イギリス
グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(グレートブリテンおよびきたアイルランドれんごうおうこく、英語: United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland、英語略称: United Kingdom、UK、Britain)、通称イギリスは、ヨーロッパ大陸北西岸に位置し、グレートブリテン島、アイルランド島北東部その他多くの島々から成る立憲君主制国家。首都はロンドン。日本語における通称の一例として、英国(えいこく)がある(「国名」を参照)。
イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドという歴史的経緯に基づく4つのカントリー(「国」)が、同君連合型の単一主権国家を形成している。また、2020年1月31日まで欧州連合(略称:EU)に属していたが離脱した (ブレグジットを参照)。イギリスは国際連合安全保障理事会常任理事国であり、G7・G20に参加する先進国である。また、経済協力開発機構、北大西洋条約機構、欧州評議会の原加盟国である。
核拡散防止条約により核兵器の保有を認められた5つの公式核保有国のひとつであり、強力な軍事力を持つ。ウィーン体制が成立した1815年以来、世界で最も影響力のある国家を指す、列強のひとつに数えられる。
GDPは2020年時点で名目GDP世界第5位、購買力平価世界第9位と、いずれも世界10位以内に位置する大きな市場を持ち、世界的な経済大国かつヨーロッパにおける四つの大国「ビッグ4」の一国である。人間開発指数の高い先進国と見なされている。
また、民主主義、立憲君主制、議院内閣制など近代国家の基本的な諸制度の発祥国でもあり、ピューリタン革命、名誉革命、産業革命など、様々な歴史的事象の舞台であった。シェイクスピア、ダーウィン、ニュートン、クック、ファラデー、フレミングといった科学者や芸術家の故国で、現代においてもビートルズ、クイーンなどを輩出した。ビジネスや政治において「国際共通語」化が進んでいる英語は、イングランドの発祥である。
イギリスの擬人化としてはジョン・ブル、ブリタニアが知られる。
国花[編集]
国花はそれぞれの地域が持っている。
- イングランドはバラ
- ウェールズはラッパスイセン(スイセンの1種)。リーキもより歴史のあるシンボルだが、リーキは花ではない。
- 北アイルランドはシャムロック
- スコットランドはアザミ
国名[編集]
正式名称は英語で、United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland(ユナイテッド・キングダム・オヴ・グレイト・ブリテン・アンド・ノーザン・アイルランド)。
日本語では、「グレートブリテン及び北部アイルランド連合王国」とする場合(法文など)と「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」とする場合(条約文など)がある。
英語での略称は「United Kingdom」、「UK」、「Britain」。日本語における一般的な通称は「イギリス」もしくは「英国」(英と略称される)であるが、稀に「United Kingdom」の直訳である「連合王国(れんごうおうこく)」が用いられることもある。現在の公用文では「英国」が使用されており、「イギリス」は口語で用いられることが多い。「連合王国」は2003年まで法文において用いられていた。
「イギリス」は、イングランドに関連するポルトガル語の形容詞「inglez, inglês(イングレス、イングレシュ)」が語源で、戦国時代にポルトガル人が来航した事に起源を持つ。原義にかかわらず連合王国全体を指して使われており、連合王国の構成体たる「イングランド」とは区別される。江戸時代には、オランダ語の形容詞「engelsch, engels(エンゲルス)」を語源とする「エゲレス」という呼称も広く使用された。幕末から明治・大正期には「英吉利(えいぎりす)」や「大不列顛(大不列顚、だいふれつてん、大ブリテン)」と漢字で表記されることもあったが、前者が「英国」という略称の語源である。ただし「英国」は、狭義に連合王国全体でなくイングランド(英格蘭)のみを指す場合もある。
1707年合同法においては、イングランド王国およびスコットランド王国を一王国に統合すると宣言する。同法において、新国家名称は「グレートブリテン王国」または「グレートブリテン連合王国」および「連合王国」とすると述べている。しかしながら、「連合王国」という用語は18世紀における非公式の使用にのみ見られ、「長文式」でない単なる「グレートブリテン」であった1707年から1800年まで、同国はごくまれに正式名称である「グレートブリテン連合王国」と言及された。1800年合同法では、1801年にグレートブリテン王国とアイルランド王国が統合し、グレートブリテン及びアイルランド連合王国が成立した。現在の正式国名である「グレートブリテン及び北(部)アイルランド連合王国」は、北アイルランドのみが連合王国の一部としてとどまった1922年のアイルランド自由国独立およびアイルランド分裂(英語版)後に採用された。
イギリスは主権国家として国であるが、イングランド、スコットランド、ウェールズ、それほどの段階ではないが北アイルランドも、主権国家ではないが「国」(country)と呼ばれる。スコットランド、ウェールズ、北アイルランドは、権限の委譲による自治権を有する。イギリス首相のウェブサイトでは、連合王国の説明として「1国内の国々」という言葉が用いられていた。イギリスの12のNUTS1地域(英語版)統計のような複数の統計的概要において、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドを「region」と言及している。北アイルランドは「province」とも言及される。北アイルランドに関しては、記述名の使用が「多くの場合、個人の政治的選好を明らかにする選択で議論の的になり得る」。
英語では「Britain」という言葉は、連合王国の同義語として頻繁に用いられる。一方、「Great Britain」という言葉は、連合王国全体の緩い同義語として用いられる場合もあるが、本来はイングランド、スコットランドおよびウェールズを指すものであり、北アイルランドを含む(すなわち、イギリス全体を指す)場合には用いるべきでないとされる。
"GB"及び"GBR"は、イギリスの標準国名コード (ISO 3166-2及びISO 3166-1 alpha-3を参照) であり、その結果として国際機関がイギリスに言及する際に用いられることがある。さらに、イギリスのオリンピックチームは「Great Britain」もしくは「Team GB」の名称を用いる。
形容詞の「British」は、イギリスに関する事項への言及によく用いられる。「British」に明白な法的含意はないが、イギリスの市民権及び国籍に関する事項(英語版)への言及に法律上用いられる。イギリスの国民は、自らの国民性を表現するのに多数の異なる用語を用い、自らをイギリス人であるか、イングランド人、スコットランド人、ウェールズ人、北アイルランド人、アイルランド人 であるか、またはその両方であると見なし得る。
2006年、英国旅券に新デザインが導入された。新パスポートの1ページ目には、英語、ウェールズ語、スコットランド・ゲール語で正式国名が記載されている。ウェールズ語での正式国名は「Teyrnas Unedig Prydain Fawr a Gogledd Iwerddon」であり、政府のウェブサイト上での略名は「Teyrnas Unedig」であるが、通常は語形変化した形「Y Deyrnas Unedig」から「DU」と略される。スコットランド・ゲール語での正式国名は「Rìoghachd Aonaichte Bhreatainn is Èireann a Tuath」であり、略名は「Rìoghachd Aonaichte」である。
地理[編集]
イギリスはグレートブリテン島のイングランド、ウェールズ、スコットランド、およびアイルランド島北東部の北アイルランドで構成されている。この2つの大きな島と、その周囲大小の島々をブリテン諸島と呼ぶ。グレートブリテン島は中部から南部を占めるイングランド、北部のスコットランド、西部のウェールズに大別される。アイルランド島から北アイルランドを除いた地域はアイルランド共和国がある。
北アイルランドとアイルランド共和国の国境の他に、イギリスは大西洋に囲まれ、東に北海、南にイギリス海峡がある。アイリッシュ海は、グレートブリテン島とアイルランド島の間に位置する。イギリスの総面積は243,610 km2であり、世界第78位及びヨーロッパ第11位。
イングランドの大部分は岩の多い低地からなり、北西の山がちな地域(湖水地方のカンブリア山脈)、北部(ペニンネスの湿地帯、ピーク・ディストリクトの石灰岩丘陵地帯、デールと呼ばれる渓谷、パーベック島、リンカンシャーの石灰岩質の丘陵地帯)から南イングランドの泥炭質のノース・ダウンズ、サウス・ダウンズ、チルターンにいたる。イングランドを流れる主な河川は、テムズ川、セヴァーン川、トレント川、グレートウーズ川である。主な都市はロンドン、バーミンガム、ヨーク、ニューカッスル・アポン・タインなど。イングランド南部のドーヴァーには、英仏海峡トンネルがあり、対岸のフランスと連絡する。イングランドには標高 1000m を超える地点はない。
ウェールズは山がちで、最高峰は標高 1,085m のスノードン山である。本土の北にアングルシー島がある。ウェールズの首都また最大の都市はカーディフで、南ウェールズに位置する。
スコットランドは地理的に多様で、南部および東部は比較的標高が低く、ベン・ネビス山がある北部および西部は標高が高い。ベン・ネビス山はイギリスの最高地点で標高 1343 m である。スコットランドには数多くの半島、湾、ロッホと呼ばれる湖があり、グレート・ブリテン島最大の淡水湖であるロッホ・ネスもスコットランドに位置する。西部また北部の海域には、ヘブリディーズ諸島、オークニー諸島、シェトランド諸島を含む大小さまざまな島が分布する。スコットランドの主要都市は首都エディンバラ、グラスゴー、アバディーンである。
北アイルランドは、アイルランド島の北東部を占め、ほとんどは丘陵地である。中央部は平野で、ほぼ中央に位置するネイ湖はイギリス諸島最大の湖である。主要都市はベルファストとデリー。
現在イギリスは大小あわせて1098ほどの島々からなる。ほとんどは自然の島だが、いくつかはクランノグといわれる、過去の時代に石と木を骨組みに作られ、しだいに廃棄物で大きくなっていった人工の島がある。
イギリスの大半はなだらかな丘陵地及び平原で占められており、国土のおよそ90%が可住地となっている。そのため、国土面積自体は日本のおよそ3分の2(本州と四国を併せた程度)であるが、可住地面積は逆に日本の倍近くに及んでいる。イギリスは森林も少なく、日本が国土の3分の2が森林で覆われているのに対し、イギリスの森林率は11%ほどである。
その他、紛争中(英語版)のフォークランド諸島、ジブラルタル、インド洋地域を含む14の海外領土を有する。ガーンジー、ジャージー、マン島はイギリスの一部ではなく、イギリスの君主をともに君主とし、イギリス政府が防衛及び国際的表示に対して責任を負う王室属領である。
気候[編集]
イギリスの気候は2つの要因によって基調が定まっている。まず、メキシコ湾流に由来する暖流の北大西洋海流の影響下にあるため、北緯50度から60度という高緯度にもかかわらず温暖であること、次に中緯度の偏西風の影響を強く受けることである。以上から西岸海洋性気候 (Cfb) が卓越する。大陸性気候はまったく見られず、気温の年較差は小さい。
メキシコ湾流の影響は冬季に強く現れる。特に西部において気温の低下が抑制され、気温が西岸からの距離に依存するようになる。夏季においては緯度と気温の関連が強くなり、比較的東部が高温になる。水の蒸散量が多い夏季に東部が高温になることから、年間を通じて東部が比較的乾燥し、西部が湿潤となる。
降水量の傾向もメキシコ湾流の影響を受けている。東部においては、降水量は一年を通じて平均しており、かつ、一日当たりの降水量が少ない。冬季、特に風速が観測できない日には霧が発生しやすい。この傾向が強く当てはまる都市としてロンドンが挙げられる。西部においては降水量が2500mmを超えることがある。
首都ロンドンの年平均気温は12.8度、1月の平均気温は6.7度、7月の平均気温は19.5度、年平均降水量は750.6mmとなっている。
主要都市[編集]
イギリスは四つの非独立国であるイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドより構成される。それぞれの国は首都を持ち、ロンドン(イングランド)、エディンバラ(スコットランド)、カーディフ(ウェールズ)、ベルファスト(北アイルランド)がそれである。中でもイングランドの首都であるロンドンは、イギリス連合王国の首都としての機能も置かれている。
イングランドの首都ロンドンは、ヨーロッパ第2の規模の都市的地域及びユーロスタットによれば欧州連合最大の約1,400万人の人口を有する都市圏であり、重要な世界都市及び金融センターである。
ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの首都は各々カーディフ、エディンバラ、ベルファストである。
歴史
古代のグレートブリテン島はアルビオンと呼ばれた。ラテン語起源で、ドーバーの白い崖に由来するとされる。
1066年、ノルマンディー公であったウィリアム征服王 (William the Conqueror) がイングランドを征服し、大陸の進んだ封建制を導入して、王国の体制を整えていった。人口と経済力に勝るイングランドがウェールズとスコットランドを圧倒していった。
1282年、ウェールズ地方にもイングランドの州制度がしかれた。14 - 15世紀にわたりフランスと百年戦争を展開したが、1373年に英葡永久同盟を結んだ。
1497年、ジョン・カボットが北米海岸を発見した。1534年、国王至上法が出た。1536年及び1543年の統一法(英語版)の下、ウェールズを正式に併合した(ウェールズ法諸法(英語版))。1559年、キリスト教がイングランド国教会統一された。1562年フランスでユグノー戦争が起こってユグノーが移ってきた。1588年、アルマダの海戦でスペインを破った。1600年、イギリス東インド会社が設立された。1603年、イングランドとスコットランドが同君連合を形成した。そしてヘンリー・ハドソンやウィリアム・バフィンが北米探検を実行した。1607年のヴァージニアに始まり、1732年のジョージアにいたる北アメリカ大陸東海岸に13植民地が形成、1620年、ピルグリム・ファーザーズが北米に上陸した。1628年に権利の請願がなされた。ウィレム3世は1694年イングランド銀行を設立した。1707年の合同法で、イングランドとスコットランドは合邦しグレートブリテン王国となった。1754年には北アメリカにてフレンチ・インディアン戦争が勃発、グレートブリテン王国は勝利を収めた。
1775年にはアメリカ独立戦争が勃発し、グレートブリテン王国はフランス王国やスペイン帝国などが支援する13植民地に敗北し、パリ条約によって、アメリカ合衆国が正式にグレートブリテン王国からの独立を果たした。1801年の合同法でアイルランド王国と合邦し、「グレートブリテン及びアイルランド連合王国」となった。
エドワード7世の時代、ロシアの極東進出への対抗として1902年に日英同盟、1904年に英仏協商が締結され、19世紀後期の「栄光ある孤立」と謳われた非同盟外交方針は放棄された。
第一次世界大戦では、イギリスは連合国側となり、ドイツ帝国やオーストリア=ハンガリー帝国と戦闘を繰り広げた。1926年にはバルフォア報告書が提出された。ウィンザー朝のジョージ5世による治世、デビッド・ロイド・ジョージ政権下の1922年に英愛条約が発効され、北部6県(北アイルランド、アルスター地方9県の中の6県)を除く26県がアイルランド自由国(現アイルランド)として独立し、1927年に現在の名称「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」へと改名した。
1939年、アドルフ・ヒトラーのナチ党率いるナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、フランスとともに宣戦布告を行い、バトル・オブ・ブリテンをはじめヨーロッパ戦線では対独伊戦争、太平洋戦線では対日戦争を経験した。
1940年にはナチス・ドイツとのバトル・オブ・ブリテンが勃発し、イギリス上空で激しい航空戦が繰り広げられた。そのほか、同年7月にはロンドン大空襲が行われ、イギリスは多大なる被害を受けた。アメリカ合衆国の民主党フランクリン・ルーズベルト大統領と大西洋憲章を共同で提唱した保守党のウィンストン・チャーチル政権による挙国一致内閣の下に勝利を得た第二次世界大戦後、イギリス軍はドイツのハンブルクやハノーファーを占領し、旧西ドイツの形成の一役を担った。
イギリスは1945年の冷戦開始以降、政治・経済・軍事をはじめ多くの面でアメリカ合衆国に覇権を譲った。また、資本主義・自由主義陣営の西側諸国の一国としてソビエト連邦とは敵対しながら、政治面では労働党のクレメント・アトリー政権が「ゆりかごから墓場まで」をスローガンにベヴァリッジ報告書に基づく福祉国家を作り上げた。経済面ではイングランド銀行がブレトンウッズ体制をめぐる駆け引きに競り負け、1960年代のポンド危機と1970年代のセカンダリー・バンキング危機に遭い、「英国病」とまで呼ばれる不景気に苦しんだ。産業面では戦前からゼネラル・エレクトリックに産業革命の威光を奪われていた。アトリー失脚後は、保守党へ政権交代となりチャーチルが首相に再任する。
第二次大戦中イギリスは帝国内で最大規模の人口を誇るインド帝国に対して、ヨーロッパ、太平洋で複数の戦線を維持し、又城内平和を維持するため戦後インドの地位に対して大幅な譲歩をせざるを得なかった。イギリス政府は1947年にインド独立法を承認し、インドとパキスタンの独立を、翌1948年にはセイロン(スリランカ)の独立を承認した。又大戦中に日本の支配下にあったビルマ、マレーでもイギリス支配下に復することに混乱が見られ、1948年にビルマ(ミャンマー)の1957年にマレーシアの独立を承認した。また、1952年にジョージ6世が崩御したため、エリザベス2世が即位した。
1960年代に入るとフランス領西アフリカの独立要求を期にアフリカ諸国の独立運動が活発化し、1960年にナイジェリアが、1962年にウガンダが、1963年にケニアが、1964年にマラウイとザンビアがイギリスから独立を宣言した。又1961年に南アフリカが、1966年にローデシアがアパルトヘイト維持のためイギリスからの独立を宣言した。
1956年にはエジプトがスエズ運河の国有化を宣言し、同地帯を占領したためイギリス、フランス、イスラエルとの間で戦闘が勃発した。これが第二次中東戦争(スエズ危機)である。英仏は国際世論の支持を得られなかったためスエズから撤退し、地中海と紅海を結ぶスエズ運河の利権を喪失した。またエジプトの行動に励まされて中東地域でも独立運動が刺激され、1971年にバーレーン、カタール、アラブ首長国連邦がイギリスから独立した。
残る最大のイギリス植民地は香港だけになったが、これも1984年に当時の首相マーガレット・サッチャーと鄧小平(中華人民共和国中央軍事委員会主席)の間で行われた英中首脳会談で新界の租借期限が切れる1997年に割譲地も含めて一斉に中国に返還されることになった。香港を返還したことで、イギリスは主要な植民地のほぼ全てを喪失することになり、世界の7つの海を跨いだイギリス帝国は消滅していった。
1964年にはハロルド・ウィルソンが首相に就任し、アトリー以来13年ぶりに労働党が政権に復帰する。1969年にイングランド、ウェールズ、 スコットランド、1973年に北アイルランドで死刑制度が一部例外を除き廃止された。また、ウィルソン労働党政権下で、妊娠中絶の合法化、死刑制度の廃止及び同性愛の非刑罰化(ソドミー法の廃止)を含む社会的改革がなされ、通貨ポンドの平価切り下げや、日本の放送大学のモデルともなった通信制公立大学であるオープン大学の設置などの政策が実施された。
1980年代に成立した保守党のマーガレット・サッチャー政権は、新自由主義による構造改革(ネオリベラリズム・サッチャリズムに基づく民営化・行政改革・規制緩和)を急進させて(小さな政府志向・自由主義国家論)、多くの失業者を出した。地方経済は不振を極め、ロンドンを中心に金融産業などが成長した。
1990年代、政権は保守党のジョン・メージャーから労働党のトニー・ブレアに交代し、イギリスは市場化一辺倒の政策を修正しつつかつての重厚な福祉国家にも逆戻りしない「第三の道」への路線に進むことになった。また、1998年人権法を制定し、死刑制度が完全に廃止された。このころからイギリスは久しぶりの好況に沸き、「老大国」のイメージを払拭すべく「クール・ブリタニア」と呼ばれるイメージ戦略・文化政策に力が入れられるようになった。
2000年代 - 2010年代、21世紀に突入し、労働党のゴードン・ブラウン、保守党のデーヴィッド・キャメロンと政権が続く。
2014年からは同性結婚が合法化された。カントリーの一つであるスコットランドが独立すべきかどうかを問う住民投票が2014年9月に実施されたが独立は否決された。
2016年6月23日、イギリスの欧州連合離脱是非を問う国民投票が実施されその結果、僅差をもって離脱賛成派が過半数を占めたため、イギリスの欧州連合離脱(通称: ブレグジット、Brexit)が決定された。
これを受けて、首相兼保守党党首であるキャメロンが責任を取る形で辞任を表明し、テリーザ・メイが、サッチャーに続く2人目のイギリスの女性首相兼保守党党首として2016年7月13日に就任した。メイ政権は、新たに欧州連合離脱省を設置した。結果として、2020年1月31日午後11時(GMT)にイギリスは欧州連合から脱退した。
2022年9月8日、70年にわたり在位していたエリザベス2世が崩御、チャールズ3世が即位した。
政治[編集]
政体は、イギリスの君主を元首に戴く立憲君主制であり、内閣が議会の信任に基づいて存在する議院内閣制を採用する。
元首[編集]
即位以来約70年の長きにわたりエリザベス2世が在位していたが、2022年9月8日に96歳で崩御。同日、チャールズ3世がイギリス国王(君主)に即位した。
法[編集]
イギリスの憲法は一つに成典化されていない不文憲法であり、制定法(議会制定法だけでなくマグナ・カルタのような国王と貴族の契約も含む)や判例法、歴史的文書及び慣習法(憲法的習律と呼ばれる)などが憲法を構成している。これらは他の法律と同様に議会で修正可能なため、軟性憲法であると言える(ただし、伝統的に憲法を構成する法律については簡単に改正されることはない)。憲法を構成する慣習法の一つに「国王は君臨すれども統治せず」とあり、形式上は国王大権が残っているものの、国王や女王の権能は極めて儀礼的である。
このように、世界でも最も早い段階から立憲君主制と法の支配を採用し、また立法権優位の議会主義が発達しており、議院内閣制(ウェストミンスター・システム)や政党制(複数政党制)など、現代の多くの国家が採用している民主主義の諸制度が発祥した国である。
内政[編集]
立法権は議会に、行政権は首相及び内閣に、司法権はイギリス最高裁判所及び以下の下級裁判所によって行使される。
イギリスの議会は、貴族院(上院)と庶民院(下院)の二院制である。1911年に制定された議会法(憲法の構成要素の一つ)により、「下院の優越」が定められている。議院内閣制に基づき、憲法的習律に従って下院第一党党首の下院議員を行政の長である首相に国王が任命し、閣僚は議会上下両院の議員から選出される。下院は単純小選挙区制による直接選挙(普通選挙)で選出されるが、上院は非公選であり任命制である。従来右派の保守党と左派の労働党による二大政党制であったが、近年では第三勢力も拡大している。
イングランド以外のカントリーであるウェールズ、スコットランド、北アイルランドは各々異なる権限を委譲された政権を有しており、1996年に北アイルランド議会、1999年にはスコットランド議会とウェールズ議会が設置され、自治が開始した。スコットランドには主にスコットランド国民党によるスコットランド独立運動が存在し、北アイルランドには20世紀から続く北アイルランド問題も存在する。 2016年6月、欧州連合(EU)からの離脱を問う国民投票で賛成多数となり、1973年の旧欧州経済共同体(EEC)加盟以来の大陸との一体化が幕を閉じた(イギリスの欧州連合離脱)。これを受けて首相がデーヴィッド・キャメロンからテリーザ・メイへ交代した。
現任の首相は、第23代保守党党首リシ・スナク(第79代:2022年10月25日より在任)。現在の内閣は、スナク内閣。
外交[編集]
詳細は「イギリスの国際関係」および「イギリス軍」を参照
イギリスは19世紀から20世紀前半までの間、世界最高の大国であった。現在も列強であり続け、経済、文化、軍事、科学、政治で国際的な影響力を有する。
1946年の第1回国際連合安全保障理事会以来、イギリスは同理事会常任理事国であり、G7、G20、NATO、欧州評議会、OECD 、WTOの加盟国となっている。そして、アメリカ合衆国と歴史的に「特別な関係(Special relationship)」を持つ。アメリカ合衆国とヨーロッパ以外にも、1920年代までは日本と日英同盟を結んでいた同盟国であったため、大正時代以降の旧日本海軍や戦後の海上自衛隊はイギリス海軍の伝統に多大な影響を受けながら発展した。
イギリスと密接な同盟国は、連邦国と他の英語圏の国家を含む。イギリスの世界的な存在と影響は、各国との相補関係と軍事力を通して拡大されている。それは、世界中で約80の軍事基地の設置と軍の配備を維持していることにも現れている。
軍事[編集]
イギリスの軍隊は、1707年にグレートブリテン連合王国の軍隊としてイングランド軍とスコットランド軍の合併によって設立された。
名称は「イギリス軍 (British Armed Forces)」または「陛下の軍 (His/Her Majesty's Armed Forces)」として知られている。しかし、公式の場では「アームド・フォーシーズ・オブ・ザ・クラウン (Armed Forces of the Crown)」(慣例がないため未翻訳)と呼ばれる(クラウンは冠、王冠の意)。全軍の最高司令官はイギリスの君主であるが、それはあくまで名目上に過ぎず、国王大権は首相ないし内閣の助言に従い行使されるため、首相が事実上の指揮権を有している。軍の日常的な管理は国防省に設置されている国防評議会(英語版)によって行われている。イギリスの軍隊は各国の軍隊に比べて広範囲にわたる活動を行い、世界的な戦力投射能力を有する軍事大国の1つに数えられ、2008年現在、軍事費はGDPの2.5%を占めている。イギリス軍はイギリス本国と海外の領土を防衛しつつ、世界的なイギリスの将来的国益を保護し、国際的な平和維持活動の支援を任ぜられている。
2005年の時点で陸軍は102,440名、空軍は49,210名、海軍(海兵隊を含む)は36,320名の兵員から構成されており、イギリス軍の190,000名が現役軍人として80か国以上の国に展開、配置されている。
イギリスは核兵器の保有を認められている5か国の1つであり、軍事費は世界第5位または第6位である。核弾頭搭載のトライデント II 潜水艦発射弾道ミサイル (SLBM) を運用している。イギリス海軍は、トライデントIIを搭載した原子力潜水艦4隻で核抑止力の任務に担っている。
「イギリスの大量破壊兵器」も参照
イギリス軍の幅広い活動能力にもかかわらず、最近の国事的な国防政策でも協同作戦時に最も過酷な任務を引き受けることを想定している。イギリス軍が単独で戦った最後の戦争はフォークランド紛争で、全面的な戦闘が丸々3か月続いた。
現在はボスニア紛争、コソボ紛争、アフガニスタン侵攻、イラク戦争など、アメリカ軍やNATO諸国との連合作戦が慣例となっている。イギリス海軍の軽歩兵部隊であるイギリス海兵隊は、水陸両用作戦の任務が基本であるが、イギリス政府の外交政策を支援するため、軽歩兵部隊の特性を生かして海外へ即座に展開できる機動力を持つ。