ギラ・ブスタボ
ギラ・ブスタボ(Guila Bustabo, 1916年[1][2][3]2月25日[4] - 2002年[5]4月27日[6])は、アメリカのヴァイオリン奏者。[7]
ウィスコンシン州マニトワック[8]にギラ・アデリーナ・テレシーナ・ブスタボ(Guila Adelina Teressina Bustabo)[9][10]として生まれる。父アレクサンダーはルツェルン出身[11]のイタリア系フランス人、[12]母ブランシェ[13]はボヘミア出身で、両者ともヴァイオリンを能くした。[11]2歳の頃に父が煙草の箱で作ったヴァイオリンでヴァイオリンの演奏を学び始めた。[14]3歳の時に一家でシカゴに移住し、[15]シカゴ音楽大学のレイ・ハンチントンの許でヴァイオリンの早期教育を受けた。[16]そのハンチントンの伝手により、[15]4歳の時にシカゴ交響楽団の首席指揮者であるフレデリック・ストックの知己を得、[17][18]ストックからレオン・サメティーニに師事するように勧められた。[15]その後直ちにサメティーニに師事し、5歳の時に地元のコンクールで優勝している。その結果を受けてサメティーニがニューヨークへの奨学金を準備し、[19]ジュリアード音楽院のルイス・パーシンガー[20]の門下となることが出来た。9歳の時にはシカゴ交響楽団や[21]フィラデルフィア管弦楽団[15]等と共演。1929年にはカーネギー・ホールに於いてアーネスト・シェリングが指揮するニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団のヤング・ピープルズ・コンサート[22]でヘンリク・ヴィエニャフスキのヴァイオリン協奏曲第1番の第一楽章を演奏している。[23]以後、シェリングの主催するコンサートやナショナル・オーケストラ協会の演奏会に出演[24]してアメリカでの名声を確かなものにした。また、シカゴを訪れたトーマス・ビーチャムに紹介され、ビーチャムにイギリスの舞台で共演するなら喜んで紹介を引き受ける旨の声をかけてもらっている。[25][26]その後、シェリング、アルトゥーロ・トスカニーニ、フリッツ・クライスラー等の名士たちで「ギラ・ブスタボ基金」を立ち上げ、6ヵ月の演奏旅行が出来るほどの資金が集まった。[25]その基金を元手に1934年[27]からヨーロッパに演奏旅行に出かけ、パリでジョルジェ・エネスク、ブダペストでイェネー・フバイの各氏の指導を受けた。ヨーロッパに演奏旅行に出かけたその年のうちに、ロンドンのレイブンズデール男爵であるメアリー・イレーネ・カーゾン[11][28]からグァルネリ・デル・ジェスの名器[29]を贈られている。[30]また、ルーマニア王妃マリアのためにコトロチェニ宮殿でプライベート・コンサートを開いている。[31]さらにウィレム・メンゲルベルクの指揮するアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団やヘルマン・アーベントロートの指揮するベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共演。[16]1937年にはフィンランドにも足を延ばし、ジャン・シベリウスに面会している。[19][32]帰国後、1938年から旅行のマネージャーのマークス・レヴァインとシェリングの助言によりヨーロッパに再び旅行に出て[11][33]第二次世界大戦勃発後も母親の計画に従ってヨーロッパに残った。[34]ハンス・プフィツナーの知己を得、ブスタボの為にプフィツナーが彼自身の作品からいくつかをヴァイオリン用に編曲して出版している。1939年にはエルマンノ・ヴォルフ=フェラーリと知り合い、ヴォルフ=フェラーリからヴァイオリン協奏曲[35]を献呈されている。[36]大戦中は、ファシズム政権下のイタリア、ドイツやオーストリアなどで活発に演奏し、[37]1941年から歓喜力行団の公演に参加。[38][39][40]ブスタボ自身は、ナチスやファシストとの仕事で荒稼ぎしようとする母から逃れようとしたこともあったが、既に母親と法定後見人及びマネージャーの書類契約を交わしていたため、その契約の通りに従うしかなかった。[15]1944年にドイツが降伏した時、パリに滞在しており、連合国軍の為の演奏を打診された[41]が、ジョージ・パットンに演奏歴を追及され逮捕されている。[42][43]非ナチ化裁判を受けて[44]釈放された[45]が、ナチス・ドイツ占領下の地域で演奏していたという事実[46][47]から、アメリカ国内では厚遇されなくなった。[48]1948年にはルドルフ・ガンツの指揮するニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団のヤング・ピープルズ・コンサート[49]に出演[50][51]した後[52]引用エラー: <ref>
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タグが不足しています[53]は、アメリカ国内でのコンサートへの出演依頼はなく、[54]しばらくヨーロッパで演奏活動を継続した。なお、1948年にアメリカ軍の軍楽隊長のエディソン・スティーグ[19]と結婚した[55]が、1976年に離婚している。[56]1964年にインスブルック音楽院で教鞭を執るようになった[57]が、1970年に双極性障害を発症[58]して退職。[44]その後、1976年にアメリカに戻り、[11]アラバマ交響楽団の当時の音楽監督であるゴードン・アンドリュースに誘われてアラバマ交響楽団に入団した[59]が、1983年に退団。[60]
アラバマ州バーミンハムにあるダブル・ルームの自宅アパートメントにて死去。[61]
脚注[編集]
- ↑ “Schubertiade :: [Violinist] Bustabo, Guila. (1916 - 2002)”. 2012年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年12月9日閲覧。
- ↑ 1917年生まれとする資料もある。(Crutchfield, Will (1990年8月12日). “RECORDINGS; Historical Violin Styles: Myth and Reality”. オリジナルの2023年7月29日時点におけるアーカイブ。 2023年7月29日閲覧。)
- ↑ 1919年生まれとする資料もある。(アーカイブ 2023年7月29日 - ウェイバックマシン)
- ↑ Campbell, Margaret (2014年2月26日). “Guila Bustabo”. Independent. オリジナルの2021年4月10日時点におけるアーカイブ。 2021年4月10日閲覧。
- ↑ “BRUCH & SIBELIUS: VIOLIN CONCERTOS / ETC/GUILA BUSTABO/ギラ・ブスタボ/歴史的放送音源からのCD化|CLASSIC|ディスクユニオン・オンラインショップ|diskunion.net”. 2023年7月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月29日閲覧。
- ↑ “ON THIS DAY | Violinist Guila Bustabo Died in 2002”. The Violin Channel. (2021年4月27日). オリジナルの2023年7月31日時点におけるアーカイブ。 2012年9月6日閲覧。
- ↑ “Guila Bustabo; Violinist, 86”. The New York Times. (2002年5月2日). オリジナルの2012年9月6日時点におけるアーカイブ。 2012年9月6日閲覧。
- ↑ “Guila Adelina Theressina Bustabo (1916-2002) - Find a Grave”. 2012年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年12月9日閲覧。
- ↑ アーカイブ 2023年7月29日 - ウェイバックマシン
- ↑ 本名については"Guila Adelina Teresina Bustabo"と綴る資料もある。アーカイブ 2023年7月29日 - ウェイバックマシン
- ↑ 11.0 11.1 11.2 11.3 11.4 “Franz Gratl - „Music is my only means of self-expression.“ | Quart Heft für Kultur Tirol Nr. 31/18”. 2023年7月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月31日閲覧。
- ↑ “VIOLIN PRODIGY to PARIAH: GUILA BUSTABO (1916-2002) [U.S.A.]”. 2023年7月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月31日閲覧。
- ↑ 旧姓はカデラベク(Kaderabek)。(“Biographies Bu : Manitowoc County, Wisconsin Genealogy”. 2013年1月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年1月16日閲覧。)
- ↑ 父の作ったおもちゃのヴァイオリンで母からヴァイオリンを手解きを受けたが、直ぐにおもちゃのヴァイオリンでは満足できなくなり、父はローズウッドで小さなヴァイオリンを作らざるを得なかったという。(Guila Adelina Theressina Bustabo (1916-2002) - Find a Grave)
- ↑ 15.0 15.1 15.2 15.3 15.4 “Guila Bustabo”. The Art Music Lounge. (2018年7月6日). オリジナルの2021年4月9日時点におけるアーカイブ。 2021年4月9日閲覧。
- ↑ 16.0 16.1 “Guila Bustabo plays before Queen Mother”. 2013年4月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年4月16日閲覧。
- ↑ アーカイブ 2022年5月11日 - ウェイバックマシン
- ↑ 4歳でシカゴ交響楽団のメンバーと独奏者として演奏したと記す資料もある。(アーカイブ 2023年7月31日 - ウェイバックマシン)
- ↑ 19.0 19.1 19.2 アーカイブ 2017年9月24日 - ウェイバックマシン
- ↑ パーシンガーはブスタボの演奏について、「素晴らしいが、すでに手遅れ」と評価していた。(“Создать совершенство. Через тернии к звездам: как рождаются виртуозы читать онлайн Изабелла Вагнер (Страница 13) | Knizhnik.org”. 2023年8月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月5日閲覧。)
- ↑ Hocking, Jenny (2008). Gough Whitlam - a Moment in History. 1. Melbourne University Press. p. 67. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9780522855111
- ↑ “New York Philharmonic | Search Results”. 2023年7月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月31日閲覧。
- ↑ “1929 Nov 02 / Young People's Concert / Schellin...”. 2023年7月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月31日閲覧。
- ↑ W.B.C. (1933年11月22日). “National Orchestra Heard.”. The New York Times. オリジナルの2023年7月29日時点におけるアーカイブ。 2023年7月29日閲覧。
- ↑ 25.0 25.1 Waiblinger, Michael (2016). “Guila Adelina Teressina Bustabo”. Guila Bustabo Bruch ・ Sibelius ・ Saint-Saëns ・ 1959 ・ 1965 (Melo Classic): 3. ASIN B01LWE0RU2.
- ↑ ビーチャムとは後に共演することが叶い、1936年3月15日にクイーンズホールで行われたリハーサルの写真が残っている。(“The young American violinist Guila Bustabo at a rehearsal with Sir... ニュース写真 - Getty Images”. 2023年8月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月4日閲覧。)
- ↑ 1934年に演奏活動を始めたとする資料もある。(“1942, IV. Quartal”. 2023年8月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月5日閲覧。)
- ↑ マーガレット・キャンベルは、レディ・レイブンズデールの妹は悪名高い英国ファシスト連合の指導者オズワルド・モズレー卿と結婚しており、このモズレーの連合がその後のブスタボに不幸な影響を及ぼしていると考えている。(Campbell 2014)
- ↑ ““Muntz” | 保有楽器 | 保有楽器 | 日本音楽財団”. 2023年8月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月4日閲覧。
- ↑ グァルネリ・デル・ジェスの購入については、トスカニーニも名を連ねる企業組合が購入したとする資料もある。“Guila Bustabo · Concerto Recordings 1958-1965”. 2023年8月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月12日閲覧。
- ↑ Waiblinger 2016, p. 4
- ↑ シベリウスの面前で彼のヴァイオリン協奏曲を演奏し、「作曲時に思い描いていた通り」と称えられている。(“ON THIS DAY | Violinist Guila Bustabo Died in 2002”. The Violin Channel. (2021年4月27日). オリジナルの2023年8月5日時点におけるアーカイブ。 2023年8月5日閲覧。)
- ↑ 1938年にはオーストラリアにも立ち寄っている。後にオーストラリア首相となるゴフ・ホイットラムが一目惚れをしたが、これは本格的な恋愛には発展しなかった。(Mitchell, Susan (2014). Margaret & Gough: The love story that shaped a nation. Hachette Australia. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9780733632594. "In 1938, Gough became smitten with a young Italian violinist, Guila Bustabo Who was not only considered brilliant but was very beautiful. With her long black hair and classically Roman Features she took Australian audience and musis critics by storm. Her first concert was in Canberra; Gough Whitlam, home for the break, attended with his parents. At the reception afterwards given by the Canberra Music Society, Guila asked to meet the young man who looked like Robert Taylor. He even saw her her off at the station on her way to her next concert in Newcastle. Gough attended all her Sydney concerts and they saw each other several times though her mother was always present as chaperone. He held an afternoon tea for her at St. Paul's and after her last concert at Sydney town Hall he and a friend accompanied Guila and her mother to Romaro's, a top-class Sydney restaurant. The sun newspaper noted their descent together down the step of the Town hall, in their social column. Mr Whitlam was described as 'a law student who has unusual literary tastes and abilities as poet'.
Gough recieved a necktie from her from Paris, but their paths never crossed again.") - ↑ Hambrick, Jennifer. “Violinist Champions Neglected 'Gem' In New Recording”. WOSU Public Media. オリジナルの2023年8月4日時点におけるアーカイブ。 2023年8月4日閲覧。
- ↑ 1944年にミュンヘンのトーンハレに於いてブスタボの独奏とオズヴァルト・カバスタの指揮するミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の伴奏で初演されている。(“About This Recording”. 2023年8月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月5日閲覧。)
- ↑ ヴォルフ=フェラーリのオペラ《愚かな娘》のメロディを用いたヴァイオリンのための幻想曲の作曲を作曲者本人に依頼したしたことで縁が出来た。ヴォルフ=フェラーリはオペラのメロディの剽窃を嫌って幻想曲の制作こそ断ったが、ブスタボの為にヴァイオリン協奏曲を書いた。(“About This Recording”. 2023年8月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月4日閲覧。)
- ↑ グラトルによれば、アメリカの総領事館からドイツから退去するよう再三求められたが、ブスタボ側は基本的に黙殺した。(Franz Gratl - „Music is my only means of self-expression.“ | Quart Heft für Kultur Tirol Nr. 31/18)
- ↑ ウィーンでハンス・ヴァイスバッハの指揮するウィーン交響楽団と共演したり、1943年にロベルト・コリスコの指揮するニーダードナウ・ガウ交響楽団と共演したりしていた。(Waiblinger 2016, p. 4)
- ↑ フランツ・グラトルによれば、歓喜力行団の公演への参加は1942年にインスブルックで行われた公演からである。(Franz Gratl - „Music is my only means of self-expression.“ | Quart Heft für Kultur Tirol Nr. 31/18)
- ↑ 1942年にはヴィルヘルム・フルトヴェングラーの指揮でマックス・ブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番、1943年にはオイゲン・ヨッフムの指揮でシベリウスのヴァイオリン協奏曲を演奏している。(Franz Gratl - „Music is my only means of self-expression.“ | Quart Heft für Kultur Tirol Nr. 31/18)
- ↑ グラトルによれば、1945年8月に占領軍の司令官であるヘンリー・C・ アハルト大佐によって通関証明書が発行され、ブスタボは占領軍の兵士を楽しませるために演奏したが、程なくして占領地域の再民主化のための情報管理局の監視下に置かれることとなったという。(Franz Gratl - „Music is my only means of self-expression.“ | Quart Heft für Kultur Tirol Nr. 31/18)ニューヨーク・フィルハーモニックの所有する1945年8月22日付けの資料では、アハルト大佐による捜査を受け、アメリカ慰問協会のキャンプ・ショーに関与していたことが判る。アーカイブ 2023年8月6日 - ウェイバックマシン
- ↑ ピーター・クァントリルによれば、ブスタボを徴用したのはパットンだが、そのパットンが彼女の戦時中の経歴を知って彼女を逮捕したという。(Quantrill, Peter (2002年6月12日). “Guila Bustabo”. The Guardian. オリジナルの2021年12月8日時点におけるアーカイブ。 2021年12月8日閲覧。)
- ↑ 1946年4月12日付のブスタボ自身のヨーロッパ劇場のアメリカ軍司令官に宛てた手紙のコピーがニューヨーク・フィルハーモニックの資料の中に残っている。それによれば、1934年からヨーロッパに送り出される当たって、シェリング、トスカニーニ、クライスラーのほかに、イグナツィ・パデレフスキが関わった人物として名前が挙がっている。1934年から1938年までの世界ツアーは、シェリング、トスカニーニ、クライスラーの助言を受け、コンサートの為だけでなく、勉強のためにヨーロッパに送り出されたものである。母がNBCのマークス・レヴァインと1939年から翌年のシーズンのアメリカ・コンサート・ツアーの契約をしていたが、1939年5月にレヴァインから、シェリングと話し合った結果、ブスタボの時機に対するヨーロッパの広範な要望を考慮すると、アメリカへの帰国を1940年の秋まで延ばすのが最善だと思うに至った旨の電報が届き、彼らの提案を受け入れて帰国を延長した。しかし、1939年の夏に戦争が勃発し、イタリアが宣戦布告したり、7月にフランスが陥落したり、海路が潜水艦で閉鎖されたりして帰国の目途が立たなくなり、レヴァインからも契約を反故にされてしまった。主なスポンサーだったシェリングやマーサ・ベーコンの訃報と共に、ブスタボの為の基金が既に枯渇していることを知り、財政的に心許なくなったが、ヴォルフ=フェラーリの許に身を寄せることとなった。しかし、ドイツのスウェーデン人マネージャーのグスタフ・フィネマンから借金をしたため、その返済と生活費の捻出のため、いくつかの契約をしなければならず、ミュンヘン近郊のプラネックで暮らすことになった。ヴォルフ=フェラーリと一緒に「すべてのヴァイオリン作品の中で最も美しい協奏曲」を作ったが、ブスタボは、これは後世に残る不滅の何かをするチャンスと捉え、新しい音楽のセンセーションとして、これをアメリカに持ち込むつもりだったという。また、これまでの人生で政治に関わったことはなく、どの音楽団体とも会員契約は結ばなかった。しかし、フィネマンに帝国音楽協会(資料では"Reichsmussickammer"と表記)のメンバーになるよう提案されたのを拒否したことで、ブスタボは危険にさらされるようになり、フランスのマネージャーを頼って1942年11月1日にパリに移り住んだ。その年の12月にはパリでリサイタルを開き、1943年にはザルツブルク、ウィーンやブダペストでヴォルフ=フェラーリのヴァイオリン協奏曲を演奏して回った以外は、ドイツから解放されるまでパリで暮らした。「G2のアハルト大佐」によって「潔白」となった後は、アメリカの第3軍と第7軍の遠征に派遣されたが、数週間後にドイツ占領下の私の活動に関する尋問に呼び出され、フランクフルトで「潔白」の決定は取り消されてしまった。ブスタボはこれまでに築いたキャリアの為に、幼い頃から少女時代までのあらゆる時期を音楽に捧げ、母も人生を自分のために犠牲にしたが、このままでは全てが台無しになってしまうと主張し、自分の名前をブラックリストから外すように願い出ている。(アーカイブ 2023年8月6日 - ウェイバックマシン)(アーカイブ 2023年8月6日 - ウェイバックマシン)
- ↑ 44.0 44.1 Quantrill 2002
- ↑ Biographies Bu : Manitowoc County, Wisconsin Genealogy
- ↑ ズヴィ・ザイトリンは、ブスタボについて「彼女の問題は、ナチス政権下のドイツとイタリアで演奏を続けたため、戦後、他の場所でキャリアを延ばす機会を失ったことだった」と述べている。(アーカイブ 2016年11月20日 - ウェイバックマシン)
- ↑ 1946年には在独アメリカ軍政府のブラックリストに入れられたとする資料もある。(“Music After Hitler, 1945–1955 2006005357, 9780754653462, 9781315091013, 9781138274631 - EBIN.PUB”. 2023年8月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月5日閲覧。)
- ↑ “Жене у музици – Гила Бустабо”. Радио Телевизија Србије. (2023年2月12日). オリジナルの2023年8月5日時点におけるアーカイブ。 2023年8月5日閲覧。
- ↑ コンサートに先立って、ヘンリー・C・アハルト大佐から「私は、ギラ・ブスタボが申し分なく祖国に忠実であると信じており、入手可能なすべての証拠をヨーロッパで慎重に調査した末に、この決定が下された。」(アーカイブ 2023年8月6日 - ウェイバックマシン)と、ブスタボの潔白を擁護する電報がニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団に届けられている。(Waiblinger 2016, p. 5)
- ↑ アーカイブ 2022年5月11日 - ウェイバックマシン
- ↑ コンサート後、一方でアメリカ陸軍戦争省民事課所属のロバート・マックルーア将軍が、1948年2月5日付のアメリカ退役軍人委員会のレオン・ゴールドスタイン宛の書簡で「ブスタボは1945年の秋に在独アメリカ軍政府の情報管理局によってブラックリストに登録され、今でもブラックリストに載っている。当時の調査により、彼女がナチス宣伝省の特別許可を得てドイツおよびドイツ占領下の国でコンサートを開催し、ナチスのプロパガンダのために彼女の才能が利用されることを許可していたことが判明した。」(アーカイブ 2023年8月6日 - ウェイバックマシン)というコメントを寄せている。また、ニューヨーク・フィルハーモニック所蔵の資料の中には、マックルーアがブスタボに演奏禁止の処分を下したとする資料も存在する。(アーカイブ 2023年8月7日 - ウェイバックマシン)他方で、ヤング・ピープルズ・コンサートの組織委員会の委員長であるメルヴィン・サウィンは、ヘンリー・C・ アハルト大佐の電報を引用してブスタボが赦されていなければアメリカに入国できなかったであろうと主張し、1929年にブスタボがヤング・ピープルズ・コンサートに出演したことに触れながら委員会がブスタボを招聘したことを擁護(アーカイブ 2023年8月6日 - ウェイバックマシン)している。このように、コンサート出演後も、ブスタボの出演の是非を巡って議論になったことが窺える。(“The Forgotten Violinist”. 2012年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年12月9日閲覧。)
- ↑ サウィンは、次のような声明を出した。「ギラ・ブスタボは、ヨーロッパで戦争に引っかかり、ニューヨークとストックホルムのマネージャー達から、当地に滞在するように助言を受けた。というのも、戦争などほんの数ヶ月で終わるというのが、当時の一般的な見解だったからだ。しかし、どうやらこれがそうではなかったとなると、旅行の道が遮断され、シベリア経由でしか帰路がなくなった。その間に、彼女は手持ちの資金を使い果たしたが、高名なイタリア人作曲家のヴォルフ=フェラーリから、共に逗留し、ヴァイオリン協奏曲の作曲を手伝ってほしいと頼まれ、避難場所及び得難き勉学の機会として彼の頼みを受け入れた。曲が完成した時、ヴォルフ=フェラーリは、その曲が演奏され、共同作曲者でもあるブスタボに独占演奏権を与えた。歓待と援助を受けた彼女は、曲を演奏しなければならないと思い、また音楽史的見地から、ドイツのアーティストよりもアメリカ人が演奏することこそアメリカ人演奏家の名誉として望ましいと考えた。不幸にも、これらの演奏のうちのいくつかはドイツの後援、後には指令で行われ、無報酬にも拘らず、演奏を回避することはできなかった。彼女は何度か帝国音楽協会(Reichsmusikkammer)のメンバーになるよう勧められたが、それへの拒絶が彼女にとって危険であるにも関わらず、いつも拒んでいた。パリ解放後、彼女はアメリカ陸軍によって捜査され、情報局によって無罪となった。その後、彼女はアメリカ慰問協会のキャンプ・ショーに出演し、第3軍と第7軍へのツアーのためにドイツに送られた。ツアーから戻った後、決定が差し戻され、事案の再捜査が彼女に告げられたが、その間は、病気の為、休日に軍費で使いをよこされたのである。その後、明確に無罪となり、アメリカ本国への帰還のための書類を渡された。アメリカ政府のどの部署も、誰かを「潔白」だと公式声明を出す慣習はないのだが、ヤング・ピープルズ・コンサート委員会は、特にこの問題を調査した国務省の元メンバーから、徹底的に調査されたこの事件に関して、政府はこれ以上関心を持たないという確約を得た。加えて、この事件を担当したG-2の陸軍将校から、フィルハーモニック交響楽協会の運営は電報を受け取った。結論は、ブスタボ女史が愚かに振舞ったが、それもわざとではなく、政治的意図もなかったということである。彼女は健康の回復のために2年に渡ってこの国に住んでいる。もし政府が彼女に反逆罪のようなものがあると思っているなら、彼女をとうの昔に起訴し、少なくとも動静を監視されていただろう。しかし、そうはしなかったし、これからもそうしないのだ。彼女は若く、経験も浅く、適切な助言もなかった。彼女は馬鹿げた行動をし、過ちに気づいたのは、退くにはあまりに遅すぎてからだった。彼女はこれまで政治と何の関わりもなかったが、彼女のアメリカ市民権に悪影響を及ぼしたであろうあらゆる行為について心から謝罪している。アメリカ陸軍とアメリカ政府が彼女の容疑を晴らした以上、彼女の生活の基盤たるコンサート活動を再開させない理由などない。上記の事実が十分に公表されていないがゆえに、ある種の誤解が生じている可能性がある。」(アーカイブ 2023年8月6日 - ウェイバックマシン)(アーカイブ 2023年8月6日 - ウェイバックマシン)
- ↑ 1948年3月4日付のアハルト大佐によるアメリカ退役軍人委員会のゴールドスタイン宛の書簡によれば、ニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団に送った電報に書かれたアハルト大佐自身の見解は、陸軍としての見解ではなく、大佐の個人的見解である旨が記されている。(アーカイブ 2023年8月6日 - ウェイバックマシン)これにより、アハルト大佐の電報はニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団側が主張していたブスタボ招聘の正当性の根拠にならなくなった。ゴールドスタインは、ニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団の事務局に、金輪際ブスタボと共演を認めず、カーネギー・ホールに近づけないよう要請している。(アーカイブ 2023年8月6日 - ウェイバックマシン)ニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団の事務局側も、「ブスタボがヤング・ピープルズ・コンサートに出演した時点では、本当の事実を私たちは知らなかったのだから、私たちに非はない。」(アーカイブ 2023年8月6日 - ウェイバックマシン)と返事し、ブスタボとの縁を切っている。
- ↑ 1948年にアメリカ退役軍人委員会の音楽家支部がブスタボをブラックリストに載せたので、事実上アメリカ楽壇からは締め出される形になった。(Waiblinger, Michael (2020). “Guila Adelina Teressina Bustabo”. Bustabo Auclair Bobesco Live Concert Performance (Melo Classic): 3. ASIN B08QM746K1.)
- ↑ 1949年に結婚したとする資料もある。また、その資料によれば、1964年から1970年までブスタボがインスブルックに住んでいた時には夫のスティーグを見た人はおらず、この頃から既に別居していたのではないかと考察している。(Tiroler Landesmuseen, ed (2014). Stereo-Typen. Gegen eine musikalische Monokultur: Katalog zur Ausstellung im Ferdinandeum. Universitätsverlag Wagner. p. 92. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9783703009341. "Wo Guila Bustabo den amerikanischen Militärmusiker Edison Stieg (1916-2001) kennenlernte, den sie 1949 heiratete, ist nicht bekannt. Überhaupt bleibt stieg eine mysteriöse figur; in der innsbrucker Zeit (1964-1970) lebt das Paar offenbar bereits getrennt. Stieg tritt hier nie in Erscheinung und alle Zeitzeugen zeigten sich darüber verwundert, dass die Geigerin verheiratet war. 1976 wrude die Ehe geschieden, das Grab von Edison Carl Stieg befindet sich am evangelisch-lutherischen Friedhof in North Tonawanda im US-Staat New York.")
- ↑ ミヒャエル・ヴァイビンガーによれば、ブスタボがスティーグと出会ったのは、スティーグが陸軍に所属し、ブスタボがアメリカ進駐軍の後援で演奏旅行を行っていたヨーロッパでのことだった。彼女はパリのブリストル・ホテルを本拠にしており、ブスタボの弟ジャックがスティーグの同僚だったことから、ジャックがブスタボとスティーグの仲を取り持った。(Waiblinger 2016, p. 4)
- ↑ グラトルによれば、教師として特段のメソードを持っておらず、学生の習熟度に合わせた選曲も出来ず、基本的に自分の弾き方の真似をさせるのみで、学生に下す評価はせいぜい「良」止まりで「優」を与えることはなかった。また、インスブルック交響楽団の第二ヴァイオリン・セクションのリーダーとして演奏していたが、独奏者としての訓練しか受けてこなかったこともあって、小節を数える習慣がなかったり、パートの中で悪目立ちしたりして、リハーサルでしばしばブスタボにとって屈辱的な状況になったという。(Franz Gratl - „Music is my only means of self-expression.“ | Quart Heft für Kultur Tirol Nr. 31/18)
- ↑ グラトルによれば、1946年から罹患していた。(Franz Gratl - „Music is my only means of self-expression.“ | Quart Heft für Kultur Tirol Nr. 31/18)
- ↑ アラバマ交響楽団でのブスタボの様子については、団員だったウィリアム・F・ハッセイが証言している。ハッセイによれば、ヴァイオリンの独奏者が遅刻した際には、その曲が何であれ、直ぐにその独奏パートを演奏することができたという。彼女を独奏に立てて、アラム・ハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲を演奏したことがあったが、様式上も完璧で、キラキラしていて、すべての音符がクリスタルのようにクリアだった。しかし、団員としてセクションで演奏するとなると、そうした美質はすべて失われた。「ブラームスの交響曲第4番、これは何ですか?」と言うように、オーケストラでの奏者であれば当然知っているようなことにも疎かった。さらには、音をブレンドするような能力もなく、セクションで演奏するような音楽性もあまり持ち合わせておらず、地域のオーケストラにとっては、お荷物だった。ある時、ヘンリク・シェリングが客演に来たが、ブスタボは、シェリングが何者かということすら知らなかった。しかし、シェリングは、彼女が何者かを知悉していて、このオーケストラの団員として演奏している彼女に出くわして酷くショックを受けていた。彼女の母親は、全くもって彼女の妨げで、かつ彼女にいつもべったりだった。彼女は戦時中のことについては少しも語らなかったが、彼女は全く政治的ではなく、ヴァイオリンの独奏のこと以外は気にしなかった。彼女は明らかに双極性障害を患っていて、躁状態で興奮していることもあった。彼女をリハーサルの為に1時間以上離れたところに送迎していた時など、その間中、医者の診察について、彼女が嚥下に困難を抱えていたという話をずっと聞かされた。喉にゴムホースを入れるよう勧められたと彼女が言ったが、医師の判断がどうであれ、その場にいた皆は、その意見に賛成だった。ハッセイは、以上のことから、彼女は多くのフラストレーションを抱え、そこに怒りも加わっていたのだろうし、戦中のキャリアよりも彼女自身では対処できない双極性障害が彼女の人生を狂わせたのだろうと考えている。(アーカイブ 2014年8月8日 - ウェイバックマシン)
- ↑ The Forgotten Violinist
- ↑ Waiblinger 2020, p. 4
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