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雅樹ちゃん誘拐殺人事件

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Lua エラー package.lua 内、80 行目: module 'Module:Message box/configuration' not found 雅樹ちゃん誘拐殺人事件(まさきちゃんゆうかいさつじんじけん)は、1960年5月16日東京都世田谷区で発生した男児誘拐殺人事件のことである。

事件の経緯[編集]

1960年5月16日 慶應義塾幼稚舎の2年生であった、世田谷区のカバン製造会社の社長の長男(当時7歳。以下「被害者」という)が、幼稚舎に登校するため自宅近くのバス停を出る。
幼稚舎の栄養士が、目黒駅付近のバス停で1人の男(以下「M」)に連れられて学校とは反対方向に歩く被害者を目撃(栄養士は翌17日捜査員に証言した)。
午前11時過ぎ 被害者宅にMから電話。
「メモを用意してください。お宅の息子さんを預かってます。女中さんに200万円を包んだ風呂敷包みだけを持たせて、(午後)3時ごろ信濃町駅に来させて、神宮外苑を一周し、千駄ヶ谷駅に出て、タクシー池袋に出て、そこから西武電車大泉学園駅を降り、都民農場行きのバスに乗って、終点で降りて、バス通りを川越鉄道まで出てから、都民農場まで後戻りさせなさい。警察に届けないこと。約束さえ守れば1時間以内に子供(被害者)を返します。200万円は新札ではダメです」
電話を受けた被害者の母親は、幼稚舎に問い合わせて被害者が登校していないことを知る。
午後0時半過ぎ 被害者の父親と幼稚舎が各々被害届を提出、秘密裏に捜査を開始。
午後2時半頃 Mから被害者宅に電話。
「お金は用意できましたか?お子さんは大丈夫ですよ。何もひどいことはしてないし、女がそばにいるから大丈夫です。子供さんは眠っています。睡眠薬を飲ませたので」
この電話の後で被害者宅のお手伝いの女性が、現金に見せた新聞紙を風呂敷に包み(1回目の脅迫電話の指示通り)移動。捜査員が張り込んだものの犯人は現れず、この日は何の連絡もなく終わる。
午後3時半頃 ある女性が杉並区上荻窪在住の歯科医師M宅を訪問。玄関に鍵がかかっておらず、M宅の家主の夫人と二人でM宅に入ったところ、玄関に児童用レインコートや白襟の付いた上着や紺色のフェルト帽子が放りっぱなしになっており、奥の四畳半に7つぐらいの男の子が寝ていた。女性はその男の子に「どうしたの?」と尋ねたところ「病院のおじさんと目黒から来た」と返事をする。
1960年5月17日 午前11時半 新宿区柏木に住む『太田芳男』と名乗る人物から「300万円を持って1時より新宿地球座(映画館)で連絡を待て。約束を守らないと取引を打ち切る」という内容の電報が届く。新宿電報局に照会したところ午前9時57分ごろ送信されたことが判明。
午後1時 被害者宅のお手伝いの女性が電報の指示に従って地球座に行くものの、Mは接触せず。
午後7時頃 Mから電話。
「約束を破った。警察官が付いていた。今度は約束を守ってください。(午後)8時半に大泉学園からバスで大泉風致地区で降り、左に折れて突き当たったら戻ってください。そこで取引をする」
午後8時頃 被害者宅のお手伝いの女性が脅迫電話通りに移動。捜査員も張り込むが、またもMは現れず。
午後11時20分頃 Mから被害者宅に電話。
「尾行させていた。今度金を取引する場所、時間は後で連絡する」
これ以降、Mは一切の接触を断つ。
一方、捜査本部には「被害者らしい子どもがテレビを見ている」というM宅のお手伝いの通報があったものの、捜査陣はあまり重要視しなかった。
1960年5月18日 朝方、マスコミが誘拐事件を報道。16日午後にM宅を訪ねた女性が、目撃した男の子は被害者なのではと近所の派出所へ通報。これを受けて捜査陣がM宅への張り込みを開始。
午後8時半頃 M宅前に停まっていたルノーが突如急発進、捜査員が乗用車で追跡するも見失う。
1960年5月19日 朝方 M宅前に停まっていたルノーが杉並区上高井戸の路上で放置されているのを主婦が発見、被害者は後部座席から米俵状のものに包まれた遺体で見つかる。

事件の解決[編集]

犯人のM(当時32歳)は全国に指名手配されたが、7月13日、布施市(現:東大阪市)の工員の男性から「同居する男が指名手配犯に似ている」として交番に連絡をする。この男はハンドバッグの口金製造業に勤める「山田正五」なる人物と顔がそっくりであるという。犯人は盲腸の手術痕があるので、警察は「山田」と名乗る人物にもそれがあるのかを確認してほしいと依頼する。7月14日、工員の男性は「山田」と公衆浴場に誘ったが、それらしい跡は確認できなかった。

更にその3日後の17日、工員は「山田」の所持品を探ってみる。その「山田」のジャンパーのポケットにある手帳を見ると「誘拐事件に荷担(かたん)した」というメモが書かれてあり、「山田」と名乗ったMがその日の夕方警察に誘拐殺人の罪で逮捕された。

Mは1960年4月フランスで起きた自動車王のプジョーの孫・エリック誘拐事件(エリックは無傷であった)の記事を見て、金に困っていたことから身代金を目当てにした誘拐事件をしようと企てる。「狙うなら金を払いそうな金持ちの家の子供がいい」と思い付き、慶応幼稚舎の生徒を狙うこと、さらに多くの児童が鉄道からバスへ乗り換える国鉄(現JR東日本目黒駅周辺で連れ去るということも計画に挙げていた[1]

そして事件当日、Mは被害者に対し目黒駅で「お母さんに頼まれたので病院に行こう」と声を掛けて誘拐を図る。被害者は麻酔薬で眠らせたという。被害者宅の使用人に対し、場所を指定してあるので、そこに行くように指示を出した。都民農園付近は事件を起こす前日までに入念な下見を行い、逃げやすそうな場所に車を停めておいた。使用人の女性がバスでやってくると、逆の方向からバスで女性とMを追尾する警官を見つけたため、この日は受け取りを中止した。

事件2日目、指定した場所で女性を待ち合わせていると、Mは足を滑らせて肥溜めに落ちてしまい、ズボンとサンダルが汚れてしまったため家路に着く。そして3日目、犯人を特定しようと事件の詳細に至るまで過熱した報道を繰り返したメディアによって精神的に追い詰められたMは薬の影響で衰弱状態となっていた被害者を殺害しようと決断。口にゴムホースを使ってガスを入れ[2]、その上で首を絞めて殺害、自宅を監視されていることを知って、あわてたMは死体を乗せて逃走するが、パトカーとすれ違い、杉並区内で車を乗り捨てると、横浜市から大阪市へと逃亡。最後は布施市で住み込みの工員として仕事をしていたという。

Mが手帳に記した内容は虚偽であった。これは、逮捕された際にも自分以外に主犯がいると思わせて捜査を撹乱し、また裁判で有利になるための欺瞞工作として準備したものであった。しかし皮肉にも、この手帳を工員に発見されたことで逮捕に至ることになる[3]

この事件は誘拐事件において過熱した報道を繰り返したメディアに深い反省を与え、報道協定が定着するきっかけにもなった。

判決[編集]

逮捕されたMは1961年3月31日東京地方裁判所死刑判決を受ける。Mは死刑を逃れようと自身の大便を食べる等、精神異常者のふりをしたといい、精神鑑定でも「犯行時は心神耗弱」という結果が出たため、一度公判が中断されるが、5年後の1966年8月26日東京高等裁判所控訴棄却。翌1967年5月25日最高裁判所第一審(原審)を支持してMの死刑判決が確定。1971年宮城刑務所においてMの死刑が執行された。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

以下の参考文献において、記事名に実名が使われている場合、この箇所を伏字ないしイニシャルとする

  • 毎日新聞1960年5月17日夕刊5ページ 「「天地堂」の長男を誘かい」
  • 毎日新聞1960年5月18日11ページ 「女づれの「オオタ」追及」
  • 毎日新聞1960年5月18日夕刊7ページ 「前に父を襲った犯人と同一人か」「ただもう帰して」
  • 毎日新聞1960年5月19日11ページ 「他の二学童もねらう」「雅樹ちゃん誘かい同じ男女?ニセ電話」
  • 毎日新聞1960年5月19日夕刊7ページ 「前日、近所の人が一報"M宅があやしい"」「警視庁、慎重すぎて黒星」「〝捜査の欠点〟と思えぬ 新井刑事部長」「おとなしそうな「M」金ほしさからの犯行」「悲しみの(雅樹宅)家」「前夜に「殺す」と予告」
  • 毎日新聞1960年5月20日10ページ 「雅樹ちゃんの悲劇は教える」「捜査が一本調子」「子供に悲しい警戒心」「地域の人の協力を〝マネ〟されるのが心配」
  • 毎日新聞1960年5月20日11ページ 「「母親の命も…」と電話」「雅樹ちゃん殺し昨夕また「M」から?」「18日、ガスで凶行?警官とスレ違いに逃走」「胃の中はカラ…ヒタイにコブ二つ」「Mにも三児 愛人つくり金ほしさ」
  • 毎日新聞1960年5月20日夕刊7ページ 「「M」都内に潜伏か 雅樹ちゃん殺し昨夜、三度も脅迫電話」「警官、店員らが警戒 不安におののく(雅樹宅)家」

脚注[編集]

  1. 当時はまだ地下鉄日比谷線が開通しておらず、慶應義塾幼稚舎の校舎へ向かうには目黒駅か恵比寿駅のいずれかからバスに乗り換える必要があった。
  2. 当時、東京ガスが供給していた都市ガス石炭ガスの3Cで、ガス中に0.1~4%程度の一酸化炭素が含まれていた。
  3. 3.0 3.1 実録事件スペシャル★青年が体験した恐怖の6日間 2015年6月1日閲覧。

外部リンク[編集]

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