カールロ・ユホ・ストールベリ
カールロ・ユホ・ストールベリ Kaarlo Juho Ståhlberg | |
---|---|
1919年撮影 | |
生年月日 | 1865年1月28日 |
出生地 |
フィンランド大公国 オウル州 スオムッサルミ |
没年月日 | 1952年9月22日(87歳没) |
死没地 |
フィンランド ウーシマー州 ヘルシンキ |
出身校 | ヘルシンキ大学 |
前職 | 教授、公務員 |
所属政党 | Lua エラー package.lua 内、80 行目: module 'モジュール:仮リンク/link' not found |
配偶者 |
Hedvig Irene Wåhlberg Ester Hällström |
在任期間 | 1919年7月26日 - 1925年3月2日 |
カールロ・ユホ・ストールベリ(フィンランド語: Kaarlo Juho Ståhlberg、1865年1月28日 - 1952年9月22日)は、フィンランドの法曹、学者である。初代フィンランド共和国大統領(1919年-1925年)を務めた。
生涯[編集]
若年期[編集]
カール・ユーハン・ストールベリ(Carl Johan Ståhlberg)は、フィンランド大公国オウル州カイヌー県スオムッサルミで、牧師補佐のユーハン・ガブリエル・ストールベリ(Johan Gabriel Ståhlberg)とアマンダ・グスタファ・カストレン(Amanda Gustafa Castrén)の間の2番目の子供として生まれた。彼の家系はルーテル派の聖職者であった。彼の出生時の洗礼名はスウェーデン語風であったが、後に多くのフェノマン(スウェーデン語ではなくフィンランド語の言語と文化を支持する人々)と同じように、自身の名前をカールロ・ユホ(Kaarlo Juho)とフィンランド語風に改めている[1]。
幼少期に父親が亡くなり、一家は経済的に苦しくなった。一家はオウルに移り、子供たちはそこで学校に通うことになった。カールロの母アマンダは、1879年に亡くなるまで一家を支えるために働いていた[1]。家庭では常にフィンランド語を用い、フィンランド語を支持していたため、ストールベリはフィンランド語で教授する中等教育学校に入学し、そこで優秀な成績を収め、クラスの首席となった。1889年にはヘルシンキ大学の法学部を卒業し、1893年には法学博士号を取得した。
初期のキャリア[編集]
フィンランドがロシア帝国の宗主権の下にあった時代に、フィンランド大公国元老院の法案提出者としてキャリアをスタートさせた。彼は立憲主義者であり、フィンランドをロシア化しようとする試みに反対し、既に存在していたフィンランド独自の憲法の枠組みと立法政策を支持していた。
1891年にフィンランド国会の財務委員会の書記を務めた後、1894年にはヘルシンキ大学の行政法・経済学の助教授に任命された。この頃から若いフィンランド党のメンバーとして政治に積極的に関わるようになった。
政治家としてのキャリア[編集]
ストールベリは、フィンランド大公国議会に貴族院議員として参加した。1905年には、レオ・メシュリン首班の元老院メンバーに任命され、貿易と産業を担当した。1907年、元老院によるアルコール禁止法案が議会で否決されたことが原因で、ストールベリは議員を辞職した。
翌年、学業を再開、ヘルシンキ大学の行政法の教授に任命され、1918年まで在職した。またその間、フィンランド青年党の中央委員に選出されるなど、政治活動にも積極的に取り組んだ。1908年、南ハメ選挙区の国会議員に選出され、1910年まで同選挙区の議員を務めた。また、1913年から1918年に最高行政裁判所長官に任命されるまで、オウル南部選挙区の議員を務めた。また、1914年には議会議長を務めた。
1917年、ストールベリは宗主国ロシアで発生した二月革命とその結果として生じたニコライ2世の退位を受けて、フィンランド新政府のあり方を検討するために設立された憲法評議会の議長に任命された。
評議会で承認された新政府の形態は、スウェーデン統治時代の1772年に制定された「政府文書」をベースにしたものだった。この案はロシア臨時政府によって否決され、その後、十月革命とフィンランド独立宣言をめぐる状況の混乱のために、いっときは忘れ去られていた。
フィンランド憲法の制定者[編集]
1917年12月にフィンランドが独立した後、憲法委員会は新生国家の政府形態に関する新案を起草した。1918年、フィンランド内戦の影響や、共和派と王党派の間で将来の憲法について議論が交わされ、様々な提案がなされたが、ストールベリは評議会の議長として、憲法案の起草・調整に取り組んだ。彼の提案は最終的には1919年にフィンランド憲法として制定されることになる。1918年、ストールベリは、内戦の勝利者である保守派が主に支持していた立憲君主制ではなく、共和制を支持した。1918年に最高行政裁判所の初代長官に任命されたストールベリは、国会議員としての役割を休止していたため、同年10月にフリードリヒ・カール・フォン・ヘッセンがフィンランド国王として議会で選出された際には関与しなかった。フィンランドが共和政体を採用することが明らかになると、ストールベリは直接選挙による大統領選出を主張したが、国家評議会は選挙人制を選択した。ただし、初代大統領は議会で選出されることになった。
フィンランドの初代大統領[編集]
ストールベリは、自身も所属していた国民進歩党や農民同盟の支持を得て、大統領候補として浮上した。1919年のフィンランド大統領選挙では、143票対50票でカール・グスタフ・マンネルヘイム(国民連合党とスウェーデン人民党が支持)を破り、1919年7月25日に共和国大統領として選出された[2]。
大統領となったストールベリは非常に堅苦しく、恥ずかしがり屋な性格のため、公の場で言うべきことはすべて事前に書いていたという。
初代大統領として、ストールベリは大統領職のあり方について様々な前例や解釈を創出しなければならなかった。彼の任期中には短命な内閣が続出した。大統領在任中、ストールベリは8つの内閣組閣を命じた。これらは主に農民同盟と国民進歩党、国民連合党、スウェーデン人民党の連立政権であったが、ストールベリは2つの暫定政権も任命した。ストールベリは組織を命じたすべての政府の方針をおおむね支持したが、時には反対意見も述べた。1924年1月に第一次キュオスティ・カッリオ内閣を辞任に追い込んだのは、ストールベリが議会の議員数を200人に戻すための早期選挙を要求し、カッリオがそれに反対したためである。議会は1923年8月に共産党の代議士が反逆罪の疑いで逮捕されて以来、27人の代議士が不足していた[3]。
ストールベリは、かつての赤軍派も新生の共和国を受け入れられるよう、穏健な社会・経済改革を志向した。彼は、多くの右派フィンランド人、特に白衛派退役軍人や陸軍の上級将校らから強い批判を受けたにもかかわらず、旧赤衛兵の囚人のほとんどを釈放した。また、労働契約の交渉において労働組合に使用者団体と同等の権限を与える法案や、貧困層への公的ケアを改善する法案、裕福な地主から元小作人などの土地を持たない農村の人々に土地を分配するLex Kallio法などに署名した[4]。
外交面では、大統領就任初期に起きたオーランド諸島問題の影響もあり、スウェーデンに対しては控えめな態度をとっていた。また、ドイツに対しても慎重で、ポーランド、イギリス、フランスと緊密な関係を築こうとしたが、概して失敗に終わった。
大統領退任後[編集]
ストールベリは大統領職を負担に感じ、1925年の再選を目指さなかった。大統領職退任後、ストールベリはヘルシンキ大学総長のポストをオファーされたが、それを断り、代わりに政府の法律起草委員会のメンバーとなった。また、1930年から1933年まで、ウーシマー選挙区の議員として、再び国民進歩党の議員を務めた。
1930年には、ラプア運動の活動家が彼とその妻を誘拐し、ソ連に置き去りにしようとしたが失敗した。この一件はラプア運動の終焉を早めることとなった。
1931年の大統領選挙では国民進歩党の候補者となったが、第3回投票においてわずか2票差でペール・スヴィンヒューに敗れた。1937年の大統領選挙にも立候補し、最終的に3位となった。
1946年、ストールベリは政界を引退し、ユホ・クスティ・パーシキヴィ大統領の法律顧問となった。1952年に死去し、ヘルシンキのヒエタニエミ墓地に葬られた。
フィンランドの歴代大統領の中で、ストールベリは極めて高い評価を保っている。彼は民主主義と法の支配を擁護した功績により、フィンランド憲法の父と呼ばれている。
脚注・出典[編集]
- ↑ 1.0 1.1 Tyynilä, Markku (2000年6月7日). “Ståhlberg, Kaarlo Juho (1865–1952)” (フィンランド語). Kansallisbiografia.fi. Suomalaisen Kirjallisuuden Seura. 2021年5月9日閲覧。
- ↑ see, for example, Sakari Virkkunen, "Finland's Presidents I," Helsinki, 1994
- ↑ Sakari Virkkunen, "The Finnish Presidents I: Ståhlberg - Relander - Svinhufvud" / Suomen presidentit I: Ståhlberg - Relander - Svinhufvud, Helsinki: Otava Publications Ltd., 1994
- ↑ see, for example, Virkkunen, "The Finnish Presidents I"; "Forum IV: Turning Points of the Finnish History from the Autonomy to the Present" / Forum IV. Suomen historian käännekohtia autonomiasta nykypäivään (an upper-secondary school history textbook), Helsinki: Otava, 2005–2006
スクリプトエラー: モジュール「navbox/former」はありません。
公職 | ||
---|---|---|
先代: 建国 |
フィンランド共和国大統領 初代 : 1919年 - 1925年 |
次代: ラウリ・クリスティアン・レランデル |
Lua エラー モジュール:Authority_control 内、423 行目: attempt to index field 'wikibase' (a nil value)
This article "カールロ・ユホ・ストールベリ" is from Wikipedia. The list of its authors can be seen in its historical and/or the page Edithistory:カールロ・ユホ・ストールベリ.