源頼朝
源 頼朝(みなもと の よりとも、旧字体: 源 賴朝󠄁)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の武将、政治家。鎌倉幕府初代征夷大将軍(鎌倉殿)。
概略[編集]
清和源氏の一流たる河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ配流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると北条時政、北条義時などの坂東武士らと平家打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平家を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼす。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。
これにより、朝廷と同様に京都を中心に権勢を誇った平氏政権とは異なる、東国に独立した武家政権が開かれ、後に鎌倉幕府と呼ばれた。
生涯[編集]
- 改元の有った年は改元後の元号を記す
- 内容の典拠については年表を参照。
出生[編集]
久安3年(1147年)4月8日、源義朝の三男として尾張国愛知郡熱田(現在の愛知県名古屋市熱田区)の熱田神宮西側にあった神宮大宮司・藤原季範の別邸(現在の誓願寺)にて生まれとされるが、京都出生説もある。幼名は鬼武者、または鬼武丸。
父祖は清和天皇の孫で臣籍降下した源経基、多田源氏の祖の源満仲、河内源氏の祖の源頼信、前九年の役の源頼義、後三年の役の源義家、源義親、祖父の源為義。母は季範の娘の由良御前。乳母は比企尼、寒河尼、山内尼。
父の義朝は保元の乱(1156年)において、平清盛らと共に後白河天皇側にたって戦勝し、崇徳上皇側の父の為義の助命を自身の戦功に替えて願うが許されず、父と弟たちを斬首し、左馬頭に任ぜられる。
保元3年(1158年)、頼朝は後白河天皇准母として立后した統子内親王の皇后宮権少進となり、平治元年(1159年)2月に統子内親王が院号宣下を受けると、上西門院蔵人に補される。上西門院殿上始において徳大寺実定、平清盛などの殿上人が集う中で献盃役を務める。また同年1月には右近衛将監に、6月には二条天皇の蔵人にも補任される。長兄の義平は無官とみられ、先に任官していた次兄の朝長よりも昇進が早いことから、母親の家柄が高い頼朝が義朝の後継者、嫡男として待遇されていたとみられている。
年表[編集]
- 年月日は出典が用いる暦であり、当時は宣明暦が用いられている
- 西暦は元日を宣明暦に変更している
和暦 | 西暦 | 月日
(宣明暦長暦) |
内容 | 出典 |
---|---|---|---|---|
久安3年 | 1147年 | 4月8日 | 生誕(数え年1歳) | ? |
保元3年 | 1158年 | 2月3日 | 皇后宮少進(12歳) | 公卿補任 |
平治元年 | 1159年 | 1月29日 | 右近衛将監兼任 | 公卿補任 |
2月13日 | 上西門院蔵人補任。皇后宮少進を止む。 | 公卿補任 | ||
3月1日 | 母の死により服解 | 公卿補任 | ||
6月28日 | 蔵人(二条天皇)補任。 | 公卿補任 | ||
12月9~26日 | 平治の乱 | 百錬抄
平治物語 | ||
12月14日 | 従五位下右兵衛権佐に叙位転任。 | 公卿補任 | ||
12月28日 | 解官 | 公卿補任 | ||
永暦元年 | 1160年 | 3月11日 | 伊豆国へ配流(14歳) | 清獬眼抄 |
不詳 | 不詳 | 不詳 | 伊東祐親三女・八重姫との間に千鶴丸を成すが祐親に殺される | 曽我物語 |
安元3年? | 1177年頃 | 不詳 | 北条時政長女・政子と結婚 | 吾妻鏡
尊卑分脈 |
治承4年 | 1180年 | 4月27日 | 以仁王令旨を受ける(34歳) | 吾妻鏡 |
8月17日 | 配所の伊豆で挙兵、平兼隆を討つ | 吾妻鏡 | ||
8月23日 | 石橋山の戦い | 吾妻鏡 | ||
8月29日 | 安房国へと逃れる | 吾妻鏡 | ||
9月5日 | 叛逆として追討の宣旨を受ける | 玉葉 | ||
10月7日 | 鎌倉入府 | 吾妻鏡 | ||
10月20日 | 富士川の戦い | 吾妻鏡 | ||
10月21日 | 末弟・源義経が参じる | 吾妻鏡 | ||
11月5日 | 常陸国の佐竹秀義を破る | 吾妻鏡 | ||
11月7日 | 重ねて追討の宣旨を受ける | 吾妻鏡 | ||
11月17日 | 和田義盛を侍所別当に補す | 吾妻鏡 | ||
養和元年 | 1181年 | 閏2月4日 | 平清盛薨去(35歳) | 玉葉 |
寿永元年 | 1182年 | 8月12日 | 嫡男・万寿(頼家)誕生(36歳) | 吾妻鏡 |
寿永2年 | 1183年 | 2月23日 | 野木宮合戦で叔父・源義広を討伐(37歳) | 吾妻鏡 |
春 | 源義仲と信濃国で対峙し、義仲の長男・源義高を人質とする | 平家物語 | ||
7月28日 | 義仲と源行家が入京 | 玉葉 | ||
9月 | 義仲追討令を受ける | 玉葉 | ||
10月9日 | 従五位下に復位 | 公卿補任 | ||
10月14日 | 寿永二年十月宣旨 | 百錬抄、玉葉 | ||
元暦元年 | 1184年 | 1月20日 | 宇治川の戦い、義仲を討つ(38歳) | 吾妻鏡 |
2月7日 | 一ノ谷の戦い | 吾妻鏡 | ||
3月27日 | 正四位下に昇叙 | 吾妻鏡 | ||
4月 | 鎌倉から逃れた源義高を誅殺 | 吾妻鏡 | ||
5月1日 | 御家人たちを招集して甲斐信濃への出兵を命じる | 吾妻鏡 | ||
6月16日 | 甲斐源氏一条忠頼誅殺 | 吾妻鏡 | ||
5月1日 | 御家人たちを招集して甲斐信濃への出兵を命じる | 吾妻鏡 | ||
7月 | 三日平氏の乱 | 玉葉 | ||
8月8日 | 源範頼が西国追討使として鎌倉を出立 | 吾妻鏡 | ||
10月6日 | 大江広元を別当とし公文所を開く | 吾妻鏡 | ||
10月20日 | 三善康信を執事とし問注所を開く | 吾妻鏡 | ||
文治元年 | 1185年 | 2月19日 | 屋島の戦い(39歳) | 吾妻鏡 |
3月24日 | 壇ノ浦の戦いにて平氏滅亡 | 吾妻鏡 | ||
4月27日 | 従二位へ昇叙 | 吾妻鏡 | ||
5月15日 | 義経が平宗盛と清宗父子を伴い帰参する | 吾妻鏡 | ||
5月16日 | 宗盛、清宗と面会 | 吾妻鏡 | ||
6月9日 | 義経に宗盛と清宗を伴わせ京に戻す | 吾妻鏡 | ||
10月18日 | 義経と行家に頼朝追討令が下る | 玉葉 | ||
10月24日 | 勝長寿院供養 | 吾妻鏡 | ||
11月3日 | 義経と行家が都を去る | 玉葉 | ||
11月11日 | 義経と行家追討の院宣が下る | 玉葉 | ||
11月28日 | 文治の勅許 | 吾妻鏡、玉葉 | ||
11月29日 | 諸国への地頭の設置が認められる | 吾妻鏡 | ||
文治5年 | 1189年 | 1月5日 | 正二位に昇叙(43歳) | 公卿補任 |
閏4月30日 | 衣川の戦いで義経が藤原泰衡に討たれる | 吾妻鏡 | ||
7月~9月 | 奥州合戦、奥州藤原氏滅亡 | 吾妻鏡 | ||
建久元年 | 1190年 | 11月7日 | 上洛 | 吾妻鏡 |
11月9日 | 権大納言 | 吾妻鏡 | ||
11月24日 | 右近衛大将 | 吾妻鏡 | ||
12月3日 | 両官辞任 | 吾妻鏡 | ||
12月29日 | 鎌倉へ帰還 | 吾妻鏡 | ||
建久3年 | 1192年 | 3月13日 | 後白河法皇崩御(46歳) | 玉葉 |
7月12日 | 征夷大将軍 | 公卿補任 | ||
8月9日 | 次男(政子の男子として)・源実朝誕生 | 吾妻鏡 | ||
建久4年 | 1193年 | 5月28日 | 富士の巻狩りの際に曾我兄弟の仇討ちが起こる(47歳) | 吾妻鏡 |
8月17日 | 弟・範頼を伊豆へ配流 | 吾妻鏡 | ||
建久6年 | 1195年 | 2月14日 | 家族伴い二度目の上洛に出発(49歳) | 吾妻鏡 |
3月12日 | 東大寺落慶供養 | 吾妻鏡 | ||
7月8日 | 鎌倉に帰着 | 吾妻鏡 | ||
建久7年 | 1196年 | 7月 | 建久七年の政変(50歳) | |
建久8年 | 1197年 | 7月14日 | 大姫死去(51歳) | |
建久9年 | 1198年 | 12月27日 | 相模川橋供養(52歳) | 鎌倉大日記 |
建久10年 | 1199年 | 1月11日 | 出家 | 猪隈関白記
公卿補任 |
1月13日 | 薨去(享年53 /満51歳没) | 猪隈関白記
百錬抄 |
人物[編集]
容姿[編集]
『平治物語』は「年齢より大人びている」とし、平治物語絵巻断簡には頼朝と見られる若武者の姿が残る。『源平盛衰記』は「顔が大きく容貌は美しい」と記している。寿永2年(1183年)8月に鎌倉で頼朝と対面した中原泰定の言葉として『平家物語』に「顔大きに、背低きかりけり。容貌優美にして言語文明なり」とある。九条兼実の日記『玉葉』は「頼朝の体たる、威勢厳粛、その性強烈、成敗文明、理非断決」(10月9日条)と書いている。身長は大山祇神社に奉納された甲冑を元に推測すると165センチメートル前後はあったとされ、当時の平均よりは長身である。
肖像は知名度の割には少なく、大半が近世になってからの作品である。『吾妻鏡』には、宝治合戦の際に三浦泰村が北山の法華堂に立て篭もり、「絵像御影御前」で往時を談じたという記述があるが、この画像やこれを祖形とする作品は現存しない。京都神護寺蔵の肖像画(神護寺三像)は、頼朝を描いたものとして伝わり、大和絵肖像画の傑作として国宝に指定されている。平成7年(1995年)に米倉迪夫が、その画法や服装から足利直義を写した物とする学説を発表すると、像主について議論が続いている(詳細は「神護寺三像」を参照)。鶴岡八幡宮の白山明神に伝わっていた狩衣姿の木像は、江戸時代には頼朝像とされ、明治初期に流出し原三溪の手を経て、現在は東京国立博物館(東博)が蔵して重要文化財に指定されている。甲府市善光寺の甲斐善光寺所蔵の木造源頼朝坐像は、戦国期に武田信玄によって甲斐善光寺が創建された際に信濃善光寺から移されたもので、胎内銘から文保3年(1319年)もしくは文永5年(1268年)の作であるされる。胎内銘には政子の命で作られたことや頼朝の命日が記されていることから、現存最古の頼朝像であると考えられている。頼朝の実像を最もよく表しているとして中学・高校の教科書に掲載されるなど評価が高まっている(後述)ものの傷みがひどかったため、令和2年(2020年)5月より修復作業が開始され、翌令和3年(2021年)3月を以って修復が完了した。
歴史学者の黒田日出男は、源頼朝を表したとされる肖像を整理・検討後、次のように結論づけている。東博蔵・伝源頼朝像は、建長寺にある北条時頼像と比較、やや技巧が硬い部分があるが、面貌表現や大きさに到るまで瓜二つであり、また後に狩衣には本来ない平緒や石帯を取り付け、将軍の正装である束帯姿に改造された形跡があることから、本来は建長寺の像を元に北条時頼像として14世紀の鎌倉時代末期に作られたが、後に失われた源頼朝像の代わりとして束帯姿に改造された上で、白山明神に置かれたとしている。一方、甲斐善光寺の源頼朝像を、胎内の銘文を造像銘ではなく修理銘として読み解き、13世紀第1四半期に北条政子の発願で作られた史料上明らかな唯一の源頼朝像であり、2度の火災で頭部だけが当時の姿で残り、体は鎌倉末期の修理の際に補作されたという論考を発表している。
こうした研究状況を反映して、現在の小中高教科書でも3作品が並行して用いられている。小学校では保存状態の良い東博像が掲載される傾向があり、甲斐善光寺本の掲載例はない。中学校では、いまだに神護寺本が多く採用されている。高等学校では、比較的早い段階で神護寺本の掲載をやめ、東博本や甲斐善光寺本に変更するなど研究成果を敏感に反映させているものの、頼朝像の掲載自体をなくしたり神護寺本を使い続ける出版社もあり、研究動向の混迷がそのまま肖像の掲載に現れている。ただし、神護寺像を掲載する教科書は減少傾向にある。
評価[編集]
頼朝の開いた武家政権は制度化され、次第に朝廷から政治の実権を奪い、後に幕府と名付けられ、王政復古(1868年)まで足掛け約680年間にわたって続くこととなる。頼朝在世中はまだ朝廷との二重政府的な要素も強いが、守護地頭制度によって東国のみならず全国支配の布石を打っている。
また、武家政権を代表する地位が征夷大将軍であるという慣習、源氏がその地位に就かねばならないという観念、将軍のみが隔絶して高貴な身分として幕臣に君臨する(後年に到るまで、将軍の従一位から正二位に対して次位の執権(鎌倉)、管領(室町)、大老(江戸)は、ほとんど従四位から従五位。ちなみに、この差は現代の叙勲では内閣総理大臣と本省課長に相当し、同時期の朝廷における役職でもそれに相当する開きがある。ただし、御三家など将軍候補となる近親者の官位は大老などよりも高い。もっとも後年は権威が実権を伴わないこともあり、鎌倉後期の執権などは遥か下位の臣下として板間に平伏しつつ将軍の生殺与奪の権を握っていた)という習慣も頼朝に端を発している。武家政権の創始者として頼朝の業績は高く評価されており、ほとんどの日本人は義務教育で頼朝の名を学んでいる。
その一方で、人格は「冷酷な政治家」と評される場合が多い。それは、自らを助命した平家を滅亡させたことに加え、権力基盤を固める過程で多くの同族や兄弟、部下を死に追いやったことが一因である。特に判官贔屓で高い人気を持つ末弟・義経を死に至らせたことなどから、頼朝の人気はその業績にもかかわらずそれほど高くなく、小説などに主人公として描かれることも少ない。
また、頼朝個人は武芸には長けていたといわれるにもかかわらず、自ら兵を率いることが少なく、戦闘指揮官としては格別の実績を示していない。主に政治的交渉で鎌倉幕府の樹立を成し遂げたことから、武人でありながら御簾の奥から指令を発するようなイメージが、日本人好みの英雄像と乖離していることもある。ただし、各現場を自らの名代である総司令官と監視役である軍監の組み合わせで委ねる軍制が世界史的な先駆である点は、小説家の永井路子が指摘している。
永井は、頼朝は勃興する東国武家勢力のシンボルであるとし、その業績を全て彼個人の能力に帰するような過大評価を戒めているが、一方でその政治力、人材掌握力は高く評価し、日本史における組織作りの天才であり、その手腕は後世に彼を手本とした徳川家康よりいっそう巧緻であると評している。
以上はおおむね現代における評価であるが、頼朝は過去にも多くの人物により評されてきた。
- 九条兼実
- 頼朝の同時代人である兼実は、日記『玉葉』において「一々の申状、義仲等とひとしからざるか(一つ一つの申し入れの内容は、義仲とは比べものにならないくらい優れている)」「頼朝の体たらく(有様)、威勢厳粛にしてその性強烈、成敗分明にして、理非断決す」と記し、その人物を高く評価している。
- 慈円
- やはり頼朝の同時代人である慈円は、『愚管抄』において「ぬけたる器量の人」「狩りに行く際、片時も弓を離さず、大鹿と肩を並べて角をつかみ、手玉にとった。東国武士たちもその威儀・武技に圧倒された」と記し、やはりその人物を高く評価している。
- 北条政子と御家人
- 頼朝の死後に起きた承久の乱で朝廷と幕府が争うと、北条政子は集まった御家人らに対し「故・右大将軍(頼朝)が朝敵を滅ぼし関東を開いて以降、官位も俸禄も、その恩は山より高く海より深い。(中略)恩を知り名を惜しむ人は、早く不忠の讒臣を討ち恩に報いるべし」と述べた。これを聞いた御家人らは、ただ涙を流し報恩を誓った。頼朝の幕府内での位置と、御家人からの高い評価を知ることが出来る。
- 北畠親房
- 『神皇正統記』において「頼朝勲功まことにためしなかりければ」「天下の乱れを平らげ、皇室の憂いをなくし、万民を安んじた」と記し、やはりその人物を高く評価している。
- 『保暦間記』
- 南北朝時代に成立した歴史書『保暦間記』では、頼朝の死因を、彼により滅ぼされた源義広、義経、行家、安徳天皇の亡霊によると記している。南北朝時代ごろにはその生涯は罪深いものとして捉えられていたことを伺わせる。
- 豊臣秀吉
- 『武辺咄聞書』によると、鶴岡八幡宮白旗神社の頼朝像を参った際に、「我と御身は共に微小の身から天下を平らげた。しかし御身は天皇の後胤であり、父祖は関東を従えていた。故に流人の身から挙兵しても多く者が従った。我は氏も系図も無いが天下を取った。御身より我の勝ちなり。しかし御身と我は天下友達なり」と述べ、頼朝の業績を自分の業績と共に称えながらも、頼朝の業績は血統に拠るものがあると冗談を交えながら評している。
- 徳川家康
- 頼朝の事績を多く記した『吾妻鏡』を集めて写させた。源氏の新田氏流を自称していた家康は頼朝を崇拝しており、『吾妻鏡』を読み頼朝の行動を学んだといわれる。
- 新井白石
- 『読史余論』の中で、政治面での功績には一定の評価を与えつつも、頼朝の行動は朝廷を軽んじ己を利するものであると、総じて否定的な評価をしている。挙兵から4年間も上洛せず、東国の土地を押領して家人に割け与えたのは、既に独立の志を持っていたとする。源義仲を討った理由は、義仲が朝奨に与ったことを憎んだからであり、また義仲が後白河法皇を幽閉した罪を問わなかったことを責めている。源義経との対立に関しては、朝臣に列していた義経を京で襲ったことは臣たる者の仕業ではないと、襲った理由は、義経が朝奨に与ったと共に、義経の用兵を恐れたからだとする。義経が驕りに加え梶原景時の讒言により誅されたとの論には、驕りも讒言も無く誅された源範頼の例を挙げて反論し、「頼朝がごとき者の弟たる事は、最も難しいと言うべき」と記して評を終えている。
総じて政治的能力への評価は高いが、論評者が勤王家かどうか、儒教の倫理観に近いかなどの見方によって全体の評価が上下する傾向があるほか、時代によっても評価が揺らぐのも特徴と言える。
系譜[編集]
頼朝は源満仲の三男・源頼信を祖とする河内源氏の七代目に当たる。源頼光を祖とする摂津源氏が清和源氏の嫡流であり、河内源氏は庶流だが、嫡流を差し置いて武家源氏の主流となっている。平氏との戦いと源氏・幕府内部の権力闘争とにより、父方の曽祖父と祖父、父、息子のほとんど、男の孫全員、兄弟のほとんど、父の兄弟のほとんどが殺されており(あるいはそう伝えられており)、父系三親等以内の男性(三十名に及ぶ)で畳の上で死去したと伝えられているのは頼朝自身と三男貞暁のみである。
- 父:源義朝 - 源為義長男。保元の乱で栄進するが、平治の乱で敗れ、敗走中に殺される。
- 母:由良御前 - 藤原季範三女。
- 兄弟
- 源義平 - 異母兄。悪源太。平治の乱後、平清盛暗殺のため京へ潜伏中に捕らえられ斬首される。
- 源朝長 - 異母兄。平治の乱後の敗走中に、戦傷が元で亡くなる。
- 源義門 - 同母弟。早世したとされる。
- 源希義 - 同母弟。土佐国に流され、頼朝の挙兵後に討たれる。
- 源範頼 - 異母弟。挙兵後の頼朝に仕えるが、謀反の疑いにより伊豆国に流された。その後、誅殺されたとする説もある。
- 阿野全成 - 異母弟。仏門に入り、挙兵後の頼朝に仕えるが、源頼家に殺される。
- 義円 - 異母弟。仏門に入り、挙兵後の頼朝に仕えるが、墨俣川の戦いで平氏軍に討たれる。
- 源義経 - 異母弟。挙兵後の頼朝に仕えるが、後に対立し奥州に逃れ、藤原泰衡に殺される。
- 坊門姫 - 同母姉妹。一条能保室。
- 最初の妻?:八重姫 - 伊東祐親三女。
- 長男?:千鶴丸 - 伊東祐親に殺される。
- 正室:北条政子 - 北条時政娘。
- 長女:大姫 - 源義高婚約者。享年20。
- 長男:源頼家 - 二代将軍。伊豆修禅寺に流され暗殺される。享年23。
- 次女:三幡(乙姫) - 頼朝の死の5ヶ月半後に死去。享年14。
- 三男:源実朝 - 三代将軍。頼家の次男・公暁に暗殺される。享年28。
- 妾:亀の前 - 良橋太郎入道娘。
- 妾:大進局 - 常陸入道念西(藤原時長、伊達朝宗?)娘。
- 次男:貞暁 - 仁和寺で仏門に入る。享年46。
家人[編集]
頼朝の家人の多くは、関東に住む武士であった。彼らの家は、頼朝の先祖である源頼信、源頼義、源義家と主従関係をかつて結んでいて、頼朝の父・源義朝に従っていた者もいる。頼朝はその縁を生かした。また挙兵には、平家政権下で苦しんでいた武士が多く参加したが、彼らの敵対者だった者も迎え入れた。また元々頼朝と同格の源氏一族も御家人に組み込んだ。さらに京都から文官(文士)を鎌倉に招き、政務の助けとした。これら頼朝に仕えた家人は、御家人と呼ばれ、諸国の守護地頭に任じられ、子孫は全国に広がっていった。以下に主な家人を列記する。 なお御家人の中でも門葉(頼朝一門)、家子(頼朝親衛隊)、侍(その他)に分類されるという意見もある。
太字は頼朝の代からによる十三人の合議制構成者
門葉、准門葉
- 平賀義信
- 大内惟義
- 源範頼 - 異母弟 流刑
- 源頼兼
- 源広綱 - 逐電
- 足利義兼
- 山名義範
- 安田義定 - 誅殺
- 安田義資 - 誅殺
- 加賀美遠光
- 毛呂季光 - 准門葉
家子
- 北条義時 - 義弟
- 下河辺行平
- 結城朝光
- 和田義茂
- 梶原景季
- 宇佐美実政
- 榛谷重朝
- 葛西清重
- 佐原義連
- 千葉胤正
- 八田知重
侍
- 北条時政 - 義父
- 安達盛長
- 佐々木定綱
- 佐々木盛綱
- 佐々木経高
- 佐々木高綱
- 三浦義澄
- 稲毛重成
- 工藤茂光
- 工藤祐経
- 土肥実平
- 岡崎義実
- 天野遠景
- 加藤景廉
- 大庭景義
- 和田義盛 - 侍所別当
- 千葉常胤
- 上総広常 - 誅殺
- 梶原景時 - 侍所別当
- 足立遠元
- 畠山重忠
- 河越重頼 - 誅殺
- 江戸重長
- 宇都宮朝綱
- 八田知家
- 常陸入道念西(伊達朝宗?)
- 比企能員
- 小山朝政
- 下河辺政義
文士
- 中原親能
- 大江広元 - 政所別当
- 三善康信 - 問注所執事
- 二階堂行政
元独立勢力
- 武田信義
- 一条忠頼 - 誅殺
- 新田義重
- 佐竹秀義
源氏その他
- 阿野全成 - 異母弟
- 源義経 - 異母弟 追放
- 源頼隆
- 武田信光
これら御家人の下にいながら、頼朝の手足となって働いた安達清経などの雑色という存在もあった。