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杉浦貴

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杉浦 貴
杉浦 貴の画像
プロフィール
リングネーム 杉浦 貴
本名 杉浦 貴
ニックネーム 容赦なきソルジャー
身長 178cm
体重 89kg
誕生日 (1970-05-31) 1970年5月31日(54歳)
出身地 愛知県名古屋市天白区
所属 プロレスリング・ノア
スポーツ歴 レスリング
柔道
トレーナー 田上明
本田多聞
高山善廣
デビュー 2000年12月23日
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杉浦 貴(すぎうら たかし、1970年5月31日 - )は、日本プロレスラー、総合格闘家。愛知県名古屋市出身。プロレスリング・ノア所属。元自衛官

丸藤正道に次いで2人目となるノアのタイトルであるグローバル・オナード・クラウン4王座すべてを奪取した経験を持つ[1]。また、ノアのデビュー第1号レスラーでもある。

来歴[編集]

デビュー前[編集]

杉浦がプロレスと出会ったのは小学5年生の頃であり、テレビで初代タイガーマスクを見たその時に一瞬でファンになった。金曜午後8時は必ずテレビにへばりつき、ほとんどのプロレス中継を観戦。翌日の朝、学校で友達と前夜の試合について話したり、プロレスごっこで遊んだりしていた。将来はプロレスラーになると決意していたが中学には格闘系の部活がなく、町道場もなかったため、妥協して小学時代からやっていたサッカーを続けることにした。高校生(中京高等学校。現在の中京大学附属中京高等学校)時代は柔道を経験、柔道2段であった。1988年秋、たまたまテレビで見た宮原厚次に心を奪われ、タイガーマスクを始めて目の当たりにしたときよりも強い衝撃を受けた杉浦はプロレスラーよりもアマレスラーになりたいと思うようになった[2]

高校卒業後、自衛隊に入隊し、体育学校に入校、レスリングを始める。寮に入るとベッドやトイレなどを常にきれいに保たなければならず、もし少しでも汚ければ班長が部屋を荒らし、それを30分で片付け・掃除し直さなければならなかった。体育学校での1日は毎日が合宿のようなものであり、走り込みやウエイトトレーニングまであらゆる運動を行った。杉浦は週1回、自衛隊とは別にレスリング道場に通って体を鍛えていた。アマチュアレスリングに進んでからはプロレスはあまり見なくなり、四天王プロレスもこの頃は興味がなかった。アマチュアレスリングの全日本選手権グレコローマン82kg級優勝および国体で3度優勝の実績を持つ。1996年4月に中国で開催されたアジア選手権では3位以内に入賞すればアトランタオリンピックに出場できたが、あと1勝というところで出場を逃した。アトランタオリンピック終了後、杉浦は85kg級でシドニーオリンピックを目指すことにしたが、オリンピック出場を懸けた1999年に大学生に負けて出場を逃した[2]

その後、オリンピック出場を逃したため一般自衛隊員への異動を命ぜられるが、もうすでに自衛隊に残ることや一般企業に再就職することは考えておらず、プロレス転身に対する思いを胸に秘めるようになった。しかしプロレス転身の際に29歳であった上に妻と1児を抱えていたため、公務員を辞めるかどうかで悩んでいたが、ある日妻が「これからどうするの?」と食事の席で聞いてきて、口ごもっていたら「プロレスやったら?」と言い出したので、自身の望みを打ち明けた。自衛隊OBの本田多聞を慕って全日本プロレスに入団し田上明の付き人となった。入団直後、デビュー前に同団体が分裂。練習生のまま三沢光晴が新たに旗揚げしたプロレスリング・ノアに移籍した。2000年に入ってから三沢に声をかけられ、給料については「心配しないでいいよ。オマエは家族がいるんだから」と自衛隊で貰っていた分の給料を貰うなど特別待遇を得ていた。12月23日、東京・有明コロシアムにおける志賀賢太郎金丸義信森嶋猛戦で、ノア最初の新人レスラーとしてデビュー(パートナーは井上雅央力皇猛)した[2]

ジュニアヘビー級時代[編集]

ヘビー級からジュニアヘビー級転向後はしばらく結果が出ない時期が続き、ノアが丸藤正道KENTAの「丸KEN」をプッシュしていたこともあり自身の地位を築けずにいた。NOAHからはタイトルマッチを用意してもらえず、いざ試合が組まれても他団体であり、そこで負けてしまい、この頃は完全に腐ってしまっていた[2]

2002年6月23日、総合格闘技PRIDE.21に初参戦し、ダニエル・グレイシーに判定負け。総合格闘技に挑戦したのはアマレスラーとしての忘れ物を探しに行くという感覚であり、本人もこれについて「アマチュア時代の気持ちがよみがえって刺激になりますからね」と話していた[2]

2003年9月12日、マイケル・モデストを破りGHCジュニアヘビー級王座に、2005年6月5日、金丸と組んで丸藤&KENTA組を破りGHCジュニアヘビー級タッグ王座を奪取。

2004年7月に齋藤彰俊・井上とダーク・エージェント(D.A.)を結成、一方でジュニア戦線では金丸ともタッグを結成、しばしば当時スターネスに在籍していた金丸にD.A.参入を誘うが毎回丁重に断られていた。また、団体外の活動として同年7月19日、PRIDE 武士道 -其の四-に参戦し、ジャイアント・シルバサッカーボールキックでKO勝ちした。

2005年9月に斎藤とのD.A.先輩後輩コンビで、GHCタッグ王座に初挑戦(王者は鈴木みのる・丸藤正道組)し、惜敗する。

2006年4月のパンクラスの「ヘビー級王座決定トーナメント」に出場。約3か月間練習期間を設けたものの、初戦で野地竜太にKO負けを喫した。同年6月に、GHCジュニアヘビー級王座に再度君臨、さらに8月に金丸と組んでGHCジュニアヘビー級タッグ王座を獲得し、ジュニア2冠を達成する。しかし12月から翌年1月に、GHCジュニア2冠を相次いで手放し、以降は「中堅で終わりたくない」という気持ちからヘビー級へと転向[2]

2007年(ヘビー級転向)[編集]

2007年からは高山善廣や丸藤とタッグを組むようになり、10月27日には丸藤正道と組んでGHCタッグ王座を獲得した。

2008年[編集]

2008年9月28日の戦極 〜第五陣〜シャンジ・ヒベイロと対戦し、スタンドの膝蹴りでTKO負けを喫した。

2009年[編集]

2009年1月4日、三沢光晴とのタッグで新日本プロレスの東京ドーム大会に出場し、中邑真輔後藤洋央紀組と対戦したが中邑の腕ひしぎ逆十字固めに敗れた。この時に殺伐としたファイトで存在感を発揮したことがのちのブレイクにつながったとされる[2]

それ以後定期的に新日本のリングに上がるようになり、7月には棚橋弘至の保持するIWGPヘビー級王座にNOAH勢で初めて挑戦するも敗退。8月にはG1 CLIMAXにも出場した。

12月6日、日本武道館にて潮﨑豪の保持するGHCヘビー級王座に挑戦し、これを奪取。丸藤以来となるGHC王座グランドスラム(白GHCを除く)を達成、これが認められ、12月10日に2009年プロレス大賞殊勲賞を受賞した。

2010年[編集]

2010年は、1月4日のレッスルキングダムで新日本プロレスの後藤を相手にGHCベルト初防衛に成功し、2月28日にプロレスリング・ノア「The Second Navig. '10」最終戦で後藤と同じ新日本プロレスの真壁刀義相手に勝利を収めたほか、高山・秋山準・潮崎・森嶋猛[3]など強敵を相手に防衛を続け、1年間ベルトを守り通した。この功績が認められてこの年のプロレス大賞最優秀選手賞を受賞した。

2011年[編集]

2011年1月1日付けで森嶋の後任として選手会長に就任する。

同年1月15日大阪府立体育会館においてバイソン・スミスを相手に8度目の防衛に成功。防衛回数は単独2位となった。その後3月5日には有明ジャイアント・バーナード[4]を、そして3月21日福岡国際センターではトレバー・マードックを退けて防衛回数を遂に2桁の10回に乗せた(GHCヘビーを10回以上防衛したのは、絶対王者でもある第6代王者・小橋建太が13回防衛して以来となる)。

トレバー戦終了後のインタビューで鈴木みのるを挑戦者に指名する。しかしそのインタビューで杉浦が東日本大震災の被災者への「落ち着いてから応援してくれれば…」と解釈出来るコメントに対し鈴木はまったく異なる意見を持っていたため、3月27日の6人タッグマッチ戦で鈴木に敗北した直後、鈴木から「俺は、お前に言いたい事がある」と前置きの上マイクを通して4分近くに渡り「プロレス感の相違」についての怒りをぶつけられ、バックステージインタビューでも「お前が俺と闘いたい?百年早いんだよ!」と鈴木がコメントし、GHC選手権の挑戦者指名を拒否されてしまう。だが、4月16日の後楽園ホール大会に鈴木が来場し杉浦の試合後にマイクを取り、鈴木が「自ら挑戦」を表明する事により一転してカードが成立した。そして5月8日の有明コロシアム大会にて鈴木とベルトを賭けて対戦、オリンピック予選スラムで防衛に成功し防衛記録は11回となった。

続いて同月の欧州ツアーにて自ら連続防衛戦を希望、1度防衛するごとに次大会で防衛戦開催を決定するというスタイルで見事に3連続防衛(デイブ・マスティフクラウディオ・カスタニョーリ鈴木鼓太郎)に成功し、小橋の13回の記録を一気に突破し、GHC連続防衛新記録を達成した[5][6]

また、グローバルタッグリーグで同じくパートナー不在であったディスオベイモハメド・ヨネとタッグを組み出場し、即席タッグとの下馬評を覆し3チームタイの第3位の好成績を残した。これ以降、ヨネとのタッグを継続する。

7月10日、有明コロシアムでベルトを奪取した時の相手であった潮崎とGHCヘビー級選手権15度目の防衛戦を行うが潮崎の変形ノーザンライトボム(変形ゴー・フラッシャー)で敗れ、1年7ヶ月(防衛記録14回)という長期政権から陥落した。

同月23日、大阪府立体育館での佐々木健介戦では、試合開始直後から両者とも感情的かつ豪快にやり合い最後はパンチでの殴り合いから両者ともダウン。そのまま両者KOによる引き分けになり、決着がつかなかった。

8月17・18日ディファ有明大会で開催された2デイズ・タッグ・トーナメントでは、ANMUの青木篤志と組んで出場。1回戦で秋山・小川良成組と対戦し勝利する。決勝戦で高山とKENTAのNO MERCYと対戦したが敗北を喫し、準優勝となった[7][8]

9月29日に行われたプロレスリング・ノアの株主総会にて、同社の取締役に就任した。

10月、潮崎の保持するGHCに挑戦するため、KENTAとの挑戦者決定戦を行ったがgo 2 sleepで轟沈した。

11月、グローバル・リーグに出場する。序盤から連敗を重ねるも、KENTAをフロントネックロックで絞め落とし128秒殺勝利を収め、快調に試合を消化させていた健介との再戦ではオリンピック予選スラムで撃沈させ健介のビクトリーロードを阻むなど、後半戦で盛り返し大健闘の3位となった。

12月、新日本プロレスの後藤の指名で青木をタッグパートナーに従え、後藤・KUSHIDA組と対戦。KUSHIDAをオリンピック予選スラムでフォールを奪い、難無く勝利を収める。試合後、後藤が東京ドームでシングルでの再戦を要求しこれを承諾、東京ドームでの後藤との対戦はタッグ戦を含めて今回で4度目となる[9]

2012年[編集]

1月4日、東京ドーム大会「レッスルキングダム」にて後藤とシングルマッチで4度目の対戦。後藤の裏昇天からの昇天・改でフォールを奪われ、シングル初黒星となった。

同月中旬、丸藤と手を組み新ユニット「丸藤軍」を結成、ディスオベイの解散に伴い、丸藤軍加入を申し込んできたヨネを、「適正試験」という名目でシングルマッチを行いこれに勝利。試合後、ヨネのユニット加入に対し「保留」とコメントした。

3月18日の横浜文化体育館大会で森嶋猛の持つGHCヘビー級王座への挑戦が決まっていたが、3月7日の試合後に身体が激痛に襲われ、病院での診察の結果腰椎椎間板ヘルニアであることが判明、17日の試合から欠場[10]8月25日後楽園ホール大会で復帰した[11]。欠場期間中に105kgあった体重は89kgまで減少した[12]が、増量しないまま体作りをして復帰している。

2013年[編集]

5月21日、方舟新章大会でKENTAにGHCヘビーに敗れて以降、ノアを面白くする理由で悪に染まりNO MERCY に新加入した。

12月31日、日本テレビ系列番組ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!の年末特番「絶対に笑ってはいけない地球防衛軍24時」に出演し、算数の問題を間違えたココリコ遠藤章造に罰ゲームでヘッドバットを喰らわせるレスラーとして番組に登場した。

2014年[編集]

右ひじ負傷のため、1月の全試合を欠場した。1月29日、ZERO1の新木場大会において田中将斗が「2月11日の後楽園ホール大会にタッグパートナーとして杉浦貴を連れてくる」と発言、2月3日のノア後楽園ホールでの復帰戦に田中がセコンドに付きタッグ結成のアピールとなった。その後ZERO1、ノア双方のリングでタッグで出場した。

2月22日、ディファ有明にてKENTAを相手にGHCヘビー級王座を防衛し、勝利者インタビューの後に「ナガダンス」を踊っていた永田裕志を背後から襲撃し、「神聖な緑のリングでヘンテコなダンス踊ってんじゃねーよバカ」と吐き捨て、同王座への挑戦を表明。3月8日、有明コロシアムにて挑戦するも敗れた。

4月、グローバル・タッグ・リーグ戦に田中と組んで出場し優勝する。

5月6日、ZERO1後楽園ホール大会にて大谷晋二郎KAMIKAZE組に挑戦し、NWAインターコンチネンタルタッグ王座を獲得。続いて5月31日、ディファ有明にて森嶋、マイバッハ組に挑戦しGHCタッグ王座を獲得、タッグ二冠王者となった。

9月23日、新潟市体育館大会で自身共に初となる電流爆破マッチのリングに上がる。

10月から11月にかけて行われたグローバル・リーグ戦では田中、永田を相手に星を落とすも、優勝決定戦に進出。同じく反対ブロックから優勝決定戦に上がってきた関本大介を破り、初優勝を果たした。

12月6日、有明コロシアム大会にて丸藤の保持するGHCヘビー級王座に挑戦し、30分を超える激闘を繰り広げるも丸藤の虎王からの変形エメラルドフロウジョンを受け敗北した。

12月9日、弾丸ヤンキースとして田中とプロレス大賞の最優秀タッグチーム賞を受賞。

2015年[編集]

1月10日、The Mighty Don't Kneelに敗れ、GHCタッグ王座から陥落する。

4月19日から5月4日にかけて行われたグローバル・タッグリーグ戦では前年同様田中と組んで出場し、決勝戦でK.E.S.を破り2年連続の優勝を果たす。

5月10日、鈴木軍に流出したGHCタッグ王座をかけてK.E.S.に挑戦したが敗れ、王座奪取はならなかった。

9月19日、鈴木の持つGHCヘビーに挑戦したが敗れた。その後は飯塚高史と抗争を繰り広げる。

12月23日、飯塚とのシングルマッチに勝利するが同日のメインで鈴木を破り、GHCヘビー級新王者となった丸藤に裏切りのオリンピック予選スラムを仕掛け、鈴木軍に電撃加入を果たした。翌24日、ノアは杉浦の選手会会長の解任を発表した。

2016年[編集]

1月31日、鈴木軍入りしてから横浜文化体育館大会でGHCヘビー級王座をかけて王者・丸藤に椅子攻撃を連発後、オリンピック予選スラムを決めて勝利し5年ぶりに同王座を戴冠した。

5月28日、潮崎に敗れてGHCヘビー級王座陥落。

7月30日、潮崎とのランバージャックデスマッチに勝利し最多タイとなる3度目のGHCヘビー級王座獲得に成功。

10月23日、中嶋勝彦とのGHCヘビー戦に敗れ、王座から陥落。

12月2日、メインのGHCヘビー戦後、敗れた鈴木に裏切りのオリンピック予選スラムを決めて鈴木軍から脱退。翌3日のディファ有明大会での急遽カード変更による鈴木との一騎討ちで勝利を収め、これで杉浦は事実上鈴木軍をNOAHマットから追放した形となった。試合後には丸藤から再び共闘するを呼び掛けられ握手を求められるもこれに応えず、一人でNOAHの選手全員と戦うことを表明した。

2017年[編集]

6月5日、心房細動の手術を行うため長期欠場することを発表[13]

10月28日、後楽園ホール大会における杉浦貴&拳王vs中嶋勝彦&LEONA戦にて復帰。

2018年[編集]

3月11日、横浜文化体育館にて拳王が保持するGHCヘビー級王座に挑戦し、これを奪取。

得意技[編集]

鍛え抜かれた肉体を駆使した寝技、投げ技が多く、小細工なしのパワーファイトを展開し、技に移行する際の気合いが他のレスラーを圧倒するのも特徴で新日本プロレスの実況ではそのパワーファイトスタイルから「重戦車」と例えられることが多い。杉浦と同じくアマチュアレスリング出身であるカート・アングルの得意技を多く取り入れている。

杉浦の代名詞である主要フィニッシュ・ホールド。相手をファイヤーマンズキャリーの形に抱え上げ、そのままの勢いで倒れこみマットに叩きつける技。この技の元祖でもあるアングルは相手の背中・肩口から落とす形で使っているが、杉浦の場合はデスバレー・ボムのように頭部から落とすことが多い。アングルは自身がオリンピック出場経験者であることから、かつて「オリンピック・スラム」の名称でこの技を使用していた。これに対し杉浦はオリンピック予選敗退であったため、技名にも予選が付けられた。大一番ではコーナー最上段から放つ雪崩式を使用することがある。
杉浦のもう一つのフィニッシュ・ホールド。うつぶせの相手の足首をひねり上げる関節技。杉浦の場合は仰向けになっている相手の足首を取り前転した勢いで相手を回転させ、うつ伏せ状態にしたところで仕掛けるというパターンを持つ。この技で杉浦はKENTAからギブアップを奪いGHCジュニアヘビーのベルトを獲得し、後藤からはGHCヘビー級ベルトの防衛に成功している。ここからヒールホールドに移行して踵を極める場合もある。
  • 中年'sリフト(杉浦'sリフト[14]、俵返し)
アマチュアレスリングで使われる「俵返し」と同型の技。相手の背中越しに腰に手を回して力任せに裏返してしまう。杉浦はここからカナディアン・バックブリーカーに発展させることもある。名前はアレクサンドル・カレリンのカレリンズ・リフトに引っ掛けたもの。過去に断崖式で放ったことがある。
  • 米満リフト
ロンドン五輪レスリング金メダリストの米満達弘直伝。両足タックルから一気に相手を担ぎ上げ、自らがマットにダイブするようにたたきつける。そのままジャックナイフ式に固めフォールを奪う。
フルネルソン(羽交い締め)から後方へ投げる技。ホールド式も使う。ビッグマッチ等ではジャーマンからのロコモーション式で使用することが多い。
相手を前方から抱えて後方へ放り投げる技。
  • ハイクラッチ・ジャーマン・スープレックス
通常と違い、鳩尾から胸の辺りをクラッチするジャーマン・スープレックス。投げっぱなし式の場合、投げられた相手は顔面あたりからマットに叩きつけられることになる。
  • ターンバックル・ジャーマン・スープレックス
リングの対角線上に設置されているターンバックル目掛けて相手を投げつける、投げっぱなしジャーマン・スープレックス。あまりにも危険すぎるため、基本的には、大一番しか使用しない。
主に串刺し式のスピアーからの連携で放つ。最近はほとんど使っていない。
  • 張り手
平手を横に振って相手の顔の側面を叩く技。打撃合戦になるとよく使用し、その際に気合いの声をあげる。
こちらも張り手と同じく打撃合戦になるとよく使用する。杉浦は試合が終盤に差し掛かると膝立ち状態の相手の後頭部めがけてエルボーを打ち付けることがあり、一撃の効果は非常に高い。三沢の影響を受けてからか、ランニング式とマウント式も使用する。
コーナーに寄りかかっている相手に放ち、避けられて鉄柱やターンバックルに突っ込むのもお約束ムーブの1つである。
基本的に助走をつけて放つことが多いが、相手が走って向かってきたところにカウンター技として用いることもある。
座っている相手、しゃがんでいる相手に助走をつけておもいっきり胴体、顔面をけり上げる技。時にはコーナーに座り込んだ相手の、逆さ刷り状態になった相手にも放つ。
尻餅をついている相手の背中を利き足である左足の甲で思い切り蹴る技。
座り込んで締め上げる事が多く、2011年のグローバル・リーグ戦ではKENTAを失神KOさせており、佐野巧真との対戦でもタップを奪う等、フィニッシュ技としても十分な威力を持つ。
主に大一番で使用することが多いが、相手との体格の関係で敢行中に足のクラッチがはずれたり体勢が崩れることがある。2010年12月の森嶋戦の際、上記の理由で足のクラッチがはずれ、脳天から真っ逆さまにリングに落下して自爆する形となっている。
  • ローリング・ソバット
主にタッグマッチで使用。

エピソード[編集]

タイトル歴[編集]

プロレスリング・ノア

ノア2人目のGHCジュニア2冠王者で(杉浦はキャバクラベルト含め3冠だと言い張っている)、ノア2人目のGHC4王座獲得経験者である。

防衛回数は2回→1回
防衛回数は2回→1回
プロレスリングZERO1
プロレス大賞
  • 2009年 殊勲賞
  • 2010年 最優秀選手賞(MVP)
  • 2014年 最優秀タッグチーム賞(パートナーは田中将斗)

入場テーマ曲[編集]

杉浦はロック音楽に造詣が深く、ほとんどがロック歌手・グループの楽曲を使用している。

戦績[編集]

総合格闘技 戦績
4 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
1 1 0 0 0 0 0
3 2 0 1 0
勝敗 対戦相手 試合結果 大会名 開催年月日
× シャンジ・ヒベイロ 3R 4:18 TKO(膝蹴り) 戦極 〜第五陣〜 2008年9月28日
× 野地竜太 1R 3:25 KO(踏みつけ) PANCRASE 2006 BLOW TOUR 2006年4月9日
ジャイアント・シルバ 1R 2:35 TKO(パウンド) PRIDE 武士道 -其の四- 2004年7月19日
× ダニエル・グレイシー 3R(10分/5分/5分)終了 判定1-2 PRIDE.21 2002年6月23日

メディア出演[編集]

テレビドラマ[編集]

バラエティ[編集]

MV[編集]

CM[編集]

  • つけ麺の達人(2010年、日清食品チルド)

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ノアが管理するもう一つのタイトルであるグローバル・ハードコア・クラウンは未奪取のまま。
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 ベースボールマガジン社『レスラーヒューマンストーリーII プロレスラー男の履歴書』p104-111
  3. 前哨戦のタッグマッチでは森嶋が杉浦を99秒でピンフォール勝ちしていた。
  4. この試合での調印式でバーナードから突然、パワーボムで調印席に叩き落とされ腰を負傷する。
  5. 5月9日(月)杉浦選手記者会見の模様|PRO-WRESTLING NOAH OFFICIAL SITE
  6. 選手紹介|PRO-WRESTLING NOAH OFFICIAL SITE
  7. 8月17日試合結果|プロレスリング・ノア公式サイト
  8. 8月18日試合結果|プロレスリング・ノア公式サイト
  9. これに関して杉浦は『正月の恒例』と受け止めており、自身の娘からも『そろそろ後藤戦だね』と言われたことを東京ドーム大会対戦カード発表会見後のインタビューで語っている。[1]
  10. 杉浦貴選手欠場のお知らせ”. 2012年11月23日閲覧。
  11. “杉浦貴が5か月ぶりに復帰”. 東京スポーツ. (2012年8月26日). http://www.tokyo-sports.co.jp/prores/34120/ 2012年11月23日閲覧。 
  12. “欠場1か月の杉浦げっそり105キロ→89キロ”. 東京スポーツ. (2012年4月13日). http://www.tokyo-sports.co.jp/prores/3839/ 2012年11月23日閲覧。 
  13. 杉浦貴選手欠場のお詫びとご報告。記者会見の模様【ご理解賜りたく重ねてお願い申し上げます】 プロレスリングノア. 2017年6月5日(2018年3月11日閲覧)
  14. 2010年、新日本の東京ドーム大会での試合をテレビ朝日『ワールドプロレスリング』で放送した際に、テレビ朝日の古澤琢アナウンサーがこの名称を使用
  15. プロレス万博!抱腹絶倒の第1夜・杉浦選手超ヤバい秘密公開マッチ - 芸人報道GNN
  16. GHC新王者の杉浦が新日本出撃を示唆=ノア 丸藤が新技披露で復帰戦に勝利 - Sportsnavi・2009年12月7日
  17. “杉浦が“共演中”の妻夫木聡に来場要請”. 東スポweb. (2014年8月13日). http://www.tokyo-sports.co.jp/prores/mens_prores/300778/ 2017年5月5日閲覧。 
  18. “フジテレビドラマ「若者たち2014」選手出演のお知らせ”. プロレスリング・ノア公式サイト. (2014年6月27日). http://www.noah.co.jp/news_detail.php?news_id=6243 2017年5月5日閲覧。 
  19. “いきものがかり、10/15放送『スッキリ!!』で新曲MV初オンエア”. BARKS (ジャパンミュージックネットワーク). (2015年10月13日). http://www.barks.jp/news/?id=1000120598 2015年10月17日閲覧。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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