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井口秋子

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井口 秋子(いぐち あきこ、英:Akiko Iguchi、1905年〈明治38年〉11月1日[1] - 1984年〈昭和59年〉10月2日[2])は、日本ピアノ奏者。[3]

広島県[4]呉市出身。[5]幼少時から高折宮次にピアノを学び、[6]その後、東京音楽学校に進学して、小倉末子とレオニード・コハンスキにピアノを師事。[7]音楽学校卒業後はそのまま同校の研究科に進みつつ同校非常勤講師として教鞭をとるようになった。[8]1930年には東京音楽学校に於いて皇室の方々の御前でルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番を披露し、[9]近衞秀麿の率いる新交響楽団とも共演している。[10]翌年には東京音楽学校で助教授に昇格。[11]1931年から1933年までベルリンに文部省派遣留学生として[12]留学し、[13]レオニード・クロイツァーの薫陶を受けた。[14][15]1936年には東京音楽学校を辞し、井口基成と結婚。[16][17]1951年から東京藝術大学の非常勤講師となり、1953年から助教授、1956年から教授に昇格[18]し、1973年に退職。[19]

東京都内にて没。[20]

脚注[編集]

  1. アーカイブ 2024年4月12日 - ウェイバックマシン
  2. 井口 秋子(イグチ アキコ)とは? 意味や使い方 - コトバンク”. 2023年4月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月12日閲覧。
  3. 井口秋子(いぐち あきこ)とは? 意味や使い方 - コトバンク”. 2023年4月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月12日閲覧。
  4. 「本書第二章に澤崎秋子の名で登場した井口秋子はこの世代の最年長者で、海軍大佐、澤崎寛猛の娘として父親の勤務地広島県に生まれた。東京音楽学校で高折宮次とレオニード・コハンスキに師事したのち、文部省から派遣されてベルリンに留学、クロイツァーに学んだ。井口基成と結婚後は井口姓を名乗って東京音楽学校で教鞭をとり、戦後は桐朋学園大学、洗足学園大学の教授として多くの後進を育成した。」(荻谷, 由喜子『クロイツァーの肖像』株式会社ヤマハミュージックメディア、2016年、289-230頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784636928303)
  5. 「父方の沢崎家は金沢藩主前田家の過労として、また漢学者として仕えた家柄である。一方母・林は金澤尾山神社の宮司の家系に生まれ、金澤師範学校を卒業後、沢崎寛猛に嫁いだ。/沢崎寛猛は海軍省の軍人であり、一九〇五(明治三十八)年に秋子が生まれたときには、広島県呉に勤務し海軍大佐となっていた。」(中丸, 美繪『鍵盤の天皇』中央公論新社、2022年、67頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784120055058)
  6. 「姉の妙子が近所の小学校で教鞭をとっていた高折宮次につき、歌子がヴァイオリンを始めると、まもなく秋子も高折の手ほどきを受けるようになった。/小学三年のときにはピアニストになりたいと明確に夢を語り、六年の時に出会ったオルガ・サアロフ(一八八二~一九四六、アメリカ生まれのピアニスト、教育家。レオポルト・ストコフスキー元夫人。後年はジュリアード音楽院で指導)のレコードはすり切れるまで聴いた。」〔ママ〕(中丸 2022, p. 70)
  7. 「府立第三高等学校(現・都立駒場高校)から東京音楽学校に進み、小倉末子とレオニード・コハンスキについた。」(中丸 2022, p. 71)
  8. 「秋子は音楽学校を首席で卒業すると研究科にすすみ、同時に非常勤講師に任ぜられた。東京音楽学校の分教場で午後三時から五時まで教え、飛んで家に帰って着替え、七時からの演奏会に駆け付けた。ブラームスの〈ラプソディー変ホ長調〉、シューマンの〈交響的練習曲〉、ラフマミノフなどをよく弾いたものだった。」(中丸 2022, pp. 71-72)
  9. 中丸 2022, pp. 73-74
  10. 新交響楽団との共演は、1930年3月16日の第66回定期演奏会である。
  11. 中丸 2022, p. 74
  12. 「新響への初出演から半年後の一九三〇年十一月二十三日、秋子は新響に今度はソリストとして登場し、シフェルブラットの指揮でショパンのピアノ協奏曲第2番を見事に演奏した。/秋子が文部省派遣留学生として、ベルリン・ホッホシューレにてレオニード・クロイツァーに師事すべく東京を発つのは、その二カ月余りあとの翌年二月初めである。」(中丸 2022, p. 80)
  13. 「一九三一年から三三年にわたる澤崎秋子のベルリン滞在期間は、国際情勢の激動期だった。」(荻谷 2016, p. 106)
  14. 「クロイツァーの日本初訪問とちょうど入れ違うタイミングでドイツへ留学したのが、後に井口基成と結婚して井口秋子の名前で活躍する澤崎秋子だった。/秋子のベルリン到着は一九三一年三月十六日である。ライプツィヒ音楽院でパウエル教授に師事する予定だった秋子は、ベルリンからすぐにライプツィヒへ向かうが、生憎、そのパウエル教授が渡米してしまったためベルリンへ戻った。ここで『ピアノの自然なテクニック(Die natürliche Klaviertechnik)』の著者ブライトハウプト(一八七三~一九四五)から三ヵ月ほどレッスンを受けたところで夏季休暇となって、ブライトハウプトも避暑地へ出かけてしまった。/さて、この夏をどう過ごそうかと思案していた秋子に声をかけてくれたのが、二年前からベルリンに留学中のピアニスト伊藤義雄(一九〇四~一九八五)だった。伊藤はクロイツァーのもとでピアノを学ぶとともに、クロイツァーのもとで学ぶとともに、クロイツァーの勧めで音楽学を研究していた。/伊藤は秋子に、ちょうど日本から帰ってきたクロイツァーがこの夏もポツダムでマスター・クラスを開くから、よかったら受講してみないか、と勧めてくれた。渡りに舟とクロイツァーのポツダム講座の見学に出掛けた秋子は、教え方は厳しいが、生徒一人ひとりの個性をじっくりと引き出そうとするクロイツァーのレッスンにすっかり魅了されてしまう。/そこで正式にクロイツァーに師事することを決心し、九月に入るとベルリン高等音楽院の入学試験を受けて見事にこれにパスした。秋子が最初にクロイツァー教室に出席したのは同月二十七日である。」(荻谷 2016, p. 104-105)
  15. 「基成より三カ月遅れてドイツに文部省の派遣留学生として留学した秋子はベルリン音楽大学入学までの半年間、シュテルン音楽院に籍を置いた。自然法の大家のブライトハウプトに師事。年老いていたがレッスンでは大声をはりあげ、一緒に歌ってくれたものだった。ショパンのエチュードを多く学び、手の使い方など、きわめて納得がいく方法を丁寧に指導してくれた。/ベルリン音楽大学では、シュナーベル、エドヴィン・フィッシャー、クロイツァーと三大巨匠が教鞭をとっていた。その年の入学試験では、長音の後にバッハ、ベートーヴェン、シューマンを弾くようにうながされた。秋子の入学は許可され、作曲で留学していた諸井三郎と一緒によく講義を聴いたものだった。/師事したクロイツァーのクラスでは十人くらいが一緒にレッスン室に入り、一人ずつ弾かされ、ほかは聴講するやり方だった。あるドイツ人は、ペダルだけでに小説を一時間くらいかけてできるまでやらされ、ついに泣いてしまったこともあった。/クロイツァーは公開レッスンをすることもあった。ピアノの構造からはじまり、打鍵、音の倍音などについてだった。クロイツァーの愛弟子たちは、秋子をふくめ、のちには世界各地の大コンクールの審査員をつとめるようになる。」(中丸 2022, pp. 122-123)
  16. 「秋子は一九三六(昭和十一)年三月、学校に辞表を提出、同三十一日、現在の世田谷区成城が砧村喜多見と呼ばれていた時代、二人は喜多見一三五一の井口家で挙式。応接間にテーブルを出して、基成の妹・豊子が巫女の代役をつとめ、三三九度の盃をとった。」(中丸 2022, p. 128)
  17. 井口基成とは1969年に離婚している。(中丸 2022, pp. 486-487)
  18. 中丸 2022, p. 314
  19. 中丸 2022, p. 318
  20. 淺香, 淳『新音楽辞典 人名』音楽之友社、1989年、38頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784276000148

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