埼玉県
埼玉県(さいたまけん)は、日本の関東地方に位置する県。県庁所在地はさいたま市。
概要[編集]
首都圏を構成し、都道府県別の人口は東京都、神奈川県、大阪府、愛知県に次ぐ全国第5位。人口密度は東京都、大阪府、神奈川県に次ぐ第4位である。県の財政力指数は全国第4位。令制国の武蔵国の一部に相当する。面積は第39位で、可住地面積比率は第3位の規模である。村は、東秩父村の1村のみである。
県域は旧国名の武蔵国の北部であり、関東地方では神奈川県以外の1都4県に接する。また、中部地方では長野県、山梨県にも接する。隣に接する県の数は、長野県に次ぐ2位。日本で8つある内陸県の一つ。貿易港や臨海工業地帯を有さないものの、人口は約735万人と全国5位であり、その多くは県南東部に集中している。2015年に総務省が調査した昼夜間人口比率では、88.5%と昼間の人口流出が全国1位であり、ベッドタウンとしての性質が強い。農業産出額は第18位(2015年)であるが、北部には近郊農業が盛んな地域もあり、ネギやホウレンソウ、ブロッコリーなど産出額が全国3位以内に入る農作物もある。また、面積に占める河川の割合が多く、水の都と呼ばれる大阪府を抜き、全国47都道府県で最大の約3.9%となっている。
県西部の秩父地域は山地や丘陵であるが、それ以外の地域は関東平野の一部を成す平地となっている。東京に隣接する東南部は人口が密集し、東京から放射状に伸びた交通網に沿って首都のベッドタウンが形成されている。北部には豊かな農地が広がる。
県庁所在地であるさいたま市は内陸県にある最大の都市であり、内陸県唯一の政令指定都市でもある。北海道地方、東北地方、北関東地方、信越地方、北陸地方に至る陸路の高速交通網は本県を通っている。なかでも、新幹線など上記各地方からの主要鉄道網に関しては必ず本県の「大宮駅」を通過することから、大宮駅は本県の中心駅として認知されているだけではなく、その規模の大きさゆえに全国的にも巨大ターミナル駅として知られ、大宮エリアは「鉄道の町」との異名のもと多くの人々が行き交い、内陸部であるにもかかわらず活気ある街並みが形成されている。
名称[編集]
明治維新の1869年(明治2年)1月28日、廃藩置県によって大宮県が設置されたが、県庁は暫定的に東京府馬喰町四丁目に置かれた。8か月後の同年9月には浦和県に改称し、さらに岩槻県、忍県と統合してできた旧埼玉県(現在の埼玉県の東側約3分の1)の設置当初、県庁が埼玉郡岩槻町(現:さいたま市岩槻区)に置かれる予定であったため、その郡名から埼玉県と名付けられた。しかし、岩槻には県庁に適した建物が無く、県庁業務は足立郡浦和宿(現:さいたま市浦和区)の旧浦和県庁舎で行われた。一方、現在の埼玉県の西側約3分の2に当たる地域は入間県となり、その後、群馬県と合併して熊谷県となるも僅か3年で熊谷県は解消され、旧入間県地域は旧埼玉県と合併して現在の埼玉県が誕生した。その際に、埼玉県の名称のまま県庁所在地も浦和宿となったため、岩槻町が実質的な県庁として機能することはなかった。1890年(明治23年)9月25日には、勅令により正式に北足立郡浦和町が県庁所在地となった。
「埼玉」の地名の発祥地は「埼玉郡村」(現:行田市大字埼玉)である。その名称の由来は諸説あるが、埼玉古墳群が由来とする説や、幸福をもたらす神の働きを意味する「」から名づけられたとする説がある。奈良時代の『万葉集』に「前玉」「佐吉多万」(さきたま)という記述があり、また、平安時代の『和名類聚抄』に「埼玉」「佐伊太末」(さいたま)という郡名がみられ、その当時既に「さいたま」と呼ばれていることがわかる。大観的に「さきたま」「さいたま」どちらの発音も同義として解釈されるが、「さきたま」の方が古い語である。これは日本語発音上でのイ音便と呼ばれる変遷の一例で、大分(碩田:おおきた→おおいた)、置賜(おきたま→おいたま)なども同様の例である。
地理[編集]
旧律令国においては、現在の埼玉県の領域は大部分が武蔵国に含まれており、東端部の江戸川沿いの一部地域が下総国に含まれていた。武蔵国には東京都、および神奈川県の北東部も含まれることから、埼玉県は武蔵国の中部・北部にあたると言える。
埼玉県の形状は東西約103km、南北約52kmと東西方向に長い。日本の都道府県中面積が9番目に狭いが、最も狭い都道府県である香川県の約2倍の面積を有する。また周囲は7都県と隣接し、長野県の8県に次いで多い。
県の東側では江戸川を境に千葉県に接し、北東側には茨城県・栃木県ともわずかに接する。北側および北西側はおおむね利根川、神流川(利根川の支流)といった河川、および荒川・神流川の分水嶺を境として群馬県に接している。南側はほぼ東西に真っ直ぐに東京都・山梨県と接している。この南境は、西部では荒川と多摩川あるいは笛吹川の分水嶺にあたるが、東部では一部が荒川となっている他は河川や分水嶺などの地形に見いだすことは難しい。
埼玉県の地形は、児玉・小川・飯能を走る八王子構造線によって、その東側の平地部と西側の山岳部に分けられる。東側の平地部は古来利根川や荒川、入間川などの流域であり、低地や台地(北武蔵台地、武蔵野台地、大宮台地など)が広がるほか、一部に丘陵(比企丘陵など)もみられる。江戸時代、徳川家康により現在の古利根川の流路に近かった利根川の流路は、渡良瀬川(現在の江戸川の流路に近い)、ついで鬼怒川(毛野川)に導かれ、また現在の元荒川の流路に近かった荒川の流路は入間川に導かれ、現在の河川形態となった(利根川東遷事業)。西側の山地部は関東山地に含まれ、その中央部に秩父盆地がある。秩父盆地東側の比較的標高の低い山塊は特に外秩父山地とも呼ばれる。西側の長野県境は日本海側との分水嶺を形成しており、その南端に位置する甲武信ヶ岳は千曲川、荒川、笛吹川(富士川の支流)の源流であるとともに、埼玉県・長野県・山梨県の県境となっている。その北には県最高峰である三宝山(2,483m)がある。
中央部・西部・東部の南側の地域は首都である東京に近く、近代以降の大都市圏の拡大に伴い、1970年代を中心に急激な人口流入と都市化をみてきた。このようにして形成された市街地は、その多くがスプロール現象によるものであり、このような地域では現在も道路などの社会基盤の整備に難を抱える。
県内は首都高速・東京外環道・関越・東北・常磐・圏央道といった高速道路が多数整備されているが、一般道については北部以外は十分に整備されていない地域が多く、自動車の増加や大規模商業施設の郊外立地化に伴い各地で道路渋滞が慢性・深刻化している。
県内には全国最多となる40の市があり、130万人都市であるさいたま市を筆頭に60万人都市の川口市、30万人都市の川越市・越谷市・所沢市が南部に集中するほか、20万人都市が4市、10万人都市が13市と同等の人口を持つ自治体が多数存在することも特徴として挙げられる。政令指定都市のさいたま市は合併前に旧浦和市と旧大宮市が業務核都市に指定されており、20世紀末に国などの関東地方出先機関が集まるさいたま新都心が誕生したことも重なり東京のベッドタウンでありながら関東地方において独自の重要性を持つ地域になりつつある。都営大江戸線の東所沢方面への延伸や埼玉高速鉄道のさいたま市岩槻区方面への延伸も構想されている。
埼玉県は、場面や分野に応じて北関東に区分される場合もあれば南関東に区分される場合もある。また、埼玉県は千葉県や東京都、神奈川県とともに「東京圏」を構成し、相互の通勤・通学などの流動が多いことなどを重視し、南関東に区分されることが多いが、衆議院議員総選挙における比例ブロックにおいては北関東に区分されている。
地形[編集]
県東部は関東平野のほぼ中央部に位置しており、全体的に低地で平坦な土地が広がる。利根川の分流(派川)である江戸川と利根川水系の中川が流れている他、それらの支流も数多く流れている。河床勾配が緩く、蛇行している川も多数流れることから洪水が起きやすい地域であったが、首都圏外郭放水路や権現堂調節池(行幸湖)、大相模調節池などが建設され、現在も利根川中流と江戸川上流の堤防を拡幅強化する首都圏氾濫区域堤防強化対策などの治水事業が行われており、浸水被害は減ってきている。利根川と荒川に挟まれた地域には本庄台地や櫛挽台地からなる北武蔵台地が、荒川と中川に挟まれた地域は大宮台地が南北に広がっている。
県中部も関東平野のほぼ中央部西寄りに位置しており、荒川が流れており、荒川から西にかけて武蔵野台地、入間台地、高坂台地、東松山台地、江南台地などの台地が広がっている。ただし、台地に挟まれた地域は、荒川の支流である不老川、入間川などが流れており、周辺と比較すると標高が低い。そのため実際に令和元年東日本台風では荒川水系入間川流域の複数の河川で決壊・洪水被害も発生している。さらに西へ進むと狭山丘陵、加治丘陵、岩殿丘陵、比企丘陵などの丘陵が点在し、西に進むにつれて標高が高くなっている。
県西部は関東山地が広がっており、秩父山地に囲まれた地域では秩父地方(秩父盆地)を形成している。
隣接都道府県[編集]
埼玉県は隣接都県数が7都県と多く、関東地方内では神奈川県を除く1都4県と接している。長野県は未舗装道路の中津川林道(長野県側は舗装済)のみでしか直接的な行き来は出来ず、さらに冬季や夜間は通行止めとなっている(詳しくは中津川林道の項目を参照)。山梨県も雁坂トンネル有料道路でしかアクセス出来ず、また長大トンネルの規制により危険物搭載車両は山梨県と直通できない。鉄道では東京都及び千葉・群馬・茨城県との県境を直接行き来している。
気候[編集]
秩父地方は中央高地式気候、それ以外の地域は太平洋側気候である。また、内陸県であるため内陸性の気候も見られる。そのため冬季は全体的に冷え込みが厳しく、東京特別区や横浜市、千葉市などとは異なり毎日のように氷点下を記録する地域が多い。中でも秩父地方は特に冷え込みが厳しく、厳冬期は-10℃近くまで冷え込むこともある。一方、夏季は他県と比較して全体的に暑さが厳しく県内のほぼ全域で猛暑日がみられ、熊谷や鳩山町などでは日本国内でも屈指の酷暑となり、40℃を超える気温も観測されている。降水量は全般的に少ないが、特に冬季の降水量が非常に少ない。
- 西部山間部・秩父地方 ・・・ 秩父盆地は典型的な内陸性の気候で冬寒く、夏暑くなる。一年を通して日較差が大きく、冬は秩父市内でも氷点下8度を下回る気温も珍しくないほどに冷え込み、1954年1月27日には-15.8℃の低温を記録した。しかし、近年は都市化の影響などでの温暖化が著しく、1月平均最低気温は旧平年値の-4.8度から-4.2℃と大幅に上昇した。夏は日中はかなり暑くなり、埼玉県の他地域と同様猛暑日が多いが、熱帯夜は非常に稀で、1926年の観測開始以来7日しかない。冬季は南岸低気圧の接近により、他地域が雨の場合も秩父地方は雪となることがほとんどであり、稀に30cm前後の積雪を記録することもある。2001年と2005年には秩父市の年間降雪量が200cmを超えるなど、関東地方の都市の中では雪の多い地域である。秩父山地ではしばしば大雪となることもある。秋、春においても朝晩の気温はかなり下がるのが特徴である。
- 北西部平野部・上武 ・・・ 熊谷市や深谷市などの群馬県との県境に連なる北部平野部は、夏は暑さの厳しい埼玉県内でも特に暑くなる地域で、しばしば40℃近い酷暑となることもあるなど日本一暑い地域の一つとなっている。2018年、熊谷市で、最高気温41.1℃を記録し、日本国内観測史上最高記録となった。また、冬は内陸の割には、最低気温が比較的高い。冷えても氷点下5℃前後である。これは、夜になっても季節風がおさまりにくいためで、南部や東部よりも高くなることも多い。実際、熊谷の1月最低平均気温は-0.7℃とさいたま市の-1.5℃よりも高い。降雪についても南岸低気圧が当地域に到達しにくいため、関東地方の中でも少ないほうで・超したに周辺ある。
- さいたま市・南部 ・・・ 北部ほどではないが、夏の暑さが厳しい。2007年に越谷市街地で40.4℃を記録し、さいたま市でも2018年に39.3℃を観測している。冬は、朝晩は放射冷却の影響を受けやすいため北部よりも気温が下がることも多く、氷点下7℃前後の冷え込みとなることもある。さいたま市は2018年には-9.8℃まで下がった。さいたま市は1月の平均最低気温は-1.5℃と低く、2月半ばまではほぼ連日冬日となる。
- 北東部 ・・・ 行田市以東、鴻巣市・久喜市以北の利根地域に位置する地域は北西部ほどではないものの、夏の暑さが厳しく38℃前後まで上がることもある。2007年に久喜市で38.9℃を観測。冬は放射冷却が関東平野のほぼ中央に位置する県東部の中でも、より中央に位置する関係もあって顕著で、近隣の熊谷市や、約50km北の栃木県の県庁所在地で都市化の影響はあるものの宇都宮市よりも気温が低くなることが多く、栃木県南部同様に氷点下8℃前後の冷え込みになることもある。久喜市では過去に-10℃以下を観測している。
- 西部 ・・・ 比較的標高が高い丘陵地帯・武蔵野台地に位置しているために、北部や東部、南部の平野部と比較し、より内陸性の気候を有している。夏季は暑く、冬季は寒い。特に鳩山町は岩殿丘陵に囲まれた盆地状の地形であることから関東平野部でも冷え込みの激しい地点となり、1月の平均最低気温は-3.9℃であり、21世紀に入っても-10℃以下を観測している。一方で夏の暑さも厳しく、全国一の日最高気温を記録することもある。2020年8月11日に40.2℃を観測した。この地域は南岸低気圧による大雪となることもしばしばで、全体的には県南部や東部と比較し、東京の多摩地域の気候と類似性が見られる。気象庁の統計によると所沢のアメダス地点は気温の日較差や年較差がほかの地点よりもやや小さいが、これは観測露場が狭山湖畔に設置されているという局所的な影響が大きいからである。そのため、夏の最高気温は約1℃低く、冬の最低気温は約2℃高く観測されている。
先史・古代[編集]
県内で旧石器時代の遺跡は、大宮、武蔵野、江南、下総の各台地、秩父盆地の各河川流域に約500が確認されている。この時代の遺跡・遺構は3万年前以降の立川ローム層・大黒ローム層から発見されている。
県域は隆起と海退によって形成された。縄文時代において海面は現在よりも高く、東京都東部から県域南東部を中心とした海抜の低い地域は、古東京湾の入り江が大きく入り込んでいたため、海底だったと推定される。その証拠に、川口市の旧鳩ヶ谷市域などに貝塚が至る所に発見されており、海岸に近かったことがうかがえる。縄文時代末期には県域南東部で陸地化が進み、弥生時代には埼玉県全土がほぼ陸地化した(三郷市では弥生時代の土器片が見つかっている)。
古代の国撰史書である『日本書紀』の安閑天皇元年(534年?)の記載に、「閏の十二月…(中略)…是の月に武蔵国造笠原直使主と同族小杵と国造を相争いて年経るに定めがたし」云々とあり、現在の鴻巣市笠原地区付近に居を構えていたとされる豪族、笠原直使主と同族の小杵による武蔵国造の勢力争いが起き、朝廷の力を借りた使主が勝利し、国造となった使主は朝廷に横渟(多摩郡または横見郡)・橘花(神奈川県橘樹郡)・多氷(多摩)・倉樔(神奈川県久良郡)の四箇所を屯倉として差し出したと記述されていることや、6世紀に突如現れたこの地の巨大古墳群、および後述の鉄剣などから大和朝廷の直接支配まで、長らく武蔵国における中心だったと考えられる。なお現在の埼玉県にあたる地域には、上述の武蔵国造(无邪志国造)のほかに、のちの秩父郡を本拠とする知々夫国造も存在していた。本域は、律令制以前は、毛野国と呼ばれ、筑紫国や吉備国に比肩する大国であったとされ、大和朝廷との関係において高い地位にあり、現在の東京地域よりも繁栄していた。
和銅元年(708年)に、現在の埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡から、和銅(ニギアカガネ、純度が高く精錬を必要としない自然銅)が産出したことを記念して、「和銅」に改元するとともに、日本最初の流通貨幣となる和同開珎が発行される。
1968年(昭和43年)に行田市埼玉にある、さきたま風土記の丘(現:さきたま古墳公園)の稲荷山古墳から出土した鉄剣(金錯銘鉄剣)は、1978年に奈良市にある元興寺文化財研究所で保存処理を行った際、表裏に金象嵌で115文字の銘文があることが分かり注目を浴びた。その文中にある「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)」は『記紀』に登場する雄略天皇であり、『宋書』倭国伝に見える倭王武であって、冒頭の「辛亥の年」は(471年)であるとする学説が主流である。古代史ブームの巻き起こる中で、鉄剣の解釈をめぐりさまざまな議論がある。
埼玉県域の郡は、足立・新座・入間・高麗・比企・横見・埼玉・大里・男衾・幡羅・榛沢・那珂・児玉・賀美・秩父郡である。また郷の数は県域で75郷である(『和名類聚抄』)。県域内の郡衙所在地は不明なところが多い。神護景雲3年(769年)9月17日に正倉4倉が焼失し、穀類や人に死傷者が出ている。雷火による天災か神火(じんか)による人災か不明である。
中世[編集]
中世には武蔵国で人口の特に多かった北武蔵の丘陵地や台地に武蔵武士が出現し、河越氏や畠山氏ら諸氏を分出した秩父氏の一族が活躍した。また同族集団として形成された武蔵七党など中小規模の在地土豪も出た。平治の乱を経て武蔵国が平氏の知行国になると武蔵守には平氏一門が任じられると武蔵武士は被官化し、新恩地を得て西国へも進出した。治承4年(1180年)の源頼朝の挙兵後に服従した豪族には、県域に勢力を持っていた秩父一族が主に頼朝に味方し、治承・寿永の乱における合戦に参戦した。河越氏や畠山氏、比企氏らは鎌倉幕府の創設期に重用されて政務に参画するが、幕府権力の確立課程では河越氏を除き没落し、武蔵武士の地位は低下した。
中世には鎌倉幕府の成立を契機に街道が整備され、西武蔵には南北に鎌倉街道の上道や中道が通じて奥州方面と結ばれ、物資の流通路となったほか軍事的にも重視され、沿道には城館が分布する。幹線道の整備に伴い脇道や水上交通も発達し、多くの市や宿が成立した。
河越氏が武蔵平一揆で没落すると戦国期の武蔵は鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏との対立などの影響を受けて乱国状態となった。県域は北武蔵(前線拠点は五十戸(今の本庄市))を地盤とし堀越公方方の山内上杉氏、南武蔵(拠点は川越城)に本拠をおいた扇谷上杉氏などが勢力を争った。下総国方面には古河公方が勢力を張った。
戦国後期には相模国の後北条氏が台頭する。天文10年(1541年)には最重要拠点の川越城を巡り、川越を後北条氏に奪われた扇谷上杉氏の上杉朝定は関東管領の上杉憲政と古河公方と結び、城の救援に向かった北条氏康との間で川越夜戦が行われた。敗北した扇谷上杉氏は滅亡し、後北条氏の勢力圏となった武蔵には多くの支城が築かれ、氏康は上杉憲政を圧迫する。
憲政は越後国守護代の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼り、関東管領職と上杉家家督を譲り受けた景虎は関東出兵を行い氏康と争った。後北条氏は甲斐国の武田氏や駿河国の今川氏と三国同盟を結び景虎と争っていたが、同盟破綻後の永禄12年(1569年)には越後と和睦して越相同盟を結び、武田氏の秩父方面への侵攻を招いており、こうした複雑な外交情勢のなか北関東の国衆は翻弄された。
後北条氏は天正年間には関東の大半を支配し、豊臣(羽柴)家に次ぐ全国第二位の勢力となる。
近世[編集]
天正18年(1590年)には豊臣秀吉の天下統一における小田原征伐において後北条氏は没落する。後北条氏の没落に際して東海五カ国を支配していた徳川家康が関東へ転封され、武蔵を含む関東地域には徳川氏の家臣団が配置された。関ヶ原の合戦を経て江戸幕府による支配が確立すると、埼玉県域には「武蔵三藩」と呼ばれる川越藩や忍藩・岩槻藩(それに武蔵国には知行地をほとんど持たなかった岡部藩など)が立藩。江戸に近く親藩・譜代の重臣が配されたが、川越藩を除き城下町の形成は小規模であった。川越は江戸北方の防衛拠点として、また武蔵国の商工業の中心地として「小江戸」と呼ばれ繁栄した。
江戸幕府により江戸を起点とした五街道の整備が進められ、埼玉県内には中山道に9つの宿場(蕨宿、浦和宿、大宮宿、上尾宿、桶川宿、鴻巣宿、熊谷宿、深谷宿、本庄宿)、日光街道(奥州街道)に6つの宿場(草加宿、越ヶ谷宿、粕壁宿、杉戸宿、幸手宿、栗橋宿)が置かれた。五街道に準ずる脇往還は、県内では川越児玉往還(川越街道)、日光脇往還、日光御成街道、関宿往還、秩父往還、秩父甲州往還が整備された。
明暦年間には野火止用水が、享保年間から見沼代用水が開鑿され、元禄年間に三富新田の開発が行われ米麦栽培が増大したほか、養蚕や織物、木綿の栽培や野菜など地域特産物の生産も盛んになり、定期市で販売されたほか、利根川・荒川・新河岸川の舟運を通じて江戸へも移出された。
明和元年(1764年)には大規模な百姓一揆である中山道伝馬騒動が発生している。
近世後期には幕領と旗本領の錯綜する関東一円で無宿人・浪人が増加したため社会不穏が増大し、幕府では文政の改革に伴い文化2年(1805年)に関東取締出役を設置して警察力の強化が行われ、村々では組合村を形成して対応している。
幕末には異国船が日本近海に出没し、嘉永6年6月3日(1853年7月8日)にはアメリカのペリー艦隊が来航し幕府に通商を求めるが、江戸湾の海防は川越藩、忍藩が彦根藩、会津藩を加えた四藩で担当し、藩士の現地派遣や遠見番所の設置などを行った。ペリー艦隊の来航に際しては海防策が修正され、品川台場の防衛を川越藩・忍藩・会津藩が担当した。海防強化は村々へも負担が生じるが、一方で日本が開国し本格的な貿易を開始すると積極的に対外交易を試みる投機商も出現した。
近世後期の社会変動、開港前後の諸役負担や経済変動は農村社会に影響を与え没落農民層も発生していたが、慶応2年6月13日(1866年7月24日)には入間郡を中心に中山道以西地域に波及した武州一揆が発生し、関東取締出役の出向により鎮圧される。
明治[編集]
- 慶応4年(1868年) - 6月19日、忍藩士の山田政則が武蔵知県事に就任。旧幕府領を管轄する。
- 明治2年(1869年) - 1月10日、山田政則知県事が宮原忠英に交代。1月13日、宮原知県事の管轄地域に大宮県を設置し、県庁は東京府馬喰町に置かれる。9月29日、県庁が浦和に置かれ浦和県に改称。
- 明治4年(1871年) - 7月14日、廃藩置県を受けて藩領に川越県・忍県・岩槻県の3県が誕生。11月14日、忍県・岩槻県・浦和県の3県が合併して埼玉県が誕生(足立郡・埼玉郡・葛飾郡の一部。現在の東部地域に相当)。同日、川越県は品川県の一部を吸収して入間県となる(現在の西部地域・北部地域・秩父地域に相当)。埼玉県の県庁所在地は埼玉郡岩槻町(現さいたま市岩槻区)とされたが、適する建物が無く、旧浦和県庁を流用する形で浦和宿(現さいたま市浦和区)に県庁が置かれた。入間県の県庁は川越城に置かれた。
- 1873年(明治6年) - 入間県が群馬県と合併し熊谷県となる。熊谷県の県庁は熊谷駅(現熊谷市)に置かれた。
- 1874年(明治7年) - 埼玉県師範学校(埼玉大学の前身)が発足。
- 1876年(明治9年) - 熊谷県は解消され旧入間県の地域は埼玉県と合併、現在の埼玉県が成立。
- 地元出身の渋沢栄一、福澤桃介、大川平三郎などが活躍、日本の近代化に貢献する。
- 1883年(明治16年)7月28日 - 日本初の私鉄「日本鉄道」(東北本線・高崎線上野駅 - 熊谷駅間)が開通し、浦和駅・上尾駅・鴻巣駅・熊谷駅が開業。
- 1884年(明治17年) - 秩父地方で松方財政の不況の中借金に苦しむ負債農民が秩父事件を起こす。
- 1885年(明治18年)3月16日 - 大宮駅が開業。
- 1890年(明治23年) - 浦和を県庁所在地とする勅令が出される。
- 1894年(明治27年)12月21日 - 川越鉄道川越線(現:西武新宿線)久米川(現:東村山駅) - 川越(現:本川越駅)間が開業。
- 1895年(明治28年) - 第一尋常中学校(現埼玉県立浦和高等学校)、第二尋常中学校(現埼玉県立熊谷高等学校)が開校。
- 1899年(明治32年)8月27日 - 東武鉄道(現:東武伊勢崎線)北千住駅 - 久喜駅間が開業。
- 1911年(明治44年) - 日本初の航空機専用飛行場、所沢陸軍飛行場が開港。
- 1914年(大正3年)5月1日 - 東上鉄道(現:東武東上本線)池袋駅 - 田面沢駅間が開業。
- 1915年(大正4年)4月15日 - 武蔵野鉄道(現:西武池袋線)池袋駅 - 飯能駅間が開業。
- 1921年(大正10年) - 官立の旧制浦和高校(埼玉大学の前身)が開校。
- 1923年(大正12年)9月1日 - 関東大震災が発生。県内での被害が軽微だったため、以後移住者が増加し、浦和画家などの文化も隆盛。
昭和戦前[編集]
- 1928年(昭和3年)12月 - 県議会で公娼廃止決議案が可決。
- 1929年(昭和4年)11月17日 - 北総鉄道(現:東武野田線)大宮駅 - 春日部駅間が開業。
- 1940年(昭和15年)7月22日 - 川越線が開通。
- 1941年(昭和16年)
- 2月25日 - 西武大宮線が廃止。
昭和戦時中[編集]
- 11月1日 - 太平洋戦争が勃発し県内を管轄する浦和連隊区が設置された。
- 1943年(昭和18年)7月1日 - 埼玉銀行(現:埼玉りそな銀行)が発足。
- 1945年(昭和20年)8月15日 - 熊谷空襲が発生。太平洋戦争最後の空襲かつ埼玉県内における最大規模の空襲となった。
昭和戦後[編集]
- 1946年(昭和21年) - 進駐軍によって埼玉会館に埼玉軍政部が設置された。
- 1949年(昭和24年) - 新制大学として埼玉大学が発足。
- 1965年(昭和40年) - 県人口が300万人を突破。
- 1971年(昭和46年)
- 県人口が400万人を突破。
- 11月14日 - 明治4年の廃藩置県で埼玉県が誕生して100年後にあたるこの年、県が「埼玉県民の日」を制定。毎年この日を中心とした10月 - 12月、様々なイベントが開催される。
- 1973年(昭和48年)
- 3月13日 - 上尾事件が発生。
- 4月1日 - 武蔵野線が開通。
- 1977年(昭和52年) - 県人口が500万人を突破。
- 1982年(昭和57年)
- 6月23日 - 東北新幹線が開通。
- 11月15日 - 上越新幹線が開通。
- 1983年(昭和58年)12月22日 - 埼玉新都市交通伊奈線が開通。
- 1985年(昭和60年)9月30日 - 埼京線が開通。
- 1987年(昭和62年) - 県人口が600万人を突破。
- 1988年(昭和63年) - さいたま博覧会が開催。
平成[編集]
- 1992年(平成4年)11月27日 - 東京外環自動車道の和光 - 三郷間が開通。
- 1999年(平成11年) - 新制大学として埼玉県立大学が発足。
- 2000年(平成12年)5月5日 - さいたま新都心が街開き。
- 2001年(平成13年)
- 3月28日 - 埼玉高速鉄道線が開通。
- 5月1日 - 浦和市、大宮市、与野市の3つの市が合併し、さいたま市となる。
- 2002年(平成14年)
- 6月 - サッカーワールドカップが開幕。埼玉スタジアム2002では準決勝などが催された。
- 8月1日 - 人口が700万人を突破。
- 2003年(平成15年)4月1日 - さいたま市が政令指定都市に、川越市が中核市に移行。
- 2004年(平成16年) - 彩の国まごころ国体開催。
- 3月13日 - 上越新幹線本庄早稲田駅が開業。
- 2005年(平成17年)8月24日 - 首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスが開通。
- 2006年(平成18年)
- 4月 - みそのウイングシティが街開き。
- 12月2日 - 浦和レッズがホーム最終戦で勝利し、J1リーグ初優勝を果たす。
- 2007年(平成19年)
- 11月14日 - AFCチャンピオンズリーグにて浦和レッズが優勝(詳細)。
- 2008年(平成20年)3月 - 越谷レイクタウンが街開き。
- 2010年(平成22年)3月1日 - 深谷市と群馬県太田市との県境の一部変更により、県土面積が約80ha拡張(120haの編入と40haの持ち出し)。
- 2013年(平成26年)4月 - 浦和学院高等学校が第85回選抜高校野球大会で初優勝。
- 2014年(平成27年)11月 - 細川紙がユネスコ無形文化遺産に登録。
- 2015年(平成27年)
- 4月1日 - 越谷市が中核市に移行。
- 10月31日 - 圏央道の県内区間が全線開通。
- 2015年(平成27年)12月 - 梶田隆章がノーベル物理学賞を受賞。
- 2016年(平成28年)
- 11月 - 和光市の理化学研究所で発見された113番目の元素にニホニウムと命名。その記念事業として、和光市駅南口から同研究所までシンボルロード「ニホニウム通り」を同年度より整備。
- 12月 - 川越祭りと秩父夜祭がユネスコ無形文化遺産に正式登録。
- 2017年(平成29年)
- 4月 - 足袋蔵のまち行田が日本遺産に認定。
- 8月 - 花咲徳栄高等学校が第99回全国高校野球大会で初優勝。
- 11月 - AFCチャンピオンズリーグにて浦和レッズが史上初の2度目の優勝(詳細)。
- 2018年(平成30年)
- 4月1日 - 川口市が中核市に移行。
- 6月2日 - 東京外環自動車道の県内区間が全線開通。
令和[編集]
- 2019年(令和元年)9月 - ラグビーワールドカップが開幕。熊谷ラグビー場ではプールステージ3試合が催された。
- 2021年(令和3年)
- 7-9月 - 埼玉スタジアム2002とさいたまスーパーアリーナ、霞ヶ関カンツリー倶楽部、陸上自衛隊朝霞訓練場が2020年東京オリンピック(当初は2020年に開催予定)の会場となる。なお、陸上自衛隊朝霞訓練場は2020年東京パラリンピックの会場にもなる。
- 10月1日 - 「埼玉県エスカレーターの安全な利用の促進に関する条例」が施行 [2]。エスカレーターの利用に関する都道府県条例の制定・施行は全国初。
- 2022年(令和4年)7月 - 春日部市を舞台とする漫画「クレヨンしんちゃん」のアニメ放送開始30周年記念企画として、埼玉県・秋田県・熊本県の三県の間で、三県相互の観光振興と地域活性化及び相互交流施策に取り組む「家族都市」協定を締結。
- 2024年度 - 圏央道の久喜白岡JCT~大栄JCT間が4車線化。県内区間は全線4車線となる予定。
平均年齢[編集]
46.6歳(男45.5歳、女47.8歳。2021年(令和3年)1月1日現在)
人口[編集]
2010年から2015年までの人口増加率は東京都、沖縄県に次ぐ国内3位となっている(都道府県の人口一覧も参照)。増減率には大きな地域差があり、県南東部の自治体は概ね人口増加が続く一方でそれ以外の地域は人口減少しており、特に山間地域の秩父地方において減少が激しい。
県内順位 | 都市 | 地域区分 | 人口 | 県内順位 | 都市 | 地域区分 | 人口 | |||
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1 | さいたま市 | さいたま | 1,344,480人 | 6 | 草加市 | 東部 | 249,328人 | |||
2 | 川口市 | 南部 | 592,510人 | 7 | 上尾市 | 県央 | 227,892人 | |||
3 | 川越市 | 川越比企 | 354,346人 | 8 | 春日部市 | 東部 | 227,224人 | |||
4 | 所沢市 | 西部 | 342,078人 | 9 | 熊谷市 | 北部 | 191,120人 | |||
5 | 越谷市 | 東部 | 339,994人 | 10 | 新座市 | 南西部 | 165,540人 | |||
推計人口 2023年9月1日 |