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アルトゥーロ・トスカニーニ

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アルトゥーロ・トスカニーニ(Arturo Toscanini, 1867年3月25日[1] - 1957年1月16日)は、イタリア指揮者

パルマにて、アルトゥーロ・アレッサンドロ・トスカニーニ(Arturo Alessandro Toscanini)として生まれる。[2]父クラウディオは、かつてジュゼッペ・ガリバルディの義勇軍の一員だった愛国者で、[3]母パオラも夫と同じく音楽好きであった。[4]四歳の時に地元の王立歌劇場カプラズッカ通りの小学校に通っていたが、二年生の時に、一度耳にした詩を暗記したり、ピアノを弾かせれば耳にしたことのあるオペラのアリアや歌の旋律を弾き当てたりしたことで学校の教師から音楽の才能を見込まれ、教師と両親の勧めでパルマ音楽院の受験のために地元のチューバ奏者に音楽の手ほどきを受けるようになった。[5]1876年にパルマ音楽院に入学[6]し、1878年には授業料全額免除の寄宿生になった。[7]パルマ音楽院では、ピアノ、ソルフェージュ、音楽理論や合唱などの他、レアンドロ・カリーニにチェロ、作曲や和声をジュスト・ダッチ、オーケストラの指導法をジュリオ・チェーザレ・フェッラリーニにそれぞれ師事。[8]1885年にはチェロと作曲で最高の成績[9]を収めて音楽院を卒業した。[10]卒業後は、パルマ王立歌劇場や在学中から演奏に加わっていたカルピ市立劇場のチェロ奏者として活動[11]していたが、1886年に興行主のクラウディオ・ロッシが組織した巡業歌劇団[12]に首席チェロ奏者、合唱指揮者助手として加わった。[1]巡業歌劇団はブラジルに巡業に出かけたが、公演が振るわず、契約した指揮者が降板[13]して騒動[14]になった為、急遽代役の指揮者に抜擢[15][16]されて成功を収めた。 [17]この成功により、ブラジルでのロッシの巡業歌劇団の公演の指揮者となった。[18]帰国後はジェノヴァでチェロ奏者として活動した[19]が、ロッシの歌劇団のテノール歌手だったニコライ・フィーグナーに呼ばれてミラノに移り、フィーグナーの手引きでアルフレード・カタラーニの知己[20]を得ている。[21]1886年にトリノの王立カリリャーノ劇場で改めて指揮者としてデビューした[22]が、翌年にはスカラ座におけるヴェルディの《オテロ》の初演に第二チェロ奏者として参加している。[23]その後、イタリアの各都市で指揮活動を展開して名声を確立していった。[1][24]1892年には、ジェノヴァのカルロ・フェリーチェ劇場で指揮し、[1][25]ミラノのダル・ヴェルメ劇場でルッジェーロ・レオンカヴァッロの《道化師》の初演の指揮を担当。[26]1895年から[27]1898年まで[28]トリノ王立歌劇場の音楽監督を務め、[29]1898年から1903年及び1906年から[30]1908年[31]までスカラ座の音楽監督を務めた。[32]1903年に一時的にスカラ座から離れた後はブエノスアイレスやモンテビデオに演奏旅行に出た。[33]1905年にはローマでジュゼッペ・マルトゥッチの交響曲第2番を指揮したり、[34]ボローニャ市立歌劇場に客演したり、[35]トリノ王立歌劇場で指揮したりした。[36]1908年から[37]1915年まで[38]ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で指揮。[39]1912年にはブエノスアイレスのコロン劇場に客演している。[40]1915年にイタリアに帰国し、チャリティ・コンサートに限定して指揮活動を展開。[41]1920年からスカラ座の芸術監督に就任し、[42]トスカニーニの改革案に沿って、座付きオーケストラを組織し直し、[43]1921年まで歌劇場を閉鎖して舞台機構の刷新を行った。[44]歌劇場の閉鎖期間中は、組織しなおしたオーケストラとイタリア内外の演奏旅行に出かけ、ニューヨークでは初めて録音に挑戦している。[45]歌劇場が開場して以降は、アリーゴ・ボーイトの《ネローネ》[46]や、プッチーニの《トゥーランドット》[47]の初演を行い、1929年に辞任した。[48]1926年からニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団に客演し、[49]1927年からウィレム・メンゲルベルクと常任の指揮者の座を分け合ったが、1930年から1936年まで単独で常任指揮者の座を守った。[50]1930年からバイロイト音楽祭に招聘されるようになった[51]が、1933年以降の出演は辞退した。[52]1933年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に客演し、1933年から1937年までザルツブルク音楽祭に出演。[1]1936年にはブロニスワフ・フーベルマンの設立したパレスチナ交響楽団の旗揚げ演奏会を指揮。[53]1937年からNBC交響楽団の首席指揮者[54][55]を務め、[56]1954年に辞任。[57][58][59][60][61]その後は、自身の録音の編集を行った。[62]

ニューヨークにて死去。[63]

[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 アルトゥーロ・トスカニーニの芸術~ライヴ&ブロードキャスト・レコーディング(24CD) | HMV&BOOKS online - AN122”. 2023年11月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年11月25日閲覧。
  2. Arturo Alessandro TOSCANINI : Family tree by tinagaquer - Geneanet”. 2023年11月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年11月25日閲覧。
  3. 山田, 治生『トスカニーニ大指揮者の生涯とその時代』アルファベータ、2009年、11頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784871985666
  4. 母親の旧姓はモンターニ。母方の家系の人々もアマチュアの歌手で、トスカニーニが4歳の時にはパルマ王立歌劇場に母方の親戚がジュゼッペ・ヴェルディの《仮面舞踏会》を観劇に連れて行った。(山田 2009, pp. 17-19)
  5. 山田 2009, p. 19
  6. 「一八七六年の初秋から一八八五年七月十四日にいたる期間、アルトゥーロ・トスカニーニはパルマ王立音楽院の学生であった。九歳から十八歳までの間である。」(タウブマン, ハワード『トスカニーニ ―生涯と芸術―』渡辺暁雄訳、東京創元社、1966年(原著1951年)、19頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。OCLC 673076524ASIN B000JAADBW)
  7. 山田 2009, pp. 19-20
  8. 山田 2009, pp. 19-20
  9. 「トスカニーニは学校中で最も初見の利く、また楽譜なしで最も表情ゆたかに、かつ正確に演奏できる学生であった。彼の卒業成績チェロが満点の百六十点、ピアノが満点の五十点、作曲が満点の五十点であった。」(タウブマン 1966, p. 27)
  10. 山田 2009, p. 22
  11. サックスに従ってジノ・モナルディによれば「指揮者は、……指揮棒で鉄製の譜面台の手前をコツコツと叩き、『皆さん!位置について』と言う。常設のオーケストラならば組織も訓練も行き届いているから、この呼びかけは単なる形式に過ぎない……。だが、臨時編成のオーケストラとなると話はちがった。団員は個人単位で契約しているため、ものごとはすんなり運ばず、こう呼びかけるだけでひと悶着怒ることも少なくなかった。悪質なものも含め、そうした場面に何回も居合わせたのを思い出す。こうしたトラブルは、普通は指揮者がしかるべき権威を発揮すると収まった―もっとも、そうした権威が指揮者にあればの話だが。/席順の問題が過熱して暴力沙汰になり、警察の厄介になることもある。と言うのも、劇場に宿るヴィルトゥオーゾたちの間で、如何にはげしく自尊心に拍車がかかるかを想像することはできないからである」という現状があった。こうした環境の中でトスカニーニは育ち、「生地パルマでも、他の町と同じように毎年市議会はミラノを拠点とするインプレサリオの入札を受け付け、条件一つを選んでは王立劇場のオペラ・シーズンを運営した。毎年異なる指揮者が来演し、その都度編成されるオーケストラのリハーサルを行った。こうしたオーケストラでトスカニーニは一四歳から一九歳まで演奏していた。歌手は、毎年、シーズン開始の二、三日前に着き、にわか仕込みでオペラ三、四作が上演された。」(ハーヴェイ, サックス『トスカニーニの時代』高久暁訳、音楽之友社、1998年(原著1991年)、43-44頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784276216051)
  12. 「この歌劇団の主要歌手はいずれも、当時イタリア楽壇に認められていた人々であった。指揮者はブラジル生れのレオポルド・ミゲッツ、副指揮者はカルロ・スペルティ、コーラス・マスターはアリスティデ・ベンチュリであった。」(タウブマン 1966, p. 30)
  13. 「歌手たちは、ミゲッツが指揮者として不愉快で、不適当な人物だと気が付いた。彼らはその不満を隠そうとはしなかった。六月にリオに移ったが、歌劇団の意気はふるわず、リオ新聞『ファウスト』の公演のさんざんな悪評を掲げた。批評の矢面に立たされたミゲッツは新聞に、公開文を送って、歌手が忠実でなく、協力もしない。彼らのまやかし公演こそ非難されなければならなぬと述べ、自身はこれ以上指揮をとらない決心だと宣言した。/このような公開文が、どれほどやかましい議論や、騒ぎを巻き起こすかは言うまでもない。まして、ミゲッツはリオの生れ、歌劇団人はイタリア人ばかりだから、騒ぎは一層大きくなった。」(タウブマン 1966, pp. 30-31)
  14. ヴェルディの《アイーダ》を上演する手はずだったが、ミゲッツが地元の新聞に公開文を掲載して降板していたため、副指揮者のスペルティが指揮を執ろうとしたが、「ピットを通り抜けて指揮台に上がろうとしたスペルティは、抗議と悪罵の声に迎えられ」てしまい、合唱指揮者のベンチュリが指揮しようとした際にも、タウブマンによれば、「ベンチュリが位置について、指揮棒を取り上げた。聴衆はスペルティの時よりも一層ひどく騒ぎ始めた。聴衆席はまるで突風におそわれた林のように揺れ動いた。叫び声、ののしり声の爆発はベンチュリが悲しげに頭をふりながら壇を去るまでしずまらなかった。」という有様だった。(タウブマン 1966, pp. 31-32)
  15. サックスに従ってトスカニーニ自身の言によると「『《ファウスト》を最初に演ったときに、ステージの楽隊の響きは、ピットのオーケストラと戦争をしているようだった。ミゲツはわざとやられたと思った。それでスペルティが《アイーダ》を振ることになった』。予定日は六月三十日の晩である。ミゲツは辞め、代役としてスペルティが指名された。いつもは時間厳守の鬼のトスカニーニも、その晩は宿で怠けていた。『エウゲニア・マンテッリとシューベルトの歌曲を練習していた』。(表向きはこういう話になっている)「ピアノに向かっていた。それで思い出した。《アイーダ》では第一チェロだ。市電に乗って劇場に着くと……蜂の巣をつついたような大騒ぎ!/席へ行き、楽器を取り、どうなっているのか尋ねた。『客がスペルティじゃ納得しない…』バレエマスターはポルトガル語を話したから、ステージに出て、静粛に、と客を諭し、代わりの指揮者を立てると言った。誰かが指揮しようとしたが、全くツキに見放されていた。インプレサリオもステージで話したが効き目は無し。オーケストラの団員は、劇場を閉めるつもりだろうと口々に話していた。そのとき思い出した。毎度のことだが、給料日にギャラをもらうのを忘れている。イタリアに戻るチケットを買わなきゃいけない―インプレサリオが金を払おうとしない……。頭の中であれこれ考えを巡らせていると、定期会員が一人やって来て言った。『誰か、オーケストラの中で《アイーダ》を振れるものはいないのか?』第二チェロがこちらを振り向いた。で、すぐさまチェロを置き、やむにやまれずステージに駆け上がった』/『が、もっと厄介なことになった……。ステージで[旅行中に]稽古していた合唱団の女たちみんなとぶつかった。みんな私の記憶力は分かっていた。歌手たちにはみなコーチしていたし、楽譜を見ないでピアノを弾いていたから。パルマ出身のレオニという女が―えらく不細工な女だった―泣き出して、[パルマ訛りで]言った。『トスカニーニなら出来るかもしれない。指揮をさせて』。で、インプレサリオが来て、皆から頼まれた。インプレサリオは自分のフロックコートを渡そうとした。背丈が同じだったからね。こっちは学校を出たて、軍服みたいな学校の制服を着ていた。金ボタン付きでね。そこで言った。『いえいえ。やるならこの格好でしますから』』。だが、座員はトスカニーニに着替えさせた。そして『茫然自失の状態で指揮をした。酔っ払いみたいに』」とのこと。((サックス 1998, pp. 35-36))
  16. 騒動を受けて、舞台裏でオーケストラの奏者を含めた討議が行われ、その舞台裏にトスカニーニもいたが、タウブマンは、抜擢までの様子を次のように記している。「ふと歌手のひとりがトスカニーニの姿に気が付いた。そして目を輝かせてトスカニーニこそ急場を救うことができる、彼はオペラの全曲を暗記していると叫んだ。/歌手の叫びは一同を元気づけた。荒海の遭難者が救いの船を発見したようにどやどやと立ちあがって、トスカニーニを包囲した。運命を打開するように努力してくれと、はげしい身振りをしながら、口々に哀願した。彼らは考えている以上に強く、彼こそ最後のチャンスだ、彼こそこの混乱を救う者だと強調し保証した。/ついにトスカニーニは承諾した。彼は生来の闘志をもえたたせて、挑戦を受けた戦士のように決然と立ち上がった。自分が『アイーダ』にじゅうぶん知識と自信があり、この公演をぶじにおわらせることができると、慎重に電光石火の速さで計算したのだった。」(タウブマン 1966, pp. 32-33)
  17. 「彼はその夜、指揮を始めるに当ってスコアをとりあげて閉じ、いすの上において、そこに腰をおろしたという伝説がある。/この話はスコアを持たずに指揮をしたところから出たものであろう。彼がスコアを閉じたとしても単に邪魔だったから、そうしたに過ぎない。もちろん、スコアの上に腰をおろしたりなどしなかった。というのは、最初から、一度もすわらなかったのだから。彼は練習の時でさえ、すわって指揮したことはない。/オーケストラのメンバーは全くいのちがけで演奏した。歌手にしても同じことだった。この死にものぐるいの気持は、すばらしい統一と、熱意と、ふつうでは得られないみごとな効果を上げた。/もし才能と自信のない指揮者ならあがってしまったかも知れないが、彼は単に任務以上にさらに、何ものかを付加したのだった。彼は感情のほのおを制御し、冷静な正確さで指揮をつづけた。/公演は成功のうちに幕をおろした。悪罵を放ち口笛を鳴らした聴衆の声は、称賛とブラボーに変った。十九歳の少年トスカニーニの勝利であった。/この劇的な劃期的なデビューに関する事実の大部分は、アルフレド・セグレ氏のめんみつな調査によったものであるが、同氏によればリオ・ジャーナル紙は次のように書いた。『満場一致の要請によって、オーケストラの第一チェリストであったシニョール・A・トスカニーニは指揮台にとびあがり、オペラ『アイーダ』全曲をおどろくべき見事さで指揮した』」(タウブマン 1966, pp. 33-34)
  18. 「このデビューの後、トスカニーニは懇望されて、ブラジルのオペラ・シーズン中、ロッシ歌劇団の指揮者になっていた。その期間中に彼の指揮したオペラは、有名な『イル・トラバトーレ』『リゴレット』『ファウスト』をふくむ十八曲にのぼった。こうして彼の才能はブラジルの批評家、識者の注目をあびるようになったが、彼自身は指揮を臨時の仕事と考えて、本来のチェリストとしての給料以上に要求しなかった。」(タウブマン 1966, p. 35)
  19. トスカニーニ曰く「だが、ジェノヴァに戻ると、またチェロを弾いた。自分を指揮者に思うほどうぬぼれてなかった」。(サックス 1998, p. 39)
  20. 「若い作曲家と指揮者の友情は、カタラーニが一八九三年に死亡するまでつづいた。二人はたびたび音楽を語り合って夜を明かし、トスカニーニは親からは得られなかった暖かい愛情や、深い知性、音楽的な体験など、いろいろな賜物を得た。トスカニーニがはじめて持ったこの親友の友情にどれほど感謝していたか知れない。それはのちに結婚して生れた子供にカタラーニの最大傑作と言われたオペラ『ラ・ワリー』の登場人物の名をとって長男をワルター。長女をワリーと名づけたことからでも想像できる。」(タウブマン 1966, pp. 38)
  21. ホテル・レオーネに投宿していたフィーグナーは、トスカニーニをホテル・レオーネの別館のホテル・サンミケーレに泊め、ミラノ・スカラ座の首席指揮者のフランコ・ファッチョ、音楽出版社リコルディの社主であるジュリオ・リコルディ、歌劇台本作家で評論家のカルロ・ドルメヴィッレや音楽出版社ルッカの社主であるジョヴァンニーナ・ルッカ等に引き合わせた。さらに、カタラーニの新作《エドメア》の楽譜を入手してトスカニーニにホテルの一室で初見で弾かせて、カタラーニ本人に引き合わせた。カタラーニの知己を得たトスカニーニは、1886年11月6日のトリノの王立カリリャーノ劇場での《エドメア》の上演を任され、これがイタリアにおけるトスカニーニの指揮者デビューとなった。トスカニーニは、「だから、私のキャリアはフィーグナーに負っている。ミラノに呼ばれなければ、チェロを弾いていただろう。どのみち指揮者にはなっただろうが、思うに、二七か二八歳だっただろうね。一九ではなく」と述べている。(サックス 1998, p. 39-41)
  22. タウブマン 1966, pp. 38
  23. 「この時の出演は忘れがたい印象を残した。初演の指揮はファチオであったが、練習にはヴェルディ自身立ち会った。学生時代から崇拝していた作曲者を目のあたりに見、その上、その人のオペラの初演に一役買うことのできたトスカニーニの感激は、ことばに表現することもできない程大きなものであった。/練習が一区切りついた時、ヴェルディがオーケストラ・ピットの端に来て、第二チェリストは誰かとたずねた。トスカニーニは立ち上がった。心臓がどきどきなっていた。大マエストロ地震に個人的に呼びかけられるとは、全く予想もしていないことであった。/ヴェルディはあるパッセージをも少し大きく弾くようにといった。トスカニーニはぎくりとした。ところが自分のスコアを見ると、あきらかにオーケストラの方が作曲者の指示よりずっと大きな音で演奏していて、しかもそこは楽句の内面的な契機として、もっと柔らかな調子が要求されているはずであった。/トスカニーニは自分がスコアに忠実であるといった。ヴェルディは悲しく微笑して、確かにその通りだがチェロ・セクションの一同が大きく演奏しているのだから、トスカニーニもそれに従った方がよいと答えた。/若くて理想化であったトスカニーニには、スコアの要求を演奏者がなおざりにするのを許せなかった。絶対に妥協できない点であった。後には彼も、ヴェルディは自分の音楽を自分の考え通りに演奏させようと長いあいだ無益なたたかいをつづけ、ついにあきらめて他人の勝手気ままな解釈をも受け入れるようになった気持を、理解できるようになったが、しかし、トスカニーニ自身はいかに年を取ってからでも、どんな些細な事でも、あきらめることなどできなかった。/崇拝する作曲家のふがいない態度に、トスカニーニはいささか、がっかりさせられた。とはいえ、オペラそのものにみなぎる情熱と、壮麗さは、やはり彼を思い直させる十分な力を持っていた。/初演の行われた一八八七年二月五日の夜、トスカニーニは緊張のあまり、かたくなっていた。だが、演奏をはじめると、彼は音楽の力と共感に深く感動し、いまにも喝采し、歌い、涙を流さんばかりであった。」(タウブマン 1966, pp. 39-41)その後、ジェノヴァのカルロ・フェリーチェ劇場で《ファルスタッフ》を上演した時、第二幕のある個所のテンポを巡って歌手のアントニオ・ピニ=コルシと対立したことがあった。この時、興行主のカルロ・ピオンテリが収拾策として、避寒に来ていた作曲者のヴェルディに一同で表敬訪問し、その際に質問することを提案した。表敬訪問の際、ピニ=コルシが、このテンポの問題についてヴェルディに尋ねたところ、ヴェルディは「トスカニーニが正しい。ピニ・コルシは初演の時のテンポを忘れたのだ。」と答えた。その時のヴェルディの話がトスカニーニの音楽観に刺激を与えた。ヴェルディは「一八六七年、パリで『ドン・カルロ』を上演した時のことを回想して、如何に歌手や、コーラス、オーケストラの指導に努力したことか、思う通りに演奏出来て如何に満足したか満足したか、静かな調子で話した。/『ところが』と、彼は言った。一ヵ月、パリを留守にしている間に、あれほど努力して教え込んだスコアのテンポが、ひとつ残らずなくなってしまったのだ。彼は自分の耳を疑わずにはいられなかった。/『私は、最初からやり直さなければならなかった』/トスカニーニは年老いたヴェルディのことばを聞きながら、むかし、『オテロ』の初演の時、スコアの指示と違った演奏のあったのを、ヴェルディ自身が許してしまったこと、それに対して自分が憤慨したことなどを思い出した。そしてこの時はじめて、ヴェルディの諦めがどこから生まれたか、彼も理解したのであった。/その後ヴェニスに移って、トスカニーニには交響楽団の指揮をする機会が多くなったが、どんなに大衆的なオペラ序曲にでも大交響曲を仕上げるのと同様の細心の注意を払って、じゅうぶんな練習時間をかけた。これは楽壇人が序曲などは軽く見て気を許し、却って粗末な演奏になる危険があるのを知ったからである。」(タウブマン 1966, pp. 61-63)「ヴェルディのコーラスのための『ペリ・サクリ』という曲を準備していた時のエピソードもおもしろい。/この曲はイタリア初演のものであった。トスカニーニは頌歌の中のあるパッセージで行きづまった。どうしてもここで、リタルダンドする必要があると思うのに、スコアにはその指示がなかった。いろいろと迷ったが、直接ヴェルディにたずねてみるよりほかに方法がなかった。しかし老大作曲家に、そういう指摘をするのは向う見ずなことではないかと思うと、ためらわずにはいられない。それとなく話を持ちかけて、ヴェルディにピアノで弾いてもらえるなら自然にわかるとも考えたが、ピアノを注文するにしては、ヴェルディはあまりにも年をとりすぎている。/トスカニーニは思いまよいながら、ジェノアへ出かけた。/ヴェルディは喜んで迎えてくれた。ピアノの前でためらっているトスカニーニをうながして弾かせた。トスカニーニは覚悟をきめて、問題の個所を自分の感じるままにリタルダンドした。曲がおわると、ヴェルディはやさしく彼の背中をたたいて、『ブラボー』といった。/トスカニーニは問題のところを示してたずねた。『ここでリタルダンドしましたが、お気持ちをわるくされなかったでしょうか』/ヴェルディは微笑した。『いや、私の意図した通りだよ。』/『しかし、指示がございません』/『それはリタルダンドの指示をすると、一般におそく演奏されすぎる傾向があるのを心配したからだ。本当の音楽家なら、当然ここでリタルダンドすべきだと感じるだろう』」(タウブマン 1966, pp. 74-75)
  24. 「ミラノとトリノの中間にカサーレ・モンフェラートという小さな町がある。ここで一シーズン仕事をした時、ながらく記憶に残るような事件が起こった。/『ラ・ジョコンダ』の三幕目の途中で、感激した聴衆がアリアのアンコールを要求したのである。しかし、トスカニーニはオペラのアンコールには原則として反対であった。絶対にアンコールに応じない指揮者として、一般に通用するようになるまでに、長年にわたって聴衆と争い続けたのだが、わずか二十歳で二度目の契約のこの時でさえ、頑固に自説をおし通した。/聴衆は憤慨した。中でも一人の軍人が悪罵の限りをならべたて、『青二才のくせに生意気千万だ』と叫んだ。トスカニーニも負けていなかった。『きさまこそ何も分からぬのに、だまってろ。この犬めが』とやり返して、結局アンコールなしで演奏をおわった。/トスカニーニが控室にもどると、その軍人の死者と称する男が待っていて、決闘を申し込み、得意の武器をえらべといった。トスカニーニの持ちなれたものの中で武器の代用にでもなりそうな物は、チェロの弓と指揮棒ぐらいであった。結局、この事件は笑い話ですんだが、これはなんとしても幸だったといわなければならない。」(タウブマン 1966, pp. 44-45)
  25. 「一八九一年のクリスマス直後に開いたジェノアのカルロ・フェリチエ劇場におけるシーズンをもって、トスカニーニはいよいよイタリア・オペラ界のひのき舞台に進出した。イタリア最高のオペラ殿堂であるラ・スカラ座に到達するまでに、その時からさらに七年を要したが、満二十五歳までにまだ三ヶ月もある若さで、世界第一級のオペラ劇場の指揮者にのぼることができたのは、前例のない驚異的なスピード出世であった。」(タウブマン 1966, p. 51)
  26. (サックス 1998, p. 285)
  27. 「一八八六年六月三〇日のリオデジャネイロでの偶発的なデビューに続いて、同年一一月四日にトリノのカリニャーノ劇場でカタラーニの《エドメア》を振って、イタリアでのオペラ指揮デビューを飾ったトスカニーニは、本格的に指揮活動を始め、その後約九年間にわたって、イタリア各地の歌劇場に客演するという生活を送った。そして一八九五年、遂にトリノ王立歌劇場の『音楽監督的なポスト』に就くことができた。ここで『音楽監督的ポスト』と書いたのは、当時のイタリアの歌劇場においては、まだ音楽監督(あるいは首席指揮者)という固定的なポストが確立されていなかったからである。一九世紀のイタリアでは、基本的には、劇場が契約したインプレサリオ(興行師)が、シーズン毎、あるいは演目毎に指揮者を連れてきて、その指揮者に振らせるという形を取り、インプレサリオが呼び寄せるという意味では指揮者は歌手やオーケストラのメンバーと同じであった。それゆえに、歌劇場のオーケストラの人事や劇場の改修にまで口出しのできる『音楽監督』へのトスカニーニの就任は当時のイタリアでは画期的なことであった。」(山田 2009, p. 43)
  28. 「トリノ王立歌劇場での最後の年となる三シーズン目は、一八九八年一月一日にルイジ・マンチネッリの《エロとレアンドロ》のイタリア初演でスタートした。」「次は《メフィストフェレ》と《ボエーム》の再演。そして《ワルキューレ》のトリノ初演。ナポリ出身のエンリコ・デ・レーヴァの《カマルゴ》は世界初演は世界初演だったが、最後は《ノルマ》でシーズンを締め括った。」(山田 2009, p. 55)
  29. 任期中にジャコモ・プッチーニの《ラ・ボエーム》の初演を指揮している。(岸, 純信. “歌劇《ラ・ボエーム》について”. 東京・春・音楽祭. オリジナルの2023年12月8日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/7LPJq 2023年12月8日閲覧。 )
  30. 1905年にトリノ王立歌劇場に一時的に復帰したトスカニーニは、リヒャルト・シュトラウスの《サロメ》を上演すべく、作曲家とコンタクトを取り、トリノ王立歌劇場でのイタリア初演の内諾を得たが、トリノでのシーズン中の上演は間に合わなかった。「そうする間に、一九〇六年にトスカニーニのスカラ座復帰が決まってしま」ったが、トスカニーニは、自分が作曲者に《サロメ》のイタリア初演権の交渉をしたのだから、自分がイタリア初演の指揮ができると信じていた。しかし、実際はトリノで作曲者自身の指揮でイタリア初演が行われることになった。ミラノでのイタリア初演権を認めてもらうよう、再び作曲者に交渉したトスカニーニであったが、作曲者が「ミラノがトリノと同じだけの上演料を払えば可能だ」と言われたことで交渉が決裂した。《サロメ》の初演は、1907年12月22日にトリノ王立歌劇場で作曲者自身の指揮で行われたが、トスカニーニ側は、その対抗として、イタリア初演日の前日に、スカラ座の定期会員やジャーナリストを集めてドレス・リハーサルを公開している。スカラ座での公式な上演は、初演日の四日後、トスカニーニの指揮で行われたが、その後、トスカニーニは《サロメ》はもとより、リヒャルト・シュトラウスのオペラを指揮することはなかった。(山田 2009, pp. 84-86)
  31. 「一九〇八年四月二日、トスカニーニは《ペレアスとメリザンド》をイタリア初演した。イタリア語上演だった。フィオレッロ・ジローがペレアスを、チェジーラ・フェッラーニがメリザンドを歌い、パスクァーレ・アマトがゴローを演じた。フェッラーニは、一八九六年のトリノでの《ボエーム》の世界初演でミミを歌い、トスカニーニの信頼を得ていた。上演中、このフランスの新しい音楽に対する多少の妨害や騒動は合ったものの、終演後、トスカニーニと歌手たちの極めて集中度の高い上演に対して、ミラノの聴衆は熱狂的に応えた。/翌日、トスカニーニは作曲者に『《ペレアス》が勝利して、私は幸福です。聴衆のなかに無知で卑怯な敵意によるスキャンダルがあったにもかかわらず、《ペレアス》は歴史的な勝利を収めました。オペラは、あなたとあなたの比類なき芸術の勝利で終わりました』と電報を送った。/その後、トスカニーニは一九一〇年のメトロポリタン歌劇場のパリ公演でドビュッシーと会っている。ドビュッシーがトスカニーニの楽屋を訪ねたのであった。/トスカニーニは《ペレアス》の音楽がフランス語のテキストと深く結びついていることに気づいていた。それゆえ、彼は一九二〇年代に再び《ペレアス》をスカラ座で取り上げるときには、フランス語で上演したのであった。当時のスカラ座では、外国オペラの原語上演は珍しかった。/シーズンの最後は《メフィストフェレ》。シャリアピンが歌い、大きな成功を収めた。そしてオーケストラ・コンサートが続いた。トスカニーニはこのとき初めてR・シュトラウスの《英雄の生涯》を指揮した。」(山田 2009, pp. 88-89)
  32. 山田, 治生「Toscanini トスカニーニ,アルトゥーロ」『指揮者のすべて』音楽之友社、1996年、98頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784276960220
  33. 「一九〇三年にスカラ座に別れを告げたトスカニーニは、そのまま予定されていた南米ツアーに出た。一九〇一年に次ぐ二度目のブエノスアイレスに加え、今回はウルグアイの首都モンテビデオにも行った。」(山田 2009, p. 75)「トスカニーニは一九〇四年の夏も南米ツアーに出た。」(山田 2009, p. 78)
  34. 「一九〇五年一月はシチリア旅行へ行き、古代遺跡のあるアグリジェント、シラクーザ、タオルミナなどの観光名所を訪れたりもした。二月には、ローマのサンタ・チェチーリア音楽院管弦楽団に客演し、マルトゥッチの交響曲第二番(前年に完成されたばかりだった)などを指揮した。」(山田 2009, p. 75)
  35. 「一〇月から一二月にかけてはボローニャ市立歌劇場での短いシーズンを指揮した。《蝶々夫人》(クルシェニスキ主演)、《ジークフリート》、《ヘンゼルとグレーテル》、ヴィットーリオ・ニェッキの《カッサンドラ》(世界初演)などである。ニェッキの《カッサンドラ》はギリシャ神話に基づくオペラ。カッサンドラをエリザ・ブルーノが、クリテムネストラをクルシェニスキが歌った。クルシェニスキはトスカニーニのお気に入りの歌手だった。トスカニーニは、後年、親しい友人に、自分が熱を上げた女の中で彼女だけが自分を避けた、と述べている。」(山田 2009, p. 81)
  36. 「一九〇五年一二月、新しく改修を終えたトリノ王立歌劇場に一シーズンだけ復帰した。」(山田 2009, p. 81)
  37. 「〇七/〇八年シーズンまでスカラ座の音楽監督を務めていたトスカニーニは、マーラーから約一年遅れて、ニューヨークにやってきた。マーラーが一八九七年に三七歳でウィーン宮廷歌劇場監督になったように、トスカニーニも一八九八年に三一歳でスカラ座の音楽監督まで昇り詰めていた。〇八/〇九シーズン開幕時、マーラーは四八歳、トスカニーニは四一歳だった。二〇世紀初頭を代表する壮年期の二大指揮者がメトロポリタン歌劇場に揃ったわけだ。」(山田 2009, p. 95)
  38. 1908年の「一二月一七日には、プッチーニの最初のオペラ《ヴィッリ》と《カヴァレリア・ルスティカーナ》の二本立てを指揮。《ヴィッリ》はこのときがアメリカ初演だった。そして翌一九〇九年一月六日にはカタラーニの《ワリー》(ワリー:デスティン)をアメリカ初演している。」(山田 2009, p. 97)「トスカニーニは、一〇年一一月一四日のメトロポリタン歌劇場の一〇/一一年シーズン・オープニング・ナイトをグルックの《アルミード》(アルミード:フレムスタッド、ルノー:カルーソー)のアメリカ初演で飾った。今のように古楽が市民権を得ていなかった当時、《アルミード》でシーズンを開幕するのは冒険的な出来事であったに違いない。しかし、公演自体は好評を博したと伝えられる。/そのほか、トスカニーニは、《蝶々夫人》、《アイーダ》、《ボエーム》、《ジョコンダ》、《オルフェオとエウリディーチェ》、《西部の娘》(世界初演)、《トリスタンとイゾルデ》、《ニュルンベルクのマイスタージンガー》、《ジェルマニア》、《トスカ》、《オテロ》、デュカスの《アリアーヌの青ひげ公》(アメリカ初演)、《カヴァレリア・ルスティカーナ》を指揮した。」(山田 2009, p. 107)「一九一二年に入ると、一月三日にヴォルフ=フェラーリの《詮索好きな女たち》をアメリカ初演した。」(山田 2009, p. 112)「一九一四年に入ると、モンテメッツィの《三人の王様の恋》(アメリカ初演)、《ニュルンベルクのマイスタージンガー》、《オルフェオとエウリディーチェ》、《ドン・パスクァーレ》、《アイーダ》を指揮した。三月二五日にはヴォルフ=フェラーリの《恋は医者》をアメリカ初演した。」(山田 2009, p. 115)「一九一五年一月二五日にはジョルダーノの《無遠慮夫人》の世界初演の指揮を執った。」(山田 2009, p. 116)「一九一五年三月一八日のカルメンの公演では、カルーソーの代役をマルティネッリが務めたが、フランス語に不安のある彼は(それまで彼はイタリア語でしかドン・ホセを歌ったことがなかった)、神経質になり、何度もミスをした。トスカニーニは、マルティネッリではなく、代役のための十分なリハーサルを割り当てなかったメトロポリタン歌劇場の事務方に腹を立てた。そして四月一三日の《カルメン》が決定的な上演となる。この公演は旅行中のトゥリオ・セラフィン(トスカニーニの後任としてスカラ座の首席指揮者を務める)が見に来ることになっていたので、トスカニーニは彼にメトロポリタン歌劇場のベストの演奏を聴かせたいと思っていた。しかし《カルメン》の上演は三月一八日以来であり、マルティネッリは前回と変わらず不安定のまま、カルメン役のファーラーは不調、アマトの代わりにテガーニが入り、オーケストラの反応も悪かった。トスカニーニは激怒した。そしてこの公演をきっかけに、彼はメトロポリタン歌劇場を離れることを決意した。その夜、トスカニーニは、一四/一五年シーズンの残りの担当公演の指揮をすべてキャンセルすることを総支配人ガッティ=カザッツァに言い渡した。結局、翌一四日の《イリス》の代わりの指揮が見つからず、トスカニーニがそのまま振ったが、その《イリス》の公演がトスカニーニがメトロポリタン歌劇場でオペラを指揮する生涯最後の機会となった。」(山田 2009, p. 117)
  39. 山田は、トスカニーニがメトロポリタン歌劇場を止めた理由について、トスカニーニがジャーナリストのマックス・スミスに宛てた手紙を引用して、「トスカニーニは、自分のメトロポリタン歌劇場離任をもっぱら芸術的な理由によるものと述べた」としているが、その他の「個人的な事情」として、まず、メトロポリタン歌劇場の歌手のファーラーとの不倫沙汰があると考えている。「一五歳年下のファーラーとは最初は対立関係にあった。リハーサルで激怒するトスカニーニに向かい、ファーラーが『私はスターよ』といえば、トスカニーニは『スター(星)は天にあるのみだ』と応えたというエピソードは有名だ。しかしその後二人の関係は親密度を増し、ファーラーは、トスカニーニに『私を選ぶか、家族を選ぶか』を迫るまでになった。結局、二人の恋愛関係は、トスカニーニがニューヨークを離れるとともに消滅した。それからほどなく、ファーラーはルー・テレゲンという俳優と結婚したが(もちろん、トスカニーニへの当て付けの意味もあった)、その結婚は長くは続かなかった。後に、トスカニーニとファーラーは友情を取り戻し、それは妻カルラを悩ませることになる。」なにはともあれ、ファーラーとの不倫沙汰でトスカニーニはメトロポリタン歌劇場に居づらくなった。次に、年間50公演以上を指揮するという激務による体調不良と、メトロポリタン歌劇場のイタリア・オペラ担当指揮者のジョルジョ・ポラッコとの確執も原因の一つに考えられる。さらに、トスカニーニ自身がコンサートの指揮の機会を増やしたいと考えていたことが原因として挙げられている。(山田 2009, pp. 118-119)
  40. 山田 2009, p. 112
  41. 「トスカニーニは、父親譲りの愛国者で、当時オーストリア領となっていたトレントやトリエステは当然返還されなければならないという信念をもっていた。彼は、イタリアに戻り、通常の指揮活動を中断し、音楽活動を戦争のためのチャリティ・コンサートへの参加などに限定した。第一次大戦期間中、トスカニーニは一切、出演料を取らなかったのである。そのため、彼自身が経済的な困難に陥ったりもした。ドゥリニ通りの彼の家が売りに出されるということもあったが、新しいオーナーが、トスカニーニ家が住まい続けることを認め、結局、トスカニーニが仕事を再開した後、家は買い戻された。トスカニーニの研究で知られるハーヴェイ・サックスは、一九一五年から二〇年までの五年間を、トスカニーニの人生のなかで『もっとも困惑させられる期間』と述べている。サックスは、その理由として、トスカニーニが最も無意味で恐ろしい戦争に熱狂していたこと、戦争が終わった時、明らかに仕事の再開への興味を失っていたこと、そして短い期間であったが政治に参加したこと(一九一九年の総選挙でファシスト党の名簿に名を載せたこと)、をあげている。」(山田 2009, p. 120)
  42. 山田 2009, p. 124
  43. 山田 2009, p. 129
  44. 山田 2009, p. 127
  45. 山田 2009, pp. 129-131
  46. 「最初にスカラ座に招いてくれたことなど、ボーイトに個人的に恩義を感じていたトスカニーニは、未完のまま残されていた大作《ネローネ》を補筆完成させ、スカラ座の舞台に掛けたいと願っていた。/当初、トスカニーニは、アントニオ・ズマレリアに《ネローネ》補筆の協力を求めたが、ズマレリアの仕事に満足できず、結局、ヴィンチェンツォ・トンマジーニと補完の作業を進めた。そして、一九二三年夏に補筆が完成し、次シーズンでの初演の目途が立った。/二カ月にわたるリハーサルを経て、一九二四年五月一日、ボーイトの遺作《ネローネ》がトスカニーニの指揮で世界初演された。」(山田 2009, p. 137)
  47. 「一九二六年四月に、《トゥーランドット》が世界初演される。トスカニーニは《トゥーランドット》の補筆を《フランチェスカ・ダ・リミニ》で知られるザンドナーイに任せたいと思っていた。しかし、作曲者の息子アントニオは、ザンドナーイがすでに有名な作曲家であることを理由に拒否した。そこでフランコ・アルファーノの名前が出され、トスカニーニもそれを了承した。一八七五年生まれのアルファーノは、一九〇四年にオペラ《復活》を発表し、当時、トリノ音楽院の院長を務めていた。彼はプッチーニの弟子でも何でもなかった。アルファーノはプッチーニが残した草稿をもとに補筆を行ったが、トスカニーニはアルファーノの(いささかオリジナルを膨らませ過ぎた)補筆に不満で、書き直しやカットを命じたという。/四月二五日の初演では、ローザ・ライザがトゥーランドットを、マリア・ザンボーニがリュウを、ミケーレ・フレータがカラフを歌った。トスカニーニは、第三幕のリュウの死の場面が終わると、指揮棒をおいて客席に向かってこう述べた。/『この部分で、ジャコモ・プッチーニは作曲を終えました。死は芸術よりも強力でした』/プッチーニのオリジナルを尊重し、トスカニーニは、そこで公演を終えた。プッチーニの死を際立たせる意味もあったのだろうが、アルファーノの補筆に対する不満の表れであったのかもしれない。《トゥーランドット》は二回目の公演で初めて、アルファーノの補筆を加えた完成版が上演されたのであった。」(山田 2009, pp. 142-143)なお、山田に従ってザックスによれば、リュウの死の場面が終わって指揮棒をおいて客席に向かって語った内容は「オペラは終わりです。マエストロの死によってオペラは未完のまま、残されました」とのこと。(山田 2009, p. 142)
  48. 「トスカニーニはファシスト独裁のイタリアでの演奏活動の困難を感じていた。そしてついに、一九二九年五月一四日の《アイーダ》がトスカニーニのスカラ座での最後のオペラ公演となる。彼がイタリアでオペラ全曲の舞台を指揮するのもこれが最後だった。その直後、トスカニーニはスカラ座のカンパニーとともにウィーンベルリンへの引っ越し公演を行い、スカラ座芸術監督として最後の務めを果たした。ここにトスカニーニは、三〇年以上にわたる歌劇場の指揮者としてのキャリアを終え、コンサートの指揮へとその活動の中心を完全に移した。」(山田 2009, p. 159)
  49. 「フルトヴェングラーがニューヨーク・フィル・デビューで成功を収めたちょうど一年後の一九二六年一月、トスカニーニがニューヨーク・フィルに初登場した。」(山田 2009, p. 150)
  50. 小石, 忠男 (1993). “ニューヨーク・フィルハーモニック”. 世界のオーケストラ123. 音楽之友社. pp. 116-117. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784276960053 
  51. バイロイト音楽祭を仕切っていたジークフリート・ヴァーグナーは、1901年にスカラ座を訪れ、トスカニーニの指揮するリヒャルト・ヴァーグナーの《トリスタンとイゾルデ》の上演に感動し、バイロイト音楽祭への招聘を希望していたが、国粋主義的傾向の強かったバイロイト音楽祭では、なかなかトスカニーニの招聘が実現しなかった。「ようやく一九二九年のスカラ座のベルリン公演の後ジークフリートは、妻ヴィニフレードとともにトスカニーニを訪ね、バイロイトへの出演要請を行った。そして一九三〇年にトスカニーニのバイロイト出演が実現した。バイロイト音楽祭でドイツ以外の指揮者が指揮を執るのは、トスカニーニが初めてであった。また、既に高名なスター指揮者がバイロイトに招かれるのもその時が最初であった。」(山田 2009, p. 199)
  52. 1933年には、アドルフ・ヒトラーがドイツの首相に就任。トスカニーニは、アメリカ在住の音楽家によるドイツのユダヤ人排斥や人種差別主義への抗議の声明文に筆頭で署名した。にも拘らず、ヒトラーから「この夏にバイロイトであなたを歓迎したい」という返答が寄せられた。これを受けて、トスカニーニは出演を辞退した。(山田 2009, p. 204)
  53. 濱田, 滋郎「ブロニスラフ・フーベルマン 今世紀前半の最も個性的なヴァイオリニスト 真の名人芸といえるポルタメントの妙味」『クラシック 続・不滅の巨匠たち』音楽之友社、1994年、181頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784276960121)
  54. 「NBC響はトスカニーニのために用意されたオーケストラであったが、トスカニーニのオーケストラではなかった。ニューヨーク・フィルやボストン響のような地元に根差した運営理事会を持つ通常のオーケストラでもなかった。NBCという一民間企業のオーケストラであり、NBCの別の番組の仕事も入っていたのだ。ある意味、NBC響は親会社でもあるRCAという大企業のアクセサリーに過ぎなかったともいえる。トスカニーニにしても、NBC響の音楽監督ではなく、人事権もなく、組織のなかで確固としたポジションを持っているわけでもなかった」。実際、アメリカに渡ったウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の元ファゴット奏者であるフーゴー・ブルクハウザーのNBC交響楽団への入団は、トスカニーニが推薦したにもかかわらず、NBC側に拒否されている。(山田 2009, p. 234)
  55. 1940年「十二月二八日のカーネギーホールで宗教団体のためのチャリティ・コンサートとして催されたベートーヴェンの『ミサ・ソレムニス』のリハーサルで、楽団の不手際が起こった。演奏会前日のカーネギーホールのリハーサルは午後五時から七時までと予定されていたが、その日の午後にシカゴ響の公演があり、そのあと合唱団用の台を組むことに時間が掛かり、リハーサルの開始が五時半になってしまった。リハーサルは八時まで続けられることになったが、オーケストラのメンバーのうち、三五人が八時から8Hスタジオで演奏する仕事が入っていたため、七時半にはカーネギーホールを出なければならなかった。七時半が過ぎ、オーケストラのメンバーがこっそりと一人ひとり抜け出し始めた。それに気づいたトスカニーニが激怒。それがきっかけで、トスカニーニは翌シーズンの契約延長を取りやめたのであった(このシーズンがちょうど初年度に結んだ三年契約の最終年だった)。」「トスカニーニがNBC響の首席指揮者から離れるという意志は、一九四一年五月にサーノフに手紙で伝えられた(非常に丁寧な手紙で、NBC響との関係は続けたいとの意向も示されていた)。NBCは早速、トスカニーニの代わりとなる指揮者を探さなければならなかった。そして、NBC響は、『オーケストラの少女』や『ファンタジア』などの映画で知名度が高く、華麗なるフィラデルフィア・サウンドを作り上げた実績もあるレオポルト・ストコフスキーに白羽の矢を立てた。」(山田 2009, p. 234)「トスカニーニはヅトコフスキーを好んでいなかった」が、「第二次世界大戦のため、ヨーロッパで活動することは難しい。やはりNBC響に戻るしかなかった。トスカニーニはストコフスキーとNBC響の首席指揮者のポストを分け合うことにした(その体制は二年間続くことになる)。」(山田 2009, p. 236-238)
  56. Arturo Toscanini at NBC”. 2023年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年12月10日閲覧。
  57. 「三月二五日、トスカニーニは八七歳になった。この日付けで、彼はNBC離任を伝える手紙をサーノフに送った。手紙にはこう書かれていた。『一七年前、あなたは私に全米で管弦楽を放送する目的で私のために特別に作られたオーケストラの音楽監督に就任して欲しいという、お誘いの手紙をくださいました。そのとき何か新しい冒険をするには年を取りすぎていたので、私があなたからのお誘いに乗り気ではなかったことを、あなたは思い出されるでしょう。しかし、あなたは私を説得しました。そして一九三七年のクリスマスの夜の最初の放送に向けて、あなたが選んだ音楽家たちとのリハーサルを始めたとき、私の疑念は消え去りました。/NBC交響楽団と演奏した音楽がアメリカや海外で無数のラジオの聴衆たちによって絶賛されたことは、年を重ねるごとに、私にとって喜びとなりました。/しかし、私が心ならずも指揮棒を置き、私のオーケストラに別れを告げねばならないという、悲しい時がやってきました。離任にあたって、この何年もの音楽作りの豊かな記憶と、それらを可能にしてくださったあなたとNBCへの心からの謝意とを私が持ち続けることをあなたに知っていただきたいと思います。/この何年も私と働いたNBCの全ての人々に私の誠意と親愛なる感謝の気持ちをあなたが伝えてくださることを、私は信頼してよいのだと存じております』」/この手紙の複写は、シーズン最後となる四月四日のカーネギーホールでのNBC響の演奏会で音楽評論家たちに配られることになった。」(山田 2009, pp. 271-272)
  58. 1954年4月4日の演奏会に向けたリハーサルでは、トスカニーニは、演目の一つであるリヒャルト・ヴァーグナーの《神々の黄昏》より〈夜明けとジークフリートのラインの旅〉のティンパニの入りの場面で記憶違いを起こし、その部分を繰り返させた挙句、自分が記憶違いを起こしていたことに気づき、「フィナルメンテ(遂に)、ルルティマ・プローヴァ!(最後のリハーサルだ)」と叫んで、そのままリハーサル会場から出ていくという事件を起こしている。(山田 2009, pp. 272-273)
  59. 1954年4月4日のコンサート当日では、演目であるヴァーグナーの《タンホイザー》のバッカナールでオーケストラに混乱が生じた。この混乱について、山田は「トスカニーニは、音楽を立て直すことが出来ず、ほとんど指揮者としての役割を為していなかったように思われる」としている。(山田 2009, pp. 274-275)
  60. この最後の演奏会について、山田は、サミュエル・チョツィノフの「楽団は演奏を中止し、ホールは怖るべき沈黙に閉ざされた」という記述について、「伝説化されているが、それは彼の捏造であり、事実ではない。チョツィノフは、総計な判断で中継を止めてしまったことで、自らがパニックに陥ってしまったのかもしれない。それとも中継の中断を正当化するために意図的に『伝説』を捏造したのだろうか」とし、「『伝説』では、コンサートで失念した為、トスカニーニはそのまま引退を決意したとされているが、現実は、NBC響との最後の演奏会でミスをしたまでだった。もしも、NBCが総計で中継を中断したりせず、何事もなかったように放送を続けていたなら、このような『伝説』は生まれなかっただろうし、チョツィノフの回想文がなければ、『伝説』が増幅されることもなかった。最後の演奏会がこんなに語られることもなかっただろう。語られたとしても、単にトスカニーニの最後の演奏会はあまり上手くいかなかったと伝えられるだけだったに違いない」と述べている。(山田 2009, pp. 276-277)
  61. NBC交響楽団との最後の演奏会で指揮活動そのものから引退することを決めていたわけではない。「六月三、五日、トスカニーニはカーネギーホールに戻り、NBC響と再会した。既に録音した《仮面舞踏会》と《アイーダ》の上手くいかなかった部分を録り直すためだ。トスカニーニは、二カ月前からは想像できないほど、元気だった。エルヴァ・ネッリを迎えてのレコーディング。昔のように、不満足な演奏には激怒し、スコアをホールの客席の一〇列目に届くくらいの力で投げつけたという。」「レコーディング終了の二日後、トスカニーニはイタリアに戻」り、翌年にピッコラ・スカラ(スカラ座の小劇場)でヴェルディの《ファルスタッフ》を指揮することにした。また、スカラ座で行われていたガスパーレ・スポンティーニの《ヴェスタの巫女》のリハーサルを見学して、マリア・カラスの歌声に接しているが、トスカニーニは「カラスのことを素晴らしい声を持つ興味深いアーティストだと感じたが、言葉(発音)が分かりにくいと思った」という。ただ、「トスカニーニ本人も公演をやり遂げることができるのか、健康上の不安を感じていた。その後、軽い心臓発作を起こし、彼は《ファルスタッフ》を断念するしかないと悟った。/トスカニーニは、最終的に指揮活動への復帰を諦めるとともに、古くからの友人たちに自分の甥や衰えを知られたくないとの思いから、イタリアを離れ、ニューヨークでイタリアを離れ、ニューヨークで余生を過ごすことを心に決めた。」(山田 2009, pp. 278-280)
  62. 「一九五五年二月二八日、トスカニーニはニューヨークのリヴァーデイルの自宅に戻った。彼は残された時間を出来る限り自身の録音の編集にあてることにした。そして、約二年間にわたり、息子のワルター、RCAの技師たちとともにテープの編集に携わった。」(山田 2009, p. 280)
  63. 「一九五六年の大晦日、リヴァーデイルのトスカニーニ邸でニューイヤー・イヴのパーティが催された。トスカニーニの子供と孫が全員揃い、指揮者のアルフレッド・ウォーレンスタインや歌手のジョヴァンニ・マルティネッリなどの音楽家も集まった。トスカニーニは上機嫌だった。宴は真夜中まで開かれ、トスカニーニが来客を見届け、寝室に入ったのは午前二時を過ぎていたという。/新年を迎えた朝、午前七時に起床したが、バスルームの戸口でよろめき、家政婦によってベッドに戻された。そしてワルターが寝室に呼ばれ、医者が駆け付けた。脳血栓だった。/トスカニーニは意識を取り戻したが、結局、一九五七年一月一六日にリヴァーデイルの自宅で永眠した。あと二か月で九〇歳に手が届くところであった。」(山田 2009, p. 281-282)

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