フリッツ・クライスラー
フリッツ・クライスラー(Fritz Kreisler, 1875年[1]2月2日[2] - 1962年[3]1月29日[4][5])は、オーストリア出身のヴァイオリン奏者、[6]作曲家。[7][8][9]
ウィーンにて、[10]ユダヤ人の父サムエル[11][12][13]と母アンナ[14][15]の下でフリードリヒ=マックス・クライスラー(Friedrich-Max Kreisler)[16]として生まれる。父の家では地元の名士たちが弦楽四重奏に興じていたが、4歳の頃にその弦楽四重奏のメンバーから玩具のヴァイオリンを贈られた。そのヴァイオリンで父の家で催される弦楽四重奏に参加し、メンバーの代わりに見事な演奏を聴かせた。結果として父からヴァイオリンを買ってもらうこととなり、リング劇場のコンサートマスターを務めるジャック・オーベールからヴァイオリンのレッスンを受けるようになった。[17]6歳からヤコブ・ドントにレッスンを受け、[18]7歳からウィーン音楽院に通い、[19]ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世にヴァイオリンを師事し、[20]アントン・ブルックナーの許で音楽理論を学んだ。[21]1885年から1887年までパリ音楽院に行き、ランベール・マサールにヴァイオリン、レオ・ドリーブに和声と対位法、[22]ジュール・マスネに作曲をそれぞれ師事。[23][24]1888年から翌年までピアノ奏者のモーリツ・ローゼンタールのアメリカへの演奏旅行に共演者として随行した[25]が、帰国後は2年間医学を学び、 [26]パリとローマで芸術も学んだ。[27]1895年から翌年まで軍務に就いた。[28]その後は家計を助けるために音楽の道に戻り、[29]ウィーン宮廷歌劇場歌劇場管弦楽団の入団オーディションを受けたが[30]アルノルト・ロゼーに入団を断られ、[31][32]しばらくカフェやキュンストラーフェラインで演奏して過ごすこととなった。[33]1898年にはハンス・リヒターの指揮するウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会でマックス・ブルッフのヴァイオリン協奏曲第2番を弾いて改めてデビューを飾り、1899年にアルトゥル・ニキシュの指揮するベルリン・フィルハーモニー協会のコンサートでフェリックス・メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を演奏して名声を得た。[34]1900年末にはアメリカに演奏旅行に出かけ、カーネギー・ホールでのリサイタルを成功させている。[35]ヨーロッパに戻る船中でハリエット・リース[36]と出会い、翌年ニューヨークで結婚した。[37]1902年にはロンドンにも演奏旅行に出かけ、[38]1910年にはクィーンズ・ホールでエドワード・エルガーのヴァイオリン協奏曲[39]を作曲者自身の指揮で初演し、作品を献呈されている。[40]1914年、第一次世界大戦勃発を期に軍務に戻ったが、戦線で負傷して除隊し、[41]その年のうちにアメリカに渡った。[42]アメリカでは自らの収入の多くをオーストリアの戦災孤児とヨーロッパの負傷兵の為に寄付を行っていたが、このことが問題視され、1917年にアメリカが第一次世界大戦に参戦した際には、全ての公演から身を引かざるを得なくなった。[43]1923年には初来日。[44]1924年からベルリンに移住したが、[45]1932年にはアン・デア・ウィーン劇場で喜歌劇《シシー》を発表し、[46]1935年の60歳の誕生日には、ウィーン市長のリヒャルト・シュミッツから名誉メダルを贈呈されたり[47]と、オーストリアと密接に関わった。また1935年には他者の作品の自由な編曲として発表していた作品について、全くの自分の創作であることを明かして話題になった。[48][49]1938年にはフランス政府からレジオン・ドヌール勲章を授与され、翌年にはフランス国籍を取得。[50]1939年からアメリカに移住。[51]1941年にはトラックにひかれて重傷を負ったが、[52]翌年の秋には演奏活動に復帰。[53]1950年からは慈善事業の場で非公式に出演することはあっても、公の場での演奏活動は控えるようになった[54]が、晩年は聴力と視力が次第に衰えていった。[42]
脚注[編集]
- ↑ “ON THIS DAY | Violinist & Composer Fritz Kreisler Was Born in 1875”. The Violin Channel. (2021年2月2日). オリジナルの2023年2月20日時点におけるアーカイブ。 2023年2月20日閲覧。
- ↑ “ヴァイオリンの旧約聖書!没後55年フリッツ・クライスラー(1875~1962)の芸術(21枚組)”. 2021年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月6日閲覧。
- ↑ アーカイブ 2020年10月22日 - ウェイバックマシン
- ↑ “The Search for the Minor Composer: The Case of Fritz Kreisler: Music Reference Services Quarterly: Vol 5, No 2”. 2021年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年8月17日閲覧。
- ↑ フリッツ・クライスラー - Find a Graveスクリプトエラー: モジュール「WikidataCheck」はありません。
- ↑ “Austrian violinist and composer Friedrich Kreisler and a woman, New South Wales, Ca. 1925 [picture]”. 2023年2月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月20日閲覧。
- ↑ “Composer - Kreisler - MyMusicScores”. 2023年2月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月20日閲覧。
- ↑ “Luck's Music Library”. 2023年2月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月20日閲覧。
- ↑ “フリッツ・クライスラー作品表”. 2023年2月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月27日閲覧。
- ↑ “Kreisler, Fritz (1875-1962) - Composer - Hyperion Records - CDs, MP3 and Lossless downloads”. 2023年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月22日閲覧。
- ↑ “Samuel Kreisler (1845 - 1921) - Genealogy”. 2023年2月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月20日閲覧。
- ↑ 父親は、本名をザロモン・ゼヴェリン・クライスラー(Salomon Severin Kreisler)といい、本業は医師であり、アマチュアのヴァイオリン奏者であった。(Gilman, Sander L. (2006). Multiculturalism And The Jews. Routledge. pp. 253-254. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9780415979184)
- ↑ 父親はジークムント・フロイトと友達であったが、フロイトもヴァイオリンを嗜み、クライスラー家でヴァイオリンを弾くフロイトの演奏をクライスラーは幼少期から聴いていた。(“Inspiration from the Life of Fritz Kreisler - Willan Academy Of Music”. 2023年2月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月20日閲覧。)
- ↑ “Anna Chaje Rijwe Kreisler (Reches) (1852 - 1909) - Genealogy”. 2023年2月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月20日閲覧。
- ↑ ギルマンによれば、母はカトリック教徒であり、アーリア人と推測されている。(Gilman 2006)
- ↑ アーカイブ 2023年2月19日 - ウェイバックマシン
- ↑ Predota, Georg (2023年2月2日). “On This Day 2 February: Fritz Kreisler Was Born”. Interlude. オリジナルの2023年2月20日時点におけるアーカイブ。 2023年2月20日閲覧。
- ↑ “Legendary Violinists. Fritz Kreisler”. 2012年9月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年9月12日閲覧。
- ↑ “The Search for the Minor Composer: The Case of Fritz Kreisler: Music Reference Services Quarterly: Vol 5, No 2”. 2021年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年8月17日閲覧。
- ↑ “Untitled”. 2023年2月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月20日閲覧。
- ↑ Predota, Georg (2023年2月2日). “Fritz Kreisler: King of the Violin”. Interlude. オリジナルの2023年2月23日時点におけるアーカイブ。 2023年2月23日閲覧。
- ↑ “Fritz Kreisler”. 2023年2月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月20日閲覧。
- ↑ Ploog, Karin (2022). ...Als die Noten laufen lernten... 1.2 Komponisten H bis O. Books on Demand. p. 238. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9783756820313
- ↑ 12歳の時にローマ大賞で一等賞を得たとする資料もある。(“The Violins of Violinist Fritz Kreisler”. 2023年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月22日閲覧。)
- ↑ “Fritz Kreisler (1875-1962) – Mahler Foundation”. 2023年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月22日閲覧。
- ↑ “クライスラー(Fritz Kreisler)(くらいすらー)とは? 意味や使い方 - コトバンク”. 2023年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月22日閲覧。
- ↑ Kennedy, Michael, ed (2013). The Oxford Dictionary of Music. Oxford University Press. p. 467. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9780199578542
- ↑ “A Violinist at the Front on JSTOR”. 2023年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月22日閲覧。
- ↑ 中村, 稔『ヴァイオリニストの系譜―ヨアヒムからクレーメルまで』音楽之友社、1988年、61頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784276216167。
- ↑ “About This Recording”. 2023年2月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月24日閲覧。
- ↑ ロゼーが入団を拒絶した理由は「初見の出来が悪い」というものであった。(“Arnold Rosé: First violin of Vienna”. 2021年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月6日閲覧。)
- ↑ 中村に従ってカール・フレッシュによれば、ロゼーに入団を断られた理由は「リズムに難がある!?」というものだった。(中村 1988, p. 61)
- ↑ この時期にヨハネス・ブラームスやヨーゼフ・ヨアヒム等と知り合い、しばしばブラームスと一緒に演奏したという。(キャンベル, マーガレット『名ヴァイオリニストたち』岡部宏之訳、東京創元社、1983年(原著1980年)、152頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784488002169。)
- ↑ ニキシュと共演したベルリンでの演奏会には聴衆の中にウジェーヌ・イザイが居り、イザイはスタンディング・オベーションでクライスラーを称えたという。後にクライスラーとイザイは親友となり、イザイは無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第4番をクライスラーに献呈している。(キャンベル 1983, pp. 152-153)
- ↑ キャンベル 1983, p. 153
- ↑ “Harriet Lies Kreisler (1869-1963) - Find a Grave Memorial”. 2023年2月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月25日閲覧。
- ↑ 船中の理髪店にてクライスラーがハリエットを見かけて一目惚れし、直ぐに交際が進展した。(Horkan, Vincent J. (1995年5月1日). “Fritz & Harriet Kreisler”. Crisis Magazine. オリジナルの2023年2月25日時点におけるアーカイブ。 2023年2月25日閲覧。)
- ↑ 岩井, 宏之「フリッツ・クライスラー 自らの人間性の所産としての音楽によって 聴き手の胸にいつまでも懐かしさをとどめる」『クラシック 続・不滅の巨匠たち』音楽之友社、1983年、154頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784276960121。
- ↑ 1907年にクライスラーが作曲を依頼した。(“The Right Notes Fritz Kreisler”. 2023年2月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月25日閲覧。)
- ↑ キャンベル 1983, p. 154
- ↑ “Fritz Kreisler. Four Weeks in the Trenches. 1915.”. 2023年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月22日閲覧。
- ↑ 42.0 42.1 Horkan 1995
- ↑ キャンベルによれば、クライスラーは「破棄された契約のために八万五千ドルもの損害を被った」が、「この期間に〈リンゴの花ざかり〉というオペレッタを作曲し、これは後にブロードウェーで一年以上のロングランを続けた」という。(キャンベル 1983, pp. 154-155)
- ↑ “ヴァイオリンの旧約聖書!没後55年フリッツ・クライスラー(1875~1962)の芸術(21枚組)”. 2021年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月6日閲覧。
- ↑ “Ehemalige Gedenktafel für Fritz Kreisler - Berlin.de”. 2023年2月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月25日閲覧。
- ↑ “23. Dezember 1932: Im Theater an der Wien in Wien wird die Operette "Sissy" von Fritz Kreisler uraufgeführt”. Salzburger Nachrichten. (2022年12月22日). オリジナルの2023年2月27日時点におけるアーカイブ。 2023年2月27日閲覧。
- ↑ “FRITZ KREISLER”. 2021年2月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月28日閲覧。
- ↑ ハロルド・スピヴァッケがクライスラーに「古典的手稿」シリーズの作品の出典を問い合わせた後、オリン・ダウンズがニューヨーク・タイムズ紙上でシリーズの作品が編曲ではなくクライスラー自身の作品であることを明らかにした。(アーカイブ 2023年1月26日 - ウェイバックマシン)
- ↑ キャンベルによると、クライスラーは「リサイタルに使う小品がもっとたくさん必要になると、当時全く知られていなかった作曲家たち―ヴィヴァルディ、ポルポラ、プニャーニ、ディッタースドルフ、シュターミッツおよびクープラン―のスタイルで曲を作り、それらを『編曲』として披露」した。これらの作品について、「ハイフェッツ、エネスコそのほかの親しい友人が偽作に気づき、しかもクライスラー自身が何度も真相を仄めかした」にも拘らず、「批評家たちは彼の研究をほめそやし」こそすれ、「だれも偽作とは信じなかった」という。「結局彼はこれらは創作であって編曲ではないと認める決心をし、出版人に次のカタログにはその旨の声明を印刷するように指示」し、「当時の〈ニューヨーク・タイムズ〉紙の主任音楽批評家のオリン・ダウンズは、クライスラーの弁明を受け入れる、非常に公平な記事を書いた」。一方で、ロンドンのサンデー・タイムズ紙のアーネスト・ニューマンは「この行為全体の非論理的な性格を見れば、これは欺瞞であり、それがどうしても許せない」旨の論評で、クライスラーの偽作を非難した。これを受けて、クライスラーは「いったんよいと言明したものが、別の人間によって作曲されたことがわかったからといって、その批評家の名声が傷つくことはない」とサンデー・タイムズ紙に手紙を送っている。畢竟、ダウンズの「クライスラー氏は諸国民の愉快な話題と、ヴァイオリンの演奏曲目を増やした。そのことで、われわれは彼を不満に思うだろうか?」という言によって論争は沙汰止みとなった。(キャンベル 1983, pp. 159-160)
- ↑ “Fritz Kreisler Collection:”. 2023年2月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月27日閲覧。
- ↑ “Fritz Kreisler | Seattle Chamber Music Society”. 2023年2月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月27日閲覧。
- ↑ “Image of FRITZ KREISLER (1875-1962). - American (Austrian-born) Violinist And Composer. A Doctor Administers Care To Kreisler After He Was Struck By A Truck At 57th Street And Madison Avenue In New York City, 26 April 1941. From Granger - Historical Picture Archive”. 2023年2月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月27日閲覧。
- ↑ Schmidt, Matthias (2022). Fritz Kreisler: Ein Theater der Erinnerung. Edition Text + Kritik. p. 146. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9783967076141
- ↑ 1947年に引退したとする資料もある。(“フリッツ クライスラーとは? 意味や使い方 - コトバンク”. 2023年2月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月27日閲覧。)
- ↑ ニューヨークのコロンビア・プレスビテリアン・メディカル・センターにて没したとする資料もある。(Horkan 1995)
- ↑ ニューヨークの自宅にて死去したとする資料もある。(中村 1988, p. 63)
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