レステル夫人

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アン・ローマン(レステル夫人)の、写真に基づく素描 1888年
スリーピー・ホロー墓地(Sleepy Hollow Cemetery)内のレステル夫人の埋葬地

アン・トロー・ローマン(英語: Ann Trow Lohman、1812年5月6日 - 1878年4月1日)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨークで開業した19世紀の不法人工妊娠中絶医師である。レステル夫人(Madame Restell)の名で知られる。

レステル夫人[編集]

アン・トロー・ソマーズ(Ann Trow Sommers)は、イギリス、イングランド、グロスタシャー、ペインスウィックに1812年に生まれた。[1]父親は労働者であった。15歳で彼女は肉屋一家のメイドとして働き始め、16歳でウィルトシャーのヘンリー・ソマーズ(Henry Sommers)と結婚したが、彼はアルコール依存症の仕立屋であった。[2]イングランドに3年間暮らしたのち、ふたりは1831年にアメリカ合衆国ニューヨークに移住し、そこでソマーズは1833年に腸チフスで死去した。[2]アン・トロー・ソマーズは、幼児の娘キャロライン(Caroline)と二人きりで遺され、[3]そしてお針子兼助産師として貧しい生活を送らざるをえなかった。[2]

アンは1836年にドイツ系ロシア人移民チャールズ・ローマン(Charles Lohman)と再婚した。チャールズ・ローマンは印刷業で働き、そして当時は『New York Herald』の印刷工であった。ローマンは過激派で自由思想家であって、過激派刊行物『Free Inquirer』の発行者であるジョージ・マトセル(George Matsell)の友人で同僚であった。マトセルとともに、ローマンは、ロバート・デール・オーウェン(Robert Dale Owen)の書籍『Moral Physiology; or, a Brief and Plain Treatise on the Population Question(1831年)とチャールズ・ノールトン(Charles Knowlton)の『Fruits of Philosophy; or, The Private Companion of Young Married People』(1831年)の刊行にかかわった。[4]

アンの兄弟ジョセフ・トロー(Joseph Trow)もまたニューヨークに移住し、そして薬局の店員として働いていた。アンは、女性の健康にたいする関心を深め続けた。

経歴の概観[編集]

チャールズとアンは、助産術と女性の健康にたいするアンの関心を正当と確認する物語を仕立てた。彼らの物語によれば、彼女はヨーロッパに行き、レステルというフランスの有名な内科医と助産術の訓練をした。彼女は特許医薬品を売り始め、(十中八九、自分の夫および兄弟と共同で)「避妊粉末薬」("preventative powders")や「女性月間薬」("Female Monthly Pills")のような産児制限製品を創作し始め、「レステル夫人」("Madame Restell")の名前で広告をだした。彼女は郵便でこれらの製品を売り、そして家庭訪問をおこなった。[3]これらの「月間薬」("Monthly Pills")が女性が妊娠を終わらせるのに不十分であると判ったとき、レステルは別の解決を案出した。自称医師および薬剤師であった彼女とその夫は外科医になった。あらたな称号は、よりもうかる処置が、投薬が誘発する妊娠中絶を申し出ることにたいする同じ法的刑罰の下で、実行し得ることを保証した。[5]この時代に用いられた妊娠中絶薬はしばしば麦角、甘汞、アロエのようなハーブの混合物であった。これらは、消化管をひっくり返して、流産を誘発すると考えられた。外科的妊娠中絶には、羊膜の破裂、あるいは子宮頸部の拡張、あるいは子宮内断頭さえふくまれた。[2]

National Police Gazette Restell.jpg

レステル夫人は『Herald』のような新聞に、そして『ニューヨーク・タイムズ』にさえ、「女性医師」("Female Physician")として仕事の広告を出した。

レステルが仕事を始めたとき、妊娠中絶はほとんど非合法ではなかった。外科的妊娠中絶のみが禁止されていた。これは胎動初感すなわち、女性が胎動を感じ始めたとき以後のみであった(これは典型的には4ヶ月ころであった)。まもなくレステルの成功は、模倣者と競争を引き寄せ始めた。これはアメリカ医師会(AMA:American Medical Association)の注目を引き寄せ、医師会は1857年から妊娠中絶を終結させる運動を公式に開始した。自分らの主義の支持を集める目的で、アメリカ医師会は最も名高い妊娠中絶医師 レステルを標的にし、そして彼女を敵と見なした。[3]「レステリズム」("Restellism")という用語は妊娠中絶を指す婉曲表現になった。ニューヨークにおける法律のすばやい変更とともに、レステルは、彼女の仕事を終わらせる当局および反-妊娠中絶運動家によってつねに執拗に追跡された。[3]

彼女はまた報道からの反対にもあった。イーナク E. キャンプ(Enoch E. Camp)とジョージ・ウィルクス(George Wilkes)の『National Police Gazette』は、ニューヨークの「犯罪ニュース」("crime news")と、とりわけ盗罪、妊娠中絶および強姦にかんする詳しい記事を報道した。報道範囲はニューヨークに限らず、むしろアメリカとヨーロッパの大都市にひろがった。[6]『ガゼット』は、妊娠中絶をおこなうことにくわえて、「...ほぼ毎日、都市のいたるところで見つかった捨てられた幼児の大部分は彼女の[レステルの]施設から来た」("…most of the abandoned infants幼児 found almost daily throughout the city came from her [Restell's ] establishment")と主張した。

ニュー・ヨーク・サンデー・モーニング・ニューズ(New York Sunday Morning News)のサミュエル・ジェンクス・スミス(Samuel Jenks Smith)のような保守的な編集者らもまたレステルの職業を公然と非難した。1839年7月7日に - 最も古い報道のレステル攻撃 - 彼の社説は彼女の仕事が「...すべての社会秩序の根絶しようとしている」("…strikes at the root of all social order")と非難した。スミスによれば、医師らは、レステルが危険な仕事にかかわっている、「彼女がしていることは患者らの生命を危険にさらすことなくして不可能である」("...what she was doing was impossible without endangering the lives of the patients")と信じた。[7]

しかしこの論争の暴露は男性に限らなかった。女性ジャーナリストらもまた、シカゴのような都市での違法な妊娠中絶に光を当てる内密の行動に関わっていたが、ひとつの例外はシカゴ・タイムズ(Chicago Times)の「"Girl Reporter"」であった。この正体不明の女性は、シカゴ医師会(Chicago Medical Society)のドクター J.H.エザーリッジ(Dr. J.H. Etheridge)、ドクター ジョン チャフィー(Dr. John Chaffee)、ドクター エドウィン ヘール(Dr. Edwin Hale)のような内科医の正体をあばいた。彼女の嘆願にたいして、これらの医師その他は、妊娠中絶を実施し、したがってそういう処置に刑罰を科する1867年のイリノイ州の法令に違反することに同意した。[8]

レステル夫人はニュー・ヨークのいたるところであまりによく知られたので、彼女の公判の写しが『Times』 and the 『Police Gazette』に掲載されたほどであった。彼女は、ニュー・ヨーク・シティーのツアー・ガイドの、ニュー・ヨーク・シティー・アトラクションのひとつとして一覧に載せられた。

レステル夫人の公判[編集]

1840年に、マリア・パーディ(Maria Purdy)という患者が妊娠中絶の処置をつうじて結核にかかったとしてレステルを訴えた。報道はレステルを「ヒトの形をした怪物」("the monster in human shape")と呼んだり、彼女を神に反している行為で非難したりして、彼女に対する口頭誹毀が噴出した。レステルはだれでも彼女の方法が危険であると証明し得るひとには金銭的補償を約束したし、彼女は最初、有罪と評決を下されたいっぽうで、彼女の逆転された上訴は評決と言われた。彼女の、世論との不安定な関係は続いた。[9]

メアリー・アップルゲート(Mary Applegate)は、未婚の女性、情婦で、彼女は彼女の不義の恋人によってフィラデルフィアからレステルに遣られた。父親はレステルが赤子を養子縁組にだす手はずをとっていた。アップルゲートがこのことを知ったのは、彼女がフィラデルフィアに戻り、前の恋人に冷たくあいさつされてからであった。アップルゲートはそれからレステルのもとに戻り、子供に会いたいと求めたが、しかしレステルはその幼児のことはなにも知らないと主張した。レステルはただちに『New York Medical and Surgical Reporter』のような刊行物において報道によって悪漢として描かれた。[3]

1841年に、メアリー・ロジャースがハドソン川で遺体で見つかった。新聞諸紙は、彼女はレステルによって実行された妊娠中絶のあいだに死亡したのではないかと提言した。

妊娠中絶はまもなく1845年にニュー・ヨーク州によって非合法化された。この法律は、これ以前の複数の法律を10年前からさらに制限した。母親の死亡に終わった、あるいは「胎動初感」("quickening")ののちに実行された、妊娠中絶は、第2級故殺であった。法律への新たな追加は、妊娠中絶薬を売るあるいは妊娠期間のどの段階であれ妊娠中絶を実行することを、軽罪とした。そのうえ、妊娠中絶をさがしもとめた、あるいは自分の妊娠中絶未遂をおこした女性は1000ドルの罰金を科せられた。妊娠中絶はわいせつな主題として法律で定義され、もはや新聞で報道されなかった。女性はもはや妊娠中絶を自由に議論することを許されなかった。レステルは、月経を規則正しくする方法として自分の業務を広告することによって、法律義務手続きを避けて通った。[3]

1847年に、妊娠中絶を実行したとしてレステルは訴えられ、これが有罪判決につながった。[10]

ブラックウェル島(現ルーズベルト島)の刑務所と庭

しかしながら、この有罪判決は「あまねく大声で熱烈に歓迎され」("universally hailed")、そして公判の報道は、内科医らによって実行される営利目的の妊娠中絶をめぐる議論をうながした。さらにそのうえ、犠牲者らが典型的に「貧しい、教育のない女性」("poor, uneducated women")であることが注目された。[11]マリア・ボーディン(Maria Bodine)は、妊娠中絶を受けるように主人によってレステル夫人のもとに遣られた。レステルは、マリアは妊娠中絶するには週数をすぎていると決定したが、しかしマリアの主人は言い張った。結局、彼はレステルに大金を支払い、そして彼女はマリアの妊娠中絶を実行することを了承した。マリアはそれからメイドとしての仕事に戻った。彼女は病気になり、そして医師を訪れるやいなや、妊娠中絶を認めざるをえなかった。レステルは公判に付された。審理のあいだ、レステル夫人の弁護側はボーディンを「身持ちの悪い」("loose")女性として描き、いっぽうマリア・ボーディンの弁護士らはレステルに神を信じない無能力な女性の役を振り当てた。レステルは敗訴し、そして軽罪とブラックウェル島での収監1年を課された。[3]

レステル夫人は刑期を終えたのち、仕事を再開した。彼女は外科的妊娠中絶をすっかりやめ、努力を丸薬や下宿屋に集中した。1854年にレステルはアメリカ合衆国の市民権を申請し、認められた。[3]1854年の或る約束不履行事件で提出された証拠は、レステルと彼女の夫がこのとき50ドルないし100ドルを課されていることを示唆している。1845年の法律よりも前に、レステルは社会階級に応じたスライド制で患者らに請求した。レステルのもっと裕福な患者らの多くは、1000ドルの割増金を課された。[12]レステル夫人は自分の仕事を昔に戻すいっぽうで、報道は彼女の評判を残りに任せなかった。彼女は「ニューヨークきっての邪悪な女性」("The Wickedest Woman in New York")とあだ名を付けられた。[3]

ニュー・ヨーク・ホールズ・オヴ・ジャスティス(New York Halls of Justice)

1855年に、ドイツ移民フレデリカ・メディンガー(Frederica Medinger)は、子供の出産までの室を懇願しながらレステルに接近した。メディンガーによれば、レステルは彼女に出産時に6錠の丸薬を与えた。出産したその日に、メディンガーが子供に会いたいと言うと、レステル夫人から子供は姿を消したと聞かされた。夫人は誘拐と過度の貪欲さで訴えられた。レステルが法廷に連れてこられたとき、メディンガーは現われなかった。レステルは、彼女が訴えを取り下げるように支払ったと推定したひとは多かった。レステルは追放され、そしてこの女性と赤子の話は決して聞かれなかった。子供はレステルによって養子縁組にだされたと推定されている。[12]

レステルおよび彼女のニューヨークでの開業にたいするさまざまな反応は、アメリカ国内の妊娠中絶にたいする全般的な態度を反映していた。ボストンやフィラデルフィアのような都市の巡回販売員は、彼女の金融的成功について聞き、同様な利益を利用しようと丸薬を売った。[13]自分自身の法律問題の前に、レステルは、フィラデルフィアとマサチューセッツのローウェル(Lowell)の妊娠中絶医の話 - 国民的な規模での実施にたいする高まりつつある反対の兆候 - を聞いた。[14]同様ないち事例はドクター・ジョン・スティーヴンス(Dr. John Stevens)のそれで、彼はギャラハー(Gallagher)という若いボストンの女性の妊娠中絶を実行した内科医であった。彼女の死亡は、この危険度の高い手術の結果であり、スティーヴンスを謀殺で訴えることをうながした。[15]

南北戦争は多くのアメリカ人を妊娠中絶論争から注意をそらしたけれども、その結末は一部の内科医を反-妊娠中絶運動にもどらせてくれた。

「彼らの主張では、胎芽は受胎の時点から生きているから、妊娠中絶は - 母親が胎動初感を感じたか否かにかかわらず - 謀殺であった」("Since the embryo, they argued, was fully alive from the point of conception, abortion at any point in time—regardless of whether the mother had quickened or not—was murder pure and simple")[16]

一部の内科医は、明確な倫理的な姿勢で問題に臨むいっぽうで、また一部は、自分らの運動が、訓練されていない内科医が刑罰を科される見込みを高め、それによって潜在的可能性を生み出し、活動家じしんの職業的なゴールを前に出したと考えた。

レステル夫人は財産をたくわえていた。彼女は数筆(すうひつ)の土地を所有し、うち1筆は贅沢な大邸宅が特徴であった。彼女は立派なウマ、馬車、絹のドレスを持っていた。南北戦争が、レステル夫人に、業務的に立ち直るために必要なかくれみのをあたえた。 レステルは1回収監され、いくたびも訴えられたけれども、無傷のまま姿をあらわした。

コムストックの欺瞞[編集]

郵便検閲官(Postal Inspector)アンソニー・コムストック(Anthony Comstock)は、影響力のある道徳改革者で、彼は性的活動をではなく、社会がセックスについて考えるまさにその方法を統制しようと努めた。彼は、妊娠の回避あるいは終了にかんするあらゆる情報はポルノグラフィックであると考えた。1873年にアメリカ議会は「コムストック法」("Comstock Law")を制定し、何であれ政府によってわいせつとみなされたものを議論しあるいは流通させることを違法であるとした。これらの法律に違反することは、6ヶ月ないし5年間の収監と100ドルないし2000ドルの罰金によって罰せられた。[3]

アン・ローマンはコムストックによって逮捕されたが、彼は産児制限薬を求めている顧客の振りを装い、警察を連れてきて翌日彼女を逮捕させた。保釈金は1000ドルに決まった。レステル夫人は10000ドルを引き出そうとハンドバッグの中に手を伸ばしたと言われたが、しかし裁判官はどうしても正規の保釈保証証書のみを受け取ろうとしたので、[12]レステルは保証人に支払わねばならなかった。1878年前半のレステルの逮捕につづいて、メイドが、5番街の彼女のうちのバスタブにレステルを発見した。彼女は1878年4月1日午前に自分ののどを細長く切り裂いていた。[10]死亡時、彼女は、50万ドル-60万ドル(こんにちの条件で1240万ドル-1490万ドル)の財産があると判った。

文学[編集]

アン・トロー・ローマンは、ケート・マニング(Kate Manning)の長編小説『My Notorious Life』(2013年6月6日(イギリス) Bloomsbury Publishing発行)のヒロイン アニー「アクシー」マルドゥーン(Annie "Axie" Muldoon)の霊感源として認められている。

レステル夫人はまたマージ・ピアシー(Marge Piercy)の歴史的長編小説「"Sex Wars"」(2005年)の人目をひく人物であり、これは女性の性的、肉体的、そして生殖的活動をとりまく社会的、そして政治的気候を描いている。

レステルは、ゴア・ヴィダルの長編小説『1876』(1976年)の作中人物として重要な役を演じている。レステルはまたエドワード・ラザフォード(Edward Rutherfurd)の長編小説『ニュー・ヨーク』(New York)(2009年)で呼び物になっている。

注釈[編集]

テンプレート:Ibid

  1. Carlson 2008 p.112
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 Olasky, Marvin (Summer 1986). libraries.ou.edu/illiad.dll?Action=10&Form=75&Value=980970 “Advertising abortion in the 1830s and 1840s: Madame Restell Builds a Business”. Journalism History 13:2: 49–55. https://ill libraries.ou.edu/illiad.dll?Action=10&Form=75&Value=980970. 
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 3.7 3.8 3.9 Carlson, A. Cheree (2009). The Crimes of Womanhood. Illinois: University for Illinois Press. pp. 111–136. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 978-0-252-03401-5 
  4. Knowlton, Charles (1891). Fruits of Philosophy: A Treatise on the Population Question. San Francisco: Reader's Library 
  5. Browder, Clifford. The Wickedest Woman in New York. 16. Hamden: Archon Books, 1988.
  6. Browder, Clifford. The Wickedest Woman, 56.
  7. Ibid., 17-18.
  8. Todd, Kim. "Those Magnificent Women and Their Typing Machines." Smithsonian Magazine. Accessed 10/5/17.
  9. Abbott, Karen. “Madame Restell: The Abortionist of Fifth Avenue” (英語). Smithsonian. https://www.smithsonianmag.com/history/madame-restell-the-abortionist-of-fifth-avenue-145109198/ 2017年12月1日閲覧。 
  10. 10.0 10.1 “Madame Restell | American abortionist” (英語). Encyclopedia Britannica. https://www.britannica.com/biography/Madame-Restell 2017年12月2日閲覧。 
  11. Kim, "Those Magnificent Women," 91.
  12. 12.0 12.1 12.2 Keller, Allan (1981). Scandalous Lady. New York: Atheneum. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 0-689-11213-0 
  13. Lizza, Ryan. "The Abortion Capital of America: As the Pro-Life Movement Intensifies Nationwide, New York Contemplates Its History and Future as a Refuge." New York Magazine. Retrieved 10/30/17.
  14. Browder, Clifford. The Wickedest Woman, 27.
  15. The Louisville Daily Courier, 10 April 1848.
  16. Ibid., 126-127.

出典[編集]

  1. Carlson, A. Cheree (2009). The Crimes of Womanhood. Illinois: University for Illinois Press. pp. 111–136. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 978-0-252-03401-5.
  2. "End of a Criminal Life". New York Times. April 2, 1878.
  3. Olasky, Marvin (Summer 1986). "Advertising abortion in the 1830s and 1840s: Madame Restell Builds a Business". Journalism History. 13:2: 49–55.
  4. Knowlton, Charles (1891). Fruits of Philosophy: A Treatise on the Population Question. San Francisco: Reader's Library.
  5. Abbott, Karen. "Madame Restell: The Abortionist of Fifth Avenue". Smithsonian. Retrieved 2017-12-01.
  6. "Madame Restell | American Abortionist". Encyclopedia Britannica.
  7. Keller, Allan (1981). Scandalous Lady. New York: Atheneum. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 0-689-11213-0.
  8. Manning, Kate (June 6, 2009). "Abortion Wars, The First Time Around". The New York Times.
  9. Carlson, A. Cheree (2008). The Crimes of Womanhood. University of Illinois Press. pp. 111–135 

外部リンク[編集]

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