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ヘルベルト・フォン・カラヤン

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ヘルベルト・フォン・カラヤン[1](Herbert von Karajan,[2] 1908年[3]4月5日[4] - 1989年[5]7月16日[6])は、オーストリア指揮者[7]

ザルツブルクにて[8]ヘリベルト・リッター・フォン・カラヤン(Heribert Ritter von Karajan)[9][10]として生まれる。両親は音楽愛好家で、[11]幼少期から家庭音楽を通じて音楽に親しんだ。[12]4歳の頃からフランツ・レドヴィンカにピアノを学び、[13]4歳半で初めて人前でピアノを演奏している。[14]1916年にモーツァルテウム音楽院に入学して[15]引き続きレドヴィンカにピアノを学び、ベルンハルト・パウムガルトナーに作曲と室内楽、フランツ・ザウアーに和声をそれぞれ師事。[16][17]1917年にはピアノ奏者として改めてデビュー。[18][19]1926年からウィーン工科大学に進学した[18][20]が、ウィーン音楽院に進路変更し、ヨーゼフ・ホフマン[21]にピアノ、アレクサンダー・ヴンデラーとフランツ・シャルクに指揮を学ぶ。[22]1928年に学内コンサートで指揮。[23]1929年にはザルツブルクでモーツァルテウム管弦楽団を指揮し、[24]ウルム劇場の指揮者を1934年まで務めた。[25][26]1933年に勧誘[27]を受けてナチスに入党し、[28][29][30]ザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と初共演を果たした。[13]1934年にはアーヘン市立劇場に客演してルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの《フィデリオ》を指揮して好評を博す。翌年[31]にはカールスルーエ歌劇場に客演してリヒャルト・ヴァーグナーの《タンホイザー》を指揮して成功を収めたが、アーヘン市立劇場の音楽総監督だったペーター・ラーベが帝国音楽院の総裁に転出したのを受け、ラーベの後任としてアーヘン市立劇場の音楽総監督となった。[32]1937年にはウィーン国立歌劇場に客演してヴァーグナーの《トリスタンとイゾルデ》を指揮。[22]1938年にはベルリン国立歌劇場に客演してベートーヴェンの《フィデリオ》とヴァーグナーの《トリスタンとイゾルデ》の上演を成功させ、[33]録音活動も始めた。[5]同年、歌手のエルミー・ホルガーレフと結婚。[34][35]1939年にはベルリン国立歌劇場の指揮者となったが、1941年にはアーヘン市立劇場の職を更迭[33]されている。[36]1942年にはアニータ[37]・ギューターマンと結婚。[38][39][40]1943年にはアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団とレコーディングを行ったが、[41]指揮活動は低迷。[42]第二次世界大戦終結直前の1945年にミラノに行き、[43]終戦後当地で抑留され、[44]その年のうちに難民輸送車でオーストリアに送還され[45]て連合国側の尋問を受けることとなった。[46]1945年末に一旦オーストリアにおける出演が許可され、[47]1946年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮したが、その年のうちに指揮活動を禁止されている。[48][49]1947年に指揮活動が解除された[50]が、解除前から録音プロデューサーのウォルター・レッグと接触[51]し、録音活動に従事。[52][53]1948年から1964年までウィーン交響楽団[54]の首席指揮者。[55]1955年からベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任。[56]1956年から[57][58]1964年まで[59][60]ウィーン国立歌劇場の芸術監督を兼務し、1967年にはザルツブルク復活祭音楽祭を創設。1969年から[61]1971年までパリ管弦楽団の芸術監督も兼任した。[62]1972年にはオーケストラ・アカデミー、1973年にはザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭をそれぞれ創設。[63]1989年にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の職を辞す。[64]

ザルツブルク近郊アニフ[65]の自宅にて死去。[66][67][68]

脚注[編集]

  1. 「一九一八年十月および十一月に軍が敗退してハプスブルク帝国が消滅したことにより、音楽的成長とは別のことながら、カラヤンにとって特にのちになって重要な意味を持つ出来事が起こった。それは、一九一九年四月の憲法制定国民会議で決められた貴族制の廃止である。これにより、彼は突然リッター・フォン・カラヤンではなくなった。彼は現在"ヘルベルト・フォン・カラヤン"と名乗っているが、これは芸術家としての芸名と言ってさしつかえない。共和国の国民となるためにオーストリア貴族に適用された事柄を、カラヤンも免れることは出来なかった。彼のパスポートには、単に"ヘルベルト・カラヤン"と記されている。元の高貴な名前ヘリベルトは、帝国崩壊ののち早い時期に、市民的共和国的な名前へと変えられた。新しい時代に合わせるためにiの文字が犠牲になったのである。以来、かれはつつましくヘルベルトと名のっている。」(バッハマン, ローベルト・C『カラヤン 栄光の裏側に』横田 みどり訳、音楽之友社、1985年(原著1983年)、68頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784276217256)
  2. ヘルベルト・リッター・フォン・カラヤン(Herbert Ritter von Karajan)と表記する資料もある。“Mit Österreich fertig”. Der Spiegel. (1964年6月30日). オリジナルの2023年10月14日時点におけるアーカイブ。. http://archive.is/Ybg08 2023年10月14日閲覧。 
  3. Lemke-Matwey, Christine (2008年4月5日). “Herbert von Karajan: Der letzte Unbedingte”. Tagesspiegel. オリジナルの2024年1月9日時点におけるアーカイブ。. http://archive.is/d7WKs 2024年1月9日閲覧。 
  4. 「ヘリベルトの祖先は、ギリシャ、マケドニア地方の出身である。カラヤン一族の先祖ゲオルク・ヨハン・フォン・カラヤンは、一七四七年、ヨアネス・カラヨアンネス(生年不詳-一七六四年以前に没)の息子として、マケドニアのカルスト山地地域オリンポス近くのコザニに生まれた。驚くべき詳細に恵まれた"黒いヤン(トルコ語で"カラ"は黒を意味する)"は、二四歳の時ウィーンに移り、その後まもなくザクセンのケムニッツへと移住した。そこで彼は、綿布織機とトルコ紡ぎ糸の工場を始めた。この工場を足場にして、弟テオドール・ヨハンとともに、いわばザクセン織物業の基礎を築いたのである。ザクセン選帝侯国の産業と経済発展に貢献するこうした先駆的業績に対して、当時摂政の地位にあった選帝侯フリードリヒ・アウグスト三世は、一九七二年六月一日、この兄弟に神聖ローマ帝国の貴族の地位を与えた。ゲオルク・ヨハン・フォン・カラヤンは、十八世紀末までケムニッツで実業家として活動した。そして最後にケムニッツの工場を弟に譲り、ウィーンに戻って織物卸売商を営んだのち、一八一三年六月二日にこの世を去った。/彼の息子の一人テオドールは、学者としての経歴をたどった。ウィーン大学で中世ドイツ古文書学と歴史学の教授を務めるかたわら、皇室休廷図書館の司書、ウィーン皇室学術アカデミーの会長、帝国議会貴族院議員として活動し、一八四八-四九年にはフランクフルト・アム・マインにおける憲法制定国民議会の議員をも務めた。しかし、些細な理由のために、ヘリベルトの曽祖父テオドールはウィーン大学の学部長という名誉ある職に就くことができなかった。学部からの推薦はあったものの、ギリシャ正教会に属しているという理由で、文部大臣のトゥーン伯爵がテオドール・フォン・カラヤンの任命を退けたのである。これに抗して、一八五一年、彼は教授の職を自ら辞退した。管理機構にすげない扱いを受け、それに対して自我の意識にあふれた決然たる対応を見せるのは、疑いなくカラヤン家に伝わるある種の伝統である。偉大な学問的業績、特に十八年間にわたる学術アカデミー会長および副会長としての活動、『いかなる場合にも明らかに示されたオーストリア皇室に対する忠誠な態度』が認められて、一八六九年七月十一日、テオドール・フォン・カラヤンはオーストリア・レオポルト騎士十字勲章を授与され、オーストリアの騎士階級へと叙せられた。テオドールが名誉回復を果たしたのは晩年になってからであった。彼が一八七三年にこの世を去った時、当時の人々はテオドールが音楽の巨匠達に熱い尊敬を抱いていたと噂した。つまり、このテオドール・フォン・カラヤンにおいて初めて、カラヤンの魂の奥底に隠された音楽的才能の片鱗が発言したのである。/テオドールは息子マクシミリアンとルートヴィヒ・マリア(ヘリベルトの祖父。レープルとホイサーマンの伝記では誤ってマクシミリアンを祖父としている)にローマ=カトリック教の洗礼を受けさせた。宮廷顧問官ルートヴィヒ・マリアは一八三五年に生まれ、ウィーン女性ヘンリエッテ・フォン・ラインドルと結婚した。彼は医学博士であり、ニーダー・エスターライヒの知事顧問官と衛星担当官を務め、一九〇六年に亡くなっている。つまりこの父方の祖父とヘリベルトとは、互いに相まみえる機会をもたなかった。/カラヤン家の人々は出世の階段を強靭な精神で登り切る人々であり、そのたどり着くところには成功があった。トルコの下僕身分から抜け出ると、いち早く帝国に役立つ働きをなし、尊敬と称号と名声とを手に入れたのだ。十八世紀には実業家や商人としていち早く成功を手にした。十九世紀には学者、法律家として異彩を放ち、そして二十世紀には音楽、医学。技術の分野で成功を手中にした。彼らはさまざまな才能に恵まれるとともに、その才能を発展させ、成功に結び付けることを知っていた。カラヤン家の人々の生涯にはそういった面での粘り強さ、根気、強靭な意志を見ることができる。彼らは力強く努力を重ね、その努力は報われたのだ。/宮廷顧問官ルートヴィヒ・フォン・カラヤンの長男エルンストは、父親と同じ道をたどった。医学を勉強したのち、ザルツブルクで聖ヨハネ病院の医長、のちに州立病院の院長、州衛生担当官というすばらしい経歴をたどり、名声を博し、かつ尊敬される存在となった。彼は一八六八年にウィーンで生まれ、一九〇五年に十三歳年下のグラーツ出身の娘マルタ・コスマチと結婚した。二人の間には、一九〇六年七月二十一日に長男ヴォルフガング、続いて一九〇八年四月五日に次男ヘリベルトと、二人の息子が生まれた。次男ヘリベルトの体の中では父親の血が大勢を占めていた。人々はそれをマケドニアの血という。しかし少なくとも部分的にトルコに由来する要素があることは否定できない。なぜならば、マケドニアは十五世紀の末から十九世紀初頭までトルコの支配下にあり、トルコの容赦ない抑圧と搾取のもとに、民衆は何百年もの間奴隷的な身分に耐えていたからである。」(バッハマン 1985, pp. 46-49)
  5. 5.0 5.1 カラヤン、ヘルベルト・フォン(1908-1989) (Herbert von Karajan)|プロフィール|HMV&BOOKS online”. 2023年10月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月14日閲覧。
  6. ヴェルナー, アレクサンダー『カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記 下』喜多尾道冬、広瀬大介訳、音楽之友社、2010年(原著2008年)、278頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784276217959
  7. ヘルベルト・フォン・カラヤン - Discogs
  8. 阿部, 十三 (2008年2月28日). “カラヤン -人生・音楽・美学- 第Ⅰ章”. HMV. オリジナルの2023年10月15日時点におけるアーカイブ。. http://archive.is/TeYmA 2023年10月15日閲覧。 
  9. Herbert von Karajan - 15 facts about the great conductor”. 2024年1月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月4日閲覧。
  10. 「ともかく皇帝はここに新しい臣民を得た。当時はまだ貴族制であり、王国であったため、出征登録簿には"ヘリベルト・リッター・フォン・カラヤン"と記載された。ヘリベルトという名前は、よくよく考えて選ばれた、将来を見越した名前のように思われる。名前は未来を予示するものである。ヘリベルトという名は、古高ドイツ語の heri ヘリ(=軍隊)と beraht ベラート(=輝かしい)とに由来する。」(バッハマン 1985, p. 45)
  11. バッハマンに従ってカラヤン本人の言に従うと「私の父 は壮年時代、まあまあピアノを弾くことができました。もっとも情熱を傾けていたのはクラリネットです。時間のある時には、かなり水準の高いオペレッタを上演していた市立劇場に行き、クラリネット奏者たちを追い出しては、その代わりを務めて気晴らしをしていました。クラリネット奏者たちは仕事から解放されたと喜んでいました。」母親については「私の母は音楽について直感的に理解していました。彼女は音楽のことを多くは分かっていなかったようですが、ワーグナーの熱心な崇拝者で、非常に深い愛情を込めて聴いていたようです。それはあまり外には現れませんでしたが、彼女が音楽を聴いているのに居合わせると、彼女が本当に音楽のとりこになっているのがはっきりと見てとれました。」とのこと。(バッハマン 1985, p. 57)
  12. 「ヘリベルトに印象を与えた最初の音楽は家庭音楽であった。そして兄のヴォルフガングに対する競争意識から、自分も音楽をやってみようという気持ちが生まれた。ヴォルフガングは音楽的才能に恵まれ、五歳の時からピアノを習いはじめた。それは、年下のヘリベルトが自分もピアノを習いたいと思う気持ちを挑発するのに充分であった。子供の頃を振り返ってみて、カラヤンは兄が支配的な存在でも年上という感じでもなかったと言っている。『本当に、全然そんなことはありませんでした』と彼は言う。しかし、それには次の説明が続いている。『私は何をするにもいつも小さすぎ、弱すぎ、また下手でした。私はいつも兄にくっついて回り、彼の習ったことを全部自分でしてみたがりました。彼の持っているものすべてを欲しがりました。兄がピアノのレッスンを受けていた時、私もレッスンを受けたがりました。すると皆は、『だめだめ、お前はまだ小さすぎてできないのだから』と言うのでした。それで私はわからないように隠れて、兄の弾いているのを聴いてました。隠れ場所はいつもカーテンの間でした。そしてあとから、真似して弾いてみたのです。そして本当にレッスンを始めてもらえた時には、五週間で兄に追いつきました。すると兄はピアノをやめて、ヴァイオリンを習い始めました』。」(バッハマン 1985, pp. 57-58)
  13. 13.0 13.1 Herbert von Karajan | Offizielle Biografie”. 2023年10月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月14日閲覧。
  14. 「ヘリベルトが公衆の前に登場したのは、わずか四歳半の時であった。ザルツブルクの南、モルツィヒのレストランで慈善の催しが行われた時、彼は両親をも含めた聴衆の前でモーツァルトの《ロンド》を演奏した。これはまだ、音楽に対する幼い喜びを遊び半分に表したものでしかなかった。しかしその一年後に再び人々の前で演奏した時、彼は神童として大げさにほめそやされた。そこに両親の自負と時代の風潮が作用していたことは否めない。当時は神童の時代でもあった。一九〇三年にチリで生まれたクラウディオ・アラウは、七歳の時ベルリンにやってきた。彼はそこで一九一〇年にデビューし、マルティン・クラウゼ・フローレの弟子となった。同じ年に生まれたハンガリーのエルヴィン・ニレジハジは、一九一一年に八歳の振動としてバッキンガム宮殿のメアリー女王の前で午前演奏をしてデビューした。モーツァルト以来、ザルツブルクには神童が出現せず、人々はどうなるものかと興味をもって見守っていた。しかし、ヘリベルトは本当の意味での神童ではなかった。のちにモーツァルテウム音楽院の生徒として公開演奏の場に出るようになっても、彼は教育という枠の中で公開演奏に求められる才能を普通に示したのにすぎなかった。それは既に身につけたことを披露するだけのものであり、奇蹟などとは関係のない才能テストであった。幸いなことに、カラヤン家の人々もそれを正しく理解していた。」(バッハマン 1985, pp. 61-62)
  15. プロフィール | ヘルベルト・フォン・カラヤン | ソニーミュージックオフィシャルサイト”. 2023年10月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月14日閲覧。
  16. 特にパウムガルトナーは、カラヤンに指揮者の素質を認め、自分の指揮するオーケストラのリハーサルに度々帯同させたという。(Predota, Georg (2023年4月5日). “On This Day 5 April: Herbert von Karajan Was Born”. Interlude. オリジナルの2023年10月14日時点におけるアーカイブ。. http://archive.is/c2y5P 2023年10月14日閲覧。 )
  17. 「良き助言者と音楽教育者の念入りな指導を受けて、ヘルベルトはモーツァルテウム音楽院での勉強を終え、一九二七年六月十一日、『優秀』な成績で卒業試験に合格した。各教科の成績は以下のとおりである。ピアノ―優、楽式論―優、楽器学―優、音楽史―良。ヴォルフガングとともに高等学校へ通っていたヘルベルトは、高等学校を卒業すると、勉強を続けるためにさらに兄のあとを追い、ウィーンの工業大学に入学した。」(バッハマン 1985, p. 71)
  18. 18.0 18.1 BIOGRAPHY - ヘルベルト・フォン・カラヤン | Herbert von Karajan - UNIVERSAL MUSIC JAPAN”. 2023年10月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月14日閲覧。
  19. 「一九一七年一月二十七日、ヘリベルト・フォン・カラヤンはまだ十歳に満たない年齢で、モーツァルト生誕一六一年の祝典に際し、モーツァルト記念館大ホールのベーゼンドルファー・ピアノで《ロンド》ニ長調K四八五を弾いたのだった。その時のプログラムにははっきりと、『アンコールは一回だけ許すものとする』という指示が記されている。」(バッハマン 1985, p. 67)
  20. 「ヘルベルトは、まもなく工業大学を中退した。どのくらい在籍していたかについては、いくつかの説がある。彼自身、三学期と言い、二学期と言い、また一学期反だと言っており、本当のところは定かでない。」(バッハマン 1985, p. 80)
  21. オズボーンによると「後年、カラヤンは自分がピアノから指揮に転向した理由をいくつかあげている。そのひとつは、ベルンハルト・パウムガルトナーからも、ウィーンでピアノを師事したヨーゼフ・ホフマンからもピアノだけではもの足りなくなるだろうと言われたこと。もう一つの理由は、手が腱鞘炎を起こしたことである。」と述べている。このホフマンはロシア出身のヨゼフ・ホフマンとは別人である。(オズボーン, リチャード『ヘルベルト・フォン・カラヤン 上』木村博江訳、白水社、2001a(原著1998年)、53頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784560038468)
  22. 22.0 22.1 Herbert von Karajan (conductor) - audite”. 2023年10月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月14日閲覧。
  23. 学内コンサートで指揮をしたのは1928年12月17日のことである。(Oliver, Myrna (1989年7月17日). “Karajan Dies; ‘Last Great Conductor,’ 81”. Los Angeles Times. オリジナルの2023年10月14日時点におけるアーカイブ。. http://archive.is/gJKyy 2023年10月14日閲覧。 )
  24. 1929年1月22日にザルツブルクで指揮したことでウルム劇場に招かれることとなった。(Mortier, Gerard (1997). Herbert von Karajan und die Salzburger Festspiele. Residenz Verlag GmbH. p. 36. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9782738120342 )
  25. ウルム劇場に就職した1929年の3月2日にはヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの《フィガロの結婚》の上演を指揮。(Herbert von Karajan (conductor) - audite)
  26. Oliver 1989
  27. 「ナチ入党の三日前、カラヤンは二十五歳になっていた。彼を党に入れたのは、ザルツブルク・ラッサー通り出身の党員ヘルベルト・クラインである。彼は、カラヤンから五シリングの報奨金を『応募料として受け取り、その領収証のついた申込書を手渡した。党員クラインは、そのあとその申込書をザルツブルク・シュヴァルツ通り一番地の申込所に届け出た』。第五地方支部『ノイシュタット』の支部長メーゼルが、ナチ・ザルツブルク大管区会計主任にあてた文書で伝えているとおり、党の申込所が本当にシュヴァルツ通り一番地にあったとすれば、カラヤンは申込書をすぐ家へもって帰ることができたはずである。なぜならば、シュヴァルツ通り一番地はカラヤン家が暮らしていた家の住所だからである。『そこには売店もあり、通りを横切らなくともナチ党のパンフレットやヒットラーの綱領、その他のナチ宣伝資料を手に入れることが出来た』。/ヘルベルト・クラインの両親は、ジクムント・ハフナー通り十六番地で『クライン・ゴム店』という専門店を経営していた。この店は今もなお残っている。クライン一家とカラヤン一家が知り合いであったにしろなかったにしろ、今日においてはもちろん、ナチ党の勧誘員ヘルベルト・クラインがカラヤンの親しい友人であったとは言われていない。クラインは歴史学を専攻し、学位をとった。ヘルベルト・クライン博士は、戦後ザルツブルク州立公文書館館長およびザルツブルク地誌協会の会長となり、ザルツブルクで名士としての生活を送り、のちに宮廷顧問官となって、七〇年代の初期にこの世を去っている。」(バッハマン 1985, pp. 124-125)
  28. 「一九三三年四月一日、ヨーロッパ内の何百万人ものユダヤ人の根絶を目指す、長く恐ろしい一連の反ユダヤ人政策が始まった。/この日、ユダヤ人焦点に対する初めての組織的なボイコット運動が行われた。これを契機に、人類の歴史にいまだない迫害と虐殺が開始されることになる。ユダヤ人商店のショーウィンドーや事務所には、『ドイツ人よ自衛せよ!ユダヤ人の店では買うな』、『ユダヤ人よ、出て行け』といったボイコットを扇動し侮辱を浴びせる言葉の書かれたポスターが貼られた。武装したナチ突撃部隊は、ボイコットの呼びかけを強調し、客や訪問者がユダヤ人商店に入るのをやめさせた。/ナチ党による反ユダヤ主義の呼びかけは、あまりに王防滑無法な扱いがあらわであったため、多くの住人がユダヤ人に同情する傾向を示し、期待された効果を得ることができなかった。脅し言葉とは反対に、ナチはそれ以上ボイコットを推し進めることができなかった。すでに同じ日に、ゲッベルスは『ユダヤ人のデマ宣伝に対抗して』というラジオ演説を行ない、『ドイツに要るユダヤ人を絶滅させる……我々の決然たる態度を疑ってはならない』と、新たな一撃を通告した。全国的規模でのボイコットを行う前から、ウルムの人々は非常な熱心さを示していた。三月十一日には、すでにウルムの"ユダヤ民族に対する国民の怒り"が立ち上がり、ユダヤ人商店の閉鎖が貫徹された。ウルマー・シュトゥルム紙は得意気に報じていた。『まだ朝のうちから、多くの国民同胞がヴォールヴェルト百貨店や当方ユダヤ人の悪徳商店や安物店の前でデモをし、これらの店を閉鎖するように要求した……興奮した群衆の要求に、まずヴォールフェルト百貨店が屈服した。そのあと、さらにいくつかのユダヤ人の安物店がこれに続いた』。/ドイツ在住のユダヤ人に対してナチの最初の組織的な迫害が行われたちょうど一週間後、ヘルベルト・フォン・カラヤンは国家社会主義ドイツ労働党(ナチ党)に入党した。ザルツブルク第五支部『ノイシュタット』所属、党員番号は一六〇七五二五番である。一九三三年四月八日、土曜日のことであった。この週末、ナチに忠実なザルツブルガー・フォルクスブラット紙は、前日ベルリンの帝国議会で可決された職業官吏制度の復活について、第一面に報道している。この法律により、ユダヤ人がその地位を失い、指揮者の職を含めて、ドイツ人のために空席を自由に作り出せることは目に見えていた。新しい法律についてのニュースは、議決のあったその晩にはすでにラジオを通じて広まり、翌朝にはドイツの新聞に掲載され、それをザルツブルクで買って読むことができた。ウルム市立劇場の第二指揮者カラヤンが『金曜日の晩にラジオのニュースを聞いたか、それとも翌朝ザルツブルガー・フォルクスブラット紙の第一面に目を通したかどうかは、もちろん証明できることではない。しかし彼は、彼の立場でニュースで聞いたならば誰でもするであろうこととまさに同じ行動をとったのだ。つまり彼はナチに入党したのだ……』。」(バッハマン 1985, pp. 123-124)
  29. 「これだけは確かである。一九三三年五月一日、ヘルベルト・フォン・カラヤンは今度はドイツで二度目のナチ入党手続きを行った。党員番号三四三〇九一四番として、彼はナチ党ヴュルテンブルク大管区ウルム地方支部に登録された。ヒットラーは、今後その五月一日を国民の祝日『勝利の日』と定めると宣言した。そして三ヶ月の間に百五十万人以上の新規入党者が入ったため、もとの八十五万人の党員が少数派になってしまったという事態を鑑みて、ヒットラーは入党停止を定め、この五月一日以降それが施行されることとなった。/いわば確認的行為としてカラヤンが二度目の入党手続きを行ったのは、どういう理由によるものであろうか?すでに四月にはオーストリア・ナチ党の前途が危うくなり、いずれナチ党が禁止されることが憂慮されたため、そしてその場合にザルツブルクでの入党文書の効力がどうなるかわからなかったために、旧帝国でもう一度入党宣言しておくのが得策だと考えたのだろうか?それとも、カラヤンは四月末まで仮党員証を受け取っていない状態だったので(仮党員証は五月三十日に交付されることになっていた)、ナチ党が入党停止を予告している今、ウルムでも入党手続きをしておいた方が確実だと思ったのだろうか?五月一日は帝国内でナチに入党できる最後の日であった。入党停止は一九三七年五月一日まで続いた。」(バッハマン 1985, pp. 133-134)
  30. 1939年7月7日付のナチ党の中央管理局からケルン=アーヘン大管区会計主任宛ての文書によれば「この間における検証の結果、当該の者に対する一九三三年四月八日発効の党員資格は無効であることが判明した。ザルツブルク大管区監理局は、一九三九年六月二日付の文書により本件の調査結果を公表し、党員ヘルベルト・フォン・カラヤンは一九三三年四月に一度五シリングの寄付を行っただけであると報告している。当該の者は同月中にその地を去り、行先は不明となっている。/よって一九三三年四月八日の入党登録は無効とし、中央管理局台帳において当該の者に与えられている党員番号一六〇七五二五は抹消する。当該の者は、一九三三年五月一日、アーヘン=ブルトシャイト地区オイペナー通りの住所で、党員番号三四三〇九一四としてケルン=アーヘン大管区で入党しており、帝国索引カードでは党員として継続扱いとする。/党員資格の問題が解決されたため、ケルン=アーヘン大管区監理局を通じて出された党員証の申請を許可し、当該の者に対して、本日党員証三四三〇九一四番を交付する。添付した党員証を党員ヘルベルト・フォン・カラヤンに手渡し、現行の届出規定と寄付金納入規則についての指示を与えるよう、よろしくお取り計らい願いたい。ヒットラー万歳」。(バッハマン 1985, pp. 174-175)カール・レープルの「ナチ党員であったことと政治的活動を行ったことについて、彼は二重の非難を受けた。実際には何があったのだろうか?一九三五年にカラヤンは就任したばかりのアーヘンの音楽総監督の地位を失うか、ナチに入党するかという選択の前に立たされた。彼は入党した。ためらいはなかった。彼にとっては、仕事の上での出世が最も重要だったのである。だが、彼はナチと一体化したわけではなかった。他の多くの芸術家がそうであったように、彼も政治には全く無頓着だったのだ。そしてもちろん、多くの人々と同様に、十年後にどんな困難に直面するかを当時は知るべくもなかった」という記述や、1955年にカラヤンがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とアメリカに演奏旅行に出た際にアメリカ音楽家組合が抗議デモを行ったことについて、「理由として『カラヤンがヒットラー政権の第一級の協力者、宣伝車の一人であったことは、文書記録により確か』であると述べられた。その詳細は以下のとおりである。『カラヤンは、一九三三年にナチに入党した。オーストリア人である彼は、オーストリアで入党している。ナチ党がオーストリアで禁じられたのち、彼はドイツに移住し、そこですぐにプロイセン首相ゲーリングのお気に入りとなって音楽活動を行った』。しかしこれは、故意、あるいは不注意による間違った記述である」という記述についても批判している。前者の記述について、バッハマンは「すでに明らかなとおり、この叙述は根本的に間違っている。ある政党に入党するものは、決して政治に全く無頓着ではありえない。それどころか、入党は政治的な行動である。」と述べ、後者のについても、「レーブルのこうした叙述には、過去を清算するためのカラヤンの努力に勝るとも劣らない厚かましさがある。また、カラヤンがが事実を"もっぱら"ひた隠しにし、修正する一方で、それらの事実はレーブルの手で、しだいにユダヤ人的な大胆さを持って全くの正反対へと歪曲されている」としている。(バッハマン 1985, pp. 140-142)バッハマンに従ってジャック・ロルセイの記述によれば、「戦争と敵対の雰囲気に満ちた当時のことを訊かれて、彼はこう説明した。一九三四年、アーヘンで契約にサインする三日前に、劇場の責任者が彼に言った。『規則により、党員でなければここで重要な職務につくことは許されていません。ただの形式です。この書類に書き込んでくださいますか?』。恵まれた条件のもとで芸術的活動を行うことを特に望んでいたカラヤンは、それに同意した。―だが彼は決して政治に加わったわけではなかった。政治への興味はなかったのである。」とのこと。このロルセイの記述にも、バッハマンは「大胆にも、全く個人的な責任でカラヤンの両親のとがに免罪を言いわたしている」と批判している。(バッハマン 1985, p. 142)さらに、バッハマンに従ってポール・ロビンソンのペーター・ガイヤーによるドイツ語翻訳版の引用によれば「ドイツにおいて極端に抑圧的かつ全体主義的な性格の政権が権力の座についたことを、音楽家として、彼が気づかないはずがなかった。指揮者は、フェリックス・メンデルスゾーン=バルトルディ、グスタフ・マーラー、そしてアルノルト・シェーンベルクといったユダヤ人作曲家の作品の演奏を禁止された。ユダヤ人奏者は、もはやオーケストラに参加することを許されなかった。また、上演の前に国家社会主義賛歌であるホルスト・ヴェッセルの歌を演奏し、党の要人が客席に来ている時にはヒットラー式の挨拶を行うのが普通だった。/それにもかかわらず、カラヤンは一九三五年にナチ党の党員となった。アーヘンで音楽総監督となるためにである。入党するすることは単なる"形式"だと説明されたものの、同時に彼は、党員でなければそのような地位に就くことはできないのだということも知らされた。それは、当時のカラヤンにしてみれば、むしろ死にもの狂いの一歩であったに違いない。なぜならば、これを拒絶すると、指揮者として出世の道が閉ざされるばかりでなく、これまでの一切の努力も、全身全霊をあげて音楽と結びついた彼の人格もが、全く否定されてしまうからである。この心の内なる怯えのために、ことの真相をあとになっても全く語らず、むしろ自分の弱さを"尊大"な仮面で隠して他人の批難に身をさらすというのは、彼の典型的な一面だと思われる。その例として、一九六一年のウィンスロップ・サージャントとのインタビューで、彼は、全く楽観的理由からナチ党員になる決心をしたと"告白"している。」とのことであるが、バッハマンはサージャントのくだりについて、「ウィンスロップ・サージャントは、一九六一年にカラヤンとのインタビューで、カラヤンの決心がまったく楽観的な理由でなされた真相を暴いた。カラヤン自身、『その地位を手に入れるためにはどんな罪でも犯したでしょう』と告白したのである(ニューヨーカー紙、一九六七年十二月二日)」という原文を併置させて、「その地位を手に入れるためにはどんな罪でも犯したでしょう」というカラヤンの言やその引用元の情報を省くガイヤーの翻訳に「このように言いつくろい隠しだてすることにより、意識的にか無意識的にか、奇妙な捏造を行ってより高度な虚構的真理を作り出し、自らカラヤンの歴史を塗り変える共犯者になっている」と断じている。無論、原著者のロビンソンについても「彼もまた、歴史的な出来事からはずれたことを何行にもわたってくどくどと書き連ね、事実を作為的虚構と巧みに結びつけながら、カラヤン流の正当化を行っている」と断じている。(バッハマン 1985, pp. 142-144)バッハマンは「インタビューという真実味に溢れた魅力的な方法で(それによって、あるいはそれによってのみ事実が証明されうるのだという誤った期待の許に)その対象を紹介する場合、そこに何が起こるかという実例」として、エルンスト・ホイサーマンによるカラヤンの言葉の引用を紹介している。バッハマンによれば「ホイサーマンは、カラヤンの言葉に再吟味を加えることなく、文字通りそのまま引用している。『別に隠すこともありません。私はナチ党員でした。一九三五年、アーヘンで音楽総監督になる時に入党したのです。任命の三日前、待ち焦がれていた目標が目前に迫った時に、市議会の事務総長が来てこう言いました。『もうひとつ手続きをすませなくてはなりません。あなたはまだ党員でない。管区長のお話では、あなたが非党員のままでこの種の地位に就くことはできないとのことです』。そこで私は入党書類にサインしたのです』。」(バッハマン 1985, p. 145)バッハマン曰く「カラヤンには、歴史家を恐れるだけの理由がある。現在も未来も成功を手にしていたいという強い衝動のもとに、自分の都合のいいように歴史を捻じ曲げているからである。歴史を渇望するあまり、彼は明らかに一切の現実とかけ離れた完全なる自分のイメージ、いわば架空の記念像を必要とした。ヒットラーの建築士アルベルト・シュペールと同様、一九三三年四月と五月のナチ党入党をもって、カラヤンはいわば悪魔と契約を結んだのである。」(バッハマン 1985, p. 147)
  31. オズボーンは、ムーアの調査に起因するカラヤンのナチス入党に関する情報について、訂正している。「優秀なジャーナリストだったムーアは、裏付けとなる資料を探し、ベルリンの資料館で彼がカラヤンの『主要ファイル』と呼んだものに行き当たった。そのなかで決定的なのが、幾重にも訂正が加えられたカラヤンの党員証だった(バッハマン『カラヤン:栄光の裏側に(邦題)』の三五四ページに党員証のモノクロ写真が載っている。オリジナルの複写には何種類ものカラーインクで訂正が加えられていて、実物あるいは高品質のカラープリントでなければ正確に読みとれない)。/一見すると、その大半は―少なくとも目立つ部分では―簡単に読める。/まずカラヤンの名前と生年月日が記されている。次に判読しづらい住所が書かれているが、これはカラヤン自身の住所ではなく、ザルツブルクのナチ党党員募集事務所の住所である。住所の下に、定規で引いた三本の線で消してあるのが、一六〇七五二五という仮党員番号(一九三三年四月十六日の何日か後に、ザルツブルクに割り当てられた番号であることが現在ではわかっている)、および三三年四月八日というクラインが勧誘し登録氏ら日付である。その下、つまり党員証の中央に大きく記されているのが、実際の党員番号三四三〇九一四で、その前には三三年五月一日という記載がある。五の数字の上にはチェックマークがついている。/これを調べて、ムーアは乞う判断した。『彼はその月の党費を払ったが、四月中にドイツに戻った。それが事務手続き上にいささか混乱を招いた。彼が問う印象を受け取りに来なかったからである。だが彼は、ウルムに戻った後で一九三三年五月一日にこの混乱を解消し、三四三〇九一四という番号の新しい党員証を受け取った。』/ポール・ムーアも、その後彼の判断をうのみにしたほかの書き手たちも、わずか二十二日間のあいだに党員番号がなぜ一六〇七五二五から三四三〇九一四まで飛んだのか、疑問に持たなかったようだ。一九三三年四月当時、ナチ党は人気があったが、週六〇万人の割合で新党員を集められるほどではなかった(仮にその割合で集めたとしても、登録がこれほど迅速に処理できたとは考えにくい)。それともナチ党は、何か複雑な独自の番号発行システムを採っていたのだろうか。/この点が問われていたなら、事実は解明されたかもしれない。いつからいつまでの期間に、どの党員番号がナチ党の各支部に割り当てられたか、突き止めるのは比較的容易だからである(それはベルリン資料館のファイルで調べがつき、のちにはラドミア・ルーザが『併合時代のオーストリア・ドイツの関係』〔プリンストン、一九七五年刊〕のなかに掲載している)。/この党員証の下半分にはもっと重要な情報が記されている。この種の情報に慣れていないと、見落とす可能性がある。党員証の下半分にその内容の削除を示す三本の車線が入っているため、なおさらである。/三四三〇九一四という党員番号の下に三三年五月一日という日付が再び記されているが、これにはng.(「さかのぼって」を意味するドイツ語 nachgericht の略)の文字が付されている。つまり、この党員証は一九三三年五月一日にさかのぼって発行されているのだ。さらに事務的な几帳面さから、登録地にはその会員が一九三三年五月一日の時点に住んでいた場所、カラヤンの場合はウルムが採用されている。ヴュルテンブルク管区ウルムという記載の下には、最も重要な日付、三五年三月が記載され、同じ行の後半には三五/三三ngと記されている。/不慣れな者が見ると見当がつかないかもしれないが、これはカラヤンの実際の党員番号と完全に符合する。すなわちそれは、一九三三年から三五年のあだに割り当てられた会員番号のなかから、三三年五月一日にさかのぼって(ngは『さかのぼって一九三三年度の新党員』の意味)発行されたものなのだ。三三年五月一日というのは、新党員の募集が一時的に停止された時期の日付である。/カラヤンが一九三五年三月ないし四月に正式に党員として登録されたことは間違いないが、カラヤンは(あるいは事務を担当していた彼の秘書が)党員証を紛失したようだ。カラヤンが一九三八年七月二十六日にエルミー・ホルガーレフと結婚する直前に、ケルン/アーヘン支部に新しい党員証の発行を求める申請が出されている。この時点ではじめて、ナチ党の党員登録局はカラヤンが党員であるか否かについて、本腰を入れて調査を開始したのだ。/一九三九年一月五日付の書簡のなかに、カラヤンの党との関わりについて、生の事実が要約されている。この書簡もまた、額面どおりに受け取ると誤解を招きやすい。党員証の原本に記載された情報をたんに書き写したにすぎないからだ。『一九三三年四月八日―オーストリア、ザルツブルク、シュヴァルツ通り一番にて一六〇七五二五の党員番号で入党。三三年五月一日―一時取り消しはなしに、ウルム郡(ヴュルテンブルク管区)、ウルム、市立劇場にて三四三〇九一四の党員番号で再加入』という内容である。/この内容をもとに、調査がさらに六カ月続いた。そして最終的に、一九三九年七月七日、ケルン/アーヘン支部はミュンヒェンのナチ党党員登録局から以下の説明を受け取った。『(1)一九三三年四月八日のザルツブルクでの申し込みは無効であり、したがって一六〇七五二五という党員番号は抹消されるものとする。(2)ケルン/アーヘンで一九三三年五月一日(原文ママ)に発行された三四三〇九一四の党員番号は有効である。』/問題はそれで終わりではなかった。一九四四年の夏に、当時第三帝国内でのカラヤンの立場についていささか困惑していた帝国音楽院は、ナチ党党員登録局にカラヤンが正当なナチ党員かどうかを問い合わせた。だが、登録局はこのとき完全に混乱していた。一九四四年五月二十五日付けの返書で、ミュンヒェンの党員登録局は、記録によればカラヤンはアーヘン管区本部に登録されているが(カラヤンは一九四二年にアーヘンを去っている)、彼はザルツブルクで(原文ママ)に発行された三四三〇九一四という番号で入党、と記している。/明らかに、彼らの記録は不正確であると同時に古いものだった。そしてカラヤンが一九四二年に四分の一ユダヤ人のユダヤ人の血を持つアニータ・ギューターマンと結婚したあと、カラヤンにたいして、政治的に微妙で曖昧(つまり非公式)な措置がとられたため、ミュンヘンの登録局はさらに混乱をきたした。つまり、ミュンヒェンの登録局とは無関係な一件だっただったため、連絡がなされていなかったのである。」(オズボーン, リチャード『ヘルベルト・フォン・カラヤン 下』木村博江訳、白水社、2001b(原著1998年)、487-490頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784560038475)
  32. 阿部, 十三 (2008年3月19日). “カラヤン -人生・音楽・美学- 第II章”. HMV. オリジナルの2023年10月15日時点におけるアーカイブ。. http://archive.is/rSzWo 2023年10月15日閲覧。 
  33. 33.0 33.1 阿部, 十三 (2008年4月15日). “カラヤン -人生・音楽・美学- 第III章”. HMV. オリジナルの2023年10月15日時点におけるアーカイブ。. http://archive.is/njUpY 2023年10月15日閲覧。 
  34. 「一九三八年夏、七月二十六日に、カラヤンは十一歳年上の魅力的な歌手エルミー・ホルガーレフと結婚した。二人は町はずれのアーヘン=ブルトシャイト地区オイペナー通りに居を構えた。」(バッハマン 1985, p. 174)
  35. オズボーンに従ってホイサーマンにカラヤンが語るには「結婚後、エルミーは舞台から引退した。私がベルリンで指揮するときは、彼女もときどき一緒に来たが、原則としてアーヘンに住んでいた。その後私たちはベルリンにアパートを借りたが、今度は私がアーヘンにいるあいだ、彼女はそこでひとりになった。そんあわけで二人の関係はぎくしゃくし、気持ちが離れ、結局は三年たらずで別れることになった。」(オズボーン 2001a, p. 233)
  36. 結局、1942年4月22日に行われたヨハン・ゼバスティアン・バッハの《マタイ受難曲》の上演がアーヘン市立劇場の音楽総監督としての最後の仕事となった。(阿部, 十三 (2008年5月19日). “カラヤン -人生・音楽・美学- 第Ⅳ章”. HMV. オリジナルの2023年10月15日時点におけるアーカイブ。. http://archive.is/UolHO 2023年10月15日閲覧。 )
  37. 本名はアンナ・マリア(Anna Maria)。(Herbert von Karajan with his wife Anna Maria and members of La Scala... ニュース写真 - Getty Images”. 2024年1月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年1月29日閲覧。)
  38. 「当時のドイツにおいて国家社会主義の正体を見抜くには、純血法の当事者となることこそ最も効果的であった。ユダヤ人の血を引いていたり、ユダヤ人の親戚がいるというために国家社会主義と対決しなければならなかった人々は、最終的にこの法律の規定にひっかかったかどうかは別として、少なくともこの時点でナチ政府の恐ろしさと非人間性をはっきり知ったはずである。カラヤンと"ユダヤの血を負った"新しい妻アニータ・ギューターマンにとってもそれは同じであった。アニータがこの法律にひっかからないことが確かめられたものの、この侮辱的な法律と対峙した二人がその結果について考えをめぐらせなかったとは思えない。/一九四二年十月二十二日、カラヤンは二度目の結婚をした。一九三八年の最初の結婚の時と同様に、有能な党員カラヤンは今回も戸籍上の手続きだけですませている。このため彼は、一九五八年十月六日に入籍した三度目の妻エリエットについては教会婚姻法を利用することができ、一九六四年に教会法上の結婚を果たした。」(バッハマン 1985, pp. 201-202)
  39. カラヤンは、後に1942年にナチスから脱党したとしているが、ナチ党中央登録索引カードには「党員のいかなる動向をも仔細に記録しているはずのそのカードに、カラヤンの脱党を示す記録は全く見当たらない―脱党をしるすべき欄は空欄となっている」という。また、1944年に、カラヤンの妻アニータが「四分の一」ユダヤ人であることを知った帝国文化院が、カラヤンの党籍を問い合わせた時には、「一九四四年五月二十五日、地区総本部長シュナイダーは帝国文化院院長に、詳細な情報を送り、カラヤンのに党籍ついて次のように確認した。『現在、党員ヘルベルト・フォン・カラヤンは、アーヘン地方支部ケルン大管区、アーヘン、オイベナー通りの住所で党員として索引カードに登録されている』」としている。「カラヤンの結婚がナチの上層部に承認されていたという前述の味方を支えるもうひとつの状況証拠は、音楽研究家ポール・ムーアが著したカラヤンの経歴に関する論文の中に見出すことができる。そこにはカラヤンが二度入党したことが述べられ、『しかしニュルンベルク純血法のために出世をあきらめるという状態はそう長くは続かなかった。ベルリンの中央公文書館の記録によれば、翌年の夏、正確には一九四三年六月二十三日、宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルス自身が狂信的な党員たちに対してフォン・カラヤン夫人の家系調査を中止するようにと個人的に指令を出している。その時からカラヤンには何のやっかいごともなくなった』と記されている。ムーアの調べたところでは、カラヤンがユダヤ系女性と結婚したことをゲッベルスが隠そうとしたのは明らかであり、一九四三年の夏に、カラヤンの妻アニータの系図の中にアーリア人以外の血をかぎつけた詮索好きな党員たちを手厳しく退けた。ゲッベルスにとってカラヤンは、国家社会主義にとって好ましくない結婚ををしたことを理由に排斥することができないほど重要な存在だったのである。」(バッハマン 1985, pp. 204-206)
  40. アニータとは1958年に離婚し、直ぐにエリエット・ムーレと再婚している。(Chronologie: Herbert von Karajan Généalogie”. 2023年10月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月16日閲覧。)
  41. “audite カラヤン&BPO 50年代ライヴ 2タイトル”. HMV. (2019年2月21日). オリジナルの2023年10月16日時点におけるアーカイブ。. http://archive.is/268Ce 2023年10月16日閲覧。 
  42. カラヤン -人生・音楽・美学- 第Ⅳ章
  43. 「戦争が終わる六週間前、ある策略によりカラヤンは妻とともにベルリンを脱け出し、ミラノに向けて旅立つことに成功した。ドイツ人の管制下にあるミラノのラジオ局で録音を行うためと称して、カラヤンは命の綱となるべきビザを手に入れた。だが、この録音が行われることはもうなかった。党員カラヤンは、しばしばミラノ・スカラ座の紳士クラブ席に姿を見せていた年京的音楽愛好家で建築家のアルド・ポッツィのもとで、第三帝国の崩壊と最後を知らされた。」(バッハマン 1985, p. 215)
  44. 「ヘルベルト・フォン・カラヤンと妻アニータは、終戦後の夏を太陽の照りつける暑い北部イタリアで過ごした。『私はミラノで囚われの身となりました。終戦後、私たちはあるホテルに抑留されていましたが、それはホテルというにはほど遠い、みすぼらしい最低級のペンションでした。そこでほかの人々の食べ残しをもらって食べていたのです』。テーブルひとつと椅子がふたつ、棚がひとつにベッドがふたつ、壁には鏡が一枚だけ、そして隅には暖炉と思しきものがひとつあった。数ヵ月前まで共和国広場前の『プリンチペ・エ・サヴォイア』というナポリ一の豪華ホテルで享受していた贅沢な生活とは雲泥の差であった。」(バッハマン 1985, pp. 245-246)
  45. 「『六ヵ月も指揮していないという飢餓感、そして何も食べていないという飢餓感のもとに』トリエステで戦後初めて指揮棒を取ったカラヤンは、九月末に難民輸送車でオーストリアに送られた。」(バッハマン 1985, p. 248)
  46. 「故郷ザルツブルクの両親のもとに帰ったカラヤンを待ち受けていたのは、オーストリアの文化人を復職させるために連合国委員会が行っていた調査と尋問であった。」(バッハマン 1985, p. 248)「芸術家達を政治的な側面から類別するように委託されていたザルツブルク音楽演劇部門の取り調べに対し、カラヤンは、一九三五年音楽総監督に任命されると同時にナチに入党し、四分の一ユダヤ人の血を引くギューターマンとの結婚により一九四二年に脱党したと供述している。自分の歴史を消すことができ、それに対する反証が不可能だとすれば、この供述によりカラヤンは有利な逃げ道を作ったことになる。当時はまさにそういう状況であった。戦後の混乱期には、調査機関といえども関係文書を手に入れられない可能性があり、またカラヤンの供述の信憑性を追求するなどという蝋さえとらなかったのかもしれない。ともかく、芸術家の政治的類別と非ナチ化を委嘱されていた期間は、カラヤンの過去のもっとも本質的な点まで迫りえなかった。それだからこそ、合衆国の第一文化担当官オットー・ドゥ・パセッティ(オーストリア移民)は、ウィーンの指揮者問題の解決に当たって、『最初の調査ののち十一月半ばに、カラヤンの非ナチ化を』後押ししたのである。」(バッハマン 1985, p. 249)
  47. 「一九四五年以降オーストリアにおけるカラヤンの出演が許可されたのは、次のような根拠によるものであった。『アメリカ情報監査局音楽演劇部門は以下の見地に立つものである。すなわち、フォン・カラヤンは人種的な迫害を受けた夫人を擁護し、その結果をわが身に引き受けることにより、ナチ入党への償いを果たしたのである』。一九四五年十二月二十一日、ヴィーナー・クリール紙を通じて同じ内容の声明を発表したパセッティは、のちにザルツブルクとウィーンに居を構えたマックライスタル将軍を通じ、合衆国本部から訓戒を受けた。カラヤンはパセッティを自分の保護者のように考えていたが、パセッティのカラヤンに対する評価はむしろ険悪であった。」(バッハマン 1985, pp. 249-250)
  48. 「出演許可が公表された数日後、一九四八年一月十二、十三、十九日の三回にわたってカラヤンの指揮でウィーン・フィルのエンスカイが行われることが発表された。この招聘は、ウィーン・フィル楽員代表ゼドラック教授の提案によるものであった。ところがソ連側からカラヤンに多雨する抗議がもち上がった。ウィーン市参事会のプログラム審査報告には簡潔にこう記されている。『演奏会は開催、しかし指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンは拒否』。演奏会の始まる数時間前、パセッティとゼドラックはウィーン・インペリアル・ホテルでソ連の検閲担当官エプステインと話し合い、『カラヤンが有力なナチ党員として知られている』ことを理由に否定的態度をとっていたエプステインを譲歩させることに成功した。こうしてカラヤンは一九四六年一月十二日午後三時、ハイドンの《ロンドン》交響曲、リヒャルト・シュトラウスの交響詩《ドン・ファン》、そしてブラームスの交響曲第一番を指揮して、オーストリアにおける戦後の活動開始披露を行った。カラヤンに反発する恣意運動が予告されていたものの、演奏会は平穏のうちに始められた。オーケストラの前に登場したカラヤンを拍手で迎えた聴衆は百人にも満たなかったが、プログラムの最後のブラームスの交響曲が終わると、割れるような喝采が巻き起こった。感動に寄っている聴衆の中には、エーゴン・ヒルベルトなる人物の姿もあった。この人物こそ、その後数ヵ月にわたりカラヤンのために尽力することになった人物である。というのも、次に一九四六年三月二日と三日に予定されていたカラヤン指揮ウィーン・フィルの演奏会が取りやめになってしまったのであった。『アメリカ当局は、このたびカラヤンの出演禁止についても全責任をオーストリアの委員会に委任することとした。ヴィーナー・クリール紙の編集長ヘンドリク・J・ブルンスによれば、オーストリア政府はカラヤンの演奏会を禁止することを決定していたという。その決定に従い、アメリカの委員長代理ラルフ・H・テイト准将はアメリカ駐留軍宣伝局情報サービス部門が与えたアメリカ駐留地域におけるカラヤンの出演許可を取り下げた。そしてオーストリア連邦文部省附属の公的調査委員会もこれに応じた決定をするに立ったのである』。」(バッハマン 1985, pp. 250-251)
  49. オズボーンによれば、演奏禁止期間中も、その制限条項の網の目をかいくぐって、音楽活動は続けていた。ザルツブルク音楽祭では、本番こそ、ハンス・スヴァロフスキーやフェリックス・プロハスカなどが本番の指揮を執ったが、その本番に至るまでの稽古はカラヤンがつけていた。オズボーンに従ってアントン・デルモータによれば、ザルツブルクでヨーゼフ・クリップスが指揮をしてモーツァルトの《ドン・ジョヴァンニ》を上演することになった際、その稽古には毎回顔を出して見守り、プロンプター役が遅刻すると、その役を引き受けてプロンプター・ボックスに潜り込んでいたという。(オズボーン 2001a, pp. 315-316)
  50. 「指揮活動の禁止は一九四七年十月に解除された。」(バッハマン 1985, p. 261)
  51. 1946年1月にはカラヤンとレッグは面会している。(Karajan The Vienna Years”. 2024年1月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年1月21日閲覧。)
  52. 「この敷金市の次期に、カラヤンはウォルター・レッグであった。レッグはコロンビア・レコード、のちのEMIエレクトローラの芸術監督で、自分の創設したロンドン・フィルハーモニア管弦楽団の指揮者を探しているところだった。この人物はカラヤンにとって願ってもない存在であった。以前にそうであったように、またしてもカラヤンは最適のパートナーとめぐり合ったのである。カラヤンはレッグの力を借りて、無為と追放という戦後の指揮活動の低迷状態からまもなく這い上がることが出来た。二人はレコードという回り道を通って、新しい出世街道を打ち立てようと計画した。アーヘンやベルリンでの昔の出来事はもう何の意味ももたなかった。そうしたことについては何もしゃべらないのが一番利口なやり方であった。今や新しい経歴を打ち立てることのほうが重要だったのだ。カラヤンはレコードで名を挙げ、みそぎの灰の中から若返って現れる不死鳥として公けに紹介されることになった。マイクロフォンを前にして多忙な日々が始まった。一九四七年秋には早くもウィーン・フィルとの共演によりさまざまな作品が録音された。そのひとつ、ブラームスの《ドイツ・レクイエム》の録音の際、カラヤンは有名なウィーン楽友協会合唱団と初めての出会いを得た。」(バッハマン 1985, pp. 260-261)
  53. 「レッグは、八月の大半をザルツブルクで過ごし、カラヤン夫妻と共にツィステラルムに宿をとっていた。そして、九月の半ばにEMIの録音スタッフを引き連れてウィーンに戻った。EMIの役員会にたいし、カラヤンとシュヴァルツコップの活動禁止はおおやけの場での演奏にかぎることを納得させたうえで、レッグはイギリス外務省に働きかけ、自分とスタッフの必要書類を整えた。ウィーンのイギリス軍当局にもその報告が入った。/ところがあいにく、レッグが楽友協会に数トンにおよぶ録音機材を設置し、不安定な電力供給をおぎなうために発電機まで運び込んだとき、大騒ぎが起こった。ソ連軍当局は逆上し、アメリカ軍当局は激怒していた。ウィーン・フィルハーモニーまでが恐慌をきたし、レッグを呼び出して楽友協会の事務所で緊急会議を開いた。しかしレッグは平然としており、楽友協会のアレクサンダー・フリンチャク会長も動じなかった。フリンチャクは、自分のホールで、自分の監視下で行われる行為は、ほかならぬ楽友協会会長の問題であると発表した。レッグはすでに覚悟が出来ていた。これはイギリスの会社に委託された私的な企画であり、イギリス外務省の支援も受けていると述べた。アメリカ軍の代表が口をはさんだが、ドナウ川にでも飛び込んではどうかと一蹴された。/カラヤンは冷静そのものだった。一回目の演奏は一音たりとも演奏されなかった。技術者たちが機械の調整に慌ただしく動き回るかたわらで、カラヤンは、まるでウィーン・フィルと世界じゅうの時間を独り占めにするかのように、悠々とベートーヴェンの交響曲第八番に取り組んでいた。レッグは大満足だった。『彼の最初の録音には、膨大な時間をつぎ込んだ』と、のちに彼はいかにも誇らしげに回想している。/完成したレコードは翌年の三月にイギリスで発売され、オーストリアとドイツの特別許可を得たうえで、ヨーロッパ本土でも発売された。EMIの配給会社は隣接地域にもここに打診した(結局レコードの受入れを拒否したのはデンマークだけだった)。『グラモフォン』誌のレコード評に、多くの期待がかかっていた。ロンドンに本拠をおくこの月刊誌は、すでに英語圏を中心にレコード愛好家のバイブル的な存在だった。批評は同誌のベテラン記者W・R・アンダーソンによって書かれた。彼はカラヤンの名前を一度も出すことなく、五百五を超える文章を書き上げたが、内容そのものは熱狂的だった。書き出しからすでに、それがそれがにじみでていた。『たぐいまれな一枚。みごとな深さ、音の響き、ベートーヴェン特有のユーモアの感覚が、大いに好ましい』(『グラモフォン』一九四七年三月号)」(オズボーン 2001a, pp. 316-317)
  54. 初共演は1930年。(アーカイブ 2023年10月15日 - ウェイバックマシン)
  55. Wiener Klang seit 1900 Ѥ Wiener Symphoniker”. 2024年1月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年1月21日閲覧。
  56. 「カラヤン先生は一九五五年にフルトベングラーの後任として、ベルリン・フィルハーモニー交響楽団の常任指揮者に選ばれたが、オイゲン・ヨッフムアンドレ・クリュイタンス、それにカラヤン先生の三人の候補者のなかで最高の票を獲得し、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。」(大賀, 典雄『SONYの旋律』日本経済新聞社、2003年、97頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784532310509)
  57. 阿部, 十三 (2008年7月1日). “カラヤン -人生・音楽・美学- 第V章”. HMV. オリジナルの2024年2月4日時点におけるアーカイブ。. http://archive.is/ylLWw 2024年2月4日閲覧。 
  58. 1955年にウィーン国立歌劇場が再建され、カラヤンの前任の芸術監督であったカール・ベームの指揮で再開記念公演が開幕し、この一連の公演は成功したが、翌年の一連の公演は振るわず、かねてからの契約でアメリカに演奏旅行に出かけたベームが批判の的になってしまった。「一九五六年二月二十八日、アメリカからの旅を終え、ウィーンの空港に着いたベームは、記者に囲まれた。そして、自己防衛のために改めて明言した。『自分が国立歌劇場を離れていたことに、法的には何の問題もない。歌劇場との契約では、そこまで縛られていない』。それだけでやめておけばよかったのかもしれない。だが、ベームはさらに言った。『これからも、ウィーン国立歌劇場のために国際的キャリアを犠牲にするつもりなどない』。/ウィーンよりも自分の方が大事だ、『文句あるか』というわけである。ウィーンの人々にすれば、当然『文句あるさ』だった。劇場管理局ではベーム退陣は必至として後任選びが始まっていた。だが、ベームはそんなことは何も知らなかった。」中川, 右介『カラヤン帝国興亡史』幻冬舎新書、2008年、63-64頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 97843449807473月1日には、ウィーン国立歌劇場でベートーヴェンの《フィデリオ》の上演を指揮したが、演奏を始める前に大ブーイングを受け、なかなか演奏を始められない事態になった。このことを受けて、周囲に辞めたいとの思いを口にしていたが、これを劇場管理局は辞意表明と捉え、記者会見の段取りを組んでしまった。(中川 2008, pp. 64-66)
  59. 阿部, 十三 (2008年9月5日). “カラヤン -人生・音楽・美学- 第VII章”. HMV. オリジナルの2023年10月15日時点におけるアーカイブ。. http://archive.is/5AFeb 2023年10月15日閲覧。 
  60. カラヤンは芸術監督辞任後、1977年までウィーン国立歌劇場には登場しなかった。(阿部, 十三 (2008年9月5日). “カラヤン -人生・音楽・美学- 第X章”. HMV. オリジナルの2023年10月15日時点におけるアーカイブ。. http://archive.is/gMDcH 2023年10月15日閲覧。 )
  61. 阿部, 十三 (2008年9月5日). “カラヤン -人生・音楽・美学- 第VIII章”. HMV. オリジナルの2023年10月15日時点におけるアーカイブ。. http://archive.is/g67J9 2023年10月15日閲覧。 
  62. 歌崎, 和彦「Karajan カラヤン,ヘルベルト・フォン」『指揮者のすべて』音楽之友社、1996年、73頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784276960220
  63. 阿部, 十三 (2008年9月5日). “カラヤン -人生・音楽・美学- 第IX章”. HMV. オリジナルの2023年10月15日時点におけるアーカイブ。. http://archive.is/Iej2b 2023年10月15日閲覧。 
  64. 阿部, 十三 (2008年9月5日). “カラヤン -人生・音楽・美学- 第XI章”. HMV. オリジナルの2023年10月15日時点におけるアーカイブ。. http://archive.is/i8UPl 2023年10月15日閲覧。 
  65. Neubauer, Sigurd (2023年8月23日). “Why Karajan?”. Man & Culture Magazine. オリジナルの2024年1月10日時点におけるアーカイブ。. http://archive.is/5penw 2024年1月10日閲覧。 
  66. 「一九八九年七月、私は妻とソニー・アメリカ社長のミッキー・シュルホフを連れだって、オーストリアのザルツブルクにあるカラヤン先生の家を訪ねることになっていた。飛行機が予定より早く着いたので、私たちはザルツブルクにあるソニーのコンパクトディスク工場で視察して、それから空港のすぐ南側にある先生の家を訪ねようとしていた。/ところがザルツブルクの空港についてみると、先生の使いという女性がフォルクスワーゲンのバンで私たちを出迎えてくれ、『ミスター大賀、カラヤン先生は、きょうはすぐに自宅へ来て欲しいとおっしゃっている』と言う。/『カラヤン先生がそう言われているのであれば』と、私たちは家へ向かった。/カラヤン邸に着くと、フランチェスコというイタリア人の執事が現れ、『きょう、先生はご気分がよろしくないようで、ぜひ二階の寝室でお話ししたいとおっしゃっています』という。これまでの訪問では、先生はいつも一階のリビングで我々と面会されていた。/ベッド回りで話をするには座るところが必要だったので、二階まで椅子を担ぎ上げ、先生の隣に三人で座った。/ベッドの上にはカラヤン先生がその年に指揮をされるオペラの『仮面舞踏会』のスコア(総譜)とソニー製のヘッドホンステレオ『プロフェッショナルウォークマン』が置かれ、ベッドの周りには飛行機の雑誌が積まれていた。/先生は私たちを見ると真っ先に『今日は何で飛んできた』と聞かれるので、『ファルコン900で来ました』とお答えすると、『自分も今、ファルコン900を買おうと思っている』と言われた。/さらに、飛行機に関する専門的な質問をされるので、これには私と同行したミッキー・シュルホフが詳しくお答えした。先生が真っ先に尋ねられたのはエンジンのリライアビリティ(信頼性)であった。私が、『最近のファルコンのエンジンは故障がぐっと少なくなりました』と申し上げると、『それでは自分も注文しよう』と。喜んでおられた。/こうしてひとしきり飛行機の話をすると、今度は我々を呼び寄せた目的である、最近録画を終えた数々の作品についての説明を先生は始められた。/とその時、一階のほうで呼び鈴が鳴り、掛かりつけのお医者さんが到着したことをエリエッテ夫人が知らせてきた。しかし、カラヤン先生は何を思ったのか、『ミスター大賀とのこの会談は中国の王様といえども邪魔をすることは許されないのだ』と言って、その医者を追い返してしまわれたのである。/先生はベッドに身を起こし、再び音楽出版の話を続けられたが、途中で少し疲れたように『水をとって欲しい』と言われた。ミッキーがベッドの反対側に回り、水を満たしたグラスを手渡すと、先生はおいしそうにグラスを一気に飲み干した。するとその瞬間、ガクッと先生の頭が傾き、グラスが床に落ちた。エリエッテ夫人は洗髪中だったので、私があわてて呼びに行った。/事態を察したエリエッテ夫人は、『ヘルベルト!ヘルベルト!』とカラヤン先生の顔を懸命にたたいた。しかし、先生はその時にはもう動く気配はなかった。/エリエッテ夫人は一度追い返した医者をすぐに呼び戻そうと電話したが、なだ帰る途中で連絡がとれない。結局、カラヤン先生はそのまま帰らぬ人となってしまったのである。/音楽もデジタル技術のこともわかる偉大な音楽家との別れ。素晴らしい才能が一瞬のうちにこの世から消えてしまったことは大変な衝撃だった。しかも、それは自らの目の前で起きた出来事である。人間の命がいかにはかないものであるかを私はその時に実感した。/ケルンでソニー・ヨーロッパ本社の会議が開かれたのはその翌日のことである。私たちはカラヤン先生の最期をみとると、そのままケルンに向かったが、私はあまりのショックでほとんど眠ることができなかった。/会議が始まってしばらくすると、急に胸が苦しくなり、脂汗が止まらない。これはおかしいとソニー・ヨーロッパのトップに相談すると、『すぐに病院に行ってください』と言われ、救急車で連れていかれた。/五島昇さんが亡くなられた時と同じだった。この時もカラヤン先生が「My Copilot(親愛なる副操縦士よ)、一緒に行こうじゃないか」と私を誘っておられたのかもしれない。/病院では医師が東京の鈴木先生と電話で連絡をし、『心臓の血管が詰まっているので明日調べる』と言う。その日は注射を打ってもらい少し楽になったが、『今、動かすのはいけない。少なくとも十日はいるように』と言われた。/一命はとりとめたが、日本まで帰るには詰まった血管を膨らませ化ければならない。そこで血管に風船を入れて膨らませる『PTCA』と呼ばれる風船療法を施し、二週間の入院後、何とか日本に帰ってきたのである。」(大賀 2003, p. 201-204)
  67. 「大賀典雄とアメリカのソニー・コーポレーションの社長マイケル・シュールホフ―パイロットで医者でもあり、非常にカラヤン的な人物―は、七月十六日の朝にザルツブルク空港に着き、すぐさまアニフに案内された。/カラヤンはベッドのなかで、エリエッテはサイクリングに出かけていた。/最初の会話は飛行機にかんすることだけだった。医師が心電計をもって到着したが、カラヤンは『今日はいちばん大事な友人を迎えているので、中国の王様でも邪魔はさせない』と言って彼を追い帰した。昼食がオーダーされたが、カラヤンが執事のフランチェスコに早口のイタリア語で指示を出したので、どちらの客人も自分たちが何を食べることになるのか見当もつかなかった。/午後の一時ごろにエリエッテが帰宅した。ジョギング中のゴルデナー・ヒルシュからきた知人にであわなければ、彼女はまだサイクリングを続けていただろう。長時間立ち話をしたため、彼女はいつものルートを諦めたのだ。/だが、カラヤンがふいに言葉をとぎらせ、水をくれと言って、大賀とシュールホフを驚かせたとき、エリエッテはその部屋にいなかった。シュールホフがミネラルウォーターの瓶に手をのばした。カラヤンは一口飲み、気分がよくなったと言ったが、それから横ざまにくずれ落ち、荒い鼻息をたてた。シュールホフは何が起きたのかすぐに理解したが、遅すぎた。カラヤンは心臓発作を起こし、死んだのだった。/エリエッテは、医師が到着するまでの一時間以上、夫をあやすように抱きかかえながら座り込んでいた。同じ日の午後遅く、馬場でカラヤンのリャマが倒れ、死んだ。」(オズボーン 2001b, pp. 472-473)
  68. 「ベルリンとの関係に終止符を打っても、カラヤンは引退する気はなかった。/二年後はモーツァルト没後二百年となるので、ザルツブルク音楽祭ではモーツァルト作品を集中的に取り上げる計画を立てていたし、ウィーン・フィルとの来日公演も決めていた。七月に入ると、ザルツブルクで音楽祭のための《仮面舞踏会》のリハーサルが始まった。/十五日もカラヤンはそれをこなした。/そして、十六日、映像作品の権利についてソニーの大賀典雄社長との商談中に、カラヤンは突然苦しみだして、そのまま亡くなった。/『いまは、まだ、その時ではないのだが』が最後の言葉だった。/カラヤンはこの時点では、ザルツブルク音楽祭理事も、ベルリン・フィル首席指揮者も自認していたので、自分の音楽祭であるイースター音楽祭と聖霊降臨祭音楽祭の監督を覗けば、名誉称号にすぎないウィーン学友協会芸術監督しか、ポストはなかった。/八十一歳の、フリーの指揮者として、カラヤンは亡くなった。/その帝国はすでになく、彼は帝王ですらなかった。/その死は伏せられ、翌朝の慌しい葬儀には、ごく僅かな人々しか参列しなかった。葬儀が終わってから、その死は発表された。すべてカラヤンの生前の指示に従ったものだった。帝王は盛大な葬儀は望まなかった。/自宅のあったアニフ村の、その家から徒歩で十分もかからないところにある教会に、カラヤンの墓はある。質素なもので、とても二十世紀音楽界の最高権力者だった人の墓とは思えない。/バーンスタインはパリでカラヤンの訃報を聞いた。バスティーユ・のオペラ座の公演で、バーンスタインはカラヤンに黙とうをささげた。二人が共に過ごした時間はごく僅かでしかなかったが、これほど互いの仕事を意識し合った相手はなかったであろう。」(中川 2008, pp. 290-291)

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