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ヴィルヘルム・フルトヴェングラー

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ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler, 1886年[1]1月25日[2] - 1954年[3]11月30日[4])は、ドイツ作曲家指揮者[5][6]本名は、グスタフ・ハインリヒ・エルンスト・マルティン・ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Gustav Heinrich Ernst Martin Wilhelm Furtwängler)。[7]

ベルリンにて、[8]考古学者の父アドルフ[9]と画家の母アーデルハイト[10][11]の長男として生まれる。4歳からピアノを学び、[12]7歳から作曲を始めた。[13]1897年からアントン・ベーア=ヴァルブルンに楽器法と対位法を師事。[14]1899年にはギムナジウムを退学し、[15]以降家庭教師を招いての自宅学習に切り替えられている。[16]一方で、父の助手であったヴァルター・リーツラーとルートヴィヒ・クルツィウスを家庭教師とし、[17]他方で音楽に打ち込み、ヴァイオリン・ソナタ、ピアノ四重奏曲、歌曲や変ホ長調のオーケストラのための序曲を書き上げた。[18]また、1899年に母と母の親族とでベルリンを訪問してマックス・ブルッフヨーゼフ・ヨアヒムに面会し、ヨアヒムからヨーゼフ・ラインベルガーを紹介されたのを受けて、ラインベルガーに作曲を師事。[19][20]1901年にラインベルガーが亡くなった後は、マックス・フォン・シリングスに師事。[21][22]1905年に母方の叔父のゲオルク・ドールンの伝手でブレスラウでの指揮者の仕事を紹介されているが、これはすぐに辞めている。[23]1906年には父アドルフに伝手でカイム管弦楽団を指揮したが、同団の指揮者の職には結びつかず、1906年には師のシリングスの勧めでチューリヒ歌劇場の第三楽長となった。[24]1907年[25]にはチューリヒ歌劇場でフランツ・レハールの《メリー・ウィドウ》のスイス初演を指揮した[26]が、チューリヒ歌劇場での契約は更新されなかった。[27]1908年にミュンヘン宮廷歌劇場のコレペティートルに就任し、1909年にはリヒャルト・シュトラウスの《エレクトラ》の準備に参加。[5]1910年にはシュトラスブルク歌劇場の第三楽長に就任。[28][29]1911年には母の友人で作家のイーダ・ボイ=エドの伝手でヘルマン・アーベントロートの退任に伴うリューベック市の次期音楽監督の選考に参加し、アーベントロートの後任に選ばれた。[30]1912年にはハンブルクに行ってアルトゥル・ニキシュの指揮するコンサートを聴いて影響を受けている。[31]また、リューベック在任中には、ハインリヒ・シェンカーの著作に触れ、シェンカーの理論にも影響を受けた。[32]1913年には初めてのドイツ国外の客演としてウィーンの演奏協会のオーケストラを指揮。[5]1915年にはマンハイム宮廷劇場の音楽監督に転出し、[33][34]1920年まで務めた。1917年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に客演。[35]マンハイムでの職を辞した後は、ベルリン国立歌劇場管弦楽団の指揮者となり、[36]1920年から1922年までフランクフルト博物館管弦楽団[37]の指揮者を務めた。[38]1922年には急逝したニキシュの後任としてライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団[39]とベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任。[40]また、1922年のブラームス記念演奏会でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮台に初めて登る。[41]1923年にはミラノ・スカラ座でコンサートの指揮をしてイタリアに初登場し、[42]1924年にはイギリスにも客演。[43]また1924年から1927年まで北アメリカにも客演。[44]1927年から1930年までウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者を務めた。[45]1928年にはベルリン市の音楽総監督となり、[5]1931年にはプフィッツナーの《心》の上演でベルリン国立歌劇場に初登場。[46]1930年からバイロイト音楽祭の音楽監督を任されたが、[47]1932年に辞任。[48]1933年には枢密顧問官に就任。[49]1934年にはパウル・ヒンデミットの作品を排斥しようとする政治当局と渡り合おうとした。[50][51]その後、フリーランスの指揮者としてドイツ国内で仕事をすることにし、その許可をゲッベルスに求めたが、ゲッベルスによりフルトヴェングラーが政治当局と和解したかのように情報操作をされてしまった。[52]1936年にはアルトゥーロ・トスカニーニの後任としてニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団の首席指揮者への就任を打診されたが、ナチス当局側からベルリン国立歌劇場への復帰という虚報を流されて話が流れてしまった。[53]第二次世界大戦勃発後もドイツに残って活動を続けた[45][54][55]が、1945年2月にスイスに出国し、スイス・ロマンド管弦楽団等に客演。[56]戦後、1946年2月にウィーンに行って当地の非ナチ化委員会で弁明し、オーストリアでは暫定的な就業禁止がいったん取り消された[57]が、連合国側からオーストリアでの非ナチ化が政治的な取引の上でなされたことを見抜かれ、彼の本籍であるドイツでの非ナチ化が為されるまで連合国占領地域に於ける演奏活動の禁止解除は棚上げされることになった。[58]1946年12月からベルリンで改めて非ナチ化の審理[59]が行われ、[60]1947年4月末には結審して連合国の占領区でも演奏活動が行えるようになった。[5][61][62]しかし、活動再開後、ヨーロッパでは名声を回復したが、アメリカの楽壇からは拒絶された。[63]1948年にはアルトゥール・ロジンスキの後任としてシカゴ交響楽団の音楽監督に赴任する予定だったが、このことが新聞で取り上げられると大騒ぎになり、著名な演奏家たちから抗議が殺到したことで、この話は流れてしまった。[64][65]1952年から亡くなるまでベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督を務めた。[66]

エーバーシュタインブルクの病院[67]にて死去。[68]

[編集]

  1. フルトウェングラーとは? 意味や使い方 - コトバンク”. 2023年10月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月24日閲覧。
  2. 白川, サム・H『フルトヴェングラー 悪魔の楽匠 上』藤岡啓介、加藤功泰、斎藤静代訳、アルファベータ、2004a(原著1992年)、23頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784871985314
  3. ヴィルヘルム フルトヴェングラーとは? 意味や使い方 - コトバンク”. 2023年10月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月24日閲覧。
  4. クラウス, ゴットフリート『フルトヴェングラーを讃えて』野村美紀子訳、音楽之友社、1989年(原著1986年)、238頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784276217164
  5. 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 交響曲第6番『田園』 ヴィルヘルム・フルトヴェングラー&ウィーン・フィル(1943)、『ティル』&『未完成』の練習風景 : ベートーヴェン(1770-1827) | HMV&BOOKS online - KKC4166”. 2023年10月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月24日閲覧。
  6. ヴィルヘルム・フルトヴェングラー - Discogs
  7. フルトベングラーとは? 意味や使い方 - コトバンク”. 2023年10月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月24日閲覧。
  8. 「アーデルハイト・フルトヴェングラーとアードルフ・フルトヴェングラーの長男は『確かに私は父方からいえば南ドイツの人間ですが、母方は純粋な北ドイツ系、いうなればプロイセン系(ポンメルンの出)なのです。』と、後年自分について述べている。彼はさらに『ドイツ人でプロテスタントである』ことも大事に思っている。フライブルクとカールスルーエの祖父のもとで育っていたら、彼は生粋のバーデン人になったであろう。しかし彼は一八八六年一月二十五日、ベルリンのシェーネベルク地区、マーセン通りとノレンドルフプラッツが合流する角地にある家の四階で生まれた。現在は、そこに十階建てで黄色とオレンジ色のコンクリートのビルが建っている。」(ハフナー, ヘルベルト『巨匠フルトヴェングラーの生涯』最上英明訳、アルファベータ、2010年(原著2002年)、12頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784871985710)
  9. 「アドルフ・フルトヴェングラー、彼の父親は著名な考古学者。とりわけギリシャ時代の花瓶や貨幣に関する権威であり、ミュンヘン彫刻館の館長で、またミュンヘン大学の教授をもつとめていた。大学での教授は、まるで自分たちの子供から慕われるように、学生たちから敬慕されていた。ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、その父親の長男であった。」(ガイスマー, ベルタ『フルトヴェングラーと共に』筒井圭訳、東京創元社、1978年(原著1944年)、18頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784871985710)
  10. 旧姓はヴェント(Wendt)。(Adelheid Wendt Furtwängler (1862-1944) - Find a Grave Memorial”. 2023年10月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月24日閲覧。)
  11. 「母親は才能ある画家であり、彼女は自分の四人の子供たちをたいへん魅力的な肖像画に書いている。」(ガイスマー 1978, p. 18)
  12. 「ヴィルヘルムは最初の頃は母親よりスケッチへの興味をかなり受け継いでいた。しかし、楽器を演奏するのも、古典・人文主義的な教養の理想に含まれる。そこでアーデルハイトは、息子たちに読譜やピアノ演奏の基礎を学ばせた。やがてヴィリーは父の妹でピアノ教師の叔母みんなの許で勉強し、その後は音楽への興味を失うことはなかった。また作曲もした。パパの四十歳の誕生日、一八九三年六月三十日に、《動物たちの小品》が誕生する。『壁穴のおうち』で『ネズミ』が歌ったり踊ったりする変ホ長調の風変わりな曲だ。」(ハフナー 2010, p. 14)
  13. 白川 2004a, p. 29
  14. ハフナー 2010, p. 29
  15. フルトヴェングラーは「他人と議論するときはとことんつき合う覚悟があったし、ことが知的に駆り立てられるものであればあるほど、その知的闘争に声高に挑んでいった」というが、白川によれば、「彼はごく幼いときから、そうした論争好きの傾向を助長するよう仕向けられて育った」がゆえであるという。また、「きわめて知性が高く頭の回転が速かったが、学校ではそうした知性が発揮されることがな」く、「生まれながらの才能という点では彼とは比較にならない他の子供たちが、ことごとに邪魔するのを我慢しなければならなかったし、教師たちとも対立してしまった。教師の中には、ヴィルヘルムの知識人としての天賦の才に太刀打ちできない者が大勢いた。やがてヴィルヘルムの両親は知的サラブレッドを産んでしまっていたことに気づいて、ありきたりの学校教育では適切な教育が受けられないと判断した。そこで地元の初等学校を退学させ、全面的に教育することにした。」(白川 2004a, pp. 25-26)
  16. ハフナーは「十一歳の少年は父の助手のヴァルター・リーツラー―後年のミュンヘン大学の芸術学教授、弟がドイツ帝国の国務長官―に伴われて、試演に出かけた。何人かの名声のある音楽家、マックス・フォン・シリングス、ヘルマン・レーヴィ、アードルフ・ザントベルガー、アントン・ベーア=ヴァルブルンらが、音楽家として教育を受ける才能があるかどうかを決定することになった。この審査をした人々はヴィルヘルムの才能を疑うことがなかったこともあり、父も義父も教師だったことから学校の事情には精通していたアードルフ・フルトヴェングラーは、二年後に息子を自由の身にし、学校を止めさせた。」と記述している。(ハフナー 2010, p. 27)この記述に従えば、フルトヴェングラーが学校をやめたのは13歳の時であり、同書の491頁にある「一八九七年 ギムナジウムを退学し、ヴァルター・リーツラー、ルートヴィヒ・クルツィウスの個人教授による教育を受ける。」という記述について、「一八九七年」とするのは誤謬であろうと思われる。
  17. 「リーツラーがアードルフ・フォン・ヒルデブラントから春と夏にフィレンツェで息子のディートリヒを教えてほしいという魅力的な申し出で引き抜かれると、ルートヴィヒ・クルツィウスが代わりを務めるようになった。彼は後年、ローマの考古学研究所の所長になる人物だった。毎朝、八時から十時までヴィルヘルムは授業を受け、残りの時間は音楽に打ち込んだ。」(ハフナー 2010, pp. 27-28)
  18. 「彼は才能が最高に伸びるように教育を受け、時間をたっぷりかけ、幅広い指導を受けた。ヴィルヘルムはオルガンにも挑戦したし、母方の叔父ゲオルク・ドールン博士から二時間のヴァイオリンのレッスンを定期的に受け、その後はヴェーグナーという名前の宮廷音楽家からも指導を受け、少なくともモーツァルトのヴァイオリン・ソナタは弾けるようになった。時々彼は―リーツラーや若いフランツ・フォン・ヘスリーンらと一緒に―弦楽四重奏曲のヴィオラ・パートを演奏したり、ピアニストのハインリヒ・シュヴァルツの指揮するアマチュア・オーケストラに第二プルトで参加することもできた。ピアノは『一家の友人』と呼ばれた文学学者の夫人でエーミール・ズルガー=ゲービングというピアノ教師に師事したが、ベートーヴェンのピアノ・ソナタを弾きこなし、自作の曲まで作曲するようになった。」(ハフナー 2010, p. 28)ピアノ四重奏曲と序曲については、「一九〇〇年二月には、彼は―ピアノは自分が演奏して―ミュンヘン・オーケストラ協会で自作のピアノ四重奏曲と序曲を初演」し、ハフナーに従ってリーツラーによれば、「序曲は少年が自ら指揮をしたが、それは並大抵の苦労ではなかった―オーケストラと気持ちが通じるようになるまでには、ずいぶん時間がかかった」という。なにはともあれ、この1900年の演奏会が、フルトヴェングラーにとって初めての自作の公開初演であった。(ハフナー 2010, p. 29)
  19. フルトヴェングラーの母は、フルトヴェングラーを「マックス・ブルッフや有名なヴァイオリン奏者でベルリン音楽大学校長のヨーゼフ・ヨアヒムにも紹介した。ヨアヒムはお世辞をいろいろ言ったが、ベーア=ヴァルブルンの師であるヨーゼフ・ラインベルガー(一八三九~一九〇一)に推薦してくれた。彼は『王立音楽学校』の教授で、『枢密顧問官』の称号を与えられた伝説的な作曲家だった。彼は原則として個人レッスンは引き受けないが、今回のようなとりなしやベーアの推薦もあり、応じることにし、ヴィルヘルムを彼の―きわめて厳格な―学校へ入れた」。(ハフナー 2010, pp. 29-30)
  20. 「一九〇〇年にはヨーゼフ・ラインベルガーのもとで対位法の上級課程へ進んだ。ラインベルガーは当時のミュンヘンでこの分野の最高権威であり、自ら喜歌劇、交響曲、オルガン音楽を数多く作曲していた人物で、ヴィルヘルムにベートーヴェンの弦楽四重奏曲について徹底的に説明した。」(白川 2004a, p. 30)
  21. 「フルトヴェングラーの勉強は一九〇一年に師ラインベルガーが不治の肺疾患で死去したため中断された。マックス・フォン・シリングスがフルトヴェングラーへの作曲教育を引き継いだ。後年フルトヴェングラーはシリングスを、自分が音楽の世界で大きく出世するようになる可能性を初めて認めてくれた人物であるとしている。このような師のもとでの勉強によって、フルトヴェングラーは解釈という問題を痛切に感じさせられたので、生涯を通じてこの問題に魅了されることとなった。」(白川 2004a, pp. 30-31)
  22. シリングスには指揮法も学び、1903年6月には自宅の庭での催しでディレッタントのアンサンブルを相手にヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》を指揮している。(ハフナー 2010, p. 33)
  23. 「一九〇五年秋、フルトヴェングラーは仕事を始めた。オーケストラのリハーサルや演劇の付随音楽の指揮を少し任されたが、クリスマスにはシュレジアでのポストをもう放棄した。収入が少ないことは別にしても、楽長になることは不可能に思われたのだ。」(ハフナー 2010, p. 40)
  24. ハフナー 2010, pp. 42-43
  25. この年には父アドルフがアテネで赤痢に罹って亡くなっている。(ハフナー 2010, p. 50)
  26. 作曲者から「あのフルトヴェンドラーとかいう楽長は、アマチュアのヴィルデ・グングル楽団をエロイカ楽団に仕立てようとし、闇夜に辻馬車を駆る御者のように、しゃにむに突っ走らせたそうだ。もう一度でもそんな誤解をされるのは、まっぴらだ。この粗忽者がそうやって私の《ウィドウ》を台無しにしてくれたおかげで、今にスイスでは誰もこの作品を観なくなってしまうだろう。」と酷評している。(ハフナー 2010, p. 45)
  27. 「《メリー・ウィドウ》の上演中、オーケストラがディアローグで主旋律を優しく演奏するこの新しいヒット作の最後の場面で(しかも誰もが羨ましがる指揮という役目を与えられたときに)、あろうことか彼は集中力を失ってしまう事件があった。歌手たちはフルトヴェングラーに向かって演奏を始めるように三回もキューを送ったが、曲は始まらない。ついにテナー歌手が立腹して舞台から立ち去ってしまった。フルトヴェングラーはその夜の演奏を何とか収拾しようとできるだけのことをしたが、ともあれ、それはユニークなフィナーレではあったが、フランツ・レハールにとって大きな迷惑だったことも確かだ。/これが、フルトヴェングラーにとってその年の最後の公演となった。経営陣は彼にシーズンの終わりまで『私的活動』を許した。それは他の仕事を探すためにその時間を用いてもかまわないとの含みである。契約更新は行われなかったが、彼はとくに驚かなかった。オペレッタは、歌劇場の総支配人がすでに指摘していた通り、彼の得意な分野ではなかった。」(白川 2004a, pp. 37-38)
  28. ハフナー 2010, p. 492
  29. ハンス・プフィッツナーがシュトラースブルク歌劇場の監督になると、第三楽長と監督助手のポストにフルトヴェングラーは飛びついた。彼は当時のドイツのアルザスの中心都市に転居し、ニコラウスリング十一番地のバイケ夫人宅の三階に住んだ。プフィッツナーは定期演奏会を指揮したが、音楽学校の校長も兼任し、オペラ学校も創設した。ヴィルヘルムは彼に心から感嘆した。『あなたを前より知るようになった今となっては、あなた以上に尊敬すべき人はおりません』と彼は述べている。」(ハフナー 2010, p. 51)フルトヴェングラーは「自分が指揮をするチャンスは、シュトラースブルクでもあまり多くはなかった。一九一〇年九月二十七日、フルトヴェングラーはドニゼッティの《愛の妙薬》でデビューするが、ブルーノ・ヴァルターが書いているように『実に優れたオーケストラ』があった。」(ハフナー 2010, p. 52)
  30. ハフナー 2010, pp. 58-59
  31. 「一九一二年、リリー・ディークマンはフルトヴェングラーを連れてニキシュを聴きにハンブルクに行った。フルトヴェングラーはこの演奏会であまりにも圧倒されてしまったため、終演後このマエストロに紹介されたときには一言も発することが出来なかった。それまですでに気難しい芸術家と会ったり仕事をしたり、また見知らぬ人を、仕事の上で、あるいは個人的に相手にするなど、普段から気の張る状態にはあったが、二十七歳のフルトヴェングラーは社交的環境の中では、相変わらずきわめて内気で不器用だった。ニキシュがその友人たちと会食しようと招待してくれたのに、きっぱり断ってしまったのだ。後にこの経験から立ち直ってから、フルトヴェングラーは友人のヴェルナー・ヴォルフから、ニキシュの後継者になりたいと打ち明けた。」(白川 2004a, p. 50)
  32. 「ニキシュのスタイルがフルトヴェングラーに与えたものは、音楽の形式に関する感覚を育てるのに役立つ規範だったが、彼はまずその土台となるべきものを必要とした。リューベック在任中にフルトヴェングラーは偶然、著名なウィーンの理論家ハインリヒ・シェンカー(一八六六~一九三五)の著作を見つけ出した。シェンカーの噂は聞いていたが、著作活動をしていたことは知らなかった。さっそくそれを読んだところ、シェンカーの『ベートーヴェンの交響曲第九番』(一九一一年)と題する評釈がきわめて説得力のあるものに感じられた。」(白川 2004a, pp. 51)
  33. 「おそらくマンハイムの人たちは、少なくとも二方面からの推薦がなければ、この田舎の若者を『宮廷楽長』とすることは全く考慮もしなかったであろう。まずひとつは、当時、ミュンヘンの音楽総監督だったブルーノ・ヴァルターだった。彼はシュトラースブルクで知ったこの二十九歳の青年に『天分のある独特の人物という印象』を受け、ミュンヘンの総監督エルンスト・フォン・ボッサルトに推薦した。もうひとつは、ヴィルヘルムの祖母と親しかった地方裁判官オスカル・グローエの支持も重要な役割を演じた。彼は重要な芸術後援者で、市の劇場やコンサートの問題を取り決める劇場委員会のメンバーだった。そこで、ボダンスキー、グローエ、サリー・シュテルンからなる市の代表団がリューベックを訪れ、一九一五年三月二十三日、フルトヴェングラーが客演で指揮をする《フィデリオ》の通常公演を聴きに出かけた。」(ハフナー 2010, p. 70)
  34. 「一九一五年三月二十三日、彼の指揮した《フィデリオ》の公演で、この劇場付きテナー歌手は、ハンブルクからの有名な客演歌手カール・ギュンターに交替させられた。その行事には、音楽総監督アルトゥア・ボダンスキーに率いられたマンハイムの五人構成の調査委員会が出席していた。ボダンスキーは、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場のドイツものを率いるようにとのジュリオ・ガッティ=カザッツァの招請を受け入れるために、マンハイムの首席指揮者を辞任することになっていた。したがって、マンハイムにおける音楽監督の座は空席となっていた。この演奏会が終了するまでに、ボダンスキーとその同僚はフルトヴェングラーを後継者にしようと決めていた。」(白川 2004a, pp. 52-53)
  35. 「一九一五年から二二年にかけてマンハイム以外では六つの主要都市へデビューした。ウィーンへは一九一五年(コンサート協会管弦楽団、ついで一九一九年にはトンキュンストラー管弦楽団)、ベルリンへは一九一七年(ベルリン・フィルハーモニー)、フランクフルトへは一九一八年、ハンブルクへは一九一九年、ストックホルムへは一九一九年(ストックホルム・フィルハーモニー)―これは外国でのデビューになる―、そして一九二一年にはライプツィヒ(ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団)である。」(白川 2004a, pp. 81-82)
  36. 「一九二〇年にリヒャルト・シュトラウスがベルリン国立歌劇場のコンサート指揮者を辞任した時、フルトヴェングラーが有力な後継者として招かれた。そして最初のリハーサル中に、彼はオーケストラ楽員全員一致で後任の指揮者に選ばれることに決定し、すぐに次のシーズン(一九二〇-二一年)の契約を結んでいる。マンハイム歌劇場の契約は一九二〇年六月で切れる予定になっていたし、この点で何も問題はないのであった。」(ガイスマー 1978, p. 28)
  37. 「一九一八年/一九年シーズンには、中部ヨーロッパの旅行が大変だったこともあり、フランクフルト博物館管弦楽団のコンサートでウィレム・メンゲルベルクの代役を三回務めた。」(ハフナー 2010, p. 82)
  38. 「フルトヴェングラーは一九一九/二〇年びシーズン終了とともにマンハイムの職を辞した。音楽面での職務の他に経営管理面に関わる激務を縛られずに、自分の専門領域を広げたいと望んだからである。彼はドイツおよびオーストリア全土にわたるさまざまな都市に、客演指揮者として登場する、いわば巡回指揮者になった。にもかかわらず、一九二〇年から二二年までその地位にあった、フランクフルト・ミュージアムコンサートの定期公演シリーズの音楽監督としての仕事は続けていた。それはマンハイムよりも実働時間がはるかに少なかったからで、そのためフルトヴェングラーは広がる一方の活動リストにこの仕事を加えたのだった。一九二〇年、ウィレム・メンゲルベルクが外国に活動の場を求めて、ミュージアムコンサートとして知られていたフランクフルト歌劇場管弦楽団演奏会の指揮者を辞任した後のことだった。」(白川 2004a, pp. 80)
  39. ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の職は1928年に辞任。(小石, 忠男「ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団」『世界のオーケストラ123』音楽之友社、1994年、134頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784276960053)
  40. 「国立歌劇場でのオーケストラ演奏会の問題でフルトヴェングラーが懊悩しきりだった頃、事態は予想もつかぬ形でクライマックスに突入しつつあったのだ。一九二二年一月九日、アルトゥール・ニキッシュはベルリン・フィルハーモニーの公演を指揮したが、それが彼の最後の演奏会になってしまったからである。彼は一八九五年からベルリン・フィルを、それに一八九七年からはハンブルクでのベルリン・フィル演奏会も指揮しており、また一八九五年以来ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者でもあった。流感で倒れたニキッシュのかわりに、一月二十三日にはマックス・フィードラーが指揮台に立った。月がかわって二月五日のベルリン・フィルの総練習のプログラムには、まだニキッシュの名が印刷されてはいたが、二月六日の演奏会当日にはヴィルヘルム・フルトヴェングラーがそれを指揮し、演奏会には”アルトゥール・ニキシュ追悼”という名が冠せられた―すなわち、偉大なる世紀の芸術家がまた一人逝ったのである。/この時ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団は、ただちにフルトヴェングラーを後継者に選出、就任を依頼してきた。これは、ニキッシュ自身の遺志によるものという噂であった。一方、ベルリン・フィルの後任は、そう簡単には決定されなかったのである。/当時、フルトヴェングラーは、これを今逃したならば、おそらく生涯に二度とめぐって来ぬ絶好のチャンスというべきであろうし、またゲヴァントハウスの常任に加えて、もしこの完璧な音響効果を持つホールを本拠とするベルリン・フィルの指揮者という地位を兼任することができたとすれば、彼の芸術上の理想を十全に達成しうるだろうということを彼自身十分わきまえていた。/しばらくして、当時ベルリンでは数人のすぐれた指揮者たちが候補として挙げられていたにもかかわらず、ベルリン・フィルは全員一致でフルトヴェングラーを常任指揮者として選出した。そこで彼はライプツィヒとベルリンの両市で名実ともにニキッシュの後継者となった。」(ガイスマー 1978, pp. 33-34)
  41. 「彼がヴィーン・フィルハーモニーをはじめて指揮したのは一九二二年で、音楽愛好家協会主催のブラームス記念演奏会である。一九二七年には定期演奏会の指揮を引き受けたが、ベルリンとの困難な事情のために一九三〇年にやめ、それから一九三八年までは客演指揮だけだった。しかし一九三八年以降は亡くなるまで、短い中断期は合ったものの、われわれの演奏会の主な指揮者を勤めてくれた。」(クラウス 1989, p. 247)
  42. スカラ座でオペラ公演を初めて指揮するのは1950年のことである。(白川 2004a, p. 105)
  43. 「フルトヴェングラーのイギリスとの関係も親密になっていった。一九二四年一月にはもう、ロンドンのクイーンズ・ホールでデビューした。もちろんオーケストラは、ロイヤル・フィルだった。そして三年後、ニキシュの後継者とそのベルリン・フィルへの興味が高まり、冬のツアーで、二回のコンサートをロンドンで行い、マンチェスターでもコンサートをした、すごい評判となったので、十一月のイギリスでのコンサートは、ちょっとした伝統になった。一九二八年にはロンドンで三回、リヴァプールで一回、一九二九年にはロンドンで二回、ブリストルで一回、その後はロンドン以外の公演も定期的に開催されるようになった。一九三一年春は、ロンドンでの二回のコンサートの他に、バーミンガム、リヴァプール、ニューキャッスル、グラスゴウ、ダンディー、エディンバラへ足を運んだ。こうしてイギリスでも『フルトヴェングラー愛好会』のようなものが誕生した。彼の死後、『フルトヴェングラー協会』がイギリスで最初に発足したのも、不思議ではない。」(ハフナー 2010, p. 124)
  44. クラウス 1989, p. 57
  45. 45.0 45.1 平林, 直哉「フルトヴェングラー,ヴィルヘルム」『指揮者のすべて』音楽之友社、1996年、108頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784276960220
  46. 白川 2004a, pp. 210-212
  47. 白川 2004a, p. 214
  48. ハフナー 2010, p. 156
  49. 1929年の世界恐慌のため、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は1933年までに破産するところまで追い込まれたが、オーケストラの監事がナチス・ドイツの人種政策にフルトヴェングラーも従うという声明を出した。尤も、フルトヴェングラーは「『人種』を理由にオーケストラに干渉が加えられれば、すぐに辞任すると表明」しており、人種政策に盲従していたわけではない。その後、フルトヴェングラーはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の支払い能力に関する陳情書を作成し、事務局長を通じてヒトラーに送った。その結果、ヒトラーからベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を維持する保証の確約を得た。さらに枢密顧問にノミネートされ、ヒトラーと会見している。フルトヴェングラーは9月15日に正式に枢密顧問官に任命された。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団も10月26日付で「帝国オーケストラ」として継承され、楽員は年金受給資格のある帝国職員となった。(ハフナー 2010, pp. 178-180)
  50. 「フルトヴェングラーは音楽におけるナチスの混乱した筋の通らない政策にどの程度逆らうことが出来るかをテストするために、適当な作品を探していた。そうして彼はヒンデミットの新作オペラがナチスを刺激する突っつき棒として申し分ないものと考え、これを新シーズンのために州立歌劇場のプログラムに組み入れた。/彼はヒトラーがヒンデミットの音楽を嫌っていたことに気付かず、また気にもしなかった。総統は既に一九二九年、ヒンデミットのオペラ《今日のニュース》の初演に臨席していて、これをひどく嫌った。党の理想に合わない作品には常に『退廃』という言葉を投げつけていたが、この作品にもこの言葉を用いた。これはナチスが最悪の芸術に浴びせるときに使う罵倒用語だった。フルトヴェングラーは、ゲッベルスも個人的にヒンデミットをひどく嫌っていたことも知らなかった。以前ヒンデミットがナチスの新聞『フェルキッシャー・ベオバフター』の記者に、ドイツへの脅威であるユダヤ人のことを、『ユダヤ人のことで心配ですかって。心配の種がこのような大きな問題だけであればいいのですがね』。と語って、簡単に片づけてしまったことが気に入らなかったのだ。ヒンデミットは当時ドイツを代表するのにもっとも相応しい作曲家であり、その上アーリア人だった。しかし『ボルシェヴィキのような』作曲の仕方、報道陣に対する不適切なコメント、そしてヒトラーに気に入られ損なったことなどによって、ナチスのブラックリストで特別な場所に据えられる結果となった。妻がユダヤ人であることについては言うまでもない。先頭に立ってナチス理論を唱えるアルフレート・ローゼンベルクはヒンデミットがドイツ音楽を汚したとして厳しく非難した。こういう背景のもと、ゲーリングは早速《画家マチス》を州立歌劇場の上演予定表からはずした。フルトヴェングラーは激しく抗議した。ゲーリングはこのオペラの上演許可ができるのはヒトラーだけであると説明した。フルトヴェングラーは音楽に関して自分の権威が侵されたことに激怒し、総統との会見を要求した。/会見を待っている間、フルトヴェングラーはベルリン・フィルハーモニーの二回の定期演奏会に備えて、このオペラの管弦楽版組曲をプログラムに入れようとしていた。ナチスがまだ政権を強固なものにしようと画策していた時期だったので、フルトヴェングラーはナチスが不安定な状態にあるのを捉えて先手を打った。聴衆が組曲を聴いた後で、自分がヒトラーと話しさえすれば、オペラの初演を認めるよう何とか説得できると確信していたのだった。一九三四年三月十一日と十二日にフルトヴェングラーが実際にこの曲を指揮すると、聴衆はこの公演を公然たる抗議と理解して、共感を覚えた。熱狂的な拍手がこの曲を歓迎した。臨席した党の高官は拍手喝采を明らかな反乱と解釈したが、聴衆全員を逮捕するわけにもいかず、またフルトヴェングラーのような国際的に崇敬されている人物の逮捕という危険を冒すことを望まなかった。ナチスの新聞は大キャンペーンを展開して、ヒンデミットとその退廃音楽、そしてフルトヴェングラーについて書きたい放題に書き、厳しく非難した。」(白川 2004a, pp. 306-308)
  51. フルトヴェングラーの《画家マチス》の組曲の初演の大成功は、ヒンデミットのことを快く思わないナチスの党員たちは苛立った。初演時に「交響曲《画家マチス》でパウル・ヒンデミットは、ここ数年の音楽活動に見られた傾向と断絶した。彼はさらにこの交響曲で新しいドイツを肯定するドイツ音楽の精神への信奉を表明した。」と絶賛した雑誌も、半年後には「ナチ文化共同体は、その行事においてパウル・ヒンデミットの作品の演奏を原則的に拒否し、他のコンサート協会の行事でも、ヒンデミットの作品がプログラムに上るなら、受け入れることを断念する。こうした方針を決定したのは、ここ十年間のヒンデミットの作品に理由がある。」と手のひらを返している。こうしたヒンデミットへの非難に、フルトヴェングラーはドイツェ・アルゲマイネ・ツァイトゥング紙日曜版の11月25日の紙面の第一面に「ヒンデミット問題」と題するエッセイを発表し、「真に創造的な音楽家の恐るべき不在が全世界に認められる現在、ヒンデミットのような人物をこともなげに手放すなどとは、断じて許されない行為なのである。」とヒンデミット擁護の論陣を張った。尤も、ハフナーは、フルトヴェングラーの行動について、ヒンデミットへの肩入れではなく「芸術上の問題に対する国家の干渉という原則的な問題、政治が芸術より優位に立つのかという問題だった」と見ている。(ハフナー 2010, pp. 211-212)なにはともあれ、ヒンデミットに関する件でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者とベルリン国立歌劇場の音楽監督の職を解任されている。(ハフナー 2010, p. 213)
  52. 白川 2004a, pp. 326-327
  53. 白川 2004a, p. 337-342
  54. ドイツ国内でのフルトヴェングラーは、順風満帆ではなかった。たとえば、コンサート・エージェントのルドルフ・フェダーは、フルトヴェングラーが所属していた音楽事務所の「ヴォルフ&ザックス」に接近し、フルトヴェングラーを自分の契約下に置こうとしたが、フルトヴェングラーは「以前からフェダーとはあまりいい経験がなかった」ということでフェダーと契約を結ばなかった。「そこでフェダーが復讐を企て、お気に入りのオイゲン・ヨッフムをフルトヴェングラーに対抗させようとした。彼が対抗馬にならないと分かると、今度はヘルベルト・フォン・カラヤンと契約した。」(ハフナー 2010, p. 293)フェダーは、ハフナーが「配下のカラヤンと偉大なフルトヴェングラーとの永遠の比較に貢献しただけだった」と述べるように、フルトヴェングラーとカラヤンの対立構図を意図的に作り上げる黒幕だった。しかし、「カラヤンは、ゲーリングに『粋な伊達男』と呼ばれたが、対決姿勢を隠そうとはしなかった。フルトヴェングラーのコンサートが聴ける機会にはいつも足を運び、客席で感激したが、彼と会談しようとはしなかった。フルトヴェングラーは終生、彼に自由な活動はさせなかった」とハフナーが述べているように、カラヤンとフルトヴェングラーの両者の間には緊張関係があった。(ハフナー 2010, p. 294)なお、フェダーは他にも「一九四二年夏、ベルリン・フィルの有能なコンサートマスターであるゲルハルト・タシュナーを引き抜こうとした」ことがあるが、このことはフルトヴェングラーに報告され、「フルトヴェングラーはハンス・ヒンケルに激しく抗議」するという行動に出た。このフルトヴェングラーの抗議と、「カラヤンに知恵をつけてティーチェンにギャラを高めに要求しろとそそのかした」ことで、フェダーはナチス高官のヒンケルからエージェントとしてのライセンスを抹消されることとなった。(ハフナー 2010, p. 350)また、ハフナーに従ってフルトヴェングラーによれば「ヒムラーは一九三三年にはもう、私が親しい意志について話した電話が原因で、はじめから私を敵視していた」という。また、「ヒムラーは一九四二年にはすでに、ウィーンとベルリンの両方の秘書を通じて、フルトヴェングラーに『どんな場合でも、ユダヤ人やユダヤ人と親戚関係にある者を擁護すれば、反逆行為とみなされる』と警告した。そのためフルトヴェングラーは『なるべく注意を払っているが、いつか逮捕されるかもしれない』と言って周囲の者を心配させていた」という。(ハフナー 2010, pp. 350-351)
  55. フルトヴェングラーがドイツに残った理由は、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の団員だったブルーノ・シュテンツェルによれば「フルトヴェングラー博士が外国からの魅力的な申し出を断り、亡命もしなかったのは、ドイツの聴衆から永久に離れたくなかったからです。ドイツで彼は素晴らしい出世と成果を挙げてきたからです。さらに彼はドイツの文化的オーケストラの存続を守らねばならないという自分の義務も意識していました。」と述べている。(ハフナー 2010, p. 371)
  56. スイスへの演奏旅行はエルネスト・アンセルメの招聘による。スイスに出国した後は、第二次世界大戦終結までドイツに戻らなかった。(ハフナー 2010, p. 496)
  57. ハフナー 2010, pp. 381-382
  58. 「連合国は『政治的な取引』を見抜き、ウィーン・フィルの楽団長に、オーストリアでの活動再開には、ドイツでの名誉回復が必要であることを伝えた。フルトヴェングラーは一九四六年六月三十日までの期限で、フォーアアルベルク州の滞在許可をもらえただけだった。」(ハフナー 2010, p. 383)
  59. 「一九四六年三月五日、アメリカ占領地区の州政府の首相たちにより、いわゆる『解放令』、よち厳密に言うと『ナチズムと軍国主義からの解放のための法律一〇四号』が公布され、この州法によって非ナチ化の実施は、ドイツの帰還の管轄と責任に移管することになった。罪状に関する五つのカテゴリーは、次のように決められた。一。重罪者(大管区長官や親衛隊メンバー)。二。積極分子(活動家や軍国主義者)。三。軽罪者。四。同調者。五。無罪者。」(ハフナー 2010, p. 385)
  60. 「一九四六年十二月十一日、彼の審理がベルリンのシュリューター通りの非ナチ化委員会の三〇四室で始まった。」(ハフナー 2010, p. 393)
  61. 「審理は二時間の休廷となった。そして再開すると、無罪放免を宣告した。」(白川, サム・H『フルトヴェングラー 悪魔の楽匠 下』藤岡啓介、加藤功泰、斎藤静代訳、アルファベータ、2004b(原著1992年)、148頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784871985321)
  62. 「フルトヴェングラーは完全に無罪とはされず、『カテゴリー四』の『同調者』に入れられた。しかしそれでやっと占領地区で仕事をする許可を得ることができた。」(ハフナー 2010, p. 398)
  63. 「フルトヴェングラーはかつての聴衆を取り戻し、新しい聴衆の称賛を勝ち取り、その歩みはほとんど全ヨーロッパに広まった。ただ、アメリカだけは別だった。フルトヴェングラーは一九二七年以降アメリカに姿を見せていなかった。一九三六年にもう少しでニューヨーク・フィルハーモニックの首席指揮者としてトスカニーニの後任になるところだったのに、例のゲーリングの陰謀により実現しなかったからだった。しかもナチス時代にドイツを離れることを拒んだため、トスカニーニの尽きることのない敵意の的となった。しかも知識人や芸術関係やの世界で新たな敵が生まれていた。それはドイツを逃れて、アメリカで再出発していた人たちだった。」(白川 2004b, p. 174)
  64. 「理事会には様々な著名な演奏家からの電報が殺到した。フルトヴェングラーと本当に契約したら、自分は出演しないっと告げるものだった。抗議した人たちは、ピアニストのヴラディーミル・ホロヴィッツ、アルトゥール・ルービンシュタイン、およびアレグザンダー・ブライロフスキー、フランス出身のソプラノ歌手リリー・ポンスとその夫である指揮者アンドレ・コステラネッツ、フリッツ・ブッシュ、グレゴル・ピアティゴルスキー(ベルリンでフルトヴェングラーのもとで、首席チェロ奏者を務めていた)、そしてヴァイオリニストのナタン・ミルシテインとヤッシャ・ハイフェッツなどだった。このフルトヴェングラーの問題が持ち上がっていたころ、ヴァルター・ギーゼキングが十数年ぶりに巡業の為にアメリカを訪ずれていた。このような講義に関する報道でのフルトヴェングラーの扱われ方は、ナチスに対して決して熱狂的ではなかったが、その要求にはきわめて従順だったギーゼキングに対するものと同じ筆法だった。」〔ママ〕(白川 2004b, pp. 176-177)なお、フルトヴェングラーはピアティゴルスキーが抗議活動に参加したことにショックを受けたが、実のところ、承諾なしに勝手に名前を使われた演奏家の一人だった。また、ミルシテインも最終的には抗議集団から離脱している。(白川 2004b, pp. 181-182)
  65. イェフディ・メニューインはルービンシュタインやホロヴィッツ等のフルトヴェングラーの契約への抗議署名運動に強硬に反対し、1949年1月{6日付のニューヨーク・タイムズ紙とシカゴ・デイリー・トリビューン紙に「三人か四人の首謀者たちが、なりふり構わぬ見え透いた企てで、一人の高名な仲間を自分たちの楽園から締め出そうとしている。私はこれまでに、これほど厚かましい態度に出会ったことがない。このようなふるまいは軽蔑にも値しないと考える。」という声明を出した。(白川 2004b, pp. 178-179)メニューインは、ニューヨークのイディッシュ語の新聞であるデア・ターク紙から「自分の同族を殺した者どもと共演することを好む」と非難する記事を書かれても、電話で色々なユダヤ人から「フルトヴェングラーと縁を切れ」と電話を掛けられても、イスラエルで暴徒に襲われそうになっても、フルトヴェングラー擁護の立場を崩さず、フルトヴェングラーと共演することを厭わなかった。(白川 2004b, pp. 180-181)
  66. 白川 2004b, pp. 211-212
  67. 「秋の陽光のもと、フルトヴェングラーは十一月十二日、エーバーシュタインブルクの病院へエリーザベトに連れられていった。移動では何の支障もなかったが、彼がこのバーデンの地で生涯を終えるつもりでいたからか、『私がここへ来たのは、病気を治すためだと、みんな思っている。しかし私は、死ぬために来たのだと分かっている』と語った。」(ハフナー 2010, p. 485)
  68. 「フルトヴェングラーは十七時頃、亡くなった。」(ハフナー 2010, p. 485)

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