菅原城

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[要検証]

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菅原城
(大阪府)
別名 菅原東城、藤阪城
城郭構造 平山城
天守構造 複合式望楼型2重3階地下1階
築城主 個佐人郎
築城年 永享2年(1430年)
主な改修者 差和商積
主な城主 個佐氏、差和氏
廃城年 享禄3年(1530年)
遺構 水堀、天守台、土塁
指定文化財 なし
再建造物 なし

菅原城(すがはらじょう)は、大阪府枚方市藤阪東町にあった日本の城である。

現在は、枚方市立菅原東小学校になっていて、立ち入ることができない。

概要[編集]

菅原城は、小高い丘の上に築かれた平山城で、天守閣の初見の一つと考えられている城である。

永享2年(1430年)に個佐人郎によって築城された。代々個佐氏が居城した。菅原の戦いで菅原城は焼け落ち、菅原城の重要性も薄れてくると、他の地に城を築き、以後廃城になったとされる。

城跡は、発掘調査なしで1980年 に枚方市立菅原東小学校として開校。校内の観察池の左半分が天守跡で、天守台石垣が少し残る。

歴史[編集]

永享2年(1430年)、個佐人郎がこの地に重要性があるとみなしたため、ここに築かせるように命じた。城が完成すると、個佐人郎は本拠地を菅原城に移し、同じ河内の澤野城を廃した。それ以降、個佐氏代々が城代を務める。

文明7年(1475年)に差和商積が菅原城に入ると、城を大改修し2重の天守や、天守の周りに堀を巡らせ、4基の櫓 や石垣をもつ城に改修した。このときに差和氏は本丸の位置を変え、新たに三の丸を築いた。文明8年(1476年)に差和商積が二の丸に御殿を増築し、以降、差和氏代々が城代を務めた。

享禄2年(1529年)、菅原城で菅原の戦いで菅原城が全焼すると、当時の城主差和元清が城を建て直さず、この城の重要性が薄れていることを知り、新たに城を築き、菅原城を廃城にしたという。

1980年(昭和55年)に菅原城跡に枚方市立菅原東小学校が開校。小学校が開校される前に城跡で行われる発掘調査が菅原城跡では行われなかった。[1]

遺構[編集]

発掘調査は行われてはいないが、現在残る遺構で見られるのは、天守台跡、水堀、土塁であり、他は廃城時に埋められてしまった。

構造[編集]

本丸[編集]

城のちょうど中心にあたり、本丸の中心に天守を配した曲輪。本丸に建物は天守しかなく、天守の前は広場みたいになっていた。現在では枚方市立菅原東小学校の観察池、下駄箱になっている。

天守[編集]

菅原城の天守は2重3階地下1階の複合式望楼型(天守の東側には付櫓を接続した複合式の縄張りと1層1階の入母屋造の基部に2層2階の望楼を載せた構造)で、高さは約15メートルであった。ただ、詳しい外観や瓦の色などはわかっておらず、資料もないため復元ができない。

二の丸[編集]

城の北側にあり、御殿を配した曲輪。二の丸の御殿は城内で一番大きい建物で、二の丸いっぱいにあった。

三の丸[編集]

城の南側にあり、櫓4基と大手門を配した曲輪。櫓4基と大手門は多聞櫓でつなぎ、三の丸の中心には何もなかった。大手門の跡地は小学校の南門になっている。

交通アクセス[編集]

  • 西日本旅客鉄道(JR西日本):学研都市線長尾駅から徒歩約20分
  • 京阪バス 長尾台住宅バス停から徒歩約5分

脚注[編集]

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  1. 『意外と知らない日本の城』

参考文献[編集]

  • 意外と知らない日本の城』休須元信、1986年

関連項目[編集]

  • 日本の城一覧 
  • 枚方市立菅原東小学校 


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