フジ子・ヘミング
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フジ子・ヘミング(Fujiko Hemming, 1932年[1]12月5日[2] - 2024年[3]4月21日[4])は、ドイツ出身のピアノ奏者。[5]本名はイングリット・フジコ・フォン・ゲオルギー=ヘミング(Ingrid Fuzjko von Georgii-Hemming)。[6]
ロシア系スウェーデン人[7]でバウハウスで学んでいた建築家のフリッツ・ヨスタ・ゲオルギー=ヘミングと日本人ピアノ奏者の大月投網子の娘として、ベルリンにて生まれる。[8]5歳の時に家族で日本に渡り、[9][10][11]この頃から母の手解きでピアノを始め、[12]小学3年生の時にラジオ放送に出演。[5]10歳の頃から父の友人であったレオニード・クロイツァーの許でピアノを学び、[12]17歳からコンサート活動を始める。[12]父親がスウェーデン人だったことからスウェーデン国籍を保持していたが18歳の時に国籍を剥奪され、無国籍となった。[13][14][15]1953年の日本音楽コンクールで入選し、翌年の同コンクールで2位入賞。[16]東京音楽学校を卒業後は、渡邉暁雄の指揮する日本フィルハーモニー交響楽団をはじめとする国内のオーケストラと共演し、リサイタルも数多くこなした。[12]来日中のサンソン・フランソワが彼女のリサイタルを聴いてフレデリック・ショパンとフランツ・リストの作品の演奏を称賛したこともある。[17]1960年に東京都内で開いた小さなコンサートに駐日ドイツ大使がおり、大使の尽力で翌年に赤十字難民としてベルリン国立音楽大学に留学して[13]首席で卒業。[5]その後、ウィーンでパウル・バドゥラ=スコダの薫陶を受けた。[12] 16歳の時に中耳炎により右耳の聴力を喪失した[18]が、1969年に[19]レナード・バーンスタイン等の推薦で開いたリサイタルの直前に風邪をこじらせて左耳の聴力も喪失し、リサイタルは失敗に終わった。[20]その後、治療のためにストックホルムに引っ越し、[21]2年間全く音の聞こえない生活を送った。[20][22]左耳の聴力が40%回復してからはピアノ教師として生計を立てつつ演奏活動を行った。[23]1995年に帰国し、[2]1998年に上野奏楽堂で演奏会を開いた。[23]1999年にNHKが彼女の半生を綴ったドキュメント番組『フジコ―あるピアニストの軌跡』が制作・放送されたことで世間の注目を集め、同年に制作されたCDアルバム『奇蹟のラ・カンパネラ』は100万枚を超える大ヒットとなった。[5]2023年11月に自宅[24]で転倒して以降の公演をキャンセルし、翌年3月には膵臓がんと診断され療養していた。[25]
註[編集]
- ↑ “フジ子・ヘミングの言葉 - 今日を生きる明日を拓く言葉”. 2023年3月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月17日閲覧。
- ↑ 2.0 2.1 “フジコ・ヘミング(ふじこ・へみんぐ)とは - コトバンク”. 2023年3月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年3月22日閲覧。
- ↑ “偉才ピアニストのフジコ・ヘミングさんが死去 3月にすい臓がんと診断 本人の意志で公表せず”. Yahoo Japanニュース. (2024年5月2日). オリジナルの2024年5月2日時点におけるアーカイブ。 2024年5月2日閲覧。
- ↑ “ピアニストのフジコ・ヘミングが死去”. Yahoo Japanニュース. (2024年5月2日). オリジナルの2024年5月2日時点におけるアーカイブ。 2024年5月2日閲覧。
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 “フジコ ヘミングとは - コトバンク”. 2023年3月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月17日閲覧。
- ↑ “ノクターン買取・作品一覧 | インテリアアート、絵画高額査定はアート買取協会”. 2023年3月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月22日閲覧。
- ↑ Swed, Mark (2009年7月27日). “MUSIC REVIEW”. Los Angeles Times. オリジナルの2022年3月22日時点におけるアーカイブ。 2022年3月22日閲覧。
- ↑ “Fujiko Hemming, Deaf Pianist | Kyoto Journal”. 2023年3月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月22日閲覧。
- ↑ 1938年には父は単身スウェーデンに帰国し、日本に戻ってくることはなかった。(“ファミリーヒストリー 2020/02/24(月)19:30 の放送内容 ページ1 | TVでた蔵”. 2023年3月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月22日閲覧。)
- ↑ フジ子・ヘミング本人の言によれば、「両親は私が五歳の時に日本に帰国しました。でも、戦争の気配が濃厚で、外国人排斥の傾向が強かった当時の日本は、父のジョスタには住みやすいところではなく、やがて強制送還のような形で日本から追い出され、ひとりスウェーデンに戻ってしまいます。」とのこと。母は父について多くを語ろうとせず、「私には三歳下のウルフという弟がいますが、幼い子どもたちを残して去っていった父を、母はけっして許そうと」しなかったという。父からは何度か手紙が来て、「生活が軌道に乗ったら、家族をスウェーデンに呼びたい」と言っていたらしいが、母は頑としてこれに応じなかった。(ヘミング, フジコ『たどりつく力』幻冬舎、2016年、20-21頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784344029538。)
- ↑ ウルフによれば、父と母の離婚が正式に成立したのは1970年である。(“AN ACTOR AND A GENTLEMAN! Ulf Otsuki Talks Tokusatsu in the 1970s! | Vantage Point Interviews”. 2022年3月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年3月22日閲覧。)
- ↑ 12.0 12.1 12.2 12.3 12.4 “フジコ・ヘミング Ingrid Fuzjko Von Hemming | アーティスト - CAMERATA TOKYO”. 2022年3月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年3月22日閲覧。 引用エラー: 無効な
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タグ; name "c"が異なる内容で複数回定義されています - ↑ 13.0 13.1 佐々木, モトアキ (2018年6月16日). “フジ子・ヘミング27歳〜国籍を失った青春時代、そして難民としてドイツ留学の夢を叶える”. Tap the Pop. オリジナルの2023年3月22日時点におけるアーカイブ。 2023年3月22日閲覧。
- ↑ 国籍を失った理由の一つとして、スウェーデンに住んだことのなかったことが挙げられる。(佐々木, モトアキ (2016年10月16日). “フジ子・ヘミング物語—前編〜失った国籍と聴力、まるでドラマのような経歴、動物愛護と博愛主義”. Tap the Pop. オリジナルの2023年3月22日時点におけるアーカイブ。 2023年3月22日閲覧。)
- ↑ 両親の離婚を国籍喪失の理由の一つに挙げる資料もある。(“フジ子・ヘミング 奇蹟のカンパネッラ | HMV&BOOKS online - VICC-60123”. 2022年3月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年3月22日閲覧。)
- ↑ この時には「大月フジ子」名義で出場した。(“第21~30回 | 日本音楽コンクール”. 2023年3月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月22日閲覧。)
- ↑ “フジコ・ヘミング | プロフィール | ビクターエンタテインメント”. 2023年3月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月22日閲覧。
- ↑ “私の夢、私の人生——運命のピアノは鳴り響く:フジコ・ヘミング|人間力・仕事力を高めるWEB chichi|致知出版”. 2023年3月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月22日閲覧。
- ↑ “暮しの手帖社 | フジコ・ヘミング14歳の夏休み絵日記”. 2023年3月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月22日閲覧。
- ↑ 20.0 20.1 “おすすめの一冊【2020年10月】「苦しみを通して歓喜へ―フジコ・ヘミングと野田あすか―」和田渡(阪南大学 名誉教授)”. 2023年3月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月22日閲覧。
- ↑ “Popular pianist in Japan to perform in L.A., Sept 2, 4, 17”. 2023年3月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月22日閲覧。
- ↑ スウェーデンに移ったことで、スウェーデン国籍を回復した。(“ムジカインドウ | カタログサイト”. 2023年3月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月22日閲覧。)
- ↑ 23.0 23.1 “創刊100年特集~Archives :ピアニスト フジコ・ヘミング「演奏後は、満足するときもあるし、死にたくなるほど落ち込むこともある」(2004年11月) | 週刊エコノミスト Online”. 2023年3月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月22日閲覧。
- ↑ 自宅は東京都世田谷区下北沢。(“フジコ・ヘミング、演奏楽曲をほぼ変更しない理由 「私ならいつも同じ曲が聴きたい」”. Aera.dot. (2022年9月3日). オリジナルの2024年5月2日時点におけるアーカイブ。 2024年5月2日閲覧。)
- ↑ “In memoriam フジコ・ヘミング”. ぶらあぼ. (2024年5月2日). オリジナルの2024年5月2日時点におけるアーカイブ。 2024年5月2日閲覧。
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