ドロシア・ワディンガム
ドロシア・ナンシー・ワディンガム(Dorothea Nancy Waddingham、1899年 - 1936年4月16日)は、イギリスで謀殺の有罪判決を受けた、イングランドのナーシング・ホームの施設長である。
生涯[編集]
ドロシア・ワディンガムは、ノッティンガム近くの農場で生まれた。 彼女は、「看護師」("Nurse")ワディンガムと呼ばれるが、これは彼女が訴えられ有罪判決を受けた2つの謀殺は彼女がイングランドでノッティンガム近くで運営したナーシング・ホームで犯されたからである。 しかしながら彼女は資格を得た看護師ではなかったし、彼女が受けた唯一の医療的訓練はバートン=アポン=トレント(Burton-on-Trent)の近くの診療所での雑役婦としてであった。 1925年に彼女は、トマス・ウィロービー・リーチ(Thomas Willoughby Leech)と結婚した。 彼は、彼女の2倍の年齢で、癌で死にかけていた。 この結婚の間に、彼女は、詐欺と窃盗で2回の刑期をつとめている。[1] リーチは1930年に死亡し、そのときワディンガムはロナルド・ジョセフ・サリヴァン(Ronald Joseph Sullivan)という別の男性と会っていた。 サリヴァンは第1次世界大戦でたたかい、軍事的なメダルを授与され、戦後アイルランドで従軍した。[2] 二人は結婚し、4子をもうけることになる。[3] サリヴァンとの結婚の間、彼女は初老の虚弱な患者らを収容し始め、ノッティンガムのデヴォン・ドライヴ(Devon Drive)32番地のうちをナーシング・ホームにした。
活動[編集]
郡ナーシング協会名誉幹事(the Honorary Secretary of the County Nursing Association)ミセス・ブラッグ(Mrs Blagg)は、ワディンガムの仕事に賛成し、そして89歳のミセス・バグリー(Mrs Baguley)とその娘エーダ(Ada)のために手配したが、彼女らは多発性硬化症あるいは「徐々に進行する麻痺」("creeping paralysis")で患者になった。 1935年2月にミセス・ケンプ(Mrs Kemp)という別の患者は、大量のモルヒネを必要とする病気で死亡した。 大量の薬物は、ワディンガムのナーシング・ホームの家屋敷に残っていた。
エーダ・バグリーは、自分の死後、母親に1600ポンドの地所を遺し、母親の死後、残りを2人のいとこローレンス・バグリーおよびギルバート(Lawrence Baguley and Fred Gilbert)に遺す、遺言書をつくった。 エーダは、自分が死亡において母親に先立つことになりそうだと知らされていた。 しかしながら、この遺言書は1935年5月にエーダによって破棄され、そしてエーダと母親のふたりともが死亡したときすべての金銭をドロシア・ワディンガムとロナルド・サリヴァンに遺す新たな遺言書がつくられた(これは看護師の彼女らにたいする看護の報酬である)。 初老のミセス・バグリーは5月の第2週に死亡した。
エーダは1935年の春と夏は生き続けた。 のちに、ワディンガムは彼女にたいしてまったく注意深いと言われた。英語版[誰によって?]。 1935年9月にエーダは古くからの家庭の友人ミセス・アリス・ブリッグス(Mrs Alice Briggs)の訪問を受け、彼女は彼女を元気づけて午後を過ごした。 ミセス・ブリッグスはワディンガムに、自分は2、3日間、自分のうちでエーダにお茶を飲んでもらうと語った。 しかし9月11日(翌日)、サリヴァンはドクター H. H. マンスフィールド(Dr H. H. Mansfield)に、自分の患者エーダは昏睡状態にあると知らせた。 マンスフィールドが来ると、エーダは死亡していた。 これは予期されていたから医師は疑わなかったし、ワディンガムからさらなる詳細を得たのち、彼は、エーダは心臓血管の変性のために死亡したと死亡証明書に記入した。
エーダは、火葬される許可を与えていたし、もし火葬がなされていたならば、ワディンガムがエーダの死亡に有罪であると判明しなかったということはあり得る。 エーダは、遺言書に、親戚に知らせないようにと要望を書きとめていた。 ワディンガムは、親戚は居ないと言ったが、それはうそであった。
ワディンガムにとって不運なことに、火葬の担当のひとはドクター・シリル・バンクス(Dr Cyril Banks)であったが、彼はまたノッティンガムの保健局長(Medical Officer for Health)でもあった。 バンクスはワディンガムの施設をいわゆる「ナーシング・ホーム」("nursing home")としてけっして高く評価していなかったし、スタッフに登録看護師(State Registered Nurse)が(居るべきであるが)居ないことを知っていた。 彼は、火葬を認めるエーダ・バグリーからの手紙に疑いをいだき[4]、検死解剖を命令した。 検死解剖で、ただちに死亡をもたらし得るエーダの肉体的状況に関係するものはなにも見つからなかった。 これが、ノッティンガム・アナリスト(Nottingham Analyst)の上級補助員(Senior Assistant)ドクター W. W. テーラー(Dr W. W. Taylor)による故人の器官の分析につながった。 彼は、彼女の胃、肝臓、腎臓、そして心臓に、かなりの量のモルヒネの痕跡(3グレイン超)を見つけた。
今やミセス・ブリッグスの死亡をめぐって疑惑が持ち上がり、そして内務省によって命令された発掘が行なわれた。 これはドクター・ロッチ・リンチ(Dr Roche Lynch)によって処理され、彼は母親もモルヒネ中毒で死亡していたことに気づいた。 これが2つの謀殺でのワディンガムおよびサリヴァンの逮捕につながった。
公判[編集]
ワディンガムの公判は、ゴッダード裁判長(Mr Justice Goddard)の下、1936年2月4日に始まった。[5] 彼女の法廷弁護士はミスタ・イールズ(Mr Eales)[6]、訴追側はノーマン・バーケットであった(まれなことである、というのもバーケットはふつう刑事弁護を取り扱う)。 バーケットは、エーダ・バグリーの最後の食事が彼女の状態の女性にとってはどのようにヘヴィーでリッチであったかを含む、おおいに損害を与える証言を引き出した。 ワディンガムは、自分がエーダにポーク、ベークト・ポテト、キドニー・ビーン、フルーツ・パイを与えた - 彼女にこれの2人分を与えた - ことを認めた。 これは死因を隠す努力を、そして患者の福祉に対する関心の欠如を示唆する。[7] その結果、ワディンガムはミセス・バグリーおよびエーダの毒殺のモルヒネの使用で有罪判決を受けた。 複数の謀殺の背後の動機と称されるものは、バグリーの地所を得ることであった。 ワディンガムが、ドクター・マンスフィールドが彼女に余ったモルヒネのタブレットをエーダ・バグリーのために与えたと主張したことも明らかにされたが、その医師はこれを否定した。[8] 公判において、サリヴァンは証拠不十分で釈放され、ただしいわゆるエーダ・バグリーからの火葬に関する手紙は、彼によって書かれた。[9]
ワディンガムは2月27日に有罪とされた。 数人の若い子の母であるため、減刑の勧告にもかかわらず、彼女は、死刑執行の直前に犯罪を認めて1936年4月16日に絞首刑に処せられた。[10] 彼女の死刑はウィンソン・グリーン・プリズン(Winson Green Prison)で執行され、絞首刑執行人はトマス・ピアポイントで、アシスタントは甥のアルバート・ピアポイントであった。
ワディンガムは5子の母で、死刑執行の時点で生後3ヶ月の子にまだ授乳していた。 10000人が死刑執行に反対してゴールの外に集まり、「Stop this mother murder!」と繰り返し唱えた。[10] この反対は、傑出した死刑制度廃止論者ヴァイオレット・ヴァン・ダー・エルスト(Violet Van der Elst)によって導かれた。
娘エーダ・バグリーのフィアンセは、彼女の死亡のち自殺を遂げた。[10]
ポピュラー文化[編集]
死刑執行は、2005年の映画『Pierrepoint』において劇化され、ワディンガムはリジー・ホープリー(Lizzie Hopley)が演じた。 映画はティモシー・スポールが演じるアルバート・ピアポイントが死刑を執行したように見せたけれども、実際は絞首刑執行吏はトマス・ピアポイント(Thomas Pierrepoint)(アルバートの甥)であった。 アルバートはおじのアシスタントをつとめた。 さらに、死刑執行はバーミンガムのウィンソン・グリーン・プリズンで行なわれ、映画でほのめかされたようにロンドンのホロウェー刑務所(Holloway Prison)ではない。[11] この映画は死刑執行が戦争中に行なわれている点でも不正確である。
脚注[編集]
- ↑ Rowland, p. 138-139.
- ↑ Wilson and Pitman, p. 534; Rowland, p. 140.
- ↑ 子供らの親子関係に関して混乱がある。ウィルソン(Wilson)とピットマン(Pitman)はリーチは数人の子の父であると言い(p. 533-534)、いっぽうローランド(Rowland)は彼女はただサリヴァンとのあいだに子供たちを生んだだけであると言った(p.149)。
- ↑ Wilson and Pitman, p.534-535.
- ↑ Real Crime
- ↑ Rowland, p.148.
- ↑ O'Donnell, p.91.
- ↑ Wilson and Pitman, p.535.
- ↑ Wilson and Pitman, p.534.
- ↑ 10.0 10.1 10.2 National archives
- ↑ Fielding, Steve. Pierrepoint: A family of Executioners. pp. 148
伝記[編集]
- O'Donnell, Bernard Should Women Hang? (London: W.H.Allan, 1956) (p. 88–92: "Women's Murder Weopon" is about poison used by several women poisoners, the first being Waddingham; there is also a photo of her in the book).
- Rowland, John Poisoner In The Dock: Twelve Studies in Poisoning (New York: Archer House – Arco Books, 1960) (p. 137–157: "Morphine" is about Dorothea Waddingham).
- Wilson, Colin and Pitman, Pat Encyclopedia of Murder (New York: G. P. Putnam's Sons, c1961, 1962) (P. 533-535: "Waddingham, Dorothea Nancy"
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