ジョージ・セル
この項目では、インド・ヨーロッパ語族風に、名前を名姓順で表記していますが、ハンガリー語圏の慣習に従いセール・ジェルジーと表記することもあります。(Template:ハンガリー人の姓名) |
ジョージ・セル(George Szell,[1][2][3] 1897年[4]6月7日[5] - 1970年[6]7月30日[7])は、オーストリア出身の指揮者、ピアノ奏者、[8]作・編曲家[9]。
ブダペスト出身。[10]2歳の時にピアノを弾く母のミスを指摘して楽才の片鱗を見せ、5歳の頃より母から音楽の手ほどきを受ける。[11]1900年に一家でウィーンに移住。[12][13][14]ウィーンでは音楽好きの父に連れられてオペラを観に通った。[15]1903年にはテオドール・レシェティツキに入門を志願したが、拒否されている。[16]その後、直ぐにリヒャルト・ロベルトに入門してピアノを学んだ。[17][18]また、ロベルトの門下になってから、師にアルノルト・ロゼーの自邸の室内楽コンサートに連れて行かれたり、師の伝手でオイゼビウス・マンディチェフスキ、ヨーゼフ・ボフスラフ・フェルステルやマックス・レーガー[19]等に作曲を学んだりした。[20][21]1908年にはウィーンのムジークフェラインザールでピアノ奏者兼作曲家としてデビュー。[22][23]1912年から1922年までユニヴァーサル・エディションと作曲家として契約。[24]しかし、20代で作曲活動は辞め、[25]自作の演奏を禁止するようになった。[26]1913年の夏にバートキッシンゲンに於けるウィーン交響楽団の定期演奏会で体調不良になった常任指揮者[27][28]の代理として指揮台に立ち、それが指揮者になる契機となった。[29]1914年にブリュートナー管弦楽団を指揮し、1915年から1917年までリヒャルト・シュトラウスが音楽監督を務めるベルリン宮廷歌劇場の補助指揮者を務めた。[30]1917年にシュトラスブルク市立劇場の第一指揮者に転出した[24]が、第一次世界大戦の終結とフランスによるアルザスの奪還により、1918年に歌劇場が閉鎖されたことで辞任となった。[31]シュトラスブルクでの職を辞めた後は暫くフリーランスで活動し、[32]1919年から1921年までプラハ・ドイツ歌劇場の補助指揮者、1921年から1924年までダルムシュタット国立歌劇場の指揮者、1924年から1929年までベルリン国立歌劇場の第一指揮者を歴任。[30]1920年にはロベルト門下で同窓だったオルガ・バントと結婚したが、[33]1926年には離婚している。[34]1929年から1937年までハンス・ヴィルヘルム・シュタインベルクの後任としてプラハ・ドイツ歌劇場の第一指揮者を務め、[35][36][30]プラハでの在任中の1930年と1931年にはセントルイス交響楽団に客演したが、[37]セントルイス交響楽団の首席指揮者の座を得ることは叶わなかった。[38]また、プラハではヘレネ・シュルツ・テルチュと出会い、[39]1938年に結婚している。[40]1937年から1939年までスコティッシュ管弦楽団の常任指揮者となり、ハーグ・レジデンティ管弦楽団やオーストラリア放送局のオーケストラにも客演した。[30]1939年に第二次世界大戦が勃発するとアメリカに行き、[41]1940年にカリフォルニア州のハリウッド・ボウルの演奏会に出演。[42]同年、法的移民となる。[43]また1940年から1945年までマネス音楽学校で管弦楽法と作曲を講じ、[44]フェリックス・ザルツァーと共に音楽理論の教えた。[45]1941年にはデトロイト交響楽団[46]とNBC交響楽団[47]に客演。[48][49]1942年にはニュー・フレンズ・オヴ・ミュージック協会のオール・モーツァルト・コンサートに出演し、[50]ロサンジェルス・フィルハーモニックやフィラデルフィア管弦楽団にも客演。[51]また同年、リヒャルト・シュトラウスの《サロメ》の上演を指揮してメトロポリタン歌劇場に初登場し、[52][53]1946年までメトロポリタン歌劇場で常連として指揮をした。[30]1943年にはボストン交響楽団を指揮し、[54]ニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団にも客演した。[55][56]1944年からクリーヴランド管弦楽団に客演を重ね、[57]1946年からクリーヴランド管弦楽団の音楽監督を務め、1946年にアメリカ市民権を取得。[30]その後も、折に触れてヨーロッパのオーケストラに客演し、ザルツブルク音楽祭やオランダ音楽祭などにも参加したが、亡くなるまでクリーヴランドを本拠に活動した。1958年から1961年までアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の共同指揮者、1969年から1970年までニューヨーク・フィルハーモニックの音楽顧問を兼務。[24]1957年から1960年までウィーン国立歌劇場やスカラ座に客演。1965年にはクリーヴランド管弦楽団を連れてソビエト連邦やヨーロッパ各地で演奏旅行を敢行。1967年にはクリーヴランド管弦楽団と共に、ザルツブルク、エジンバラ、ルツェルンなどの音楽祭に参加。[58]1970年5月にはクリーヴランド管弦楽団と初来日を果たした。[59]セルとクリーヴランド管弦楽団は、そのまま韓国、アラスカ州アンカレッジを回り、5月30日にクリーヴランドに戻ったが、6月10日にはクリーブランド大学病院に入院。後に、癌に侵され、骨髄まで浸されていることが判明し、さらに心臓発作を併発したことで、その後の演奏予定はキャンセルとなった。[60]
クリーヴランド大学病院ハンナハウスにて死去。[8]
註[編集]
- ↑ 本名をジョルジー・エンドレ・セール(György Endre Szél)とする資料もある。(“George Szell - Visuotinė lietuvių enciklopedija”. 2023年7月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月9日閲覧。)
- ↑ 本名をジョルジー・セール(György Széll)とする資料もある。(“George Szell | American musician | Britannica”. 2023年7月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月9日閲覧。)
- ↑ 本名をゲオルク・セル(Georg Szell)とする資料もある。(Rosenberg, Donald (2000). The Cleveland Orchestra Story: "Second to None". Gray & Company Publishers. p. 237. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9781886228245)
- ↑ アーカイブ 2023年7月18日 - ウェイバックマシン
- ↑ 「一八九七年六月七日の午後一時、ジョルジ・アンドレ・セルはハンガリーのブダペストで生まれた。カルマンとマルヴィンの間に生まれた一粒種だった。成功した実業家であったカルマン・セルは、自身を『起業家』と呼んだ。父はバラトン湖の南にあるショモジ郡のマルツァリに生まれ、母は、ブダペスト北西にあるイポイシャーグから迎えられた。そこはスロバキアとの国境であるイポリ河岸にあった。第一次世界大戦後、スロバキア、モラビア、ボヘミアが合併しチェコスロバキアを生成した。チェコ人の多くが済んでいたこの地域とのつながりが、のちに母方のチェコの血を主張する根拠になる。ただし、セルの家で話されていた言語はハンガリー語だった。」(チャーリー, マイケル『ジョージ・セル ―音楽の生涯―』伊藤氏貴訳、鳥影社、2022年、19頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784862659323。)
- ↑ “SZELL, GEORGE | Encyclopedia of Cleveland History | Case Western Reserve University”. 2023年7月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月9日閲覧。
- ↑ “ジョージ・セル生誕125年記念特集(1897年6月7日 - 1970年7月30日) - TOWER RECORDS ONLINE”. 2023年7月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月9日閲覧。
- ↑ 8.0 8.1 Henahan, Donal (1970年7月31日). “George Szell, Conductor, Is Dead”. The New York Times. オリジナルの2023年7月19日時点におけるアーカイブ。 2023年7月19日閲覧。
- ↑ 「スメタナの弦楽四重奏曲第一番[『わが生涯より』]の彼自身の編曲による管弦楽版は、一九四一年のNBC交響楽団とのデビューシーズンでと、彼が最初にクリーヴランド管弦楽団で客演指揮者として出演した一九四四年に大成功を収めた。」(チャーリー 2022, p. 32)
- ↑ 「セル一家は、ドナウ川から二ブロック離れたガリバルディ街の一角、ナドル三四番街に住んだ。」(チャーリー 2022, p. 19)
- ↑ 「セル自身の記憶では、彼が二歳半だったときには母親が間違った音を弾くたびにその手を叩いたものだった、ということだ。彼女は彼が五歳のときに音楽の初歩を教えはじめた。彼は驚異的な速さで上達し、三日でト音記号を読めるようになった。彼女はすぐに彼にできるかぎりのことを教えた。『一年後、彼に教えることはもうほとんどありませんでした』と彼女は言った。『ほとんどどんな楽譜でも読むことができたばかりでなく、即興演奏も作曲もよくしました。私自身は出来ませんでしたが』。」(チャーリー 2022, pp. 21-22)
- ↑ “ジョージ・セル (George Szell) - 指揮 - NML ナクソス・ミュージック・ライブラリー”. 2023年7月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月19日閲覧。
- ↑ ウィーンに移住後、父は警備会社を設立した。また、政府との取引のためにカトリックに改宗し、一家の名前も"Szél"から"Szell"に変更した。(チャーリー 2022, p. 20)
- ↑ 姓の変更に伴い、父の名はカール(Karl/Carl)、母親の名前もマルガレーテ(Margarete)、「ジョルジ・アンドレ」も「ゲオルク・アンドレアス」(Georg Andreas)となった。なお、セルの母方の祖父の姓もヒルシュバイン(Hirschbein)からハーマット(Harmat)に改姓している。(アーカイブ 2023年7月18日 - ウェイバックマシン)
- ↑ チャーリーに従って晩年の回想で初めてオペラを観に行った時のことについてセルが曰く「ウィーンの二流のオペラ、いわゆるフォルクスオーパーに『カルメン』を聴きにつれていかれたときの思い出ですが、第二幕が終わったあとに、私は連れ戻されました。あまりに退屈して『あーあ、いつもの古臭いラブストーリーか』と言ったからです。仕方ないと思ってもらえるでしょう。その時私はまだ六歳でしたから」。(チャーリー 2022, p. 21)
- ↑ “George Szell's Reign: Behind the Scenes with the Cleveland Orchestra on JSTOR”. 2023年7月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月19日閲覧。
- ↑ 母の言としてチャーリーに従えば、「『レシェティスキーのオーディションの数日後、息子が歯が痛いと言ったので、歯医者に連れて行きました。医者に息子の症状を説明している間、ジョージは待合室でピアノを見つけ、当然のように蓋を開けて即興演奏をはじめました。医者はそれを聴くと、彼にピアノを教えてくれた友達のところに息子を連れて行かせてくれと私に頼んできました』若きジョージの才能は、たしかに並外れたものだった。その医者の友人というのは、リヒャルト・ロベルトという人で、「ジョージの演奏を聴きテストをするとすぐに非常に興奮し、そのまま息子の教師になりました」と母は言った。『息子はこの先生からすべてのことを吸収しました』」とのこと。(チャーリー 2022, p. 22)
- ↑ 同じ時期にロベルト門下だった人の中には、クララ・ハスキルもいた。1955年7月に「アムステルダムでジョージ・セルと初めて協演している。彼らはウィーンでローベルト教授の許で一緒だった。クララより二歳年下のセルはその頃はやんちゃな子どもで二人でじゃれ合っていたという。久し振りに会った両人は『相変わらずトンマだね』とセルがクララに話しかけたのに対し、クララも負けずに『あんたも相変わらず不躾ね』と昔に戻って言い合った。二人はモーツァルトの協奏曲第十九番を演奏したが、演奏後ポケット版の楽譜に寄せ書きしている。セルは『我々の初めての協演の思い出に』と書き記し、クララは『最高に素晴らしいマエストロに』と書いている。」(畠山, 陸雄『クララ・ハスキル 神が地上に遣わしたピアノの使徒』ハンナ、2011年、197頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784560037386。)
- ↑ チャーリーによると「作曲家マックス・レーガーによるライプツィヒでのレッスンはあまり芳しくなかった」という。チャーリーに従ってセル自身の言によれば、「ロベルト先生はレーガーを非常に高く評価し、生徒にそのピアノ曲を弾かせもしていたので、私はたしかにレーガーの音楽を知っていました。―ですが、あまりそれに惹かれませんでした。私はシュトラウスの方に傾いていました。レーガーのすばらしい技巧には称賛を禁じ得ませんでしたが、レーガーのクラスでのこの三ヵ月は、私にとってそれほど生産的ではありませんでした」とのこと。また、チャーリーによれば、「レーガーは教えることに関してかなり無頓着な態度をとり、はじめてのレッスンを終えたばかりのときに、十三歳の生徒にはムリな宿題を持たせて家に帰した。セルはレーガーの口ぶりを真似てこういった。『まあ、今日は火曜日で、次のクラスは金曜日。それまでにメヌエットを三十曲と合唱曲を十五曲書いて持ってくるように』セルにはできず、『メヌエットを途中までと合唱曲を一曲、まあそんな程度のものを書いて』レッスンに行った」という。さらに「レーガーはクラスでしばしば『下品きわまりない話』をしたが、話しはじめる前に、最年少のセルは下手の外に出したものだった」。しかし、「レーガーの楽曲分析のクラスは、『忘れがたい』ものになった。とりわけ、ブルックナーの第八交響曲の分析は『とても、とても深遠で、非常に想像力に溢れ、たんに分析的というのではありませんでした』」というセルの言から、セルのレーガーへの評価がまったく低いというわけではなかったことが判る。またセルの言として「彼は大きく武骨な外見の人間でした。……ですが、彼がピアノに向かうと、それまでに聴いた中で最上のビロードのようなタッチ、楽器の扱いにおけるもっとも繊細な音色が聞こえてくるのです」とあり、「レーガーのピアノ演奏は、彼の作曲の授業よりも、セルに積極的かつ永続的な印象を残した」ことも判る。(チャーリー 2022, p. 23)
- ↑ アーカイブ 2023年7月19日 - ウェイバックマシン
- ↑ チャーリー 2022, pp. 22-23
- ↑ 「ロベルトの指導の下、セルは、ウィーンのかの有名なムジークフェラインザールで、一九〇八年一月三十日に十歳半で公式デビューを果たした。ウィーンのもっとも著名な音楽家の一人、オスカー・ネドバルに率いられたトーンキュンストラー管弦楽団が、セルの最初のオーケストラ曲である序曲を演奏し、さらにモーツァルトのK四八八のピアノ協奏曲〔第二十三番〕イ長調を、セルが自身のカデンツァでソリストとして弾いた。さらにセル作曲のピアノとオーケストラのための演奏会用小品を一曲と、ピアノ独奏のいくつかの作品がセルによって演奏された。」(チャーリー 2022, p. 25)
- ↑ 「セルのデビューはすぐに、彼の両親に息子の出演オファーが殺到するセンセーションを巻き起こした。セルは間もなく『モーツァルトの再来』と呼ばれる。しかし、セルの両親は、音楽の中心地と言える、ロンドン、ベルリン、ドレスデン、ケルン、ハンブルク、そしてライプツィヒを巡る一度のコンサートツアーしか許さなかった。ロベルトのアドバイスに従い、他のほとんどのオファーを断ったのだ。」(チャーリー 2022, p. 26)
- ↑ 24.0 24.1 24.2 “プロフィール | ジョージ・セル | ソニーミュージックオフィシャルサイト”. 2023年7月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月20日閲覧。
- ↑ 「二十代で、セルは作曲家としてのキャリアを手放すことを選択した。セルの二十歳の誕生日に、師のリヒャルト・ロベルトが提案し、ルドルフ・ゼルキンがサプライズとして彼のピアノ作品の一つを演奏したところ、セルは怒って言った。『ゼルキン、どうして君は自分の時間をそんなゴミみたいな曲の練習で無駄にするんだ!』」(チャーリー 2022, p. 31)
- ↑ チャーリー 2022, p. 32
- ↑ 常任指揮者のマルティン・シュペール(Martin Spörr)が出演を辞退したとする資料もある。(McCarthy, James (2012年6月12日). “The Forgotten Great Conductors”. Gramophone. オリジナルの2023年7月23日時点におけるアーカイブ。 2023年7月23日閲覧。)
- ↑ シュペールが出演を辞退したのは、腕を怪我した為とする資料もある。(“George Szell, diretor musical transformou a Orquestra de Cleveland no que muitos críticos consideravam o símbolo mais aguçado do mundo”. 2023年7月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月19日閲覧。)
- ↑ チャーリー 2022, p. 33
- ↑ 30.0 30.1 30.2 30.3 30.4 30.5 “Szell Chronology | George Szell”. 2023年7月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月24日閲覧。
- ↑ チャーリー 2022, p. 38
- ↑ チャーリー 2022, p. 39
- ↑ “Olga Heifetz (Band) (1898 - 1984) - Genealogy”. 2023年7月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月24日閲覧。
- ↑ “George Szell- Écouter sur Vialma”. 2023年7月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月25日閲覧。
- ↑ 「一九二九年の秋、『彼は、八年前には副指揮者だったプラハのドイツ劇場の第一指揮者に任命された』。彼は、フランクフルトでの同じポストのために去ったハンス・ウィリアム・スタインバーグの後任だった。」(チャーリー 2022, p. 47)
- ↑ 「一九三三年にヒトラーがドイツの首相に選ばれ、ヨーロッパは災厄に向かって進み始めた。セルは一九三〇年代半ばまでに、戦争は避けがたいと考え、プラハを去る決心をした。一九三六年ぁら一九三七年にかけてのシーズンが、プラハでの最後の公演となった。セルはオペラのルーティンに飽き始めていた。」(チャーリー 2022, p. 64)
- ↑ 1930年に客演した時の最後の演奏会ではヨハネス・ブラームスのピアノ協奏曲第2番でヴラディーミル・ホロヴィッツと共演している。(チャーリー 2022, p. 53)
- ↑ 1931年の客演の際に、セルは一度客演を拒む電報を打ったが、チャーリーは「おそらくセントルイスが、セルの次の客演指揮者、ユージン・グーセンスにポストをオファーしたと聞いたからだろう」と推測している。しかし、グーセンスはオファーを断り、セルはセントルイス交響楽団に再び客演することとなった。当初は、エミール・クーパーがシーズン終了のコンサートを指揮する予定だったが、セルが再客演を受け入れたことで、シーズン最後のコンサートをセルが指揮することになった。(チャーリー 2022, p. 55)ただ、クーパーの指揮するはずだった他のコンサートをヴラディーミル・ゴルシュマンが指揮することになり、ゴルシュマンがセントルイス交響楽団の首席指揮者の座を射止めることとなった。「セルにとって、このことは三十年経っても疼く古傷となった。」(チャーリー 2022, pp. 55-58)
- ↑ チャーリー 2022, p. 64
- ↑ 「セルとヘレネ・テルチュは、一九三八年一月二十五日グラスゴーで結婚式を挙げた。」(チャーリー 2022, p. 70)
- ↑ George Szell | American musician | Britannica
- ↑ 「一九三九年七月二七日のオーストラリアでの最後の演奏以来、一九四〇年八月一六日と二十三日のハリウッドボウルのシーズンでデビューするまで、ほぼ十三ヵ月の演奏停止を余儀なくされた」(チャーリー 2022, p. 102)が、その演奏会は成功し、「セルは数年の間、夏ごとに帰ってきた」(チャーリー 2022, p. 107)という。
- ↑ 「セルがハリウッドボウルでデビューしてから三週間後の一九四〇年九月十二日、彼と妻はカリフォルニア州カレキシコで合衆国とメキシコの国境を越え、メヒカリに入り、翌日カレキシコに戻った。観光旅行ではない。一九二四年の移民法は、二人に法的移民として合衆国に再入国することを要求したのだ。彼らは移民として国に留まることが可能になり、その後すぐに市民権を申請した。」(チャーリー 2022, p. 103)
- ↑ 「セルの作曲のクラスにはジョージ・ロックバーグとウルスラ・マムロックがいた。ロックバーグはセルを『石碑』にたとえ、マムロックは、セルの作曲のレッスンの前の恐怖を引き起こす胃痛を今でも思い出す。」(チャーリー 2022, p. 104)
- ↑ チャーリー 2022, p. 104
- ↑ 「彼の次の契約は、一九四一年一月二十三日と三十日のデトロイト交響楽団とのコンサートで、華麗なソリスト、ウラジミール・ホロヴィッツとジノ・フランチェスカッティがそこに加わった。」(チャーリー 2022, p. 104)
- ↑ 「六週間後、長く引き伸ばされていたNBC交響楽団との契約が実現した。」(チャーリー 2022, p. 104)
- ↑ ただ、NBC交響楽団とのルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第3番《英雄》のリハーサルで、アルトゥーロ・トスカニーニと仲違いをしている。当時NBC交響楽団でホルンを吹いていたジャック・パーヴの証言によれば、「ある日、トスカニーニは8-Hスタジオに入り、リハーサルを聴くために腰を下ろしました。セルは、公演まで曲がどうなるのか分からないような方法でリハーサルをしていました。特定の個所を何度も繰り返しました。私の真正面に座っていたコントラバスーン奏者のエイブ・レインズは、セルがあるパッセージを繰り返すために何回止めたかを数えていました。最終的に四十四回でした……。/トスカニーニが指揮台に駆けつけました。セルに向かって、『私のオーケストラに何をするんだ?彼らは私のオーケストラであり、君は彼らが生まれたばかりの赤ん坊であるかのようにリハーサルしている!君はリハーサルをする方法をわかっていない』と怒鳴り、スタジオから走り去りました。セルは続けようとしました。そのコンサートの後、彼がNBC交響楽団を指揮することは二度とありませんでした。」(チャーリー 2022, pp. 110-111)チャーリーはパーヴの証言について、細かい点で疑問が残るとしつつ、同じくNBC交響楽団の団員で、セルが「緩徐楽章で五十四回、曲を止めたのを数えていた」アラン・シュルマンの証言も引き合いに出している。チャーリーによれば、シュルマン「休憩中にトスカニーニが『人のオーケストラを擦り減らす傍若無人さ』のためにセルを叱ったことをシュルマンは覚えている。『きっとセルの背中には冷や汗が流れていたに違いありません。彼は知的な指揮者でしたが、彼の血管を流れていたのは氷でした』」(チャーリー 2022, p. 111)
- ↑ NBC交響楽団のホルン奏者だったパーヴの証言とは異なり、セルは1942年に二度のコンサートの指揮の契約を結んでいる。チャーリーに従ってハーヴェイ・サックスによれば、「トスカニーニがNBCの経営陣に怒りを爆発させ、一九四一~四二年のシーズンに辞任し」ていて、チャーリーは「レオポルト・ストコフスキーがそのシーズンの音楽監督を務めていたため、セルの二度目の契約を阻む理由はなかっただろう」と推測している。事実、「トスカニーニは翌シーズンに戻り、一九四二年以降、セルが再びNBCを指揮することはなかった。」(チャーリー 2022, pp. 112-113)
- ↑ 「ニュー・フレンズ・オヴ・ミュージック協会が、一九四二年三月一日のニューヨーク・タウン・ホールでのオール・モーツァルト・コンサートにセルを招聘し」、大成功を収めた。ここのオーケストラはフリッツ・シュティードリーによって組織されていたが、この成功を受けて「オーケストラの理事会は、彼を招待したスティードリーの後釜に据えた」ため、「セルの親しい友人でもあったスティードリーの同僚」に「やがてお前もあいつの邪魔になる」と警告するほどにシュティードリーは憤慨することとなった。「セルが一九四六年にメトロポリタン歌劇場を去ってクリーヴランドに行ったとき、彼は良心の咎めから、エドワード・ジョンソンを説得して〔スティードリー〕と契約させた。」(チャーリー 2022, p. 113)
- ↑ 「一九四二年、三月十二日から四月十日までの間、セルはロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団を三組の予約演奏会で指揮した。夏の間、コンサートはラヴィニアとハリウッドボウルで行われた。その夏、彼はフィラデルフィア管弦楽団とのデビューをロビンフッド・デルで果たし、翌年の夏もそこで指揮をした。」(チャーリー 2022, pp. 113-114)
- ↑ 「セルはドレスデンでの初演からきっかり三十七年後の同月曜日、一九四二年十二月九日に、メトロポリタンでの『サロメ』の再演によって、合衆国でのオペラのキャリアを始めた。」(チャーリー 2022, p. 116)
- ↑ 1954年1月14日にリヒャルト・ヴァーグナーの《タンホイザー》を指揮したのが、セルにとって「この国での最後のオペラとなった。」(チャーリー 2022, p. 245)
- ↑ 「一月の終わりに、セルはボストン交響楽団で見事なデビューを飾った。」(チャーリー 2022, p. 119)
- ↑ “George Szell”. 2023年7月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月25日閲覧。
- ↑ 「一九四三年、セルと、そのときの彼の本拠地のオーケストラ、ニューヨーク・フィルハーモニックとの長期の関係が始まり、それは二十七年に及ぶことになった。彼のそのオーケストラでの指揮デビューは、一九四三年七月四日と十一日にカーネギーホールで開催された日曜日の新しい夏のシリーズだった。U・S・ラバー社がスポンサーとなり、一一八局のネットワークを介してCBSによって全国的に放送され、リスナーは年間を通じて毎週ラジオでフィルハーモニックを聞くことができた。」(チャーリー 2022, p. 121)
- ↑ 初出演は1944年11月2日。“Art of George Szell Vols 1 & 2 West Hill WHRA6018 & 6019 [JW]: Classical CD Reviews - December 2008 MusicWeb-International”. 2023年7月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月25日閲覧。
- ↑ チャーリー 2022, p. 477
- ↑ “セル(George Szell)(せる)とは? 意味や使い方 - コトバンク”. 2023年7月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年7月25日閲覧。
- ↑ チャーリー 2022, p. 465
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