マリア・カラス
マリア・カラス(Maria Callas, 1923年12月2日[1][2] - 1977年9月16日[3])は、アメリカ出身のソプラノ歌手。[4]
マンハッタンのフラワー病院にて、マリア・アンナ・ソフィア・セシリア・カロゲロプーロス(Maria Anna Sofia Cecilia Kalogeropoulos)として生まれる。両親は彼女の生まれる4か月ほど前にギリシャのアテネからやってきたばかりであった。[5][6]父ジョージは薬剤師であった。[7]9歳の頃からピアノを学び始める。[8]1937年に母親とギリシャに渡り[9]、ギリシャ国立音楽学校の声楽教師のマリア・トリヴェラに声楽を学んだ[10][11]。1938年には音楽学校の学生コンサートに出演して初舞台を踏んでおり、その翌年にはアテネのオリンピア劇場に於けるピエトロ・マスカーニの《カヴァレリア・ルスティカーナ》の上演に参加している。[12]1939年までトリヴェラのレッスンを受けた後、アテネ音楽院の入学試験を受け、入学規定の年齢に達していないにも関わらず、エルビラ・デ・イダルゴに認められ、イダルゴの個人的な生徒として入学を許されて1945年まで薫陶を受けた。[13]1941年にフランツ・フォン・スッペの《ボッカチオ》に出演して以降、1945年のオイゲン・ダルベールの《低地地方》の上演までアテネ王立劇場にたびたび出演。[14]1945年には国際的な名声を求めてアメリカに渡り、[15]父と再会。ただ、アメリカではニコラ・モスコーナにアルトゥーロ・トスカニーニへの紹介を頼んだが断られ、ジョヴァンニ・マルティネッリに歌唱を聴いてもらったものの、さらなる訓練を重ねるよう助言を得るに留まった。また、メトロポリタン歌劇場との契約も不首尾に終わり、弁護士のエディ・バガロジー[16]が企画したユナイテッド・ステイツ・オペラ・カンパニーの企画に参加したが、企画が破綻した。[17]ただ、ニコラ・ロッシ=レメーニがイタリアのヴェローナ音楽祭の芸術監督であるジョヴァンニ・ゼナテッロを紹介したことで、イタリアでの活躍の道が開け、1947年にアメリカを離れ、ヴェローナ音楽祭でトゥリオ・セラフィンの指揮によりアミルカレ・ポンキエッリの《ジョコンダ》の表題役を歌って成功を収めた。以後、セラフィンを良き助言者とし、リヒャルト・ヴァーグナーの《トリスタンとイゾルデ》のイゾルデ役、《ヴァルキューレ》のブリュンヒルデ役、《パルシファル》のクンドリー役等にも挑戦したが、1950年にローマ・イタリア放送でヴィットリオ・グイの指揮で《パルシファル》を歌って以後はヴァーグナー作品はレパートリーから外している。[18]1949年にはペルージャでガブリエーレ・サンティーニの指揮でアレッサンドロ・ストラデッラの《サン・ジョヴァンニ・バッティスタ》[19]、フィレンツェでエーリヒ・クライバーの指揮でフランツ・ヨーゼフ・ハイドンの《オルフェオとエウリディーチェ》[20]、1952年にはミラノ・スカラ座でイオネル・ペルレアの指揮でヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの《後宮からの誘拐》[21]の上演にコンスタンツェ役で参加したが、これらの作品もレパートリーに加えることはなかった。またカール・マリア・フォン・ヴェーバーの《オベロン》やジャック・オッフェンバックの《ホフマン物語》など、[22]学生時代に部分的に取り上げていた作品も、国際的な名声を得てからはレパートリーに入れていない。一方で、ヴィンツェンツォ・ベッリーニ、ガエターノ・ドニゼッティ、ジュゼッペ・ヴェルディ等19世紀イタリアの作曲家のオペラを好み、特にベッリーニの《ノルマ》は学生時代から部分的に歌っていたが、1948年にフィレンツェのテアトロ・コムナーレでセラフィンの指揮下で歌って以降、自らの得意の演目とした。[23]1950年にはレナータ・テバルディの代役としてフランコ・カプアーナの指揮するヴェルディの《アイーダ》の上演[24]で表題役として登場してイタリアでの名声を確立。1955年には、スカラ座でルキノ・ヴィスコンティ[25]やフランコ・ゼッフィレッリ[26]等の知己を得て充実した活動を行った。しかし、シカゴでジャコモ・プッチーニの《蝶々夫人》のタイトルロールを歌った時、その楽屋にバガロジーの告訴状を持った執行官のスタンレー・ブリングルと補佐のダン・スミスが押しかけ、カラスの着ている舞台衣装に訴状をねじ込み、それに怒り狂うカラスの姿が写真にとられてしまった。その写真が世界中に公表されたことで、カラスのイメージは非常に悪くなった。[27]1956年にはドニゼッティの《ランメルムーアのルチア》のルチア役をテオドール・ケルナー大統領の臨席するウィーン国立歌劇場で歌っているが、この頃から喉の不調が次第に顕在化していった。[28]1957年のエディンバラ音楽祭でベッリーニの《夢遊病の女》のアミーナ役を喉の不調を抱えつつ歌ったが、当初の予定だった4回の公演こそこなしたものの、追加の5回目の公演はキャンセルしてイタリアに戻った。代役はレナータ・スコットが担ったが、イタリアに戻ったカラスがヴェネツィアの舞踏会に出席していたことが明らかになったことでバッシングを受けた。[29]また、この不調を理由にサンフランシスコでの公演を辞退したことで、当地の歌劇場の支配人であるカート・ハーバート・アードラーにアメリカ音楽芸術家組合に提訴されることとなった。[30]1958年1月2日のローマでのベッリーニの《ノルマ》の公演を、病身を押して出演したが、途中で降板。この公演にはジョヴァンニ・グロンキ大統領が夫人を連れて観に来ていたのだが、公演が途中で中止されたことでカラスへのバッシングは一層強いものとなった。[31]この年には、アメリカ音楽芸術家組合から警告の処分を受け、メトロポリタン歌劇場でのヴェルディの《椿姫》、ドニゼッティの《ランメルムーアのルチア》とプッチーニの《トスカ》の公演で歌い、成功を収めた[32]。しかし、その年のうちにメトロポリタン歌劇場を解雇され、1965年にプッチーニの《トスカ》の公演に出演するまでメトロポリタン歌劇場には出演していない。[33]また、この年の12月にはガラ・コンサートを開いてパリ・オペラ座に初登場。[34]私生活では、1947年に知り合った実業家のジョヴァンニ・バッティスタ・メネギーニと1949年に結婚[35]した。1959年4月21日にはメネギーニと10回目の結婚記念日を祝った。6月17日にコヴェント・ガーデン王立歌劇場でのケルビーニの《メデア》の上演の初日を終えた後、大富豪のアリストテレス・オナシスがドーチェスター・ホテルで催したパーティーでオナシスと知り合う。このパーティーはカラスをもてなすためのパーティーであり、カラスの帰り際にオナシスはカラス夫妻を「クリスティーナ号」のクルージングに招待した。このクルージングで贅を尽くした接待を受けたカラスは、すっかりオナシスに惚れこんでしまい、メネギーニとの関係を清算してしまった。[36][37]オナシスの愛人になってからは、オペラの舞台から次第に遠ざかるようになり、1965年7月15日[38]のコヴェント・ガーデン王立歌劇場でプッチーニの《トスカ》を歌ったのが最後のオペラ出演となった。1960年にオナシスも離婚したが、カラスとは結局結婚に至らず、1968年にオナシスはジャクリーン・ケネディ未亡人と結婚してしまい、カラスは自殺未遂を図っている。[39]尤も、オナシスとジャクリーンの結婚は幸福なものではなく、2年ほどでオナシスはカラスの許に戻ったが、オナシスとジャクリーンの離婚が成立する前にオナシスは病死してしまう。[40]カラスは、1969年にはピエル・パオロ・パゾリーニ監督の映画『メデア』に出演したものの、映画女優としての活動は本格化させることはなかった。[41]1971年から翌年まで、ジュリアード音楽院でマスター・クラスを開講。[42]1973年から1974年までジュゼッペ・ディ・ステファノとデュエットを組んでヨーロッパ各地とアメリカを日本の主要都市を巡って引退公演を行い、11月11日の札幌は北海道厚生年金会館で千秋楽を迎えた。[43]引退後はパリのジョルジュ・マンデル・アベニュー自宅アパートに引きこもり、トランプをしたりカウボーイ映画を見たりして過ごした。[44]
パリの自宅アパートの浴室で心臓発作[45]を起こして急逝。
脚注[編集]
- ↑ アーカイブ 2022年11月6日 - ウェイバックマシン
- ↑ ケスティングによれば「マリア・カラスは一九二三年一二月三日、エヴァンゲリア、ジョージ・カロイェロプーロス夫妻の第三子としてニューヨーク五番街の病院で生まれ、セシリア・ソフィア・アンナ・マリアと名付けられた。アリアンナ・スタシノプーロスは、カラスが毎年十二月二日に誕生日を祝ったと伝えている。彼女が生まれたとき病院に居合わせたランツォニウス医師が、この日付を保証したというのである。一方、母親は十二月四日が本当の誕生日だと主張し、学校では十二月三日がその日だとされた」という。(ケスティング, ユルゲン『マリア・カラス』鳴海史生訳、アルファベータ、2003年、89頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784871984645。)
- ↑ アーカイブ 2021年10月18日 - ウェイバックマシン
- ↑ アーカイブ 2021年12月6日 - ウェイバックマシン
- ↑ アーカイブ 2022年11月6日 - ウェイバックマシン
- ↑ 佐々木, モトアキ (2019年10月20日). “マリア・カラス少女時代〜愛情の薄かった母親との確執、みにくいアヒルの子をプリマドンナへと変身させた恩師との出会い”. TAP the POP. オリジナルの2022年11月18日時点におけるアーカイブ。 2022年11月18日閲覧。
- ↑ アーカイブ 2022年11月6日 - ウェイバックマシン
- ↑ Abitbol, Jean Patricia Crossley訳 (2006) (英語). Odyssey of the Voice. Plural Publishing. p. 388. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9781597560290
- ↑ 姉のヤキンティ(ジャッキー)は1936年に先に帰国していた。(アーカイブ 2021年10月28日 - ウェイバックマシン)
- ↑ トリヴェラの知己を得られるように取り計らったのは、親戚のエフティミオスだった。(アーカイブ 2022年11月6日 - ウェイバックマシン)
- ↑ 国立音楽学校入学に際しては、入学規定の年齢に達していなかったが、母親とトリヴェラの手で16歳に書き換えられたという。(アーカイブ 2022年11月6日 - ウェイバックマシン)
- ↑ ケスティング 2003, p. 370
- ↑ ケスティング 2003, pp. 91-96
- ↑ この間に1943年にマリノス・カロミリスの《親方大工》の上演に参加し、翌年にアテネのヘロデス・アッティクス劇場の同作品の再演にも参加しているが、以降、同時代の作曲家のオペラ上演には参加していない。(ケスティング 2003, pp. 370-371)
- ↑ アーカイブ 2021年10月19日 - ウェイバックマシン
- ↑ バガロジーは、自分が10年間マネージメントをする代わりに、その間、出演料の1割を支払うという契約をカラスに結ばせた。この契約不履行を巡って後にバガロジーは訴訟を起こしている。(アーカイブ 2021年3月3日 - ウェイバックマシン)
- ↑ ケスティング 2003, pp. 99-100
- ↑ ケスティング 2003, pp. 371-372
- ↑ ケスティング 2003, p. 372
- ↑ ケスティング 2003, p. 374
- ↑ ケスティング 2003, p. 375
- ↑ ケスティング 2003, p. 370
- ↑ 1950年のメキシコ・シティのパラシオ・デ・ラス・ベラス・アルテス、1952年のロンドンのコヴェント・ガーデン王立歌劇場への初登場、アメリカでの初めての舞台登場となった1954年のシカゴ・リリック・オペラ、1956年にニューヨークのメトロポリタン歌劇場に初登板したときもノルマ役で登場している。(ケスティング 2003, pp. 373-377)
- ↑ ケスティング 2003, p. 373
- ↑ このスポンティーニ作品の公演で、演出を担当したルキノ・ヴィスコンティに演技指導を受け、カラスは演技にも開眼した。(“ルキノ・ヴィスコンティ、オペラの血筋”. 2021年4月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月18日閲覧。)
- ↑ アーカイブ 2021年2月12日 - ウェイバックマシン
- ↑ ケスティング 2003, pp. 169-170
- ↑ ケスティング 2003, pp. 174-175
- ↑ ケスティング 2003, pp. 194-195
- ↑ ケスティング 2003, pp. 195-196
- ↑ ケスティング 2003, pp. 196-197
- ↑ ケスティング 2003, pp. 202-203
- ↑ アーカイブ 2020年7月21日 - ウェイバックマシン
- ↑ アーカイブ 2021年4月16日 - ウェイバックマシン
- ↑ 佐々木, モトアキ (2017年10月28日). “マリア・カラス27歳〜白髪の実業家との結婚、過食症の克服、そしてスカラ座デビューから黄金期の幕開け”. TAP the POP. オリジナルの2022年11月18日時点におけるアーカイブ。 2022年11月18日閲覧。
- ↑ ケスティング 2003, pp. 225-229
- ↑ アーカイブ 2022年2月19日 - ウェイバックマシン
- ↑ ケスティング 2003, p. 383
- ↑ “歌と恋に生きた偉大なオペラ歌手マリア・カラスの真実に迫る!|エンビー(envy)”. 2022年11月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年11月19日閲覧。
- ↑ 仁科, 友里 (2017年10月28日). “マリア・カラスの名言「女性の使命は、愛する男性を幸せにすること」”. マイナビ・ニュース. オリジナルの2022年11月18日時点におけるアーカイブ。 2022年11月18日閲覧。
- ↑ アーカイブ 2021年10月19日 - ウェイバックマシン
- ↑ “Maria Callas at Juilliard”. 2022年11月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年11月19日閲覧。
- ↑ 佐々木, モトアキ (2020年9月16日). “マリア・カラスを偲んで②〜映画出演、人生最後の恋、ラストステージ…そしてパリでの寂しい晩年”. TAP the POP. オリジナルの2022年4月17日時点におけるアーカイブ。 2022年4月17日閲覧。
- ↑ アーカイブ 2022年11月18日 - ウェイバックマシン
- ↑ 佐々木, モトアキ (2020年9月16日). “マリア・カラスを偲んで①〜過食症、年の差婚、大富豪との恋、自殺未遂…波瀾万丈の歌人生〜”. TAP the POP. オリジナルの2022年4月17日時点におけるアーカイブ。 2022年4月17日閲覧。
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