南京事件否定派との摩擦
南京事件否定派との摩擦とは、日本国内の保守派を中心とする南京事件否定派と日本・中国の南京事件肯定派が南京事件 (1937年)を巡って対立する問題の事である。
概説[編集]
2007年、日中歴史共同研究の日本側座長だった北岡伸一は「日本人の一部に南京事変は存在しなかったと主張する人たちがいること」も中国側の根強い反日感情の要因だと主張し、そうした主張はメディアで大々的に取り上げられるため、「中国の一般の人たちは、日本人が全然過去の侵略戦争について謝っていないと信じてしまう」と述べた[1]。
日本国内における否定派との摩擦[編集]
日本国内の保守派を中心とする南京事件否定派が、日本・中国の南京事件肯定派と摩擦するケースは頻繁に見られる。日本文化チャンネル桜は一貫として南京事件を否定し、南京事件を肯定する人物・主張を頻繁に批判している。歴史学者の東中野修道は1998年、展転社から『「南京虐殺」の徹底検証』を上梓、“今まで「南京大虐殺」の証拠とされている資料は全て捏造であり「南京虐殺」は無かった”と主張した。これにより南京事件の生存者・夏淑琴により「ニセ被害者呼ばわりされて、名誉を傷つけられた」として、名誉毀損で提訴され、2007年11月に東京地裁において三代川三千代裁判長は東中野と展転社に対し合計400万円の賠償を命じる判決をし、2009年2月5日、最高裁は東中野と展転社からの上告を棄却、判決が確定した。2012年に名古屋市市長の河村たかしが、表敬訪問を受けた同市の姉妹友好都市である中国・南京市の共産党市委員会常務委員らの一行8人に対し「南京事件というのはなかったのではないか」と発言したことを受け、河村が発言を撤回しなかったため、中国のネット利用者から激しい反発を呼び、両市間の公の交流を当面停止した。2015年、「南京大虐殺文書」の国連教育科学文化機関(ユネスコ)の記憶遺産登録に日本政府は中国政府に抗議し、ユネスコにも制度改善を求める談話を発表し、菅義偉官房長官は、ユネスコへの分担金・拠出金の支払い停止にも言及した。また「南京の真実国民運動」による抗議する集会があった。
現在でも日本国内では南京事件をテーマした娯楽作品に対し抗議・妨害活動がある。漫画『国が燃える』の作者本宮ひろ志は『週刊ヤングジャンプ』に掲載された南京事件のエピソードに対し、一部の読者・学者・右翼団体・保守政治家から捏造であるとの抗議を受け、ネット掲示板、ブログなどでも非難の声が多数上がったため、南京事件のエピソードはコミックス版では削除された。1995年の映画『南京1937』では日本での公開に際しては右翼団体による上映への抗議や妨害行動があり、2009年の映画『ジョン・ラーベ 〜南京のシンドラー〜』は日本では映画配給会社が揃って上映を拒否したものの、2014年5月17日「南京・史実を守る映画祭」実行委員会によって江戸東京博物館ホールで行われた上映が日本初公開となった。
南京事件当時の厳重な報道規制[編集]
南京事件否定派は1937年「南京占領」当時の日本の新聞記事や1938年に制作された東宝文化映画部製作の記録映画『南京』の映像を持ち出す傾向が多く[4]、これらには現地の中国人と日本兵が親しくしている描写が多数みられる。しかし、この時期には「新聞掲載事項許否判定要領」(1937年9月9日、陸軍省報道検閲係制定)に基づく陸軍の検閲制度が存在し、検閲をパスしなければ報道・上映が不可能という厳重な報道規制があり、日本国内では虐殺については一切報道されなかった[5][6]。1938年の映画『南京』は「軍特務部」の指導のもと、白井茂によって撮影され[7]、白井は自身の著書『カメラと人生』で虐殺があったことを指摘している。同じく1938年、石川達三の小説『生きている兵隊』は「反軍的内容をもった時局柄不穏当な作品」などとして発禁処分となった。当時、外国から入ってくる出版物は全て内務省の検閲を受けており、マギーフィルムが掲載された1938年5月16日の「LIFE」誌を含む外国の南京事件の出版物は水際でシャットアウトされていたという。
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1938年に東宝映画により公開された日本の戦記記録映画のワンシーン
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写真は南京事件で万歳する南京市民。しかし当時は厳重な報道規制があった。
当時の従軍日記・陣中日誌[編集]
日本国内で厳重な報道規制があった一方で、日本軍側の従軍日記には中国人の民間人や捕虜への虐殺の事が多く記載されている。
南京事件当時の人口[編集]
漫画家の小林よしのりは「多くて20万人しかいなかった市民をどうやったら30万人殺せるのか?」と述べており[8]、東條英機の孫の東條由布子も「日本軍は20万人しかいない土地で30万人も殺せるのですか?」という単純な質問に対し、統計によると日本の南京占領後、人口は増加することを述べ、南京事件を捏造と述べている。しかし実際「南京」と呼ばれる場所は、「南京市」「南京城区」があり、「南京市」の中に「南京城区」が、「南京城区」の中に南京戦のときは欧米人の人道的支援組織による「国際安全区」があった。1937年の日中戦争前の、それぞれの民間人の人口は、南京市が200万、南京城区が100万、後の国際安全区に当たるところが10万以上であったが、日中戦争後の激しい空襲により逃げ出す市民が相次ぎ、市内の人口は南京攻撃の直前に半分以下になった。南京戦後の虐殺とは、南京城区やその周辺を中心に軍人捕虜への戦時国際法違反の虐殺を中心に民間人も巻き込んで行われたものので、長江に遺体は多数投げ込まれたこともある。結果、残留民間人や脱走兵などが避難民として、欧米人の人道的支援組織が管理する国際安全区に押し寄せて、城内のその他のところは人口希薄となった。南京戦直後の国際安全区の人口は20万人さらに二か月後に周囲から避難した人もいて25万人になった。つまり、南京市民がもともと20万人しかいないのではなく、虐殺を否定するものでない。以上についての詳細や参照文献は、南京事件論争#人口推移の論点を参照。
ただし、南京大虐殺の副次的要因には中国側にも責任があるという指摘もある。中国側の問題としては、南京防衛の誤りと指揮統制の放棄と民間保護対策の欠如しており、当時の司令官の唐生智は「わが血肉をもって南京城と生死を共にする」と誓っていながら、徹底抗戦を叫んで逃亡したため、降伏手続きをすることなく逃亡した事は無責任の極みであり、これによって降伏という正規の手続きがなされず、停戦のけじめをつけなかった事が被害拡大の原因の一つと言われている。また唐は南京から長江以北に通じる道路を封鎖するよう命令を下し、渡し船を破壊して市民の多くが避難できないようにしている。南京国際安全区委員長のジョン・ラーベは中国政府は「兵士はおろか一般市民も犠牲にするのではないか」と懸念し、国民の生命を省みないと批判した[9]。
蒋介石の「南京大虐殺否定発言」を述べる田中正明[編集]
「興亜観音を守る会」会報(『興亜観音第15号』2002年4月18日号)に田中正明が書いたところによれば、1966年の台湾使節団としての蒋介石との面談の際、田中が1936年(昭和11年)に松井大将の秘書として蒋に一度会ったことを伝えると、蒋は「松井石根」という名を耳にした瞬間、顔色がさっと変わり、手を震わせ、目を真っ赤にして、涙ぐみながら「松井閣下には誠に申し訳ないことをしました」「南京に大虐殺などありはしない。ここにいる何応欽将軍も軍事報告の中でちゃんとそのことを記録してあるはずです。私も当時、大虐殺などという報告を耳にしたことはない。松井閣下は冤罪で処刑されたのです」と言いながら、涙しつつ田中の手を二度三度握り締めたと、田中は2001年の講演で述べ[10]、また2003年出版した著書でもこのエピソードを紹介し[11]、田中は「あれほど支那を愛し、孫文の革命を助け、孫文の大アジア主義の思想を遵奉したばかりか、留学生当時から自分(蒋)を庇護し、面倒を見て下さった松井閣下に対して何ら酬いることも出来ず、ありもせぬ「南京虐殺」の冤罪で刑死せしめた。悔恨の情が、いちどに吹きあげたものと思われる」と述べた[12]。
蒋介石に会ったと言う日から16年後に出版した「松井石根大将の陣中日記(芙蓉書房)」には全く書いておらず、その前年に出した「南京虐殺の虚構(日本教文社)」にも出てこない。そして「南京事件」の総括(謙光社)は田中が蒋介石に会ったと言う日から13年後に出版されたが、これにも蒋介石の話は全く書かれていない。
しかし、当時の中国側には南京事件があったことが述べている。
- 「倭寇(日本軍)は南京であくなき惨殺と姦淫をくり広げている。野獣にも似たこの暴行は、もとより彼ら自身の滅亡を早めるものである。それにしても同胞の痛苦はその極に達しているのだ」[13]。―蒋介石
- 「南京陥落後の大屠殺で、殺害された市民が十万人以上にも達した。」[14]。―何応欽
- 「しかし、南京・上海沿線、とりわけ南京市の大虐殺は、人類有史以来空前未曾有の血なまぐさい残虐な獣行記録をつくることとなった。これは中国の全民族に対する宣戦にとどまらず、全人類に対する宣戦でもある。敵の凶悪な残忍さは、人道と正義を血で洗い、全世界・全人類の憤怒と憎悪をよびおこした。」[15]。―毛沢東
松井石根は東京裁判で死刑になる直前のコメントで「南京事件はお恥ずかしい限りです。私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。せっかく皇威を輝かしたのに、 あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落としてしまった。」と述べている。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ↑ 南京大虐殺から70年、その傷は今なお深く【12月12日 AFP】
- ↑ 「南京は微笑む 城内点描」『朝日新聞』1937年12月25日付朝刊、3面
- ↑ 田中正明, What really happened in Nanking - The refutation of a common myth, 世界出版, page 123, ISBN 4916079078
- ↑ 例として、漫画家の小林よしのり、チャンネル桜社長の水島総は、1937年「南京占領」当時の日本の新聞記事や1938年の映画『南京』を根拠に南京大虐殺を否定している
- ↑ 具体的には以下のものが「掲載を許可せず」となっていた。「我が軍に不利なる記事、写真・支那兵または支那人逮捕訊問の記事写真中、虐待の感を与えるおそれのあるもの・残虐なる写真、ただし支那兵または支那人の残虐性に関する記事は差し支えなし」。(『不許可写真1』毎日新聞社、1998年。南京事件調査研究会・編『南京大虐殺否定論13のウソ』柏書房、1999年。笠原十九司『南京事件論争史』平凡社新書、2007年。)
- ↑ 毎日新聞社だけは、戦中の「不許可写真」を今でも持っており、他の新聞社は1945年終戦の際に内務省命令で全て焼却した。(『不許可写真1』毎日新聞社、1998年)
- ↑ 難民キャンプの入口に新聞記者が数名やって来て、ケーキ、りんごを配り、わずかな硬貨を難民に手渡して、この場面を映画撮影していた。こうしている間にも、かなりの数の兵士が裏の塀をよじ登り、構内に侵入して一〇名ほどの婦人を強姦したが、こちらの写真は一枚も撮らなかった。(『南京事件資料集 1 アメリカ関係資料編』P266)
- ↑ 『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』第2巻(P311-P312)
- ↑ 『南京の真実』講談社、1997年、83-90頁
- ↑ 2001年12月23日「興亜観音を守る会」講演。「興亜観音を守る会」会報15号
- ↑ 『朝日が明かす 中国の嘘』2003年、p16-17。「松井大将の名を耳にされた瞬間、蒋介石の顔色がサッーと変わりました。 目を真赤にし、涙ぐんで『松井閣下にはまことに申訳ないことを致しました』と私の手を堅く握りしめて、むせぶように言われた。」
- ↑ 田中正明『朝日が明かす 中国の嘘』高木書房、2003年5月、16-17頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 978-4-88471-055-2。
- ↑ 『蒋介石秘録12 日中全面戦争』
- ↑ 『中日関係と世界の前途』
- ↑ 『群衆』民国27年1月1日
関連項目[編集]
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