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門田博光

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門田 博光
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 山口県小野田市(現:山陽小野田市
生年月日 (1948-02-26) 1948年2月26日(76歳)
身長
体重
170 cm
81 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手指名打者
プロ入り 1969年 ドラフト2位
初出場 1970年4月12日
最終出場 1992年10月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 2006年
選出方法 競技者表彰

門田 博光(かどた ひろみつ、1948年2月26日 - )は、山口県小野田市(現:山陽小野田市)生まれ、奈良県五條市育ちの元プロ野球選手外野手)。

通算本塁打数、通算打点数、ともに歴代3位。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

山口県小野田市に5人兄弟の三男として生まれた。父が貿易関係に失敗し、一家で奈良市に移り、つつましい家庭で育つ[1]。五条中学から天理高校に進む[1]天理高校では、四番打者、中堅手として、同期のエース外山義明を擁し活躍。1964年秋季近畿大会県予選では4校による決勝リーグに進むが、1勝2敗に終わる。翌1965年夏の県予選決勝に進出。白滝政孝投手のいた郡山高を2-0で破る。続く紀和大会決勝でも県和歌山商を3-1で降し甲子園に出場。1回戦で小山健二投手(日本コロムビア)を擁する丸子実に9回に逆転され1-3で敗退。

卒業後は外山とともに社会人野球チームクラレ岡山に進む。1966年から都市対抗野球大会に4年連続出場。1968年ドラフト阪急ブレーブスから12位指名を受けるがこれを拒否[2]

1969年ドラフト南海ホークスからの2位指名を受け、プロ入り[3]

現役時代[編集]

1年目の1970年は開幕から二番打者、右翼手として起用され53試合に先発出場、俊足・強肩・好打の中距離打者として頭角を現す。2年目の1971年にレギュラー定着。主に三番打者として打率.300(リーグ11位)、31本塁打、120打点を記録し打点王を獲得、初のベストナインに選出される。同年に打撃フォームを王貞治を参考にした一本足打法に改造した。

プロ入り2年目の1971年から、野村克也監督解任の年である1977年までの7年間で5回の打率三割を記録。1973年には打率.310、18本塁打の成績でリーグ優勝に貢献した。同年の読売ジャイアンツとの日本シリーズでは、第3戦に堀内恒夫から本塁打を放ち、シリーズ通算17打数3安打。

野村監督時代は主に三番を打ち、成績的には中距離打者としての性格が濃かったが、野村からは「オレの前にランナーで出てくれさえすればいい。それがお前の仕事。ホームランなど狙わなくていい」とはっきり言われ、大振りすると怒られたという[4]

野村の解任によりその束縛から解放され、長距離打者としての道を歩み始める。四番打者に座り、それまで使うことを許されなかった重いバット(1000g)を使い始めた(後述)。最初の年(1978年)は夏になるとバテてしまい振り切れなくなり、低調な成績に終わったが(本塁打15本、打率.250)[4]、のちには振り切れるようになった。

1979年2月16日、キャンプ地の大方球場(高知県)で、キャンプ合流11日目、準備運動でジャンプをして着地した際に、右足のアキレス腱を断裂。疲労の蓄積、この日から履いた新しいスパイク、「固すぎる」と多くの選手や評論家が危惧していたグラウンド等、様々な要因がある中でのことだった。ほぼ1シーズンを棒に振るが[5]、同年9月には代打で復帰。

1980年以降、「ホームランを打てば足に負担はかからない。これからは全打席ホームランを狙う」[6] と長打狙いのバッティングに徹し、同年41本塁打を放つと、翌1981年には44本塁打で初の本塁打王に輝いた。1981年7月には、月間16本塁打のプロ野球新記録(当時)をマークしている。16本目は満塁本塁打だった(7月31日、対西武戦、杉本正から)。また、7月はオールスターゲームのある月であり、約1週間の公式戦中断がある中での記録だった。8月22日の西武戦では同年2度目となる満塁本塁打を松沼博久から放つ。

1983年も40本塁打で本塁打王。当時投手だった愛甲猛ロッテ)から2本の満塁本塁打を放つ(7月14日、9月11日)。1987年8月26日の西武ライオンズ戦では史上24人目となる通算2000本安打を達成した。

1988年は40歳にして打率.311、44本塁打、125打点で本塁打王、打点王、さらにMVPに輝く。40代での40本塁打、同100打点、同OPS10割は史上初(40歳になる年及び40代での44本塁打、同125打点、同OPS1.062は歴代最高記録)であり、この年限りで消滅した南海での選手生活に花を添えた。40歳でのMVP選出はプロ野球史上最年長記録であり、40歳を意味する「不惑」という言葉はこの年の流行語にもなった[7]

その後、42歳で31本、44歳で7本と、それぞれ年齢別最多本塁打記録を作った。

1989年に南海はダイエー本社に買収され福岡に移転することになったが、子供のためにこの時点での単身赴任を避けたく、また平和台球場は内外野とも人工芝であったため足腰の負担を考慮して「福岡は遠い。何とか関西に残れないだろうか?」と球団に打診し、内田強原田賢治白井孝幸の3選手とのトレードによりオリックスに移籍。移籍後も変わらぬ活躍で、ブルーサンダー打線の中核を担った。特にOPSは2年連続で10割を超え、40代でOPS10割を達成したのは歴代で門田のみとなっている。1990年9月9日の西武戦では鹿取義隆からサヨナラ満塁本塁打(42歳6か月は当時の最年長満塁本塁打だったが大島康徳が43歳6か月の1994年5月4日に放って更新された)[8]、翌10日の西武戦でも渡辺智男からサヨナラ本塁打を放った。

オリックスでは、「強いチームというのは、勝つ時も負ける時も淡白でさらっとしている」と感じたという。南海が低迷した一因として、いつでも全力で闘うため、手の抜きどころを知らず、シーズンの前半戦は善戦するも、後半戦は息切れしていたことを挙げている。これを「マラソンの25km地点で息切れするようなもの」と表現している。

1991年、子供の進学で単身赴任が可能となる等の家庭環境の変化と古巣への愛着から、オリックスを自由契約となる形で古巣のホークスに復帰。二桁に乗せる本塁打数を記録するが、年齢による衰えは隠せず、翌年の1992年夏、記者に「オレは老衰」と漏らし、このシーズン限りで現役を引退引退試合は平和台球場でのプロ野球最終公式戦、3番DHで先発し1回裏近鉄野茂英雄投手との対戦で、全て速球をフルスイングで空振りし3球三振だった[9]

引退後[編集]

1993年から2005年まで朝日放送(テレビラジオ)の野球解説者を務めた。

1993年、1994年はスポーツニッポン評論家

1995年、1996年は日刊スポーツ評論家も務めた。

2006年、野球殿堂入り。

プレースタイル[編集]

2番打者失格[編集]

入団2年目のシーズン前に、当時ヘッドコーチを務めていたブレイザーの「打率3割を打てる理想的な2番打者を育てたい」との希望により、ブレイザーが投手役になって1週間ぶっ続けでバントの練習をさせられた。しかし、野球を始めてからバントの練習などしたこともなかった門田は、一向にうまくできるようにはならず、ついにブレイザーは「オー、ノー、ギブアップ」と降参した。1番は広瀬叔功、2番は失格で、「あいつはヒットならよく打つ。それならオレ(4番)の前を打たせておけ」(野村)ということで3番を打つことになったという[4]

本塁打へのこだわり[編集]

1971年に31本塁打、120打点で打点王になった頃から一発狙いの強振が目立ち始め、見かねた野村克也監督が、王に協力を頼んで「ヒット打ちに行くのが基本。その延長がホームランなんだ。」と2人で説得を図ったとのエピソードが残されている。大阪スタヂアムのオープン戦でのことであったが「そんなはずはありません。監督も王さんもホームラン狙いで大振りになっている」と自説を撤回しないばかりか反論までしてきた門田に二人とも唖然としたという。また、挙句の果てに門田は「監督はずるい。王さんと口裏を合わせている」と野村に言い放ち、王は「大変な新人が入ってきたね」と呆れ、野村から「もう二度と教えてやらん」と怒鳴られたという[10]。門田はあくまで長打にこだわった打撃を押し通し、「ホームランの当たり損ねがヒット」「ホームラン狙いをやめれば4割打てる」とも語っている。オールスター戦では、当時東映フライヤーズ大杉勝男が説得役に担ぎ出されたという[4][11]

当時の南海には門田の手本になるような左打者がおらず、そのことで悩んでいたが、ある日凡退したあとベンチの隅にある鏡の前の水道で手を洗ってふと鏡を見ると、次打者の野村克也が反転して左打者として映っていた。それ以来、門田は手を洗う格好をして「鏡の中の左打者」である野村の打撃フォームを熱心に観察・研究した。野村に話すと「参考になったやろ」と威張られるに決まっているからという理由で、門田は絶対にそのことは野村には言わなかったという[4][12]

フルスイングへのこだわりについて、門田は次のように語っている。「ろくでもない解説者が、あんなに強く振らなくても、軽く打てばホームランになるんですけど、と言うやろ。大間違いや。軽く振って本塁打にするにはどれだけ時間がかかるか知らんやつが言うこと。確かに思い切って振ってるうちは30本は超えん。でも、それが軽く振ってるように見えるのは、何万スイング、何十万スイングしているから、そう見えるわけよ。そこを超越せんと軽く打ってるようには見えんのよ」「ワシは朝のコケコッコから、とにかく時間を忘れてバットを振った。普通のやつは出来んから、おれは『変わり者』と言われるんやろな。そこまでやらな、こんな小さな体で500本も打てんじゃろ」[13]

2006年に野球殿堂入りした際のインタビューでも、「(上体を)ネジってネジってバチン! というスイングをする選手が最近は少ない。アウトコースを軽くミートして逆方向に打つホームランではロマンがない」と持論を展開している。

その頃のプロ野球の主力選手には珍しく大きな数字の背番号をつけており、しかも次第に大きくなっていった。1980年から使用した44番はハンク・アーロンなどメジャーリーグの強打者に多いことや、44歳で亡くなった母親の供養の意味で44本の本塁打を目標とする意図からつけられた。1981年に実際に44本塁打を放って本塁打王を獲得すると、次は60本に目標を切り替えて背番号を60とした。

本塁打王打点王を獲得した1988年に、日本テレビ系列で放映された「追跡」の特集では、インタビュアーであった作家安部譲二に同年ホームラン王を獲得できたことに関して、「ここ7・8年、どこの球場でも場外を打つことがホームランという気力でやれたこと」と語っていた。 翌1989年に33本塁打を打った際も、本人曰く「ほとんどが打ち損ない」で満足いく打球が少なかったものの、それまでに「場外」を意識してきた積み重ねの結果が、打球が飛ばなくなってもフェンスを超えられた結果であるという[14]

バットに関しては「速い球を重たいバットで打てるなら、遅い球でも対応できる」という考えを持っていた。実際に門田が使用していたバットは長さ34インチ半、重さ1000gの特大バットであった[15][16]

ライバル投手との対決[編集]

村田兆治は門田に生涯14本の本塁打を打たれているが、門田について次のように語っている。「あれは昭和48年(1973年)だったか、マサカリが完成してすぐだった。絶対に打たれるはずのないひざ元へのスライダーを門田さんに打たれた。失投ではなくて、完ぺきな球を本塁打にする打者。投げていて緊張感があった。あれから、門田さんにスライダーを投げたことはない。それぐらい悔しかった。」[13][17]

門田が「永遠のライバル」と称している山田久志は門田に28本塁打を浴びている。山田は門田について、「本物のプロのバッターだった。真っすぐを狙っているところに、真っすぐを投げた。駆け引きが一切ない。インハイとアウトローにすべて直球を投じた。いい勝負ができた。」と証言している[13]

東尾修は、危ない球をすれすれに投げて、その反対球で打者をかわしていく投手(ケンカ投法)であったが、ある試合の第1打席で、その危ない球が門田に当たった。その報復に門田は第3打席にピッチャー返しを東尾の太ももに直撃させた。東尾がしばらく起き上がれなかったために試合が中断し、この際に門田はマウンドまで出向き「これは1打席目に自分に当てたお返し」であることを告げ、自分に危険な投球をしないよう警告した。東尾はこれを了承して以降、そのような投球をしてこなくなったという[4]

新人投手への洗礼[編集]

門田がターゲットを定めて燃えたのが新人との対決であった。

1989年秋のドラフトで、野茂英雄近鉄バファローズに入団することが決まったときには、「野茂からの第1号は俺が打つ」と決め、翌シーズンへ向け、ゴルフ場で走り込むなど準備を進め、1990年4月18日の日生球場での近鉄-オリックス1回戦で、その目標を実現させている。野茂の初登板は4月10日の西武戦であったが、門田は「(西武の打者の)誰も打つなよ」と念じ続け、願い通じ被本塁打0のまま迎えた18日も、4番に座る門田は「松永福良ブーマーホームラン打つなよ…絶対打つなよ…」と念じていたという[18]

小宮山悟に対しては、「『大学もプロも変わらない』みたいなコメントを読んだ瞬間、じゃあプロの打球を見せましょう。で、ピッチャーライナーを一発見舞ったんや」と述べている[18]

守備[編集]

アキレス腱断裂後のDHとしてのイメージの強い門田であるが、それ以前は右翼手としての守備もそれなりのレベルにあった。門田の守備能力については、中堅手だった広瀬叔功が自身の著書で、「(他の外野手からはフライが飛ぶとすぐに『広瀬さん!』と声が掛かったが)彼(門田)は守備範囲も決して狭くなく、右中間寄りのフライもさばき、大声で叫ぶ声を聞いた記憶はほとんどない」「グラブを柔らかく使いこなした捕球も上手かったが、肩が強くてしばしばホームで相手走者を刺した」「打撃と違ってしゃにむに速い球を返すのではなく、無駄な動きを抑えて素早く正確にワンバウンドの送球をしていた」と証言している[19]。シーズン2桁補殺を5度(1971年-73年、75年、77年)記録している[20]。もっとも、アキレス腱断裂の前年からDHでの出場が増加していた。

アキレス腱断裂からの復帰後は、大半がDHでの出場となったが、南海時代末期には加藤英司がDHに入ったり、オリックス時代には石嶺和彦がDHに入ったために門田が守備に就くこともあり、その際は左翼手としての出場が大半であった。

1988年の球宴では指名打者部門が設置されておらず秋山幸二平野謙と共にパ・リーグ外野手部門でファン投票選出され、ナゴヤ球場での第2戦に3番右翼手で先発出場。立浪和義がパ・リーグ先発投手阿波野秀幸から打った打球を捕球、ライトフライに仕留めている。

逸話[編集]

野村との関係[編集]

南海時代は野村克也とソリが合わなかった[1]。門田はフルスイングを持ち味としているが、野村からは「大振りをやめろ」と再三注意された。門田はそれを聞くことなく自分のスタイルを貫いて2年目からレギュラーを掴んだ[21]

野村が門田の契約更改の交渉の場に入ってきて、「まだまだ働きが足らん。大きなこと言える立場じゃないよ」などと、門田の年俸アップの足を引っ張ったこともある[1]。生一本な門田の気性を見通したプレイングマネージャーの選手操縦法という見方もできるが、門田はそう取らなかった[1]。衝突が決定的になったのは野村の愛人問題であり[1]、「グラウンドにヨメハン連が出てくることはない。野村さんにはとてもついていけない」と咬みついた[1]。野村が解任された1977年には、当時の野村の愛人だった伊東芳枝から電話で「あんたが野村の言うことを聞かないと起用しない」と言われたという[22]。秋季練習の後、中百舌鳥の合宿で野村に「君たちの思っていることをオレに話してほしい」といわれ、手を挙げたのが門田と江本孟紀、それに西岡三四郎であった。そこで言葉の行き違いがあり、「もう練習にこなくてもいい」と言われたので「ハイ、わかりました」といって練習に参加しなくなり、「門田、野村監督と対立」などとスポーツ紙に書かれて騒がれたという。ただし、門田本人は自著で「そんなに大げさなものではなかった」と述べている[4]

野村は自著[11] で、南海監督時代に手こずった門田、江本、江夏豊の3人を「南海の三悪人」と呼び、「選手として一流になれても指導者にはなれない」と語っている。野村が解説者時代の「週刊朝日」の連載[23] でも「最後の野球バカ門田博光」と題し、「何かをいえばそれと反対のことをする男である」と評している。

しかし一方で、野村は門田の実力を大いに認めている。先述の通り門田を見い出して三番に抜擢したのは野村であり、「ものすごい頑張り屋」とも評している[11]。門田も従うべきところでは従っていたといわれ[24]、また「『二塁の桜井とライトの門田は10年間不動のままでいける』と野村に言ってもらい、信頼が厚くて助かった」とも述べている[4]

野村が3000試合出場の記念の記録を立てた試合(1980年8月1日 西武-南海戦)で、門田は「こういう時に野村さんに恩返しをしたい」といってきたという。何をしてくれるのかと思っていたら、キャッチャーマスクをかぶった西武の野村の目の前で特大のホームランを2打席連続で放った。その後3打席目に立った門田に「もうわかったから、ええ加減にしとけや」とボヤくと「二塁打ですませてくれた」のだという[25]

南海の後継球団である福岡ソフトバンクホークスでは、2013年に(南海時代からの通算で)ホークス創設75周年を記念したプロジェクト「LEGEND HAWKS」を展開。8月31日の対楽天戦(福岡 ヤフオク!ドーム)の試合前に開かれた記念セレモニーには、野村と共に南海時代の復刻ユニフォーム姿で登場した。始球式では、球団会長の立場で「見届け人」として参加した王貞治に見守られながら、同ドームの左打席(野村は右打席)に立った[26]

2020年に野村の訃報を門田が知ったのは自身が通院していた兵庫県内の病院で流れたテレビ速報であった。訃報に際してインタビューを受けた門田曰く、最後に野村に会ったのはこの前年(2019年)の東京でのとある会での事であったが、そこで既に車椅子姿であった野村は門田に「とことん打撃を追究する門田ほどの野球バカは、もう二度と出てこんやろうなあ」と親しみを込めて認めてくれたという[27]

脱臼癖[編集]

入団1年目(1970年)に、二塁走者として出ているとき帰塁の際に右肩を脱臼して以来、持病として脱臼癖を持っていた。

1984年4月14日の日本ハム戦でホームランを打った際のハイタッチでその右肩を脱臼している。

オリックス移籍1年目の1989年9月25日、古巣の対ダイエー戦でも、3回裏に本塁打を打ち、ホームで出迎えたブーマーからのハイタッチに応じた際に、再び右腕を脱臼[28]。このとき、登録抹消までには至らなかったが、シーズン終盤での貴重な約1週間を棒に振った(同日のスポーツニッポンの取材に対し、「何度もやっているから自分でどうすればいいか分かっている」としながらも落ち込み、また、ブーマーもひどく落ち込んでいたという)。この年は近鉄西武とオリックスが最後まで競り合った末、近鉄が優勝したが、門田が登録抹消してから残り15試合はオリックスにとってダメージとなり、オリックスとしての初優勝は1995年まで持ち越しとなった[28]

珍プレー[編集]

1990年の西武戦で打席に立った際、投球を捕手の大宮龍男が落球し、1塁ランナーが進塁を試みるという場面があった。ここで門田は、自らの足元にボールが転がっているのを確認していたにも関わらず、まだ必死でボールを探している大宮に向かって、全く別の方向を指差して撹乱するという珍プレーを披露している。大宮は一瞬だがまんまと騙され、結局ランナーの進塁を許してしまい、門田を小突いている。

趣味は陶芸油絵写経など。陶芸は、陶器作りの過程に何か野球に通ずるものがあるのではないかと思い、それを追究しようとの気持ちの延長で始めたものだという[4]

引退後は広島市お好み村に、広島風お好み焼き店を出していたことがある。

現役引退後の1993年1月26日放送のテレビドラマ「ホテルドクター」(ABC制作、テレビ朝日系)の第3話にラーメン屋台の主人役でゲスト出演した。また、ABCのラジオ番組を持っていた時、「笑ゥせぇるすまん」の喪黒福造の物真似を披露し、コーナーのタイトルを読み上げていた。持ちネタとして他に、山下清の物真似も披露していた。

2006年7月21日、神宮球場でのオールスターゲーム第1戦で行われた野球殿堂入り表彰式のお礼の挨拶で、「最高のものを頂きました。人生の“終着駅”に着いたかなという感じです」と発言。終了後にその場にいた名球会の会長である金田正一から「二度とそんなことは言うな!」と叱責され、「これからも後進のために頑張ると約束してくれ」と言われたという。

2007年8月24日、8月31日の「小兵」をテーマとした『ナンだ!?』に舞の海秀平相撲)、志村雄彦バスケットボール)と共に出演。「高校時代の3年間で1本も本塁打を打てなかった」などのエピソードを明かした。

野球のみならず実生活でも左利きであるが、ペンは右手で持つ[29]。ただし、油絵は左手で描く。

家族[編集]

夫人との間に一男一女。アキレス腱断裂で病院から自宅に戻ったあと、長男(当時小学1年)から職業を聞かれたことがきっかけで、「今度オールスターゲームに出たら、球場に来るか」と口にする。復帰した1980年に門田はそれを子どもとの約束と考えてプレーに励み、パ・リーグの西本幸雄監督の推薦で出場を実現させた。西宮球場の第1戦に家族を招き、その前で本塁打を放つことができた[4]

ホークスの福岡移転で門田が関西の他球団への移籍を申し出たことについて、門田を知る球団・球界関係者の多くは「子煩悩なカドさんなら仕方ないか」と納得していた部分もあった。その後、娘の高校進学などでダイエーに移籍した。

幻のトレード[編集]

南海時代の1980年オフ、スポーツニッポン阪神タイガース掛布雅之と門田のトレードが報じられた[30][31]。球団事務所に抗議が殺到したために話は流れてしまったが、「トレードの話自体は本当にあった」と門田本人が後年明かしている[32][33]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1970 南海 79 246 232 27 58 12 1 8 96 31 2 1 0 2 9 0 3 39 2 .250 .285 .414 .698
1971 129 558 506 70 152 24 1 31 271 120 5 3 1 6 38 2 7 58 8 .300 .354 .536 .889
1972 125 529 475 73 147 24 2 14 217 58 4 3 1 5 45 1 3 37 9 .309 .369 .457 .826
1973 127 530 484 66 150 26 1 18 232 65 3 5 0 2 40 1 4 43 10 .310 .366 .479 .845
1974 124 487 432 62 116 23 4 27 228 76 1 2 0 7 47 6 1 59 10 .269 .337 .528 .865
1975 129 550 485 72 136 29 2 19 226 85 6 1 1 5 55 5 4 49 8 .280 .355 .466 .821
1976 125 522 456 64 137 25 4 22 236 77 2 1 0 10 54 7 2 51 8 .300 .370 .518 .887
1977 128 543 479 71 150 22 0 25 247 91 5 5 0 8 52 5 4 72 3 .313 .379 .516 .895
1978 106 406 360 37 90 13 0 15 148 44 3 2 1 4 37 3 4 59 4 .250 .323 .411 .735
1979 19 63 54 5 15 2 0 2 23 17 0 0 0 1 8 0 0 15 0 .278 .365 .426 .791
1980 111 430 377 60 110 10 0 41 243 84 0 0 0 2 48 9 3 72 7 .292 .374 .645 1.019
1981 127 537 438 83 137 18 0 44 287 105 4 1 1 4 92 8 2 70 10 .313 .431 .655 1.086
1982 107 392 333 42 91 17 0 19 165 45 6 1 0 4 52 11 3 63 6 .273 .372 .495 .868
1983 122 487 396 68 116 14 1 40 252 96 1 1 0 2 85 20 4 86 6 .293 .421 .636 1.057
1984 108 444 362 60 103 11 0 30 204 78 3 1 0 5 75 20 2 75 1 .285 .405 .564 .969
1985 114 466 383 63 104 12 2 23 189 62 0 0 0 4 78 8 1 88 9 .272 .393 .493 .886
1986 123 479 416 51 109 14 0 25 198 77 2 3 1 0 57 12 5 101 7 .262 .358 .476 .834
1987 126 458 379 63 120 16 0 31 229 69 1 1 0 3 74 24 2 66 5 .317 .428 .604 1.032
1988 130 557 447 82 139 12 0 44 283 125 2 1 0 10 98 20 2 82 13 .311 .429 .633 1.062
1989 オリックス 116 489 406 70 124 17 1 33 242 93 0 2 0 3 78 3 2 103 12 .305 .417 .596 1.013
1990 119 527 446 77 125 21 0 31 239 91 0 1 0 2 78 7 1 118 11 .280 .387 .536 .923
1991 ダイエー 112 425 367 38 97 15 0 18 166 66 1 0 0 3 54 7 1 77 10 .264 .358 .452 .810
1992 65 179 155 15 40 6 0 7 67 23 0 0 0 3 19 3 2 37 5 .258 .341 .432 .773
通算:23年 2571 10304 8868 1319 2566 383 19 567 4688 1678 51 35 6 95 1273 182 62 1520 164 .289 .379 .529 .907
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 南海(南海ホークス)は、1989年にダイエー(福岡ダイエーホークス)に球団名を変更

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1975年5月11日、対阪急ブレーブス前期6回戦(大阪スタヂアム)、9回裏に竹村一義から2ラン ※史上82人目
  • 150本塁打:1977年5月29日、対日本ハムファイターズ前期12回戦(青森市営野球場)、4回表に野村収から2ラン ※史上48人目
  • 1000本安打:1977年8月13日、対阪急ブレーブス後期6回戦(大阪スタヂアム)、4回裏に佐藤義則から投手強襲遊撃内野安打 ※史上103人目
  • 1000試合出場:1978年5月11日、対クラウンライターライオンズ前期9回戦(平和台球場)、3番・右翼手として先発出場 ※史上200人目
  • 200本塁打:1980年6月27日、対西武ライオンズ前期11回戦(西武ライオンズ球場)、4回表に王天上の代打として出場、松沼博久からソロ ※史上34人目
  • 250本塁打:1981年8月1日、対西武ライオンズ後期5回戦(大阪スタヂアム)、6回裏に柴田保光から右中間へ2ラン ※史上19人目
  • 1500本安打:1983年5月17日、対近鉄バファローズ7回戦(大阪スタヂアム)、4回裏に鈴木啓示から同点ソロ ※史上47人目
  • 300本塁打:1983年6月22日、対阪急ブレーブス10回戦(阪急西宮球場)、3回表に山沖之彦から2ラン ※史上15人目
  • 1500試合出場:1983年7月12日、対ロッテオリオンズ14回戦(川崎球場)、4番・指名打者として先発出場 ※史上75人目
  • 1000打点:1984年4月6日、対阪急ブレーブス1回戦(大阪スタヂアム)、9回裏に佐藤義則から右前適時打 ※史上17人目
  • 350本塁打:1984年8月26日、対日本ハムファイターズ24回戦(平和台球場)、2回表に高橋里志から2ラン ※史上12人目
  • 3000塁打:1986年6月13日、対日本ハムファイターズ11回戦(大阪スタヂアム)、6回裏に木田勇から中前安打 ※史上25人目
  • 1000三振:1986年8月19日、対日本ハムファイターズ19回戦(大阪スタヂアム)、8回裏に田中幸雄から ※史上12人目
  • 400本塁打:1986年10月2日、対近鉄バファローズ25回戦(藤井寺球場)、5回表に小野和義から右越ソロ ※史上10人目
  • 3500塁打:1987年4月25日、対近鉄バファローズ2回戦(大阪スタヂアム)、4回裏に阿波野秀幸から左中間へソロ ※史上15人目
  • 300二塁打:1987年5月2日、対ロッテオリオンズ4回戦(川崎球場)、6回表に佐藤政夫から左中間二塁打 ※史上27人目
  • 1000得点:1987年6月16日 対日本ハムファイターズ9回戦(群馬県立敷島公園野球場)、7回表に加藤英司の3ラン本塁打で生還 ※史上21人目
  • 2000本安打:1987年8月26日、対西武ライオンズ18回戦(大阪スタヂアム)、3回裏に工藤公康から左中間二塁打 ※史上24人目
  • 2000試合出場:1987年9月8日、対西武ライオンズ20回戦(西武ライオンズ球場)、4番・指名打者として先発出場 ※史上24人目
  • 450本塁打:1988年6月12日、対近鉄バファローズ9回戦(新潟市営鳥屋野球場)、2回裏に加藤哲郎から中越2ラン ※史上9人目
  • 4000塁打:1989年4月26日、対ロッテオリオンズ5回戦(阪急西宮球場)、7回裏に関清和から左越ソロ ※史上10人目
  • 500本塁打:1989年8月15日、対近鉄バファローズ15回戦(藤井寺球場)、3回表に小野和義から右中間へソロ ※史上6人目
  • 1500打点:1990年4月10日、対福岡ダイエーホークス1回戦(グリーンスタジアム神戸)、1回裏に山内孝徳から右中間へ逆転2ラン ※史上6人目
  • 350二塁打:1990年6月10日、対西武ライオンズ8回戦(西武ライオンズ球場)、7回表に黒原祐二から右越二塁打 ※史上18人目
  • 4500塁打:1991年5月28日、対西武ライオンズ6回戦(北九州市民球場)、3回裏に渡辺智男から一塁強襲内野安打 ※史上4人目
  • 550本塁打:1991年6月7日、対日本ハムファイターズ9回戦(平和台球場)、1回裏に角盈男から右中間へ先制2ラン ※史上3人目
  • 2500本安打:1991年8月7日、対日本ハムファイターズ19回戦(平和台球場)、5回裏に角盈男から中前へ逆転決勝2点適時打 ※史上6人目
  • 2500試合出場:1991年9月23日、対オリックス・ブルーウェーブ25回戦(平和台球場)、4番・指名打者として先発出場 ※史上5人目
  • 1500三振:1992年5月28日、対西武ライオンズ8回戦(平和台球場)、4回裏に渡辺智男から ※史上2人目
その他の記録
  • 月間本塁打16本:1981年7月 日本プロ野球記録(達成当時)[36]
  • シーズン満塁本塁打:4本(1983年) ※パ・リーグタイ記録
  • 5試合連続本塁打:2回 (1981年7月1日 - 7日、1981年7月9日 - 12日)
  • 2試合連続サヨナラ本塁打 ※史上6人目(パ・リーグ史上初)
    • 1990年9月9日、対西武ライオンズ24回戦(阪急西宮球場)、9回裏に鹿取義隆から中越逆転サヨナラ満塁本塁打
    • 1990年9月10日、対西武ライオンズ25回戦(阪急西宮球場)、9回裏に渡辺智男から左越サヨナラソロ
  • 1試合5四球:1988年5月27日、対阪急ブレーブス9回戦(阪急西宮球場) ※パ・リーグタイ記録
  • 1試合10守備機会・1試合10刺殺:1973年6月10日、対日拓ホームフライヤーズ前期10回戦(後楽園球場) ※共に外野手としてのパ・リーグタイ記録
  • オールスターゲーム出場:14回 (1972年、1975年 - 1977年、1980年 - 1984年、1987年 - 1991年)

背番号[編集]

  • 27(1970年 - 1979年)
  • 44(1980年 - 1982年)
  • 60(1983年 - 1988年)
  • 78(1989年 - 1990年)
  • 53(1991年 - 1992年)

関連情報[編集]

著書[編集]

  • 『不惑の挑戦:南海ホークス最後のモンスター』(海越出版社, 1988年)ISBN 4906203639
  • 『我が輩はバットである:私小説・プロ野球人門田の軌跡』(海越出版社, 1993年)ISBN 487697148X
  • 『門田博光の本塁打一閃:ホームランに魅せられた男』(ベースボール・マガジン社, 2006年)ISBN 458303928X

解説者としての出演番組[編集]

プロ以外[編集]

2009年に大阪ホークスドリームを設立し、総監督となる。2011年6月、田中実監督が解任されたため、新監督に就任。同年9月、契約満了に伴い退任。

また、日本新薬硬式野球部の臨時コーチも務めている。

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 「傷だらけの野アザミ 打席に咲けない南海の主砲 門田博光」『サンデー毎日』、毎日新聞社、1979年5月27日号、 158-161頁。
  2. 本人や会社側が断ったのか、当時多かった球団側による下位指名選手の交渉権放棄かは不明。
  3. 激白 門田博光「関西パ・リーグ漢塾」
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 4.6 4.7 4.8 4.9 門田博光「門田博光の本塁打一閃」ベースボールマガジン社 2006年
  5. アキレス腱断裂の際、チームに担架が用意されておらず、門田は戸板に乗せられて搬送された。
  6. 野村克也「私が見た最高の選手、最低の選手」東邦出版 2013年
  7. 【南海ホークス 何回も見たい名場面】門田2000安打達成 88年は40歳で2冠王 - 野球 - SANSPO.COM(サンスポ)
  8. 週刊ベースボール2018年10月29日号、冷静と情熱の野球人 大島康徳の負くっか魂!!、77頁
  9. 尚、試合は広永益隆のソロホームランで挙げた最少得点を若田部健一吉永幸一郎のバッテリーが守り抜き完封している。
  10. 門田博光氏 新人時代、「王さん野村さんに反発した」思い出
  11. 11.0 11.1 11.2 野村克也「野村ノート」小学館 2005年
  12. 自分と逆ポジションの選手の鏡像を参考にしたエピソードは永射保にもある。
  13. 13.0 13.1 13.2 大阪日刊スポーツ編「ナニワ野球伝説」朝日新聞出版 2011年
  14. 門田博光が本塁打増に持論。「打撃を球場サイズに合わせたらあかん」
  15. 不惑の壁打ち破った大砲 門田博光
  16. 門田博光が特徴や弱点をズバリ指摘。小園、根尾、藤原に飛躍への助言
  17. 村田兆治氏 門田博光氏にサヨナラHR打たれスライダー封印した
  18. 18.0 18.1 「野球小僧」白夜書房
  19. 広瀬叔功 「南海ホークス ナンバ 栄光と哀しみの故郷」ベースボールマガジン社 2014年
  20. 宇佐美徹也「プロ野球記録大鑑(昭和11年→平成4年)」講談社 1993年
  21. 伝説の男・門田博光が振り返る「パ・リーグ」破天荒すぎた時代
  22. 週刊新潮2017年12月21日号、31頁
  23. 野村克也「プロ野球の男 野村克也の目」朝日新聞社 1982年
  24. 「20世紀プロ野球事件簿」ベル・スズカワ 2001年
  25. 野村克也「名選手にドラマあり 脳裏に焼き付くあのシーン」小学館新書 2014年
  26. 歴史的和解!南海ノムさん、36年ぶり復活 サンケイスポーツ 2013年9月1日
  27. 門田博光氏「最高の手本」野村氏に怒られ認めさせた
  28. 28.0 28.1 門田“痛すぎる”31号 ハイタッチで右肩脱臼
  29. 1980年南海ホークスが蘇る。門田博光氏の直筆サイン入りミニユニフォーム額受注販売開始!
  30. 【あの時・不惑の本塁打王 門田博光】(4)愛する家族のため移籍決断
  31. 「トレードなら引退」掛布は決意していた
  32. 門田博光氏、掛布とのトレード話「本当」
  33. イチロー・原も?幻のトレード3選
  34. 歴代授賞者”. 日本プロスポーツ大賞. 公益財団法人日本プロスポーツ協会. 2017年11月25日閲覧。
  35. “【ファン交歓会一問一答】原口、関西弁の女性「いいと思います」(画像6)歴代サンスポMVP大賞、新人賞の受賞者”. SANSPO.COM (産業経済新聞社). (2016年11月23日). http://www.sanspo.com/baseball/photos/20161123/tig16112305040011-p6.html 2017年9月8日閲覧。 
  36. 2013年8月にウラディミール・バレンティンが更新 “バレンティン 月間本塁打日本新!8月17本目の51号”. スポーツニッポン. (2013年8月28日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/08/28/kiji/K20130828006503890.html 2013年8月28日閲覧。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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