渡辺茂夫
渡辺 茂夫(わたなべ しげお、英:Shigeo Watanabe、1941年〈昭和16年〉6月26日 - 1999年〈平成11年〉8月13日)は日本のヴァイオリン奏者。[1]
東京都出身。[2]生母もヴァイオリン奏者であったが、[3][4]離婚[5]を期に母方の伯父で東宝交響楽団の団員だった渡辺季彦[6]に引き取られ、[7][8]5歳の頃から季彦の手解きでヴァイオリンを始めた。[9]7歳の頃から東京都内でリサイタルを開くようになり、8歳の時には新東宝の渡辺邦男監督の映画『異国の丘』で清の長男役で出演してヴァイオリン演奏を披露している。[2]また、ヴォルフガング・シュタフォンハーゲンにもヴァイオリン、[10][11]クラウス・プリングスハイム[2][12]や石桁真礼生らに作曲も学んだ。[9]1953年にマンフレッド・グルリットの指揮する東京交響楽団と共演して以降、何度かグルリットと共演し、[13]ベーラ・バルトークのヴァイオリン協奏曲第2番[14]やグルリットの作ったヴァイオリン協奏曲などを一緒に演奏している。[15][16]1954年には来日中のマックス・エッガーに演奏を聴いてもらってミュンヘン国際音楽コンクールへの出場を勧められた[17]が、来日したヤッシャ・ハイフェッツの前で演奏して称賛され、ハイフェッツの推薦でアメリカのジュリアード音楽院に留学することとなった。[18][19][20]同年、アラム・ハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲を日本初演。[21]1955年にアメリカに渡り、サンタバーバラのサマー・スクール[22]でルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を演奏した後、[23][24]ジュリアード音楽院に入学[25]してイヴァン・ガラミアンの門下となった。[26]1956年にはジュリアード音楽院では前例のなかった全額奨学生となり、[27][28]ガラミアンが指導するメドマウントの夏期講習で演奏を披露してアルフレッド・ウォーレンスタインから「必ず世界一の演奏家になるであろう」と称賛された。[6]ただ、アメリカ留学中の生活は快適ではなかったらしく、[29]一時はガラミアン邸に身を寄せたが、[30]ガラミアン家との交流はスムーズではなかった。[31]次第に練習しなくなっていく渡辺を気にしたガラミアンが日米協会のベアテ・ゴードンに相談し、ゴードンが渡辺と面接した結果、「学校で勉強したい」ということで、1956年9月からニューリンカーン・ハイスクール[32]の9年生に編入されることとなった。[33]1957年にはガラミアン邸に来た日米協会の職員から帰国を打診されたが、一人で下宿するとしてガラミアン邸を自主的に退去している。[34]その後、サリスベリー・ホテル[35]に逗留したが、[36]結局ゴードンに引き取られることとなった。[37][38]渡辺の精神的な不安定さを問題視した日米協会は、ニューヨーク州ロックランド郡オレンジバーグのロックランド病院で精神科医として勤務する竹友安彦に渡辺を預けて休養させることにした。[39]事態は次第に好転し、夏頃にはサンタバーバラでハイフェッツと再会して、ハイフェッツから成長を称賛されている。[40]9月からジュリアード音楽院に近いレルドナス・ホール[41][42]というアパートに移り、[43]ジュリアード音楽院でヴァイオリンの勉学を再開したが、生活は困窮した。そこでガラミアンの斡旋で月収75ドルのアルバイトとしてナショナル・オーケストラル・アソシエーションの団員の仕事を引き受けるようになった。[44][45]ナショナル・オーケストラル・アソシエーションではジュディという女性に心惹かれるようになった。意を決して同僚のローレン・ジョーンズにジュディへの手紙を託したが、ジョーンズがジュディに手紙を忘れたことで、仲は進展しなかった。[46]1957年11月1日及び2日の二日に渡って日米協会に行って帰国の意向を示したが、その翌日には多量の睡眠薬[47]を服用して自殺を図ったということで、セント・ルークス病院[48]に搬送されている。[49]長時間の高熱のせいか、大脳皮質の損傷により言葉と行動の自由を失った状態[50]での帰国を余儀なくされた。[51]1958年1月19日に聖路加国際病院に入院し、3月26日に退院。[52]以後、養父の季彦による介護を受け続けた[53]が、アメリカで失った五感はついに戻らなかった。[54]
鎌倉市の病院で急性呼吸不全により死去。 [55]
脚注[編集]
- ↑ “渡辺 茂夫(ワタナベ シゲオ)とは? 意味や使い方 - コトバンク”. 2023年9月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月11日閲覧。
- ↑ 2.0 2.1 2.2 山崎, 浩太郎「第三十三話 「神童」 ~渡辺茂夫とプリさんグルさん~」『演奏史譚 1954/55』アルファベータ、2017年。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784865980295。
- ↑ 北海道余市出身で北海道電力の礎となる水力発電会社を興した鈴木敬策と、東京府立第一高等女学校で国語教師をしていた妻はるの一男四女の次女として生まれた満枝が、渡辺茂夫の生母である。なお、敬策の次弟の喜代造は、ノンフィクション作家の吉永みち子の夫であり、三弟の八郎は写真家だった。鈴木家は1927年1月3日に自宅の電熱器の過熱が原因で自宅が全焼するという事故に見舞われ、芝区白金三光町に引っ越してきた。当地では渡辺季彦が自宅にスタジオを開設してヴァイオリン教室を開いていた。その季彦の室内楽仲間であった兼子重雄が満枝に子供用の四分の一のヴァイオリンを与えたところ、たちまちマスターしてしまったので、季彦のスタジオでヴァイオリンを習うようになった。また、満枝の姉である美枝も季彦の勧めで山本直忠にピアノを習い始め、自らピアノ教室を開くまでに上達した。後に美枝と季彦は結婚している。(山本, 茂『神童』文芸春秋、1996年、34-38頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784163513300。)
- ↑ 茂夫の父については、山本茂の評伝では、茂夫の生父について「そのころ、満枝は小樽高商出身のサラリーマンと結婚し、一家で夫の故郷の北海道小樽市に疎開していた。二人には一男一女がいた。」と記述するだけで、茂夫の出生時の名前を知るような情報は開示されていない。なお、「新婚時代の夫妻は渡辺家に間借りし、この家で昭和十六年六月二十六日、茂夫が生まれ、三年後に妹が生まれる。」と書かれており、渡辺家が芝区白金三光町にあったことから、茂夫は芝区白金三光町の渡辺家で生まれたことが判る。また、「幼いときから茂夫は伯父や母がいつもヴァイオリンの練習をしている姿を見なれており、ヴァイオリンの旋律を空気のように吸って育った。小樽に疎開中、茂夫もヴァイオリンを習いたいと望み、小さな手に団扇を構えて楽器を弾く真似をしていたという」ので、茂夫がヴァイオリンを学ぶようになったのは不自然な流れではない。(山本 1996, p. 47)
- ↑ 「昭和二十一年の夏、満枝と茂夫の二人だけが上京してきた。満枝はすでに夫と離婚状態にあり、三年後には正式に離婚して二人の子を養子として父親の鈴木家の籍に入れる。実態は渡辺夫妻が茂夫を手もとに引き取り、その妹は埼玉県の縁者に預けられた」という。満枝は「ヴァイオリンを生かして浅草の劇場などで歌手の伴奏をしたり、進駐軍キャンプ慰問のバンドに加わって働きだした。母が留守がちで淋しい茂夫を季彦・美枝の夫妻が温かく面倒を見ていた。」(山本 1996, pp. 48-49)
- ↑ 6.0 6.1 “コラム M氏の深い世界 20180821:国際基督教大学図書館”. 2023年9月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月11日閲覧。
- ↑ 季彦は「茂夫のレッスンにいよいよ集中するために入門者を断り、門下生もできるだけ減らした。ついには東宝交響楽団も辞めてしまったのは昭和二十三年の末のことと思われる」。季彦は満枝を楽団長の橋本鑒三郎に推薦し、満枝は季彦の後任として入団できたが、「満枝の在籍も数ヵ月に過ぎなかった。キャンプ巡りをしていたときにアンソニー・アシェウスキーという駐在兵士と恋仲になっており、二十四年早々には退団している。橋本楽団長の慰留を惜しげもなく振り切り、アンソニーが配置転換された広島県呉市で新生活に入ってしまった」。茂夫は東京を去る母にはついて行かず、渡辺家に残ってヴァイオリンを学ぶ道を選んだ。「その後、満枝はアンソニーと彼の間に生まれた娘をつれてウェスト・コートに渡り、ワシントン州シアトルに永住した」。(山本 1996, pp. 65-66)
- ↑ 「養母・美枝さんは昭和六十二年八月に世を去り、実母・満枝さんも一九九一年一月、ワシントン州シアトルで亡くなった。」(山本 1996, p. 262)
- ↑ 9.0 9.1 細川, 周平、片山, 杜秀『日本の作曲家―近現代音楽人名事典』日外アソシエーツ、2008年、749頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784816921193。
- ↑ “ウィーン/60 第24章(横書テキスト版)”. 2023年9月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月12日閲覧。
- ↑ 1952年11月からシュタフォハーゲンのレッスンを受けることになった。シュタフォンハーゲンは近衛管弦楽団のコンサートマスターを務めていた。「近衛秀麿に紹介されたのだが、惚れ込んだのはシュタフォンハーゲンの方だった。こんな少年なら教えがいがある、とマネジャーを遣わして申し込み、押しかけ教授の形で師弟関係が始まったという。シュタフォンハーゲンによって茂夫はバルトーク、ハチャトゥリアン、グラズノフ、ドボルザークなどで比較的新しい曲を学ぶことができた。」(山本 1996, pp. 69-72)
- ↑ 「茂夫が初めて自作の協奏曲を発表したのは昭和二十八年五月八日、第六回リサイタルのときである。ブラームスの協奏曲ニ長調、バッハの奏鳴曲第四番ニ短調、パガニーニののモーゼ幻想曲などに加えて自ら作曲したヴァイオリン協奏曲ト短調の第一楽章を弾いた。」「茂夫の作曲への欲求はいよいよ強まり、武蔵野音大のクラウス・プリングスハイム教授について作曲を学びはじめた。」「プリングスハイムは茂夫の試作するソナタやオペラなどに早くも非凡な才能を見抜いていた。茂夫が楽譜を持参すると注意深く点検し、優れたパートには丸印をつけて『このあたりはなかなか素晴らしいね』と褒め、手塩にかけて懇切な指導をしている。」(山本 1996, pp. 73-74)
- ↑ 山崎によれば「グルリットが渡辺茂夫と初めて共演したのは、一九五三年十一月の東京交響楽団の演奏会でベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を演奏したときで、以後の三年間に六度も共演している。曲はベートーヴェン二回、グラズノフ二回、バルトークの第二番一回、グルリットの自作一回」とのこと。また、1953年の夏からプロフェッショナルなオーケストラと共演をはじめ、山崎によれば「一九五五年六月までに判明分だけで三十三回協奏曲を演奏している。実力と人気の高さがこの回数からもわかるが、驚くべきは、その中にハチャトゥリアンとバルトークの日本初演が含まれていることだ。」(山崎 2017)
- ↑ 「九月、グルリット指揮の東京フィルハーモニー交響楽団とバルトークの協奏曲第二番を日本初演する。一三歳。日本のオーケストラ史に燦然と輝く快挙である。」(奥田, 佳道「ハイフェッツに激賞された日本の少年~天才・渡辺茂夫」『おもしろバイオリン事典』Yamaha Music Media、2017年、160頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784865980295。)
- ↑ 「グルリットがバルトークの協奏曲第二番を指揮したのは一九五四年九月二十九日のことで、演奏後かれは、「ユー、グッド・パガニーニ!」と言って少年を抱きしめたという。さらに五か月後、かれの滞日十五周年を祝う記念演奏会が開かれることになったとき、グルリットは自作の協奏曲の世界初演の独奏に渡辺を指名した。」(山崎 2017)
- ↑ 1955年2月11日に日比谷公会堂で行われたグルリットのヴァイオリン協奏曲の初演のライヴ録音が現存していて、2006年にミッテンヴァルト・レーベルからCD化された。(グルリット ヴァイオリン協奏曲 (ミッテンヴァルト) (MTWD-99025). (2006). ASIN B000L43Q5G.)
- ↑ 「この三月、ヨーロッパ各地で名声を博しているピアニスト、マックス・エッガーが来日した。新聞が『欧州洋琴界の鬼才』と形容して歓迎するエッガーは帝国ホテルに滞在していたが、親しくしていた読売新聞社の文化部記者の紹介で茂夫は三月二十四日の朝、エッガーを訪れてオーディションを受けた。」「マックス・エッガーはパリ在住のピアニスト山根弥生子の師匠であり、親日家でもあった。その前で茂夫はブラームスのヴァイオリン協奏曲を弾いた。終わったとたん、エッガーは興奮を隠しきれずに日本語で何度も叫んだ。/『ヒジョウニ、スバラシイ!』/そして確信を込めて約束した。/『技術も完璧だし、曲の解釈も十分のものを持っている。私はミュンヘン・コンクールの審査委委員長をよく知っているから、もし出場するのなら紹介しよう。ジュネーヴに来られるなら滞在中はぜひ面倒を見てあげたい。優勝したら帰りはヨーロッパ中を演奏旅行するといいですよ』」(山本 1996, p. 83)
- ↑ “【悲運の神童】天才ヴァイオリニスト 渡辺茂夫が話題に - TOWER RECORDS ONLINE”. 2023年9月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月12日閲覧。
- ↑ 「一九五四年五月、来日したヤッシャ・ハイフェッツは十三歳の誕生日を控えた茂夫少年の演奏をホテルで聴き『こんなに感動したのは二十五年ぶりだ』と驚嘆。ジュリアード音楽学校の学長あてに推薦状を書く。ダヴィッド・オイストラフも『偉大な音楽家になると確信する』と茂夫少年を励ました。」(奥田 2017, p. 160)
- ↑ 江藤俊哉にも、演奏を聴かせている。山崎によれば「江藤が演奏会の合間に杉並の自宅にいたある晩、江藤より十四歳年下の十三歳の少年ヴァイオリニストが両親に伴われて訪ねてきた。/演奏を聴いた江藤は、技術の高さに舌を巻き、自分よりも上じゃないか、まぎれもない天才だと思った。すぐにでもカーティスに入れると太鼓判を押し、フィラデルフィアへの留学を勧めたが、すでに少年はハイフェッツの推薦により、来年ニューヨークのジュリアード音楽院に入ることが決まっていた。」(山崎 2017)
- ↑ 7月25日に日比谷公会堂で塚原哲夫の指揮するツカハラ・オーケストラの第一回定期演奏会で演奏した。(山本 1996, p. 97)
- ↑ サマー・スクールではサッシャ・ヤコブセンのレッスンを受けた。(山本 1996, pp. 141-142)
- ↑ 9月10日の夜行便で、リチャードとアンのルック夫妻に付き添われてニューヨークに向かった。(山本 1996, p. 152)
- ↑ 「一九五五年九月十二日の朝、ニューヨークのラガーディア空港に降り立った渡辺茂夫とニューヨークのラガーディア空港に降り立った渡辺茂夫とエドワード夫人を出迎えたのはJapan society(日米協会=ジョン・ロックフェラー三世会長)のベアーテ・ゴードン夫人であったと思われる。彼女はさまざまな講座の講師をしたり、留学生のアパート探しやアルバイトの斡旋など、よろず相談を引き受けていた。」(山本 1996, p. 152)
- ↑ 「ハイフェッツ氏の熱心な推薦により本校は渡辺茂夫を無試験で本校への入学を許可する」ということで、無試験での入学だった。(山本 1996, p. 114)
- ↑ 「アメリカで教えていたハンガリーの名ピアニスト、ジョルジュ・シャーンドルは、渡辺茂夫にはピアノの才能もあると主張し、ショパンやシューマン、バルトークのレッスンを施す。」(奥田 2017, p. 160)
- ↑ 奥田 2017, p. 160
- ↑ 「一九五五年の秋、茂夫がどのような生活を送っていたか、よくわかっていないが、史上最年少で授業料全免のスカラシップを得たことだけは確かである。」(山本 1996, p. 163)
- ↑ 例えば日米協会は日系人のスガワラ家を下宿先に選ぶという形で配慮を見せたが、渡辺はスガワラ家の人々と親しい関係を築けず、失敗に終わっている。山本に従ってベアテ・ゴードンによると「スガワラ邸の人たちは音楽にあまり関心がないため、茂夫はこれ以上は住みたくないと言っています」とのこと。また、協会の事務局長のダグラス・オーバートンは、渡辺が自分達の斡旋した日系人の家に住むことを拒否した話に加えて「のちには日本語を学ぶことも、日本人と会うことすら拒否するようになり、東京の家族に手紙を書くことも頑固に拒否し、私たちがいくら勤めても駄目だった。同じ年頃のグループに友人を持つこともしなかった」と自らの備忘録に記している。(山本 1996, pp. 166-167)
- ↑ 1955年末からガラミアン家に寄宿していた。(山本 1996, p. 169)
- ↑ ガラミアン家は「全てに規律正しく、毎日がシステマティック」で、ガラミアンのレッスンも極めて厳格だった。「酒・煙草は禁じられ、レッスンのときはネクタイを着用し、一分の遅刻も許されない。生徒たちは戦々恐々として控室にいる間から調弦をし、自分が弾くべきテーマを繰り返しリハーサルして教師の前でミスしないように心がけていた」という。しかし、渡辺は「レッスンの時間には二十分も遅れる。ガラミアンが音楽上のアドバイスをすると『ぼくはそうは思いません』と反論」していたという。また、ガラミアン家ではバス・トイレ付きの三畳ほどの狭い部屋をあてがわれていたのだが、その部屋に閉じこもって、滅多に姿を現さなかった。食事の時間が告げられてもなかなか部屋から出て来ず、「ようやくテーブルに座っても、目を落したままフォークを手にしようとしない。話しかけても黙りこくっている」という状況であった。また奇行もみられるようになり、山本に従ってガラミアン夫人ジュデスによれば、ある時「料理包丁を持ち出して、机に叩きつけて刃をボロボロに欠いてしまった」という。この奇行についてジュディから相談されたガラミアンの兄弟子の小林健次は「茂夫が特に性格的にアンバランスとは思えなかった。なにかイライラすることがあるにちがいないと思ったが、それが何であるかわからなかった」。(山本 1996, pp. 172-174)
- ↑ 「校名はハイスクールだが、日本流に言えば小学校から高校まで十二年制の一貫教育を行っている。茂夫は暁星中学を二年で中退しているので編入するとしたら中学二年か三年になろう。ゴードン夫人は五月十一日付で入学願書を提出した。経済的支援者は日米協会、保護者はゴードン夫妻とした。現住所はガラミアン邸、父スエヒコはヴァイオリン教師、母ミエコはピアノ教師などの必要事項を記入し、特技の項目には『音楽、科学、手で物を作ること』、欠点の項目には『社会的関係についてあまり知らないこと』と記載した。ベアーテは茂夫がいまだにコインの数え方に習熟せず、ショッピングが苦手なことに驚き、こうした非社会性がどこから来るのか、いぶかしく思っていた。」(山本 1996, p. 180)
- ↑ 「ニューリンカーン・ハイスクールは願書を受理し、編入試験を行った。茂夫は九年生の試験に合格し、九月から始まる新学期への入学が認められた。」(山本 1996, p. 181)
- ↑ 「ある日、ガラミアン邸に協会の職員が訪れ、日本航空のチケットを出して/『茂夫、あなたは日本へ帰るときがきた』/と伝えた。茂夫はその夜、荷物をまとめた。/『ぼくは一人で下宿します』/翌朝、そう告げてガラミアン邸を出て行った。」(山本 1996, p. 197)
- ↑ 「茂夫の様子がおかしいという報告を受けたサンタバーバラのワグナー・エドワード夫人がニューヨークにやってきて、サリスベリー・ホテルに投宿していた。連絡を受けていた茂夫はそのホテルに転がり込む形となった。」(山本 1996, pp. 197-198)
- ↑ 「茂夫はホテルの一室を下宿がわりにして一ヵ月ほど暮らしたが、その奇行にエドワード夫人も手を焼き始めた。茂夫はある日突然、ホテルの窓枠から身を乗り出し、/『ぼくはここから飛び降りて死ぬんだ。今すぐ自殺する』と言い出した時には肝を冷やした。/エドワード夫人は懸命に引き留めて室内に戻し、なんとか説得した。こんなことがあって、夫人は日米協会に、私はとても面倒見きれない、と言ってサンタバーバラに帰っていった。」(山本 1996, p. 198)
- ↑ 山本 1996, p. 198
- ↑ ゴードンの許に身を寄せた後も奇行は続き、ゴードンの当時二歳の娘に焼き餅を焼いてゴードンが娘と出かけると必ず同伴したがったり、風呂を使うと、家人のことも考えずに二時間も三時間も立て籠ったり、ゴードンが花粉症対策のために南部の町に一時的に転居する際に、一緒に行く行かないで押し問答を繰り返したりした。ゴードン家での日常会話は英語のみを使い、「ベアーテは英会話の勉強のためだと思っていたが、茂夫が日本語を話したがらないことが原因であることにまもなく気づいた。断固として日本語は使わない、という決意のようなものが茂夫には感じられた」という。「憂鬱そうにしているかと思うと、突然、茶目っけを発揮して、じゃれついたり、後ろからつついて笑ってみたり、スキンシップを求めてくる。他人との距離がつかめていない。精神の深部で歯車の噛み合わせも悪く、茂夫の二つの面が交互にあらわれてベアーテを混乱させた。」また、ジュリアード音楽院では粘着性のテープを目のあたりに貼って歩いている渡辺の姿も目撃されている。(山本 1996, pp. 200-202)
- ↑ 精神的安定を取り戻すため、日米協会は竹友らと協議して渡辺をヴァイオリンの勉学から離れさせ、竹友は自身の研究助手のような形で渡辺を傍に置き、彼の問題を理解しようとした。山本 1996, pp. 206-208
- ↑ 山本 1996, p. 214
- ↑ 「茂夫が入った家賃五十六ドルの4回A3ルームは、三畳ほどで狭くて細長く、寝台と机のほかは何もない。高い窓から弱々しい外光が振ってくるだけの暗く殺風景なものだった。中には窓のない部屋もあって、一日中電灯をともしていなければならなかった。茂夫の部屋は窓こそあったが、共同キッチンと共同バス・トイレに挟まれた最も小さいタイプである。」(山本 1996, pp. 215-216)
- ↑ 「このレルドナス・ホールには小林健次が入っていた。茂夫の二つ下の二階の一室である」が、「茂夫はここでも小林との付き合いを好まず、暗い部屋で世間に見捨てられたように鬱々としていた。」(山本 1996, pp. 215-216)
- ↑ 山本は「竹友医師が『紐育のような街中に一人で寝起きするのは好ましくない』と診断したにもかかわらず、なぜ茂夫の独居が許されたのか。日米協会の責任として後まで尾を引く大きな問題だった。」と述べている。(山本 1996, p. 215)
- ↑ (山本 1996, p. 219)
- ↑ このオーケストラにも小林が所属していた。小林と共にコンサートマスターを務めていたルイ・グレーラーの傍らで第一ヴァイオリンを弾き、「協奏曲のソロを弾いたり、グレーラーに代わってコンマスをつとめたりもしている。二人の日本人ヴァイオリニストはこのクラスでは抜群のレベルにあった。」(山本 1996, p. 220)
- ↑ 山本 1996, pp. 221-227
- ↑ 「部屋を検分した刑事の報告では、机の上に空になったスコポラミンとプロバンサインの薬瓶が転がっていた。」(山本 1996, p. 230)
- ↑ 「セント・ルークス病院はレルドナス・ホールと同じアムステルダム街に面して九丁目ほど南下したところにある。」(山本 1996, p. 230)
- ↑ 山本 1996, pp. 227-229
- ↑ 山本 1996, pp. 235
- ↑ 医師の若井一朗に付き添われて1958年1月12日にラガーディア空港を出発。(山本 1996, pp. 235)1月16日に羽田空港に到着した。(山本 1996, p. 242)
- ↑ 山本 1996, pp. 244-245
- ↑ 「親しい客が訪ねると茂夫さんは嬉しそうに手を差し出し、大好きな従弟が来ると激しく笑って全身を波打たせるが、言葉を発することはできない。食事も入浴も排便もすべて父親に委ねられる。季彦氏は車椅子を使おうとせず、両足の甲に長身の茂夫さんを乗せて歩行のリハビリテーションをつづけ、その努力によって少しずつ歩けるまでになっている。世事に疎く、社会的な雑事はすべて妻に任せきっていた不器用な季彦氏と思われていたが、誰もがびっくりするほどの適応性を発揮した。見かねて『施設に入れたらいかがですか』と忠告する人もいたが、父は首を振って動じない。凄まじい意志力だった」(山本 1996, p. 262)
- ↑ 山本 1996, pp. 261-262
- ↑ “渡辺茂夫”. 2023年9月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月11日閲覧。
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