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レオニード・クロイツァー

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レオニード・クロイツァーрусский: Леонид Давидович Крейцер, ラテン文字転写: Leonid Davidovich Kreutzer, 1884年[1]3月13日[2](ユリウス暦では3月1日)[3][4] - 1953年[5]10月30日[6])は、ロシア出身のピアノ奏者、指揮者作曲家[7]

サンクトペテルブルクの法律家[8]の家に生まれる。[9]幼少期から音楽に親しみ、[10]1901年にペテルブルク音楽院に入学し、アネッテ・エシポフにピアノ、[11]アレクサンドル・グラズノフに作曲と音楽理論を学んだ。[12]1905年にペテルブルク音楽院を卒業して演奏活動を始め、[13]アントン・ルビンシテイン国際ピアノ・コンクールで4位入賞を果たした。[14]1906年[15]にはドイツのライプツィヒに移住。[16][17]ドイツではヴァイオリン奏者のアレクサンダー・シュムラー[18]マックス・レーガー[19]グレゴール・ピアティゴルスキーアルトゥル・ニキシュ[20]と親交を結び、ニキシュに指揮法を学んだ。[21]1908年にベルリンに移って指揮者、ピアニストとして活動。[22]1911年と1913年にモスクワでセルゲイ・ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の指揮を担当。[23]1920年には交響的パントマイム《神と舞姫》を作曲。[24]1921年にはベルリン高等音楽院の教授に就任[25]ベルリン高等音楽院の要職に在任中に、日本人留学生の高折宮次[26]、笈田光吉[27]や井口秋子[28]らを教え、ベルリンに滞在していた近衞秀麿と交流した[29]り、パウル・コハンスキを東京音楽学校に推挙[30]したりしている。また、1926年と1927年には二度に渡ってアメリカに演奏旅行に出て成功を収め、1927年にはドイツ国籍を取得し、ポツダムでマスター・クラスを開講するようになった。[31]1931年には初来日を果たし、[32]ラジオ放送や新交響楽団の演奏会やリサイタルなどへの出演の他、ピアノ講座を開講[33]し、一連の功を認められて昭和天皇陛下から銀杯一組を下賜されている。[34]1933年にはベルリン高等音楽院の職を解雇され、[35]1934年には二度目の来日を果たし、[36]新交響楽団の演奏会に独奏者および指揮者として出演。一旦日本を離れて上海交響楽団に客演した後、日本に戻り、ピアノ奏者としてルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのピアノ協奏曲の第3番から第5番を演奏。[37]その年のうちに、アメリカに渡った。[38]1935年に再度来日し、そのまま定住。[39]しばらくはリサイタルを開いたり、[40]弟子の笈田が開いているピアノ塾でピアノを講じたり[41]して過ごし、1936年には日本放送協会に嘱託雇用された。[42]1938年から東京音楽学校で教鞭をとる。[43]1941年にはナチス政権によりドイツ国籍を剥奪され、[44]1944年には一時的に東京音楽学校の職を解かれている。[45]1945年には他の在留外国人と共に小石川区関口の天主公教会に連行され、空襲により焼失した後は日本女子大学の二類館、次いで田園調布の聖フランシスコ修道院に軟禁され、第二次世界大戦終結後に解放されている。[46]1946年に東京音楽学校に復職。[47]1948年から国立音楽大学の「技術最高指導者」の職に就きつつ、[48]1949年に東京音楽学校が東京藝術大学に改組された後も同大学に残って後進の指導に当たった。1950年には東京藝術大学の職を辞している。[49]1952年に弟子の織本豊子と結婚。[50]結婚した年の大阪の演奏会で一時的に体調を崩す。[51]翌年の春には回復して演奏活動を再開した[52]が、同年秋に狭心症の発作を起こして演奏会を中断。[53]

東京都品川区東五反田の自宅にて死去。[54]

脚注[編集]

  1. Персоны”. 2024年4月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年4月10日閲覧。
  2. КРЕЙЦЕР в энциклопедии музыки”. 2024年4月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年4月10日閲覧。
  3. 「日本のピアノ音楽史に大きな足跡を遺したレオニード・クロイツァー(一八八四~一九五三)は、一八八四年三月十三日、帝政ロシアの首都ペテルブルクに、ユダヤ系ドイツ人の法律家を父として生まれた。/一般のギムナジウムでラテン語とギリシャ語を学んだのちに音楽家を志し、ペテルブルク音楽院に入学した彼は、ペテルブルク生まれのアネッテ・エシポフ(一八五一~一九一四)という著名な女流ピアニストに師事した。エシポフの師はカール・ツェルニー門下のポーランド人テオドル・レシェティツキ(一八三〇~一九一五)。かの宰相ピアニスト、ヤン・パデレフスキ(一八六〇~一九四一)を育てた人としても知られる名伯楽だ。十四歳からこのレシェティツキに師事したエシポフは、二十九歳のとき彼の二度目の妻となり、十二年ほど結婚生活を送ったのち、この結婚を解消した一八九三年から母校ペテルブルク音楽院の教壇に立っていた。門下からはクロイツァーのほか、ドイツの名ピアニスト、アルトゥール・シュナーベル(一八八二~一九五一)や作曲家セルゲイ・プロコフィエフ(一八九一~一九五三)らを輩出している。/コンサート・ピアニストとしてのエシポフの最盛期は一八七〇年から八五年までの十五年間。この間に開いたコンサートの数はなんと六百六十九回。一年に四十回以上ステージに登場していた勘定になる。写真をみると、きりりと引き締まった口元と聡明そうな眼を持ったなかなかの美人だ。/このエシポフにピアノを師事したクロイツァーは、そのほか作曲をグラズノフ(一八六五~一九三六)に学んで、卒業後ピアニストとしての活動を開始した。一九〇五年に第一次ロシア革命がおこるとライプツイヒに移り、ここでハンガリー出身の名指揮者、アルトゥール・ニキシュ(一八五五~一九二二)から指揮法を学ぶ。/ピアニストとしてのクロイツァーの面目躍如たるコンサートは、一九〇五年、二十一歳のときのグリンカ賞受賞記念コンサートだろう。このとき、彼は、作曲者自身の指揮によってラフマニノフのピアノ協奏曲第二番を弾き、絶賛を浴びる。また指揮者としての記念すべきコンサートは、一九一一年にモスクワ歌劇場で同じ曲を指揮してすばらしい成功を収めたときだろう。なぜならこのとき、ピアノ独奏を担当したのは、六年前とは逆に、今度はラフマニノフその人であったからだ。/巨匠ピアニスト兼作曲家として知られたラフマニノフの協奏曲を、作曲家自身の快諾のもと、独奏と指揮を自在に入れ替わって担当できるこの第一級の音楽家は、一九二一年からベルリン音楽大学教授として教鞭をとる傍ら、楽譜の肯定やピアノ演奏の技法に関する著作の執筆にも力を注いだ。」(荻谷, 由喜子『田中希代子 夜明けのピアニスト』ショパン、2005年、60-62頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784883641895)
  4. 「クロイツァーの誕生日を三月十三日としている資料もみられる(八柱霊園の墓所に建つ墓碑には『三月十三日』の誕生日付が刻まれている)。本書に採用した『三月十一日』という誕生日付は『東京藝術大学百年史』に記載されている情報で、同校教師として採用された際に本人が提出した履歴書にはこの日付が書かれている。ただし、これは当時のロシア正教会が使用していたユリウス暦による日付なので、これをグレゴリオ暦(西暦)に換算すると二月二十八日となり、三月十三日説をとるなら、一八八四年は閏年のためグレゴリオ暦では三月一日となる。」〔ママ〕(荻谷, 由喜子『クロイツァーの肖像』株式会社ヤマハミュージックメディア、2016年、50頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784636928303)
  5. レオニード クロイツァーとは? 意味や使い方 - コトバンク”. 2024年4月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年4月10日閲覧。
  6. レオニード・クロイツァー教授 没後50周年に際して”. 2023年6月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月27日閲覧。
  7. レオニード・クロイツァー - Discogs
  8. 荻谷 2016, p. 32
  9. 「レオニード・クロイツァーは一八八四(明治一七)年にロシアのサンクト・ペテルブルクで生まれた。ドイツの大ピアニストであるヴィルヘルム・バックハウスと同年の生まれということになる。クロイツァーの誕生日は従来三月一三日とされてきたが、東京音楽学校に遺された自筆の履歴書では三月一一日生ということで、『東京藝術大学百年史』の記述もこれに従っている。/一八八四年当時、ヨーロッパとロシアの音楽会は後期ロマン派の全盛期だった。ドイツでは前年にリヒャルト・ヴァーグナーが世を去っていたが、この年、ヨハネス・ブラームスは五一歳。七三歳でフランツ・リストも健在である。ロシアではピョートル・チャイコフスキーが四四歳で活動の絶頂期にあった。/同時代の日本を見ると、一八八〇年に《君が代》が作曲されていて、同じ年に唱歌集などの編纂に尽力して日本の音楽教育に貢献したルーサー・ホワイティング・メーソンがアメリカから来日している。唱歌は日本人の音楽意識を一変させていくことになった。一八八三年異は鹿鳴館が落成して、はなやかな西洋文化が持ちこまれていた。/法律家で大学教授だったクロイツァーの父親は、レオニードを法律家にしたいと願って、息子が音楽を勉強することをあまり好まなかった。クロイツァーは音楽家としての教育ではなく、サンクト・ペトリ・ギムナジウムで普通教育を受けて、この学校を一九〇一年に卒業した。当時のこの種の学校の常で、古典語に代表される人文主義的教養を身につけたのだろう。」(山本, 尚志『レオニード・クロイツァー』音楽之友社、2006年、27-28頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784276217386)
  10. 荻谷に従ってクロイツァー本人の言によれば「私の最初の出発は、最初から音楽家を目指してではなく、ただ普通教育を受けるという目的で古典学校に入った。高等教育までは音楽家になろうという意識なしに、ただ音楽の才能のある幼年、青年時代として成長していった。私が音楽学校に入ったのは古典学校を出てから、すなわちギリシャ語、ラテン語を全部修めて入ったのだが、そのときまでの私の経歴は音楽家となるにはあまり有利な状態ではなかった。それがまだ私が音楽家としての途を歩むについても、いままで条件的に悪く作用してきた。/一方、私は比較的小さい時から音楽的環境に育って、いい音楽を聴いて耳は十分に肥えていた。しかし、職業音楽家になろうと思い立ったのはずっと後だから、普通のいわゆる天才音楽家が小さい時から基礎的な音楽技術を習うように、自然にその環境にひたったのと違って、指の機械的な訓練は幼時においてはあまり十分ではなかった。だから、自分が音楽家になってから、それを回復するためにあとから非常に努力した」とのこと。この記述を踏まえて、荻谷は、クロイツァーの幼少時について、「両親は音楽家ではなかったが、高度な審美眼を備えた音楽愛好家であったこと、息子のレオニードを幼い頃から、ごく自然に良い音楽に耳を傾けることのできる環境で育てたこと」と纏めている。また、「ただ聴かせるだけではなく、ピアノのレッスンを受けさせた。しかし、それはプロのピアニストにすることが目的ではなく、あくまでも教養の一環としての音楽レッスンであった。少年クロイツァーはそうしたのびのびとしたレッスンのもとめきめきと腕を上げていく。時には兄弟のひとりとソロパートとオーケストラ・パートを分担して二台のピアノで協奏曲も楽しんだこともあった。」と記述しているように、教養の範囲ながら、ピアノにも慣れ親しんでいたことが窺える。(荻谷 2016, pp. 34-35)
  11. 「一九〇一年、基礎教育を終えた十六歳のクロイツァーは、自分と同じ法律家の道を歩ませようとする父親の道に反して音楽家になることを決意し、ペテルブルク音楽院に入学した。/ペテルブルク音楽院は、十九世紀ロシアを代表する名ピアニスト、アントン・ルビンシテインが一八六二年に創設したロシア初のプロフェッショナル音楽家の養成機関で、その創成期の生徒に差し掛かる時期だった。作曲科ではリムスキー=コルサコフ(一八四四~一九〇八)やアレクサンドル・グラズノフ(一八六五~一九三六)が教鞭をとり、ヴァイオリン科はハイフェッツエルマンの師として名高いレオポルト・アウアー(一八四五~一九三〇)が主任教授を務め、ピアノ科はアネッテ・エシポフという、これまた高名な女性教授が統率していた。/クロイツァーが師事したのは、このアネッテ・エシポフである。」(荻谷 2016, pp. 37-38)
  12. 「ペテルブルク音楽院時代のクロイツァーは、こうしてエシポフにピアノを学んだほか、作曲と音楽理論をこの時代のロシアを代表する作曲家のひとりアレクサンドル・グラズノフに師事した。のちにグラズノフの門からはドミトリー・ショスタコーヴィチ(一九〇六~一九七五)も出ているので、クロイツァーはショスタコーヴィチの兄弟子ということになる。」(荻谷 2016, p. 41)
  13. 「一九〇五年、音楽院を卒業したクロイツァーは、コンサート・ピアニストとして演奏活動を開始した。その最初の大きな舞台は、九歳年長のラフマニノフがグリンカ賞を受賞したことを記念する演奏会だった。」(荻谷 2016, p. 41)
  14. 「またこの同じ一九〇五年、クロイツァーは第四回アントン・ルビンシテイン国際ピアノ・コンクールに参加して第四位に入賞した。」(荻谷 2016, p. 42)
  15. ロシア国内では、1903年にキシナウでロシア民族主義者たちの扇動によるユダヤ人への集団リンチ行動であるポグロムが発生し、1905年から1906年にかけてロシア各地で頻繁に起こるようになった。(荻谷 2016, p. 46)
  16. クロイツァー家は、「ユダヤ系とはいっても、さほどユダヤ人の血が濃いわけでもなく、ペテルブルクの上級知識人家庭であった」が、荻谷は、ドイツへの移住の理由として、「周辺の町や村に吹き荒れるポグロムのニュースは一家を戦慄せしめたに違いない」という点と、「当時、一般ロシア人に先んじて、ユダヤ人から徴兵されたことで、しかもいったん徴兵されてしまえば兵役は二十五年の長きに及んだ」点を挙げている。こうしたことを踏まえ、荻谷は「このような背景のもと、レオニード・クロイツァーは住み慣れたロシアを去り、ドイツへの移住を決心する。その期日については、何年何月何日からドイツに移り住んだとは明確に言い切れないものがある。おそらく、一九〇五年からロシアと西ヨーロッパを行き来して各地で演奏体験を重ねつつ、一九〇六年にドイツに腰を落ち着けたのではなかったかと推測される」と述べている。(荻谷 2016, p. 48)
  17. 荻谷 2016, p. 325
  18. 「二十世紀初頭から半ばにかけて、ベルリンを中心に独奏者として活躍したハンガリー生まれの名ヴァイオリン教師カール・フレッシュ(一八七三~一九四四)の回想録によれば、クロイツァーがドイツに拠点を移した頃、彼にはヴァイオリニストのアレクサンダー・シュムラー(一八八〇~一九三三)というデュオ・パートナーがいたという。クロイツァーとシュムラーは、ドイツではマックス・レーガー(一八七三~一九一六)の作品普及に貢献した、とフレッシュは書き記している。」(荻谷 2016, p. 54)
  19. 「クロイツァー自身も、著書『ある音楽家の美学的告白』の最終章『クロイツァー教授は語る』の中で、レーガー本人と親しかったこと、彼の二台ピアノ作品をしばしば共演したことを懐古する。しかしその一方、『彼は非常に単純な人で、教養が高いという人ではなかったので会話の相手としてはあまり面白くはなかった』とも述べている。/レーガーという人は、自身の作品を酷評した坊評論家に対して『今、わたしは自宅の一番狭い部屋におります。あなたの批評記事が目の前にありますが、それはまもなく後ろへ回るでしょう』と書き送ったという逸話の持ち主である。/また、ある夜更け、酔って帰宅する途中、壁に向かって違法行為を行っているところを警官に見つかり『罰金擬十マルクですよ』と声をかけられても行為を中止することなく悠々と継続しながら、百マルク紙幣を肩越しに差し出して『ほら、君の分もある。並んでどうかね』と豪語したという武勇伝も伝えられている。/これらのエピソードは割引して受け止める必要があるかもしれないが、こうしたレーガーの、機知に富んでいても、ある種の卑俗な感性と言動は、古典、哲学、美学に親しんで成長した教養人クロイツァーとは相容れなかったことが想像される。」(荻谷 2016, pp. 54-55)
  20. 「また、指揮者のニキシュとカール・ムック、のちにトリオを組んだチェリストのピアティゴルスキー(一九〇三~一九七六)についても『非常にインテリゲントな人であった』と評する。」(荻谷 2016, p. 56)
  21. 「クロイツァーはライプツィヒに二年ほど滞在してニキシュの薫陶を受けた。この当代最高の指揮者に師事できたことが、指揮者としてのクロイツァーの素地を培ったようである。」(荻谷 2016, p. 56)
  22. 荻谷 2016, p. 326
  23. 「一九一一年、クロイツァーはモスクワ歌劇場でラフマニノフの《ピアノ協奏曲 第二番》を指揮して絶賛された。ドイツに拠点を移したとはいっても、この時期はまだロシア国内の演奏会にも出演していたわけである。この六年前、クロイツァーは同じ曲の独奏者として輝かしい成功をおさめたが、今度は指揮者としてこの曲を演奏したのだ。/では誰だったのだろうか?/何と、ピアノの椅子に坐ったのは、六年前には指揮を担当したといわれるラフマニノフその人であった。/二年後、一九一三年十二月二十一日にも、ブラガロードヌイ・ザグラーニエ大ホールでこの協奏曲を自演するラフマニノフのために指揮棒をとっている。」(荻谷 2016, p. 57)
  24. 「当時のクロイツァーは作曲にも意欲を示し、一九二〇年にはゲーテの物語詩をテキストとする交響的パントマイム《神と舞姫》(Pantomime《Der Goft und Die Bajadere》)を完成させ、マンハイムで出版している。/ゲーテの物語詩は、人間に身をやつしたヒンドゥーの最高神マハデエ(シヴァ)によって真実の愛に目覚めた舞姫の魂の救済を描いたもので、クロイツァーはこれを四幕からなる舞踊劇に構成して音楽をつけた。この大作は一九二二年にマンハイム国立劇場でヴィルヘルム・フルトヴェングラー(一八八六~一九五四)の指揮によって初演され、さらにその翌年に、ベルリンのシャルロッテンブルクの市立劇場でもクロイツァー自身の指揮によって再演された。」(荻谷 2016, pp. 73-74)
  25. 「一九二一年、クロイツァーはフルトヴェングラーの推薦によってベルリン高等音楽院の教授に就任する。」(荻谷 2016, p. 82)
  26. 「ピアノ演奏のみならず、作曲、指揮、著作執筆、楽譜の校訂と精力的な活動に邁進する彼のもとに、一九二三年二月、日本から一人の男子学生が留学してきた。学生と言っても東京音楽学校のれっきとした助教授で、満三十歳の誕生日を間近にした高折宮次(一八九三~一九六三)である。/東京音楽学校でパウル・ショルツ(一八八九~一九四四)に学んだ高折は、卒業後母校の授業補助を経て大正六(一九一七)年から助教授を六年近く務めたところで在外研修の機会に恵まれ、文部省海外留学生としてベルリン高等音楽院に入学したのだった。」(荻谷 2016, pp. 83-84)
  27. 「さらにその翌一九二四年、慶應義塾大学を中退して、ピアノを学ぶためベルリンへ留学してきた一人の青年がいた。のちに来日後のクロイツァーを献身的に世話することになる笈田光吉(一九〇二~一九六四)だった。高折宮次のプライヴェーとな弟子であった笈田は、このとき二十二歳。翌年にはベルリンで、のちにジャズ・ヴォーカリストとして多くのジャズ・ファンに愛される長男の敏夫(一九二五~二〇〇三)が生まれている。/笈田光吉は一九二九年、もしくは三十年まで五~六年にわたってベルリンに滞在し、帰国後、ピアニストとしてバルトークプーランクといった同時代の作曲家のピアノ曲を積極的に日本に紹介した。その傍ら、東京に笈田塾というピアノの私塾を開いた。彼はこの笈田塾を拠点として絶対音感教育を広め、日本のピアノ教育界に大きく貢献したばかりでなく、後述するように、東京音楽学校就任前の時期のクロイツァーをここに招いてレッスンの場を提供し、食事や住居の面倒まで見た。」(荻谷 2016, p. 89)
  28. 「クロイツァーの日本初訪問とちょうど入れ違うタイミングでドイツへ留学したのが、後に井口基成と結婚して井口秋子の名前で活躍する澤崎秋子だった。/秋子のベルリン到着は一九三一年三月十六日である。ライプツィヒ音楽院でパウエル教授に師事する予定だった秋子は、ベルリンからすぐにライプツィヒへ向かうが、生憎、そのパウエル教授が渡米してしまったためベルリンへ戻った。ここで『ピアノの自然なテクニック(Die natürliche Klaviertechnik)』の著者ブライトハウプト(一八七三~一九四五)から三ヵ月ほどレッスンを受けたところで夏季休暇となって、ブライトハウプトも避暑地へ出かけてしまった。/さて、この夏をどう過ごそうかと思案していた秋子に声をかけてくれたのが、二年前からベルリンに留学中のピアニスト伊藤義雄(一九〇四~一九八五)だった。伊藤はクロイツァーのもとでピアノを学ぶとともに、クロイツァーのもとで学ぶとともに、クロイツァーの勧めで音楽学を研究していた。/伊藤は秋子に、ちょうど日本から帰ってきたクロイツァーがこの夏もポツダムでマスター・クラスを開くから、よかったら受講してみないか、と勧めてくれた。渡りに舟とクロイツァーのポツダム講座の見学に出掛けた秋子は、教え方は厳しいが、生徒一人ひとりの個性をじっくりと引き出そうとするクロイツァーのレッスンにすっかり魅了されてしまう。/そこで正式にクロイツァーに師事することを決心し、九月に入るとベルリン高等音楽院の入学試験を受けて見事にこれにパスした。秋子が最初にクロイツァー教室に出席したのは同月二十七日である。」(荻谷 2016, pp. 104-105)
  29. 「その同じ一九二三年には二十五歳の若き指揮者、近衛秀麿(一八九八~一九七三)も最初の渡欧の一時期をベルリンで過ごし、クロイツァーに私淑した。」(荻谷 2016, p. 87)
  30. 「一九二五年に高折宮次が帰国した段階で、東京音楽学校から早くもクロイツァー招聘の最初の打診があった。だが、この時期の彼はピアニストとしてもピアノ教育家としても最も精力的な活動を展開していたから、日本に活動の基盤を移すなど思いもよらないことであった。/そこでクロイツァーは、自分の代理を務めることのできるピアノ教授として弟子のポーランド人ピアニスト、レオニード・コハンスキ(一八九三~一九八〇)に白羽の矢を立てる。師の推挙を受けたコハンスキは、この大正十四(一九二五)年に日本に着任、昭和六(一九三一)年まで東京音楽学校でピアノを教えた。同校の公式文書での彼の名前は『ヨセフ・カガノフ』となっているので混乱を招きやすいが、カガノフとコハンスキは同一人物である。/コハンスキは一九三一年をもって東京音楽学校を去ったあと、戦中戦後の約二十年間をヨーロッパで活動したが、昭和二十八(一九五三)年に再来日し、今度は十三年も日本に留まってプライヴェート・レッスンを行うとともに武蔵野音楽大学で教鞭をとった。」(荻谷 2016, pp. 90-91)
  31. 荻谷 2016, pp. 92
  32. 「レオニード・クロイツァーが初めて日本の土を踏んだのは、昭和六(一九三一)年春のことだった。/弟子の小園登史子(後年、登至子に改名)が『音楽芸術』一九五四年一月豪市場でこの初来日時のことを『世界漫遊の途次来朝された』と振り返っているので、中等、アジア諸国を歴訪してから訪日したようだが、日本が最重要訪問地であったことは確かだ。というのも、ベルリンを再訪した近衞秀麿から、彼の主宰する新交響楽団の定期演奏会ソリストとして招聘されたのに加え、教え子の笈田光吉からも、日本でもぜひ、ポツダムで開講しているのと同じようなピアノ講座を開いてほしいと懇請されていたからである。」(荻谷 2016, pp. 96)
  33. 「クロイツァーは笈田光吉の懇請に応じて、白金三光町の笈田邸、および当時お茶の水に会った東京音楽学校分教場の二ヵ所で、それぞれ一般個人を対象とするレッスンとレクチャーの講座も開いた。これは、ポツダムで開いていたマスター・クラスを日本で再現する形の講座だったから、現役のベルリン音楽院ピアノ課主任教授の個人指導を日本に居ながらにして受けられるとあって、受講、聴講希望者は多かった。/外国人ピアニストの来日演奏会はこれまでにも多々あったが、個人向けの本格的講座まで開かれたのはこれがはじめてのことだ。クロイツァーは、ピアノの楽譜の解釈、およびペダルの使い方について詳しいレクチャーを語り、笈田、高折が通訳にあたった。/笈田はレクチャーの内容を日本語にまとめ、それにクロイツァーの既著『ピアノ技法の本質(Da Wesen der Klaviertechnik)』の記述を加味して『ピアノ演奏法講義』、『ピアノペダルの使い方』の二著を出版した。前者は『レオニード・クロイツェル教授口講述、笈田光吉編纂』となっていて、後者は『笈田光吉著』である。どちらも好調な売れ行きを示し、版を重ねた。」(荻谷 2016, pp. 100-102)
  34. 荻谷 2016, p. 102
  35. 「ドイツでは、一九二九年の世界恐慌と一九三一年の金融恐慌の大波をかぶってマルクが雪崩の勢いで下落し、国民の経済生活が圧迫される日々のうちに、ナチスが急速に勢力を拡大して、ユダヤ人排撃の声が日増しに高まっていった。/ナチスの巧妙な世論操作の理屈は、ドイツの全人口のうちの一割がユダヤ人であって、ことに金融業の中枢に関わる層ではその六割もがユダヤ人に占められ、彼らの専横的な経済活動のためにユダヤ人にばかり冨が集中し、一般世間ではこのような激烈なインフレがやまないのだから、ドイツ民族は今こそ結束してユダヤ人を駆逐しなければならない、というものだった。そして、恐ろしいことに、この言いがかり的論法が、生活苦に喘ぎ、その鬱憤からスケープ・ゴートを求めていた多くのドイツ国民の支持を得たのである。/一九三三年初頭についにナチスが政権をとると、四月には職業的官吏制度再建法が制定された。これはアーリア人であることを証明できる人物だけを公務員として認め、非アーリア人の出自を持つ者、及び過去に政治活動に関与した疑いの持たれる者はすべて公職から解雇するという法律である。/このときまでドイツ国内では多くにユダヤ人が国公立学校の教職についていたが、この悪法の制定によって悉く解雇されることになってしまった。ユダヤ系のクロイツァーも例外ではなく、看板教授として重用されていたベルリン高等音楽院ピアノ科主任教授のポストを一夜にして失った。」(荻谷 2016, pp. 107-108)
  36. 1933年にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団への客演の為に近衞秀麿がベルリンにやってきたが、クロイツァーは近衞に日本への亡命を打診している。「近衛秀麿の力強い現に背を押されたクロイツァーは、翌昭和九(一九三四)年二月二十三日、近衛とともに日本郵船の豪華客船、浅間丸で横浜港に入港、翌二十四日には横浜から東海道線の列車に乗車して午後四時五十分、東京駅に到着した。/東京駅のホームには、東京音楽学校の乗杉嘉壽校長をはじめ、笈田光吉、高折宮次、澤崎秋子、田中規矩子、黒川いさ子、大月投網子ら教え子たちがずらりと並んでクロイツァーを出迎えていた。」(荻谷 2016, pp. 112-113)
  37. 荻谷 2016, p. 328
  38. 「当時の東京朝日新聞は、『米国ニュージャージー州の大学で教鞭をとるために』日本を後にしたと報じているので、彼はこのときドイツへ帰国したのではなく、三度目のアメリカ演奏旅行に日本から出発したことが理解される。」(荻谷 2016, p. 115)
  39. 「翌昭和十(一九三五)年三月二十一日、クロイツァーは三回目の来日を果たした。アメリカ演奏旅行からドイツへ帰らずに、そのまま日本郵船の秩父丸に乗船して太平洋を渡ってきたのである。その少し前に渡米した近衛秀麿からもドイツへ戻っては危険と忠告され、日本の笈田光吉からも、またぜひ来てほしいと強い招きを受けていて、このふたりの声に応える形となった。これが永住となる最後の来日であった。」(荻谷 2016, p. 118)
  40. 「三度目の来日以降のクロイツァーは東京音楽学校のポストの話も当面見送られ、オーケストラの指揮と協奏曲ソリストとしての活躍の場もほぼ閉ざされるなど、苦汁をなめることばかり続いた。けれども、彼はそんな逆風にたじろぐことなく、この間、ピアニストとして積極的にリサイタルを開いた。」(荻谷 2016, p. 146)
  41. 「三度目の来日時からいよいよ日本に腰を落ち着けたというのに、思うように活動の場を得られなかったクロイツァーを、自ら主宰するピアノ塾、笈田塾に講師として招いたばかりか、自邸の一隅を住まいとして提供したのが、かつての教え子、笈田光吉だった。/笈田の住まいは東京府芝区白金三光三四三番地。当時の音楽家名鑑を見るとクロイツァーの住所もここになっている。笈田の邸宅は精神女学院脇のなだらかな坂を登りきったところにあり、クロイツァーはその笈田邸の重厚なhん行の音楽室でトレードマークの葉巻片手にゆったりと腰をかけ、弟子の指導にあたっていた。」(荻谷 2016, pp. 127-128)
  42. クロイツァーが定住を決めた頃、アルトゥール・ルービンシュタインエフレム・ジンバリストといった演奏家たちが来日したことや、新交響楽団と近衛秀麿の関係の悪化により近衛が新交響楽団の運営から退くような事態になったことから、クロイツァーがオーケストラと共演する機会が減ってしまった。「まさにこの新響改組を巡る大激震のさなかに、何も知らぬクロイツァーは日本に来てしまったわけである。そうしたクロイツァーの身を案じた近衛は、新響から自分が手を引くに際して、日本放送協会と彼の処遇について談判した。/翌昭和十一(一九三六)年の春になってようやく、近衛の新響離脱に伴って新響の楽員と事務員七十名を日本放送協会が個人契約で採用されることが公にされたとき、これと併せてクロイツァーを月給六百円で日本放送協会が嘱託雇用することも発表され、これでひとまず、彼の安定収入は確保された。」(荻谷 2016, pp. 128-132)
  43. 「昭和十三(一九三八)年三月一日、クロイツァーは『傭外国人教師』ワインガルテンの帰国に伴って、ついに東京音楽学校に迎えられた。/同校には依然として、レオ・シロタも『傭外国人教師』として在任していた。つまり、ワインガルテン在日中の二年間、同校にはピアノの『傭外国人教師』が二名在籍していたわけである。クロイツァーにも同じポストが提供されても不都合はなさそうだが、クロイツァーはまず『教務嘱託』として招かれ、三月三十一日付をもって『外国人講師』となったものの、『傭外国人教師』の地位に就くことはついになかった。/実は、東京音楽学校がクロイツァーの雇用を決めたとき、それを知った駐日ドイツ大使館から外務省に横槍が入っていたのだ。クレームの趣旨は、『クロイツァーは元ドイツ国立音楽学校の教師であったユダヤ人であって、それゆえにドイツ政府当局が解雇したわけであるから、その人物がドイツを逃亡して貴国に滞在しているからといって、貴国の官立学校ともあろうものが教師に採用するとは甚だ遺憾である。雇用を取り止めてほしい』というものだった。/それでも、東京音楽学校はクロイツァーを招いた。するとドイツ外務省は駐ドイツの東郷茂徳大使に、『クロイツァーを適当な時期に解雇することを視野に入れておいて貰えればたいへんありがたい。後任の音楽教師については、いついかなる時期でも優秀な適任者をいくらでも斡旋する用意があるから心配はいらない』と追い打ちをかけてきた。この申し入れは駐ドイツ東郷大使から日本の外務省に伝えられた。/ここから先は憶測だが、外務省と文部省の間でこの問題が協議された結果、クロイツァーの雇用は撤回しないこと、彼にはぜひ東京音楽学校で教鞭をとってもらいたいことが確認され、ただし、ドイツ外務省の顔も立てて、彼の地位を雇用契約解除の容易な『外国人講師』のまま留め置くことで、両者の見解が一致したのではなかろうか。」(荻谷 2016, pp. 152-153)
  44. 「この昭和十六年には、大政翼賛会の息のかかった日本音楽文化協会が山田耕筰を中心として結成された。通称『音文』には山田に賛同する日本人音楽家が顔をそろえ、ユダヤ人音楽家排斥の声を堂々と上げるようになった。/また、この昭和十六年には『月刊楽譜』『音楽世界』『音楽倶楽部』の三誌が合併されて『音楽之友』誌が創刊され、音楽ジャーナリズムの論調も一元化されていく。その論調は必ずしもユダヤ人音楽家に好意的なものではなかった。こうした世相の変化により、在日ユダヤ人音楽家は公的演奏会に出演が規制されるなど、音楽活動に極端な制限が加えられていった。/一方、ドイツのナチス政権は、国外へ逃れたユダヤ人に直接手出しができないので、せめてもの報復措置として、一九四一年十二月二十五日、ライヒ(Reich=帝国)市民法に関する第二命令を発令して、外国に居住するユダヤ系ドイツ人からドイツ国籍を剥奪した。この命令では、外国に通常の居所を有するユダヤ人は、命令発令の日にドイツ国籍を失い、のちに外国に通常の居所を移すユダヤ人は、その日にドイツ国籍を失う、と規定されている。この日から、クロイツァーもレオ・シロタも指揮者のローゼンシュトックも、ドイツ系ユダヤ人は誰も彼も無国籍者となった。」(荻谷 2016, p. 175)
  45. 「戦争末期の昭和十九(一九四四)年三月三十一日、レオニード・クロイツァー、レオ・シロタ、アレクサンダー・モギレフスキーらユダヤ系教員は契約満了期を迎えても次の契約が更新されずに、東京音楽学校を辞す羽目となった。事実上の公職追放であった。」(荻谷 2016, p. 175)
  46. (荻谷 2016, p. 330)
  47. 「昭和二十(一九四五)年八月十五日、国民と国土を疲弊させ続けてきた不毛の戦争が終わった。/自由の身となったクロイツァーはスウェーデン人の友人と腑t里で茅ヶ崎海岸の松林に建つ二階建ての洋館に住まうようになり、昭和二十一年八月三十一日付で東京音楽学校に復職した。レッスンは主に、この茅ヶ崎の家と東京音楽学校の教室で行われた。だから、戦後彼に師事した弟子は、この茅ヶ崎の家に思い出を持っている。」(荻谷 2016, p. 196)
  48. (荻谷 2016, p. 331)
  49. 「昭和二十四(一九四九)年五月、新制東京藝術大学が発足すると、東京音楽学校はこれに包括されて同行音楽学部の前身となった。/クロイツァーは東京藝術大学にに残ったのち、翌昭和二十五(一九五〇)年三月三十一日付をもって同大学の『外国人講師』のポストを降りた。/彼はその二年前から国立音楽大学も『技術最高指導者』というポストをもって迎えられていた。この『技術最高指導者』という職名は明治三十六(一九〇三)年の新学期から東京音楽学校に初めて設けられた『技術監』から着想したものであろう。/歴代校長がすべて文部官僚で占められ、ひとりの音楽家校長を持たなかった東京音楽学校では、学校運営面を取り仕切る校長とほぼ並立するポストとして演奏技術面の最高顕現者『技術監』という役職を設け、同校教授でピアノ、ヴァイオリン、声楽、作曲まで手掛けた明治洋楽界の第一人者、幸田延をこれに任命した。逆に言えば、幸田延のために設けられたようなポストで、その権限は絶大だった。/国立音楽大学の初代学長、有馬大五郎(一九〇〇~一九八〇)はこの前例から着想して技術面の最高職としてこのポストを用意し、クロイツァーを迎えたのだ。これはクロイツァーのためだけに設けられたポストで、彼の死とともに消滅する。/国立音楽学校から新制の国立音楽大学へと改まったばかりの同大学では、戦前のヨーロッパ最高の音楽院の一つであったベルリン高等音楽院教授を長く務めたクロイツァーの経験と実績をぜひ自分たちの大学に反映させてほしいと願ったのであろう。この申し出を受けたクロイツァーは、同大学での技術指導面はもちろんのこと、入試制度や人事、カリキュラムへの助言も求められるという、非常に重い立場となった。」(荻谷 2016, pp. 219-220)
  50. 「昭和二十七(一九五二)年二月四日、六十八歳の誕生日を翌月に控えたレオニード・クロイツァーは、すべての法的な手続きが整って、三十二歳年下の愛弟子、織本豊子とウェディング・ベルを鳴らした。/この愛する女性のために、彼は品川区東五反田の高級住宅地に三百六十坪の宅地を購入し、広大な新居を立てていた。土地価格の相場が現在とはまるで異なるとはいえ、これだけの土地を購い、家を新築するのは並大抵のことではない。そのためもあってか、彼は引きも切らない演奏以来をほとんど断ることなく引き受け、燕尾服と会い様の無音鍵盤の入った大型トランクを携えて全国を移動した。もちろん新幹線もまだなく、鉄道事情も極端に悪いその当時、この列車移動は古希近い彼の体に大きな負担を強いた。その頃、演奏会への出演数は何と一年に約二百回。」(荻谷 2016, p. 224)
  51. 「十月二十五日、大阪女学院で開催された大阪労音主催の特別演奏会に出演中、彼は右手に異常を感じて、一曲目の月光ソナタを終えたところで演奏会を中止する。医師の診断は高血圧とのことだった。その後休養に専念して昭和二十八年の正月を迎えた頃にはいつもの体調に戻ったので、本人としてはすっかり回復したつもりであったようだ。」(荻谷 2016, p. 237-238)
  52. 「それでも病が癒えた一九五三(昭和二八)年四月に、クロイツァーは回復後初の演奏会として関西交響楽団の東京公演で、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第四番の独奏者をつとめた。指揮は信頼する朝比奈隆である。このあと関西交響楽団の演奏旅行にも同行した。」(山本 2006, pp. 152-153)
  53. 「一九五三(昭和二八)年十月二十八日に、クロイツァーは青山学院で学生のために演奏会を開いた。演奏は最後まで崩れることなく、鮮明な深い表現で、豊かな音楽を会場に響かせていたとは、演奏会を聴いていた大堀敦子の感想である。しかし、聴衆は気づかなかったが、かれは演奏の途中で気分が悪くなっていた。演奏会は中断される。狭心症ということで、一時的に快方に向かったが、死期を悟ったのか友人の属啓成が訪れると涙を見せたこともあった。」(山本 2006, p. 164)
  54. 「十月一日、岡山天満屋デパートの芦川会館のこけら落としコンサートに出演し、みずから選定に携わった名器、日本楽器製造の『FC54000』を演奏する。十月二十八日、青山学院講堂で『ベートーヴェン四大ソナタの夕べ』に出演中体調不良を訴え演奏会中止。東五反田の自宅で床に就く。翌日やや快復。三十日には冗談も口にしたが、午後六時三十分、急な狭心症の発作に見舞われ永眠。」(荻谷 2016, p. 333)

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