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エーリヒ・クライバー

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エーリヒ・クライバー(Erich Kleiber, 1890年8月5日[1] - 1956年1月27日[2])は、オーストリア指揮者[3]本名はエーリヒ・フランツ・オットー・クライバー(Erich Franz Otto Kleiber)。[4]

ウィーン出身。[5][6]は、クライバーが5歳の時に心臓疾患で亡くなった。[7]父の死から一年しないうちに母も亡くなり、[8]母方の祖父[9]に引き取られた[10]が、祖父ヨハネスも程なくして亡くなり、[11]親戚を頼ってウィーンに戻ることとなった。1900年から1908年までワサ・ギムナジウムに通い、[12]その後、プラハ大学に進学して哲学、史学や美術史を学んだ。[4]1909年からプラハ音楽院でヴァイオリンのほかティンパニ、作曲や指揮などを学び、[13][14]ヴィーチェスラフ・ノヴァークの薫陶を受けた。[15][16]1911年には書き上げた交響詩でデューラー協会賞を獲得した。[13]1911年からプラハ・ドイツ歌劇場の練習指揮者としてキャリアを始め、[17]1912年から1918年まで[1]ダルムシュタット宮廷劇場の第三指揮者、[18]1919年から[19]1921年まで[1]バルメン・エルバーフェルト市立劇場の第一指揮者、1921年から[20]翌年まで[21]デュッセルドルフ市立劇場の第一指揮者、1922年からマンハイム国立歌劇場の第一指揮者のそれぞれのポストを渡り歩き、[22]1923年[23]からベルリン国立歌劇場の音楽総監督に転出。1924年にはソポトの円形劇場に客演。[24]1925年にはベルリン国立歌劇場でアルバン・ベルクの《ヴォツェック》の初演を指揮。[25]1926年に[26]ブエノスアイレスを訪問した[27]際、アメリカ大使館職員であるルース・グッドリッチと知り合って結婚。[28][29]1927年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に初めて客演。[30]1930年[31]にはダリウス・ミヨーの《クリストフ・コロンブ》を初演している。[32]1933年から1938までアムステルダムに客演。[33]1934年には台頭してきたナチスの文化政策に抵抗してベルリン国立歌劇場の職を辞し、[34][35][36][37]ドイツを出国。[38][39]その後、ヨーロッパ各地からの客演依頼をこなし、[40][41][42]1937年から1949年までアルゼンチンのコロン劇場の指揮者として活躍。[1][43]1938年にナチスのオーストリア併合でオーストリア国籍を失ったのを機にアルゼンチン国籍を取得。[4][44]1943年から[45]1947年まで[46]キューバのハバナ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者も兼ね、南アメリカの主要なオーケストラに客演を繰り返した。[4]1948年にロンドン・フィルハーモニー管弦楽団に客演[47]してからヨーロッパ楽壇に再び登場するようになった。[38]1950年から1953年まで[1][48]コヴェントガーデン王立歌劇場に客演。1951年に古巣のベルリン国立歌劇場[49]に客演[50]して以降、同歌劇場への復帰を打診され、1954年[51]にそれをいったん受け入れたが、[52]ていたが、1955年には縁を切った。[53][54]ウィーン国立歌劇場との交渉も不調に終わっている。[55][56]

滞在先のチューリヒのホテル[57]で心臓発作を起こして急逝。[58][59]

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 ウォラック, ジョン、ウェスト, ユアン『オックスフォード オペラ大事典』大崎滋生、西原稔訳、平凡社、1996年(原著1992年)、200頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784582125214
  2. 平林, 直哉「Kleiber クライバー,エーリヒ」『指揮者のすべて』音楽之友社、1996年、76頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784276960220
  3. エーリヒ・クライバー - Discogs
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 Object Metadata @ LexM”. 2023年9月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月17日閲覧。
  5. 「一八八九年八月、博士夫妻に初めての子エリーザベトが生まれ、一年後にはケッテンブリュッケンガッセの、シューベルトが亡くなった家のすぐ真向かいでエーリヒ・クライバーが生まれた。」(ラッセル, ジョン『エーリヒ・クライバー 信念の指揮者 その生涯』クラシックジャーナル編集部、北村みちよ、加藤晶訳、アルファベータ、2013年(原著1957年)、23頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784871985796)
  6. 「フランツ・オットー・クライバーは生粋の知識人であり、ギリシャ語、ラテン語、ドイツ語の正式な免許を持つ教師だった。」(ラッセル 2013, p. 21)「プラハのヴェンド系カトリック神学校で暮らしていた二十一歳の頃には、父も母も亡くなっていた。彼は十四歳の頃にザクセンからプラハに移り住んできていた―ひとつには最善の教育を受けるためで(父親は教師をしていたので、その辺りの事情には詳しかった)、もうひとつにはローマ・カトリック教会の司祭になるつもりでいたからだ。後になって、司祭になる適性がないと気づくと、父親と同じ職業に就くことにに決め、ギリシャ語やラテン語を教えて生計を立て、哲学の博士号を取り、フュルステンベルク侯カール・エーミールの家庭教師を数年間務めた。またピアノを教えて収入のたしにし、ヴローニ・シェプル[ヴローニはヴェロニカの愛称]に出会った時は概ね恥ずかしくない程度には暮らしていたので、彼女と結婚しようと決心した。一八八八年八月十四日、プラハの聖ニコラス教会で二人は結婚した。」(ラッセル 2013, pp. 21-22)
  7. 父親は1895年10月5日に没し、ウィーンの中央墓地に葬られた。Barber, Charles (2013). Corresponding with Carlos. Rowman & Littlefield Publishers. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9781442231177 
  8. 母の旧姓はシェプル(Schöppl)。1896年9月頃に胸膜炎に罹患して亡くなっている。(Barber 2013, p. 8)
  9. 祖父ヨハネス・シェルプは「プラハでは宮廷御用達の馬車製造業者として著名で、人気者だった。」(ラッセル 2013, p. 22)
  10. 祖父から一方で馬車による取引を学んだが、他方で祖父の得意とするバグパイプの様な民族楽器ドゥダク(dudak)に親しんだ。(Barber 2013, p. 8)
  11. 「エーリヒが初めてプラハに移り住んでからほぼ一年後、祖父ヨハネス・シェプルが他界した。」(ラッセル 2013, p. 22)
  12. 後に作曲家となるハンス・ガルと同窓として親交を結び、フランツ・レハールの《メリー・ヴィドウ》を鑑賞したり、グスタフ・マーラーの謦咳に接したりした。(Barber 2013, pp. 8-9)
  13. 13.0 13.1 Barber 2013, p. 9
  14. 「クライバーは音楽院生活を楽しんだが、数カ月もたたないうちに実際には何の成果も得られていないことに気づき始めた。たとえば指揮の講義は―どんなミスをしてもクラス全体の笑いものにされるリズム演習は―なかなか面白かったが、なぜかまとまりがなく思えた。どうしても目に見えて向上している気がしなかったのだ。彼はカリキュラムの諸分野を飛び回るようになった。『オルガンをやめて、ティンパニをはじめた』と一九〇九年十月付けの手紙には書かれている。『ティンパニほどリズムについて多くを教えてくれるものはない。院長は『学びたくないものはないのか?』と訊いてきた。なんてばかげた質問なんだ!』。この頃になると学生オーケストラに入団し、シュトラウスの《ドン・ファン》でピアノを演奏していた。その際に指揮していた院長が自分にしたら速すぎるテンポを取ったことでエーリヒを叱責した。『ばかげていますよ』。楽壇の後方で小柄な男は言った。『シュトラウスが作った音楽を演奏しているのはこの僕です。あなたじゃない。』かくして、彼のティンパニ奏者時代も終わりを告げた。」(ラッセル 2013, p. 39)
  15. アーカイブ 2023年9月16日 - ウェイバックマシン
  16. 「ノヴァークからマスタークラスの講義を受けたおかげで、クライバーはこの作曲家への敬意と、彼の作品に対する理解を養い、二人は終生にわたって親交を持つことになった。」(ラッセル 2013, p. 46)
  17. プラハ・ドイツ劇場のクラリネット奏者のアルフレート・イラチェクと知り合い、1910年頃にイラチェクの伝手でプラハ・ドイツ劇場のリハーサルを見学。また、同劇場のリハーサルに忍び込んだが、アンジェロ・ノイマンに見つかり、無給ボランティアとしてそこで働くこととなった。舞台裏の仕事から、次第に合唱のリハーサルや脇役の指導、歌手のピアノ伴奏までをこなした。(ラッセル 2013, p. 41-43)
  18. ダルムシュタット宮廷劇場の監督であるパウル・エーガーから「いいかい、そこにはすでに優秀な第一指揮者がいるし、第二指揮者はオッテンハイマーにやってもらうつもりだ。きみは二人がやりたがらないものにしかありつけないだろう。でも我々がそこで偉業をなし遂げられると信じているし、君に加わってもらえないかと思っている」といわれ、三年間の契約を結んだ(ラッセル 2013, p. 46)
  19. 「一九一九年五月一日付けで、バルメン・エルバーフェルト[現在のヴッパータール]の市立劇場の第一指揮者に任命されていた」。(ラッセル 2013, p. 68)
  20. 「一九二一年七月一日から、彼はデュッセルドルフの第一指揮者になった―『試用期間さえなくだ』と家族にあてて書いた」。また、「最初のコンサートでは、シェーンベルクの室内交響楽に挑んで激しく攻め」、「デュッセルドルフの冬の演目には、《月に憑かれたピエロ》、ヒンデミット自らの指揮によるヒンデミット演奏会、また地元の作曲家を扱った演奏会もあった。」ただ、クライバー自身が「ここには現代音楽を支持する新聞はない」と言うように、当地の批評家たちとトラブルを起こすようになった。さらに「五区のヨーゼフ教会まで行って、私がキリスト教徒だと確かめてもらえないかい?実はエルバーフェルトでもユダヤ人だと間違えられたのだ」という問題も抱えていた。(ラッセル 2013, p. 71)
  21. 「デュッセルドルフから解放される時がほどなくやって来た。一九二二年五月に彼はこう書いた。『知っているかな?―今度の秋からマンハイムで第一指揮者と、アカデミー演奏会の指揮者を務めるよう、任命されたのだ。この嬉しい報せがひとつだけ残念なのは、またもや引っ越して新しい部屋を見つけるという、実にいやな仕事を伴うことだ』。」(ラッセル 2013, pp. 71-72)
  22. 1923年にはマンハイムでユリウス・ビットナーの《小さなバラ園》の初演を指揮。(Gherardo Casaglia - Almanacco”. 2023年10月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月8日閲覧。)
  23. 「八月は通常、大都市の歌劇場においては重要な付きではない。だから一九二三年八月二十三日にクライバーが《フィデリオ》でこの歌劇場に客演できたのは、日の出の勢いの若手指揮者に対する束の間の礼儀に過ぎなかったのかもしれない。失敗したら彼は謝礼を受け取っただけでマンハイムに戻っただろう。」(ラッセル 2013, p. 73)「早急な決定と即座の行動を好むクライバーさえ、初出演でこれほど素早く成果が得られるとは思っていなかった。三日以内に五年間の契約でベルリン・シュターツオーパーの音楽総監督に任命されたとの公式発表があったのだ。」(ラッセル 2013, pp. 74-75)
  24. ラッセル 2013, pp. 95-96
  25. クライバーが就任した頃の総監督はマックス・フォン・シリングスだった。(ラッセル 2013, p. 73)シリングスはベルリン国立歌劇場を管轄する役所と折り合いが悪くなっており、「シリングスは当局に呼び出されたが、そんな叱責を受ける覚えはないと思い、出頭を拒み、十一月二十六日にシュターツオーパーとの関係を断った」。(ラッセル 2013, p. 110)「クライバーがシリングスのあとを追って退任するのを見たがるベルリン人も大勢いたようだ」が、「一九二五年十二月十四日の《ヴォツェック》の上演」で「次の月曜の公演が終われば、批評家が何を言おうが言うまいが、わがシュターツオーパーの名は、ベルクの《ヴォツェック》の初演のお蔭で、末永く音楽史において名誉な地位を占めることだろう」と記者に書かれるほどの成功を収めた。(ラッセル 2013, pp. 112-113)なお、「当時について書かれたお堅い記録には、『百三十七回の通し稽古』があった』と触れられている。ところが初演に出演した人々の記憶では、驚異的に難しい作品だったにしては、オーケストラ・リハーサルは三十四回しかなかったそうだ。しかもクライバー自身の反論によれば、《ヴォツェック》が一九二六年に再演された時はたった一度の通し稽古で済ませたという」。(ラッセル 2013, p. 112)
  26. 「一九二六年八月四日、クライバーはジェノヴァからイタリアの定期船ジュリオ・チェーザレに乗って出航し、同月二十日にはブエノスアイレスでコロン管弦楽団との初めてのリハーサルに臨んだ。」(ラッセル 2013, p. 122)
  27. 「クライバーの南米滞在中の最期の数週間は、ほぼ歓喜の連続で過ぎ去った。彼のために開かれた晩餐会では、彼が南米に紹介した作品に因んで名づけられた料理が並んだ。最後の練習日に劇場を去る際には、オーケストラの全員が喝采を送るために集まっていた。」(ラッセル 2013, p. 128)
  28. (ラッセル 2013, pp. 128-136)
  29. 一男一女を儲け、長男カールは後に指揮者となった。(Hein, Hartmut; Caskel, Julian (2015). Handbuch Dirigenten. J.B.Metzler. p. 233. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9783476023926 )
  30. 「一九二七年十二月にクライバーはとうとうウィーンでウィーンフィルハーモニーを指揮する喜びを味わった」。(ラッセル 2013, pp. 128-136)
  31. 「一九三〇年と翌年に、クライバーは六から七週間ニューヨークを訪れ、二十回から三十回の演奏会を開いた。一九三九年から四五年の戦争が終わった後も、彼は再三アメリカ合衆国に招かれ、オーケストラに関してはいつもながらの成功を収めた。」「もっとも、事実を隠しても仕方がないが、彼は概してアメリカ合衆国で指揮するのを嫌がっていた。この国の音楽界は彼の流儀に反して、産業的ななところがあると思ったのだ。 (アメリカの演奏会システムは、何人もの優れたヨーロッパの指揮者の体を砕いた車輪だ)。」(ラッセル 2013, p. 162)
  32. 「一九三〇年五月五日に初演された《クリストフ・コロンブ》は、当然その夏のベルリン芸術週間の呼び物のひとつとなった。」(ラッセル 2013, p. 161)
  33. 「33~38、49~50年アムステルダムで活躍。」(ウォラック & ウェスト 1996, p. 200)
  34. アーカイブ 2023年9月22日 - ウェイバックマシン
  35. 「一九三四年十一月三十日に公演されたベルクの《ルル》からの『五つの交響的小品』は、自由に物を言える独立心と好奇心にあふれた一九二〇年代のベルリンへの最後の挨拶のようなものとなり、何かしらデモが誘発されるのではないかと予想されたことだろう。だが『プラハ日報』紙は二日後に報じた。『その作品は大きな、(現在のベルリンでは非常に尊いものである)誰もが認める成功を収めた。唯一聞こえた耳障りな音は、聴衆のひとりの発した『ハイル・モーツァルト!』という叫び声だった。結局は惨事につながらなかった』。記事は昔を振り返り、一九二五年に《ヴォツェック》の初演が『驚くべき劇場スキャンダル』を引き起こしていたが、一方でベルクは世間に認められていたとも書いた。ベルリンの新聞各紙の中でも特に『アングリフ』紙[ゲッベルスが創刊した新聞、『攻撃』という意味]は、義務を果たせねばと感じ、その音楽はヴェーデキントの戯曲にふさわしく、恥の上塗りに過ぎず、一九三〇年代のドイツの聴衆にはあまり興味をそそられなかったと報じた。その場に居合わせた一般の聴衆の話によると、チケットは公演のしばらく前に売り切れ、最後の拍手喝采には深い特別な感情がこもっていたという。/その四日後にクライバーは辞任した。『ハイル、モーツァルト!』と叫んだ示威運動者にこう叫び返している。『あなたは間違っている。その音楽を作ったのはアルバン・ベルクだ』。そしてナチスには音楽は日の光や新鮮な空気と同じように万人のためのものでなければならないと言った。」(ラッセル 2013, pp. 175-176)
  36. 「クライバーのシュターツオーパーでの最後の二回の公演は、一九三五年一月一日と三日の《タンホイザー》だった。どちらも一般観客には閉ざされて、入場を許されたのは、党の高官たちとそのゲストだけに限られていた―男性だけだった。劇場自体は二十四時間以上前から厳重に警備され、商用で入場する必要がある人全員に特別許可証が発行された。クライバーはこうした特別な公演には興味がなかったが、姿を現さなければ自分ばかりか家族にも制裁が加えられるだろうと分かっていた。」(ラッセル 2013, p. 177)
  37. ベルリン国立歌劇場のポストを辞した後、ナチスの高官であるヘルマン・ゲーリングから「思い通りの条件でもいいし、世界中のどこの口座にでもスイス・フランで給料を払う」と、辞意の考え直しを促されたが、クライバーはこれを断っている。それでも食い下がるゲーリングに「最初の演奏会で、メンデルスゾーンをやらせてくれるという条件」を提示してゲーリングを黙らせた。(ラッセル 2013, pp. 177-178)
  38. 38.0 38.1 大クライバーのコンサート指揮者としての録音を集成!『エーリヒ・クライバー・コレクション』(34枚組) - TOWER RECORDS ONLINE”. 2023年9月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月23日閲覧。
  39. 「クライバーの放浪生活は1935年一月に始まり、二、三週間くらいの休息はあったが、死去するその日まで続いた。」(ラッセル 2013, pp. 189)
  40. 「一方で一九三五年のクライバーのポジションには表立って不都合なことはほとんどなかった。招聘はあらゆるところから舞い込んできた。新しい関係が結ばれ、古い関係は結び直された。特にプラハではパウル・エーガーがプラハ新ドイツ劇場の長となっていた。またブリュッセルでは新たに手に入れた自由時間を利用してマルシック、ヘンス、ルクー、その他地元の作曲家たちの作品を演奏した。そして一九三五年十月にはクイーンズ・ホールでロンドンへデビューした。」(ラッセル 2013, pp. 189)「一九三八年三月にスイス・ロマンド管弦楽団を指揮し、熱狂的な批評は彼の十歳の娘にまでおよび、彼女の拍手の仕方や『ゲインズボローの絵のような美しい外見』が詳細に書かれた。」「しかし、この時期のクライバーの活動に於いて間違いなく重要な一歩は、一九三八年夏の初めころに、初めてコヴェントガーデンを訪れたことであった。」(ラッセル 2013, p. 196)他方で「アムステルダムでのワーグナーの仕事は、ワーグナー協会の要請によりキャンセルされた。『国家社会主義の敵と公言した者』はその音楽を演奏するのにふさわしくないという理由だった。そして一九三八年十二月には、一人のユダヤ人も出演できないと聞いて、《フィデリオ》をスカラ座で指揮する仕事から手を引いた。」(ラッセル 2013, p. 198)
  41. ヴェルナーによれば「ウィーンは彼をつなぎ留めるための手立てを何もしなかった。ウィーン国立歌劇場の楽員たちは、一九三五年のザルツブルク音楽祭の際に、エーリヒに彼らのルサンチマンを吐き出した。一九三八年の初めに行われたナチスによるオーストリアの『併合』を契機に、彼らは、彼とずっと一緒に仕事をしたかったけれども、そうもゆかなくなったと、契約の打ち切りを通告した」。また、クライバーは自分自身に関するあらゆる中傷に断固たる姿勢を取るべく、1936年9月にオーストリア首相のクルト・フォン・シューシュニクの所に行って事の次第を話し、クライバー本人によればシューシュニクは顔を真っ赤にして「うーん、それはひどい、まったくひどい」と言ったという。(ヴェルナー, アレクサンダー『カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記 上』喜多尾道冬、広瀬大介訳、音楽之友社、2009年(原著2008年)、31頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784276217942)ラッセルに従ってクライバー曰く「私は世界中のあらゆるところから魅力的な申し出を受けた。ウィーンを除いては」。(ラッセル 2013, p. 196)「クライバーは一九三六年のザルツブルク音楽祭に招かれもせず、ウィーンからの仮の申し出も形にならなかった。」(ラッセル 2013, p. 196)
  42. 「エーリヒは一九三六年に、プラハとブリュッセルで大成功を収めた。同じ年にスカラ座で初めての演奏会を催し、ブエノスアイレスでの契約を増やした。」((ヴェルナー 2009, p. 30))
  43. 「クライバーはサンティアゴのオーケストラに対して深い親愛の念を持ち続けていたが(そして実際、彼らがお金を出し合って彼に送ったポンチョに身を包まれて埋葬された)、常任契約のポストという彼の夢に最も近いところまでいったのは、ブエノスアイレスのコロン劇場だった。」(ラッセル 2013, p. 232)
  44. 「オーストリアのパスポートを大ドイツ国のそれに取り換えるより、彼はオーストリア国籍を放棄し、アルベアール元大統領の助けを借りてアルゼンチン市民になることを選んだ。」(ラッセル 2013, p. 198)
  45. 「一九四三年、彼はハバナでもっと純粋な歓迎を受けた。ハバナ・フィルハーモニー管弦楽団との初の演奏会は三月二十五日に行われ、プログラムにはミッシャ・エルマンの演奏によるチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、モーツァルトの交響曲が一曲、《オイリアンテ》序曲、組曲《火の鳥》が含まれていた。」(ラッセル 2013, p. 235)
  46. 「一九四七年三月、オーケストラの慈善演奏会の最後に《美しき青きドナウ》を演奏するように頼まれた。彼はそれを断ったが、その理由は自分の計画したプログラムに合わないと考えたからだった。論点は当然ながらもっと大きなものだった―後援会が指揮者を下僕のように扱う権利があるのかどうかである。この点においてクライバーは自律性をを保ったことにより多くの敵を作った。《美しき青きドナウ》は演奏されず、クライバーは退任を宣言し、オーケストラにこのようなメッセージを送った。『芸術家の仲間としてあなた方に言っておくが、芸術家と雇われたイエスマンの区別がつかない人間は世界中にいるのだ……。ベルリン・シュターツオーパーの音楽総監督として、私はヒトラーと彼の全国文化院と対峙しなければならなかったが、彼らはプログラムやソリストに関して非常に先生的に命令する権利を持っていた。私は辞めるほうを選んだ。ここでしたのと同じように。』」(ラッセル 2013, p. 243)
  47. 「クライバーは一九四八年二月、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団(LPO)の演奏会を一週間か二週間に渡って引き受けた。」(ラッセル 2013, p. 244)
  48. 「一九五〇年十一月に到着すると、彼はコヴェントガーデンの様子が、以前に訪れた一九三八年からずいぶん変わっているのに気が付いた。ひとつには、オペラが一年中上演されていた。一九三〇年代の民間の寄付金は実質的には控え目な政府補助金に取って代わられていた。全てのオペラは基本的に英語で上演され、客演歌手が主要な役を演じることはよくあったが、基本的には専属歌手によるレパートリー・シアターとなっていた。それ以前の四年間の公演の大部分は(コヴェントガーデンのオペラ・カンパニーは、一九四六年から始まった)、音楽監督のカール・ランクル博士が指揮していた。ランクルは知られざる名作を数多く上演していた。ランクルが去った時には、レパートリーの幅は以前より確実に広がり、歌手の選択肢はだいたいにおいて改善されていた。」(ラッセル 2013, p. 245)「彼はそこにやって来て、オーケストラと歌手に彼特有の軌跡を起こし、もう二回訪問し、音楽監督への就任をを内々に打診され、そして最終的には経営側との解決できない食い違いを経て、そこから去り二度と戻らなかった。一九五三年のエリザベス二世戴冠シーズン後に、彼が再びこの劇場に関与することの妨げとなった表面的な問題は金銭だったが、実際金銭面で双方の意見が折り合うことはなかった。クライバーは、税引き後の報酬は自分自身と家族を以前と同じように養うのに十分な額ではないという見解だった。経営側は、彼は既にこれまでの誰よりもずっと多くの報酬を得ていて、これ以上は無理だという見解だった。しかし私自身はお金が本当の生涯だったという気がしない。彼はコヴェントガーデンでは、ベルリン・シュターツオーパーやコロン劇場で感じた何かを感じなかったのではないだろうか―それは『何を犠牲にしても』芸術を最優先するという決意、そして駆け引きのない友情や社会的地位やある種の安心感などであった。クライバーは生まれながらの完全主義者であり、イギリス人の舞台のように妥協が当たり前で、ぞっとするような優しさが、まっすぐで恐れを知らないはずのものまで全て弱らせてしまうような世界では、決してやっていけなかったであろう。」(ラッセル 2013, p. 246)
  49. 「劇場そのものは一九四五年二月三日に破壊されていた。その五日後、シュターツオーパーの公演はフリードリヒ通り駅近くのアドミラルパラストにおいてグルックの《オルフェオ》で再開し、間もなく他のドイツの歌劇場とほぼ同様のレパートリーを再構築した。」(ラッセル 2013, p. 253)
  50. 「一九四九年一月、プラハにいたクライバーは、ベルリン経由でコペンハーゲンに行こうとしていた。しかしビザが取れないことが分かったので、結局一九五一年六月まで、ベルリンを訪れることはなく、その時はアドミラルパラストで《ばらの騎士》を指揮し、シュターツカペレとの演奏会ではリヒャルト・シュトラウスの『四つの最後の歌』をベルリンに紹介したのだった。/クライバーの《ばらの騎士》の初日は、当然ながらこれを利用しようとした東ドイツ政府のみならず、ベルリン市民にとっても歴史に残る出来事となった。たとえばフルトヴェングラーが一階席の前方に現れて座ると、拍手が起こった。当のクライバーに対しては、喝采があまりに大きかったため、演奏に取り掛かるまでに数分かかった。」(ラッセル 2013, p. 254)
  51. 1954年頃から心臓の不調を訴えるようになった。(Citizen of the Staatsoper: Erich Kleiber's Musical Migration | Central European History | Cambridge Core”. 2023年9月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月23日閲覧。)
  52. Sanders, Alan (2021年3月25日). “ERICH KLEIBER”. Eloquence. オリジナルの2023年10月9日時点におけるアーカイブ。. http://archive.is/Dc0yY 2023年10月9日閲覧。 
  53. 「クライバーは一九五五年三月十六日にベルリン・シュターツオーパーを辞任した。」(ラッセル 2013, p. 269)
  54. 1953年頃からケルンの西ドイツ放送局のオーケストラに客演していた。「一九五五年三月のケルンでは、もっとつらい、やらねばならない仕事があった。ベルリンとの決別の時がやって来ていたのだ。このような事態に至った要因はさまざまあった。大枠ににおいてはクライバーはシュターツオーパーを政治的介入からほぼ自由にしていたが、彼が監督することが不可能な事務関係の司祭があり、これらに関しては政権が今までにも増して厳しく監視していた。可能な時には彼は固辞した。たとえばシュターツオーパーのオープニング式典においてはどんなにばかげたことも許さなかった。彼は友人に話した。『当日、私は《フィデリオ》を指揮する。するべきことはそれだけだ。もし彼らが何かしらの儀式をしたいのであれば、前日か翌日にやればいい。私は家で寝ているから』。しかしこのような態度適用できないこともあった。それが何だったかというのは難しい、というのもクライバーはとにかく政治に疎かったからである。たとえば私が読んだ何百通という彼の手紙の中には国内政治に関する深刻な言及はまったくなかったし、両親に関わる場合には辞任して二度とそこのことについて触れないというのが彼のやり方だった。多くの人はもちろん彼がベルリンを去る口実は口実に過ぎないと考えていた。誰も『碑文』のことなどそこまで気にしていられないだろう、と彼らは考えた。きっとそこには何かもっと別のことがあるはずだと彼らは言った。/当然、あった。しかし碑文は明らかにクライバーにとって、他の何よりも大きな意味を持っていたのだ。彼の側が果たすべき約束は手紙では明確にされていなかったが、相手側が最初に碑文に金箔を施し、そしてそれを剥がしてしまったので、それは彼にとっては精神疾患の証拠と思われた。もともとの「FREDERICUS REX APOLLINI ET MUSIS〈フリードリヒ大王からアポロンとムーサの女神たちに〉はまだ読めたが、新しい『ドイツ・シュターツオーパー』の下に大きな影が出来てしまった。元通りにするには緊迫しが仕事をし、上層部がほんの少しの善意を見せるだけでよかった。だがこれは実現しないようだった。」(ラッセル 2013, p. 271)この碑文の問題を受けて、クライバーは歌劇場の総監督のマックス・ブルクハルトに「一九五五年三月十六日、ケルン/近頃再建された歴史的建造物にとって、『Fredericus Rex Apolini et Musis』という碑文を取り去られたことは大変不名誉なことです。たった二、三カ月前に金箔されたばかりの二百歳の碑文が非難されるのであれば、なぜ何年も前にされていなかったのか―それこそ、私の条件が受け入れられ、一七四三年に老フリッツが彼の建築家クノーベルスドルフの手によってドイツ国家にもたらした歌劇場と、全く同様に再建されることが同意された時に。/この事件は―他にもここ数カ月間にあった悪名高い出来事に続いて起こったわけだが―私にとっては一九三四年の時と同様、政治とプロパガンダがこの聖堂に足を踏み入れたということの、悲しいけれども確かな兆しです。したがって遅かれ早かれ、私は二十年以上の長きにわたって思い漕がれてきた劇場に、二度目の別れを告げなければなりません。碑文が『二十四時間以内に』鉄橋されなければならない鉄橋されなければならないという野蛮な命令を下した『視点』は、これまで外部の圧力に全く影響を受けていなかった私の指揮下にある範囲にもおそらく躊躇うことなく入り込み、私の芸術活動を混乱に陥れることでしょう。/したがってシュターツオーパーとの関係を諦めるという私の決断は、無条件のものです。しかし大変重苦しい気持ちでそれに至ったのです!私はシュターツオーパーに対して忠実であり続けたかったのですが、昔の劇場の精神は新しい建物に君臨することはできないということを見もめざるを得なかったのです。」という手紙を送付した。(ラッセル 2013, p. 272)
  55. ウィーン国立歌劇場からも要職の打診を受けたが、長時間のリハーサルを要求したことで沙汰止みとなった。(Hein & Caskel 2015, p. 233)
  56. 「ウィーンの裏切り(他のどんな言葉も当てはまらない)に関しては長い経験があるクライバーが用心をしていたのも不思議はない。彼は特に配役、リハーサル時間、オーケストラの人員については譲らなかった―これらはすべてインテンダンとがが決定権を持ちたがったものである。したがって、彼とウィーン国立歌劇場の交渉は、一方が『不当な要求だ』とつぶやき、他方が『典型的なウィーン流の混乱だ!』とつぶやいて終わるのが普通だった。『こんなに美しい街なのに!』と彼は言ったものだ。」(ラッセル 2013, p. 278)1951年3月、アン・デア・ウィーン劇場に於けるリヒャルト・シュトラウスの《薔薇の騎士》の上演を指揮し、批評家に「クライバーはオーケストラに魔法をかけて不滅の空気を生み出したので、最期の一小節が鳴った時観客は自分自身に『Ist ein Traum, Kann nicht eirklich sein…!〈これは夢、本当ではありえない……!〉』と言ったほどだ」と書かれるほどの成功をおさめたが、「彼は二度と起用されることはなかった。彼に戻ってきてほしくない人が沢山いたのだと言わざるを得ない。その多くの人とはエージェント、後援者、彼がいない方が人生が楽しくなる役人たち、そして彼が来たなら終わらせていたであろうさまざまな、しがらみである。したがって、クライバーは再び放浪生活に戻るしかなかった。まずフィレンツェへ行き、五月音楽祭で見事な《シチリア島の夕べの祈り》が上演された。クライバーはマリア・メネギーニ・カラスボリス・クリストフ、エンツォ・マスケリーニらと共演した。これらの有名人たちが相手であっても、彼のいつもの緻密な準備方法は変わらなかった。舞台上の楽団でさえヴェルディが求めた力強さに到達するまで念入りに訓練された。フィレンツェトローマは彼にとってアムステルダムやコペンハーゲンと同じくらい馴染みのある場所となった。時々―ハイドンの再評価された《オルフェオ》の公演や、再びダッラピッコラの『二つの小品』のよに―彼は保守的なイタリアの聴衆が求めるレパートリーから遠ざかることがあった。」(ラッセル 2013, pp. 278-282)
  57. チューリヒのドルダー・グランド・ホテルに滞在していた。(ラッセル 2013, pp. 290)「この時の滞在は一九五六年一月二十七日、モーツァルトの二百回目の誕生日を含む期間だった。クライバーはその日に指揮棒を振らない非常に数少ない指揮者のひとりだった。クライバー夫人は、彼がローマで《皇帝ティートの慈悲》の演奏会で指揮する予定だったので、その準備のために自動車でローマに向かい、途中のルガノのホテルに滞在することになっていた。しかし、アルバン・ベルクの友人で弟子で、伝記作家でもあったヴィリー・ライヒ博士が、クライバーがアメリカでウィーン・フィルハーモニーと演奏する予定の《ルル》組曲について話し合うため、昼食に来ることになっていたので、彼は一人にならないはずだった。ライヒが来るまでの間、彼は手紙を書いていた―当然のことながら、その手紙には冒頭に大きな装飾文字の見出しで『モーツァルトの二百回目の誕生日!!!』と書いてあった。/クライバーは前の晩、あまり調子がすぐれず、夫人には知られないように、早朝主治医に電話をして予約を取っていた。彼は自分の気分の良しあしはほとんど気に留めなかったので、妻がローマへの自動車旅行を延期すると言っても聞き入れなかったろう。普段は彼女が来るまで医者へ連れて行ってくれるのだが、ひとりとなった彼は、自分で行き、長い時間のかかる、この状況においては残酷なほどつらいX線写真撮影を受けていた。ライヒが昼食にやってきたとき、すでにクライバーはまったく健康に見えなかった。しかし『お腹がなんだかおかしいだけだよ』とクライバーは言って、別の話題に移った。彼は僅かしか食べなかったが、食事の終わりごろにクライバー夫人が電話をかけてきたときは、ごく普通に話が出来るくらい調子が良かった。昼食の後、話は再びアルバン・ベルクとリヒャルト・シュトラウスのことになり、ライヒの記憶によるとクライバーは彼が帰る時には廊下まで見送りに出て、アメリカでのベルクの公演の時にプログラム・ノートを書くことを忘れないように念を押した。『いつものように、彼と共に過ごした一時間に刺激を受け、教えを受けて』。/クライバー夫人がルガーノから電話をかけたのは、その二時間か三時間後のことだった。部屋から何の応答もなかったので、クライバーが出かけていることを確かめるために、アンチェスキが遣わされた。クライバーは特別に邪魔の入らないスイートルームを選んでいたので、ノックをしても返事がないのは異常なことではなかった。そこで彼はドアを開けた。ベッドルームには誰もいなかったので、バスルームのドアを開けると、クライバーが風呂の中で死んでいるのを見つけた。どうしてそれが起こったのか、防ぐことが出来たのか。そんなことを知っても、何の役にも立たないが、ついつい推測してしまうものだ。ひとつ、確かなことがある。彼は溺れたのではなく、おそらく彼が望んだように一発の発作で死んだのだ。」(ラッセル 2013, pp. 290-291)
  58. Hein & Caskel 2015, p. 233
  59. 亡くなる一週間前にはケルンの西ドイツ放送の演奏会で指揮をしていた。(KLEIBER, ERICH”. 2023年9月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月23日閲覧。)

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