倉石灯

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Lua エラー package.lua 内、80 行目: module 'Module:Message box/configuration' not found 倉石 灯(くらいし あかり、1959年7月29日 - )は、アメリカ合衆国の商業不動産投資専門家(CCIM)、マッサージセラピスト(CMT)。

通称は倉石ルーク(LUKE KURAISHI)、法名は大智(だいち)。

倉石ルークと大村愛知県知事(2018年5月10日撮影)

長野県長野市出身。テキサス州プレイノ在住で和魂洋才を伝える。

略歴[編集]

著者プロフィールより[1]

倉石灯(くらいし あかり)

ルーク倉石。和魂リアルティ株式会社(www.wakonusa.com)CEO。1959年、長野市出身。

防衛大学校管理学部卒業。1984年、渡米。ダラス大経営大学院卒業(MBA取得)。1987年、米国三井不動産販売株式会社入社。同社副社長兼ブローカーオフィサーを務める。十数年の在職中には、会社として総額約2百億ドル分の米国商業不動産を証券化。

1997年、米国最高峰の認定不動産投資顧問資格CCIM取得。同社退職後、日米で十数社の役員を務め、自らが代表取締役を務める会社を株式公開。カリフォルニア州倫理法人会副会長、麺友会副会長などを務める。ダラスに出身地の善光寺を建立し、和の心(和魂)を伝えるため、2019年、得度を受け法名「大智」を授かる。現在、阿闍梨の加行中。カリフォルニア州オレンジ郡日系協会より功労賞、国際教養振興協会より優秀個人賞を受賞。(以下略)

関連リンク[編集]

人物[編集]

著者紹介より[2]

私は長野市の出身です。物心ついた頃から蕎麦が大好きで「産湯は蕎麦湯だった」という噂もあるくらいです。当時、百年ほどの歴史があった地元の市立小学校(芹田小学校)から長野県の国立の中学(信州大学教育学部附属長野中学校)に進んだのですが、都会に憧れ周囲の反対を押し切って東京の国立市にある私立高校(桐朋高校)へ進みました。合格発表で自分の名前を見つけ、東京の進学校に入れた嬉しさで、国立駅で待つ母のもとへ大学通りの桜並木を走って行ったことは今でも鮮明に覚えています。

そこまでして入った高校時代ですが、大学生に交じって下宿生活をしており、バンド活動に明け暮れた退廃的な日々を過ごしてしまいました。もはや自力ではまともな人生を歩めないと思って浪人して入った学校が防衛大学校(防大)だったのです。

小学校から高校まで私服通学だった私が初めて大学で制服を身に着けました。常識が無い私は、入校した頃は大変でした。

防大生は敷地内の学生舎での集団生活が義務付けられており、8人部屋で生活します。各部屋で好きな新聞を購読しているのですが、先ずその新聞配達の仕事を命じられたのです。映画が好きな私の新聞配達のイメージは、自転車で新聞を庭にポンポン投げていくものでした。各部屋にポンポン新聞を投げ入れていった私がどうなったかはご想像にお任せします。

そんな私も二学年になる頃には防大生活にすっかり馴染み、気が付くと下級生に厳しい嫌な先輩になっていました。

防大を卒業し久留米市の陸上自衛隊幹部候補生学校へ進んだ私は、このまま勉学や訓練に励んでエリートコースを進んでいくのが本当に自分の天命なのだろうかと悩みました。

自衛官を辞めることに上司や同僚からは反対され、苦悩の挙句に酒を大量に飲み過ぎたこともありました。

自衛官を退官した私は新天地アメリカに留学することにしました。今から33年前のロサンゼルス・オリンピックの年です。留学先は地政学的な観点からテキサス州ダラス市に決めました。

いきなり大学院に進んだ私は英語で苦労しました。しかし時が経つうちに言葉にも慣れ、交友関係が拡がりました。そんな中でアジア系の旅行会社を経営するチャンスが訪れたのです。台湾人の資産家が、元フライトアテンダントだった奥さんの為に旅行会社を買収したのですが、なかなか経営がうまくいかずにマネージャーを探していたのです。

その旅行会社の強みは、アメリカ人のスタッフは一人だけで後は全てアジアの様々な国の出身者が集まっていることでした。従って顧客は英語が苦手なアジア各国の人たちで、その取扱量が多いため、各航空会社からアジア向け航空券を安く入手出来たのです。

テキサスはビジネスに協力的なので色々と調べてみると、大きな企業はマイノリティの会社に仕事の一部を発注するようガイドラインがあることを見つけました。まさしくマイノリティの旅行会社なので、早速、地元大手の半導体企業に日本拠点から出向している方に頼んで営業に行きました。同社はアジア各国に拠点があり出張者も多いので強みを活かせると思ったからです。

暫くしてから同社のアメリカ国内の航空券手配も任されることになり、旅行会社は一気に黒字化しました。今では全米に約40拠点、4,000人以上のサブ・エージェントを抱える大旅行会社に成長しています。 

テキサスはトラメル・クローなど、大手不動産ディベロッパー発祥の地であり、日本から多くの不動産や建設業の方たちが頻繁に視察・訪問に来られるため、私は何度も通訳をさせていただきました。そのことを通して日米の大きな不動産会社のトップクラスの方々と面識を持つことが出来たのです。

私の父は建築家で、子供の頃はずっと製図台に向かう父の後ろ姿を見て育ったので、建物や不動産には元々興味がありました。アメリカの不動産会社の人と話す中で、私は不動産の証券化ビジネスに興味を持ちました。そして転職し、入社先には米国三井不動産販売を選びました。私が通っていた高校の理事長が三井不動産の江戸英雄会長で、三井財閥の番頭として戦後マッカーサー司令官と遣り合って三井の商号・商標を守った人ですが、その人の影響が強かったためです。

三井では主に不動産の小口化・証券化事業に携わりました。ちょうどバブル期だったこともあり、最低投資額が百万ドルもする商品に投資家が殺到しました。同じ飛行機で複数の投資家が視察に来ることも多々あり、皆で手分けして物件を案内したので、旅行会社での経験が役に立ちました。やがて時は流れバブルが崩壊し、在職中から新しいビジネスの準備を始めたのです。

最初に手掛けたのは、日本のアニメーション・ビデオの北米での販売権を小口化して投資家を集めて取得し、字幕版と吹替え版を製作販売するビジネスです。当時、アメリカでは日本のアニメは流行らないと思われており、「ゴルゴ13」や「科学忍者隊ガッチャマン」などのタツノコプロの作品などなどがアジアでの権利と比べかなり安く購入出来ました。その後1996年に「攻殻機動隊」が日本の映像作品として初めてアメリカのビルボードでビデオ販売週間売り上げ1位を取ってから状況が大きく変わったのです。「ジャパニメーション」という言葉が生まれるほど日本アニメへの注目が高まり、取り扱っているビデオ作品はどんどん売れていきました。

一方、不動産に関しては、アメリカ最高峰の認定不動産投資顧問資格CCIMを取得して、会社のバイスプレジデントおよびブローカーオフィサーとして業務に励んでいたのですが、バブル期には日本から押し寄せて来た投資家が、今度は同じ勢いでアメリカから撤退してしまい、この経験から将来を見据えて、退職を決意しました。

退職後は日本とアメリカの懸け橋となるべく、小口化手法を使った様々な事業を展開しました。日米間で十数社の取締役を務めて、毎週のようにアメリカと日本を往復する生活でした。移動は当時、ロサンゼルスからの成田到着時間が一番早かった大韓航空を頻繁に利用しており、昨年100万マイルを搭乗達成したとのことで同航空会社から立派なトロフィーと感謝状が届きました。

朝起きると日米どちらにいるか分からないことも多々ある生活に疲れていた頃に、防大時代からの付き合いで共にビジネスもしていた大親友から、彼が監査役を務める会社の女性経営者を紹介されて一緒に癒やしの事業をすることになりました。その経営者は今の配偶者である山本明美です。

明美は「常に未完成のしなやかな創造集団」という理念の下で1988年に福岡にて創業し、DTPから始まりデザインの仕事で、大手生命保険会社のホームページやパンフレット作成、某総合研究所からの各上場企業IRツールの企画制作、更には福岡の高速道路の夜間通行止め告知計画など行政の仕事までも受けてクリエイティブな提案をしていました。一日中コンピューターを使う仕事が多いため、整骨院やマッサージによく通っていたそうです。私も疲れを癒やすためによくスパへ行きマッサージを受けていたので、どこにもない新しい形のリラクゼーション事業を共に始めようと話が盛り上がりました。

五感の癒やしの中でケアとキュアのサービスを提供しようということで福岡天神センタービル地下1階に、い草や畳、竹炭、ポプラの木などの自然素材を内装に使用した「ボディケア利楽園天神店」を2002年にオープンしました。

空間と提供するサービスは明美が考えて私は必要資金を少人数私募債で集めました。その後、2004年に同事業体が株式公開したので、多くの投資家は社債を株に変えてくださり、手出しはほとんどありませんでした。

それまで私はエンジェルとしての立場から十数社の役員を務めて来ましたが、意思決定が出来ずに色々と歯がゆいところがあり、今回は明美と共同代表者として社長という立場で事業を拡大し、岩盤浴とボディケアの複合施設として、極楽湯やイオン、ユニクロなどの商業施設内やホテル内へ出店し、社内に一級建築士事務所をつくり、開発コストの削減と出店スピードを加速し、数年のうちに全国に利楽園ブランド20店舗、関連プロジェクト40店舗と拡げて行き、従業員も200人を超えていました。

そんな中、東京の神宮前店オープン2週間前に思いもしなかった危機が訪れたのです。電車の中吊り広告の見出しに大きく「岩盤浴は細菌・カビがウヨウヨだ!」と出ていたのです。全国的に飛ぶ鳥を落とす勢いで広がっていて、どこかの1店舗の事例を取り上げ、いかにも岩盤浴店全部にカビがあるような誤解を与えるものでした。その後、3週連続で岩盤浴叩きが掲載され、日本全国の同業者は客が激減し売上が平均3分の1まで下がり閉店を余儀なくされました。当社の岩盤浴併設店も半分まで売上が下がりましたが、開発事業があったことで、生き残りましたが、当時の風評被害の大きさは予想をはるかに超えるものでした。

この後の1年は資金繰りで大変でした。金融機関や株主への協力要請で全国を飛び回りました。ポジティブな策として、相乗効果のある上場企業との合併や買収計画、事業を立て直して伸ばそうと、様々なベンチャーキャピタルへ資金調達に奔走しました。この時期に近づいてくる人たちは、次から次へと怪しい儲け話を持ってくるのです。弱り目にたたり目とはよく言ったものです。

最終的に、資金力のある未上場の会社との合併で、会社は危機的状況から息を吹き返しました。合併が発表されると株価は急上昇して一時、時価総額が日本マクドナルドを抜いた時期もありました。株主からは大変感謝されましたが、我々はインサイダー取引になるとのことで、保有株を一切売れませんでした。自分には株よりも不動産投資が合っているなと再認識したものです。

その後、大手の鉄道会社幹部から声がかかり、2年の準備期間を経て米国のカリフォルニア州トーランスの新築ホテルにスパを出店しました。当時、上場会社の代表であった明美は、創業時からのデザイン事業と後のリラクゼーション事業の両部門を引き継ぐ形でMBOし、米国事業を強化することになりました。

米国では、日本のおもてなしと、和紙、竹や炭、行灯などの日本の伝統的なものをふんだんに使った癒やし空間、九州祖母傾山の天然鉱石を使用した岩盤浴などが、アメリカのテレビニュースや雑誌など、多くのメディアで紹介され話題となり、現在も沢山のお客様にご利用頂いています。最近では岩盤浴を応用したホットストーンヨガスタジオのアメリカでの展開もスタートしています。

日本で長年培った経営と運営とデザイン開発力の生きたノウハウは、やがてダラスにおいて付加価値の高い不動産開発や細やかなサービスそしてアセットマネジメントへと広がり、現在に至っています。 

一方、不動産事業ですが、私は以前から日本の投資家に、「テキサスの不動産がイチオシ」と話していましたが、トヨタが北米拠点をプレイノ市に移すと発表するまでは、誰も信じてくれませんでした。

ところが発表後に目ざとい投資家は反応し始めました。そして彼らに頼まれてプレイノ周辺の物件を購入し始めたのです。明美のデザイン開発の知識を活かしてリノベーションや不動産開発にも力を入れています。

日本からまた投資家が押し寄せて来ることを見越して、私は居住地をカリフォルニアからテキサスに移して物件の購入から管理、そして売却までの一連のサービスを提供しています。

私は50歳の時にフェイスブックを始めました。論語でいう「知命」の歳です。ソーシャルネットワークを通して私の人脈は更に拡がっており、フェイスブック上の友達は4000人を超えています。蕎麦が大好きな私はフェイスブック上で麺類好きのためのコミュニティである麺友会(会員数は日米合わせて延べ2000人以上)のLA麺友会の会長として積極的に活動しており、ロサンゼルスと日本で年に数回の公式オフ会を開催しています。麺好きということだけで集うオフ会は、普段会うことのない人たちと交流することが出来て、自分にとってプラスとなっています。

東日本大震災の時には、私はどうしても被災地にて予備自衛官という立場でお役に立ちたいと思い、フェイスブックで防大同期生を検索して皆に友達リクエストを送りました。直ぐに同じトーランスに住む同期から返事があり、その日の夜に再会を祝して一緒に飲んだのですが、当時、福島第一原子力発電所事故対処現地調整所長だった田浦正人陸将(当時、陸将補)と繋がることが出来て、彼にお願いし動いて頂きました。

ところが私は予備自衛官の資格要件を年齢オーバーで満たしていないことが判明し、自衛隊復帰は断念せざるを得ませんでした。そこで私が住んでいたロサンゼルスにて様々なチャリティーイベントを開催することで、少しでも被災地のお役に立とうと決めたのです。

チャリティーには、当時イチローの次に有名な日本人と言われアメリカのソース王と呼ばれる吉田潤喜氏を招いての講演会を開催することにし、震災の3ヶ月後にそれを実現させました。同講演会の収益金はジャパン・プラットフォームおよび宮城県塩竈市教育委員会にラップトップコンピューター10台という形で寄付させて頂き、地元の子供達の心のケアに役立っていると大変喜んで頂きました。

ちなみに宮城県の村井嘉浩知事は防大同期で同じ射撃部に所属していました。このイベントを通して吉田氏の経営哲学である「金儲けより、人儲け」や人間味溢れる熱いパッションに感動し、以降、同氏の勉強会であるLA吉田寺子屋実行委員長として会を運営しています。吉田氏には公私にわたり大変お世話になっており、人として学ぶべきことが多く、とてもありがたいご縁だと思っています。

また、環境ジャーナリストとして活躍している中野博氏と出会い、彼の「和魂洋才」の学問を礎として世界を牽引して行こうという理念に賛同し、2014年に世界で初めて開校した信和義塾大學校ロサンゼルス校の第1期生となりました。今では同大學校は世界各地に30校以上あります。和魂洋才とは日本に古くからある精神を大切にしながら、西洋からの優れた学問や知識などを摂取しよく咀嚼し消化して発展させていくという考え方です。

中野氏とは兄弟分として行動させていただいており、和魂ハウス1というLLC(Limited Liability Company:米国法人の形態の一つ)を約30名の有志にて設立し、プレイノの物件を購入しました。今後はテキサスを拠点として、和魂万博などの活動を通して全米に展開して行きます。

信和義塾大學校では半年に1度の世界サミットを開催し、過去には出雲、福岡、彦根、伊勢そしてロサンゼルスにて開催されました。

また、京都・奈良研修も度々開催されていますが、昨年、同研修に参加して最後に訪問した法隆寺の夢殿で祈っている際に、鮮明かつ強烈な3Dイメージが飛び込んで来ました。それは、和魂ハウスプロジェクトが成功し、有志と共にテキサスに寺を建立して学校を創立し、その学校を核として全米に和魂洋才を拡めていくイメージです。

私の中学時代の同級生に善光寺僧侶がいるので早速相談してみると、喜んで協力すると快諾して貰いました。まさに自分の天命の方向性を見出すことが出来たのです。

書籍[編集]

【テキサス三部作】

資産家たちはなぜ今、テキサスを買い始めたのか?[3]ぱる出版、2017年4月10日、ISBN 978-4-8272-1051-4

なぜ、トヨタはテキサスに拠点を移したのか?[4]日本実業出版社、2018年12月20日、ISBN 978-4-534-05654-2

テキサスに善光寺を~アフターコロナは和魂が救う~未来生活研究所、2020年12月2日、ASIN B08PKXGFW3

脚注[編集]

  1. 『テキサスに善光寺を~アフターコロナは和魂が救う~』未来生活研究所、2020年12月2日。
  2. 『資産家たちはなぜ今、テキサスを買い始めたのか?』ぱる出版、2017年4月10日、171-182頁。
  3. Kuraishi, Akari.; 倉石灯. (2017). Shisankatachi wa naze ima tekisasu o kaihajimeta noka. Kakūchi, Hajime., 角内創.. Tōkyō: Parushuppan. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 978-4-8272-1051-4. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。OCLC 980995431. https://www.worldcat.org/oclc/980995431 
  4. Naze toyota wa tekisasu ni kyoten o utsushita noka : Amerika keizai no mirai o sayu suru tekisasushu no senryaku.. Kuraishi, Akari, 1959-, Nakano, Hiroshi, 1964-, 倉石, 灯, 1959-, 中野, 博, 1964-. Nihonjitsugyoshuppansha. (2018.12). モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 978-4-534-05654-2. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。OCLC 1083079408. https://www.worldcat.org/oclc/1083079408 

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