You can edit almost every page by Creating an account. Otherwise, see the FAQ.

清水地区郷土史

提供:EverybodyWiki Bios & Wiki
移動先:案内検索


Lua エラー package.lua 内、80 行目: module 'Module:Message box/configuration' not found

清水地区の誕生と発展[編集]

【明治以前】[編集]

浜提の誕生[編集]

岡学区の梅蔭寺西方の梅ヶ岡に「小池遺跡」という弥生時代の遺跡が発掘され、約二千年前から人の営みがあったことが確認されています。ここは古くから岡清水と呼ばれる、入江岡から北矢部の南端まで連なる海抜七~八メートルの高台にありますが、弥生人が生活している頃はまだ海面が高く、第三中学校のグラウンドや梅蔭寺付近までは海辺も迫っていたと想像されます。その後一千年ほどの長い年月をかけ、海退とよばれる現象で海面が徐々に下がり、波打ち際である岡清水の浜辺の先に、海流によって運ばれ堆積した砂が新たな微高地を形成します。

こうした長い年月をかけ海岸部に並行して新たに形成されていく微高地の列を「砂州」、もしくは「浜堤」と呼んでいます。清水平野に形成された浜堤列を表したのが「図-2」です。新たな浜堤の出現は、土地の利用と人口の移動のうえで私たちの地域の歴史とも密接な関係にあります。

平安時代末期から鎌倉時代は、④の岡清水浜堤上にある下清水八幡神社のすぐ下に船着場が設けられていたと伝わり、現在の本町、清水町、美濃輪町、松井町がある➄の浜清水浜堤は、まだこの頃は海面から少し顔を出した島状の土地でした。岡清水に住む人々は新しく出来たこの細長い島状の土地を、漁などの営みに徐々に利用し始めます。ただし「村」としての成立はまだずっと後なので、この浜清水浜堤を「岡清水」に対応して「浜清水」と仮に呼ぶことにしましょう。

更に五百年ほど経つと浜清水の土地もかなり増幅して陸地化が進み、室町時代後期から戦国時代には、妙慶寺の創建や船着場があった記録などから、浜清水の利用と移住も増えていたことがうかがえます。その土地に目を付けたのが甲斐の武田氏でした。それ以前の今川氏の交易と軍備を兼ねた港は入江・江尻にありましたが、武田氏は今川氏を退け江尻城(現江尻小付近)を築くと、その水軍施設を浜清水に建設します。それが「袋城」です。

その頃、現在の入船町・富士見町・港町などがある⑥の向島浜堤はまだ出現しておらず、浜清水の袋城は駿河湾に直接面した軍港でした。


北矢部の移動と新たな集落[編集]

一方、有渡山麓の内陸部にもこの武田軍の進攻による大きな変化が起きていました。

平安時代末期の静岡―清水地方に荘園を持ち経済的な基盤として活動していた入江氏の庶流である矢部氏は、有渡山麓の大沢川のつくる扇状地に居を構えていました。武士として南北朝の時代を生きのびた矢部氏は、室町時代後期には今川氏の重臣格として仕えるようになりますが、その頃は矢部の里を離れ、里は北矢部と南矢部にそれぞれ違った領主の知行地となっていました。そして今川義元が桶狭間の露となり、武田氏の駿河侵攻がはじまると、久能山を攻略する為の拠点地として矢部の里は武田氏の支配を受けることになります。北矢部を知行地としていた岡部氏は速やかに武田氏の軍門に下っていたことから、北矢部の領主はそのまま岡部氏が、南矢部には武田氏の家臣が入り所領する形となりました。この時北矢部の里人は耕作地を残して住居は岡清水浜堤の西側へと移動し、新たな集落を形成したといわれています。ここに現在の北矢部町の原型となる新しい北矢部が誕生したのでした。


浜清水村の誕生[編集]

その武田氏も長篠の戦いで織田軍に敗れ天正十年(一五八二)に滅亡します。またこの年、織田信長も本能寺の変に倒れます。慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦いを勝利した徳川家康は江戸に幕府を開くと、将軍の座を秀忠に譲り駿府に入りしました。 駿府城の築城が始まると普請の為に諸国大名が集結し、現在の清水小学校付近に屋敷を構えてお抱えの商人を呼び寄せるなど、浜清水もにわかに活況を呈するようになります。家康は清水を駿府の外港ととらえ、現在の聖母保育園付近に「清水御殿」を築くとその目下の浜清水に軍備と交易を兼ねた新しい港づくりに着手します。「字三ツ山」 (現幸町)には船蔵が設けられ、諸国商人が集められて人口も急増すると各宗の寺院が建てられるなど、現代に繋がる町並が形成されました。商人たちは御殿の建設時や、慶長十九年(一六一四)の大坂の陣において、物資の供給と運搬に協力しました。家康はその功労として、安倍川から富士川までの海から入ってくる諸荷物に関する独占的な営業権を彼らに与えました。以降その商人は幕府公認の四十二軒に限られた特権諸問屋(四二軒の廻船問屋)として清水湊の経済を牽引してゆくこととなります。 大坂の陣にて戦乱の世にもいよいよ終止符がうたれると 軍備の必要性も弱まり、袋城は解体され、浜清水の土地は北端から、上一丁目・上二丁目・本町・袋町・新魚町・本魚町・仲町・美濃輪町による八ヶ町の町割りが完成しました。この頃に検地が行われていることから、浜清水が「浜清水村」として成立したと考えられています。


北矢部の開拓[編集]

同じころ、内陸の有渡山麓では、家康の駿府入りによって増大した人口に対して付近の村々に米の生産が一層求められ、船越付近の開発が進められました。 この開発に際して、大沢川の流路変更が行われました。それまでの大沢川の流れは現在の流れとは大きく異なり、山麓谷間から流れる大沢が扇状地を通過すると現月見町公園の方向へ向かってほぼ真っすぐ流れていました。普段はあまり水量が少ないこの沢も、一雨降れば大きな水となって降りてくるため、岡の台地との間に挟まれた下流域では水はけが悪く、「大沼」と呼ばれた湿地を形成し長い間、矢部の里と岡清水の北矢部との間の通行と開拓の妨げとなっていました。

慶長十四年の北矢部村、今泉村、有東坂村、上清水村による四カ村新田の開発

北矢部と南矢部は、大沼の水はけを解決すべく大沢の川筋の変更を思案していました。 また隣村の今泉村や有東坂村では旱害に備えて山根に堤や溜池を準備していました。 上清水村は堂林の台地まで進出を果たしていたが、平地の開発のためには水利を必要としていました。 各村の利害一致を模索した結果、大沢の中流で北へ川筋を変更し追分方面へ用水路を作ることで、大沼への供給遮断と、上清水の耕作地への水の供給、堤や溜池の水抜きと受け皿の役割を一手に果たす新しい大沢川を誕生させました。

こうした流路の変更の影響もあり、大沼は徐々に埋まり、北矢部の耕作地も岡清水浜堤の西側の低地へと広がっていきました。  元和二年(一六一七)に家康が死去するとその遺言により久能山東照宮に葬られます。その時、入江岡から岡清水浜堤の尾根を南北に貫く小路を広げ、常念川を渡る有渡橋(現在の第三常念橋)が架けられて対岸の村松村と繋がり、宮加三、駒越を経由して久能山へと向かう久能街道が作られました。次第に交通も盛んとなり、北矢部の住居もこの街道よりへと集中し始め、岡清水浜鄭の東側の低地にも耕作が進んで、村の範囲も拡大していきました。


浜清水村から清水町へ[編集]

一方浜清水の港はその後も、江戸を結ぶ中継港としてまた、富士川の舟運で甲信内陸部と繋がって年貢米の江戸への運搬を担い、江戸期を通じて幕府に重要視され絶大な庇護を受けながら発展しました。 経済を牽引する廻船問屋は本町を中心に店舗や蔵を構え、魚類の水揚げ市場である「魚座」は、「おいべっさん」を挟んで新魚町と本魚町の二個所にあり、袋町とあわせて「魚座三町」といわれました。  仲町と美濃輪町には、港の荷の積み下ろしをする「小揚げ」と呼ばれる労働者や廻船業者の客宿。漁師の地域となっていました。 このように浜清水の港は、港湾関係者と漁業関係者で人口の大半を占めるという、港から入ってくるもの以外いっさい生産性を持たない港稼業に特化した地域として発達していきます。 天和元年(一六八一)より、浜清水村が正式に「清水町」という名称に改められ、「清水湊」がその代名詞となっていきました。 こうして江戸時代の私たちの地区には、港稼業の清水町と、農耕を主体とする北矢部という二つの地域が確立し、それぞれ違った生活様式や文化の歴史を歩んでゆきます。


向島という新たな浜堤の出現[編集]

江戸時代に起きた、私たちの地区に起きた大きな出来事をあげると、清水町に於いては、宝永の大地震と安政の大地震、それに伴う清水湊の地形の変化です。 武田氏の袋城があった頃はまだ、巴川の河口は現在の大正橋あたりにあって大きく駿河湾に口を開けていましたが、江戸時代のはじめ頃から江尻海岸側から海流によって砂州が出来て徐々に河口を南下させました。その後幾度かの暴風雨などの影響によりぐんぐんと洲崎を伸ばし、元禄時代(一六九〇頃)には現在の富士見橋付近までに砂州が拡張していました。この新たに出現した土地を、清水町の人たちは〝向う側に出来た島〟として「向島(むこうじま)」と呼びました。 そこへ宝永四年(一七〇七)にマグニチュード八クラスの大地震(宝永地震)が起き、向島はその時の津波と隆起によって現在の港橋付近まで一気にその洲崎を延長させます。 この地震により清水町の湊や船は甚大な被害を受けましたが、幕府の支援を受け素早い復興をしました。 幕府は、清水湊の保護の為、幕府の官費により向島の外海側を石垣で固めその上に波除の松を植えました。 その松の列は昭和の戦前まで残っていて、現在の松原町(浜田学区)の名の由来となっています。 また当時の甲府城主で幕府大老の柳沢吉保の要請で、現在の万世町一丁目付近に甲州の年貢米を江戸に廻送する為の米藏が設置されました。その構内に祀られた稲荷社は後年に美濃輪に遷座され、現在の「美濃輪稲荷」となりました。 さらにその後も向島は海流によって寄りつく砂礫などによって面積を拡大して行きます。 享保年間(一七一六~一七四五)、米将軍と呼ばれた徳川吉宗の時代には甲州の年貢米も増大し、向島に新たな廻送米置場が設けられます。 そして安政元年(一八五四)十一月四日(十二月二十四日)、駿河湾から遠州灘、紀伊半島南東沖一帯を震源とするⅯ八.四という南海トラフ巨大地震「安政の大地震」が起きました。向島の土地は隆起し、外海の海岸が更に広がって巴川の内側も土砂で埋まったため、それまでよりかなり狭い川幅となってしまいました。向島は堤防の役割をしたため、清水町の沿岸は津波による大きな被害こそありませんでしたが火災によって多くの家屋が焼失しました。 幕府の支援、そして町民の努力によって再復興をとげたものの、湊のある巴川の土砂の浚渫は困難を極め、接岸のための船の出入もままならない状態のまま明治維新を迎えることとなりました。


【明治期】[編集]

明治維新と近代化 ~お茶の港の清水港[編集]

鳥羽伏見の戦いで、新政府を掲げる薩長連合軍が徳川幕府軍を破ると、世の中は倒幕へと一気に進みます。もともと幕府の庇護恩恵を受けて発展を遂げた清水町の人々は、複雑な心境でこの状況を見守っていました。江戸城無血開城により徳川慶喜が駿府へ謹慎、徳川家達(いえさと)が駿府藩へ移封となると、江戸の多くの幕臣とその家族が駿府へと移住。清水湊はその受け皿となっていました。この時、街道警固役として治安を任されていた侠客山本長五郎(人呼んで清水の次郎長)は清水町民と共に、移民を炊き出しで迎え、仮住居を斡旋するなど義侠心を発揮しました。 さらにこの江戸幕府の倒壊により、清水湊の廻船問屋はその後ろ盾と独占的営業特権を失ってしまいます。それまで年貢米の廻送といった米中心だった清水町の経済も、新政府による貨幣経済へ移行により大きな岐路に立たされていました。そこで新政府の掲げる富国強兵のための外貨稼ぎに「生糸」と「お茶」が有力である事に一早く対応したのが、四代目鈴木与平(鈴与)や五代目天野九右衛門(天野回漕店)でした。静岡の茶商によって集められた県内産のお茶を清水から、当時諸外国との窓口として開港されて いた最寄りの横浜港へと輸送するため、彼らは大型の蒸気船を購入。それまでの帆船による波風や天候を頼りにした不定期で長時間の輸送から、蒸気動力の安定推進の船舶による大量搬送の時代の先駆けとなりました。 そうなると地震で埋まってしまった巴川内の清水湊から、清水湾内に係留する蒸気船までの艀(はしけ)による搬送に不便を生じることから、向島の外海に新しい港「波止場」を構築する気運が高まってきます。 江戸時代の向島は、その土地争いの結果、入江町帰属の入江受新田(いりえうけしんでん)と清水町帰属の清水受新田(しみずうけしんでん)として、網干場や造船所・塩納屋などの利用はされていたものの、基本は幕府の領地で、御用松林と芝間と砂地でまだ人家などはありませんでした。 明治十一年(一八七八)、先に払下げを受け向島一帯の地主となっていた白井音次郎との土地交換の盟約が成立し、港を構築する「波止場会社」と船舶運営の「博運会社」が設立されました。その翌年の明治十二年に現在の清水港の前身である波止場は完成し、同時に港橋が架橋されて巴川西岸の清水町と向島とが徒歩で繋がる様になりました。港の移動に伴い、倉庫や事務所が建てられ人の往来も増えると、向島にも徐々に移住がはじまります。 明治維新による経済混乱を地元有志らの協力によって乗り切り、清水港は「お茶の港」として新たに生まれ変わり、再び息吹をふき返したのでした。 前図は明治二十二年帝国陸軍測量図より清水地区を抽出。黒色の点及びその密集は居住地を示します。白色の線は主要道。波止場完成から十年が経ち、港橋から波止場への通り(現エスパルス通り)を中心に人家が徐々に増えているのが分かります。 こうして江戸時代に出来た新しい浜堤(向島)への人口の移動が、幕府の支配という長い期間を経て、明治からようやく始まったのでした。 ※この頃はまだ「港町」や「入船町」などの町名は無く、入江受新田(現在の入船町.富士見町付近)と清水受新田(現在の港町・築地町付近)の呼称でした


地元の発展に貢献した「清水の次郎長」[編集]

さて、先に述べた次郎長はどのような人物であったのでしょうか。 清水の次郎長(本名=山本長五郎)は、幕末維新を生きた仁侠の徒。文政三年元旦(壬申戸籍では十二月十日)、駿州有渡郡清水湊美濃輪の高木家の次男として生まれ、長五郎の名を授かる。まもなく実母の弟で同町内に米商を営む山本次郎八の養子となり、「次郎八のところの長五郎」が詰まって「次郎長」と呼ばれるようになりました。 子供のころから気性が荒く、二十二歳で博徒となり仁侠の世界に身を投じ、幕末には東海一円の縄張りと多くの子 分を持った。その道のりは縄張りや面子をめぐる博徒どうしの血を血で洗う様な抗争に明け暮れ、常に捕吏(現在の警官)に追われる毎日で、決して褒められる生き方ではありませんでした。しかしながら、彼の心には並みならぬ義侠の魂があり、仲間を思うこころ、弱い者を助け強いものに立ち向かう正義感や度胸、相互扶助の精神、仲裁能力にも長けていました。この人間的魅力が子分のみならず多くの人の心を引き付け、博徒と言えど決して無視できる存在ではありませんでした。 そんな彼の精神のベクトルが良い方向へと向くきっかけとなったのが、四十九歳で迎えた明治維新でした。鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れ、不在となった駿府奉行に代わり新政府軍の駿府差配役として赴任した元浜松藩家老伏谷如水(ふせやじょすい)は、次郎長にある義侠の心や仲裁能力を買い、混乱する駿府・清水の街道の警固役を授けさせた。この抜擢に次郎長は見事応え、その後に起きる、幕府解体による江戸から駿府への幕臣移民の清水港上陸の際にも、炊き出しや宿の手配、さらには職の斡旋や殖産研究などに奔走。そして明治と改元されて間もない九月十八日に清水湾内で起きた幕府軍と新政府軍による船による戦闘〝咸臨丸事件〟では、戦死し海中に漂う幕府軍の海兵の死骸を、新政府軍のお咎めを恐れず「死ねばみな仏(ほとけ)。仏に敵も味方も無い」と、向島の地(今の築地町)に手厚く埋葬しました。この次郎長の義挙は清水の人々の心に深い感動を刻み、次郎長の人間性を最も発揮した出来事として今も語り継がれています。 江戸城無血開城の立役者で、幹事役として駿府藩にいた山岡鉄舟もまたこの義挙に並みならぬ感銘を受け、墓石に『壮士墓』と揮毫。以降二人は互いの年齢や立場を越え親交を深めました。鉄舟より知遇を得た次郎長は、富士山麓の開墾を手始めに、その後も様々な社会事業に取り組んでいき、中でも地元の発展の為、静岡のお茶を移出する新しい波止場の構築をめざし、静岡の茶商、清水の回漕業者、横浜の輸出商との関係の取り持ちに奔走するなど、近代清水港発展の基礎に大きく貢献しました。近年その活躍が再評価されています。他にも、英語塾の開設や西洋医の招致など、当時としては先進的なことを手掛け、地元の発展を模索しました。 晩年は、波止場に〝末廣〟という二階建て家屋の船宿を建て経営。とはいえ宿の切り盛りはもっぱら妻の〝お蝶さん〟で、次郎長は客相手に武勇伝を語り、それを楽しみに訪れる客や軍人も多かったといいます。 明治二十六年(一八九三)、風邪をこじらせ病に臥し、この末廣にて七十三歳の生涯を終えた。博徒には稀な畳の上での大往生でした。葬儀には三千人を超える長い参列であったといわれています。 なお次郎長は生涯四人の妻をめとり、うち三人に「お蝶(おてふ)」と名乗らせ、戒名は「碩量軒雄山義海居士」。三人のお蝶さんと共に梅蔭寺に眠っています。 地元の古老の言伝えでは、次郎長は用事で旅に出る時は衣類を何枚も着込み財布にもお金を一杯入れて旅立つが、旅先で困った人や弱った人に出会うと衣服や金を与えて、いつも褌(ふんどし)一丁の姿で帰ってきたという逸話があります。 また晩年は、清水銀行に寄ってから本町の商人の旦那衆を訪ねて歩くのが日課で、清水銀行史には、店内のお客相手にサイコロのいかさまの手口を見せて「素人は博打に手を出しちゃいけないよ」とからかったというエピソードが紹介されています。 まちに出歩くと「じんじい(爺さんの事)が来た!」といって子供たちがいっぱい次郎長を囲む。すると、次郎長は子供を抱いたり肩ぐるましたり、最後には懐から飴玉を出して与えるので子供らは大喜びした。次郎長には子供が出来なかった。その分、地元の子供らをよく可愛がった。「次郎長に抱いてもらった」というのが地元の古老の自慢話でした。 次郎長は博徒時代の若いころに数々の修羅場を潜り抜けてきた。明治になってもしばらくは血なまぐさい臭いが残っていたゆえ恐れられていた半面、地域を守り弱者には金や物を与える優しいところがあった。「怖いけど優しい」これが地元の人たちが感じていた次郎長への印象だったようです。 次郎長が全国的に有名になったはじまりは、一時期次郎長の養子となった天田五郎(後の天田愚庵)執筆による『東海遊侠伝』という次郎長の伝記本にあります。これを種本として、明治後期から大正にかけて活躍した二代目神田白が講談に仕立て、その人気が関東一円に広がりました。 そして昭和の戦前戦後を通じ、二代目広沢虎造が浪曲に乗せて唸る「清水次郎長伝」が人気を博し、レコードやラジオによってあっという間に次郎長の名が全国的に有名になって行きます。 昭和三十年代には映画が全盛期を迎え、次郎長役がスター俳優の登竜門と言われるほどでした。いつしか清水の次郎長は「清水」を飛び出し、全国の民衆のヒーローとして、大きく着色された人物像が一人歩きしましたが、その人気の根底にあったのは義理や人情を慕う日本人の心でした。  咸臨丸事件などで見せた義侠心や度胸。弱者への人情というものは正に地元の人々が肌で感じ語り継いできた紛れもないものであります。 江戸時代から明治へと、時代の大きな変革の中、地元清水の発展に情熱を燃やした一廉の人物としていつまでも後世に語り継いでいきたいものです。


清水港改修工事と新開地[編集]

明治三十八年に清水港は開港場となってから、明治四十二年(一九〇五)には茶輸出が横浜港を上回り、清水港が日本一となって名実ともに「お茶のみなと」のアイデンティティを確立しました。港の躍進とともに港湾の埋立てによる人工地化も進み、巴川河口・常念川南岸と中田川との間の干潟は埋め立てられて「清開」という地名が付けられました。松井町と清開を連絡する「清開橋」が常念川に架橋されたのもこの頃です。 ※「清水町が開拓した新開地」をつめて「せいかい」又は「しんかい」と呼びました。 明治四十三年、この清開と三保の弁天島を結ぶ全長五一八メートル、幅三.六メートルの木造橋(羽衣橋)が架橋されました。この架橋によって三保との往来が盛んとなり、宮加三・村松方面からやってくる人と、新田原と呼ばれた今の幸町で合いまみれ、清水町の繁華街へと農産物や海産物を運んでくる人々で次第ににぎやかになりました。 村松原の稲荷神社付近の久能街道沿いの集落からも現在の幸町通りへの人口移動があり商業地化が進みました。 建造当時は、折戸湾の水深は浅く、木造の架橋が可能でした。風にあおられたり、牛や馬などの荷車が通るときはかなり揺れたり軋んだりしたといいます。 風光明媚なこの橋も折からの老朽化と、港湾の更なる近代化のための修築工事の進む中で取り壊され、大正十二年、わずか十四年で寿命をおえたのでした。


軽便鉄道[編集]

静岡茶町(現葵区茶町) から清水波止場(現清水区港町二丁目浪漫館前) まで荷物(お茶) と乗客を乗せた鉄道列車が明治四十一年(一九〇八) より部分開通で運行された。静岡鉄道の電車路線、新静岡から新清水間の路線にほぼ近い所を運行したが、清水では、追分より淡島町内を通り、現入江岡駅辺りで、国鉄東海道線上を橋脚を立てて渡り、現新清水駅から相生町の新世界、旭町のごきげん横丁の飲み屋街を通り、清水区役所東側から鈴与本社前、浪漫館辺りが終点清水波止場駅であった。この鉄道は、お茶の輸出品を静岡茶町より清水波止場まで運搬するのみならず、一般乗客も乗せ、静岡と清水の交通機関としても大いに利用されました。 この鉄道は、停車場として鷹匠町・江尻新道(新清水駅) 清水波止場の三ヵ所で、他はプラットホームも待合室も無い停留所であった。江戸時代末期から軽便鉄道開通までの間、輸出用のお茶を運搬する為に、倍荷車(べかぐるま) と呼ばれた牛車で清水波止場まで運ばれた。明治十年(一八七七) 頃、安部郡安西村百九十戸の約五分の一が牛車営業を行い、内半数が静岡から清水間の貨物運送の特権を持っていました。(德川家康より依頼され、大津宿より駿府にきて、静岡・清水間や他の地区の生活物資等の運搬を生業 としていた。) その後、車輪が改良され、牛車は馬車に変わります。 大正五年(一九一六)七月十日東海道本線江尻駅(現清水駅)から清水港駅まで貨車専用の鉄道が開通し、これを臨港線と呼びました。 大正九年(一九二〇)静岡と清水間に駿遠電気株式会社(現静岡鉄道)が電車を開通し運行しました。以後、軽便鉄道の時代から電車の時代に変革していったのでした。


====新田原のころ====  (幸町 望月義郎さん)

ここらは昔、〝新田原〟と呼ばれていたんです。家の前のにぎやかな通りも、明治末期には二軒半ほどの道で、一抱えもあり柳が並んでいました。その道をねじりはち巻きを締めた増の女衆が、とれたばかりの魚の入ったザルを担ぎ、港橋際の魚河岸までとんでいったもんですよ。それに道端では、荷を背負ってやって来た三保や駒越の人たちが野菜を並べ、町の人たちに売っていましたよ。飲食店も六、七軒あって、三保の人たちでにぎわい、ちょうど小さな宿場といった感じでした。もっとも、道の東側(海側)は低い田んぼでしたから、昭和初期に町名を募ったとき、片側町という説もあったんです。明治末期には近くの芳野さんから〝どんぶら〟を横切って、昔の羽衣橋へ通じる五メートル幅の道も造られたんですが、橋は重宝でしたよ。 [1]


====松井新田から松井町に====

江戸時代の享保年間より美濃輪の南端(現在の清水小学校南門付近)にあった幕府の米蔵周りを、明和から天明のころ清水町の商人の播磨屋作右衛門が田畑に開発。周囲を播州の高砂の松で囲ったことから「松井新田」と呼ばれていました。松井新田は、それまでは美濃輪の持添えの地でしたが、明治時代になってから宅地化が進み、明治二十一年に清水町に合併して松井町と称すようになりました。


====清水小学校の沿革====

清水小学校の歴史もまた明治時代の特筆すべき出来事であります。明治七年(一八七四)に、元幕臣で士族の新井幹(あらいかん)が同じく士族の岩瀬正美とともに、本魚町の成就院に私立学校を設け「明徳舎」と称しました。まもなく静岡学問所の分校として上二丁目にあった藩立学校所と合併し、「公立小学明徳館」と名乗ったのが清水小学校開校のはじまりとされています。 その後、明治十六年(一八八三)。校名を「清水学校」に改め、校舎も上二丁目の地から本町の「字茶園場(現在の清水保育所)」に新築。新井幹が小学校長心得となりました。 明治二十三年には「町立清水尋常小学校」と改称し、明治三十二年の清水港開港場指定等の清水町の発展に伴って著しく増加した人口と就学児童数に対して施設等増設の必要に至り、明治三十八年(一九〇五)に新校舎を松井町の旧幕府米蔵跡(現在の学校地)へ新築しました。 ※学校のシンボル、プラタナスの苗木もこの時植栽。その後も就学児童の増加や教育の多様化に合わせ、敷地の増幅や校舎・施設を充実させながら今日に至り、令和六年(二〇二四)には開校一五〇周年を迎えようとしています。


===【大正期】=== ====第一次造船ブーム====

大正三年から始まった第一次世界大戦によって一時、清水港の貿易も低下しましたが、町会議員らの尽力によって港の拡充工事は継続されました。 そうした甲斐もあり、大戦後には港は活況を取り戻して貿易も拡大しました。戦争によって船舶が世界的に不足していたこともあり、船の建造や修理の需要が増して、三保造船所や金指造船所の大型造船所と共に、清水地区では森田造船所など、港湾や巴川周辺には大小三十ほどの造船所が建って、第一次造船ブームがおきました。 また大正十二年(一九二三)に起った関東大震災では、鉄道交通網が寸断されて船で避難してくる被災者(記録では二万人)を、清水町民は港で炊き出し等で出迎えました。そして何よりも震災で破壊されて機能を失った横浜の代わりに生糸などの輸出の代行や震災復興資材などの外材の輸入などを担ったことは、清水港が国際的な貿易港としての価値を高める結果となりました。


====清水市の誕生==== 大正十三年二月十一日、江尻町、辻村、入江町、清水町、不二見村(北矢部は当時不二見村に属す)、三保村の六ヶ町村が合併し、全国で百一番目の都市として清水市が誕生しました。 市名が「清水市」と決まり、役場は本町の清水小学校跡地(現在の清水保育所)に置かれました。しかし、市制を執行してもその歩みは順調なものでは無く、元来港を中心としてきた清水地区と、宿場を中心に商業や農業を中心としてきた江尻・辻地区という、それぞれの経済・生活基盤の違いから、将来の市の発展をどちらに置くかの主張でぶつかり、「清水市」の名の下での市制に異議をとなえ、江尻町民による市域からの脱退決議や税金の不納運動、小学生の登校拒否など、問題は数年尾を引きました。こうした困難を乗り越えて清水市政が安定してくるのは、ようやく昭和六年(一九三一)になってからのことでした。 そうした間にも、清水市として更なる発展のための近代的都市づくりの計画として幹線道路網の設備を中心とした都市計画が打ち出され、先ず清水駅前から向島を貫き港橋に至る幅員一八メートルの通称「十間道路(じゅっけんどうろ:現さつき通り)」の建設に着手。道路の中央部に静岡鉄道の市内電車を通し、国鉄を跨ぐ「清水橋」が完成 しました。 その他、計画にあった市内の主要幹線道路は次々と完成し、港湾と物資を輸送する道路を備えた現在の臨海港湾都市としての基盤が大正末から昭和初期にかけて出来上がったのでした。


===【昭和期】=== ====「マグロの油漬け缶詰」の輸出==== 新しい「市」の誕生とともに、港湾を中心とした発展基盤を充実させましたが、アメリカの金融恐慌を発端とした世界恐慌の波が日本国そして清水の貿易にも暗い影を落としていました。不景気の中、好調だった茶やミカンの輸出が突如落ち込み、港の活気は冷え込みました。こうした状況を打開する輸出の新しいエースとして登場したのが、「マグロの油漬け缶詰」でした。 マグロの缶詰はアメリカ向けに好評でしたが、原料のビンナガマグロの漁が夏場に限られ、冬場の生産と輸出が出来ない問題を抱えていました。 昭和五年、清水食品(現SSK)の六代鈴木与平は、冬場のミカンをシロップ漬けの缶詰にすることで、年間稼働を可能とし企業の採算性を確立します。この成功に後続の企業が相次ぎ旗揚げし、翌六年には後藤缶詰(現はごろもフーズ)、七年には櫻田缶詰(現サスヨ櫻田産業)が誕生しました。その他清水地区には後に、柴田缶詰や杉山食品などの中小の缶詰会社が続き、今日の「缶詰王国」の先駆けは私たちの地区から誕生して行きました。

※建築の清水食品社屋は現在フェルケール博物館敷地内に移築の缶詰博物館としてその歴史を現在に伝えています

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. (出典『まちの想い出』昭和六〇年清水市広報課発行より)


This article "清水地区郷土史" is from Wikipedia. The list of its authors can be seen in its historical and/or the page Edithistory:清水地区郷土史.



Read or create/edit this page in another language[編集]