ハンス・クナッパーツブッシュ
ハンス・クナッパーツブッシュ(Hans Knappertsbusch,[1] 1888年[2]3月12日[3] - 1965年[4]10月25日[5])は、ドイツの指揮者。[6]
エルバーフェルトにて[7]ハンス・アルフレート・クナッパーツブッシュ(Hans Alfred Knappertsbusch)[8]として生まれる。[9][10]幼少の頃より、家庭で音楽の手ほどきを受ける。[11]1908年にはボン大学に入学して哲学部に所属し、ヴィルヘルム・ヴィルマンス、アロイス・シュルテ、レオンハルト・ヴォルフの各氏の講義[12]を聴講[13]し、ケルン音楽院に通ってフリッツ・シュタインバッハに指揮法、ラザロ・ウツィエッリにピアノ、オットー・ローゼに作曲を学んだ。[14]1911年と1912年のバイロイト音楽祭では無給の助手として経験を積んだ。[3][15]1913年には故郷のエルバーフェルトの劇場の指揮者となる。[16]1914年には同劇場でリヒャルト・ヴァーグナーの《パルジファル》の上演を指揮して名を上げ、[17]同劇場の常任指揮者に昇格。[18]1914年から1918年まで兵役に就き、[19]退役後は結婚[20]し、師のローゼが音楽監督を務めるライプツィヒ市立歌劇場に第一指揮者として転出した[3][21][22]が、翌年[23]にはデッサウのフリードリヒ劇場の音楽監督に転じ、[24]1920年には音楽総監督となった[25]が、1922年に辞任。[3][26][27]1922年から[28][29]バイエルン国立歌劇場の音楽監督を務めた[30]が、在任中にはトーマス・マンをドイツから追い出す活動に積極的に関与している。[31]1934年[32]ハーグでの公使館員への失言をナチスの宣伝省に報告され、[33]当時のドイツ当局から不興を買った。[34][35]1936年にはバイエルン国立歌劇場のポストから退任し、[36]活動の本拠をウィーン[37]に移した。[38][39][40][41]ナチスには反感を持っていたが、[42]後にナチスのプロバガンダへの関与を疑われるほどに、ナチスに利用されていた。[43]1945年に第二次世界大戦が終結した直後、バイエルン国立歌劇場の音楽総監督に復帰し、[44]バイエルン国立管弦楽団[45]やミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団[46][47]のコンサートに出演したが、その年のうちに演奏活動を禁じられてしまった。[48]1946年には非ナチ化の審査で無罪となり、[49]1947年にはバンベルク交響楽団を指揮して演奏活動を再開し、[3]以後、フリーランスで活動した。[50]1951年からバイロイト音楽祭に定期的に出演したが、[8]音楽祭を取り仕切る演出家のヴィーラント・ヴァーグナーとの折り合いは良くなく、[51]1953年には音楽祭への出演を全てキャンセルしている。[52]このバイロイト音楽祭不参加の年には、バイロイト市から名誉市民の称号を授与されている。[3]1964年に転倒して大腿部を骨折して以降は静養。[53]
脚注[編集]
- ↑ 「生家から小高い丘を越えて北方に十キロほど行ったところに、その昔『クナッパーツブッシュ』という地所があった。十七世紀後半、この地で農作業に勤しんでいたのが、ハンスの七代前の先祖、つまり曾曾曾曾曾祖父のテンスである。ドイツ語で書けば、Tönß im Knappertsbusch、『クナッパーツブッシュ在のテンス』(一六四一-一七〇三)。彼の第四子はクナッパーツブッシュ在のゲルハルドゥス(一六七六-一七二六)。さらに、このゲルハルドゥスの第五子、ヨハン・ペーター(大)(一七一二-一七九〇)の代になって、『クナッパーツブッシュ』が今日ふうの姓として定着する。指揮者ハンスの血筋はさらに、ヨーハン・ペーター(大)の第五子ヨーハン(・ハンス)・ペーター(小)(一七五三-一八〇三)、さらにその長子ヨーハン・ハインリヒ(一七八二-一八六二)とつながっていく。/テンスの末裔―彼以前のことは未詳―は代々農業で暮らしていたが、ハンスの曾祖父にあたるヨーハン・ハインリヒが一八三四年、シャフスタール―今日の糞区・シュトラーセ、カーテンベルガー・シュトラーセ、クナッパーツブッシュ・ヴェークに囲まれた一帯―の土地を購入。その第四子フリードリヒ・ヴィルヘルム(一八一六-一八九〇)が一八六三年、アルコール蒸留販売会社を設立、この会社を大いに成功に導いたのがフリードリヒ・ヴィルヘルムの第三子グスタフ(一八五〇-一九〇五)、すなわちハンスの父親である。家業はハンスの兄ヴァルター・グスタフ(一八八六-一九六五)からその第三子コンラート(一九三〇- )に受け継がれ、今日に至っている。/クナッパーツブッシュ家の継父について詳しく知ることが出来るのは、ハンスの兄グスタフの著した『クナッパーツブッシュ家とその先祖たち』のおかげだが、これにはハンス自身も一役かっている。/調査そのものは第二次世界大戦前から始められていたが、出版に向けて本格的な調査執筆が為されたのは戦中のことである。戦時経済体制下では原料の仕入れなど様々な面でナチ党員が優遇されたが、グスタフは党員でなかったため、工場の運営を続けることが出来なくなった。なにもすることがなくなった彼は家族史研究に本腰をいれ、弟ハンスの資金援助もあって、その成果を出版することになったのである。/戦後のイギリス軍政府下では逆に優遇され、家業はいちぢるしい復興を遂げたが、工場・会社は近々売却されるとのことである。四代続いた家業は現在の当主コンラートの代で終わりをむかえる。/クナッパーツブッシュ家は、ハンスの活躍以前から、エルバーフェルトでは知られた家柄だったようである。カーテンベルガー・シュトラーセとフンク・シュトラーセを結ぶ私道が市に寄付され、一九二六年以来クナッパーツブッシュ・ヴェークと名づけられている。ハンスは当時すでにミュンヘンの音楽総監督として有名だったが、小径の名前はあくまでクナッパーツブッシュ家にちなんでいる。それでも、熱狂的なファンの仕業だろうか、道路標識を失敬するふとどき者がいるとのことである。」(奥波, 一秀『クナッパーツブッシュ』みすず書房、2001年、17-19頁。モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784622042655。)
- ↑ Dyment, Christopher (2016). Conducting the Brahms Symphonies. Boydell Press. p. 148. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9784622042655
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 “【中古:盤質AB】 ハンス・クナッパーツブッシュ ミュンヘン・フィル・コレクション(11CD) | HMV&BOOKS online - SC828”. 2022年4月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月19日閲覧。
- ↑ Chamberlin, Brewster S. (2016). Kultur auf Trümmern. Deutsche Verlags-Anstalt. p. 150. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 9783421019189
- ↑ 奥波 2001, p. 15
- ↑ ハンス・クナッパーツブッシュ - Discogs
- ↑ Stange, Michael (2022年12月8日). “HANS KNAPPERTSBUSCH - Dirigentenlegende - Gesamtedition, IOCO CD Rezension, 08.12.2022”. Kultur im Netz. オリジナルの2024年4月27日時点におけるアーカイブ。 2024年4月27日閲覧。
- ↑ 8.0 8.1 “Lebenslauf”. 2021年4月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月2日閲覧。
- ↑ 「生地エルバーフェルトは隣のバルメンその他の周辺地域と一九二九年に統合され、ヴッパータールの一部となった。ドイツ西部のルール工業地帯の一都市で、近隣には大聖堂の街ケルン、刃物で有名なゾーリンゲン、ノルトライン=ヴェストファーレンの州都デュッセルドルフなどがある。/ヴッパータールの知性的特徴は、その名前の示すとおり、『ヴッパー』という名の川とその『谷間』(タール)である。緑の丘陵が川の両側から迫っており、工業都市の殺風景なイメージにはほど遠い。ヴッパータールの中心的な町であるエルバーフェルトとバルメンはヴッパー川沿いに形成されており、川の真上を走る有名な懸垂式モノレールで十分ていどの近さである。指揮者のギュンター・ヴァント、ホルスト・シュタインはともにエルバーフェルトの出身。バルメン出身の著名人としては社会思想家のフリードリヒ・エンゲルスがいる。/エルバーフェルトには、クナッパーツブッシュ誕生と同年に劇場が開設されたが(九月六日)、組織としては一九一九年にバルメンの劇場と統合され、三九年には閉鎖。以後、オペラはバルメンの劇場で行われた。四三年五月の空襲でヴッパータールのほとんどの劇場・ホールが破壊しつくされた際、唯一奇蹟的に残ったのがエルバーフェルトの市立ホール(一九〇〇年開設)で、四三年九月十七日にはクナッパーツブッシュ率いるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が客演。今日でもコンサートなどの催しに利用されている。/その市立ホールから北西へ約一キロ半、小高い丘にさしかかる閑静な住宅街にクナッパーツブッシュの生地、フンク・シュトラーセがある。/フンク・シュトラーセは、彼の生まれた当時は、ライニッシェ・シュトラーセと呼ばれていたが、隣のバルメンに同名の通りがあったため、一九三五年、改名されたのである。彼の生地はしたがって『ライニッシェ・シュトラーセ五五番』。建物は一九七四年にクナッパーツブッシュ家の所有を離れたが、一八八六年創建当時の姿をいまにとどめている。出生証明書によれば、この建物で早朝の『四時三十分』に生まれた。四月二十二日には両親と同じカルヴァン派の洗礼を、一九〇三年三月十日には堅信礼を受けている。/生家で七年ほど過ごしたクナッパーツブッシュは、近くのカーテンベルガー・シュトラーセ一三四番の新居に移る(一八九五年三月)。彼がギムナジウム終了まですごしたこの屋敷から横手の野原を降りていくと、一八七八年に建設された赤煉瓦づくりの小さな建物がいまも残っている。アルコール蒸留・販売会社『グスト・クナッパーツブッシュ』の工場・事務所である。」(奥波 2001, pp. 16-17)
- ↑ 「父はグスタフ(一八五〇-一九〇五)、母はヘルミーネ・ユリアーネ・ベルタ[旧姓ヴィーゲント](一八五六-一九一三)。ほかに兄ヴァルター・グスタフ(一八八六-一九六五)、妹マルガレーテ・エミーリエ・ユーリエ(一八九一-一八四五)がいる。」(奥波 2001, p. 17)
- ↑ 「ハンスは、兄のグスタフ、妹のマルガレーテと同様、幼少から家庭で音楽の手ほどきをうけていた。エルバーフェルトのコンサート・ホール(『カジノ』)で情動オーケストラを指揮下十二歳の時、すでに音楽家になりたいと口にしていたらしい。/劇場への憧れも早くから芽生えていたようである。人形で劇場遊びをしたり、階段を客席にみたてた舞台をこしらえて楽しんでいたという。少し大きくなると、両親のグランド・ピアノの下にこっそりベルを取り付け、オペラ指揮者のまねごとをしていた。開幕の合図を鳴らす指揮者になったつもりで悦にいっていたわけである。/もっともハンスは、四六時中ハルモニウム[オルガンに似た鍵盤楽器]や人形で遊んでいたわけではない。二つ年上の兄と一緒に腕白ぶりを発揮していた。/とある保養地のホテルで、兄と一緒に猫を追い回していたときのこと。ベランダのガラス屋根の上に逃げこんだ猫をほうきで追い立てようとしたハンスは、勢いあまってガラス屋根を突き破り、両足から落ちてしまった。ガラス屋根の下では、保養客たちが、音楽を聞きながら午後のコーヒーを楽しんでいる最中だったという。/北海に浮かぶ島の小さな漁港でのこと。兄弟は小さなボートを見つけ、勝手に漕ぎ出した。防波堤を出た小舟は、みるみるうちに沖に向かって疾走し始める。二人は自分たちの漕ぎ方がうまいのだと得意がっていたが、実は干潮時の潮流に流されていただけで、子供二人の力では到底戻れない状況になっていたのである。堤防にいた両氏がたまたま気づいてくれたおかげで、二時間後には曳航されて無事、帰港することができたが、漁師流儀のきついお灸をすえられたという。/悪童である。しかし、ハンスの音楽熱は昂じる一方だったらしい。ある晩のこと、母親が寝室をのぞくと、息子はベッドに腰かけ眠りながら指揮のまねごとをしていたという。ハンスにとって音楽は、家庭での習い事のレベルをとうに超えていたのである。/音楽好きの若者からなる小さなクラブがあり、ハンスは最年少のメンバーとなった。このクラブでは当時ヴァーグナーの音楽が熱烈に愛好されており、楽劇全幕をピアノ伴奏で歌いとおすことも行われていた。むろん、だれひとりまともに歌えるわけではなく、ひどい声でがなりたてるていどのことではあったが、みな真剣そのものの市政で取り組んでいたという。ハンスをヴァーグナーへとのめり込ませた原体験のひとつがここにあるのかもしれない。」(奥波 2001, pp. 19-20)
- ↑ 「大学では哲学部に属し、ヴィルマンス(Wilhelm Wilmans 1842-1911)、シュルテ(Aloys Schulte 1857-1941)、ヴォルフ(Leonhard Wolff 1848-1934)の講義を毎年聴講した。」(奥波 2001, p. 22)
- ↑ 「聴講届けは一九一〇年冬学期まで残っている。その後については、ミュンヘンに移り学業を続けたとの記述もあるし、一九〇九年から一二年までミュールハイム(ルール)やボーフムの劇場で助手の仕事をしたとも伝えられている。尤も古い記事のひとつによれば、一〇年につとめたミュールハイム(ルール)の劇場が四ヵ月後につぶれてしまい、新設のボーフム市立劇場に移ったが、これもすぐにつぶれたため、ミュンヘンで学業に専念。それからフランケンシュタインの仲介で、エルバーフェルト劇場に職を得たとされている。『新劇場年鑑』によれば、一二年前後にケルンの劇場、一三年にボーフムの劇場に所属していたことになっている。いずれにしても、この時期については資料が乏しく、正確なところはつかめない。/学業についていえば、ミュンヘンで学位請求論文『ヴァーグナーの《パルジファル》におけるクンドリーの本質について』を提出するものの(一九一三年)、学位取得にはいたらなかった。音楽学正教授アードルフ・ザントベルガー教授の評価が芳しくなかったとも、劇場の仕事で忙しく口述試験が受けられなかったとも伝えられる。」(奥波 2001, p. 24)
- ↑ 「ハンスは文科系ギムナジウムに入学したが、途中から実家ギムナジウムに転校。最上級生のときには学生楽団の指揮者をつとめ、入念な指導でミスのない演奏に仕上げた。すらりとした若者が楽壇の先頭に立って通りを行進していく姿は街の評判になった。/しかし両親にとっては、職業音楽家など問題外であった。息子の音楽家志望を聞いたとき、母親はバルコニーから飛び出さんばかりに驚いたという。/父は息子の将来を見届けることなく一九〇五年に他界。遺志を継いだ母親は、息子をある老教授にあずけたが、老練の学識者にもピアノに熱中する青年の『妄想』を退治することはできなかった。/やがて母親は、息子の頑固さに根負けしたのか、その音楽的才能を認めたのか、妥協を余儀なくされる日がきた。退学して音楽に専念したいと言いだした息子にだまって母親はケルン音楽院のフリッツ・シュタインバッハのもとを訪ねた。数日後、シュタインバッハのもとへ実技試験を受けに来たハンスは、『家に戻ってまずアビトゥーア[大学入学資格試験]を受け、それから来なさい』と諭されたという。ブラームスと親交のあった高名な音楽家の言葉だけに、さすがのハンスも従うしかなかったのだろう。/一九〇八年の復活祭のころ、母の望みどおりアビトゥーアに合格し、ボン大学に入学。同時にケルン音楽院にも通い、シュタインバッハから指揮法、ラッツァーロ・ウツィエッリからピアノ、オットー・ローゼから作曲法を学ぶことになる。」(奥波 2001, pp. 20-21)
- ↑ 「ボン大学の聴講届けには、『ハンス・アルフレート』あるいは『アルフレート』と記名されている。彼のフルネームは『ハンス・アルフレート・クナッパーツブッシュ』で、出生証明書にもそう記載されている。遅くとも大学を出るころまでは、『アルフレート』という呼び名のほうを好んでいたらしい。しかし、いつのころからか『ハンス』のほうを名乗るようになり、今日では『アルフレート』という名はほとんど忘れられている。/『ハンス』という名前を好むようになったのは、ひょっとしたら、ハンス・リヒターへの傾倒と関係しているのかもしれない。この有名なヴァーグナー指揮者の謦咳に接したのは一九一一年のバイロイト音楽祭と推測される。翌年も助手として参加したらしいが、公式の記録には残っていない。ともかく大学時代、バイロイト詣でを繰り返していたことはまちがいない。ジークフリート・ヴァーグナーからの自筆のはがき残っている。消印の日付は一九一〇年一月十五日。当時ケルンにいたクナッパーツブッシュに宛てられたものである。/最後の本稽古に居合わせて頂ければと思います。このはがきを、監督のオットー氏に見せてください。きっと快諾してくれるでしょう。敬具。あなたのジークフリート・ヴァーグナー。/すでにジークフリートと面識があったわけだが、この文面からして当時はまだ助手として働いていたわけではなく、稽古を見学させてもらうていどだったのではないか。」(奥波 2001, pp. 28-29)
- ↑ 「一九一三年からクナッパーツブッシュは、まずは無給の指揮者として、故郷エルバーフェルトの劇場につとめた。デビューは九月十五日、エメ・マイヤールのオペラ《隠者の小鐘》である。」(奥波 2001, p. 30)
- ↑ 「広く知られている話を総合すれば、彼の劇的な《パルジファル》デビューの顛末は、およそ次のようになる。/一九一四年一月十一日、《パルジファル》の指揮台に立ったエルンスト・クノッホが、第一幕終了間際に倒れてしまった。支配人のげるらっははクナッパーツブッシュに最後まで指揮してみる気があるかどうか尋ねた。見事に急場をしのいだ彼は、その晩のうちに常勤の地位を獲得したというのである。/彼がのちに《パルジファル》指揮者として名を轟かせることを思えば、まさに運命的な事件といえる。しかし幕間での交代劇は、どうやら脚色された『神話』でしかないようだ。当時の新聞には一行たりとも該当する記事がみあたらず、詳しく調べてみると、十一日の初演以後、十三日、十五日、十八日、二十日、二十三日、二十八日とクノッホの指揮で上演されている。その後、クノッホが『病気』を理由に休職したため、《パルジファル》はクナッパーツブッシュに任されることになったのである。ただ給食のほんとうの理由は、劇場内部での確執らしい。関連資料は焼失しているため詳細はわからないが、当時の新聞の次の一説に、ことの真相が示唆されている。/常任指揮者クノッホ氏はエルバーフェルト歌劇場を離れる理由をはっきりさせるために、以下のような説明文の掲載を当社に依頼してきた。『最近の出来事によって健康がいちじるしくそこなわれた結果、私としては長期の休暇もやむなしと思った次第です』。/彼の健康を悪化させた『最近の出来事』の内容は定かではないが、新聞社にわざわざ掲載を依頼してきたところに、クノッホの無念さが滲み出ているように思われる。彼は一八九八年から一九〇一年まで故郷カールスルーエの劇場でフェーリクス・モットゥルのもと、コレペティートル[ピアノを弾いて独唱者に下稽古をつける役目]をつとめ、一九〇六年および八年、バイロイトで音楽助手をつとめるなど、《パルジファル》を担当するにたる経歴の持ち主だったが、『長期の休暇』はそのまま退職となったようで、直ぐにアメリカに移り、ニューヨーク、シカゴ、クリーヴランドなどで音楽活動をつづけた。幕間に『病気』で倒れた指揮者とは思えぬ活躍ぶりである。/クノッホに代わってクナッパーツブッシュは一月三十一日、二月一日と《パルジファル》を指揮した。幕間での交代ではないにせよ、急な大役であることにはかわりはない。もっとも、急遽代役をこなせたのは、巷にいわれるほど驚異的なことではないだろう。彼はすでにバイロイトで助手をつとめていたわけだから、その経験をかわれ、《パルジファル》のコレペティートルを任されていたのではないか。あるいはまったく携わらなかったとしても、バイロイト経験のある指揮者クノッホの仕事ぶりを注意深く観察するくらいのことはしたにちがいない。彼はすでに《パルジファル》の『クンドリー』について論文を書いていたわけだし、《パルジファル》という作品は一般にも当時、最も熱い注目を集めていた作品だったのだから、無関心でいられたはずがない。」(奥波 2001, pp. 32-33)
- ↑ 「常任指揮者の地位を獲得し、二月三日にはさっそく《マイスタージンガー》を指揮した。」(奥波 2001, p. 35)
- ↑ 奥波 2001, p. 37
- ↑ 「殺伐とした軍隊生活の反動と言うわけではないだろうが、この時期結婚を決めている。相手はエレン・ゼルマ・エリーザベト・ノイハウス(一八九六~一九八七)。エルバーフェルトで工場を経営する父親のカール・ノイハウス=ヴィーヒェルハウスと母親のクララ・フリーダは当初、一人娘の結婚に反対したが、最後には若い二人の門出を祝福することになる。/五月二十七日の《マイスタージンガー》でクナッパーツブッシュは、故郷の劇場と別れを告げることとなった。」(奥波 2001, p. 38)
- ↑ 奥波に従って1919年5月9日付のライプツィガー・ノイエステ・ナハリヒテン紙の記述によれば「クナッパーツブッシュは、いくつかのオペラをリハーサルなしで引き受けねばならなかったことなどから当地での芸術活動には満足できなかったと説明したとたん、《指輪》の監督からはずされてしまった。今回の指輪上演に関してリハーサルの時間はとれないから、ということらしい。リハーサルなしでも、ぶっつけ本番でオーケストラを操縦できることを彼はこれまでの指揮活動によって実証してきたにもかかわらず、そういうことになった」とある。「ウィーン・フィルとの公演旅行でのこと。リハーサルが予定されていたが、彼はいかにもうんざりといった面もちで、楽団たちにいった。『皆さんは曲をよくご存じだ。私は会場を知っている。これで充分!』」というような、クナッパーツブッシュの練習嫌いにまつわる話が数々伝えられているが、奥波は「リハーサルを少なくし、即興性、瞬間の幸運に賭けるといわれる彼の芸風は、あるいはライプチヒ時代のやむにやまれぬ状況下で意図せず培われたものなのかもしれない」と考察している。(奥波 2001, p. 51)
- ↑ 「ライプチヒで彼が獲得したのは、リハーサルなしで指揮する技術だけではない。一九一九年五月二十四日には長女アニータ・クラーラ・ユーリエ・ゼルマが誕生している。指揮者アルトゥール・ニキシュとの知遇もおそらくこのライプチヒ時代に得たものであろう。」(奥波 2001, p. 52)
- ↑ 「ヴェルサイユ条約調印の翌日にあたる一九一九年六月二十九日、フンパーディンクの《王様と子供たち》をもって常任指揮者としての最後のつとめを終えた。」(奥波 2001, p. 54)
- ↑ 「クナッパーツブッシュのデッサウ時代は、一九一九年十月一日の《タンホイザー》で華々しく幕を開けた。」(奥波 2001, p. 63)
- ↑ 「駆け出しのころのヴァイルとの悶着はあったものの、クナッパーツブッシュは順調に活躍を続け、二〇年八月には音楽総監督への就任と、向こう四年間の契約延長が発表された。」(奥波 2001, p. 67)
- ↑ 「二二年一月二十五日、事件が起こる。その晩彼は《こうもり》の指揮台に立つ予定になっていたのだが、その日の正午前、舞台で稽古をしていた役者のひとりが、小さな炎に気づいた。暖房の通気口の不備、あるいは古いタイル貼り暖炉の故障が原因であったらしい。気づいたときはすでにおそく、またたくまに火は燃え広がり、二人の死者がでた。一八五五年の火災のときと同じく、コンサート・ホールなど一部を残し、ほとんどが灰燼に帰したのである。/その昔(一七九四年から九八年)、暫定的に劇場として使用されたこともある宮廷馬場の建物を再び劇場として利用することが即日決定されたが、改築にほぼ一年の歳月を要した。翌年二月一日には《マイスタージンガー》とともに劇場活動が再開されたが、このときクナッパーツブッシュの姿はすでにデッサウにはない。/劇場焼失の三ヵ月前、彼は自分の仕事ぶりを正当に評価してくれない劇場事務局に対して抗議している。このころすでにデッサウでの生活に満足できない者を感じ始めていた彼は、火災を機にきっぱり見切りをつけたのではないか。暫定的な演奏活動は再開されたが、まともな劇場活動はとうてい不可能な状態に陥ったからである。/二二年五月初頭にはミュンヘンに客演し、大成功を収める。直後の五月八日ないし九日には、バイエルン州立劇場から、十月一日付けでの契約解除を要請する電報が届き、デッサウの劇場はすみやかに同意の返電を送った。五月十二日の『ハンス・クナッパーツブッシュ、ミュンヘンへ行く』という記事では、ミュンヘン客演の様子がひとしきり紹介され、次のように結ばれている。/デッサウの芸術愛好家たちは、この芸術家の出世を喜んではいるものの、その転出については悲しむに余りあると感じている。」(奥波 2001, pp. 78-79)
- ↑ 「二二年九月五日、水晶宮殿ホールで行われたコンサートが、デッサウへの告別となった。前半は、ハインリヒ・クノーテを独唱歌手として迎え、ヴァーグナー作品からの抜粋が、後半はチャイコフスキーの《悲愴交響曲》が演奏された。/チャイコフスキーの《悲愴交響曲》は、契約を希望していたクナッパーツブッシュが、一九一九年三月十七日、デッサウのコンサートの指揮台に立って最初に聞かせてくれた作品である。ハンス・クナッパーツブッシュがこのロシアの交響曲作曲家に格別の関心を抱いているとすれば、その理由は、ライプチヒにいたとき、チャイコフスキーの卓越した解釈者だったアルトゥール・ニキシュのうちに最良の模範を見つけたからであろう。/彼は後のミュンヘンでもウィーンでも、このチャイコフスキーの作品を採りあげている。ライプチヒでのニキシュの指揮ぶりが脳裏に焼きついていたのだとしたら、おもしろい話である。ともかく彼は、《悲愴交響曲》で始めたデッサウでの演奏活動を《悲愴交響曲》で締めくくり、ミュンヘンへと向かう。」(奥波 2001, pp. 79-80)
- ↑ 「一九二二年春、ミュンヘン客演についての打診を受けた彼は、劇場支配人に宛てて次のように記した。/ヴァーグナーの町ミュンヘンでヴァーグナーへの私の信仰告白(Wagner-Credo)を外に向かっても示せるなら、それは私にとって決して無意味なことではありません。それゆえ私としましては、《マイスタージンガー》のほかにも、《トリスタン》《ジークフリート》《ヴァルキューレ》あるいは《神々の黄昏》を喜んで指揮いたします。/少壮のヴァーグナー指揮者としての意気込みが伝わってくる手紙である。要望は容れられ、一連の客演は《ヴァルキューレ》で締めくくられる。この演目追加は好結果をもたらすことになるのだが、まずは客演の様子を順番に追っていくことにしよう。初舞台は、二二年五月二日、オデーオン・ホールにおける音楽アカデミー・コンサートである。/ブルーノ・ヴァルターの後継者と目されているのはデッサウの音楽総監督ハンス・クナッパーツブッシュ。その彼が昨晩、州立劇場管弦楽団の先頭に立ち、ベートーヴェンの《交響曲第二番》とブラームスの《交響曲第三番》を指揮した。『聴衆をトリコにしやすい』とはいえない二作品である。クナッパーツブッシュは、その若さにもかかわらず、オーケストラをみごとに操れることを示した。オーケストラは、彼の簡潔で、しかし表情豊かな指示にすすんで従っていたし、聴衆もすぐに味方に引き入れられてしまった。歓呼の拍手喝さいが惜しみなくつづいた。」(奥波 2001, pp. 83-84)
- ↑ 「オペラの試験」として、5月4日にヴァーグナーの《ニュルンベルクのマイスタージンガー》、引き続き同月7日にはモーツァルトの《魔笛》、9日にはヴァーグナーの《ヴァルキューレ》の上演をそれぞれ指揮している。奥波に従って1955年5月10日付のミュンヘナー・ノイエステ・ナハリヒテン紙によれば、《ヴァルキューレ》の上演中に契約予定を告げ、「かくしてミュンヘンの歌劇場監督招聘問題は比較的短期間で解決した」という。(奥波 2001, pp. 86-89)
- ↑ “ハンス・クナッパーツブッシュ - CDJournal”. 2022年4月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月26日閲覧。
- ↑ 「マンをドイツから追い出したのは、実質的には思想ないし政治勢力としてのナチズムであった。しかし、最後の最後で一撃を放ったのはクナッパーツブッシュだったのではないかとの疑いがある。/ことの発端は、ヒトラー内閣成立直後の一九三三年二月十日、ミュンヘン大学の大講堂でマンが行ったヴァーグナー没後五十周年記念講演、『リヒャルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大』である。マンは翌日から、同じ講演を繰り返すためにアムステルダム、ブリュッセル、パリへと旅だったが、公演旅行を終えてアローザで静養しているときに、ベルリンで帝国議会議事堂炎上事件が起こり、情況をあやぶんだマンは貴国をみあわせていた。四月には講演内容が少し手直しされた形で活字化され発表された。/そして四月十六日/十七日の『ミュンヘン最新報』に、『リヒャルト・ヴァーグナーの街ミュンヘンの抗議』と題する記事が掲載される。トーマス・マンに対する抗議文に署名したのはミュンヘンのナチ党幹部だけではなかった。風刺画家オーラフグルブランソン、作曲家ハンス・プフィッツナー、作曲家リヒャルト・シュトラウス、そしてクナッパーツブッシュといった、個人的にも親しい芸術家・文化人が名を連ねていたことに、マンは大きなショックを受ける。ここにいたって彼は、事態の容易ならざる事を思い知らされたのである。」(奥波 2001, pp. 117-118)
- ↑ 「『クナッパーツブッシュはミュンヘンのオペラにふさわしい指揮者ではない。コンサートのほうがましである。』『クナッパーツブッシュは指揮者としてミュンヘンにふさわしくない。クレーメンス・クラウスのほうがはるかに適任である』。/このような所感がヒトラー自身の口から洩れるのを聞かされたのは、親衛隊んで演出家のオスカー・ヴァレック。一九三三年、ブラウンシュヴァイクの劇場支配人として辣腕を振るい、政治的に信頼できない人員を一掃したため、劇場の水準は救いがたいほどに落ち込んだが、党からは立派な功績と認められていたらしい。ヴァレックは三四年秋からミュンヘンの劇場支配人に昇格し、クナッパーツブッシュの上役となった。/ヴァレックの戦後の証言によれば、クナッパーツブッシュに対する総統の不興は、政治姿勢より、むしろ人柄や芸術に対するものだった。すでに触れたように、ヴァーグナー没後五十年記念公演に姿をみせなかったのも、当日の指揮者への不満が原因だったのかもしれない。/ヴァレック自身はヒトラーのクナッパーツブッシュ評を聞かされながらも、みずからクナッパーツブッシュ追い落としを企んだことはないと証言しているが、ヴァレック着任とともにクナッパーツブッシュの身辺に暗雲がたれこめはじめたことは否定できない。」(奥波 2001, pp. 132-133)
- ↑ その公使館員は、ドイツ宣伝省への報告としてまず「彼との会話を通して得た個人的な印象ですが、芸術的な質の良し悪しはともかく、外国における新生ドイツの代表としてふさわしいとはいえません。こうした経験もあることですので、私としましては、外国での客演旅行の機会を再び与える前に、国家社会主義に対する彼の態度を適当な方法で管理することを提言いたします。」と書き送り、さらに詳細の報告を求めた宣伝省の求めに応じて「本国の様子を尋ねますと、『バイエルンには生粋のナショナル・ボルシェヴィズムがあって、民衆は満足しています。おかげで大衆は、好き勝手が出来るわけですから』。/それはしかし、せいぜいのところ急進的とでも呼ぶべき、党内の小グループのことでしょう。政府の方でも情況は把握してますし、危険ではないと思いますが、と私が抗弁しますと、『政府にいるのは夢想家たちで、あらゆる方面から欺かれているので周りで何が起きているか知らないのです』とクナッパーツブッシュは答えました。そうした考えは不謹慎だと言いますと、『あなたはナチですか』と反問してきました。そうですと答えると、彼はあざけるように『しかたなしのナチ(Muss-Nazi)』ですかと言いました。『『しかたなしのナチ』とはいったいなんですか、私は確固としたナチです。どうしてそのようにお考えになるのですか』と驚いて答えますと、『まあ、役人の多くが党員にならねばならない(müssen)ですし』とクナッパーツブッシュは言いました。しかたなしのナチなどいません。党員であるかどうかは役人の身分に関係しませんと正論を言って、私は不愉快な会話を打ち切りました。こういった会話の口調からして、彼は新生ドイツの友ではありませんし、私のようなものに対してではなく、外人に対して胸襟を開いた態度をとるような人物であることは疑いありません」と報告している。(奥波 2001, pp. 134-135)
- ↑ 「党の不信は、たとえば一九三五年六月十日の《トリスタンとイゾルデ》記念公演に現れている。ミュンヘンでの初演六十周年を祝うこの日の公演が客演指揮者の手に委ねられたのである。ミュンヘンの音楽総監督をさしおいて指揮台に立ったのはフルトヴェングラーヒンデミット事件にみられるように、彼はナチに対して距離を取り続けたが、ヒトラーはその芸術家としての資質・功績を認めていたし、ゲッベルスは利用価値を認めるどころか、人格にも一目おいていた。」(奥波 2001, p. 137)
- ↑ 「ヴァレック就任後の一連の経過に、ナチ『運動』の指導者ヒトラー自身の遺稿が働いていた(らしい)ことに、クナッパーツブッシュは最後まで気づかなかったのだろうか。十一月二十三日のワルツ・マーチ・コンサートでは、党のやんごとなきお歴々となかよくスナップ写真におさまっている。追い落とし工作が如何に隠密裏に行われていたかを物語る証拠といえようか。/結局、翌日の《ヴァルキューレ》が最後の公演となった。二十七日に病欠の届けを出し、そのまま戦後までミュンヘンの指揮台に立つことはなかったのである。」(奥波 2001, p. 139)
- ↑ 「一月の終わりごろウィーンでは、指揮活動の停止とパスの没収にまでいたった『クナッパーツブッシュ事件』について、さまざまな風評がとびかっていたらしく、言質のドイツ公使館はベルリンに経緯の説明を求めている。ある女性歌手はクナッパーツブッシュ解任を阻止すべく、ミュンヘンから単身ベルリンにのりこみ総統に直訴したが、『軍楽隊長は去らねばならん!』と一蹴されたという。/一九三六年二月二十五日付けでクナッパーツブッシュはついに『退職』となり、事態は公式には収拾する。」(奥波 2001, p. 140)
- ↑ 「クナッパーツブッシュのウィーン初登場は、一九二三年三月十五日に遡る。トーンキュンストラー(管弦楽団)とのコンサートについては、作曲家エーリヒ・ヴォルフガングの父親で批評家のユーリウス・コルンゴルトなどが好意的な批評を寄せている。音楽の都を代表するウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との初共演は、二九年八月二十九日ザルツブルク音楽祭でのコンサートで、曲目はモーツァルトの《アイネ・クライネ・ナハトムジーク》、ベートーヴェンの《交響曲第三番》ほか。手短なリハーサルだけでオーケストラをまとめあげる手腕や、簡素な指揮ぶりが目を引いたようである。/本拠地ウィーンでの初共演は三四年十一月十八日の第二回定期演奏会で、演目はチャイコフスキーの《交響曲第六番》とブルックナーの《交響曲第四番》。選曲に対する批判や、情熱・感情の欠如を指摘する声もあったが、定期公演に初登場した指揮者への称賛や期待の声もみられる。ウィーン客演はまずまず成功していたといえよう。」(奥波 2001, p. 149)
- ↑ ミュンヘンでの職を失った直後から、バルセロナ、ロンドンやウィーンへの客演の認可を当局に求めていたが、なかなか認可されず、自ら筆をとって「ユダヤのごろつき連中」(Judengesindel)という言葉の入った客演許可の嘆願の手紙をベルリンの参事官宛てに送り、バルセロナ、ロンドンやウィーンでへの客演の許可を得ている。(奥波 2001, pp. 141-142)その後のクナッパーツブッシュは、ストックホルムへの客演の他、ウィーンから音楽祭への出演、ウィーン交響楽団への客演、ウィーン国立歌劇場からの年俸十万シリングでの首席常任指揮者への就任の申し出などが届いていた。クナッパーツブッシュは、帝国劇場院にストックホルムとウィーンへの客演の認可を求めたが、ストックホルムへの客演こそ認可されたものの、ウィーンへの客演については「クナッパーツブッシュは絶対にウィーンで指揮してはならない」というヒトラーからの指示があったため、すべて却下された。これにオーストリア首相シュシュニクが不快感を表明し、それがドイツ公使を通じてゲッベルスに伝わったため、「七月二十七日にはようやくゲッベルスから『ウィーンその他での契約にはもはや障害なし』との許可を受けることができた」という。(奥波 2001, pp. 149-151)
- ↑ ウィーン国立歌劇場の芸術監督の座は、1934年8月にフェリックス・ヴァインガルトナーが早期に退任したが、その後釜にブルーノ・ヴァルターが座ったこともあり、クナッパーツブッシュは、客演の形でウィーン国立歌劇場と関わることになった。(奥波 2001, pp. 149-151)
- ↑ ウィーンに客演した際、クナッパーツブッシュの真っ先に訪問した人物の一人がユダヤ人のアルノルト・ロゼーであった。ロゼーとの交友を望ましくないと非難されると、クナッパーツブッシュは「尊敬してやまないロゼーとのつきあいがいけないというのでしょうか?」と答えたという。また、ケーニヒスベルクで、役人がオーケストラに向かって『ドイツ式挨拶』をする慣例について説明した時には、「すばらしい!」と言いつつ、オーケストラとのリハーサルではドイツ式挨拶をすることなくズボンに手を突っ込んだまま「グーテン・モルゲン(おはよう)、みなさん」と快活に挨拶していたという話も伝えられる。(奥波 2001, pp. 152-153)
- ↑ 「ドイツ国防軍がオーストリア国境を越えたのは一九三八年三月十二日の未明。この五十歳の誕生日にクナッパーツブッシュはウィーンで《トリスタンとイゾルデ》を指揮している。翌日の晩にはドイツ軍がウィーン入場を果たす。以後、劇場は閉鎖されたまま、地位・身分のはっきりしない状態がつづいた。/おそらくこのころのことであろう。アメリカ行きを決めた男性歌手にねぎらいの言葉をかけていたところ、ドアが開き、制服姿のナチ党員が『ハイル・ヒトラー、音楽総監督!』と仰々しい挨拶をして入室してきた。『音楽総監督』は苦々しげにふりむき、『私の前ではいい加減そのばかげた挨拶をやめてくれ、わかったか』と怒鳴った。ナチが退出した後、『あまりにも不用意な発言ではないですか』と男性歌手が不安を口にしたところ、『まったくどうでもいいことです。これは持論だし、口にださずにはおれないのです』と答えたという。」(奥波 2001, p. 156)
- ↑ 「オーストリアが褐色に染まった日、ヴァルターは客演先のアムステルダムにあって、ラジオにかじりつきながら、ニュースに耳を傾けていたという。ウィーンにいた彼の長女ロッテは唐突に逮捕され、十二日間『暗い牢獄』に拘留されたあげく、やはり唐突に釈放され、四月なかばようやくスイスに出国できた。ヴァルターはこの間、娘の為に八方手を尽くしつつ不安な日々を送っていた。ヴァルター自身、国籍と旅券を失い、根無し草のような状態になっていたが、秋になってようやくフランスの市民権を取得できたのである。/クナッパーツブッシュにとっても、御^ストリア併合の意味するものは『解放』などではなく、むしろ『暗い牢獄』であったと思われるが、ヴァルターやその家族ほど悲惨な目にあったわけではない。かつてヴァルターの用いていた執務室に移り、何事もなかったかのようにウィーンでの活動をつづけることになった。/もっとも、ナチへの反感はあいかわらずだったらしい。併合後はじめてヒトラーが歌劇場を訪れた際、仕事上の要件を理由に出迎えの席に出ることを避けた。総統の演説放送が劇場内のスピーカーを通して流されることが度々あったが、活字にできないような悪態をつきながら、スピーカーに向かって灰皿を投げつけていたという。」(奥波 2001, pp. 158-159)
- ↑ 「フルトヴェングラーが政治色の強い公園を極力回避しようとしていたのに比べれば、クナッパーツブッシュは実際かなりの頻度でナチに担ぎ出され、利用されていた。」(奥波 2001, p. 160)
- ↑ “クナッパーツブッシュ(くなっぱーつぶっしゅ)とは? 意味や使い方 - コトバンク”. 2022年4月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月27日閲覧。
- ↑ 「団員の大幅な解雇はあったものの、八月十七日には州立管弦楽団のコンサートが開催され、バイエルン文部大臣ヒップ、劇場支配人バウクナー、そしてクナッパーツブッシュが壇上に立った。このとき彼は、『千年』はつづくと豪語された『猿芝居』の閉幕を宣言し、歌劇場再建のための協力を訴えたのである。/ほぼ十年の空白の後、ミュンヘンで彼が指揮した最初の曲は《海の静寂と幸運な公開》であった。長い動乱と戦争の果てにミュンヘンは廃墟と化し、いま死の『静寂』につつまれているわけだが、これからの採取ポ発が『幸運』であるようにとのメッセージが読みとれる。」(奥波 2001, pp. 167-168)
- ↑ 第二次世界大戦終結後のミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の最初の演奏会は、7月8日にオイゲン・ヨッフムの指揮で行われ、クナッパーツブッシュはその演奏会への出演を辞退している。奥波は「三六年以来彼を遠ざけてきたバイエルン当局は、ミュンヘン・フィルとの共演で復帰を果たすように要請してきたが、それでは『州立管弦楽団を侮辱することになる』との理由で固辞した」というクナッパーツブッシュの過去の事例から、「ミュンヘン・フィルの指揮台に先に立っては古巣の州立管弦楽団への義理を欠くことになると答えたのだろう」と推測している。(奥波 2001, pp. 166-167)
- ↑ 「一九四五年八月二十一日、『国家社会主義により政治的に迫害された人々に敬意を表する』と題されたミュンヘン・フィルの戦後第二回目のコンサートに、クナッパーツブッシュは他の二人の指揮者とともに客演した。」(奥波 2001, p. 169)
- ↑ 「八月十五日の指令、さらには九月二十六日の法律と、非ナチ化の徹底がはかられ、ついに『クナッパーツブッシュ』の名前がブラック・リストに載ることになる。/十月初旬のことである。アメリカ軍政府情報統制本部は、メディア・文化(機関)に関わる一四四〇人のドイツ人について、『黒色』『灰色』『白色』という三区分のリストを作成した。/ホワイト・リストに名前があがったのは四四一人で、うち二〇七人は潔白が立証されたグループ。残りの二三四人は暫定的に政治活動が認められた。グレイ・リストに名前があがった三八九人は、文化活動は許可されたが、政治的な洋食屋一般企業の管理職などに就くことは禁じられた。ブラック・リストの六一〇人のうち、三二七人は文化・政治双方の活動を原則禁止される。残りの二八三人は、公安上の危険人物で、逮捕もありうるので、雇用してはならないとされた。/そのブラック・リストには、指揮者のカール・エルメンドルフ、ピアニストのギーゼキング、帝国音楽院の元総裁ペーター・ラーベ、作家のエルンスト・ユンガーなどの有名人に混じって、『クナッパーツブッシュ』の名前があげられていたのである。/しかし、当局内部には早くから、そうした処分のもたらす効果について懸念する声があった。」(奥波 2001, p. 169)
- ↑ 「クナッパーツブッシュに対する処分は、当局内部で危惧されていたように、ミュンヘン市民の間に不信感をもたらした。『クナッパーツブッシュのケースは、われわれの与える認可や約束の妥当性に対する信頼を掘り崩し、ドイツ人にきわめて不幸な影響を及ぼした』のである。/このため情報統制本部は、『クナッパーツブッシュの事例』についてあらためて公式説明を行った。オーストリア併合後のウィーンでの活動、戦時中の公演旅行などの事実を指摘し、『音楽へのドイツ人の愛着をプロバガンダ目的に利用した宣伝省を彼は支援していた』と結論づける内容であった。/こうした説明に効果があったかどうかはわからない。彼の事柄にかぎらず、非ナチ化政策一般については不公平であるとの不満が日増しに高まっており、当局のほうも非ナチ化の遂行にはドイツ人側の協力が不可欠との判断に至ったため、一九四六年三月五日には『ナチズムと軍国主義からの解放のための法律』が成立。以後、非ナチ化遂行の権限は基本的にドイツ人自身の手に委ねられ、数多くの事例が再調査されることになったのである。/結果として、多くのドイツ人が『無罪』となり、社会復帰を果たす。クナッパーツブッシュについてミュンヘンの非ナチ化審査機関の公訴人は十月二十二日、法律に抵触せずとの結論に達した。/彼が個人yr気には、ナチズムに対して、まったく妥協のない、気骨あるしかたで敵対していたこと、個人的な譲歩をいっさいしなかったことは、一般に知られているとおりであり、公文書記録によって証明された。/同日付けで公訴人は、クナッパーツブッシュに公判手続きの停止を通知したが、活動再開にはまだ時間がかかった。関連資料・書類がアメリカ軍情報統制本部に送られ、押収されていたナチ時代の公式文書等との照合のうえ、適否が再検査されたということらしい。ミュンヘンの非ナチ化審査機関の決定に沿って、活動禁止処分が解除されたのは十二月四日であった。」(奥波 2001, pp. 177-178)
- ↑ “Bruckner”. 2022年4月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月27日閲覧。
- ↑ 「戦後になって彼自身がようやくバイロイトに到着したとき、ヴァーグナーの様式はその孫の手によって無残に打ち捨てられ、当時としても尤も斬新で前衛的な舞台に様変わりした。伝統の守護者を任じてきたクナッパーツブッシュの落胆ぶりは察するに余りある。すてにみたヴィーラントからの説得の試みに対しても彼はかなりきつい調子で答えている。/要はしたくないではなく、できないということです。ヴァーグナーへの私の侵攻はとても強いのです。あなたのそれよち強いのです。次のバイロイト音楽祭にも協力したいという気持ちよりも強いのです。ヴィーラント・ヴァーグナーはリヒャルト・ヴァーグナーに達していない。これが私の痛みです[……]私とは別の世界であなたはリヒャルト・ヴァーグナーの為に生きておられる。あなたはもはや正しいヴァーグナーを体験することが許されなかったのです。」(奥波 2001, pp. 190-191)
- ↑ “[2018] Hans Knappertsbusch 130. Geburtstag”. Klassik Heute. (2018年3月12日). オリジナルの2022年4月27日時点におけるアーカイブ。 2022年4月27日閲覧。
- ↑ 「一九六一年一月末、クナッパーツブッシュは客演先のブリュッセルで胃穿孔の緊急手術を受け、ほぼ一ヵ月の入院生活を余儀なくされたが、その後活動を再開した。しかし、六四年の九月末、自宅で転倒して大腿部を骨折し、すぐに手術を受け入院。十二月初めには退院し自宅での治療をつづけたが、快癒とはいかなかった。翌年四月末には医師の忠告に従い、バイロイト音楽祭への参加断念を決める。結果として、聖地バイロイトでの六四年八月十三日の《パルシファル》が、生涯最後の指揮となった。」(奥波 2001, p. 194)
- ↑ 「六五年十月二十五日午後四時五十五分、グスタフ=フライターク=シュトラーセ一〇番の自宅にて逝去。享年七十七歳。死因は急性の心臓及び循環不全。」(奥波 2001, p. 194)
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