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純信お馬の恋物語

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Lua エラー package.lua 内、80 行目: module 'Module:Message box/configuration' not found純信とお馬の恋物語』( )とは、高知県にある『はりまや橋』にまつわる恋物語[注釈 1]

はりまや橋

封建社会の中では、男女が自分の恋のために自由に生きることは困難でした。当時、自分たちの恋を貫くためには、心中という手段しかありませんでした。しかし、2人の恋は心中という道を選ばず、「国抜け」という関所破りの駆け落ちをしてみせました。

しかし、その行動はあえなくついえ去りました。

内容[編集]

純信(幼名要 かなめ)は、文政2年(1819年)、土佐国高岡郡戸波郷市野々村で佐川家家臣の5人兄弟の長男として生まれた。父は深川家の道中警備役だった。殿様が佐川の地から高知へ行列をしていくときの露払い役をしていて、行列を妨げる非礼者を切り捨てる役だった。父はその無礼討ちをしたものの霊を慰めるため要と末子の正静を寺に預け僧侶にした。純信は、9歳で京都に上って東寺で修行に励み、24歳の時に、帰国して、30歳の時に五台山竹林寺脇坊妙高寺の住職を命じられた。

ファイル:よさこい物語の紹介.jpg

純信は身の丈5尺7寸もある大男で、色は浅黒く、顔は四角でいかついタイプであった。純信が住職になってから慶全が弟子入りしてきた。慶全は大内町柏島の護念寺の長男で、天保2年(1831年)の生まれである。17歳の時に、檀家の後家と問題を起こし、修行僧としてやってきた。慶全は身の丈5尺の小柄で、色白顔だちも整っていた。年上の女性が捨て置かないタイプだった。お馬は、天保10年(1839年)12月27日,五台山村長江の生まれで、父36歳、母20歳の時の子である。色白で顔は面長の卵型、黒目勝ちの美人だった。12,3歳で五台山小町と騒がれていた。14歳の時に城下の小倉家に奉公に入った。そこで、女中部屋に酔って入ってきた主人に手込めにされた。3年契約を1年早め、お馬は実家に帰った。

ファイル:よさこい物語の内容.jpg
よさこい物語の内容紹介

3日3晩泣き続け、傷心の身を癒した。母は薄々感じていたが、優しく見守った。母は、五台山の寺々を回って、僧たちの汚れ物を洗濯するのが仕事であった。家族で相談し、これから母の仕事を手伝うことにした。これから始まる仕事に「どうかいいことがありますように」と祈った。初めに脇寺の妙高寺へ行くと、女遍路5人にあった。岡山から、娘の嫁入り前に一度は四国参りへと来るのが風習であった。妙高寺での客の応対は弟子の慶全の担当であった。慶全はいつものように愛想よく縁側へ出てきた。慶全はお馬の娘として匂い立つ美しさに打たれた。さらにお馬は、住職の純信にも挨拶をした。すると「おお、お馬さんじゃないか、ちくとみんまにきれいな娘さんになって」と目を見張った。さらに、「いや驚いた。きれいが違う。さすが五台山小町といわれるはずじゃよ」お馬はぱっと顔を染めた。時に嘉永7年4月中旬、純信36歳、お馬16歳、慶全23歳であった。あの時以来慶全の脳裏にお馬の容姿が離れなくなった。慶全はお馬が来るのを心待ちにしたが、3日間、天候も悪く、お馬は来なかった。掃除や食事の支度をしていても、どこかぼんやりしていた。夜の自分の時間には里で仕入れた艶本を読んだり、後家にお徳のところに忍んだりして気をまぎらした。お馬が姿を見せたのは、あの日から5日目。慶全はお馬の姿を不意に目に入れた。

「この間はどうも」

「お馬さん、まちかねちょったよ。洗濯物がたまって」

お馬は前回の洗濯物を取り出し渡した。慶全はなにか話をしたかったが、ことばが出てこなかった。お馬が帰ろうとすると、とっさに「お近づきにいい仏さまを拝ませてあげよう」と言った。本堂にあがり、不動明王や波切不動明王、愛染明王を見せた。お馬が本堂を出るとき、祭壇に備えてあったらくがんを手渡した。次は文殊堂を案内することを約束し、見送った。

五月の入った午後、慶全はお馬の来寺を心待ちにしていたが、なかなかやってこなかった。共励会の時間がせまり、竹林寺に消えたとき、お馬が姿をみせた。住職の純信が応対し、洗濯物と洗濯代を手渡した。そして、二人っきりで初めて話をした。何の緊張もなく、警戒なしに、入っていける相性のよい相手のようだった。お馬は父の仕事の手伝いをして、髪の毛の先が焦げる話をした。黒い瞳で訴えかけるつぶらな瞳を見て、このしぐさは男の胸をかき乱さずにはおかない小悪魔だと思った。怪しい予感を感じながら、純信はいつになく世間話しに興じた。

梅雨が明けて7月、お馬と慶全が連れ立って竹林寺の仁王門を仰いでいた。門を入り、仁王門をくぐり、文殊堂へ向かった。遠慮するお馬の不安を振り払い、文殊菩薩を見せた。お馬は心があらわれた気分だった。その後も二人は恋人同士のように、語り合った。二人の仲は相変わらず続いていた。しかし、数か月続いているのに、慶全がお馬の手に触れることはなかった。純粋な修行僧のように、仏法の尊さを説くだけだった。彼自身はそれで満足であった。精神的に充足し、肉体的には後家のお徳によって満たされていた。

秋が深まり、五台山の自然林は紅葉した。紅葉狩りの人で賑わった。二人の噂は住職の耳にも入るようになった。純信は内心嫉妬したが、慶全はきっぱりと否定した。お馬は竹林寺の登り口で、一人の女性に声をかけられた。

「もし、お馬さん」

ふりむくと、見知らぬ大柄な女性が立っていた。お得は化粧をし、花柄の大島を着込んでいた。

「あんたは、洗濯物の交換にいくのか、自分が洗濯をしてもらいにいくのかね」

意味がよく見込めなくて、「洗濯物の交換に行きます」と答えた。すると、「そりゃあ、口実でほんとはあの人に逢いにいきたいのだろう」と怒気を込めて言った。お馬は怒気に気付かず、「ほんなら、その両方よね」と答えた。お徳の嫉妬に怒りに油を注ぎ、「なに、ぬけぬけと、ちっと自分ばきれいと思うて図に乗りなさんなよ。人のもんを取ったら盗人ぞね」「慶全さんは私のあての色ぞね。それをあんたみたいな小娘に横取りされてたまるかね」お馬は意味を理解した。(あのまじめな慶全さんが、こんな年増の相手と)信頼し、もたれかかっていた柱がぐらりと揺れた。人生で初めて味わう失恋の寂しさだった。

妙高寺の不道明王の大祭の日、早朝から檀家の信者数十人がやってきた。信者は「本堂掃除組」「参道掃除組」「炊事組」にわかれ、作業に入った。母は慶全の入っている参道組に入るが、お馬は慶全を避けて、本堂掃除組に入った。そこでは、純信が指示をして、仏像の清掃を行った。お馬は時々触れる純信の手の冷たさに、「手の冷たい人は心が温かい」と感じた。昼前に祭礼の準備は終わり、炊事組の作った五目寿司が運ばれてきた。お馬は遠足気分で食べた。午後2時から法要が始まった。読経が終わり、ご詠歌が終わると、役僧による念仏踊りが始まった。信者の目が念仏踊りに集中していると、ぐらぐらどーっと強い揺れが起こった。さらに「どーん」という大砲のような音とともに強い突き上げがあった。大きな地震が起こり、慶全の誘導で竹藪へ避難した。純信とお馬は本堂へ戻り、水を汲んで祭壇の灯明や香炉に水をかけて消した。さらに本揺れが起こった。お馬は純信の胴体にしがみついた。激しい上下動が続いた。お馬は重なりあったまましがみついた。二人はだきあったまま揺れに耐えた。本揺れが収まって、純信が気づくと、お馬の両足の中に自分の右足が割って入っていた。その右足を抜こうとすると、お馬はそれを許さなかった。お馬は両足に力を入れ、純信の右足を強く挟み込んだ。純信は己が僧であることを失念し、二人の肉体は1つになった。長い禁欲生活の中で、己に鞭打ち、せき止めていたものが、一気にお馬の内にほとばしった。この安政の大地震は土佐の国に、未曾有の大被害をもたらせた。流失した船籍千以上、死者3百とも4百とも記録されている。

 地震から1か月、慶全は、お馬が自分を避けていることが気になり、地震見舞いを言った。しかし、会話は他人行儀で、お馬はさっさと帰ってしまった。次第に慶全は純信とお馬の関係に疑念をもつようになってきた。ある日、法事でいただいたお布施を純信に渡すと、いつもより多い額で慶全に手渡した。そして、その時に部屋の隅に重ねてあった座布団の乱れが気になった。いつもなら5枚がきちんと隅に重ねられているのに、その時は乱れていた。慶全は確たる証拠はないものの、二人への嫉妬で眠れなかった。今やお馬は完全に慶全を敬遠している。そして、お馬の色気。純信の顔が見たこともない生気と喜びが感じられる。どうして純信に走ったのか理由を考えてもわからなかった。聖人ぶって、指一本触れなかった愚かさにうんざりした。まだ遅くないと取り戻すことに決めた。そのためには、純信が与えている以上のものをお馬に買ってやることではないかと考えた。お馬がと時折、花を折って花かんざしを黒髪にさしていることを思い出し、「かんざしだ、かんざし かんざし」と声に出して呟いた。買うなら珊瑚のかんざしでなくてはならないだろう。土佐では、珊瑚のかんざしは禁制になっていて、女たちはほしがっている高価なものであった。かんざし以外にお馬の心を奪い返すものは思いつかなかった。そのためには金が必要で,愛染明王を盗み出し、下知村の新田にある幸(さち)質屋へ持ち込んだ。5両の金子をしっかりつかんで、はりまや橋へと走った。自分が坊主であることも忘れて橘屋に入り、5両の美しいかんざしを買った。慶全はそれを胸にしっかりと抱き、「お馬、お馬」と心で叫びながら夜道を走った。

 数日後、お馬が竹林寺にやってきた。その日を待ちわびた慶全は、「大事な用事がある」と強引に三ツ池の傍らに誘い出した。「実はこれをあんたにあげようと思って」と桃色珊瑚の見事なかんざしを見せた。「ほれ、手にとって」慶全に促され、両手で取り出した。「髪にさしてごらんよ」お馬はからくり人形のように黒い瞳を上目使いにしながら、黒髪に刺した。「お馬さんすてきだよ」お馬は水面に映える自分の珊瑚のかんざしが池の面に姿を映した。

「ありがとう慶全さん、でもこのかんざしはいただくわけにはいかないわ」

「なぜなんだい」

「わたしは慶全さんの女になることはできないからよ」

「ほかに好きな男でも「いるのか」

「ええ。いるわよ」

「誰だ、だれだか言ってみろ」

「言えないわ」

「じゃあ。俺がいってやろう」

「純信おしょうだろう」

「・・・・・・・・」

お馬はじっと舌をかんで答えなかった。

「和尚はお前より20歳も年上だぞ、それにあんな入道和尚のどこがいいんだ」

慶全はすっかり逆上して自己を失っていた。和尚を悪く言われ、開きなおり、「それがどうしたのよ、大きなお世話よ」お馬に裏切られた慶全は、突然お馬に襲い掛かかった。全身の力を振り絞って抵抗する。しかし、慶全はお馬の唇を吸い、右手をお馬のふところへ。必死で抗うお馬の右手にはまだかんざしが握られていた。無我夢中でかんざしを慶全の背中に突き刺した。

「あ、痛っ」

慶全がひるんだ一瞬を捉えて、お馬は慶全を突きのけた。純信はお馬が髪を乱し、血相を変えて助けを求めてきたとき、暴漢が慶全であることに驚いた。かんざしのことを聞くに及んで、お馬をすでに手中に納めている余裕から、慶全に同情さえした。慶全はかんざしまで買ったのに、お馬に袖にされ、かっとなって襲って失敗し、それを私に知られたに違いないという思いから一時、里に下がったのだろう。慶全の在中、毎日お馬は朝から登ってきて朝食を作り、掃除をした。夜は暗くなってからしのんできた。そのころは純信は夕食を終えて、居間にいる。しのんできたお馬は純信に甘えかかる。二人は束の間、激しく睦みあうのであった。

 ある日、いつもより強い地震があった。純信は読経を中止し、様子を伺った。「ガチャリ」藍染明王像を入れてある箱の留め金が外れ、扉が片方開いた。中は空だった。純信は箱をからにしたのは慶全で、像がさんごのかんざしに化けたに違いないと初めて気づいた。藍染明王ご開帳の正月まであといくばくも無い。純信は質店を回り、下知村の幸質店をつきとめ、5両の利子をつけて取り戻した。慶全に見切りをつけ、後継の役僧を雇うことにした。松の内のあけた農人町の一膳飯屋に慶全はいた。そこで、二人のことを話して回った。

「お馬のためにはりまや橋で5両も出して、珊瑚のかんざしをこうちゃったと」

人々の口から口へと伝わり、噂が噂を呼んだ。これらの噂は竹林寺当局にも伝わり、純信は本山に呼び出された。「すべて私の不徳のいたすところ、申し訳ありません」ときっぱりと詫びた。

大僧正は「それならけっこう」とうなずき、処罰はなかった。二人はしばらく距離をおいていたが、お馬は洗濯物を届けるときに、手紙を書いて渡した。内容は、五台山の山頂北側にある大岩で会ってくださいというものだった。純信は人目をはばかりながら、密会場所へ向かった。数か月ぶりの密会であった。純信は万感の思いを込めた嬉しさの中で長い接吻が続き、二つの影は重なった。その後も二人は密会を重ねた。世間の噂はまたも再燃し、教団の戒律が二人の目の前に立ちふさがった。純信は二人の生き延びる道を考え、「北山超え」を心の隅で思うのであった。北山を越え、他国でお馬と駆け落ちすることを決めた。脱出の準備として、寺の積立金から50両を拝借。その一部を結納金としてお馬に手渡した。お馬は家を出るとき、10両を母に渡した。脱出は安政2年5月19日夜だった。午後7時ころあたりが暗くなって、落ち合いの場所の葛島へと向かった。母は、絶海付近まで見送り、

「水が変わるさ、気いつけんと。幸せになるのよ」

「お母さんも元気で、お父っさんにも」

純信は、「城下の檀家の法事に行ってくる」と法内に告げて、妙高寺をあとにした。落ち合い場所は、葛島の渡し場から少し離れた辻堂だった。初めにやってきたのは、先導の安右衛門、次に純信、最後にお馬がきた。一行は、早く五台山から遠のきたい一念で夜道を急いだ。安右衛門のかざす提灯と馬の蹄の音を頼りに、比島、布師田を経て、中島へ。深夜の夜風の中をさらに、江村、小籠、甘枝、西山、そして、山田の野地へと入っていった。今夜の宿泊の庚申堂へ到着。庚申堂は、青面金剛を祀るお堂である。疲れ切って泥のように眠った。

翌朝、境内につないだ馬のいななきで目が覚めた。用意していた握り飯で朝食をすますと、予定通りお馬は前髪を下げて、稚児姿に変身した。庚申堂を後にして楠目に向かった。

純信が姿を消したことは翌朝になって発覚した。金庫の前に鍵がおいてあり「一金五十両拝借つかまつり候」という純信の借用証文であった。

見張り役でもあった法円は一刻も早く本山へと走ろうとしたが、自分の責任が問われることを恐れ、自分の前途を思った。金庫を開き、残っていた残金から数十両を空海の真筆を取り出し、本堂の床下に隠した。本山では、事態に驚きながらも執事長の一声で緘口令が敷かれた。調べの結果、金庫から100両の冥加金と空海の真筆が紛失していることが判明した。弘法大使の真筆だけは、是が非でも取り返さなければならない。そのためには、純信を破戒僧として、処断することになった。竹林寺から訴えを受けた奉行所は探索を開始した。名目的には「拐帯罪と関所破りの罪」で3人を追うことになった。

大栃から五王堂へは、山あり谷ありの狭い難所だった。さらに雨も降ってきた。休みなしの雨中強行軍ののち、土佐藩最後の笹村へ分け入った。笹村には国境の関所、笹山道版所がある。関所には常時10数人の役人が詰めている。通過するには、通行手形必要だが、持ってはいない。関所破りをするのだが、そのために安右衛門を雇っていた。番所のはるか手前で、間道へ入り込んだ。人一人が歩ける程度の広さで、ときに道はなくなり、木と木の間を上り下りの連続だった。不意に、「関所を抜けましたよ」と安右衛門の声。

「まことですか」純信は絶句した。「嬉しい」お馬が喜びの声を上げる。一行は、関所を破り、阿波領へと抜け出した。

その夜はそのまま野宿し、翌朝、阿波の池田から、讃岐路へ入った。財田を経て、夕刻に琴平の金刀比羅宮へと辿り着いた。琴平は全国各地からの参詣客で賑わっていた。3人は参道の石段下にある高知家で祝杯を上げた。翌朝は雨だった。しかもかなり強く降き荒れている。この朝、京都へ向けて出立予定だったが、あきらめざるを得なかった。3人はもう1日逗流する破目となってしまった。

この1日の逗流が二人の運命を大きく変えることになってしまった。もしもこの日京都へ向けて出発していたら、二人が夢に描いた薔薇色の幸せをつかんでいたかも知れない。純信らを急追してきた捕史が高知屋を襲ったのはこの日の午後3時ごろであった。

「純信、御用だ」

お馬は事態を悟ると、「いやー」と悲鳴を上げて純信の背に隠れた。

捕縛された3人は高知城下に護送され、山田町の牢屋に入れられた。「純信とお馬が捕まった」という知らせは城下町を野火のように走った。安右衛門は鞭打ちの刑が確定し、釈放されたが、二人の刑はとまどった。純信は寡黙だが、素直に答え、ほとんどのことは解明された。しかし、真筆のことは釈明されなかった。追及の手は厳しく、拷問も加えられたが、わかるはずもなかった。弟子が床下に隠したものだから。お馬は少しも悪びれることもなく、「私のどこが悪いのですか、おっしょさんに会わせてください」と繰り返すだけだった。二人の判決が出たのは、9月末だった。

二人を城下3か所に晒したのち、純信は国外追放、お馬は仁淀川以西へ追放と決まった。二人の面晒しの初日は、松ケ鼻番所前だった。筵の上で並んでさらされている二人を見ようと次々見物人がやってきた。見物人は筵の上に座る色白で黒目がちのお馬の美貌に驚き、「さすが五台山小町よのう」とささやきあった。

「なんぼいうたち、こんな男がこんなべっぴんさんをよりにもよって・・・」

非難の声を上げた。群衆の後ろのほうに、我が子を気遣う母の姿があった。お馬は気づくことはなかった。2日目は、城下山田橋、3日目は上の5丁目思案橋に晒された。見物人は好奇の目で見つめ、ささやきあったが、人込に隠れるように二人を見つめ続ける男がいた。慶全であった。お徳の家からも追い出され、群下を托鉢して回っていた。「お馬さ許しておくれ」心から詫び続けるのであった。お馬はたとえ晒されていてもこの3日間純信と一緒であったことが嬉しかった。だが、間もなく二人は引き離され、生涯会うことはできない。そのことに気付くと、急に胸が詰まり、涙が零れ落ちた。純信は般若心経を心で唱えていた。このとき、強い一陣の風が吹き、砂塵が舞った。お馬は純信に近寄り、肩のほこりと髪の毛のほこりをそっと払った。群衆はこれを見てどよめき、冷やかしの声が飛び交った。

群衆の一人がよさこい節を歌い始めた。

 おかしなことよな はりまや橋で、

 坊さんかんざし買うを見た 

 よさこい よさこい

すると、数十人が列をなして踊り始めた。

 お馬ふれふれ 五尺の袖を

 なけりゃ坊さんに 買うてもらえ

 よさこい よさこい

 いかけやお馬さん 髪さえよけりゃ

 日本一じゃと いわれよに

 よさこい よさこい

歌はくり繰り返され、男女の踊り子は二人の前で踊り続けた。役人二人がやってきて、群衆の前に立ち叫んだ。

「こらっ 静まれ」 晒し時間の終了。

「立て」

「両人に告げる。晒しはこれまで、只今をもって、純信は東の立川関所から国外へ、お馬は仁淀川以西へ追放を命じる」

横目役は番人から二人を引き継ぎ、二人を左右に引き立てた。

その瞬間

「いやっ」

お馬の悲しみの声であった。お馬の両腕が純信にしがみついていた。

「馬鹿者」

横目役が二人を引き離そうとしたが、容易には離れなかった。

「別れを惜しませてやれ」

そうだそうだ、群衆の相槌が大合唱になった。横目役はお馬の指を1本1本はがし、二人を引き離した。お馬は引かれていく純信の後ろ姿を見つめたまま動こうとしなかった。

「おっしょうさーん」

純信は振り返らなかった。時に.安政2年(1855年)10月初めであった。

 純信は、伊予路の最初の町川之江へ下り、顔役の娚岩(みょうといわ)亀吉親分に頼ることにした。亀吉は力持ちで若いころは関取だった。純信は離れを借りて、寺子屋を開いた。学識、人柄が評判を呼び、たくさんの子弟が集まり、常時50人以上を超す盛況だった。多くの人から尊敬を受けるつつがない安泰の日々だったが、お馬をしのぶ心は安泰ではなかった。街道筋の亀吉のところには他国の旅人や客人も多かった。ある日、土佐から来た旅の絵師河田子龍が立ち寄った。小龍が、「お馬さんに何か伝えようか。手紙でも届けてあげるよ」と水を向けると、純信は照れながらも、素直に応じた。


これが、今に残る恋文である。しかし、この切実とした手紙は、お馬の手には渡らなかった。亀吉の死後は、その地を離れ、晩年は浮穴郡東川(現・愛媛県久万高原町)で、慶翁徳念和尚(俗名・中田与吉)を名乗って生活し、後に結婚し、一男一女をもうけ、明治21年に69歳で亡くなった。

 お馬は追放後、安田町の土佐東街道沿いにあった旅籠、坂本屋で働いていた。当時、その辺りは四国霊場27番札所・神峯寺の「前札所」養心庵や神峯神社の上り口として賑わっており、何軒もの旅籠や茶店、遍路宿があった。ここで平穏な暮らしをしていたお馬だったが、翌年の3月初旬、再び騒ぎが起きる。国外に追放されていた純信が商人の格好をして坂本屋を訪れ、お馬を連れ出そうとしたのである。しかしお馬は純信のいうことを聞かなかった。お馬はこの地で暮らすに連れ、人々のぬくもりに触れ、ここで生きていこうと決めていたのだった。その後、お馬は、須崎の地で、庄屋預かりとなった。庄屋の家で、家事や農作業に従事し始めた。その直後から、お馬を嫁にほしいという者が、後を絶たなかった。お馬が気立てがよく驚くほど垢抜けした美人だったからであろう。須崎で数年の歳月が過ぎ、あまたの求婚者中で、庄屋の目にかなった大工の米之助を勧められた。お馬は拒否する自由はなかった。庄屋の仲人で結婚した二人は、須崎の町に新居を構えた。夫は庄屋の見込んだ通りの働き者で、優しかった。二男二女にも恵まれた。長男の徳太郎が10代前半時、旅一座が廻って来て、純信とお馬の舞台を始めた。須崎の街ではかなり話題となり、徳太郎もお馬に小遣いを貰って観に行った。しかし徳太郎は芝居が終わる前に芝居小屋を後にして帰路に着いた。お馬がその訳を聞くと徳太郎は「あんな芝居はよう観ん。坊さんとおなんが抱きおうて、舐め合う たり、吸い付いたりして、しまいに屏風の陰へ入った。もうこれ以上よう観んき、もんて来た。」と言った。お馬は「馬鹿言いな!なんぼ言うたち、あたしゃあ、そんなこたぁせんぞね!そらぁ、金儲けのための芝居屋の作り話よ!」と憤慨し、事実を確かめるべく、翌日芝居を見に行った。お馬が芝居を観て帰って来ると、隣人に感想を聞かれ、「なまじ似いことをするもん よのうし。」と答えたという。

明治18年、徳太郎は東京鴻台陸軍教導団施設建設の大工として採用され、東京へと旅立った。その数ヶ月後、お馬一家も後を追って上京することになるのだが、その直前、お馬は庄屋の家に行き、「お別れの印に」と銀のかんざしをお市に渡した。残念ながらそのかんざしは建て替え時、紛失している。お馬は東京へ転居して18年後の明治35年、次男夫婦に見守られながら息を引き取った。享年66歳、恋多き美少女は、純信が国外追放後、自分に宛ててしたためた恋文の存在を知ることなく、一生を終えた。慶全は柏島に帰り、内妻と暮らしたが、子をなさなかった。そして、明治14年50歳で病死。墓は護念寺の境内にある。

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. 高知市街中心部にあるはりまや橋は、「土佐の高知のはりまや橋で、坊さんかんざし買うを見た」とよさこい節やペギー葉山さんの楽曲「南国土佐を後にして」で歌われている有名な場所ですが、現地は道路の両脇に長さ約 20mにわたって石造りの桁があるだけ、公園整備され朱塗り欄干の小さな橋が架けられているだけで、日本三大がっかり名所の一つ(あとの二つは札幌の時計台と長崎のオランダ坂など)に数えられている。

出典[編集]

関連書籍[編集]

  • よさこい情話 純信お馬(高知新聞社、2001年発行) 
  • 追跡!純信お馬(高知新聞社、2005年発行、ISBN 978-4875033615
  • 高知播磨屋橋恋の簪の実話 : 五台山妙高寺僧純信鋳掛屋於馬の事(国立国会図書館)

関連項目[編集]



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