米谷實久
Lua エラー package.lua 内、80 行目: module 'Module:Message box/configuration' not found 米谷 實久(まいや さねひさ、1876年(明治9年)8月2日 - 1945年(昭和20年)9月6日)は、旧陸奥国米谷村(現:宮城県登米市東和町米谷)の村社・鹿島神社20代目祠官(社掌)である。明治39年、米谷村の「鹿島神社」は、秈荷神社(ぜんかじんじゃ)に合祀されたため、米谷實久は最後の社掌となる。社掌とは、旧制での神職の職名で、神社における祭祀(さいし)をつかさどる神職の長のことで「祠官、神主、宮司」といわれる。
【経歴】[編集]
年 月 日 | 出 来 事 |
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明治 9年 8月 2日 | 宮城県登米郡米谷村生まれ |
明治25年12月26日 | 相続により、20代目鹿島神社社掌を継承する。 |
明治26年 4月 6日 | 8等司業を拝受 |
明治34年 5月15日 | 村から町へ「町制施行」により、米谷町日面に本籍地変更。 |
明治39年12月28日 | 鹿島神社廃絶。20代目社掌の米谷實久は、社掌失職。
村社鹿島神社と村社諏訪神社の2社を、秈荷神社に合祀。 諏訪神社社掌が、秈荷神社の社掌に。
2社が社掌を兼務していた。 ☆失職後は上京、静岡、東京市内の本所、三河島、荒川区尾久等を住居とする。 |
昭和 2年 1月 4日 | 東京府東京市本所区向嶋中の郷町に転籍。 |
昭和18年10月 | 米谷正九郎へ家督相続する。 |
昭和20年 2月 | 荒川区尾久から、千葉県松戸市馬橋へ 疎開 |
昭和20年 9月 6日 | 千葉県松戸市馬橋にて逝去 |
妻:米谷 ヨシ
生:明治10年10月4日 (宮城県登米郡登米(とよま)村:大槻文助長女)
没:大正12年6月19日 (東京府北豊島郡三河島町)
【鹿島神社(鹿島神宮寺)の歴史】[編集]
時 代 | 年 号 | 記 事 |
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白鳳時代 | 和銅元年(708年) | 万巻大聖人が、鹿島山神宮寺を開祖した |
平安時代 | 延暦21年(802年 | 坂上田村麿が、蝦夷征討軍の根拠地(後の米谷城)から引き上げるときに、
御神体を祭った社殿を造営して、家臣の米谷氏に守護させた。 |
鎌倉時代 | 永仁元年(1293年) | 葛西左馬尉重直が、米谷村宮前の地に鹿島神社を勧請したと伝えられる。 |
南北朝時代 | 正平元・延文5年
(1360年) |
円海法印が、鹿島神宮寺と称した神仏習合の修験道場に改宗して、神社の興隆を図り、
鹿島神社の 中興の祖になったと伝えられる。米谷氏の世襲により相続された鹿島神社は、 その後、神仏習合のままで、明治維新まで続いた。
鹿島神宮寺は、修験道の修験者(山伏)の系統と考えられる。 |
明治時代 | 明治元年(1868年) | 明治政府より、神仏分離令が布告され、鹿島神宮寺は神社」として独立し、
村杜鹿島神社と改められ、当時の18代神職の常善院天隆は、 復飾【還俗】(げんぞく)を命じられ、米谷宮帆を名乗る。 |
同 | 明治39年(1906年) | 神仏分離から39年目に、村杜鹿島神社と村杜諏訪神社の2社を村杜秈荷神社に合祀。
諏訪神社の社掌が、秈荷神社の社掌に任命され、村杜鹿島神社は廃絶し、 20代社掌米谷實久は失職する。
行われたという。 ☆ 廃絶後の神具や文書・資料は、弟・実清の家系(中田町)に保管されている。 |
【歴代社掌・神職】[編集]
歴 代 | 法号・氏名 | 生・没 年月日 | 備 考(僧官・僧位、他) *中興以前は不詳 |
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中興初代 | 常善院 圓海 | 生没年月日不明 | 1360年(南北朝時代) 開祖600年後の”中興の祖” |
2代 | 常善院 圓弘 | 生没年月日不明 | |
3代 | 常善院 勝尊 | 生没年月日不明 | |
4代 | 常善院 亮舜 | 生没年月日不明 | |
5代 | 常善院 宥覧 | 生没年月日不明 | |
6代 | 圓藏院 宥傳 | 生没年月日不明 | |
7代 | 威徳院 規澄 | 生没年月日不明 | |
8代 | 常善院 秀豊 | 生没年月日不明 | |
9代 | 般若院 三澄 | 生没年月日不明 | |
10代 | 金剛院 舜清 | 生没年月日不明 | |
11代 | 威法院 榮澄 | 生没年月日不明 | 1656年三宝荒神社の”別当”になる (大寺の寺務を総括した僧) |
12代 | 金剛院 榮源 | 生不明~没:1705.閏4.10 | 権大僧都・法印(追贈) |
13代 | 常善院 榮尊 | 生没年月日不明 | |
14代 | 常善院 榮順 | 生没年月日不明 | |
15代 | 常善院 亮榮 | 生没年月日不明 | |
16代 | 常善院 宥範 | 生不明~没:1830.9.19 | 権僧都・法印 |
17代 | 常善院 天隣 | 生没年月日不明 | 1851年 導師 |
18代 | 常善院 天隆
米谷 宮穂 |
生不明~没:1879.?.? | 1868年 神仏分離令 <王政復古>
復飾【還俗】(げんぞく) |
19代 | 米谷 泰治 | 生:1843.1. 8~没:1892.12.20 | 少講義、7等司業 (旧姓・渥美泰治)
18代米谷宮穂の三女すゑと婚姻、宮穂の養嗣子となる |
20代 | 米谷 實久 | 生:1876. 8. 2~没:1945. 9. 6 | 鹿島神社廃絶、最後の社掌
【経歴】 参照 |
- | 米谷 正九郎 | 生:1907. 2.21~没:1992. 7.31 | 1943.10.22、家督相続・戸主継承となる(荒川区尾久)
妻・冨美枝(旧姓・佐藤) 共に千葉県松戸市馬橋で逝去。 子供は、“5男2女” 神官を引き継ぐことなく、それぞれ独立 |
【関連事項】[編集]
・神宮寺[編集]
• 奈良時代頃から、寺が、「神社」に付属して置かれるようになった(神仏習合)
• 社僧を置き、寺務の統括を行う。 ☆社僧とは、神社に所属して仏事を行う僧。
• 神護寺、別当寺、宮寺、神宮院・・・とも呼ばれる。
• 明治元年(1868年)、明治政府より神仏分離令により、神社、寺院として独立、あるいは、廃絶した神社も多い。
・秈荷神社[編集]
社格:村社 祭神:経津主命(ふつぬしのみこと)、倉稲魂命(くらいねたまのみこと)
合祀:・賀茂神社(祭神・別雷命) ・神明社(祭神:天照皇大神) ・秋葉神社(祭神:加具土命)
(ぜんかじんじゃ) 宮城県登米市東和町米谷字秈荷56
・法印の称号[編集]
修験道《奈良時代初頭の「役小角」(えんのおずぬ)、を祖とし、護摩(ごま)を焚き、呪文を唱え、
祈祷をして、難行・苦行を行って、霊験を得る山岳信仰》の、修験者(山伏)の尊称としても用いられた。
・『米谷』という国内の地名や、読み方について[編集]
<地 名>
• 奈良県奈良市米谷町 (大和国添上郡)・・・まいたに
• 兵庫県宝塚市米谷 (摂津国川辺郡)・・・まいたに
• 兵庫県宝塚市米谷清 (摂津国川辺郡)・・・まいたにきよし
• 宮城県登米市東和町米谷 (陸奥国登米郡)・・・まいや
• 宮城県遠田郡小牛田町北浦米谷浦 (陸奥国遠田郡)・・・まいやうら
<読 み>
こめたに、こめや、よねや、よねたに、まいや、まいたに・・・。
☆ 昭和47年までの米谷郷土史編纂委員会の調査による。姓の読みは、日本各地にそれぞれの読みがあって、定かでない。
・東和町米谷(まいや)の地名の由来[編集]
東和町の東陽寺裏庭には、米谷(まいや)の地名の由来となった、「米渓ヶ泉」と呼ばれる清泉があります。
『住古この泉より白米を食する僧等がおり里人奇瑞の事と地名の「前谷」を「米谷」と改めた。』米谷(まいや)の地名由来の泉である。
(東和町教育委員会の説明標識と東陽寺HPによる)
同寺は、仙台藩の伊達騒動「樅の木は残った」で有名な原田甲斐の菩提寺です。
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地名の由来
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・合祀された鹿島神社をルーツとしている、米谷(まいや)姓の人々[編集]
• 宮城県登米市内 中田町1軒・・・東和町米谷に居住者無し。
• 千葉県松戸市馬橋から独立して、千葉県、埼玉県、神奈川県に在住。・・・馬橋に居住者無し。
☆ 明治時代の戊辰戦争で活躍した、登米市登米(とよま)の本覚寺に墓がある、仙台藩士・米谷吉郎右衛門氏に関わる系統や、
戦国時代の伊達政宗配下によって謀殺されたという、米谷城城主で葛西氏の家臣・米谷常秀氏に関わる系統、
および岩手県大船渡市にあるスーパー・マイヤの系統は、本件:陸奥国米谷の鹿島神社の系統に関連するかは不明。
☆ 登米市東和町役場にて作成された米谷家系図の資料をもとに確認。
【参考文献】[編集]
4.1 「東和町米谷郷土史年表」 米谷郷土史編纂委員会 昭和48年3月発行
4.2 「東和町米谷郷土史年表付録」 米谷郷土史編纂委員会 昭和48年3月発行
4.3 「東和町米谷家系図」 登米市東和町役場 平成14年8月作成
4.4 宮城県神社庁 HP
4.5 弟・実清の家系に保管されている資料
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19代 免状
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20代 免状
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