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クララ・ハスキル

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クララ・ハスキル(Clara Haskil, 1895年[1]1月7日[2] - 1960年[3]12月7日[4])は、ルーマニア出身のピアノ奏者。[5]

ブカレスト出身。[6][7]3歳の頃より母親[8]からピアノの手ほどきを受けた。[9]1898年には妹ジャナ[10]が生まれたが、その年の12月には住居のある建物が火事になり、ベーゼンドルファーのピアノこそ無事だったものの、家族を救ったイサークは肺を病み、翌年に亡くなっている。[11]1899年にアヴラム[12]が友人とベルタの家にやってきた際、合唱指揮者をしていたその友人[13]に才能を認められ、ブカレスト音楽院の声楽教師であるジョルジェ・ステファネスクにヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのソナチネを演奏を聴かせて[14]高く評価された。[2]1901年にブカレスト音楽院に入学して[15]マリア・ゼニデ[16][17]にピアノを師事。同年末に、再びベルタの家にやってきたアヴラムがハスキルの成長に驚き、ベルタにハスキルをウィーンに連れて行って音楽を学ばせたいと申し出た。ベルタのほうでアヴラムの申し出は一旦断られたが、ハスキルはディミトリエ・ディニク[18]に連れられてルーマニア王妃エリザベタの御前で演奏を披露。王妃はハスキルを何度も王宮に招き、ハスキルに3年間の奨学金を支給[19]した。アヴラムの説得と王妃の奨学金の支給により、1902年にはアヴラムとウィーンに留学し、アヴラムと親交のあったリヒャルト・ロベルトの許で3年間学んだ。[20][21]その年の11月にはウィーンでデビュー。[2]1905年にはアヴラムの考えにより、ロベルトによるガブリエル・フォーレへの推薦状を持ってパリに移住することとなった。[22]パリでは、パリ音楽院の院長だったフォーレから音楽院での勉強を勧められて[23]フォーレの弟子であるジョゼフ・モルパンに師事し、翌年入学した音楽院の予科でヨウラ・ギュラーと知り合い、[2]ソフィー・シェネ[24][25]のクラスで学んだ。1907年には脊椎側弯症を発症しつつ、パリ音楽院の本科に入学し、1910年までアルフレッド・コルトーのクラスで学んだ。但し、コルトーは休講も多く、ハスキルを邪険に扱っており、[26][27]コルトーの代講としてラザール・レヴィの指導を受けた。[2]在学中にかねてより気晴らしで弾いていたヴァイオリンの腕試しに、1909年に青少年フランス連合主催のコンクールのヴァイオリン部門に出場して優勝している[28]が、脊椎側弯症の亢進により、ヴァイオリン奏者としてのキャリアを積むことはなかった。[29]また叔父のアヴラムが1909年にハスキルとブカレストに帰郷した際、持病の肋膜炎で倒れたため、1911年まで母が叔父の代わりに付き添うことになった。1911年にチューリヒで演奏した時、終演後にフェルッチョ・ブゾーニが訪ねてきて[30]ハスキルをプロイセン芸術アカデミーで学ぶように誘ったが、母がそれを断っている。[2]1912年にアヴラムと共にローザンヌに滞在した際、エルネスト・シェリングと親交を結び、シェリングの伝手でイグナツィ・パデレフスキの知己を得た。[31]しかし脊椎側弯症の進行を心配したシェリングの強い勧め[32]で1914年から1918年までベルク=シュル=メールで脊椎側弯症の治療を行うこととなり、[33]この治療期間中の1917年に母と死別している。[2]1919年[34]にはシャトー・デーでリサイタルを開いたが、久々の人前での演奏だったこともあって舞台に上がる直前に怖気づく癖[35]がついてしまった。[36]1924年にはアメリカに演奏旅行に出て[37]、1925年[38]と1926年にもアメリカに出かけ、[2]1926年にはイギリスのマンチェスターに行ってハミルトン・ハーティの指揮するハレ管弦楽団と共演し、ヴヴェイでパブロ・カザルスと知り合う。[39]1927年にはウジェーヌ・イザイと共演してルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全10曲の連続演奏会を行っている。[2]1934年にはポリドール・レーベルと契約して初めて録音活動を行ったが、叔父のアヴラムと死別。[40]1935年にはポリニャック公爵夫人ウィナレッタ・シンガーのサロンでディヌ・リパッティと知り合い、親交を結んだ。[41]1940年にはニキタ・マガロフと知り合ったが、[42]第二次世界大戦による戦禍を避けて1941年にはジャナを含めたラジオ放送管弦楽団のメンバーたちとマルセイユに避難。[43]マルセイユでは再会した旧友のギュラーの伝手でパストレ伯爵夫人[44]と知り合い、カンヌやモンドルトンで過ごすことが出来たが、この頃から頭痛に悩まされるようになった。[45]1942年には頭痛が激しくなり、[46]医師のジャン・ハンブルガーの診察を受けて脳腫瘍と診断されている。その年のうちに手術が行われ、[47]その年の6月には退院して元通りに演奏ができるようになった。[48]9月には警察に連行されたが、直ぐに釈放されている。[49]この事件を受けて、11月にはジュネーヴに移住している。[2]1944年にはミシェル・ロシエ[50]と知り合い、彼をマネージャーにした。[33]1948年にはヴヴェイでジョルジェ・エネスク[51]と共演し、その翌年にはマネージャのロシエの尽力によりスイス国籍を取得した。[52]1950年にはカザルスからプラド音楽祭に招待されてアルテュール・グリュミオーと初共演。[53]1953年にはヴヴェイでチャールズ・チャップリンと知り合う。[54]1958年にはローザンヌのフランス領事館でレジオン・ドヌール勲章のシュヴァリエ章[5]を授与される。[2]1959年にはロンドンでカルロ・マリア・ジュリーニと共演。[55][56]

1960年にはミュンヘン等でグリュミオーと共演し、ウィーンでジュリーニと共演。12月にはパリのシャンゼリゼ劇場でグリュミオーと共演した後、グリュミオーとブリュッセルで演奏するためにパリを出発。ブリュッセル南駅に到着時にグリュミオーが自動車事故で指を痛めていたため夫人がホームまで出迎えたが、駅の1階ロビーに通じる大きな階段を降りようとしたところでつまずいて転倒。[2][57]ハスキルは救急車でサン・ジル市民病院へ搬送され、レントゲン撮影の後、傷を縫合。[58]しかし空きが無かったため、ロンシャン・クリニックに救急車で搬送され、[59][60]そこで手術[61]を受ける。[2][62]しかし、手術の甲斐なくブリュッセルのロンシャン・クリニックで亡くなっている。[63]

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. Rodríguez, Virginia Sánchez (2022年11月30日). “The (unjustly forgotten) genius of pianist Clara Haskil”. The Conversation. オリジナルの2023年7月1日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/CpyUL 2023年7月1日閲覧。 
  2. 2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 2.11 2.12 クララ・ハスキル・コレクション 1934-1960(23CD) | HMV&BOOKS online - VN035”. 2023年6月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月22日閲覧。
  3. In memoriam Clara Haskil (7 ianuarie 1895 – 7 decembrie 1960) | Muzeul Național "GEORGE ENESCU"”. 2023年7月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月1日閲覧。
  4. Clara Haskil (piano) - audite”. 2023年6月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月29日閲覧。
  5. 5.0 5.1 Haskil, Clara | Jewish Women's Archive”. 2023年6月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月29日閲覧。
  6. 「ハスキル家はブカレストの中心部を南西に走るカララシ大通りに通じるブラヴィ通りに面した煉瓦作りの建物に住んでいた。」(畠山, 陸雄『クララ・ハスキル 神が地上に遣わしたピアノの使徒』ハンナ、2011年、18頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784560037386)
  7. 両親について、畠山は「クララの父親イサク(ISAAC)はブカレストで一八八九年にベルタ・モスコーナ(BERTHA MOSCONA)と結婚している。イサク三十二歳、ベルタは二十四歳であった。」と記述している。父親の出自については詳らかではないが、ユダヤ人の一族で、父方のハスキル家について「ベッサラビアのユダヤ人社会で父方のハスキル家はいわば指導者階級の一翼を担っていたようであり、ハスキルという言葉はそもそもヘブライ語で『賢人』という意味」だという。母親の家系については「ベルタ・モスコーナ(後にモスクーナに呼称が変わる)の家系は古く、十四世紀にさかのぼる。十六世紀にスペインを中心に猛威を振るった異端審問を避けてそれまで住んでいたスペインからオスマン帝国領に逃れている。」「モスコーナ一族は結局当時はオスマン帝国領だったブルガリアの首都ソフィアの南東部に移動し、定住している」という。(畠山 2011, p. 16)
  8. 母ベルタは、ソフィアで教職についていたダヴィッドとレベッカ・アラジェムの娘として生まれた。ダヴィッド夫婦は、「マイヤー、クララ、ベルタ、アヴラム、エルネスティネとイサクの六人の子どもに恵まれ、後に一家挙げてルーマニアのブカレストに移住」している。ただ、程なくしてダヴィッドはレベッカを捨ててウィーンに行ってしまい、レベッカはユダヤ人社会の援助を受けながら子供たちを育てることになった。長男のマイヤーは独立して製紙業で成功をおさめたが妹や弟の面倒はあまり見ず、「長女のクララは十四歳でブカレスト音楽院に入ってピアノを学ぶが、二十歳で亡くなってしまう。優れた才能の持ち主であったらしく、次女のベルタは姉を偲んで後に我が子の一人に名前を付けている。それが本書の主人公クララ・ハスキルである」という。ベルタも「優れたピアニストであったが、語学の才能に恵まれ、独学でドイツ語とフランス語を習得しtユダヤ人社会で教えていた」が、「母親のレベッカを最もよく支えた」人でもあった。なお、エルネスティネはレベッカと衝突して家を出たが。数学の才能に長けたイサクは精神的にも経済的にもモスクーナ家を支え、「ルーマニアで最初に設立された保険会社の支配人となる」(畠山 2011, p. 17)が、1925年に癌で亡くなっている。(畠山 2011, p. 63)
  9. 「三歳になって姉リリーが弾くピアノを真似しようと、ピアノを触りたがった。さらに、姉が弾いたメロディを覚えてピアノで再現しようともした。その様子を見て母親は彼女にピアノを教えると、クララはすぐに耳の良さと指使いに非凡な才能を見せ始めている。」(畠山 2011, p. 18)
  10. ジャナは1917年にパリ音楽院リュシアン・カペーにヴァイオリンを師事(畠山 2011, p. 246)し、1930年にデジレ=エミール・アンゲルブレシュトのによるラジオ放送管弦楽団の設立に加わった。(畠山 2011, p. 71)
  11. 畠山 2011, p. 18
  12. アヴラムは、医学の勉強のためにウィーンに行っていた(畠山 2011, p. 17)が、肌に合わないとして途中で放棄していた。(畠山 2011, p. 21)
  13. 畠山の記述では、その友人の名前は「D・G・キリアック」(畠山 2011, p. 18)と記されており、ルーマニアの作曲家ドゥミトル・ジョルジェスク・キリアク(Dumitru Georgescu Kiriac – Case de muzicien”. 2023年6月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月29日閲覧。)と同定出来る。
  14. 1度目は元調通り、2回目は移調して演奏した。(アーカイブ 2023年6月29日 - ウェイバックマシン)
  15. 畠山 2011, p. 20
  16. アーカイブ 2021年4月13日 - ウェイバックマシン
  17. ゼニデについて、1885年から1908年までピアノ教師として活動していたという文献がある。(Vizite prin vecini (II)”. 2023年6月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月29日閲覧。)
  18. CENTENAR CLARA HASKIL Un tragic destin artistic”. 2023年6月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月29日閲覧。
  19. 奨学金支給はその後2年延びた。(畠山 2011, p. 21)
  20. アヴラムはロベルトに会う前にテオドール・レシェティツキアントン・ドーアに面会している。特にドーアは、ウィーンの日刊紙『ノイエ・フライエ・プレス』にハスキルに初めて会った時の印象を「ある日ルーマニアの若い医師が七歳の少女を連れてきた。彼女は驚くべき才能の持ち主であった。まともな教育を受けていないというがその必要はなかった。」と述べている。(畠山 2011, p. 21)
  21. ウィーンに来て間もない頃、叔父に連れられて行った演奏会でヨーゼフ・ヨアヒムのヴァイオリンを聴き
  22. 畠山 2011, pp. 26-27
  23. 畠山 2011, p. 30
  24. アーカイブ 2023年6月29日 - ウェイバックマシン
  25. 畠山の記述では「シェネ夫人」と表記される。(畠山 2011, pp. 32)
  26. コルトーに師事した遠山慶子によれば、ハスキルは「コルトーもむつかしい人だったけど、ハスキルも、体が弱かったし、人種の問題もあって、シンプルな人じゃあなかった」(原文ママ)という。ハスキルがヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのピアノ協奏曲第21番を公開の場で演奏もせず、レコーディングもしなかったので、遠山が何故演奏も録音もしないのか尋ねたところ、最初に帰ってきた返事が「ディヌ(ディヌ・リパティ)があんまり完璧に弾くから私は弾かないのよ」(原文ママ)と答えた。遠山が「それでもあなたの演奏も聴いてみたい」と言うと、ハスキルは「コルトーが私にはあの曲は弾けないと言ったのよ。私みたいに、死ぬほど人の前で弾くのが怖い人に」と答え、その答えに遠山は震え上がった。それから「ピアノにむかうと、ハスキルは、最初のオーケストラの部分から、最後、第三楽章の終りまで、夢をみているように、澄んだ音で、しかもピアニッシモで」弾き、弾き終わった時にはハスキルも遠山も泣いていたという。また、遠山はハスキルから「あなたは、先生に可愛がっていただいていいわねえ」と声をかけてもらったこともあるという。遠山曰く「彼女、何か先生とすっきりいかなかったらしいのね。他の生徒は一所懸命に教えるのに、彼女はいつも後回しで、レッスンの時間が足りなくなる羽目になったんですって。まわりの人は、ハスキルは音楽性がすごいので、先生もあんまり教えることがないって思っていたようだけど。」とのことである。また、遠山によれば、ハスキルは晩年に「どうか私の音楽会のために時間をつくっていただけないでしょうか。先生に聴いて頂きたいと心より願っております」と、切々と訴えるような手紙をコルトーに出した。コルトーは彼女の演奏会に行かなかったが、ハスキルを毛嫌いしたり、ハスキルに無関心だったりしたわけではなく、ハスキルの演奏を聴きに行った遠山に「どうだった?」と尋ねていた。ある日、遠山がコルトーとのレッスンを終え、コルトーとレマン湖に散歩に出かけた時、コルトーはハスキルへの接し方について、「クララに必要なことは、放っておくことだ。どのような人にどのように教えるべきかを発見するのが、教師にとって一番むつかしいことだ。クララは、バランスが取れないような、孤独な時にもっとも素晴らしいもの生み出す才能なのだ。生涯満足をさせないことが、彼女を生かす道なのだ。」と言った。この言について、遠山は「私はクララに先生の気持ちを話してあげて、慰めたい誘惑に何度もかられたわ。でも、それは絶対にしてはならないことだと私にも身にしみてわかっていました。一人の芸術家が育つことは、本当に残酷なことなのね。そうして、本当の愛情には残酷がともなうの」と述懐している。(遠山, 慶子; 加賀, 乙彦 (1993). 光と風のなかで. 彌生書房. p. 181-184. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784841506761 )
  27. 「クララはコルトーを師と仰いで尊敬し慕ってもいて、戦時中の彼の態度を否定することはなかった。それに比してコルトーは、クララに対し素っ気ない第度を取り続けた。しかし内心では特に晩年のクララを高く評価し、そっと見守っていた。そのコルトーの真意は、クララが亡くなった日に放送された番組で示された。『クララ、あなたは本当に素晴らしかった』と。」(原文ママ)(畠山 2011, p. 238)
  28. 審査員にはジャック・ティボーがいた。(畠山 2011, p. 38)
  29. 「しかしヴァイオリンへの愛着は失っていなかったようで、晩年にスイスのヴァイオリニストのピーター・リバーと演奏していた時、リハーサルの合間にそれぞれの楽器を交換してヴァイオリンでメンデルスゾーンのコンチェルトの第一楽章を演奏して楽しんだという。晩年にたびたび共演したヴァイオリニストのアルテュール・グリュミオーとの間でもこのような話が伝わっている。」(原文ママ)(畠山 2011, pp. 38)
  30. 「ブゾーニはコルトーに勧められてクララの演奏を聴きにきたのだ。」(畠山 2011, p. 40)
  31. 畠山 2011, p. 41
  32. 「クララの健康状態の悪化を気遣った周囲の友人たちの強い勧めもあり、この年(一九一四年)の九月にベルク・シュル・メールにアヴラムとともに移り住む。同地への転居についてはシェリング夫妻が特に強く主張し、そのための費用も負担すると申し出ている。」(畠山 2011, p. 44)
  33. 33.0 33.1 Clara Haskil, her life, her work - Clara Haskil - International Piano Competition”. 2023年6月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月30日閲覧。
  34. 1919年に叔父とローザンヌに立ち寄った時、当地の音楽サークルに参加し、エミール=ロベール・ブランシェ、ギュスターヴ・ドレ、エルネスト・アンセルメやエミール・ウィリアム・ロシエ等と知り合った。(アーカイブ 2020年3月1日 - ウェイバックマシン)
  35. 癖の実例として、1930年10月のアムステルダムでの演奏会のハスキルの姿が挙げられる。「アムステルダムの演奏会での指揮者は、ピエール・モントゥ(一八七五~一九六四)でクララとは初対面。曲はショパンのピアノ協奏曲第二番。リハーサルはうまくいき、モントゥもクララのピアノに感動すら覚えていた。しかしながら本番の朝になってクララはいつもの怖じ気に見舞われ、演奏できないと言い出す。モントゥは曲目を代えようとも言うがクララはやはり駄目と頑張る。見るに見かねたマルシリ夫人が説得してやっと開演に漕ぎ着けた。蓋をあけてみれば演奏は大成功で、すばらしい出来栄えだったとモントゥは感心している。しかし、本番前のごたごたの影響か、以後しばらくはクララとの協演の話があってもモントゥはすぐには応じなかったという。」(畠山 2011, pp. 72-73)
  36. 「一九一九年の二月にはヴヴィの西のシャトーデーでリサイタルが開かれる。一九一三年十二月にローザンヌでサン=サーンスのピアノ協奏曲第四番などを演奏して聴衆に感銘を与えて以来の成功であった。しかもクララにとっては公衆の面前での演奏はその時以来だったので、久しぶりの演奏会にすっかりあがってしまって冷や汗ものだったようである。以後彼女はしばらくは舞台に上がれない程落ち込んでしまったという。彼女が舞台に出る直前あがってしまう癖は生涯彼女を悩ませている。」(畠山 2011, p. 52)
  37. 9月末にパリからニューヨークに渡り、カナダのモントリオールで最初のコンサートを開いた後、ボストンやニューヨーク等のアメリカの各都市を回った。「興行的にはツアーを請け負ったインプレサリオが弱体で、事前の準備や宣伝もよく行われず失敗であった」という。また、批評家受けも悪く「演奏スタイルや解釈、テンポ表現が地味でおとなしいと感じられ、新大陸の音楽風土とは合わなかったようである。」(畠山 2011, p. 62)
  38. 1925年には経済的に援助してくれていた叔父イサクが癌により死去している。(In memoriam Clara Haskil (7 ianuarie 1895 – 7 decembrie 1960) | Muzeul Național "GEORGE ENESCU")
  39. 畠山 2011, pp. 65-66
  40. 1932年頃からアヴラムの体調は悪化し、ハスキルはアヴラムの看病で演奏活動が停滞するようになった。ハスキル自身も体調を崩し、心配した姉リリーがブカレスト音楽院での教授職を辞して駆けつけている。姉のリリーや妹のジャンヌに留守を頼んで演奏会に出られるようになったが、出先でもハスキルは逐一電話をかけて叔父の様子を訊いていた。そんなハスキルに「アヴラムはますます執着し、他の姪たちの看病も受け付けなくなっていった」という。リリーが1934年にブカレストに戻り、ハスキルがポリドールと契約した矢先に、アヴラムは67年の生涯を閉じた。(畠山 2011, p. 76)
  41. 畠山 2011, p. 80
  42. 畠山 2011, p. 95
  43. 畠山 2011, p. 252
  44. パストレ伯爵夫人の本名はマリー=ルイーズ・ドゥーブル・ド・サン=ランベール(Marie-Louise Double de Saint-Lambert)である。(Chez la comtesse Lily Pastré”. 2023年7月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月1日閲覧。)
  45. 畠山 2011, pp. 104-107
  46. 頭痛が激しさを増すだけでなく、「ピアノを弾いている時に楽譜が見えなくなることもあった」り、ピアノ演奏に支障をきたしたりした。ハスキルが師のモルパンにあてた手紙の文言に従えば、「私のピアノは最悪です。指が動こうともしません。チェルニーの練習曲すらきちんと弾けないのです。」と言う状況であった。(畠山 2011, pp. 110-111)
  47. ハンブルガーは手を尽くして脳腫瘍手術の名医であるマルセル・ダヴィッドを招聘して手術に漕ぎつけた。「ダヴィッド博士は思いがけないことに、マルセイユまでの往復旅費と滞在費を請求するだけだった」という。
  48. 畠山 2011, pp. 111-116
  49. 「ドイツ占領軍の圧力により、ヴィシー政府が行ったこの時の一斉検挙は、結局四十八時間後には全員釈放されることで終わっている。しかしクララには強い衝撃だったようで、この後しばらくは疲労が回復せず、夜も眠れない日が続いていた。」(畠山 2011, pp. 118)
  50. 1919年にローザンヌでハスキルと知り合い、有力な後援者となったエミール・ロシエの息子である。(畠山 2011, p. 134)
  51. ルーマニアの王妃からの奨学金が打ち切られていた1907年頃、「ルーマニアの社会教育省から援助基金が授与された」が、これは「パリで活躍しているエネスクが同省から受けていた基金を辞退し、代わりにクララなどを推薦したことによって実現した」からであった。(畠山 2011, pp. 34)このことから、早いうちからエネスクがハスキルの才能を認めていたことが類推できる。
  52. 畠山 2011, p. 254
  53. 畠山 2011, pp. 162-163
  54. 畠山 2011, pp. 188-189
  55. 畠山 2011, pp. 219-220
  56. ジュリーニは、ロンドンのフェスティヴァル・ホールで初めてフレデリック・ショパンのピアノ協奏曲第2番を共演した時の印象について語っている。(アーカイブ 2023年6月25日 - ウェイバックマシン)ジュリーニがコンサートのリハーサルの朝に人気のないロイヤル・フェスティバル・ホールに入った時のことである。(アーカイブ 2023年6月25日 - ウェイバックマシン)薄明りの中でピアノの椅子から立ち上がり、ジュリーニにお辞儀をする影を見かけた。(アーカイブ 2023年6月25日 - ウェイバックマシン)その影はハスキルその人で、ジュリーニが何をすればよいか彼女に尋ねると、彼女は自分が協奏曲を最初から最後まで演奏して意見交換ができればと提案してきた。(アーカイブ 2023年6月25日 - ウェイバックマシン)そして、ハスキルはオーケストラの総奏パートを含めて最初から最後までピアニッシモで演奏した。ジュリーニは、この時のことをまるで奇跡のような、最高の経験の一つと述べている。(アーカイブ 2023年6月25日 - ウェイバックマシン)
  57. 到着したのは畠山によれば「ブリュッセルの中央駅」。「車の事故で指をくじいていたグリュミオーはあいにくクララを迎えに出られず、代わりに夫人を駅に行かせた。汽車から降りようとした時、夫人は手を課そうとしたが、クララはそれを断って一回に通ずるエスカレータに向かって歩く。エスカレータを下りる時、リリーとグリュミオー夫人はクララに手を差しのべたが、クララはまたも邪険に振り払った。その直後エスカレータの会談でクララはよろめき、手すりにしがみつこうとする。しかし手がすべり頭からつんのめってしまって、左のこめかみをしたたかに打ってしまった。頭から血がゆっくりと流れ出す。二人はあわててクララを引き起こそうとした。クララは自分の手を見て『手は大丈夫ね。……でも多分目が見えなくなってしまうかも』とその時つぶやいていたという。しかし彼女は立ち上がることができず、エスカレータの階段に座って担架を待った。」(畠山 2011, pp. 231-232)「グリュミオー夫人が救急車を呼びに行く間、クララはいつも持ち歩いている頭の薬をリリーに出してくれるように頼んでいる。気が動転していたリリーが探し出せずにいると、クララは『小さな銀色の小箱よ』と冷静に言っていた。さらにクララは『明日の演奏会はどうなるのかな』と言ったのに対し、リリーは『四月にできるわよ』と応じていた。しばらくして、今度は『ミュンヘンでの演奏会はできないね』とつぶやく。クララはこの演奏会が近づくのを気にしていた。」(畠山 2011, p. 232)この記述が正しければ、転倒時に意識はあったことが判る。
  58. サン・ジル市民病院は「寒い病院でレントゲンを撮った後、こめかみの傷を縫い合わせるのに二時間もかかっている。」(畠山 2011, p. 232)
  59. サン・ジル市民病院には「空き部屋がなかったため、再び救急車で市立病院に移された。クララは頭を打った後も常に意識ははっきりしていたが、痛みはまずます激しくなってきていた。急を聞いて駆けつけていたグリュミオーは、旧知の高名な外科医のエクトール医師を呼んで、クララの手当てを頼んでいる。」(畠山 2011, p. 232)
  60. 「新しい病院に着いた時クララの状態は予断を許さない状態になっていた。何人かの医師が呼ばれ、転倒の時かその結果かは分からないが、頭に内出血と骨折を発見する。医者の一人が、クララにその時のことを質問するが、彼女は突然目を閉じて黙ってしまった。リリーはまだショックが消えていないのか、訳の分からない事を口ごもりながら話すだけだった。」(畠山 2011, p. 232)
  61. 「医者たちは手術を試みるべきと言う。しかしリリーは決断することが出来ない。パリのダヴィッド教授に電話して意見を求めたところ、教授の意見は集まった病院の医者と同様、取るべき唯一の道は手術しかないとのことであった。リリーはやっと納得する。その時、すでに午後七時。」(畠山 2011, p. 232)
  62. 「すでに手術室に入っていたクララは、意識を失いかけながらも時々弱々しいうめき声をあげていた。最後の望みを賭けた開頭手術は九時過ぎに終わった。頭に包帯をぐるぐる捲かれたクララは、息はあったが意識がなくなっていた。真夜中近くジャナがパリから到着した。クララは憔悴した顔で寝入っていたが、息は弱々しかった。両手は力なく布団の上に置かれていた。」(畠山 2011, p. 232)
  63. 「そして、ついに彼女の呼吸が止まった。十二月七日、時間は午前一時の少し前。」(畠山 2011, p. 232)

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