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渡辺季彦

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渡辺 季彦(わたなべ すえひこ、英:Suehiko Watanabe、1908年〈明治41年〉11月21日 - 2013年〈平成25年〉6月10日)は日本ヴァイオリン教師。[1]

東京市芝区今里町三丁目[2][3]に、日本郵船の機関士をしていた渡辺淡の四人兄弟の三男として生まれる。1921年に、進学した鹿児島の七高から次兄の亦男が持って帰省してきたヴァイオリンを見てヴァイオリンを始め、翌年から柳生孝太郎、草川信の各氏にヴァイオリンを師事したが、直ぐに上達し、窪兼雅に弟子入りしてヴァイオリンの腕を磨いた。[4]関東大震災後には、定年退職した父親が1927年には東京高等音楽学院予科に進学して、引き続き窪にヴァイオリンを学び、小学校の頃からの友人である兼子重雄と児玉孝らと弦楽四重奏団を結成。在学中より芝区白金三光町の自宅にスタジオを開設し、近所の子供たちにヴァイオリンを教えるようになった。[5][6]この弟子たちや音楽仲間や同級生たちと弦楽合奏団も組織している。[7]兼子の伝手で鈴木満枝[8]にもヴァイオリンを教えたが、その満枝の伝手で彼女の姉の美枝[9]と知り合い、後に結婚している。1931年に東京高等音楽学院を卒業後、[10]ボリス・ラスに入門。[11][12]第二次世界大戦中は、妻の美枝と慰問演奏に明け暮れた。[13]戦後、義妹の満枝と彼女の息子の茂夫が渡辺家にやってきて、満枝は浅草の劇場や進駐軍のキャンプなどでヴァイオリン奏者として働きだし、季彦夫妻で茂夫の面倒を見るようになった。[14]その過程で茂夫にヴァイオリンの猛特訓を施し、[15]7歳で茂夫にリサイタルを開かせる程に成長させた。[16]1953年には、改めて茂夫を養子に迎えている。[17]1955年に茂夫がアメリカに留学し、1957年に人事不省の状態になって帰国して以降は、ヴァイオリン教師を続けながら、妻の美枝は1987年8月に亡くなって以降も息子の茂夫の介護に当たった。[18]

肺炎により死去。[19]

脚注[編集]

  1. 山本, 茂『神童』文芸春秋、1996年。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784163513300
  2. 山本 1996, p. 27
  3. 大正時代末期に定年退職した父親が芝区白金三光町二五一番地に家を新築し、一家はそこに移住した。(山本 1996, p. 31)
  4. 山本 1996, pp. 28-29
  5. 山本 1996, p. 35
  6. 自宅にスタジオを開設する前から東京音楽学校の学生だった大竹千里の自邸に開設された「春光スタジオ」で兼子や児玉らと弦楽四重奏の練習をしていた。大竹について山本は「母親が伊藤博文の妾腹の子だったので遺産を相続していたのだろう。大竹はヴァイオリンも声楽も作曲もやる才人だった。のちにフリュートでパリ音楽院に合格するが、肺結核で客死した」(原文ママ)と記している。(山本 1996, p. 34)
  7. 練習に使用していた「春光スタジオ」にちなんで「春光会弦楽合奏団」と名付けられた。(山本 1996, p. 36)
  8. 後に渡辺茂夫の実母となる。(山本 1996, p. 38)
  9. 渡辺の勧めで山本直忠にピアノを学び、後にピアノ教師になった。(山本 1996, p. 37)
  10. 父親から一年間のヨーロッパ留学の話を持ち掛けられたが、留学期間の短さを理由にこの話を断っている。(山本 1996, p. 37)
  11. 山本 1996, pp. 39-41
  12. ラスは第二次世界大戦が開戦する前にアメリカに渡り、ラスをスパイだと思った特高警察が渡辺家に来て根掘り葉掘り聞いていったという。(山本 1996, p. 45)
  13. 山本 1996, p. 46
  14. 山本 1996, pp. 48-49
  15. 山本 1996, pp. 50-55
  16. 山本 1996, p. 56
  17. 山本 1996, p. 81
  18. 山本 1996, p. 261-262
  19. “訃報:渡辺季彦さん103歳=バイオリン教師”. 毎日新聞. (2012年6月11日). オリジナルの2012年7月9日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/Tgj4n 2012年7月9日閲覧。 


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