遠山慶子
遠山 慶子(とおやま けいこ、英:Keiko Toyama、1934年〈昭和9年〉[1]3月25日[2] - 2021年〈令和3年〉3月29日[3])は日本のピアノ奏者。旧姓は「藤村」。[4]
東京府本郷区西片[5]の出身。母方の祖父は陸軍の武官[6][7]で、父親は高等遊民だった。[8][9][10]4歳の頃に鎌倉市[8]材木座の滑川のほとりの家に引っ越し、[11]5歳の頃[12]に父親からドイツ製の小さい子供向けヴァイオリンを贈られた[13][14]が、上手く音が出なかったことに怒って足で踏みつぶしてしまい、[15]父親から「おまえは生涯ヴァイオリンにさわるな。」[16]と怒られて以降、ヴァイオリンには触らなかった。[17]6歳の頃からピアノを始め、井上貞吉に師事。[18][19]鎌倉市立第一小学校に入学[20]したが、病弱ゆえに養護学級に入る。[21]程なく片瀬乃木小学校[22]に編入したが校風に馴染めず、[23]学校に通わなくなり、[24]四年次[25]に鎌倉市立第一小学校に戻った。8歳の時には日比谷公会堂で開催されたヨーゼフ・ローゼンシュトックの指揮する新交響楽団等によるヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの《レクイエム》の演奏を聴き、その不気味さにショックを受けて失神している。[26][27]1946年に父親が亡くなり、[28]東京都世田谷区[29]松原[30]に転居。その翌年には毎日新聞社主催の全日本学生音楽コンクール[31]の東日本大会で優勝したが、全国大会への出場は棄権している。[32]その後、中高一貫校の恵泉女学園に進学し、中学二年生の時に受洗[33]。また、フランス語を習うために富ヶ谷の旧華族の本野家にに通った。[34]その本野家の伝手で1952年にアルフレッド・コルトーが来日した時に、コルトーに演奏を聴いてもらう機会を得、その場でコルトーに才能を認められる[35]。1954年にパリに留学し、エコール・ノルマル音楽院に入学してコルトーの門下となった。[36]1955年に教授資格を取って音楽院を首席[37]で卒業し、帰国するまでにポール・クローデル、ジャン・コクトー、エトヴィン・フィッシャー、ジョルジェ・エネスクやパブロ・カザルス等の知己を得た。[38]また留学中に遠山一行と出会って[39][40][41]帰国[42]した年のうちに結婚し、2児を儲けた。[43]1962年から1年間、再度フランスに渡り、演奏家資格を取得[44]して帰国[45]したが、1965年にまたフランスに渡り、パリでデビュー。[46]以後、日本国内外で演奏活動を展開。1978年には日本ショパン協会賞を受賞。2009年にはウェルナー・ヒンクとのモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ集の演奏で毎日芸術賞を受賞した。1980年に草津国際音楽アカデミー&フェスティバルが創設された時から講師陣の一人として加わっている。[47]
東京都港区の自宅[48]にて脳腫瘍の為、死去。[49][50]
脚注[編集]
- ↑ “遠山慶子(とおやま けいこ)とは? 意味や使い方 - コトバンク”. 2021年4月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月2日閲覧。
- ↑ 「私、三月二十五日生まれなんだけど、そして学校に行けるほど元気じゃなかったから、学校は嫌いだから、学校入らなかったの。」(遠山, 慶子; 加賀, 乙彦 (1993). 光と風のなかで. 彌生書房. p. 11. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784841506761)
- ↑ “遠山慶子さんが死去 ピアニスト”. 日本経済新聞. (2018年4月29日). オリジナルの2023年8月31日時点におけるアーカイブ。 2023年8月31日閲覧。
- ↑ アーカイブ 2023年9月23日 - ウェイバックマシン
- ↑ 遠山本人によれば「本郷西片町十番地」。(遠山 & 加賀 1993, p. 11)
- ↑ 「初めリヨンでフランス語の勉強して、それからそーミュールに移って、それから大使館付きの陸軍武官。」(遠山 & 加賀 1993, p. 17)
- ↑ 退役後は何もしていなかったという。(遠山 & 加賀 1993, p. 19)
- ↑ 8.0 8.1 遠山 & 加賀 1993, p. 12
- ↑ 遠山 & 加賀 1993, p. 18
- ↑ 「母方は松田、父方は藤村。だから松田と藤村の両祖父が高等遊民……何もしない。つまり、父が早く死んだから、その後、母と私達は母の里に帰ったわけね。だから私は松田の祖父に非常に世話になり、祖父の性格を強く受けたというか。毎朝私を捕まえてフランス語を教えたがったの。で私は逃げる一方で、逃げるために早く学校に行ったの。」(遠山 & 加賀 1993, p. 20)
- ↑ 遠山 & 加賀 1993, p. 35
- ↑ 加賀の「ヴァイオリンを壊したのはいつ頃ですか。もう井上先生についていた?」という問いに対し、遠山は「もっと前。全然もっと前。五歳、鎌倉に越してすぐぐらい。それでなきゃしないよ、そんなこと。」と答えている。(遠山 & 加賀 1993, pp. 46)
- ↑ 加賀の「楽器をまず何にするのかっていうので、よしヴァイオリンだと自分で決めて、そしたらお父さんはドイツのヴァイオリンを買ってきてくれた?」という問いに対して遠山は「特別注文したわけね。だけど長いこと来ない。そんな十六分の一なんてのはめったにないものでしょ。だから長いこと来なかったから、ものすごく待たされていたわけ。で、待たされているうちに、どんどん望みが膨らんでて、そして持ったらすぐすばらしい音がすると思っちゃった。で、私は待ちに待っていたものだから、開けた途端にありがとうございましたって言って、とても積極的な子だから、それをまず取ってぱっと鳴らしちゃったわけね。それでもう、なにしろ弓に松やにも塗ってくれなかったわけだから。」と答えている。なお、この後「それでしかも、ベランダではすばらしいクライスラーやティボーだの聞いて、ヴァイオリンはいかにすばらしいかと思ってらした。」という加賀の合いの手に遠藤は「そのころもハイフェッツって大嫌いだったの。趣味の偏見よね。クライスラーとティボーが好きだった。」「エルマンとか。ブッシュ、クライスラー、ティボーとくると、もう全然ハイフェッツは入ってこない。」と言っている。幼時の遠山は、そういった名手の録音を既に耳にしていて、「頭の中にすっかりイマジネーションでフィックスしてある音がすーっと出てくると思った」。(遠山 & 加賀 1993, pp. 47-48)
- ↑ 遠山曰く「クライスラーとか、すごくきれいなのばかり聞いていたでしょ。だからヴァイオリンというのは、かならずそういう音がすると思っていたら、すさまじい音だった(笑)。」(遠山 & 加賀 1993, p. 46)
- ↑ “インタビュー ウェルナー・ヒンク&遠山慶子 ~銀座 王子ホール~”. 2021年3月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月31日閲覧。
- ↑ 遠山 & 加賀 1993, p. 50
- ↑ 「最初からクライスラーになるつもりだったの。それですごくがっかりしたんだけど、それと同時に怒ってしまって、ヴァイオリンを踏みつぶしてしまったの。ドイツから取り寄せた十六分の一のものでしたけれど。弓も半分に折っちゃった。ヴァイオリンは足にはまって取れないし(笑)、弓は馬のしっぽがペローとたれて気持ちが悪いし、だからそれを下駄箱につっこんで……鮮明に覚えているわ。精神分析からみると、きっと何か問題があるんじゃないかと思うくらい。/で、父からとても叱られまして、お前は生涯ヴァイオリンに触ってはいけません、って。だから今でもさわれないんです(笑)。」(遠山 & 加賀 1993, pp. 46-47)
- ↑ 遠山 & 加賀 1993, p. 43
- ↑ 「井上定吉」と記す資料もある。(アーカイブ 2015年5月23日 - ウェイバックマシン“遠山慶子 Keiko Toyama | アーティスト - CAMERATA TOKYO”. 2023年9月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月23日閲覧。)
- ↑ 就学前は鎌倉ハリス幼稚園に三ヶ月くらい通ったが、「だって、こうみんなでぐるぐる回って行進なんかするでしょ。そういうときの音楽なんか全部聴いちゃってぼんやりしてるでしょう。そうすると後ろからきた人にわざとスリッパ踏んだりとかされる。椅子とり競争では一番最後に残っちゃうし、つまり団体生活に向かないの。」「それで例えば砂場に出る。砂場でなんか作りかけているときに、はーい、入りなさい、って言われる。途中でやめなければならない。それが苦痛だったの。一人だけ残してくれないでしょ。だからものすごくいやだった。」と遠藤は述懐している。
- ↑ 遠山曰く「はじめね、第一小学校というのがありましてね、鎌倉の一の鳥居のすぐそばに。そこの養護学級というのに入ったの。養護学級には、田中耕三ちゃんね、田中耕太郎最高裁長官の息子さんと同じクラスだったのよ。」その養護学級では、太陽灯を浴びる部屋があった。「そう、変なカプセルみたいな大きなのに入れられてね、耕三ちゃんと私と二人、裸になってそこに入れられたのを覚えてるんだけど、二人、時々会うでしょ、『君の裸知ってるの、僕ぐらいだよ』っていうくらい一緒だった(笑)。そして白百合に編入したんでしょ。みんなと揃っていたら、私見受けなければならない。あの頃だから、皆さん、あっち行ったりこっち行ったり、疎開したりして人数が足りなくなってたんじゃないかしらね。」(遠山 & 加賀 1993, p. 57)
- ↑ 加賀の「お父さまは、病気がちでいらして、お家にぶらぶらいらっしゃる感じで、お母様は、しょっちゅうお家にいらして、お父様の看病したり、一緒に音楽をやったりしてる感じで。それで小学校はどちらに?」という問いに、遠藤は「湘南白百合。その頃は乃木と言いました。」と答えている。(遠山 & 加賀 1993, p. 55)
- ↑ 「立て前と本音を使い分けたりするのが全然理解できなかったのね。だから今から考えれば、先生方に対しておもいやりがなかったなと、子供ながらもっと考えればよかったんだなとは思うんだけど、先生の言うことがさっぱり理解できなかったの。先生たちは、教師としての責任があるでしょう?ところが、そういう規律からはみ出す子は先生から見れば手間と時間がかかるでしょ。で、何かはみ出した時に素直に引き下がればいいのに、私の場合には絶対に引き下がれなかった。納得するまで先生に説明を求めなくちゃ気が済まない性格だったから、先生には厄介な、悪い子になっちゃうの。子供の私から見ると、なんだか先生に一日中嘘をつかれているようでとっちも面白くない……。」(遠山 & 加賀 1993, p. 58)
- ↑ 加賀の「で、どうしたんですか?その白百合は?休みだした?」との問いに遠藤は「そう、登校拒否でしょうね。ただ、だけど、親が、行きなさいって、言わないでくれたから、すごくそういうのは目立たなかったっていうか。」と答えている。(遠山 & 加賀 1993, p. 58)
- ↑ 出席日数が足りず、一年留年することとなった。(遠山 & 加賀 1993, p. 60)
- ↑ 遠山曰く「八つくらいのときかしら、父に連れられて日比谷公会堂で、ローゼンストックと新響の演奏でモーツァルトのレクイエムを聞いて、ものすごいショックで失神しましてね。不気味で。」これに加賀が「それ、『レクイエム』のどのあたりですか?」と問い、遠山は「それは覚えていないけど、聞いているうちに胸が締め付けられていったのは覚えているわね。気が付いたら病院だった」と答えている。(遠山 & 加賀 1993, pp. 51-52)
- ↑ この演奏会に、後に夫となる遠山一行が合唱団員として参加していた。(遠山 & 加賀 1993, pp. 53-54)
- ↑ 1946年7月27日没。(遠山 & 加賀 1993, pp. 72)
- ↑ 「私は祖父に引き取られて世田谷にいっちゃったのね。祖父はそのころ世田谷に住んでいたの。」(遠山 & 加賀 1993, p. 44)
- ↑ 遠山 & 加賀 1993, p. 76
- ↑ 全日本学生音楽コンクールは通称「学コン」と呼ばれ、1947年に第一回目のコンクールが毎日新聞社とサン写真新聞社の主催で行われた。この時、東京で東日本大会、大阪で西日本大会をを行い、その本選での演奏を録音し、その録音を東西の大会の審査員が審査して全国大会優勝者を決めるという方法を採っていた。(“学コンの歴史”. 2023年9月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月24日閲覧。)
- ↑ 遠藤曰く「父が死んだ時に、私が井上先生のところへもうぴあのをやめなければなりませんって言いに行ったの。その時に、先生が、お月謝なんかいらないし、君は僕の楽しみなんだから続けなさいと言ってくださって、少し生活に張りを持たせようとして、お思いになって、勝手に毎日の学生コンクールっていうのに申し込んじゃったのね。そのコンクールを遊び半分、そう言っちゃ申し訳ないんだけど、まあ受けてみたら、それで東日本大会の一等になっちゃったの。で、一等になっちゃったらば、演奏旅行に行かなければならないなんて話が出ちゃうわけね。新聞社の宣伝なのよ。第一回だから。そしたら母が絶対そんなのはだめ。演奏旅行なんてとんでもないって言って、その権利を放棄してね。」(遠山 & 加賀 1993, p. 74)このコンクールについて加賀が「それ、お父様が亡くなられた年?」と質問し、それに遠藤は「はい、亡くなって次の年。五年生で死んで、六年生で受けたから。そして、まさか一等になるなんて思っていなかったから。それでどの人もどの人も殆どみんな今一流になっている人ですよ。そこでまさか一等になるなんて。」と答えている。(遠山 & 加賀 1993, p. 75)遠藤の父が亡くなったのが1946年なので、コンクールの開催年は1947年ということになる。また「毎日の学生コンクール」の「東日本大会」の優勝者に、初めて開催するコンクールだから「新聞社の宣伝」のために演奏旅行への参加を要請するという情報を纏めると、該当するコンクールは全日本学生音楽コンクールということになる。
- ↑ 遠山 & 加賀 1993, p. 73
- ↑ 遠山 & 加賀 1993, p. 80
- ↑ 遠山 & 加賀 1993, pp. 81-86
- ↑ 遠山 & 加賀 1993, p. 87
- ↑ 『光と風のなかで』のカバーの袖に記されている遠山の略歴には「東京生れのピアニスト。1952年アルフレッド・コルトー来日の際、認められて1954年に渡仏。パリのエコール・ノルマル音楽院に入学。巨匠のもとで三年間学び、教授資格、演奏家資格ともに第1位を得て卒業。その後フランスを始めオーストリア、ドイツ、イギリス、スイス、スペイン。アメリカ等のオーケストラから招かれて、たびたび共演。独奏会も行う。日本でもソロ、室内楽等で活躍中。1978年度ショパン協会賞受賞。カメラータから数多くのレコードが発売されている。」と記されている。(遠山 & 加賀 1993, p. カバーそで)
- ↑ 遠山 & 加賀 1993, pp. 96-97
- ↑ 「遠山一行さんとはどういうふうに。」という加賀の問いに対して「それはねえ、コルトーの公開講座が縁で、公開講座の時に、私の方からは、一行がもうものを書いていたから知っていたんだけど。大使館でパーティがあって、その時私は全然一行に印象はないんだけど、むこうは私に会ったっていうのね。その後お正月でまた大使館に呼ばれたでしょ、みんなで、そのお正月に私も一行も行っていたわけ。そこで一緒になったわけ。西村大使のときです。その前の日に友達がパーティしたんです。十二月三十一日のパーティに一行が来た。そしてみんなで遊んだのね。その翌日大使館でまた再会したわけ。その時にね、コルトーの講座の切符を手配してくれって彼に頼まれたのかな。なかなか手に入らないのよ。あの方気が弱いから私が弾く日も行かなきゃ悪いかと思って、その日もお願いしますって言ったわけね。私は信じて、六月の講座の時に切符を用意したわけよ。」と答えている。遠山が未来の夫と顔をつないだのは1954年の大晦日だったが、遠山本人はそれを覚えておらず、1955年の正月にコルトーの講座のチケットを所望したことで遠山の中で一行の印象がついた。一行は貰ったチケットで遠山の演奏を聴き、「私が弾いたピアノが新鮮でね、ああこういう人もいるのかと思ったって、非常に心に強く焼き付いたらしい。で私が彼の中にプットインされちゃった」という。(遠山 & 加賀 1993, pp. 94-95)
- ↑ 遠山 & 加賀 1993, pp. 94-95
- ↑ 夫となる一行はノルベール・デュフルクの許で音楽史を学んでいた。コルトーは遠山から結婚したい相手として一行のことを訊いたあと「その場でぱっと電話とられてね。デュフルク先生の所に電話をかけてね、どんなやつだ?って。彼はデュフルク先生の割合と評判がよかったのね。それじゃ自分があってみよう、会うからその人の電話番号をって、アポイントとってね、コルトーの所に一行は呼びつけられたの。で、いろいろクエスチョン、コルトーにされてね。それでねえ、おまえは騙されているかもしれないから、僕がみてあげるとコルトーが言う。騙されているたってしょうがないでしょうって私言ったんだけど、まあねえ、お父さん代りだしね、保証人だしね。先生のおっしゃるようにしたら、ちゃんと一行は試験されたわけ。それで、合格したの。気に入ってくださって。それで今日はご馳走してあげるよ、と言われて、あの人ならいいんじゃないって言われて。それで、私は決まったから、全部後ろの音楽会捨てちゃったわけ。一行はそれくらいやった方がいいんじゃないって言ったんだけど、もう、決めたんだから、やる必要ない、生半可に足つっこむと、あとで後悔するし、これがあなたへの愛情の表現だから、全部やらないで帰るわって言ったわけ。」(遠山 & 加賀 1993, pp. 103)
- ↑ 「一九五八年八月。東京に帰って婚約して、向こうの親に会って結婚決めました。でも、一回だけでも音楽解してくださいって、遠山の母が言ってくれました。」(遠山 & 加賀 1993, pp. 106)
- ↑ 長男が1959年5月6日、次男が1960年8月26日に生まれている。(遠山 & 加賀 1993, p. 111)
- ↑ 遠山の語るところによれば「その演奏家資格というのを取っちゃったらば、フランスでデビューしないといけない」とのこと。(遠山 & 加賀 1993, p. 126)
- ↑ 遠山 & 加賀 1993, pp. 114-117
- ↑ 1963年にパリでデビューしたとする記述もある。(“MONTHRY EDITORIAL02:JAZZTOKYO”. 2021年4月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月1日閲覧。)
- ↑ “ミリオンコンサート協会”. 2021年4月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月1日閲覧。
- ↑ 資料によれば西麻布。(アーカイブ 2021年4月13日 - ウェイバックマシン)
- ↑ “上皇后さま、遠山慶子さん宅を弔問…ピアノ通じ親交”. 読売新聞. (2021年3月31日). オリジナルの2021年3月31日時点におけるアーカイブ。 2021年3月31日閲覧。
- ↑ アーカイブ 2021年4月12日 - ウェイバックマシン
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