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海軍三長官

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海軍三長官(かいぐんさんちょうかん)とは、大日本帝国海軍海軍大臣軍令部総長連合艦隊司令長官の3つの職のこと[1]。戦後に出版された書籍に使用例が見られ、特に、この3つの職を全て経験した唯一の人物である永野修身に言及する場合に使用例[2][3][4]が多い。海軍三顕職[注 1]海軍の三役との表現もある[7]

概要[編集]

日本海軍における海軍大臣・軍令部総長・連合艦隊司令長官の三職は、いずれも現役の大将・中将に限られた職位で、日本陸軍における平時の最高ポスト陸軍三長官に相当するものとも評価される[8][注 2]生出寿は、海軍の役職のうちで海軍大臣・軍令部総長・連合艦隊司令長官を海軍の三大権力の座と評価し[9]、これらの三職は、いかなる場合にも最適任者である必要があったと論ずる[10]

海軍大臣・軍令部総長・連合艦隊司令長官は、いずれも天皇に直隷しており、上司・部下の関係にない並列した立場であった[11]。しかし、職務の遂行上は三者が対等の立場ではなく、海軍大臣軍政の最高職であり、連合艦隊司令長官以下の各艦隊司令長官などに対して、軍政に関しての指揮権を有していた[11]。他方、軍令部総長は、統帥権を有する最高指揮官である天皇を補佐するためのスタッフの建前であるが、軍令すなわち軍事作戦上の指揮命令に関する事実上の最高職であり、天皇直隷のラインである連合艦隊司令長官以下の各艦隊司令長官などに対して、「指示」として実質的な作戦命令を発することができた[12]。連合艦隊司令長官は、軍政面では海軍大臣の指揮を受け、作戦計画に関しては軍令部総長の指示を受ける立場であり、人事上も軍令承行令において軍令部総長よりも下位となる者が補職されていたが[13]、海軍の主力部隊の最高指揮官であり、海軍の兵科将校にとって最高の憧れの地位だったと評される[14]。海軍の三長官のうち、連合艦隊司令長官は政治に一切関与しなかった[15]

日本海軍では、伝統的に軍政が軍令に対して優位であった[16]。明治時代前半の日本海軍の軍令機関は、兵部省海軍軍務局から海軍省軍務局、海軍省軍事部と、軍政機関である兵部省・海軍省の一部門として位置付けられ、海軍卿・海軍大臣の下に軍令機能と軍政機能が一元的に統一されていた[17]。これは陸軍において軍令機関である参謀本部が早くから独立して二元化したのと異なっている。1886年(明治19年)に参謀本部が陸海軍統合の機関となり、その下に海軍部が発足したことで、海軍においても軍令機関が軍政機関から独立して二元的な組織となった[17]。その後、1889年(明治22年)に海軍の軍令機関は海軍大臣の下の海軍参謀部に改組されて、再び軍令と軍政が一元化されたが、最終的に1893年(明治26年)に海軍軍令部が発足し、その最高職として海軍軍令部長が設置されるに至った[18]。もっとも、海軍軍令部の発足後も、第一次世界大戦時に軍令部条例が改正されるまでは、大本営が設置されない限り、天皇の作戦命令は海軍軍令部長ではなく海軍大臣から各部隊に伝達されるものとされ、海軍大臣が軍令にも関係する権限を有し、海軍省が海軍軍令部に対して主導権を保っていた[19]

1933年(昭和8年)に軍令部条例改正により海軍軍令部が軍令部に改称して権限が拡大されたのに伴い、海軍軍令部長も軍令部総長に改称された。人事権は海軍大臣の権限に留められたが、参謀の人事については軍令部と協議し、それ以外の兵科将官・艦船部隊指揮官の人事についてもこれに準じる取決めがなされた[20]。この改正に際しては、当時の軍令部長で、東郷平八郎と並んで元帥かつ現役最長老であった皇族伏見宮博恭王が、非常に大きな役割を果たした。昭和期においては海軍の方針や最高人事に関しては、伏見宮の同意を得るのが慣例となっていた[20]。同じく1933年にそれまで臨時の機関だった連合艦隊も常設化されて連合艦隊司令長官の職も常設となり[21]、海軍三長官の地位が揃った。

海軍軍人は、一部を除き、軍人が政治に関わることを禁じた軍人勅諭を守っていた[22]。唯一、現役の海軍中将または海軍大将が就任する海軍大臣のみは、内閣官制によって政治への関与を公に認められていた[22]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. 雨倉孝之は、海軍大臣・軍令部総長・連合艦隊司令長官を「海軍の三顕職」と表現する[5]。他方で、日本海軍の俗語として、連合艦隊司令長官・軍艦の艦長・海軍兵学校の最上級生徒のことを「三顕職」と呼んだとも述べている[6]
  2. 秦郁彦(編著)『日本陸海軍総合事典』(第2版) 東京大学出版会、2005年では、「主要陸海軍人の履歴」の採録基準の一つとして「陸軍三長官、海軍大臣、軍令部総長、連合艦隊司令長官経験者全員」を用いている。

出典[編集]

  1. 北村(2002年)、164-165頁。
  2. 秦郁彦 『昭和史の軍人たち』 文藝春秋、1982年、47頁。
  3. 雨倉(2015年)、262頁。ただし同書では「海軍の三顕職」としている。
  4. 川口素生 『太平洋戦争 海軍提督100選』 PHP研究所、2015年、「永野修身」の節。
  5. 雨倉(2015年)、281-282頁。
  6. 雨倉孝之 『帝国海軍士官入門』 光人社〈光人社NF文庫〉、2007年、358頁。
  7. 豊田穣 『私論連合艦隊の生涯』 光人社、1989年、25頁。
  8. 古川利昭 「陸海軍将官六千人の分析」『増刊 歴史と人物』 中央公論社、1984年、231頁。
  9. 生出寿 『昭和天皇に背いた伏見宮元帥―軍令部総長の失敗』 潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2016年、85頁。
  10. 生出寿 『凡将 山本五十六』 潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2018年、12頁。
  11. 11.0 11.1 雨倉(2015年)、273-275頁。
  12. 雨倉(2015年)、254-256頁。
  13. 雨倉(2015年)、257頁。
  14. 雨倉(2015年)、260頁。
  15. 北村(2002年)、166頁
  16. 雨倉(2015年)、259頁。
  17. 17.0 17.1 野村(1985年)、32-33頁。
  18. 野村(1985年)、34頁。
  19. 野村(1985年)、40頁。
  20. 20.0 20.1 吉田(1983年)、21頁。
  21. 野村(1985年)、41頁。
  22. 22.0 22.1 奥宮 1993, pp. 189-190, 終章 遂に迎えた破局 - 四 戸惑った敗戦処理 - 天皇の御裁断

参考文献[編集]

  • 雨倉孝之 『帝国海軍将官入門』 潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2015年。
  • 奥宮正武 『日本はいかに敗れたか(下)』 PHP研究所、1993年。 
  • 北村恒信 『戦時用語の基礎知識―戦前・戦中ものしり大百科』 光人社〈光人社NF文庫〉、2002年。
  • 野村実「概説 軍令部と連合艦隊の変遷」『歴史と人物』 中央公論社、1985年。
  • 野村実『山本五十六再考』 中公文庫、1996年、ISBN 978-4-1220-2579-0
  • 吉田俊雄 『四人の連合艦隊司令長官』 文藝春秋、1981年。
  • 吉田俊雄『五人の海軍大臣』 文藝春秋、1983年。
  • 吉田俊雄 『四人の軍令部総長』 文藝春秋、1988年。

関連項目[編集]


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