワーク(早出練習)をしていた。すると楽天の関係者があいさつに来て、「お前はウチに残ってほしかったんだよ。でもいいな、ジャイアンツのユニフォームを着て」と言われたという。そのやり取りを聞いていた内海が少しムキになって中谷に「(中谷)仁さん、ありえないですね。普通ね、チームに残ってほしいと思うんだったら残すでしょう。社交辞令とはいえ、あれはないです。見返してやりましょう」と熱い言葉をかけたという。中谷は巨人に移籍して数カ月しか経っていなかったが、そうした内海の言葉に感激したという。中谷は翌年引退したが、「私が裏方になっても、接し方は何も変わらなかった。人として尊敬できる意識、考え方を持った選手です。私が巨人を辞める時、いろんなことを察してくれたのでしょうね。内海は多くを語らず、『仁さん、巨人に残ってくださいね』とだけ言ってくれた。それだけで私は嬉しかった。選手としてだけでなく、ひとりの人間として尊敬しています。頑張れ、内海!」とエールを送った[48]。
2014年に戦力外となった井野卓と加治前竜一の自主トレに飛び入り参加し、約30分間、打撃投手を務めた。シーズンを終えたばかりのベテランが投球練習をする時期ではなく、秋季キャンプも打ち上げ、オフの時期であり、加えて本来は別の場所で練習予定だったが、2人との合同練習を優先した。「同じチームだったし、力になりたくて。少しでも実戦感覚を積んでほしいというか、感覚を研ぎ澄ませて合格への足しになれば。何とか頑張って欲しいし」と語り、1球、1球を丁寧に投げ込んだ。この粋な計らいに、加治前は「何億ももらっている人が戦力外の俺たちに投げてくれる。すごいよ」。井野は「涙腺弱ってきたのかな」と目元を赤くした[43]。その後、井野は東京ヤクルトスワローズに入団し、加治前は社会人野球の三菱重工長崎に所属した。
詳細情報[編集]
年度別投手成績[編集]
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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2004 | 巨人 | 3 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 60 | 14.0 | 14 | 1 | 4 | 0 | 0 | 13 | 0 | 0 | 8 | 8 | 5.14 | 1.29 |
2005 | 26 | 19 | 0 | 0 | 0 | 4 | 9 | 0 | 1 | .308 | 507 | 114.1 | 138 | 18 | 31 | 0 | 4 | 76 | 5 | 0 | 74 | 64 | 5.04 | 1.48 | |
2006 | 31 | 28 | 6 | 2 | 0 | 12 | 13 | 0 | 1 | .480 | 795 | 194.0 | 163 | 13 | 52 | 3 | 7 | 179 | 9 | 0 | 69 | 60 | 2.78 | 1.11 | |
2007 | 28 | 28 | 2 | 1 | 0 | 14 | 7 | 0 | 0 | .667 | 780 | 187.2 | 183 | 16 | 48 | 2 | 11 | 180 | 5 | 0 | 66 | 63 | 3.02 | 1.23 | |
2008 | 29 | 29 | 2 | 1 | 2 | 12 | 8 | 0 | 0 | .600 | 772 | 184.1 | 166 | 7 | 68 | 3 | 7 | 154 | 3 | 0 | 71 | 56 | 2.73 | 1.27 | |
2009 | 27 | 27 | 5 | 1 | 3 | 9 | 11 | 0 | 0 | .450 | 730 | 179.2 | 161 | 23 | 36 | 0 | 4 | 115 | 3 | 0 | 66 | 59 | 2.96 | 1.10 | |
2010 | 27 | 26 | 2 | 1 | 1 | 11 | 8 | 0 | 0 | .579 | 636 | 148.0 | 168 | 14 | 32 | 3 | 4 | 121 | 1 | 0 | 84 | 72 | 4.38 | 1.35 | |
2011 | 28 | 26 | 4 | 1 | 0 | 18 | 5 | 0 | 0 | .783 | 751 | 185.2 | 153 | 13 | 47 | 2 | 7 | 144 | 4 | 0 | 42 | 35 | 1.70 | 1.08 | |
2012 | 28 | 28 | 3 | 2 | 0 | 15 | 6 | 0 | 0 | .714 | 757 | 186.0 | 173 | 8 | 40 | 1 | 9 | 121 | 8 | 0 | 47 | 41 | 1.98 | 1.15 | |
2013 | 25 | 25 | 1 | 0 | 0 | 13 | 6 | 0 | 0 | .684 | 675 | 160.1 | 157 | 11 | 47 | 1 | 6 | 107 | 2 | 0 | 68 | 59 | 3.31 | 1.27 | |
2014 | 22 | 22 | 2 | 2 | 2 | 7 | 9 | 0 | 0 | .438 | 603 | 144.2 | 139 | 11 | 36 | 1 | 5 | 105 | 5 | 0 | 51 | 51 | 3.17 | 1.21 | |
2015 | 5 | 5 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | 0 | .667 | 104 | 23.1 | 30 | 4 | 6 | 0 | 0 | 10 | 1 | 0 | 15 | 13 | 5.01 | 1.54 | |
2016 | 18 | 18 | 0 | 0 | 0 | 9 | 6 | 0 | 0 | .600 | 442 | 107.1 | 104 | 10 | 22 | 0 | 5 | 81 | 2 | 0 | 47 | 47 | 3.94 | 1.17 | |
2017 | 12 | 12 | 0 | 0 | 0 | 2 | 7 | 0 | 0 | .222 | 258 | 57.2 | 66 | 10 | 18 | 0 | 3 | 34 | 3 | 1 | 37 | 37 | 5.77 | 1.46 | |
2018 | 15 | 14 | 1 | 1 | 0 | 5 | 5 | 0 | 0 | .500 | 358 | 82.0 | 95 | 11 | 19 | 2 | 3 | 56 | 3 | 0 | 38 | 38 | 4.17 | 1.39 | |
NPB:15年 | 324 | 309 | 28 | 12 | 8 | 133 | 101 | 0 | 2 | .568 | 8228 | 1969.0 | 1910 | 170 | 506 | 18 | 75 | 1496 | 54 | 1 | 783 | 703 | 3.21 | 1.23 |
- 2018年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別守備成績[編集]
年 度 |
球 団 |
投手 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 | ||
2004 | 巨人 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | .--- |
2005 | 26 | 4 | 23 | 0 | 2 | 1.000 | |
2006 | 31 | 5 | 32 | 4 | 0 | .902 | |
2007 | 28 | 7 | 40 | 0 | 3 | 1.000 | |
2008 | 29 | 12 | 29 | 1 | 3 | .976 | |
2009 | 27 | 8 | 23 | 1 | 1 | .969 | |
2010 | 27 | 6 | 32 | 1 | 0 | .974 | |
2011 | 28 | 8 | 44 | 1 | 2 | .981 | |
2012 | 28 | 8 | 52 | 2 | 6 | .968 | |
2013 | 25 | 6 | 41 | 2 | 1 | .959 | |
2014 | 22 | 9 | 27 | 0 | 2 | 1.000 | |
2015 | 5 | 1 | 6 | 0 | 1 | 1.000 | |
2016 | 18 | 5 | 16 | 1 | 0 | .955 | |
2017 | 12 | 2 | 10 | 0 | 0 | 1.000 | |
2018 | 15 | 1 | 10 | 0 | 0 | 1.000 | |
通算 | 324 | 82 | 385 | 13 | 21 | .973 |
- 2018年度シーズン終了時
タイトル[編集]
表彰[編集]
- 最優秀JCB・MEP賞:1回 (2007年)
- 優秀JCB・MEP賞:1回 (2006年)
- 月間MVP:2回 (2009年9月、2011年5月)
- ベストナイン:1回(2012年)
- JA全農Go・Go賞:1回 (最多奪三振賞:2006年5月)
- セ・パ交流戦優秀選手賞(日本生命賞):1回 (2011年)
- セ・パ交流戦MVP:1回 (2012年)
- 最優秀バッテリー賞:1回 (2012年、捕手:阿部慎之助)
- 日本シリーズMVP:1回 (2012年)
- 日本シリーズ特別賞 - プロ野球スピリッツ賞:1回(2012年)
- 日本シリーズ優秀選手賞:1回(2013年)
- オールスターゲーム新人賞(2006年)
- ゴールデンスピリット賞:1回(2016年)
- ヤナセ・ジャイアンツMVP賞:1回 (2011年)[49]
記録[編集]
- 投手記録
- 初登板:2004年5月25日、対広島東洋カープ10回戦(サンマリンスタジアム宮崎)、9回表に3番手で救援登板・完了、1回3失点
- 初奪三振:同上、9回表に栗原健太から空振り三振
- 初先発:2004年9月26日、対阪神タイガース27回戦(東京ドーム)、7回0/3を4失点
- 初勝利・初先発勝利:2005年4月9日、対中日ドラゴンズ2回戦(東京ドーム)、6回1失点
- 初ホールド:2005年10月4日、対広島東洋カープ21回戦(東京ドーム)、7回表2死に3番手で救援登板、1/3回無失点
- 初完投勝利:2006年4月15日、対横浜ベイスターズ5回戦(横浜スタジアム)、9回1失点
- 初完封勝利:2006年7月2日、対阪神タイガース9回戦(東京ドーム)
- 打撃記録
- 初安打:2005年5月11日、対オリックス・バファローズ2回戦(東京ドーム)、7回裏にJPから中前安打
- 初打点:2006年5月6日、対東京ヤクルトスワローズ7回戦(東京ドーム)、6回裏に高津臣吾から中前適時打
- 節目の記録
- 1000投球回:2010年9月15日、対東京ヤクルトスワローズ21回戦(明治神宮野球場)、3回裏1死目に由規を三ゴロ(送りバント失敗)で達成 ※史上323人目
- 1000奪三振:2012年4月12日、対中日ドラゴンズ3回戦(東京ドーム)、8回表にトニ・ブランコから空振り三振 ※史上130人目
- 100勝:2013年6月16日、対福岡ソフトバンクホークス4回戦(福岡 ヤフオク!ドーム)、9回3失点完投勝 ※史上131人目
- 1500投球回:2013年8月6日、対横浜DeNAベイスターズ12回戦(郡山総合運動場開成山野球場)、5回裏1死目に三浦大輔を三振で達成 ※史上167人目
- 100敗:2018年8月28日、対広島東洋カープ 20回戦(東京ドーム)、2回2/3 8失点 ※史上119人目
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:5回 (2006年、2007年、2010年 - 2012年)
登場曲[編集]
- 「Hardball」Lil Bow Wow, Lil Wayne, Lil Zane & Sammie(2005年)
- 「JONAN音頭」GICODE(2005年 - 2006年、2010年)
- 「Carlito (Who's That Boy?)」Carlito(2006年 - 2008年)
- 「Eye Of The Tiger」Survivor(2007年)
- 「カーニバル」ケツメイシ(2009年)
- 「Fighters Anthem Special ver. Giants Anthem」Zeebra(2011年 - 2012年)
- 「Switch On!」土屋アンナ(2012年)
- 「Climax Jump DEN-LINER form」仮面ライダー電王OPテーマ(2012年)
- 「Gangnam Style」PSY(2012年)
- 「Life is SHOW TIME」鬼龍院翔 from ゴールデンボンバー(2013年)
- 「JUST LIVE MORE」鎧武乃風(2014年)
- 「SURPRISE-DRIVE」Mitsuru Matsuoka EARNEST DRIVE(2015年)
- 「PRIDE」高梨康治(2016年)
- 「Nobody can catch up with No.26」Hironari Tatsumi(2017年)
- 「Show us miracle」Hironari Tatsumi(2018年)
背番号[編集]
- 26 (2004年 - 2018年)
- 27 (2019年 - )
代表歴[編集]
テレビ出演[編集]
- 中井正広のブラックバラエティ(日本テレビ、2009年01月11日、2012年07月01日、2012年07月08日、2012年11月11日、2012年12月02日)
- 関口宏の東京フレンドパークII(TBS、2009年12月17日、2011年1月10日)
- 中居正広の7番勝負!超一流アスリートVS芸能人どっちが勝つの?SP(日本テレビ、2010年12月25日)
- 中居正広のプロ野球魂(テレビ朝日、2010年12月29日)
- もしもドラフト会議(テレビ東京、2011年12月31日)
- バース・デイ(TBS、2012年12月1日)
- 世界まる見え!テレビ特捜部(日本テレビ、2012年12月10日)
- お試しかっ!(テレビ朝日、2012年12月24日)
- 元旦スポーツ祭り!2013年にかけるアスリートたち(TBS、2013年1月1日)
- 炎の体育会TV(TBS系)
- 2013年1月1日-阿部慎之助、坂本勇人、澤村拓一、山口鉄也、長野久義と共に出演し、ストラックアウトに挑戦した。
- 2014年1月1日- 阿部慎之助、西村健太朗、山口鉄也、菅野智之、澤村拓一と共に出演し、ストラックアウトに挑戦した。
- 2013年1月17日、杉内俊哉、山口鉄也、宮国椋丞、坂本勇人、長野久義と共に出演し、嵐チームに655点の大差をつけて、番組史上最高得点の1500点を記録して圧勝した。
- 2014年1月30日、村田修一、亀井善行、寺内崇幸、長野久義、菅野智之と共に出演し、嵐チームに勝利した。
- neo sports(テレビ東京系)、2013年2月10日-杉内俊哉、山口鉄也、澤村拓一、菅野智之と共に出演し、鍋パーティーの様子が放送された。
- しゃべくり007(日本テレビ )2013年12月2日-阿部慎之助、村田修一、長野久義と共に出演。
- ネプリーグ(フジテレビ)2013年12月16日-阿部慎之助、村田修一、山口鉄也、菅野智之と出演。
- ジャンクスポーツ(フジテレビ)
- 情熱大陸(毎日放送、2014年3月30日)-オフから、開幕直後までの姿が描かれた。
- ジョブチューン アノ職業のヒミツぶっちゃけます!(TBS系、2015年1月10日)
脚注[編集]
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 『プロ野球カラー名鑑 2008』ベースボール・マガジン社、2008年、13頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 978-4-583-61526-4。
- ↑ 巨人 - 契約更改 - プロ野球.日刊スポーツ.2018年11月21日閲覧。
- ↑ この年は逆指名によって1位・阿部慎之助、2位・上野裕平と既に決まっていた。
- ↑ 【12月3日】2000年(平12) 破格の提示にもやっぱり…内海哲也、オリックス入り拒否[リンク切れ]スポニチアネックス
- ↑ 巨人内海、際どい発言封印し沢村賞狙う 「チームの補強はもう言いません、怒られたんで」SANSPO.COM 2007年12月24日[リンク切れ]
- ↑ 長野サヨナラ弾 内海18勝[リンク切れ] asahi.com 2011年10月23日
- ↑ 内海18勝で最多勝 長野サヨナラ弾に涙日刊スポーツ 2011年10月23日
- ↑ 2013WBC日本代表候補選手発表 日本野球機構 (2012年12月4日) 2015年4月3日閲覧
- ↑ 2013 WORLD BASEBALL CLASSIC 日本代表候補選手 日本野球機構 (2012年12月4日) 2015年4月3日閲覧
- ↑ 内海「大満足」4年16億“生涯巨人”契約日刊スポーツ、2012年12月26日
- ↑ 2013WBC日本代表28選手の発表 日本野球機構オフィシャルサイト (2013年2月20日) 2015年4月2日閲覧
- ↑ 2013 Tournament Roster[リンク切れ] WBC公式サイト 英語 2015年4月2日閲覧
- ↑ 2013 WORLD BASEBALL CLASSIC 日本代表メンバー 日本野球機構オフィシャルサイト (2013年2月20日) 2015年4月2日閲覧
- ↑ WBC日本代表 最終メンバーにG戦士7選手 読売巨人軍公式サイト
- ↑ 内海 通算1500投球回達成、プロ野球167人目スポーツニッポン2013年8月6日配信
- ↑ 内海7回途中4失点「本当に情けない」nikkansports.com2014年10月15日21時1分
- ↑ G内海、故障から復帰で今季初登板も足つり降板&2軍降格[リンク切れ] デイリースポーツ2015年6月5日19時38分配信
- ↑ 巨人が内海を1軍登録、相川を抹消 日刊スはほポーツ
- ↑ 巨人・内海、登録抹消へ…原監督「彼の次の役割は早く治すこと」SANSPO.COM
- ↑ 巨人内海今季初勝利「しゃべると泣いちゃいそう」日刊スポーツ 2015年8月13日0時39分
- ↑ 4日の公示 巨人が大竹を抹消、内海を登録 | Full-count | フルカウント 野球・MLBの総合コラムサイト―
- ↑ 巨人・内海 おっさんず完封 36歳以上は工藤以来球団15年ぶり「もうできないと」スポニチ 2018年8月1日掲載
- ↑ 内海哲也投手の移籍について - 読売巨人軍 GIANTS NEWS、2018年12月20日
- ↑ トレード 2018年度公示 2018年度シーズン終了後 ~ - 日本野球機構 公示
- ↑ 内海哲也投手 入団会見 - 埼玉西武ライオンズ 2018年12月21日
- ↑ 西武内海 背番27「1つでも上に行くという思い」 - 日刊スポーツ、2018年12月21日、12時24分。
- ↑ 『2011プロ野球オール写真選手名鑑』日本スポーツ企画出版社、2011年、183頁。ISBN 978-4-930942-98-2。
- ↑ 交流戦負けなしの内海、元同僚が感じた変化[リンク切れ] サンケイスポーツ 2011年6月19日
- ↑ “内海 フォーク習得で投球の幅広げる!”. スポーツニッポン (2011年1月6日). 2011年11月4日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2016年12月1日閲覧。
- ↑ 【巨人】内海「スクリュー」と呼んで日刊スポーツ、2012年9月24日
- ↑ “内海 “突発性四球病”改善で大一番へ”. Sponichi Annex (2008年10月2日). 2016年3月4日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2017年1月26日閲覧。
- ↑ “内海 久保流PNFトレの効果早くも実感”. Sponichi Annex (2012年12月20日). 2011年4月5日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2017年1月26日閲覧。
- ↑ 内海 盗塁ゼロの誓い WBCへ「土台はできた。今度は技術」スポニチ、2013年1月21日
- ↑ 極意を教わりましたよ」バントが苦手の巨人・内海に小坂が助言 スポーツ報知 2008年10月18日
- ↑ 巨人・内海に第4子となる長女が誕生サンスポ2013年12月13日
- ↑ 日刊ゲンダイ2007年4月14日「ヒーロークローズアップ」
- ↑ 週刊少年ジャンプ2013年12号のインタビューより出典
- ↑ 【巨人】内海来季はランドセル200個だ日刊スポーツ 2011年12月14日
- ↑ 【巨人】内海655個目のランドセル寄贈日刊スポーツ 2012年11月24日
- ↑ 内海も太鼓判!巨人印ランドセル 23日発売スポニチ、2013年7月22日
- ↑ [1][リンク切れ]
- ↑ “2016年ゴールデンスピリット賞”. スポーツ報知. (2016年11月1日) 2016年12月1日閲覧。
- ↑ 43.0 43.1 [2]
- ↑ 週刊ベースボール 2012年5月28日号
- ↑ 雑誌「NUMBER」2009年6月21日号
- ↑ [4][リンク切れ]
- ↑ 巨人の秘密。内海哲也の統率力が投手陣を蘇らせる|プロ野球|集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva
- ↑ “ヤナセ・プロ野球MVP賞、2011年度は3球団の投手が受賞”. レスポンス. (2011年12月27日) 2018年2月28日閲覧。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 個人年度別成績 内海哲也 - NPB.jp 日本野球機構スクリプトエラー: モジュール「WikidataCheck」はありません。
テンプレート:ゴールデンスピリット賞
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スクリプトエラー: モジュール「navbox/former」はありません。 スクリプトエラー: モジュール「navbox/former」はありません。 |
テンプレート:読売ジャイアンツ2003年ドラフト指名選手 テンプレート:オリックス・ブルーウェーブ2000年ドラフト指名選手 |
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