尾畠春夫
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おばた はるお 尾畠 春夫 | |
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国籍 | 日本 |
職業 | ボランティア活動家 |
著名な実績 |
大分県「ごみゼロおおいた作戦功労賞」(2012年) 環境省「平成26年度地域環境美化功績者表彰」(2014年) 大分県「日出町功労者表彰」(2018年) |
尾畠 春夫(おばた はるお、1939年 - )は、大分県速見郡日出町在住のボランティア活動家[1][2]。元鮮魚商[3][4]。2012年、大分県「ごみゼロおおいた作戦功労賞」、2014年、環境省「平成26年度地域環境美化功績者表彰」受賞[5][6]。2018年、大分県「日出町功労者表彰」受賞[7]。
人物[編集]
大分県国東半島の貧しい家庭に生まれ、幼少時に現在の杵築市に引っし育つ。父は下駄職人であったが、履き物がゴム製品に変わる頃で、商売は順調ではなかった。母は専業主婦であったが、尾畠が小学校5年生時の41歳で他界。母の死は尾畠に大きく影響する。父は酒好きであったが、妻の死後何人もの子供を抱え、下駄は売れず厳しい現実から逃れるため、やけ酒に走る。7兄弟の4番目の尾畠は、「大飯喰らいだから」という理由で一人だけ近所の農家に小学5年生で奉公に出される。この時、尾畠は「世の中なるようにしかならない。やるだけやってやろう」と心を入れ替え、奉公先の主人や家族を親だと思い、何でも言うことを聞くような生活に入る。すべては生きるためだったが、この時の経験が宝になっていると感じるに至り、恨みの対象だった父がいつしか感謝の対象に変わるのを経験する[8]。
1955年(昭和30年)に中学を卒業するとすぐに姉の紹介で別府の鮮魚店の小僧となる。姉は、働きたいという尾畠に対し「あんたは元気がいいから魚屋になりなさい」といった。別府駅に向かう際、父から青い10円札を3枚持たされ、珍しく大盤振る舞いだなと喜んだものの、その30円は片道切符代に過ぎないことを知り、帰るという選択肢がないと知る。鮮魚店ではあらの煮つけが出たが、芋とカボチャの日々だった尾畠は、こんなうまいものはないと衝撃を受ける。別府の鮮魚店で3年間修業の後、下関市の鮮魚店で3年間フグの勉強をする。その後、神戸市の鮮魚店で関西流の魚のさばき方やコミュニケーション術を4年間学ぶ。10年の修業後独立するつもりだったが、給料が安く貯金は0だった。開業資金を得るために上京し、大田区大森の鳶・土木の会社に「俺には夢があります。3年間どんな仕事でもするので働かせてください」と頼み込み就職するが、この時の鳶と土木工事の経験が、現在のボランティア活動に役立っていると述べている。会社からは、残って頭になれと熱心に誘われるが、1963年(昭和43年)、大分に戻ると4月には結婚。同年11月には28歳にして別府市内に鮮魚店「魚春」を開業[8][9]。
40歳から趣味で登山をはじめ、45歳の時に北アルプス55山を単独縦走。2003年、60歳頃からは、ホームグラウンドとしていた由布岳登山道の整備などのボランティアを開始[10]。65歳からは本業だった鮮魚店をやめ、余生をボランティアに捧げる[1]。
新潟県中越地震を皮切りに[1]、東日本大震災、熊本地震、西日本豪雨などの多くの被災地で活動を継続。2011年3月、東日本大震災被災地の宮城県南三陸町では、がれきの中に埋もれた思い出の写真などを拾い集める「思い出探し隊」の隊長として約500日間活動。この際、好きだった酒をきっぱり止める[1]。若いボランティアから「師匠」と慕われていた。2012年、大分県から「ごみゼロおおいた作戦功労賞」、2014年には、環境省「平成26年度地域環境美化功績者表彰」を受賞している。2018年8月15日に山口県周防大島町で行方不明の2才児を救出。2018年8月20日には、大分県知事・広瀬勝貞が尾畠の長年の功績を讃え、大分県功労者表彰を授与する意向を示している[11]、また8月22日には在住する日出町も「日出町功労者表彰」を贈る方針を明らかにし[12]、同年9月3日に授与された[7]。
家族[編集]
妻・息子・娘・孫娘1人・孫息子4人[13]。
経歴[編集]
- 2004年、新潟県中越地震のボランティアに参加。
- 2006年4月1日に鹿児島県佐多岬を徒歩で出発して太平洋側を北上し、7月1日に北海道宗谷岬に到着して日本列島を縦断[14]。
- 2010年12月、由布岳の登山道をボランティアとして整備し始めて17年経過。
- 2011年3月、東日本大震災のボランティアとして宮城県の南三陸町に行き、がれきの中に埋もれた思い出の写真などを拾い集める「思い出探し隊」の隊長として活動[15][16][4]。
- 2014年、自費で登山道の清掃や案内板の設置を続け、環境省から表彰を受けた[6][5]
- 2016年、熊本地震のボランティアに参加[4][17]。
- 2016年12月、大分県佐伯市で行方不明になり、約21時間後に発見された当時2歳の女児の捜索に参加[4]
- 2018年7月、西日本豪雨のボランティアに参加。広島県呉市天応地区で3週間活動[18]。
- 2018年8月15日、山口県周防大島町家房で行方不明になっていた2才の男児を救出するためボランティアとして現地に赴き、3日間発見されなかった男児を20 - 40分の間に発見、救出。山口県警より感謝状を受ける[19]。連日のニュースでスーパーボランティアとして話題となり、著名な芸能人などから称賛された[20][4]。
- 2018年8月18日、広島県呉市でのボランティア活動に再び参加[18]。
- 2018年9月3日、「大分県日出町功労者表彰」受賞[7]。
発言や生き方について[編集]
ボランティア活動に対する考え方[編集]
- 東日本大震災のボランティア時にそれまでは浴びるほど飲んでいた酒をきっぱり止める。その理由は、避難所のベイサイドアリーナには1800人もの避難者がおり、身動きもできないほどの大変な混雑ぶりであるにもかかわらず、誰も文句を言う者がない。同じ日本人でありながらこんな思いをしている人がいるんだと思った。酒なんか食らっている場合ではないと思ったため。その後、現在まで1滴も飲んでいない。尾畠は、断酒したわけではなく、中断しているだけだという。東北3県の仮設住宅がすべて取り除かれたとき、解禁すると述べている[1]。
- 軽ワゴン車に食料や水、寝袋などの生活用具を積み込み、助ける相手側に迷惑をかけないのが信条。「自己完結するのが真のボランティアだ」という[21]。
- ボランティア時の食事はパックご飯とインスタントラーメン。パックご飯は温めるとガス代がかかるのでそのまま食べる。寝泊まりするのは軽ワゴン車の後部座席で、被災地のどんな環境でも寝られるようにするため、普段からゴザの上で寝る習慣がある。ボランティアに使用する軽自動車は2018年現在13年間使っており、走行距離は約20万㎞。故障したことは一度もない。ボランティア時は風呂もシャワーも浴びず、帰宅後温泉に3-4時間入る[1]。
- ボランティア時には言動すべてに気をつける必要がある。「暑い」とは絶対に言わない。自分が被災者であったならば、どう思うのか。ボランティアさせていただいているという立場を忘れてはいけない。赤い服を着用し背中に大きく名を書くのはには理由があり、被災している方は身元がわかるほうが安心するから。黙っていると怖いと思われるので、よく話すこと。すべては安心感をもってもらうことに努める[1]。
- 「対価、物品、飲食、これは絶対、頂かない。敷居をまたいで家の中に入ることもボランティアとして失格だと思っている。私はそれで良いと思うんですよ。人がどうしようと関係ない。尾畠春夫は自分なりのやり方がある。」[22]
- 「表彰を受けたからといって、必要以上に頑張ろうとは思わない。今まで通り、ボランティアを続けていくだけ」[23]
- いつかは沖縄で遺骨収集したい。ガマと呼ばれる沖縄の自然の洞窟には相当な数の兵隊の骨が残っているが、その捜索がしたい。2018年に実行する予定で、道具の準備もしていたが、災害が続発して断念した。2019年春には実行したい[1]。
生き方について[編集]
- ボランティアを本格的に始めたのは、大分県別府市にあった店を閉めた65歳のころ。「学歴も何もない自分がここまでやってこられた。社会に恩返しがしたい」と思ったから」と、全国各地で車中泊しながら、ボランティア活動を行ってきた[24][25]。
- 「人に、世の中に、恩返ししたい」が口癖。 広島県廿日市市を旅しているときに、通りすがりの夫婦から「旅の足しに」と千円を受け取ったことが、2018年に広島入りする動機の1つになった[26]。
- 活動費は自分の月約5万5000円の年金から捻出。貯金は0等しい。尾畠は一方で、「商売人ですからカネには執着している。それは今も同じ」だが「ないものは追っても仕方ない。私は逃げるものは追いかけない主義です。そのときの状況に応じた生活をしているだけ」[21][1]
- 78歳時点での将来の夢は「夜間の高校に行って勉強したい」[27]。
- 2018年現在、健康保険証は11年使用していない。大病は40歳の頃の腸捻転だけ。自宅にいるときは毎日8㎞ほどジョギングを欠かさない[1]。
- 健康の秘訣を体にいいものを食べることといい、タンポポ、オオバコ、ドクダミ、ヨモギなどの野草を集め、茹でて酢醤油で食べている。桑の葉が特にうまいという。この食生活は登山を始めた40歳の頃から続けているが、家族には勧めないし、家族で食べているのは尾畠だけだという[1]。
- 「カミさんは、いまは旅に出ている。一人旅です。「自由にしたい」って。5年前に出かけて…、まだ帰ってない」と語った。今の自宅は妻と老後をゆっくり過ごすために買ったもので、妻も鍵は持っている。いつでも帰れる状態にしている[1]。
- 息子は公務員で市役所に勤めており、自分とは真逆の人生を歩んでいる。「魚屋を継いだほうがいいかな」と聞かれたことがあるが、そのときは、「お前には継がせないよ」と怒った。自分の人生は自分で歩むべき。私は子供に対してどうこうしろと言ったことはない。国民の義務さえ果たしていれば何をしてもいい[1]。
- 携帯電話もカーナビも使ったことはない[1]。
- かつてはヘビースモーカーでピースを2箱吸っていたが、当時高校生の孫に65歳を過ぎると体力が急激に落ちるから絶対にやめろといわれ、孫の言うことは天の声だと思い、その場ですべて燃やした。この孫は、尾畠の影響で登山をしている[1]。
- 来る人は拒まず。しかし、マスコミはすぐいなくなるでしょう。私なんて一過性のもの。日本人は熱しやすく冷めやすい。自分のことなどすぐ忘れる。花火では線香花火が好きだが、小さくて長持ちする、そんな生き方がしたい[1]。
2018年8月の行方不明者捜索について[編集]
- 「人の命より重いものはない。尊い命が助かってよかった」と涙を浮かべた[28]。
- 行方不明になった子供を探していた家族に対し「私が抱きしめて直にお渡しします」と約束していた。そのため、実際に発見した際に山口県警察から子供の引き渡しを要請されたが、「口約束も契約」「言うたことは守る」と拒否、直接家族に対して子供を引き渡している[25]。
エピソード[編集]
- 南三陸町でのボランティアのきっかけは、2006年に鮮魚店をやめ、徒歩による日本縦断の旅に出た際に立ち寄った南三陸町歌津で野宿した際、地元の住民から混ぜご飯を分けてもらったことがあり、震災発生後この住民の安否が不明となったため3日がかりで駆け付けたことであった。この住民は無事で、尾畠はその翌日から、この地でボランティア活動を開始した[3]。
外部リンク[編集]
脚注[編集]
- ↑ 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 1.14 1.15 “週刊現代(齋藤 剛) - 酒も飲まず、貯金もゼロ…スーパーボランティア尾畠春夫さんの生き様 私が被災地に行く理由【後編】”. 2018年9月17日閲覧。
- ↑ 尾畠春夫さん特集ページ 日出町広報 2018.09.11閲覧
- ↑ 3.0 3.1 “朝日新聞デジタル【アーカイブ】71歳大分から軽自動車で 一飯の恩忘れず「思い出探し隊」に 若者たちから師匠と慕われ 南三陸 越田省吾 2018年8月16日00時00分【2011年4月27日版 朝刊宮城版】”. 2018年8月20日閲覧。
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 “産経WEST - 不明2歳男児発見、ボランティアの尾畠さんに称賛相次ぐ 幾多の被災地で活躍、「師匠」と呼ばれ”. 2018年8月20日閲覧。
- ↑ 5.0 5.1 “環境省「平成26年度地域環境美化功績者表彰」受賞者”. 2018年8月20日閲覧。
- ↑ 6.0 6.1 “男児発見の尾畠さん「恩返し」の奉仕活動 被災地や山で20年以上”. 西日本新聞社 (2018年8月16日). 2018年8月24日閲覧。
- ↑ 7.0 7.1 7.2 “尾畠春夫さん:町功労者表彰に「体力と健康続く限り」”. 2018年9月3日閲覧。
- ↑ 8.0 8.1 “週刊現代( 齋藤 剛)スーパーボランティア・尾畠春夫さんが語った「壮絶なる我が人生」私が被災地に行く理由【前編】”. 2018年9月18日閲覧。
- ↑ 引用エラー: 無効な
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タグです。「postseven.com
」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません - ↑ “2018年8月16日 朝日新聞DIGITALアーカイブの2010年12月4日の朝刊大分版”. 2018年8月20日閲覧。
- ↑ “2歳男児発見の尾畠さん、大分県が功労者表彰へ”. 読売新聞. (2018年8月21日) 2018年8月21日閲覧。
- ↑ “あの尾畠春夫さん表彰へ 在住の大分・日出町”. 毎日新聞. (2018年8月22日) 2018年8月23日閲覧。
- ↑ 。“尾畠春夫さん、「ミヤネ屋」の取材に「奥さんは5年前に用事があってまだ帰ってこない」”. スポーツ報知. (2018年8月17日)
- ↑ “徒歩で日本列島縦断、尾畠さん快挙を同級生が祝う”. 朝日新聞デジタル. (2018年8月16日) 2018年8月19日閲覧。
- ↑ “不明2歳男児発見、ボランティアの尾畠さんに称賛相次ぐ 幾多の被災地で活躍、「師匠」と呼ばれ”. 産経WEST. (2018年8月17日) 2018年8月24日閲覧。
- ↑ “<山口・2歳児救助>尾畠さん、東日本大震災でも南三陸支援に尽力「さすが私たちのヒーロー」”. 河北新報. (2018年8月17日) 2018年8月24日閲覧。
- ↑ “ボランティアの難しさ 「善意」と「ニーズ」のマッチング 76歳ベテランが引っ張る現場”. Wedge編集部 (2016年5月1日). 2018年8月26日閲覧。
- ↑ 18.0 18.1 “NHK NEWS WEB 2歳児発見の尾畠春夫さん 豪雨被災地で土砂撤去 広島 呉”. NHK (2018年8月19日). 2018年8月20日閲覧。
- ↑ 行方不明幼児の発見保護に対する感謝状の贈呈(8月15日発表、柳井署)
- ↑ “男児発見の尾畠さんに「国民栄誉賞を」 ネットで待望論、著名人からも”. J-CASTニュース (2018年8月16日). 2018年8月24日閲覧。
- ↑ 21.0 21.1 “酒も飲まず、貯金もゼロ…スーパーボランティア尾畠春夫さんの生き様” (2018年8月25日). 2018年8月25日閲覧。
- ↑ “テレ朝NEWS:謝礼を断固拒否!尾畠さん流儀←ネットで称賛の嵐” (2018年8月16日). 2018年8月24日閲覧。
- ↑ “発見時のTシャツ姿で、尾畠さんを功労者表彰” (2018年9月3日). 2018年9月7日閲覧。
- ↑ 原篤司 (2018年8月16日). “活動費は年金から 風呂も断った尾畠さんが貫く信念”. 朝日新聞デジタル. 2018年8月24日閲覧。
- ↑ 25.0 25.1 “「大臣が来ようが関係ない。罰を受けても直に家族にお渡ししたかった」行方不明2歳児を発見した男性が会見”. AbemaTIMES (2018年8月15日). 2018年8月24日閲覧。
- ↑ 「恩は返さにゃいけん」 河北新報 2018年8月29日16版P.27
- ↑ “「2歳救出」尾畠さんの「将来の夢」 回答知って、ネット「号泣した」「鼻の奥がツーンと...」”. J-CASTニュース (2018年8月17日). 2018年8月25日閲覧。
- ↑ “「沢の奥から「ぼく、ここ」 山口・2歳児発見 母「胸いっぱいに」”. 東京新聞 (2018年8月16日). 2018年8月26日閲覧。
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