ブロニスワフ・フーベルマン
ブロニスワフ・フーベルマン(Bronisław Huberman, 1882年[1]12月19日[2] - 1947年[3]6月16日[4][5][6])は、ポーランド出身のヴァイオリン奏者。[7]
チェンストホヴァ出身。[8][9]父[10]ヤンキエル[11][12]は弁護士[13][14][15]であったが、熱烈な音楽愛好家であり、幼い息子の音楽の才能を認めてヴァイオリンの手解きをした。[16]5歳の時には連れて行かれたサロン・コンサートでミエチスワフ・ミハウォヴィチの演奏を聴き、その演奏した曲を記憶を頼りに弾きこなした。[3]6歳の時にワルシャワ音楽院に入学し、[17]ミハウォヴィチにヴァイオリンを師事したが、数ヶ月でミハウォヴィチの腕前を超えたため、1年ほどマウリシー・ローゼンの許でヴァイオリンを学ぶようになった。[18]その後、イシドール・ローゼン・ロット[19]やワルシャワ歌劇場のコンサートマスターであったスタニスワフ・バルツェヴィチの各氏にもヴァイオリンを学んだ。[20]ワルシャワ音楽院で学んでいた7歳の時には演奏会に出演し、ルイ・シュポアのヴァイオリン協奏曲第2番[21][22]を演奏している。[23]1892年にルートヴィヒ・ギンスベルク[24]から援助を受けて一家でベルリンに移住し、[3][25]ベルリン王立音楽院のヨーゼフ・ヨアヒムと面会して演奏を聴いてもらい、王立音楽院の入学を許された。[26]王立音楽院では主にヨアヒムの助手であるカール・マルケスから指導を受けた[27]が、密かにカロル・グレゴロヴィチの薫陶も受け、[28]入学から9か月で王立音楽院を去った。[29]1893年にはフランクフルトでフーゴ・ヘールマン、[30]パリでマルタン・マルシック[21]の各氏にわずかな指導を受けた。[31]1891年頃にカールスバートやマリアーンスケー・ラーズニェで演奏[32]してから演奏活動も活発に行い、ベルリン王立音楽院に入学した年には皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の御前で演奏して皇帝からヴァイオリン[33]を贈られている。[34]1894年にはロンドンで開かれたアデリーナ・パッティの告別コンサートに招待されて好評を博し、[35]パッティが翌年にウィーンで開いた告別コンサートにも招かれることとなった。[36]1896年にはウィーンの楽友協会ホールでヨハネス・ブラームスのヴァイオリン協奏曲を演奏し、客席にいた作曲者をフーベルマンの為のヴァイオリンとオーケストラのための幻想曲の作曲を約束させるほど感動させた。[37]1896年から翌年にかけてアメリカに演奏旅行に出てカーネギー・ホールに初登場[38]し、[39]1897年から翌年にかけて冬のロシアにも演奏旅行に出かけた。しかし、1898年から過労のため一時的に演奏活動から撤退し、[40][41]オイゼビウス・マンディチェフスキの許で音楽理論を学んだ。[30]1902年から演奏活動を再開し、ミュンヘンで8夜で16曲ものヴァイオリン協奏曲を演奏する企画を成功させている。1903年にはジェノヴァでパガニーニの使用していたヴァイオリンを使って演奏し、ヴァイマル大公とアイゼナハ大公から芸術科学勲章を贈られた。[42]1910年にはロンドンでベルリン出身の女優であるエルザ・マルグリート・ガラフレスと結婚して一児を儲けたが、[40]1918年に離婚している。[30][43]第一次世界大戦を期に汎ヨーロッパ主義に傾倒するようになり、演奏活動の傍らでアメリカをモデルとしたヨーロッパ統一の構想について講演したり新聞に寄稿したりした。[44]1920年にはパリで14回の公演をこなし、[45]1922年からヴィルヘルム・フルトヴェングラーの指揮するベルリン・フィルハーモニー管弦楽団[46]と度々共演するようになった。[40]1933年にナチスが政権与党となると、ドイツでの活動をすべてキャンセルした。[47][48]1934年から2年間に渡ってウィーン国立音楽院で教鞭を執り、[30]1936年にパレスチナ交響楽団を設立。[24][49][50]同年、フーベルマンの使っていた2挺のストラディヴァリウスのヴァイオリンの1挺が盗難に遭い、これはフーベルマンの生前には発見されなかった。[51]1937年にはスマトラ島パレンバン付近で飛行機の墜落事故[52]に遭い、腕と手を負傷した[53][54][55]が、翌年にはスイスのコルシエ=シュル=ヴヴェに定住して集中的な理学療法を受けて[42]復帰し、12月にオイゲン・シェンカーの指揮によりパレスチナ交響楽団と初共演を果たした。[4][56][57]第二次世界大戦が始まると、ヨーロッパにいるポーランド難民の救済に携わるようになり、住まいのあるスイスへの帰国が困難になったことから暫くアメリカ[58]に演奏活動の中心を置くようになった。戦後、1945年にスイスに戻り、翌年にはヨーロッパ、エジプト、パレスチナの各地に演奏旅行に出たが、5月に骨折した足の治療の難航により著しく体調を崩した[42]ため、1946年4月にチューリヒで行った演奏会が、最後の公開演奏となった。[4]
コルシエ=シュル=ヴヴェ[59]の自宅[60]にて死去。[61]
脚注[編集]
- ↑ “ON THIS DAY &124; Violinist Bronislaw Huberman Born in 1882”. 2023年4月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月12日閲覧。
- ↑ “Bronislaw Huberman, Polish violinist, 19 December 1882 - 16 June 1947 by”. 2023年4月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月12日閲覧。
- ↑ 3.0 3.1 3.2 “Huberman Bronisław | Wirtualny Sztetl”. 2023年4月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月12日閲覧。
- ↑ 4.0 4.1 4.2 “Bronisław Huberman: From child prodigy to resistance fighter against National Socialism”. 2023年4月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月12日閲覧。
- ↑ 命日を6月14日とする資料もある。(Götz, Helmut (1967). Bronislaw Huberman and the Unity of Europe. Tip. Ca. & P.. p. 11. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。OCLC 898608302)
- ↑ 6月15日を命日とする資料もある。(ハルトナック, ヨーアヒム「ブロニスラフ・フーバーマン」『二十世紀の名ヴァイオリニスト』松本道介訳、白水社、1998年、130頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784560037386。)
- ↑ “Bronislaw Huberman and the Orchestra of Exiles – Tamino”. 2023年4月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月12日閲覧。
- ↑ ザモシチやワルシャワを生誕地とする資料もある。(Kedziora, Andrzej (2012年12月29日). “HUBERMAN BRONISŁAW (1882-1947) jeden z najwybitniejszych wirtuozów skrzypiec XX wieku”. Zamosciopedia. 2023年4月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月12日閲覧。)
- ↑ フーベルマン家の出自をザモシチと推測する資料もある。(Cios, Janek (2016年4月5日). “Bronisław Huberman wirtuoz skrzypiec a Zamość”. Życie Zamościa. オリジナルの2023年4月13日時点におけるアーカイブ。 2023年4月13日閲覧。)
- ↑ 実父は1894年にフーベルマンにストラディヴァリウスのヴァイオリンを贈った伯爵のヤン・ヴワディスワフ・ザモイスキではないかとする見解もある。(Hereta, Jadwiga (2012年7月10日). “HISTORIA JAK Z BAJKI”. Tygodnik Zamojski. オリジナルの2023年4月13日時点におけるアーカイブ。 2023年4月13日閲覧。)
- ↑ 父親の名前を「ヤコブ」とする資料もある。(“Jacob Hubermann (c.1849 - 1899) - Genealogy”. 2023年4月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月12日閲覧。)
- ↑ 父親の名前について、元々の名前がヤンキエル(Jankiel)であり、後にヤクブ(Jakub)に改名したとする資料もある。(アーカイブ 2019年1月13日 - ウェイバックマシン)
- ↑ キャンベル, マーガレット『二十世紀の名ヴァイオリニスト』岡部宏之訳、白水社、1998年、176頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784488002169。
- ↑ 父親の職業を弁護士助手とする資料もある。(Kedziora 2012)
- ↑ 父親の職業を音楽学校の教師とする資料もある。(“Encyklopedia Częstochowy - Huberman Bronisław”. 2023年4月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月12日閲覧。)
- ↑ フーベルマンは4歳の誕生日に父親からヴァイオリンを与えられ、毎日数時間のヴァイオリンの練習を課せられたという。(Tamino 2022)
- ↑ ハルトナック 1998, p. 132
- ↑ “Ruch Muzyczny”. 2023年4月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月12日閲覧。
- ↑ アーカイブ 2022年8月29日 - ウェイバックマシン
- ↑ “Bronisław Huberman - od cudownego dziecka do bojownika przeciwko nazizmowi”. 2023年4月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月12日閲覧。
- ↑ 21.0 21.1 平林, 直哉『クラシック中毒』青弓社、2003年、38頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784787271716。
- ↑ ピエール・ロードのヴァイオリン協奏曲第7番を演奏したとする資料もある。(“wykonawcy”. 2023年4月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月13日閲覧。)
- ↑ “Bronisław Huberman - od cudownego dziecka do bojownika przeciwko nazizmowi”. 2023年4月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月13日閲覧。
- ↑ 24.0 24.1 “10 October 2019: The Ludwig Ginsberg Collection”. 2023年4月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月13日閲覧。
- ↑ ハルトナックによれば、「弁護士フーバーマンは彼の地位を捨て、すべての家財を売り払って旅費を調達し、妻と子供を連れてベルリンに行」ったという。(ハルトナック 1998, p. 132)
- ↑ “Bronisław Huberman”. 2023年4月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月13日閲覧。
- ↑ “Polish orchestra is renamed after violinist Bronislaw Huberman”. The Strad. (2012年7月10日). オリジナルの2023年4月13日時点におけるアーカイブ。 2023年4月13日閲覧。
- ↑ アーカイブ 2022年8月30日 - ウェイバックマシン
- ↑ ハルトナック 1998, p. 132
- ↑ 30.0 30.1 30.2 30.3 “Huberman, Bronisław Elsa Galafrés”. 2023年4月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月13日閲覧。
- ↑ ハルトナック 1998, p. 132-133
- ↑ “BRONISŁAW HUBERMAN CZYLI ZJEDNOCZENIE EUROPY I SKRZYPCE”. 2023年4月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月13日閲覧。
- ↑ 贈られたヴァイオリンはザモイスキ伯爵の援助で手に入れた名器とは別のストラディヴァリウスである。(Sefer-Częstochowa vol.1)
- ↑ “18 Jun 1947 - Huberman: Violinist And Philosopher - Trove”. 2023年4月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月13日閲覧。
- ↑ “Founder of the Israel Philharmonic Orchestra, violinist Bronislaw Huberman, died 70 years ago today”. Gramilano. (2017年6月16日). オリジナルの2023年4月13日時点におけるアーカイブ。 2023年4月13日閲覧。
- ↑ キャンベル 1998, p. 176
- ↑ 中村, 稔『ヴァイオリニストの系譜』音楽之友社、1988年、85頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784276216167。
- ↑ “Carnegie Hall”. 2023年4月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月12日閲覧。
- ↑ アメリカ初登場時、ニューヨーク・タイムズ紙のリチャード・オールドリッチから「才能は一種の未消化のかたちで表れている」と評され、文句なしの成功というわけにはいかなかった。(キャンベル 1998, p. 177)
- ↑ 40.0 40.1 40.2 “Bronisław Huberman: From child prodigy to resistance fighter against National Socialism”. 2023年4月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月12日閲覧。
- ↑ 第一次世界大戦の影響で1914年から1918年にかけても演奏活動を休止している。(濱田, 滋郎「ブロニスラフ・フーベルマン 今世紀前半の最も個性的なヴァイオリニスト 真の名人芸といえるポルタメントの妙味」『クラシック 続・不滅の巨匠たち』音楽之友社、1994年、181頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784276960121。)
- ↑ 42.0 42.1 42.2 “Bronisław Huberman - Biography | Artist | Culture.pl”. 2023年4月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月14日閲覧。
- ↑ エルザはエルネー・ドホナーニと再婚し、フーベルマンとの間に生まれたヨハネスの親権はエルザ側が得た。一方で、フーベルマンは、1916年にウィーンで、後に私的秘書となる看護師のイダ・イッベケンと知り合っている。(アーカイブ 2023年4月14日 - archive.today)
- ↑ “Bronisław Huberman: From child prodigy to resistance fighter against National Socialism”. 2023年4月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月12日閲覧。
- ↑ 濱田 1994
- ↑ フーベルマンはフルトヴェングラーがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮するようになる前から同管弦楽団と共演していて、最初の共演の記録は1893年8月15日のスヘフェニンゲンでのコンサートである。(“Bronislaw Huberman, Brief an Furtwängler”. 2023年4月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月12日閲覧。)
- ↑ “Huberman in recital | Arbiter of Cultural Traditions”. 2023年4月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月14日閲覧。
- ↑ 「ナチスが政権を獲得した時点で、フーベルマンと同じくユダヤ人であったアルトゥール・シュナーベルはベルリン楽壇のゼニス」であり、「ナチスは文化迫害者としてのイメージ拡散をおそれて、この二人のベルリン残留を強く望んだ」。こうした中で「善意のフルトヴェングラーがこの二人の親友にベルリン・フィルの定期演奏会のゲスト・ソリストとして出演してくれと、要請した」。この要請に対し、シュナーベルは「ナイン」とだけ打電したが、フーベルマンは「フルトヴェングラーの個人的善意に感謝を表しつつ、すべてのユダヤ人音楽家がベルリンで演奏できる日が来ない限り拒否せざるを得ない旨、暖かみのある、しかし格調高い手紙を送った」とのこと。(中村 1988, pp. 81-82)
- ↑ パレスチナ交響楽団は、1936年12月にアルトゥーロ・トスカニーニを招いてテル・アヴィヴ、エルサレム、ハイファ、カイロなどで演奏会を開いたが、フーベルマンは。濱田によれば「おそらく交響楽団の設立が自分の売名行為ではないことを示すために、トスカニーニの指揮という好機であったにもかかわらず、それらの演奏会で一度も独奏者に立たなかった」という。(濱田 1994)
- ↑ 牛山によれば、フーベルマンはオーケストラに関して細かく几帳面で、全てのコンサートやリハーサルの開始時間を厳守するよう求めた。また服装についてもうるさく、「願わくばそれを聴衆にも要求した」という。また、設立当初のパレスチナ交響楽団との共演を断った理由として、牛山は「彼の登場によって、脚光を浴びるのが、彼の生まれたての〝赤ん坊〟パレスチナ交響楽団でなくなることのないように配慮したのだった」と説明している。(牛山, 剛「几帳面なフーベルマン」『イスラエル・フィル誕生物語』ミルトス、2000年、44-46頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784895860208。)
- ↑ フーベルマンは1919年にウィーンでもヴァイオリンを盗まれたが、これは直ぐに犯人が楽器商に売りに来たところを捕縛され、すぐに手元に戻ってきた。その後、フーベルマンは楽器に保険をかけ、1936年にニューヨークで2度目の盗難に遭った際には3万ドルの補償金を得た。(“The thief, his wife and the ‘Huberman’ Strad”. The Strad. (2022年10月28日). オリジナルの2023年4月14日時点におけるアーカイブ。 2023年4月14日閲覧。)
- ↑ “09 Oct 1937 - HUBERMAN'S INJURIES - Trove”. 2023年4月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月14日閲覧。
- ↑ “INJURED IN AIR CRASH”. The New York Times. (1937年10月7日). オリジナルの2023年4月14日時点におけるアーカイブ。 2023年4月14日閲覧。
- ↑ 濱田によると「ジャワのスマトラへ演奏旅行に赴いたさい、空港で飛行機が接触事故を起こし、両腕をけがしてしまった」とのことである。(濱田 1994)
- ↑ この事故におけるフーベルマンの自己の程度について、手首と指2本の骨折とする資料もある。(“A JEWISH TELEGRAPH NEWSPAPER”. 2023年4月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月14日閲覧。)
- ↑ フーベルマンがパレスチナ交響楽団と初めて共演した時の印象を、オーボエ奏者のハインツ・ベルガーが回想している。ベルガーはフーベルマンを「とにかく字彼は偉大な人物だった」と評し、「いつも彼はわれわれに最大限の力を出すように要求した。しかしまず自分自身が、最大限の力を出していた」と回想する。一方でベルガーによれば、「フーベルマンは、われわれ一人ひとりを目で追って、たくさんの批評をした」が、「彼は斜視だったので、話しかけている人を彼は見ていないように見え」、「われわれは、彼がだれをさしているのか判らなくて返事をしないこともあった」という。(牛山 2000, pp. 54-55)
- ↑ 『イスラエル・フィル誕生物語』では、一九四〇年代初め頃のエピソードとして「ポーランドの指揮者イグナッツ・ヌマルク」と共演した時のエピソードが紹介されている。牛山によれば、航空機事故による怪我から回復したフーベルマンは、ヌマルクの指揮で演奏することとなったが、「やがてこの指揮者とフーベルマンとの間に、〝相性〟というものがまったくないことが判ってきた。フーベルマンは機会があれば、このポーランド人を苦しめた。例えば『テンポが速すぎる』『遅すぎる』『できれば、とにかく私のテンポに合わせてくれないか!』などと文句をつけた」という。「あるリハーサルの日、休憩時間にフーベルマンは用を足すためにトイレに行った。ところがドアが閉まっていて使用中だった」のだが、そのトイレにはヌマルクが入っていた。いらついたフーベルマンが無理矢理ドアを開けようとしたのだが、ヌマルクはフーベルマンへの仕返しとしてこう言ったという。「ここでテンポを決めるのは私だ……」(牛山 2000, pp. 46-47)
- ↑ 1941年にアメリカ国籍を取得。(“Bronislaw Huberman”. 2023年4月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月14日閲覧。)
- ↑ “s12”. 2023年4月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月14日閲覧。
- ↑ Brown, Kellie D. (2020). The Sound of Hope: Music As Solace, Resistance and Salvation During the Holocaust and World War II. McFarland Publishing. p. 291. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9781476670560
- ↑ 終焉の地をナン=シュル=コルシエ(Nant-sur-Corsier)と表記する文献もある。(アーカイブ 2023年4月13日 - ウェイバックマシン)
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