スティロー・クリストフィ
スティロー・クリストフィ(ギリシア語: Στυλλού Χριστοφή;Styllou Pantopiou Christofi, 1900年 - 1954年12月15日)は、義理の娘を殺害したとして英国で絞首刑に処せられたギリシャ系キプロス人の女性である。1955年のルース・エリスに続いて、英国で死刑執行された最後から2人目の女性である。
背景[編集]
スティロー・クリストフィは、当時英国保護領のキプロス島でギリシャ系キプロス人の家に生まれた。 彼女は小さな孤立した村で育ち、正式な教育を受けなかった。 英国史家で犯罪もの作家のフィリップ・ジョーンズ(Philip Jones)によれば、クリストフィが出身したようなキプロスの村の孤立は、住民の間での個人的な不一致と論争は地方的問題と見られて、「よりひろい世界であれば不適切ないし非合理的とみなしたであろうが、しかし村そのものがまったく受容可能な行動ないし決定のレベル」("levels of behavior or resolutions that the wider world might consider improper or unreasonable, but which to the village itself were seen as entirely acceptable")に至り得た。 クリストフィは結婚し、息子スタブロス(Stavros)を産んだ。 夫は、村で最も貧しい男のひとりで、その一家の収入は、所有するごく小さいオリーヴ畑からであった。[1][2]
1925年に、クリストフィは、義母と激しい言い争いをした後、彼女の喉に火を点した松明を突っ込み、彼女を殺害して逮捕され、訴えられた。[3] 様々な記述によれば、彼女は無罪とされたか、でなければ、法廷が、彼女はあまりに怒らせられたので極刑は不適当であると考えたかのいずれかである。[1][2]
彼女の息子スタブロスはのちに村を出て、ニコシアでウェーターとして働いて金を貯めた。 1941年、彼は英国に渡ってロンドンに落ち着き、ロンドンのウエスト・エンドにある高級ナイトクラブ カフェ・ド・パリ(Cafe de Paris)のワイン・ウェイター(wine waiter)となった[2]。 彼は、ドイツ生まれのファッション・モデル ヘラ・ブレーチャー(Hella Bleicher)と結婚し、ふたりは3子をもうけた。[4]
1953年、ロンドンに来たクリストフィは、12年ぶりにスタブロスと再会し、同居する。だが、彼女は新しい生活様式の適応がうまくいかず、息子の嫁との口論が絶えなかった。 またクリストフィは、孫たちがギリシアの相続財産に構わずに典型的なイングランドの子供たちとして育てられつつあるという事実に憤り、ヘラの親として子育てする腕前を批判し、しばしば癇癪を起こした。 1953年7月、スタブロスとヘラは、クリストフィが立ち去る必要があるということで合意した。 ヘラは、ドイツの訪問に子供たちを連れて行くことをもくろみ、その期間中に、スタブロスが自分の母親にキプロスに帰るように説得しようとした。 クリストフィは、嫁のもくろみに気がつき、まもなく子供たちを自分のやりかたで育てるために嫁を殺害する決心をした[1][2]。
殺害[編集]
1954年7月29日の晩、スタブロスが仕事に行き、子供たちが寝かされた後、キッチンに行ったクリストフィは、そこで雑用をしていたヘラの後頭部をボイラー(boiler)の灰受け皿(ash pan)で殴って気絶させた[4]。 次に彼女はスカーフでヘラの頸を絞めて殺し、彼女の指から結婚指環をはずし、遺体全体に灯油をそそぎかけることによって火葬にしようとし、火を点けた。 犬の散歩で家の横を通り過ぎていた隣人のジョン・ヤング(John Young)は、クリストフィがヘラの遺体を燃やしているのを窓ごしに見たが、マネキンが燃えていると勘違いし、クリストフィが火に注意をはらっているのを見て、気にとめなかった[1][5]。
火はまもなく手に負えなくなり、家屋に燃え移りつつあった。 ほとんど英語を話せなかったクリストフィは、通りに走り出て、最終的に鉄道駅のそとに駐められた車のなかのカップルに向かって「どうかきて。火 燃えてる。子供たち 眠ってる」("Please come. Fire burning. Children sleeping")と叫んで助けを求めた[2][5]。 家に着いた彼らは消防に通報し、駆けつけた消防はキッチンにヘラの遺体をみつけて警察に通報した。
警察は捜査をはじめ、クリストフィに不利な有罪の証拠をみつけた。 ヘラの遺体は絞殺の兆候があり、急いで掃除された血痕と灯油にひたしたぼろきれと新聞紙がキッチンの床で発見された。 加えて、クリストフィが火をつける様子を目にしたジョン・ヤングも進み出て、警察に自分が見た内容を語った。 取り外されていたヘラの結婚指環はのちにクリストフィの寝室で見つかり、そのことに対してクリストフィは合理的な説明ができなかった[1][2]。
公判と死刑執行[編集]
クリストフィは殺人の嫌疑で逮捕された。 取り調べに対し、彼女は「わたし 起きる、臭い 燃えてる、下に おりる。ヘラ 燃えてる。水 投げる、顔に 触れる。動かない。外に 走る。助け もらう」と供述した[5]。 クリストフィは訴えられ、その後まもなくホロウェー刑務所に再勾留された。 彼女の公判は1954年10月28日にオールド・べーリーで始まった。[4]
彼女の弁護士は、彼女に責任能力が無いとする抗弁(defence)を提出したが、しかし陪審はそれを拒否した。[4] クリストフィは有罪とされ、死刑判決を宣告された。 寛大な措置を求める限られた運動があったが、無駄になった。 彼女の死刑執行人アルバート・ピアポイントは、その自伝『Executioner: Pierrepoint』で、クリストフィはメディアの注目も共感も得られなかったが、それはかわいらしいルース・エリスとは違って、彼女はより少なく魅力的であったからだと主張した。 「ブロンドのナイトクラブのホステス」("blonde night-club hostess")が、「英語をはなせない、白髪の、とまどっている、お祖母さん」("a grey-haired and bewildered grandmother who spoke no English.")よりも断然心を惹きつけた。[6] 死刑囚監房にいる間、彼女は、死刑執行の室の壁にマルタ十字架をかけることを求め、認められた[7]。そこは、1967年に解体されるまでそのままであった。[4] 彼女はまた、息子スタブロスによってとおざけられたが、彼は寛大な措置を求めなかったし、後に「私は自分の心に母を許すということを見つけることができません。『母』《'mother'》という語は、わたしには嘲笑になっています」("I cannot find it in my heart to forgive my mother. The word 'mother' has become a mockery to me")と言った。[8]
クリストフィは、1954年12月15日にホロウェー刑務所でアルバート・ピアポイントによって絞首刑に処せられた。 病理学者フランシス・キャンプス(Francis Camps)が遺体を検査した。[9]
埋葬[編集]
クリストフィの遺体は、慣習として、ホロウェー刑務所の塀の内側の標識の無い墓に埋葬された。 1971年に、刑務所は、広範囲にわたる再建計画を受け、その期間に、死刑執行されたすべての女性の遺体は掘り出された。 ルース・エリスを例外として、ホロウェーで死刑執行された女性4人(クリストフィ、イディス・トンプソン、アメリア・サックとアニー・ウォルターズ)の遺物はつづいて、サリーのブルックウッド墓地のたった1つの墓(区画117)に再埋葬された。
新たな墓(区画117にある)は、20年超にわたって標識の無いままであった。 これは、1980年代にルネ・ウァイス(Rene Weis)とアンドルー・ラッセル(Audrey Russell)によって入手されたが、彼らは1970年代にエーヴィス・グレードン(Avis Graydon)(イディス・トンプソンの生き残った姉妹)にインタビューしたのである。 1993年11月13日、グレーの花崗岩の記念物が区画117に置かれ、ここに埋葬された4人の女性のために捧げられた。 その墓と区画は、イディス・トンプソンが1916年1月に結婚した教会、マナー・パークの聖バルナバのバリー・アースコット(Barry Arscott)師によって儀式ばって聖別された。[10] イディス・トンプソンの詳細な記述は墓石の正面に、追悼文とともに、目立つようにあらわれている:「最愛のひとのうえに眠れ。彼女の死は、法律上の手続きであった」( "Sleep on beloved.Her death was a legal formality".) 残りの3人の女性の名は、墓石のエッジにそって(around the edges of the tombstone)彫られている。[11]
ポピュラー文化において[編集]
ロンドンのアーティスト フレディー・ロビンズ(Freddie Robins)は、クリストフィ一家が住んだ家をもふくめたKnitted Homes of Crimeを発表している。
注釈[編集]
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 Jones, Philip E.: Quickly to Her Fate (2010)
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 Aston, Mark: Foul Deeds and Suspicious Deaths in Hampstead, Holborn and St Pancras
- ↑ serial killer true crime library * serial killer news * list of serial killers * serial murder * female serial killers * crime scene investigation * tueur en serie * omicidi seriali *
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 Holloway Prison at the Wayback Machine (archived October 4, 2006)
- ↑ 5.0 5.1 5.2 Archives at Zinester: Don't Be Happy, Worry. Murders & Mysteries. Society & Culture
- ↑ http://www.eiu.edu/~historia/2006/Tomlinson2006.pdf Page 26
- ↑ Ruth Ellis: The Last to Hang
- ↑ Woman Dies on Gallows
- ↑ Francis E. Camps - Biography
- ↑ Rene Weis (2001). Criminal Justice: The True Story of Edith Thompson. Penguin. pp. IX-XXXIX
- ↑ The Brookwood Cemetery Society: http://www.tbcs.org.uk/mrsthompson.htm
座標: 北緯51度18分13.67秒 西経0度37分33.33秒 / 北緯51.3037972度 西経0.6259250度
参考文献[編集]
- Eddleston, John J. (2004): The Encyclopaedia of Executions: The Stories Behind Every Execution in Twentieth Century Britain, John Blake, モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 1-84454-058-8, 978-1844540587, page 861.
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