パブロ・カザルス
パブロ・カザルス(Pablo Casals, 1876年[1]12月29日[2] - 1973年10月22日[3])は、スペイン出身のチェロ奏者、指揮者、作曲家。[4][5][6][7][8]
カタルーニャ地方のアル・バンドレイ[9][10]にて、カルラス・カザルス・イ・リベス[11]とピラール・ウルスラ・ダフィリョー・アミゲ[12]の間にパウ・カルラス・サルバドー・カザルス・イ・ダフィリョー(Pau Carles Salvador Casals i Defilló)として生まれる。[13]両親は鍵盤楽器を堪能にする音楽家だった。[14]6歳になる前に父の指導する地元の教会の合唱団に参加し、父からピアノの手ほどきを受けた。[15][16]1883年には、父が地元の教会から聖書の「羊飼いの礼拝」のテキストに基づく劇音楽の作曲を依頼されたが、多忙な父と共作する形で劇音楽を作曲し、「牧師」と名付けて発表して高い評価を受けた。[17]また7歳の時からヴァイオリン、9歳の時からオルガンを学び始めた。1885年には地元にやってきたピエロ劇団の芝居を観劇したが、その劇団員が弾く曲がったほうきの柄で作られた楽器に魅了され、父に「かぼちゃ」という名の弦楽器を作ってもらった。[18]1888年には教会で開かれたピアノ三重奏の演奏会に行き、後に師となるジュゼップ・ガルシアの演奏で初めてチェロの迷路を耳にして魅了される。その年のうちに母と一緒にバルセロナに行き、バルセロナ市立音楽院に入学。父から4分の3サイズのチェロを贈られ、音楽院でガルシア[19]に入門し、ジュゼップ・ロドレダに音楽理論[20]、ホセ・マラツとフランシスコ・コスタ・リョベラにピアノ[21]を学んだ。1889年からバルセロナのカフェ・トストでトリオのメンバーとして演奏のアルバイトを始め、評判を呼ぶようになった。[22]1890年にはアンチャ通り[23]の楽器店「ニュー・フォノ」[24]でヨハン・ゼバスティアン・バッハの無伴奏チェロ組曲の楽譜を見つけてこの作品の研究に没頭するようになり、[25][26]父からフルサイズのチェロを買ってもらった。1891年にはバルセロナのノベダデス劇場で開かれたコンセプシオ・パラの主催するチャリティー公演に参加してイサーク・アルベニスの知己を得る。アルベニスはカザルスをイギリスへの演奏旅行に誘ったが、カザルスの母の反対で不首尾に終わった。代わりにアルベニスはモルフィ伯爵ギリェルモ[27]への推薦状をカザルスに渡した。その年のうちにカタルーニャ広場のカフェ「ラ・パジャレラ」に演奏の拠点を移し、そこでエンリケ・グラナドスと出会って、親交を結んだ。1893年にはバルセロナ音楽院を卒業し、母らとアルベニスの推薦状を持ってマドリッドのモルフィ伯爵家を訪ねた。その結果、伯爵の伝手でスペイン国王アルフォンソ12世王妃マリア・クリスティーナ・デ・アブスブルゴ=ロレーナの御前演奏が実現した。王妃はカザルスに月額250ペセタの奨学金を与えた。[28]マドリード王立音楽院でトマス・ブレトンに作曲、ヘスス・デ・モナステリオに室内楽を師事。1895年にはブリュッセル王立音楽院に行き、院長のフランソワ・ジュヴァエルの前で演奏を披露し、エドゥアール・ジャコブのクラスで学ぶ段取りになった。しかし、ジャコブの侮蔑的な態度[29]にカザルスが腹を立て、音楽院への入学を拒絶してパリに向かった。ただ、スペイン王妃からブリュッセルでの勉学を放棄したと見做されて奨学金を打ち切られ、しばらくシャンゼリゼの演芸場フォーリー・マリーニの第二チェロ奏者として働くこととなった。程なくしてスペインに帰国し、1896年には恩師ガルシアの後任として母校であるバルセロナの音楽院で教鞭を執るようになり、リセウ高等音楽院でもチェロを講じるようになった。[30]1897年にはヴァイオリン奏者のマチュー・クリックボーム、ジョゼップ・ロカブルナとヴィオラ奏者ラファエル・ガルベスとで弦楽四重奏団を結成したり、クリックボームと親友のグラナドスとでピアノ三重奏団を結成してスペイン各地を演奏して回った。この演奏旅行で、王妃からガリアーノ製のチェロを贈られている。1899年にはロンドンの水晶宮でエドゥアール・ラロのチェロ協奏曲を弾いてロンドン・デビューを果たし、ヴィクトリア女王の別荘であるワイト島のオズボーン・ハウスで女王の前で演奏している。また、パリではシャルル・ラムルーに認められてコンセール・ラムルーの演奏会に出演し、1900年から暫くパリを本拠に演奏活動を展開。また、ハロルド・バウアーと共演するなどして、ヨーロッパでの名声を確立していった。1901年にはアメリカにも出かけたが、タマルパイス山で左手を負傷し、一時的にチェロ演奏が出来なくなった。この年にはスペイン王妃からカルロス3世王立騎士団大十字勲章を贈られている。1903年からヴァイオリン奏者のモレイラ・デ・サとバウアーとで南アメリカ大陸に演奏旅行に出る。1904年にはアメリカに足を延ばし、ホワイト・ハウスでセオドア・ルーズベルト大統領の為に演奏を披露したり、カーネギー・ホールに出演したりしてアメリカでのチェロの名手としての名声を確立。1905年にはアルフレッド・コルトーとジャック・ティボーとでピアノ三重奏団を結成し、また初めてロシアに演奏旅行に出た。さらに、1912年まで続く弟子のギレルミナ・スッジアとの内縁関係を持つようになった。1908年にはコンセール・ラムルーでルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第5番とヨハネス・ブラームスの交響曲第3番を指揮して指揮者としてデビューしている。[31]1910年にはフランツ・シャルクの指揮するウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会でエマヌエル・モールの嬰ハ短調のチェロ協奏曲を演奏してウィーンに初登場。1914年にはアメリカ人ソプラノ歌手のスーザン・メカトーフと結婚したが、1928年には離婚している。1919年にはメキシコを訪問し、かつてクリックボームの弦楽四重奏団で供に演奏していたロカブルナの指揮によるメキシコ・シティの交響楽団と共演。その年のうちにバルセロナに戻ってパウ・カザルス管弦楽団の創立に奔走し、1920年にはカタルーニャ音楽堂でパウ・カザルス管弦楽団の旗揚げ公演を行っている。1920年にはエコール・ノルマル音楽院の設立にコルトーと共に加わり、夏期講座の講師を受け持った。1922年にはカーネギー・ホールで指揮者として出演して、指揮者としての名声の地歩を固める。1931年にはスペインで成立した第二共和政を支持し、ムンジュイックの国立宮殿でパウ・カザルス管弦楽団を指揮してベートーヴェンの交響曲第9番を演奏している。1933年にはヴィルヘルム・フルトヴェングラーからベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会への出演を打診されたが、これを断っている。1936年にはカタルーニャ音楽堂でパウ・カザルス管弦楽団と演奏会に向けたリハーサルを行っている最中にスペイン内戦が勃発し、管弦楽団は解散することとなった。また、カザルス自身はヨーロッパや南アメリカの各地でスペインのための慈善演奏会を開いた。さらに、J.S.バッハの無伴奏チェロ組曲の全曲を1939年までに録音している。1939年には戦火の中、バルセロナ大学から名誉博士号を授与されたが、亡命を余儀なくされた。亡命後、ロンドンでスペイン難民のための慈善コンサートを指揮し、パリのモーリス・アイゼンベルクの家に立ち寄った後、プラドに居を定め、詩人のジョアン・アラベドラと共にスペイン難民救済キャンペーンを展開した。第二次世界大戦後、1945年にロンドンで演奏活動を再開したが、1939年に誕生したフランシス・フランコの独裁政権を容認し続けるイギリスの姿勢に失望してイギリスでの演奏を行わない決断をし、オックスフォード大学やケンブリッジ大学からの名誉博士号授与の話も断っている。1946年にフランス政府からフランス政府からレジオン・ドヌール勲章を授与されたが、世界各国がスペインのフランコ政権を容認しているのを受けて、これに抗議する意味を込めて演奏活動を停止し、しばらく自らの住まうプラドで作曲とチェロのレッスンを行う日々を送った。1950年にはアレクサンダー・シュナイダーの説得に応じて、プラド音楽祭の音楽監督を務める形で演奏活動を再開した。1957年に母の故郷であるプエルトリコに移住し、この地でも音楽祭を開催するようになった。1960年にはルドルフ・ゼルキンの招待を受けてマールボロ音楽祭に参加し、アカプルコのサンディエゴ砦で自作のオラトリオ《まぐさ桶》を初演。その翌年には、弟子の平井丈一朗の凱旋帰国に帯同する形で初来日を果たした。1963年にはアメリカのジョン・フィッツジェラルド・ケネディ大統領から自由勲章を授与される。1971年にはフランス政府から国家功労大十字勲章をそれぞれ贈られ、国連デーである10月24日に国際連合本部で演奏して国連事務総長のウ・タントから国際平和賞を授与された。1973年には6月から7月にかけてニューヨークで開かれたカザルス音楽祭に出席し、8月のイスラエル音楽祭で演奏を披露したのが、生涯最後の公開演奏となった。
9月30日にプエルトリコで心臓発作で倒れ、入院先のサンファンのアウクシリオ・ムトゥオ病院[32]で亡くなった。[33]
注[編集]
- ↑ アーカイブ 2022年11月17日 - ウェイバックマシン
- ↑ アーカイブ 2022年1月6日 - ウェイバックマシン
- ↑ “Pablo Casals | Spanish musician | Britannica”. 2022年11月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年11月16日閲覧。
- ↑ パブロ・カザルス - Discogs
- ↑ “Pau Casals, el músico que revolucionó el arte de tocar el violonchelo”. 2021年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月5日閲覧。
- ↑ アーカイブ 2022年3月29日 - ウェイバックマシン
- ↑ “Pau Casals - Musical Association Pau Casals El Vendrell”. 2022年11月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年11月16日閲覧。
- ↑ アーカイブ 2022年5月25日 - ウェイバックマシン
- ↑ “アル・バンドレイ(パウ・カザルスの街)”. 2021年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月5日閲覧。
- ↑ “【2020年最新】アル・ベンドレイ ~偉大なるチエリスト、パウ・カザルスの足跡を訪ねて~”. 2021年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月5日閲覧。
- ↑ アーカイブ 2022年11月16日 - ウェイバックマシン
- ↑ アーカイブ 2022年11月16日 - ウェイバックマシン
- ↑ “BEETHOVEN: Symphonies Nos. 1 and 4 / BRAHMS: Variations on a Theme by Haydn (Casals) (1927, 1929)”. 2021年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月5日閲覧。
- ↑ アーカイブ 2021年6月12日 - ウェイバックマシン
- ↑ アーカイブ 2022年11月16日 - ウェイバックマシン
- ↑ アーカイブ 2018年10月29日 - ウェイバックマシン
- ↑ アーカイブ 2021年12月29日 - ウェイバックマシン
- ↑ “La Carabasseta”. 2021年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月5日閲覧。
- ↑ 「ホセ・ガルシア」と表記する資料もある。(“Casals Pablo (1876-1973)”. Dictionnaire des Musiciens. Encyclopaedia Universalis. (2015). モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9782852291409)
- ↑ “Pau Casals”. 2021年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月5日閲覧。
- ↑ アーカイブ 2022年1月18日 - ウェイバックマシン
- ↑ キャンベル, マーガレット『名チェリストたち』山田玲子訳、東京創元社、1994年(原著1988年)、139頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784488002244。
- ↑ アーカイブ 2022年5月25日 - ウェイバックマシン
- ↑ 桑原, 聡 (2021年1月23日). “【モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら】安野光雅さんへの詫び状”. 産経新聞. オリジナルの2021年3月5日時点におけるアーカイブ。 2021年3月5日閲覧。
- ↑ モントリオール・ガゼット紙の音楽評論家であったエリック・シブリンによれば、1901年10月17日付のDiario de Barcelona紙にカザルスがJ.S.バッハの無伴奏組曲(全曲かどうかは明言されていない)を演奏して称賛された旨の記述があるという。(Siblin, Eric (2010年1月15日). “How Bach's Cello Suites changed Eric Siblin's life”. The Guardian. オリジナルの2021年3月5日時点におけるアーカイブ。 2021年3月5日閲覧。)
- ↑ カザルスによるJ.S.バッハの無伴奏チェロ組曲の初演奏について1904年に行われたとする記述もある。(池上, 輝彦; 槍田, 真希子 (2018年10月27日). “ヨーヨー・マ 新盤バッハ「無伴奏チェロ組曲」を語る”. エンタメ!ビジュアル音楽堂. オリジナルの2021年3月5日時点におけるアーカイブ。 2021年3月5日閲覧。)
- ↑ アーカイブ 2021年4月10日 - ウェイバックマシン
- ↑ Whitman, Alden (1973年10月23日). “Casals, the Master Cellist, Won Wide Acclaim in Career That Spanned 75 Years”. New York Times. オリジナルの2022年11月17日時点におけるアーカイブ。 2021年11月17日閲覧。
- ↑ キャンベルによれば、「音楽院長のフランソワ・ジュヴァエルはカザルスの演奏に感心して、彼をチェロ教授のエドゥアール・ジャコブに推薦した。翌日の午前中の授業で、教授はクラス全員のレッスンが終わるまで待たせてから、カザルスに手招きして、恩着せがましくこう言った。『ああ、君が院長の話したスペインの学生か。何か弾いてみたいかね?』カザルスが『喜んで』と答えると、彼はこれこれの曲を知っているかと、次から次へとペラペラ曲名を並べ立てた。カザルスが真面目に『全部知っています』と言うと、教授は学生たちの方を向いて『これはすごいじゃないか!なんでもお弾きになられるんようだね。きっと大変なものなんだろう』と言ってから、音楽院で必ず弾くことになっている技巧の要る大曲、セルヴェの『スパーの思い出』を弾くようにとカザルスに言った。この時すでに彼は怒りに燃えていたが、演奏する決心をした。彼が弾くにつれて、部屋は静まりかえり、演奏が終わっても学生たちは驚きのあまり拍手すら出来なかった。教授は目に見えるほどの動揺を示し、彼を脇のほうへ連れて行き、必ず一等賞をとって卒業できるから自分のクラスに入るようにと言った。怒った若者は答えた。『あなたは学生たちの前で私をバカにしました。こんなところには一刻も留まっていたくありません』翌朝彼はパリに向かった。」と記述されている。(キャンベル 1994, pp. 140-141)
- ↑ キャンベルによるとガルシアが教えていた頃の「一般に正しいと認められていた腕を硬くして弾く演奏法」は、その練習法として「ひじを体の側面に近づけておくために、チェロやヴァイオリンの生徒たちは本を与えられ、演奏中本を腕の下に抱えていることになっていた」(キャンベル 1994, p. 140)のだが、カザルスは学生たちに、「自分が学生だった時に考え出した指使いやボウイング」を教え、「リラックスすることの大切さや、緊張と緩みのバランスを創りだせるようにるすために行なう左手の練習法」を教えた。(キャンベル 1994, pp. 141-142)
- ↑ “指揮者カザルス/プラド・ライヴ1953”. 2021年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月5日閲覧。
- ↑ “Hospital Auxilio Mutuo: Emergency Room/Sala de Emergencia - Google Maps”. 2022年11月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年11月17日閲覧。
- ↑ アーカイブ 2021年12月31日 - ウェイバックマシン