セルゲイ・クーセヴィツキー
セルゲイ・アレクサンドロヴィチ・クーセヴィツキー(ロシア語: Сергей Александрович Кусевицкий;ラテン文字転写例: Sergei Aleksandrovich Koussevitzky[1][2], 1874年11月26日[3](ユリウス暦では11月14日[4]) - 1951年6月4日)は、ロシア出身の指揮者、コントラバス奏者、作曲家。[5][6]
ヴイシニー・ヴォロチョークで生まれる。父アレクサンドルはヴァイオリンを堪能にし、母アンナはピアノ奏者であった。1877年には母親が死没している。6歳の頃から弦楽器に親しみ、母の幼馴染であったマリア・フョードロヴナ・ローペンベルクに音楽の手ほどきを受けた。17歳の時に単身モスクワに行き、モスクワ音楽院の院長であるヴァシリー・サフォノフに音楽院への入学を直談判したが、学期が既に始まっていることを理由に断られている。そこでモスクワ・フィルハーモニー協会の音楽院に行き、院長のペテル・シェスタコフスキー[7]に認められて入学した。音楽院では音楽理論をセミョン・クルグリコフ[8]、作曲をパヴェル・ブラレンベルク[9]、コントラバスをヨーゼフ・ランボウシェク[10]の各氏に師事した。1892年頃からセルゲイ・ラフマニノフと親交を結んだ。1894年からボリショイ劇場のコントラバス奏者を務め[11]、1898年にはベルリンのジングアカデミーに行ってコンサートで成功を収めた。師のランボウシェクが亡くなった1901年からボリショイ劇場の首席コントラバス奏者に昇格し、ランボウシェクの後任としてモスクワ・フィルハーモニー協会の音楽院でコントラバスを講じることとなった。1902年にはボリショイ劇場のバレリーナのナデジタ・ガラトと結婚したが、1905年には離婚している。その直後にはナタリア・ウシュコヴァと結婚し、1942年に彼女が亡くなるまで添い遂げたが、彼女は、クーセヴィツキーが良く出入りしていたサロンの主である茶商人のコンスタンティン・ウシュコフの娘であり、夫のキャリア形成に於いて様々な援助を行った。ウシュコヴァと結婚した直後にボリショイ劇場の職を辞し、1906年にはベルリンに居を移した。ベルリンに居を移してからは、ヨーロッパ各地に足を延ばし、カミーユ・サン=サーンスのチェロ協奏曲第1番の独奏パートをコントラバスで演奏する程のコントラバスのヴィルトゥオーゾとして名声を確立した。また、アルトゥル・ニキシュやオスカー・フリート等の知己を得て、彼らから指揮法を教わった。1908年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団で指揮者としてデビューを飾る。1909年にはアレクサンドル・スクリャービン、ラフマニノフ、ニコライ・メトネル、イーゴリ・ストラヴィンスキーといったロシアの作曲家の作品を紹介する音楽出版社「ロシア音楽エディション」を立ち上げた。程なくして夫婦でロシアに戻り、1911年には自らの名前を冠したオーケストラを結成してロシア各地を演奏して回った。1917年にペトログラード国立交響楽団の音楽監督に就任したが、1920年にフランスのパリに亡命。1921年からパリでコンセール・クーセヴィツキーを組織し、同時代の作曲家の作品を積極的に取り上げた。パリでは、モデスト・ムソルグスキーの《ボリス・ゴドゥノフ》、アレクサンドル・ボロディンの《イーゴリ公》等のロシア・オペラの紹介にも尽力している。1924年からボストン交響楽団の首席指揮者に就任したのを機にアメリカに転居したが、1929年までパリのコンセール・クーセヴィツキーは維持した。1936年にはマサチューセッツ州ストックブリッジ近郊ホルムウッドで開催されたバークシャー・シンフォニー・フェスティヴァルにボストン交響楽団を率いて参加して大成功を収めた[12][13]。この成功を受けて、メアリー・アスピンウォール・タッパンがタングルウッドの土地をクーセヴィツキーの率いるボストン交響楽団に寄贈し、後のタングルウッド音楽祭に発展した。1940年からはタングルウッドの敷地内にバークシャー音楽センターを建て、音楽祭の期間中に音楽教育も行うようになった[14]。1941年にアメリカ市民権を取得し、1942年にはクーセヴィツキー財団を設立している。1947年には先だった妻ナタリアの姪で、自身の秘書であったオルガと再婚している。1949年にボストン交響楽団の職を辞した後は、フリーランスの指揮者として世界各地のオーケストラに客演した。
ボストンにて死去。
脚注[編集]
- ↑ “Sergei Aleksandrovich Koussevitzky - ヤマハ「ぷりんと楽譜」”. 2022年8月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月21日閲覧。
- ↑ “Letter from Aaron Copland to Sergei Koussevitzky, March 5, 1942.”. 2022年8月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月21日閲覧。
- ↑ “ON THIS DAY | Conductor & Composer Serge Koussevitzky Born in 1874”. The Violin Channel. (2021年11月26日). オリジナルの2022年8月20日時点におけるアーカイブ。 2022年8月20日閲覧。
- ↑ “Сергей Александрович Кусевицкий (Serge Koussevitzky) | Belcanto.ru”. 2022年8月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月20日閲覧。
- ↑ アーカイブ 2016年8月16日 - ウェイバックマシン
- ↑ “セルゲイ・クーセヴィツキーの芸術(40CD) | HMV&BOOKS online - ARTIS020”. 2022年8月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月21日閲覧。
- ↑ アーカイブ 2022年7月1日 - ウェイバックマシン
- ↑ アーカイブ 2022年8月20日 - ウェイバックマシン
- ↑ アーカイブ 2017年12月25日 - ウェイバックマシン
- ↑ アーカイブ 2022年7月19日 - ウェイバックマシン
- ↑ アーカイブ 2022年8月20日 - ウェイバックマシン
- ↑ アーカイブ 2018年3月17日 - ウェイバックマシン
- ↑ アーカイブ 2022年8月21日 - ウェイバックマシン
- ↑ アーカイブ 2022年8月4日 - ウェイバックマシン