1975年の読売ジャイアンツのユニフォーム
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1975年の読売ジャイアンツのユニフォームは1975年~1980年の第一期長嶋茂雄監督時代に読売ジャイアンツが採用していたサンフランシスコ・ジャイアンツモデルユニフォームの中で、この年のみ採用されていた袖TOKYOロゴ・背ネームなしバージョンのことを指す。(1974年12月23日にお披露目された。)翌1976年から袖YOMIURIロゴ・背ネーム入りバージョンにマイナーチェンジしたため便宜上短命ユニフォームとして扱った。
デザイン[編集]
ユニフォームの色はホーム用はクリーム色、ビジター用がスカイブルー。帽子・アンダーシャツ・ストッキングの色は黒。帽子のYGマークはオレンジ。襟・袖・ズボンラインの配色は中央・黒、両端・橙。ホーム用の胸ロゴGIANTS・同左袖ロゴのTOKYO・ビジター用の胸ロゴTOKYO・同左袖のロゴGIANTS・胸・背番号は黒で橙の縁取り。スパイクは黒に白いライン。
- 1975年版との相違点
- ホーム用の左袖ロゴが1976年からYOMIURI。
- 背番号の上のネームが1976年から入る。
概要[編集]
1972年からプロ野球界ではニット生地のユニフォームが流行し、それと同時に従来のボタン式に変わってベルトレス・プルオーバー化が進み、巨人でも同年からユニフォームのデザインはそのままに、生地にニットを採用、1965年から1973年まで続いた巨人V9時代の末期はニット生地のユニフォームだった。1974年オフ、川上哲治監督が勇退。後任に現役引退直後の長嶋茂雄が就任、翌1975年、チームは長嶋監督が掲げたキャッチフレーズ「クリーン・ベースボール」の下、ラインが二本線から太い一本線に、ロゴが花文字書体から大リーグ・サンフランシスコジャイアンツと同じデザインに変更した新デザインのユニフォームを使用。
しかし、大リーグスタイル採用の年は球団創設以来初の最下位に加えて、全球団負け越しという最悪の1年だった。1976年からはホーム用の左袖ロゴがTOKYOから親会社・読売新聞社の名称であるYOMIURIに変更され、また背中にネームが入るようになった(セ・リーグでは4球団目だった。中日は1977年、広島は1978年に導入。ヤクルトは1974年に廃止したが1978年に復活)。
ユニフォームからTOKYOのロゴが消えるのは原辰徳監督の第一期監督時代の1年目、2002年のことである[1]。その後、2015年に復活した。
補足事項[編集]
1981年、藤田元司監督が就任するとユニフォームは川上監督時代のスタイルに戻された。しかし、長嶋監督時代のデザインが継承されていた、いわゆる折衷形のデザインである(1984年の読売ジャイアンツのユニフォームの項目も参照)。詳細は以下の通り。
- ホーム用の色がクリーム色(※水原茂監督時代末期の1960年から採用され、1989年まで使用。1990年に白に変更)。
- ビジター用の色がライトブルー(※川上監督時代から採用され、1992年まで使用され、1993年にグレーに変更)。
- ホーム用の左袖のYOMIURIロゴは書体が変更されるが継承(※1974年以前はTOKYO)。
- 背番号の上のネームが継続(※1974年以前はなし)。
- 長嶋時代と同じくニット生地。
の5つ。長嶋時代のデザインは辞任後も継承されていた。ちなみに1981年からのデザインは1986年にプルオーバースタイルに変更されるがホーム・ビジター用共に1992年まで使用された。
1975年3月23日のオープン戦で行われた川上哲治の監督引退試合(野球協約で定められた引退試合としては最後の開催)では、川上は1975年デザインで背番号が77番(コーチスボックス)と16番(代打)のユニフォームを着用していた。
脚注[編集]
- ↑ 2007年に1961年から1974年までのユニフォームが復刻され、その年の交流戦(一部)で使用。ビジター用の胸ロゴにTOKYOが入るため、事実上の復活となった。
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