大阪市
大阪市(おおさかし)は、大阪府中部に位置する市。大阪府の府庁所在地および近畿地方で最多の人口を有する市であり、政令指定都市に指定されている。また、梅田駅周辺に日本最大級の超高層ビル群(100m以上のビルの数)、売上高を擁する世界規模の大都市である。
西日本および近畿地方の首位都市であり、経済・文化・交通の中心都市。東京に次ぐ日本第2の都市として機能している。また、近隣の京都市や神戸市と共に、世界有数の経済規模を誇る京阪神大都市圏の都市中枢を成す。市域は24の行政区からなり、市庁所在地は北区中之島(淀屋橋)。市域に多数の河川や堀を有し、歴史的にも港湾機能や河川交通が発達していたことから「水都」の異名を持つ。
古墳時代から江戸時代にいたるまで、日本国の経済、文化の中心地として、広くヒトやモノを惹き付けてきた都市である。大阪で生まれた住友、三菱などの財閥系企業や銀行が、日本政府の要請に応じる形で本社を東京に移すにつれ、経済の中心地としての影響力は低下したものの、日本第二の都市としての地位は健在である。国際社会においても世界有数の住みよい街と評されている(後述)。 4世紀に都として仁徳天皇の難波高津宮や難波宮が置かれて以降、都市として日本最古の1700年に及ぶ歴史を有する。現在では万博やIR(カジノ)を積極的に誘致するなど、商都として商業や国際観光などが盛んな、アジア屈指の世界都市である。
概要[編集]
大阪の都市としての源流は、弥生時代後期〜古墳時代に遡る。日本書紀によると、第15代応神天皇が難波大隅宮を、第16代仁徳天皇が難波高津宮、または東高津宮を整備し、さらには国内流通の中心として住吉津や難波津が開港したことで、都市として本格的なスタートを切った。第36代孝徳天皇は改新の詔を発し、その第2条で初修京師として難波宮を日本で初めて首都として定めた。また、難波宮から日本という国号とともに元号の使用が開始された(→大化の改新)。なお、その後の度重なる遷都により、首都は現在の奈良市・京都市などに移ったため、その後は主に商都として歩むことになる。
市域を中心(首位都市)として、大阪都市圏/阪神都市圏/京阪神大都市圏を形成。大阪市の市内総生産は約23兆円で、国内では東京区部に次ぐ規模であり、政令指定都市(以下、政令市)中最大である。これは、北海道、兵庫県など1つの道府県の県内総生産を上回り、約370万人の人口を持つ横浜市の約1.5倍の市内総生産である。また、京阪神大都市圏としては圏内総生産約80兆円、世界7位の経済規模を有する。
夜間人口は約275万人(全国2位)、人口密度は政令市中1位(全市町村中5位)、昼間人口は市外から多くの通勤・通学者が流入するため、約354万人である。面積は、政令市(全20市)の中では川崎市、堺市、さいたま市に次ぎ4番目に小さい。これは横浜市のおよそ半分、名古屋市の3分の2程度であるが、行政区が24区と政令市中最多であるため、面積が10km2に満たない行政区が多い。近年では都心回帰が顕著で、大阪都心6区や都心9区を中心に人口が増加しており、西区や城東区では人口密度が2万人/km2を超えている。
古代には、難波宮擁する首都として、また住吉津や難波津などの港を擁する国内流通の中心地として栄え、水の都と称された。中世には、渡辺津や浄土真宗の本山であった石山本願寺が置かれ、寺内町として商工業が発展。近世初期には、上町台地の先端付近に豊臣秀吉が大坂城を築城し、城下町が整備された。江戸時代には天領となり、経済・交通・金融・商業の中心地として発展。世界初の先物取引市場である堂島米市場が置かれ、当時の経済の中心であった米の中央市場として機能した。大坂は経済の中心地として天下の台所と称され、商業の町で豊かな町人文化(上方文化)を育んだ。
明治期に入ると、東洋紡など繊維工業を中心とした工業都市へと発展し(→船場の繊維問屋街)、「東洋のマンチェスター」「煙の都」と称された。 大正初期に池上四郎が第6代大阪市長に就任すると、大阪市は急速な発展を遂げる。1925年に第2次市域拡大を行い、人口は当時の東京市を上回る211万人に到達。面積・人口・工業出荷額で一時的に国内1位、欧米の大都市に次ぐ人口世界6位の大都市へと成長した。このころの大阪は大大阪時代と呼ばれた。1923年には都市計画学者である關一が第7代大阪市長に就任。關は堺筋に代わる市のメインストリートとして、御堂筋の拡張整備を行い、その地下に日本初の公営地下鉄である大阪市営地下鉄(現:Osaka Metro)御堂筋線(梅田駅 - 心斎橋駅間)を建設するなど、現在につながる大阪の都市インフラの基礎を作り上げた。
他方、古来より卸売業を中心に商業活動も活発であり、道修町(薬種)、松屋町(玩具)、本町・船場(繊維)など市内各所に江戸時代からの歴史を持つ問屋街が発達している。
現代では商都として、日本国内はもとよりアジアを中心に世界から訪問者が訪れる国際集客都市として、主に商業が繁栄。梅田・北新地を中心としたキタや、難波・心斎橋を中心としたミナミといった日本屈指の繁華街を有している。他にも天王寺や新世界、京橋、上本町、十三などの繁華街を擁し、阿倍野・天王寺エリアにあるあべのハルカスは高さ300mと日本2位の高さの超高層ビルである。中之島・淀屋橋や北浜界隈の伝統的なオフィス街には、金融街が形成されており、旧住友財閥(住友グループ)各社が拠点を構える「住友村」とも呼ばれている。また、梅田・堂島・中之島一帯や、京橋に近い大阪ビジネスパーク (OBP) には超高層ビルが林立しており、華やかな都市景観(スカイライン)が見られる。大阪市役所が所在する中之島や、大阪府庁が所在する大手前周辺には、官公庁や公的機関が数多く立地している。
イギリスの調査機関、エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによる「最も住みやすい都市」ランキング(2019年度版)において、大阪市は、ウィーン、メルボルン、シドニーに次ぐ世界4位、アジア1位の都市と評価され、2023年度版でも、ジュネーブ、トロントに次ぐ世界10位、アジア1位の都市と評価されている。評価理由としては、合理的な都市設計、治安、物価、高度な教育・医療・交通、テロの脅威の少なさ、などが挙げられている。アメリカのシンクタンクが発表している世界都市ランキング「2020 Global Cities Index(世界都市の指標)」において、世界7位の都市と評価された。 イギリスのシンクタンクが発表した2022年の報告書「The Global Financial Centres Index(世界金融センター指標)」によると、世界37位の金融センターと評価されている。
人口[編集]
大阪市の人口は、国勢調査では1920年の第1回調査で1,252,972人と全国2位だったが、1925年4月に第2次市域拡張を実施し、同年10月の第2回調査で2,114,804人(旧市域:1,331,984人、新市域:782,820人)と全国1位になった。第2回調査で1,995,567人だった東京市はそれでもまだ大阪市の旧市域より約66万人多く、飽和状態の旧市域ではなく宅地開発の余地がある新市域の増加分で逆転した形である。このことは1932年に市域拡張を実施して大阪市を抜き返した東京市にも当てはまる。第2次市域拡張以降の大阪市の人口は著しい増加が続き、1940年の第5回調査で3,252,340人とピークに達した。
戦災によって1945年11月の人口調査で1,102,959人と激減したが、1965年の第10回調査で3,156,222人にまで回復した。以降はドーナツ化現象によって再び減少に転じ、1978年には横浜市に抜かれ全国3位に転落。2000年の第17回調査で2,598,774人にまで減少した。しかし21世紀に入ると都心回帰により再び増加に転じ、2020年の第21回調査で2,752,412人となっている。
2015年から2020年の増減を行政区別で見ると、大阪都心6区は全て増加(西・北・中央の3区は増減率10%以上、福島・天王寺・浪速の3区は増減率5%以上)となっており、都心回帰が顕著である。周辺の区は東成・淀川・阿倍野・都島・城東・東住吉・鶴見・東淀川・西淀川の9区が増加(東成区は増減率5%以上)、住吉・港・此花・旭・生野・平野・住之江・大正・西成の9区が減少(西成区は増減率マイナス5%未満)となっており、南部の減少傾向が顕著である。旭・生野・西成の3区は1965年から、大正区は1970年からそれぞれ減少が続いており、特に西成区は1960年のピーク時から概ね半減している。
大阪市は自然動態(出生-死亡)が減少する一方、社会動態(転入-転出)は増加しており、2017・2018年共に大阪市は全国2位(市町村別)の人口増となっている。また、2020年の人口移動報告(外国人を含む)によると、大阪市は16,802人の転入超過(転入者が転出者を上回る)となり、同年の東京23区(13,034人の転入超過)を上回り、市町村別で全国最多となった。
近年、都心部では、オフィスビルの容積率が緩和されたためオフィスビルの建て替えが進み、老朽化したオフィスビル跡地での高層マンションの建設が増加した。その結果人口も増加し、都心部の小学校などでは教室の数が足りず増築工事などを行っている小学校もある。北区では、さらなる児童数の増加を見越して、令和6年度に中之島小中一貫校が新設される。
大阪市は一世帯当たりの人員が約1.91人であり、政令指定都市の中で最も少なくなっている。