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鎌倉幕府

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鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、源頼朝が創設した日本の武家政権。この時代を鎌倉時代という。

頼朝の死後、幕府に仕えた坂東武士(御家人)の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は北条氏による執権、やがて北条義時の嫡流である得宗が鎌倉幕府の実質的な支配者となった。元弘3年(1333年)閏2月に船上山で後醍醐天皇が挙兵すると、幕府は北条高家と足利高氏を鎌倉方の総大将として派遣するが、同年4月27日に北条高家が戦死し、4月29日に足利高氏が反幕府側に寝返ると、5月8日に関東で新田義貞が寝返って鎌倉に攻め入り、短期間のうちに形勢が変わり、同年5月22日に鎌倉幕府は滅亡した。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。

概要[編集]

成立過程の概略[編集]

『吾妻鏡』によれば1180年(治承4年)12月12日に鎌倉の大倉郷に頼朝の邸となる大倉御所が置かれ、また幕府の統治機構の原型ともいうべき侍所が設置されて武家政権の実態が形成された。朝廷は寿永二年十月宣旨(1183年)で頼朝に対し、東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証させると同時に、頼朝による東国支配権を公認した。壇ノ浦の戦い(元暦2年/寿永4年(1185年))で平氏を滅ぼし、同年、文治の勅許(文治元年(1185年))では頼朝へ与えられた諸国への守護・地頭職の設置・任免を許可した。そして建久元年(1190年)頼朝が権大納言兼右近衛大将に任じられ、公卿に列し荘園領主の家政機関たる公文所(のちの政所)開設の権を得たことで、いわば統治機構としての合法性を帯びるようになり、建久3年(1192年)には征夷大将軍の宣下がなされた。こうして、名実ともに武家政権として成立することとなった。守護の設置で幕府は諸国の治安維持を担当したものの、当初は特に西日本では朝廷およびその出先機関である国府との二重支配状態だったが、次第に範囲を拡大。承久の乱や元寇を経て、全国的な支配権を確立するに至った。

統治構造[編集]

当初の鎌倉幕府は鎌倉殿を主宰者とする武士を首班とした地方政権で、支配は東国を中心としており、承久の乱後に全国政権へと飛躍し、権力を拡大させたものであるが、そもそも当初から全国政権を志向したわけでなく、あくまで朝廷権力を前提とした地方政権であった。その大きな理由のひとつが、鎌倉幕府は荘園公領制を前提とした政権であることである。したがって中央の権門の領地(荘園・公領)の権利を冒さず、彼らへ年貢を滞りなく納めることを保証することが、幕府の重要な任務・意義としていた。

地方で土地を私有する武士団の起源は、天平15年(743年)、朝廷が効果的に収税を行うべく発布した墾田永年私財法の施行により土地私有が公認されたことに由来し、古来の豪族や有力農民などが土地を私有するようになったが、国司による厳しい徴税を回避すべく有力地主たちは公卿に土地の一部を寄進し、荘園の荘官(開発領主)としての地位を得たことが契機であった。寄進した貴族の保護は受けるとはいえ、今度は寄進した荘園領主からの取り立てや国司との摩擦、近隣豪族の侵略も絶えず、有力農民たちはいつしか武装するようになり、武士が誕生する。

やがて有力農民たちに由来する武士は、武士団の起源となり、都から派遣された下級貴族(官人)、さらに源朝臣や平朝臣など堂上家や地下家を上位の軍事貴族を棟梁として仰ぎ、主従関係を結ぶことによって本領安堵(郡領惣村、宿場(駅家)や港(水駅)の経営など、また盗賊(落ち武者狩り)や海賊(水軍)参照)を確実なものとした。棟梁の戦に従軍し、新たな領地を与えられることで繁栄の糸口を得たのである。

源頼朝はそうした各地の武士団を統べる貴族の名門中の名門であり、頼朝の鎌倉幕府とは、御家人となった武士に地頭職を授けることで本領安堵を行い、武功により新たな領地を与える新恩給与を行う、まさに荘園公領制を媒介とした、御恩と奉公により武士の利害を代表する政権であったといえる。そして、鎌倉幕府の政治的基盤および軍事的・経済的基盤は、頼朝が平氏追討の恩賞などとして獲得した関東知行国、関東御領であった。

そして、鎌倉幕府が朝廷権力を前提とした政権であるという二つ目の理由が、鎌倉幕府は律令法制上、様々な存立根拠を満たして成立しているという点である。

もともと伊豆で蛭ヶ小島の流人であった頼朝が平氏追討の兵を挙げる前提となった出来事は、以仁王のいわゆる「令旨」(厳密には御教書)であった。大庭景親をはじめとする関東の平家方武士団を破った頼朝は、治承4年(1180年)、鎌倉に拠点を置き統治を開始するが、この時点ではまだ平将門と変わらない、ごく私的な政権に過ぎなかった。しかし、寿永2年(1183年)に入り、朝廷は頼朝を平家に敗れて流人となる前の従五位下に復し、頼朝の要望に従い平氏が東国で行った荘園や公領の横領を廃止し、元の国司や荘園領主に帰属させる権限を承認する、いわゆる東国沙汰権を付与した。そしてこの権限の履行のために東国の地方官である国衙を指揮する権能も認められたのである。いわゆる寿永二年十月宣旨である。

元暦2年(1185年)3月24日には、壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼすことに成功した頼朝は朝敵追討の功労者として平家の所有していた荘園、いわゆる平家没官領の支配権を要求して承認され、後に鎌倉殿直轄の荘園、関東御領と呼ばれる所領を獲得した。また平家滅亡後、頼朝に叛旗を翻した弟・源義経と叔父・源行家が後白河法皇から頼朝追討の院宣を下されると、頼朝はこれに抗議し、朝廷を頼朝の推薦した公卿を議奏として、議奏をもって朝廷の政治を担当させること、義経・行家追討の院宣を発すること、加えてその追討のために東国および畿内に守護及び地頭を置くことを認可し、さらに荘園公領を問わず、反別五升の兵粮米の徴収権を頼朝に与えることを求めた。いわゆる、文治の勅許である。

その後、頼朝は東北に強大な独立勢力を築いていた奥州藤原氏を滅ぼし、建久元年(1190年)11月、権大納言兼右近衛大将に任ぜられた(位階は既に元暦二年(1185年)に従二位に叙され、文治5年(1189年)に正二位に昇叙されていた)。

これによって、三位以上の公卿に認められる、家政機関政所の設置が公に認められ、それまで頼朝が独自に設置してきた公文所を政所と改め、官職・右近衛大将の略称である右大将にちなみ、右大将家政所と称した。それまで頼朝個人としての官職復帰や、東国沙汰権を拠り所としていた鎌倉の東国政権は、朝廷公認の家政機関としての位置付けを得て、統治機構としての正当性を獲得したのである。建久2年(1191年)1月15日、鎌倉に帰還した頼朝は年頭行事や祝い事など画期に行われる吉書始を行い、右大将家政所を司る四等官として政所別当に大江広元、令に二階堂行政、案主に藤井俊長、知家事に中原光家をそれぞれ任じ、問注所執事に三善善信、侍所別当に和田義盛、侍所所司に梶原景時、公事奉行人に藤原親能他6名、京都守護に外戚で公卿でもある一条能保、鎮西奉行人に天野遠景を任じ、鎌倉幕府の陣容を固めた。

建久3年(1192年)7月12日、頼朝は朝廷から征夷大将軍を宣下された。『山槐記』建久3年(1192年)7月9日条および12日条によると、頼朝が望んだのは「大将軍」であり、それを受けた朝廷で「惣官」「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」の4つの候補が提案されて検討された結果、平宗盛の任官した「惣官」や源義仲の任官した「征東大将軍」は凶例であるとして斥けられ、また「上将軍」も日本では先例がないとして、坂上田村麻呂の任官した「征夷大将軍」が吉例として選ばれたという。この時代においては名誉職化していた征夷大将軍に、左大臣にも相当する正二位という高位で就いたことは、軍権に基づく政権担当者という意味合いが加わり、これが幕府の主宰者に世襲されたことによって、鎌倉幕府は朝廷に代わる政権として名実ともに確立された。また、戦時において全国の兵馬を動員できる征夷大将軍への任命は、頼朝に非常大権を付与せしめることを意味した。後に源頼朝は武家政権の始祖として武士に神聖視されることとなる。

このように、鎌倉幕府は朝廷の公的制度である荘園公領制を前提とし、朝廷から幾重もの権限承認、委譲を受け、成立した政権であるということができる。鎌倉殿自身が得た大規模な荘園所領も、将軍の高い官位に伴う職権として、朝廷から世襲が制度上も認められた。



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