キャニオンディアボロの銃撃戦
カウボーイらがジョン・ショーの遺体をホールドアップさせている 1905年4月10日 | |
日付 | 1905年4月8日 |
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場所 | アメリカ合衆国、アリゾナ準州、キャニオン・ディアボロ |
結果 |
1人死亡 2人負傷 |
キャニオン・ディアボロ銃撃戦(キャニオンディアボロじゅうげきせん、 英:Canyon Diablo shootout)は、アメリカ合衆国アリゾナ州キャニオン・ディアボロという現在のゴースト・タウンで発生した、アメリカ人の法執行官らと盗賊2人組との間の銃撃戦である。
その前日の夜にアリゾナ州ウィンズローで、ウィリアム・エバンスとジョン・ショーと称する男2人がサルーン強盗をはたらき、少なくとも200ドル分の硬貨をもって逃げた。法執行官2人が盗賊らを追跡し、翌日、彼らはキャニオン・ディアブロで会った。その後、当時「1つの巨大な爆発」("one huge explosion")と記述された3秒間の銃撃戦が続いた結果、ショーは死亡し、エバンスは負傷して捕らえられた[1][2][3]。
背景[編集]
ウィリアム・エヴァンスとジョン・ショーが盗賊になる前の生活についてはほとんど知られていない。エヴァンスは元受刑者であり、ウィリアム・スミスあるいはスマイスの名前でも呼ばれていた。両者ともに20代前半から20代半ばまでのとき、彼らは、カウボーイであるより強盗のほうが簡単であろうと判断した。結局キャニオン・ディアブロでの銃撃戦につながった強盗事件は、1905年4月7日夜に発生した。0時少し前に、エバンスとショーは最高の服を着こんで、アリゾナ州ウィンズローのウィグワン・サルーンの中に入った。2人はまっすぐバーに向かい、当時ふつうなウイスキーの1種であるラット・ガット(rot gut)を数ショット注文した。しかし、彼らは時間の浪費に興味がなかったし、飲む前に振り返って、回転式拳銃を抜き、テーブルの1つでポーカーをしている男7人のグループを止めて強奪した。盗賊2人は銃を突きつけて、賭博している者らから200ドルから600ドルまでの間相当の銀貨を取ってやり、発砲もせずに正面玄関から逃げた[1][2][4]。
ナヴァホ郡副保安官でサルーンの所有者であるピート・ペンバートンは、すぐに通報を受け、犯罪現場を調べた後、上司の連邦保安官シェット・フックに知らせた。シェット・フックはジム・フックの弟であった。少し前に、ペンバートンと市保安官ボブ・ジャイルズは、フラッグスタッフ (アリゾナ州)に至る鉄道線路ぞいに銀貨の痕を見つけたために、盗賊らが移動中の列車に跳び乗った、それら硬貨がポケットから落ちたにちがいない、と想定された。保安官フックはホールブルックから、フラッグスタッフまでの列車に乗り込み、そこでペンバートンに出くわし、捜査を始めた。盗賊らも関連情報も見つからなかった後、彼らはウィンスロー行きの列車にふたたび乗りこんだ。しかしながら、乗って戻るとき彼ら法執行官はたまたま、キャニオン・ディアブロへの角の近くで不審な男2人が線路沿いの茂みに隠れているのが目撃された、という報告を受けた[1][2][4]。
キャニオン・ディアブロの町は、ウィンズローの西約25マイルに位置し、峡谷キャニオン・ディアブロとナバホ居留地の境界に隣していた。そこは1905年にまだ荒野であったが、そのときまでにそこはほとんどゴースト・タウンで小人口しかなかった。『Tombstone Epitaph』によれば、キャニオン・ディアブロは「西部きってのぶっそうなヘルホール」("toughest Hellhole in the West")であると記述されていた。それが、エバンスとショーがフラッグスタッフでなくてそこに逃げることを選んだ理由の少なくとも一部であった可能性がある。法執行官2人は直観に従って、町を数マイル過ぎたところで列車を止め、降りて、歩いて戻った。彼らが町をつらぬく主要道路ヘル・ストリートに着くときまでに、太陽はちょうど沈み始めていた[1]。
銃撃戦[編集]
保安官フックとペンバートンは最初、1886年以来町に小店舗を所有していたフレッド・ヴォルツと連絡を取った。ここで彼はナバホ族およびホピ族と交易していた。いつもの質問の後、ヴォルツは警察官らに、きょうもっと早くに、身なりのよい男2人が長い間交易所の外に立っていて、挙動不審だった、と語った。ちょうどその時、エバンスとショーが交易所の角を曲がって来て、見つけられた。盗賊2人は反対方向、駅のほうへ歩いていたので、法執行官2人は彼らを追った。彼ら全員が約6〜8フィート離れていたとき、フックが彼らに検査にしたがうよう呼びかけた。彼らのうちの1人が言った――「"No one searches us!"」2人組2つが短時間向かい合って立っていると、突然、それぞれの男が腰の武器に手をかけた。4人全員が至近距離で発砲を始め、フックは盗賊らから4フィートもないところまで前進した[1][2][4]。
ショーは、最初の5発が当たらなかったために、銃を再装填するために下を見たとき、フックの弾丸の1発に頭部を撃たれた。ペンバートンはその後、エバンスの脚を負傷させ、発砲しながら地面に倒れた。エバンスはフックを狙って最後の弾丸を発射したが、ペンバートンは今度は肩をふたたび撃ち、彼の手から武器をたたき落とした。弾丸はフックのコートの左側を貫通し、腹をかすめ、そして右側から出た。しかし、傷は深刻とは見なされなかった。おおよそ3秒間で、ショーは死亡し、エバンスは重傷を負った。西部開拓時代によく見られたように、ほとんどの男は6連発銃に5発しか入れなかったために、撃針を空きスロットに置いて事故を防ぐことができた。保安官フック、ショー、そしてエバンスはそれぞれ、5発すべての弾丸を発射したが、ペンバートンには1発の追加弾があり、合計21発の弾丸が発射された[1][2][4]。
余波[編集]
銃撃戦の直後、保安官フックはショーの遺体をヴォルツから提供されたマツの棺におさめ、非常に岩の多い土壌のために浅い墓に葬った。エヴァンスはウィンズローの病院に運ばれ、そこで回復し、その後9年間ユマテリトリアル刑務所に送られた。彼らが271ドル相当の銀貨を所持しているのがわかった。銃撃戦後の夜、かつてAztec Land & Cattle Companyに雇われていたカウボーイのグループは、ウィグワン・サルーンで飲んでいたとき、そのニュースと、エバンスとショーの両者が前夜に支払っていたショットをどのように飲めなかったかを聞いた。彼らのなかの1人が、キャニオン・ディアブロに行って、ショーの死体を掘り出して最後の一杯を飲ませるという考えを思いついた[1][2][4]。
15人ないし20人の男が急いで旅をかってでて、保安官フックとペンバートンがしたように、彼らも西行きの列車に跳び乗って、1905年4月10日夜明けころにキャニオン・ディアブロに到着した。最初に彼らは駅でもう少し飲んで、それからフレッド・ヴォルツからシャベルをいくつか借りてショーの棺を掘り始めた。ヴォルツは、酔った乱衆らが墓地でするつもりなことについて腹を立てていたために、最初は道具を手放すことに気が進まなかった。しかしながら結局のところ、彼は折れて、シャベル複数だけでなく、コダック・カメラ1機も提供した。さまざまな説明によると、ヴォルツは無法者らの終焉に直接に関与していて、報酬金を集めるために写真を欲していたのか、でなければそれらは子孫のために撮られたのか、そのいずれかである。しばらくして、ショーの棺が開かれ、カウボーイのうち2人が箱から遺体を持ち上げ、別の男の墓を囲むピケット・フェンスに寄りかからせた。ショーは微笑んでいるように見えたため、すべての男が不愉快になり、一部の男は泣き始めた。ショーに「ウイスキーをたっぷりと飲ま」("a plentiful gulp of whiskey")せてやり、写真を数枚撮り、祈りを捧げた後、遺体は半分からっぽの瓶とともに棺の中に戻され、墓に戻された。
それら写真は、建物が取り壊される1940年代までウィンズローのウィグワム・サルーンの壁に展示されていた。その時までに、キャニオン・ディアブロのゴースト・タウンは再開され、トゥー・ガンズに改名された。キャニオン・ディアブロでの銃撃からわずか7か月後の1905年10月28日に、副保安官ペンバートンはウィグワム・サルーンでの紛争中にウィンスロー・タウン連邦保安官ボブ・ジャイルズを酔って撃って殺した。ペンバートンは逮捕され、有罪とされたが、25年の判決のほんの一部を務めた後に無罪となった[2][5][6]。
脚注[編集]
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 “Tombstone Epitaph Newspaper Vol. CXXII No. 1.”. 2012年6月26日閲覧。
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 “Devil Canyon Shoot-Out: Winslow Lawmen vs. William Evans and John Shaw”. Bob Boze Bell (2008年7月1日). 2012年6月26日閲覧。
- ↑ “Shootout at Canyon Diablo”. 2012年6月26日閲覧。[リンク切れ]
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 “John Shaw” (2011年8月13日). 2012年6月26日閲覧。
- ↑ Treat, Wesley; Moran, Mark; Sceurman, Mark (2007). Weird Arizona: Your Travel Guide to Arizona's Local Legends and Best Kept Secrets. Sterling Publishing Company. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 978-1-4027-3938-5
- ↑ ODMP memorial Marshal William Joe Giles ODMP memorial
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