メナヘム・プレスラー
メナヘム・プレスラー(Menahem Pressler,[1][2] 1923年12月16日[3] - 2023年5月6日[4])はドイツ出身のピアノ奏者。[5]
マグデブルクにてユダヤ人の家系に生まれる。[6]6歳の頃から[3]エドムント・キーツルにピアノを学び、1938年の水晶の夜[7]以降もキーツルはプレスラー家にやってきてピアノの指導をしたという。[8]1939年にパレスチナに移り、[9][10][11]イスラエルではテルアヴィヴに住み、テルアヴィヴ音楽院でエリアフ・ルディアコフ[12]の薫陶を受けた。ルディアコフの許で4年間ピアノを学んだ後、ルディアコフの勧めでレオ・ケステンベルクに4年間師事。[8]1946年にアメリカのサンフランシスコで行われたドビュッシー国際ピアノ・コンクールで優勝し、カーネギー・ホールでユージン・オーマンディの指揮するフィラデルフィア管弦楽団と共演してロベルト・シューマンのピアノ協奏曲を演奏して6ヵ月間イザベラ・ヴェンゲーロヴァのレッスンを受けるという恩恵に浴することが出来た。1947年にはフォンテーヌブローでロベルト・カサドシュのレッスンを受け、また、ポール・ヘンリードをロベルト・シューマン役、キャサリン・ヘプバーンをクララ・シューマン役に当て込んだメトロ・ゴールドウィン・メイヤーの映画『愛の調べ』のサウンドトラックを巡り、アルトゥール・ルービンシュタインの録音した音源がRCAの契約でほとんど使えなくなった為、その代わりとしてピアノ演奏を引き受けている。その翌年にはカリフォルニアのミルズ大学で教鞭を執っていたエゴン・ペトリのレッスンも受けた。1949年に結婚後は、しばらくニューヨークに住み、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーの為にレコード30枚分の録音を残した。1955年にはセルゲイ・プロコフィエフのピアノ・ソナタ第9番の録音をリリースし、インディアナ大学で教職に就いたが、1956年にはニューヨークでエドゥアルト・シュトイアーマンの許で研鑽を積んだ。[13]また、1955年にヴァイオリン奏者のダニエル・ギレとチェロ奏者のバーナード・グリーンハウスとでピアノ三重奏団「ボサール・トリオ」を結成し、同年のマサチューセッツ州レノックスのバークシャー音楽祭で三重奏団としてデビューを飾った。[14][15]以後、2008年9月6日のルツェルン音楽祭でのコンサートで解散するまで、ヴァイオリン奏者とチェロ奏者の交代はあったものの、一貫してピアノを担当し続けた。[16]ボサール・トリオが解散した後も演奏活動を継続し、2013年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と初共演を果たしている。[14]
脚注[編集]
- ↑ 元の名前はマックス・プレスラー(Max Pressler)であった。(Spruytenburg, Robert (2011). Das LaSalle-Quartett: Gespräche mit Walter Levin. Edition Text + Kritik. p. 45. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9780253222350)
- ↑ 出生名について、フルネームをマックス・ヤコブ・プレスラー(Max Jakob Pressler)とする資料もある。(Täuschel, Annika; Engelsmann, Oktavia (2018年12月15日). “GLÜCK IST MEIN GRÖSSTES TALENT”. BR-KLASSIK. オリジナルの2023年5月13日時点におけるアーカイブ。 2023年5月13日閲覧。)
- ↑ 3.0 3.1 Brown, William (2008). Menahem Pressler: Artistry in Piano Teaching. Indiana University Press. p. 3. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9780253222350
- ↑ “ピアニストのメナヘム・プレスラーさん死去 「ボザール・トリオ」”. 朝日新聞. (2023年5月7日). オリジナルの2023年5月8日時点におけるアーカイブ。 2023年5月8日閲覧。
- ↑ メナヘム・プレスラー - Discogs
- ↑ 父はモーリッツ、母はユディスといい、一家は衣料品店を営んでいた。(Brown 2008, p. 9)
- ↑ 一家の店舗も破壊されたが、一家は隣家にいて無事だった。(מנדל, אמיר (2023年5月7日). “הפסנתרן מנחם פרסלר מת בגיל 99”. הארץ. オリジナルの2023年5月13日時点におけるアーカイブ。 2023年5月13日閲覧。)
- ↑ 8.0 8.1 “遊藝黑白”. 2023年5月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年5月8日閲覧。
- ↑ “メナヘム・プレスラー氏死去 米国のピアニスト”. 東奥日報. (2023年5月7日). オリジナルの2023年5月8日時点におけるアーカイブ。 2023年5月8日閲覧。
- ↑ プレスラーの語ったところによると、父親がどこからかポーランド国籍のパスポートを工面してきて、トリエステに休暇に行く体で家族で出国し、トリエステ経由でパレスチナに渡ったという。トリエステでパレスチナへの旅行ビザが降り、パレスチナ行の船に乗った数日後に、第二次世界大戦にイタリアが参戦している。(遊藝黑白)
- ↑ パレスチナに出国する経由地のトリエステでは、ロッシなる人物からピアノのレッスンを受けている。プレスラー自身の言によれば「彼はとても親切かつ協力的で、私はレッスンに行くのが大好きだった」という。(Brown 2008, p. 12)
- ↑ ルディアコフはマックス・パウアーにピアノを学んだ後、エコール・ノルマル音楽院でイヴォンヌ・ルフェビュールの指導を受けたピアノ奏者で、テルアヴィヴ音楽院の教授を務めていた。(Brown 2008, p. 12)
- ↑ Siek, Stephen (2016). A Dictionary for the Modern Pianist. Rowman&Littlefield Publishing Inc.. pp. 161-162. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9780253222350
- ↑ 14.0 14.1 McFadden, Robert D. (2023年5月6日). “Menahem Pressler, Pianist Who Co-Founded the Beaux Arts Trio, Dies at 99”. The New York Times. オリジナルの2023年5月7日時点におけるアーカイブ。 2023年5月7日閲覧。
- ↑ スティーヴン・シークによると、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのピアノ三重奏曲を録音したいというプレスラーの要望から、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーの援助を受けて結成され、結成当初は「ボザール・トリオ・オヴ・ニューヨーク」(Beaux-Arts Trio of New York)を名乗っていた。(Siek 2016, p. 162)
- ↑ “Beaux Arts Trio / ボザール・トリオ プロフィール | Warner Music Japan”. 2022年10月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月24日閲覧。
- ↑ “世界的ピアニストのメナヘム・プレスラーさん死去、99歳…「ボザール・トリオ」創設メンバー”. 読売新聞. (2023年5月7日). オリジナルの2023年5月8日時点におけるアーカイブ。 2023年5月8日閲覧。
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