You can edit almost every page by Creating an account. Otherwise, see the FAQ.

鎌倉四兄弟

提供:EverybodyWiki Bios & Wiki
移動先:案内検索

鎌倉四兄弟(かまくら よん きょうだい)は、実在した平安時代後期の武士、懐島景義大庭景親豊田景俊俣野景久ら四人の兄弟たちのこと。

略歴[編集]

保元の乱(1156年)に大庭景義大庭景親兄弟は朝命(後白河天皇の命令)に従い、仇敵である源義朝軍に従軍して戦う。源為朝に膝を矢で射抜かれて負傷し、歩行も難しい身となった大庭景義は家督を弟の大庭景親に任せて懐島(現在の神奈川県茅ヶ崎市円蔵)に隠棲。

保元の乱で兄の大庭景義(懐島景義)の窮地を救い、家督を譲られて鎌倉氏の棟梁となった大庭景義は、平治の乱(1159年)で仇敵である源義朝と敵対して戦う。大庭景親は囚われてあわや斬られるところであったが、平清盛源義朝に勝ったために命拾いし、平清盛に東国八箇国一の名馬「望月」を献上するなど平家への接近に成功し「東国の御後見(東国における平家軍の総司令官)」として相模国内の立場を強化していく。

逆に源義朝に与していた三浦氏中村氏は相模国内で劣勢に立たされていく。

それから20年、鎌倉四兄弟(懐島景義大庭景義豊田景俊俣野景久ら四人)をはじめ鎌倉氏の一族たちは相模国内で盤石の勢力を誇っていた。

しかし、治承4年(1180年)8月に源頼朝が伊豆国で挙兵すると、鎌倉一族の懐島景義豊田景俊長江義景らが源頼朝に与し、鎌倉四兄弟や鎌倉氏一族たちは袂を分かち戦うこととなる。大庭景親石橋山の戦いでこそ圧倒的な力の差で圧勝するものの、上総広常千葉常胤らが源頼朝に与したために逆転負けし、治承4年(1180年)10月には大庭景親は降伏し斬首される。

懐島景義豊田景俊鎌倉幕府御家人として活躍し、俣野景久は寿永2年(1183年)5月の倶利伽羅峠の戦いで討死するまで平家方として戦いつづけた。

鎌倉氏の動き[編集]

源頼朝挙兵までの大庭景親の動き[編集]

平治の乱以後、大庭景親は東国の侍別当(長官)の伊藤忠清に代わって東国の実質的支配を任され「東国の御後見」として東国における平家軍の総司令官の地位を盤石のものとしていた(『源平盛衰記』)。

治承4年(1180年)5月26日、京都大番役で在京中の大庭景親に出陣の命令がくだされる。クーデター(以仁王の挙兵)を起こした以仁王源頼政の追討軍に動員された大庭景親は大いに活躍し、宇治橋合戦で以仁王源頼政連合軍を見事に撃破する。

大庭景親伊藤忠清に呼び出され、伊豆国の源頼朝北條時政の謀反の企てについて問われるが、慌てて知らないと答えている。源頼朝の謀反の企てを知りつつも慌てて知らないと答えたことは後の佐々木秀義(娘婿佐々木義清の父)の会話で明らかとなっている(『吾妻鏡』)。伊藤忠清は無力な源頼朝が挙兵するなど非常識で考えられないと話している。

治承4年(1180年)6月19日、平家による諸国の源氏追討の動きが高まり、京都から三善康信源頼朝へ弟を派遣し、奥州藤原氏のもとへ逃げるよう伝える。

治承4年(1180年)6月24日、源頼朝小野田盛長を使者として諸国へ派遣。大庭景親懐島景義豊田景俊俣野景久ら鎌倉四兄弟はじめ鎌倉氏一族のもとにも「源家相伝の家人なのだから源家中絶のあとを興すことに加勢すべし」と使者が訪れる。

治承4年(1180年)6月27日、京都大番役で在京していた三浦義澄千葉胤頼が伊豆国北條館を訪れ京都の情勢を報告(『吾妻鏡』)。京都での源氏追討の動きが緊迫してきていることがうかがえるとともに、三浦氏千葉氏がすでに企てに大きく加担していることがうかがえる。

治承4年(1180年)7月10日、小野田盛長源頼朝のもとへ戻る。小野田盛長の報告によれば、懐島景義三浦義明が快諾し、千葉常胤上総広常も承認したとされる。波多野義常山内首藤経俊らは招集に応じないばかりか嘲笑したり悪口雑言を吐いたともされる(『源平盛衰記』)。源義朝の代までは源家相伝の家人であった三浦氏・千葉氏・上総氏らは平氏系の目代から圧迫されており、このまま平氏政権がつづいては困るそれぞれの都合があったが、同じく源家相伝の家人であった波多野氏・山内首藤氏は家の運命を危険にさらせない立場にあった。

治承4年(1180年)8月2日、大庭景親平清盛の命令を受け、源頼政の孫源有綱を追補するために相模国に帰国(『玉葉』)。伊藤忠清からは謀反の徴候の見える上総広常に京都へ出向くよう伝える命令を受けていた(『吾妻鏡』)。大庭景親源頼朝が謀反を企てていることを伊藤忠清に告げないまま相模国へ帰国。

治承4年(1180年)8月9日、大庭景親佐々木秀義を自邸に招き、源頼朝の謀反の企ての情報が京都に漏れていることを伝え、源頼朝に与する佐々木秀義の息子たちにしっかりと用意すべきだと伝えている(『吾妻鏡』)。佐々木秀義佐々木定綱を使者として源頼朝に報告。源頼朝は挙兵を急ぐことを決める。

大庭景親は、兄懐島景義から源氏に与すると告げられると、「囚われあわや斬られるところを平家に助けられ、その恩は山より高く海より深い。東国の後見として妻子を養うことができるのも忘れてはいけない」と返答(『源平盛衰記』)。どちらが勝っても負けてもお互いに助け合うと誓い、袂を分かち戦うことになる。

治承4年(1180年)9月2日、源頼朝挙兵を知らせる大庭景親の早馬が平清盛のいる福原に到着。追討軍の派遣が決められるが編成は遅々として進まない。伊藤忠清は相模国を代表する大庭景親懐島景義兄弟と武蔵国の畠山重忠らが味方についていれば伊豆国・駿河国の両国合わせて四か国の武士たちは皆、平家方になると出兵に慎重な姿勢であった(『平家物語』)。すでに懐島景義源頼朝方に与していることを伊藤忠清は知らなかったことがうかがえ、この判断ミスが平家敗北の一つの要因になる。

上総広常源頼朝に味方したことにより形勢は逆転し、治承4年(1180年)10月26日、大庭景親父子は片瀬河原で斬首される。処刑者は兄懐島景義源頼朝から助命嘆願をするかと打診された懐島景義はこれをすべて断り、源頼朝の裁断に任せる。斬首が決まると他人の手にかかるよりはと自ら処刑者を担うと申し出ている。罪は逃れることはできないが降伏すれば咎めず、戦場で忠節をつくせばかえって誉められるという降伏勧告が大庭景親に届いていたが、条件は守られることはなかった(『源平盛衰記』)。

鎌倉氏の三浦氏・中村氏・源氏との確執[編集]

永久5年(1117年)10月23日、鎌倉景政は、領地である大庭を伊勢神宮に寄進。長治元年(1105年)から天承元年(1131年)にかけて鎌倉景政は荒れ果てていた大庭を開墾し、広大な農地として開発。「不輸の権・不入の権」を有する貴族に土地を寄進(荘園)する者が続出していた時代であり、寄進地系荘園が多く日本中の土地はすべて貴族のものになってしまい、朝廷の土地(国衙領)は立つこともできないほど少ないといわれる状況であった。鎌倉景政が大庭を伊勢神宮に寄進したことによって、公領(国衙領)の支配を任される在庁官人である三浦氏との確執は大きくなる。

天養元年(1144年)9月と10月に、源義朝が家来や相模国衙の官人たち、さらに相模国の豪族三浦義継三浦義明中村宗平和田助弘らとともに大庭御厨に攻め込み、乱暴を働き多くの神官を死傷させた上、大庭御厨の下司大庭景宗の屋敷を荒らして私財を強奪。伊勢神宮への供祭料を奪い、作物を刈りとるという事件が起こる(『天養記』)。相模国中央の豊かな地域である相模平野への進出(侵略)が目的であったが、鎌倉氏と三浦氏・中村氏の間には、もっと以前から相模国内における豊かな土地をめぐって領地争いが行われていた。承暦3年(1079年)には鎌倉氏と中村氏の領地争いが起こり、中村景平鎌倉為季が討死している(『水左記』)。

治承4年(1180年)の源頼朝の挙兵は、相模平野をめぐる領地争いと言っても過言ではない。源頼朝の挙兵を支えていたのは中村氏の土肥実平と、三浦氏の三浦義明。中村氏・三浦氏にとって100年以上にもわたって繰り広げられてきた領地争いにおける積年の恨みが、源頼朝を担ぎ上げたともいえる。

鎌倉四兄弟[編集]

大庭景親 (おおば の かげちか)[編集]

大庭景宗の次男。保延6年(1140年)ころの生まれ。平三郎(へいさぶろう)とも。

保元元年(1156年)の保元の乱で初陣をはたし、矢を受け落馬し負傷した兄懐島景義の窮地を救い、戦後に兄懐島景義から家督を譲られる。平治元年(1159年)に起こった平治の乱では源義朝に敵対したことで幽閉され、あわや斬られるところで平清盛が勝ったために命拾いする。源義朝に与していたことで相模国内において劣勢に立たされた三浦氏や中村氏の勢力を抑え、平清盛に東国八か国一の名馬望月を献上するなど平家への接近に成功し、東国の御後見として相模国内の立場を強化。

鎌倉内外でのいくつもの神社の建立をはじめ、人々の暮らしを支える政治的な働きは顕著で、大庭景親が亡くなった後には大庭神社の御祭神として祀られるなど、人々から慕われていたことがうかがえる。

京都大番役を勤め、治承4年(1180年)5月に以仁王の挙兵が起こると、源頼政追討軍に動員され大いに軍功を立て、平清盛の信任を得る。源頼朝の命で小野田盛長が訪れ、三代にわたって源家相伝の家人であったのだから、源家中絶のあとを興すことに加勢すべしと伝えたところ、保元の戦では天皇の命令で源義朝に従ったものの、源家の相伝の家人ではない上に、天養の戦で源義朝に攻め込まれた恨みを一族は忘れてはいないと拒否。

治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵すると、平清盛への恩義から石橋山合戦で源頼朝軍と対峙し、3,000騎を率いて相模国の総大将として戦い、源頼朝軍を撃破。北條時政との「言葉戦い」では平家の御恩は山より高く海よりも深いと義理堅い一面をみせている。

安房国で坂東武士を味方につけた源頼朝軍は数万騎に膨れ上がり、平清盛の援軍を待つ間に次第に戦況は悪化し、10月の六本松合戦で敗れてもなお抵抗していたが、平清盛からの援軍も遅れに遅れ、平家軍が富士川合戦で敗走するとなすすべなく降伏。片瀬川で梟首された。

懐島景義 (ふところじま の かげよし )[編集]

大庭景宗の長男。保延4年(1138年)ころの生まれ。平太郎(へいたろう)とも。大庭景義大庭景能とも書く。

保元元年(1156年)の保元の乱で、弟大庭景親とともに源義朝軍に従軍。源為朝の矢を膝に受けて負傷し、歩行も難しい身となり家督を弟の大庭景親に任せて懐島(現在の神奈川県茅ケ崎市円蔵)に隠棲。治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵すると源頼朝に与し、石橋山合戦こそ敗れたが鎌倉を制圧する。捕えた弟の大庭景親の処遇を源頼朝から助命嘆願をするかと打診されるが、すべての裁断を源頼朝に任せ、斬首が決まると自ら弟の首をはねた。その後は鎌倉幕府の御家人として活躍し、承元4年(1210年)に没する。

豊田景俊 (とよだ の かげとし)[編集]

大庭景宗の三男。天養2年(1145年)ころの生まれ。平次郎(へいじろう)とも。

相模国大住郡豊田郷(現在の神奈川県平塚市豊田本郷)を領し豊田氏を称す。中村氏・三浦氏の領地と接する大庭氏の最前線で国境をもつ最重要拠点に居を構えており、一族のなかでも智謀・知略に富んだ武士として名高い。

治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵すると兄の懐島景義とともに源頼朝に与す。その後、鎌倉幕府の御家人として活躍し、建久元年(1190年)の源頼朝の上洛のときには随員15番手として花道を歩いた(『吾妻鏡』)。

俣野景久 (またの の かげひさ)[編集]

大庭景宗の四男(庶子)。久安3年(1147年)ころの生まれ。平五郎(へいごろう)とも。俣野景尚とも書く。

相模国鎌倉郡俣野郷(現在の神奈川県横浜市戸塚区俣野町)を領し俣野氏を称す。俣野景久は兄大庭景親梶原景時らとともに京都大番役として在京し、朝廷の御前相撲(相撲節会)での相撲人として3年間無敗を誇った豪傑。以仁王の挙兵を鎮圧した坂東武士300騎の軍勢の先陣をつとめた。河津祐泰と相撲で対戦してはじめて「河津掛け」をされた人物。

治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵すると兄大庭景親に与して石橋山合戦に従軍。佐奈田義忠と死闘をくりひろげ、長尾為景(長尾為宗)・長尾定景ら兄弟の助けにより一命をとりとめた。兄の大庭景親が捕われ処刑されても逃亡し、源頼朝と戦いつづけ、倶利伽羅峠合戦で木曽義仲軍と戦い、加賀国篠原で討死。

参考文献[編集]

文献

  • 永井路子『相模のもののふたち』(有隣新書)
  • 細川重男『頼朝の武士団 将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉』(洋泉社)
  • 湯山学『相模武士-全系譜とその史蹟〈1〉鎌倉党』(戎光祥出版)

史料

  • 吾妻鏡
  • 倭名類聚抄
  • 『源平闘諍録』
  • 奥州後三年記
  • 平家物語
  • 『延慶本平家物語』
  • 源平盛衰記
  • 曽我物語
  • 『水左記』
  • 『天養記』
  • 『玉葉』
  • 『酒匂家由緒書(鹿児島県立図書館蔵書)』
  • 『新編相模国風土記稿』
  • 『陰徳太平記』
  • 『承久軍物語』
  • 『相承院文書』
  • 『我覚院文書』
  • 『円覚寺文書』
  • 『静岡大右寺文書』
  • 『島津文書』
  • 『証菩提寺文書』
  • 『御霊神社由緒略記』
  • 『宮前御霊宮縁起』
  • 『二伝寺村岡五郎平良文公墓前碑』
  • 『十二天王碑』
  • 『相州鎌倉之図』
  • 『鎌倉絵図』
  • 『東海道名所記』
  • 『相州鎌倉之本絵図』
  • 『川名御霊神社縁起』
  • 『太平記』
  • 『鎌倉攬勝考』
  • 『玉縄諏訪神社由緒』
  • 『伊勢崎風土記』
  • 『平良文由来記』
  • 『将門記』
  • 『渡内日枝神社縁起』
  • 『鎌倉市史(考古編昭和34年)』
  • 『皇国地誌』
  • 『村岡旧記(神奈川県立金沢文庫所蔵)』
  • 『村岡郷五ケ村地誌調書上帳』
  • 『天満宮縁起』
  • 『千葉氏家伝』
  • 『今昔物語集』
  • 『金太郎』
  • 『日本紀略』
  • 『応徳元年皇代記』
  • 『諸家系図纂』
  • 『平群系図抜萃』
  • 『続群書類従』
  • 『続左丞抄第一』
  • 『古事談』
  • 『古今著聞集(339)』
  • 『陸奥話記』
  • 『詞林采葉抄』
  • 『詞林菜葉抄』
  • 『中右記』
  • 『五霊宮縁起』
  • 『魚魯愚鈔』巻第6
  • 『前九年合戦之事』
  • 『源威集』
  • 『御影之記』
  • 『相州鎌倉郡神輿山甘縄寺神明宮縁起略』
  • 『疱瘡神碑』
  • 『大日堂縁起』
  • 『陰徳太平記』
  • 『勝福寺縁起』
  • 『相模守藤原隆重の解状』
  • 『鎌倉遺文614』
  • 『保元物語(香川県金刀比羅宮写本)』
  • 『平治物語』
  • 『愚管抄』
  • 『三島の昔話』
  • 『山槐記』
  • 『長門本平家物語』
  • 『新平塚風土記稿』
  • 『神奈川県中郡勢誌』
  • 『中世平塚の城と館』
  • 『海道記』
  • 『楠木合戦注文』

系譜

  • 尊卑分脈
  • 『桓武平氏諸流系図』
  • 『平群系図』
  • 『系図纂要』
  • 『酒匂家の系図』
  • 『長尾正統系図』
  • 『神奈川県姓氏家系大辞典』
  • 『三浦系図』
  • 『長尾系図』
  • 『千葉大系図』

関連項目[編集]

人物

氏族

領地 -鎌倉氏(鎌倉四兄弟)が治める土地-

  • 大庭御厨
  • 相模国鎌倉郡村岡郷
  • 相模国鎌倉郡鎌倉郷鎌倉
  • 相模国高座郡懐島郷
  • 相模国高座郡大庭郷(大庭荘)
  • 相模国大住郡豊田郷
  • 相模国鎌倉郡俣野郷
  • 相模国鎌倉郡梶原郷
  • 相模国高座郡香河郷
  • 相模国鎌倉郡長尾郷長尾(長尾荘)
  • 相模国鎌倉郡長尾郷金井
  • 相模国鎌倉郡深沢郷(深沢荘)
  • 相模国足柄下郡酒匂郷
  • 相模国足柄下郡柳下郷
  • 相模国鎌倉郡端山郷長柄(長江)
  • 相模国鎌倉郡小坂郷
  • 相模国鎌倉郡深沢郷(深沢荘)

合戦 -鎌倉氏(鎌倉四兄弟)にゆかりのある合戦-

  • 大庭御厨濫行事件(一) -天養元年(1144年)9月-
  • 大庭御厨濫行事件(二) -天養元年(1144年)10月-
  • 保元の乱 -保元元年(1156年)-
  • 平治の乱 -平治元年(1159年)-
  • 宇治橋合戦(以仁王・源頼政追討) -治承4年(1180年)5月-
  • 石橋山の戦い -治承4年(1180年)8月23日-
  • 波志田山合戦(甲斐国) -治承4年(1180年)8月25日-
  • 小坪坂合戦(相模国鎌倉郡小坪) -治承4年(1180年)8月26日-
  • 衣笠合戦 -治承4年(1180年)8月27日-
  • 六本松合戦(相模国鎌倉郡化粧坂) -治承4年(1180年)10月6日-
  • 倶利伽羅峠の戦い -寿永2年(1183年)5月11日-

御霊神社 -鎌倉氏(鎌倉四兄弟)にゆかりのある御霊神社-

  • 村岡の御霊神社(相模国鎌倉郡村岡郷村岡) -現在の神奈川県藤沢市宮前560-
  • 鎌倉の御霊神社(相模国鎌倉郡鎌倉郷鎌倉) -現在の神奈川県鎌倉市大町および鎌倉市材木座1-7付近と推測-
  • 川名の御霊神社(相模国鎌倉郡方瀬郷川名) -現在の神奈川県藤沢市川名656-
  • 梶原の御霊神社(相模国鎌倉郡梶原郷梶原) -現在の神奈川県鎌倉市梶原5-9-1(葛原岡神社)-
  • 小松の御霊神社(相模国鎌倉郡小松郷) -現在の神奈川県鎌倉市梶原1-12-27(梶原御霊神社)-
  • 小坂の御霊神社(相模国鎌倉郡小坂郷) -現在の神奈川県鎌倉市小袋谷付近と推測-
  • 山内の御霊神社(相模国鎌倉郡山内郷) -現在の神奈川県横浜市栄区公田町445-6-
  • 関屋(関谷)の御霊神社(相模国鎌倉郡村岡郷関屋) -現在の神奈川県鎌倉市関谷付近と推測-
  • 玉縄の御霊神社(相模国鎌倉郡玉縄郷) -現在の神奈川県鎌倉市植木96-
  • 長尾の御霊神社(相模国鎌倉郡長尾郷長尾) -現在の神奈川県横浜市栄区長尾台町372-
  • 金井の御霊神社(相模国鎌倉郡長尾郷金井) -現在の神奈川県横浜市栄区金井町1439付近と推測-
  • 田屋(田谷)の御霊神社(相模国鎌倉郡長尾郷田屋十三塚) -現在の神奈川県藤沢市栄区田谷町1506-
  • 小雀の御霊神社(相模国鎌倉郡長尾郷小雀) -現在の神奈川県横浜市戸塚区小雀町1193-※鎌倉氏とは直接的関連がない
  • 庵野(庵野原)の御霊神社(相模国鎌倉郡村岡郷庵野) -現在の神奈川県横浜市戸塚区原宿付近と推測-
  • 深谷の御霊神社(相模国鎌倉郡村岡郷深谷) -現在の神奈川県横浜市戸塚区汲沢町1026-
  • 汲沢(茱萸沢)の御霊神社(相模国鎌倉郡村岡郷汲沢) -現在の神奈川県横浜市戸塚区汲沢町1273-
  • 俣野の御霊神社(相模国鎌倉郡俣野郷俣野) -現在の神奈川県横浜市戸塚区東俣野町1637および東俣野町817-
  • 富塚の御霊神社(相模国鎌倉郡冨塚郷) -現在の神奈川県横浜市戸塚区戸塚町3275付近と推測-
  • 矢部の御霊神社(相模国鎌倉郡矢部郷) -現在の神奈川県横浜市戸塚区上矢部町1130-
  • 坂本の御霊神社(相模国鎌倉郡矢部郷) -現在の神奈川県横浜市戸塚区上矢部町2969-
  • 葛野の御霊神社(相模国鎌倉郡和泉郷中田) -現在の神奈川県横浜市泉区付近と推測-
  • 中田の御霊神社(相模国鎌倉郡和泉郷中田) -現在の神奈川県横浜市泉区中田北3-42-1(中田町宮台3365)-
  • 原田の御霊神社(相模国鎌倉郡秋庭郷後山田) -現在の神奈川県横浜市戸塚区秋葉町付近と推測-
  • 大島の御霊神社(相模国鎌倉郡大島郷) -現在の神奈川県横浜市泉区新橋町109-
  • 樫尾(柏尾)の御霊神社(相模国鎌倉郡樫尾郷) -現在の神奈川県横浜市戸塚区柏尾町付近と推測-
  • 土甘(砥上)の御霊神社(相模国鎌倉郡土甘郷土甘) -現在の神奈川県藤沢市鵠沼-
  • 羽鳥の御霊神社(相模国鎌倉郡土甘郷羽鳥) -現在の神奈川県藤沢市羽鳥1062-
  • 大庭の御霊神社(相模国高座郡大庭郷) -現在の神奈川県藤沢市大庭1846-
  • 長谷の御霊神社(相模国鎌倉郡長谷郷) -現在の神奈川県鎌倉市坂ノ下4-9(坂ノ下御霊神社)-
  • 甘縄の御霊神社(相模国鎌倉郡甘縄郷) -現在の神奈川県鎌倉市長谷(甘縄神明神社)付近と推測-
  • 深沢の御霊神社(相模国鎌倉郡深沢郷) -現在の神奈川県鎌倉市長谷(鎌倉大佛高徳院)付近と推測-
  • 長江の御霊神社(相模国鎌倉郡端山郷長江) -現在の神奈川県三浦郡葉山町長柄662-
  • 沼浜の御霊神社(相模国鎌倉郡沼浜郷) -現在の神奈川県逗子市沼間3-10-34-
  • 衣笠の御霊神社(相模国鎌倉郡谷部郷) -現在の神奈川県横須賀市小矢部4-1202(衣笠神社に合祀)-
  • 衣笠の御霊社(相模国鎌倉郡谷部郷) -現在の神奈川県横須賀市衣笠29-1大善寺境内-
  • 佐原の御霊神社(相模国鎌倉郡谷部郷佐原泉) -現在の神奈川県横須賀市佐原1-16-1-
  • 田浦の御霊神社 -現在の神奈川県横須賀市田浦町2-1-
  • 三崎の御霊神社 -現在の神奈川県三浦市三崎4-12-11-
  • 懐島の御霊神社(相模国高座郡懐島郷) -現在の神奈川県茅ケ崎市南湖2-9-10および茅ヶ崎市円蔵付近と推測-
  • 香川の御霊神社(相模国高座郡香河郷) -現在の神奈川県茅ケ崎市香川付近と推測-
  • 柳下の御霊神社(相模国足柄下郡柳下郷) -現在の神奈川県小田原市鴨宮(加茂神社)付近と推測-
  • 酒匂の御霊神社(相模国足柄下郡酒匂郷) -現在の神奈川県小田原市酒匂付近と推測-
  • 豊田の御霊神社(相模国大住郡豊田郷) -現在の神奈川県平塚市豊田本郷付近と推測-
  • 弘河の御霊神社(相模国大住郡弘河郷) -現在の神奈川県平塚市広川691-
  • 田村の御霊神社(相模国大住郡田村郷) -現在の神奈川県平塚市横内900-
  • 下作延の神明神社 -神奈川県川崎市高津区下作延520-
  • 戸田の御霊神社(相模国大住郡富田郷) -神奈川県厚木市戸田653-
  • 上粕谷の御霊神社(相模国大住郡糟屋郷上糟屋) -神奈川県伊勢原市上粕屋790-
  • 上粕谷神社(相模国大住郡糟屋郷上糟屋) -神奈川県伊勢原市上粕屋1334-
  • 秋山御霊神社 -神奈川県伊勢原市上粕屋3103(上粕谷神社に合祀)-
  • 下粕谷神社(相模国大住郡糟屋郷下糟屋) -神奈川県伊勢原市下粕屋-
  • 吉田の御霊神社(武蔵国都筑郡) -神奈川県横浜市港北区新吉田町4509-
  • 東海寺御霊社(景政塚) -東京都品川区品川3-11-9-
  • 御霊谷戸の御霊神社 -東京都八王子市館町1272-
  • 御霊谷の御霊神社(御霊明神) -東京都八王子市元八王子町3-2863-
  • 藤野佐野川の御霊神社 -神奈川県相模原市藤野町佐野川3111-
  • 湯河原の御霊神社(五郎神社) -神奈川県足柄下郡湯河原町鍛冶屋724-2-
  • 波多野の御霊神社(上秦野神社) -神奈川県秦野市菖蒲1417-
  • 五郎神社 -群馬県伊勢崎市太田町623-
  • 貝沢の五霊神社 -群馬県高崎市貝沢町332-
  • 佐倉の五良神社 -千葉県佐倉市-
  • 村井の五良神社 -栃木県鹿沼市村井町-
  • 七井の御霊神社(下野国芳賀郡七井村大沢) -栃木県芳賀郡益子町大沢1848-
  • 安積の御霊神社(陸奥国安曇郡只野) -福島県郡山市逢瀬町多田野宮南66-
  • 豊景神社 -福島県郡山市富久山町-
  • 御霊神社(滑川神社) -福島県いわき市仁井田町字月山下48-
  • 高擶の御霊神社(清池八幡神社) -山形県天童市清池-
  • 景政神社 -山形県南陽市宮内3476-1熊野大社境内-
  • 柳沢の五郎宮(一名五郎権現) -宮城県亘理郡亘理町逢隈田沢-
  • 八木の景政社(安芸国沼田郡八木村) -広島県広島市安佐南区-


This article "鎌倉四兄弟" is from Wikipedia. The list of its authors can be seen in its historical and/or the page Edithistory:鎌倉四兄弟.



Read or create/edit this page in another language[編集]