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彦根城

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彦根城(ひこね じょう)は、近江国犬上郡彦根(現在の滋賀県彦根市金亀町)にある城。江戸時代には彦根藩の政庁が置かれた。天守、附櫓及び多聞櫓は国宝、城跡は特別史跡かつ琵琶湖国定公園第1種特別地域である。天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は犬山城、松本城、姫路城、松江城)。彦根八景・琵琶湖八景に選定されている。

概要[編集]

江戸時代初期、現在の滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、鎮西を担う井伊氏の拠点として築かれた平山城(標高50m)である。山は「金亀山(こんきやま)」の異名を持つため、金亀城(こんきじょう)とも呼ばれた。多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城であった。

明治時代初期の廃城令に伴う破却を免れ、天守が現存する。天守と附櫓(つけやぐら)及び多聞櫓(たもんやぐら)の2棟が国宝に指定されるほか、安土桃山時代から江戸時代の櫓・門など5棟が現存し、国の重要文化財に指定されている。中でも馬屋は重要文化財指定物件として全国的に稀少である。一説では、大隈重信の上奏により1878年(明治11年)に建物が保存されることとなったのだという。

天守が国宝指定された5城の一つに数えられる。姫路城とともに遺構をよく遺している城郭で、1992年(平成4年)に日本の世界遺産暫定リストに掲載されたものの、近年の世界遺産登録の厳格化の下、20年以上推薦は見送られている。

滋賀県は明治の廃城令で解体された城が多く彦根城は唯一の保存例である。

歴史・沿革[編集]

江戸時代[編集]

徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。佐和山城は「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」と言われるほどの名城であったが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌ったという。このため琵琶湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画していたが、関ヶ原の戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去した。家督を継いだ井伊直継が幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して直政の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に面した彦根山(別名、金亀山)に彦根城の築城を開始した。

築城には公儀御奉行3名が付けられ、尾張藩や越前藩など7か国12大名(15大名とも)が手伝いを命じられる天下普請であった。1606年(慶長11年)2期までの工事が完了し、同年の天守完成と同じ頃に直継が入城した。大坂夏の陣で豊臣氏滅亡後、1616年(元和2年)彦根藩のみの手により第3期工事が開始された。この時に御殿が建造され、1622年(元和8年)すべての工事が完了し、彦根城が完成した。その後、井伊氏は加増を重ね、1633年(寛永10年)には徳川幕府下の譜代大名の中では最高となる35万石を得るに至った。

なお、彦根城を築くにあたり大津城、佐和山城はじめ近江国の諸城を移転や破却をし、城の建設物に利用したとされる。結果として彦根藩には彦根城しか残らず、大老も出す譜代筆頭の井伊氏が諸大名に一国一城令を守る手本を示した格好になった。筆頭家老・木俣家は1万石を領していたが、陣屋を持たなかったため、月間20日は西の丸三重櫓で執務を行っていたという。徳川統治下の太平の世においては、城郭という軍事施設の存在理由がなくなり本来の目的とは違った使われ方をしていた。西国大名の抑えとして徳川幕府の重要な軍事拠点だった彦根城だが、主な機能は政治の舞台や年貢米の保管となり天守や櫓は倉庫等として使う以外には使い道はなかった。

1854年(安政元年)に天秤櫓の大修理が行われ、その際、石垣の半分が積み直された。向かって右手が築城当初からの「牛蒡積み」、左手が新たに積み直された「落し積み」の石垣である。

幕末に幕府大老を務めた井伊直弼は、35歳で藩主となるまでこの城下町で過ごしている。その時に住んだ屋敷は「埋木舎(うもれぎのや)」として現存している。

明治時代[編集]

明治維新後、廃藩置県によって各藩の城郭はそれまでの機能を失い、建築物としても「無用の長物」となり、その多くが廃城令により廃城となったが、彦根城は当初陸軍省管轄下の施設となったため維持された。しかし老朽化していたため、結局民間へ売却されて破却される予定となったが、明治11年の明治天皇の彦根行幸の際に供奉していた参議大隈重信が天皇に働きかけた結果天守や櫓の保存が決定し、さらに陸軍省管轄の施設から皇室付属地彦根御料所となり、最終的には最後の彦根藩主であった井伊直憲に下賜されて保存された。

昭和時代[編集]

  • 1934年(昭和9年)、築城以来徳川幕府の要の役割を果たしていた彦根城には桜が植えられていなかった。これを憂いた彦根町会議員の吉田繁治郎が観光のシンボルとしてソメイヨシノの苗木1,000本を城内に植樹した。
  • 1944年(昭和19年)、井伊家から彦根市へ、彦根城およびその一帯が寄付される。
  • 1945年(昭和20年)、8月15日夜に連合国軍が彦根市を夜間爆撃する予定であったが、同日正午の終戦の詔勅により日本の降伏が発表され、爆撃は行われなかった。
  • 1951年(昭和26年)、「彦根城跡」として国の史跡に指定、天守等6棟が重要文化財に指定された。
  • 1952年(昭和27年)、前年重要文化財に指定された6棟のうち、天守(1棟)と附櫓及び多聞櫓(1棟)の2棟が国宝に指定された。
  • 1956年(昭和31年)、「彦根城跡」が特別史跡に指定された。
  • 昭和の大修理
    • 1957年(昭和32年)~1960年(昭和35年)、天守、附櫓及び多聞櫓の修理、
    • 1960年(昭和35年)~1962年(昭和37年)、西の丸三重櫓と二の丸佐和口多聞櫓の解体修理。
    • 1965年(昭和40年)~1968年(昭和43年)、馬屋などの解体修理。
  • 1963年(昭和38年)、馬屋が重要文化財に指定された。
  • 1987年(昭和62年)、彦根市市制50周年として表御殿表向が外観復元(鉄筋コンクリート構造)され、「彦根城博物館」として藩政時代の調度品・武具などが展示されている。又、奥向は発掘調査を経て「平面図」と「起こし絵図」に基づき木造復元された。

平成時代[編集]

  • 1993年(平成5年)7月1日~1996年(平成8年)12月、平成の大修理。天守・附櫓および多聞櫓の屋根の葺き替えと壁や漆の塗り替え、木材の腐食部分補修、唐破風飾金具の金箔押し直し、西の丸三重櫓と続櫓の屋根の葺き替えと壁の塗り替えなどの修理が行われた。
  • 2005年(平成17年)~2008年(平成20年)、石垣の構築調査や石材調査、崩落調査、歴史調査・整理等が行われ、今後の管理・修理に向けての石垣台帳が作成された。
  • 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(50番)に選定された。
  • 2007年(平成19年)、国宝・彦根城築城400年祭が行われた。
  • 2012年以降、堀に自転車(多くは盗難自転車)を投棄される被害が相次いでおり、問題となっている。
  • 2014年8月、台風11号の影響で天秤櫓の漆喰が2箇所が剥がれ落ちた。
    • 9月14日:築城以来初めて夜間の入城で一般開放された。
    • 11月:全国城サミットが開催された。
  • 2015年(平成27年)4月24日、「琵琶湖とその水辺景観- 祈りと暮らしの水遺産 」の構成文化財として日本遺産に認定される。
  • 2015年12月:大正時代の航空写真が発見され当時はまだ埋められていない堀の様子などが判明した。
  • 2017年:「国宝・彦根城築城410年祭」が行われる。
    • 同年1月:外堀の発掘調査で切通口御門の礎石と石垣が発見された。

令和時代[編集]

  • 2020年(令和2年)2月27日 - 新型コロナウイルス感染症の流行により休城、6月15日に再開。
  • 2023年11月11日~ - ユネスコ指針遺産と創造性に基づき天守にプロジェクションマッピングを投影するユニークベニューを実施(11月18・19・23・24・25日及び12月2日)。

世界遺産登録へ向けて[編集]

  • 1992年(平成4年)10月1日 - 日本の世界遺産候補第一号としてユネスコ世界遺産センターの暫定リストに掲載
  • 2000年~2002年 - ユネスコが世界遺産周辺(緩衝地帯)における景観修繕を求めるようになったことをうけ、滋賀県と彦根市が関西電力と協力し、内堀沿いの電柱約40本とそれに連なる電線を撤去し、電線類地中化を実施。国内の世界遺産登録地・候補地の中でもこれだけの規模での修景を行ったのは初めての事例で、ユネスコも高く評価。将来的には防災の観点からも城周辺の市街地(城下町)全ての地中下を目指す。
  • 2007年1月23日 - 前年に文化庁が実施した世界遺産候補地公募の選定結果発表に伴う今後の世界遺産の在り方・方向性をまとめた文化審議会の世界文化遺産特別委員会が、「既に世界遺産に登録されている姫路城との違いを明確にする必要がある」「候補地公募に名乗りを上げた松本城なども含め、"近世日本の木造天守閣式城郭"といった枠組みで姫路城の拡張登録を目指すのも一つの手段ではないか」という見解が示されたが、姫路市が「拡張登録は考えていない」と拒否。この文化審議会の指針をうけ、市役所企画推進部が「彦根城の世界遺産登録を推進する方策を考える懇話会」を開設し、登録に向けての本格的な思案を開始。
  • 2008年4月 - 市教育員会文化財部に「彦根城世界遺産登録推進室」設置、推薦書素案の作成などを開始。
  • 2008年9月 - 文化審議会が示した”姫路城を中心とした日本の近世城郭群”案に関し、「一定の方向性が見えた段階で準備を進めるべき」との検討結果をうけ、松本城に犬山城を加え、松本市・犬山市との共同推薦に関する「国宝四城近世城郭群研究会」を発足。
  • 2009年 - 懇談会が「彦根城世界遺産推進委員会」に改称。
  • 2011年9月 - 文化遺産分野におけるユネスコの諮問機関国際記念物遺跡会議(イコモス)の国内委員会が現地視察し、移築された城という文化資材の文化循環があること、姫路城には残されていない御殿や厩などがあり武家文化の総体がうかがえる、琵琶湖やそこに繋がる水路なども包括した文化的景観を目指す手法もあるのではとの助言をうける。
  • 2012年11月 - イコモスの研究者を招聘して現地視察を行い、姫路城には見られない複雑な堀や城下町の都市機能が注目に値するとの助言を得る。
  • 2014年6月 - 副市長がパリのユネスコ本部世界遺産センターを訪ね、封建領主の精神的・文化的生活のような方向性で考えるのがよいとの助言を得る。
  • 2014年8月 - 県と市の「世界遺産関連連絡調整会議」と作業グループを設置(市の「彦根城世界遺産推進委員会」が併合解散)、新しいコンセプトを「近世大名の城と御殿」として御殿も包括。
  • 2015年1月 - 副市長が世界遺産センターを再訪し、国際比較としてヨーロッパおよび近接する韓国の城で行うべき、従来の歴史学・建築学に加え美術史の視点も織り込むべき、城下における武士のみならず寺社や庶民を含めた社会的調和の文化的シンボルの役割を追及すべき、都市化している市街地との景観落差について見解を展開すべきなどの助言を得る。
  • 2015年7月 - 松江城が国宝に指定されたことをうけ、国宝四城研究会に松江市も参加し、姫路城を含む「国宝五城」の世界遺産登録を目指すことに。
  • 2016年 - 市が彦根城の単独登録を目指すとして国宝四城研究会を離脱。
  • 2016~2017年 - 複数の海外の研究者を招聘し協議を重ね、自然との関わりや宗教観なども考慮すべき、屋外広告物の規制など景観保全の取り組みも進めるべきとの助言を得、「水都彦根」の指針を示す。
  • 2017年 - 市が「有識者による学術検討委員会」を設置。
  • 2018年 - イコモスの「城塞・軍事遺産国際学術委員会(イコフォート)」を招聘しての国際会議を開催し、天守のほか大名庭園や城下町の武家屋敷などと一体とした「江戸期の武士の統治を表す複合体」をコンセプトに2024年の登録を目指すことを表明。但し、2015年に登録された明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業の構成資産に萩城下町が含まれており、そちらとの差別化を図る必要性も指摘された。
  • 2020年3月 - 暫定リスト掲載から四半世紀以上を経て、2022年の登録審査を目指し初めて推薦書原案を文化庁に提出したが、コロナウイルス感染症による影響で国内候補地の選定が行われないことになった。
  • 2020年4月 - 県が文化財保護課に「彦根城世界遺産登録推進室」設置。
  • 2020年5月 - 県と市による「彦根城世界遺産登録推進協議会」設置(県と市の「世界遺産関連連絡調整会議」と作業グループが統合解散、両登録推進室の協力体制)。
  • 2021年3月 - 2023年の登録審査を目指し改めて推薦書原案を再度提出するも、金を中心とする佐渡鉱山の遺産群(正式推薦に向け佐渡島の金山に名称変更)が選定された。
  • 2021年6月14日 - 彦根市長が市議会定例会の一般質問の回答の中で彦根城が暫定リスト入りしてから30年近く過ぎたことに触れ、2024年の登録を逃した場合、これ以上の労力や資金を掛けることは避けたいと発言。運動打ち切りを示唆。
  • 2022年6月 - 2024年の審査審査を目指して推薦書原案を再々提出するも、8月3日になり文化庁が彦根城の2024年の登録審査希望を1年延期し、2025年に変更する旨を通知。これは2023年に審査予定だった佐渡金山が書類不備のため審査が1年順延となり、さらに2022年開催予定であった第45回世界遺産委員会がロシアによるウクライナ侵攻で開催が1年延期となり(委員会開催国がロシアだった)、佐渡の審査が2024年に繰り下がったことが影響した。
  • 2023年3月15~17日 - 彦根城の評価として足らないものの一つとして海外との比較研究や国際的な評価の視点があることから、韓国とフィンランドの研究者を招聘し視察と議論を実施。これを踏まえ「江戸幕府成立後に建てられ、戦に一度も使われることがなかった"平和の時代の象徴"」という新しい価値観を打ち出し、「平和の砦」を憲章として掲げるユネスコへのアピール材料とする。
  • 2023年7月4日 - 文化審議会が彦根城の扱いについて、同年から運用が始まった事前評価制度(プレリミナリー・アセスメント)を利用する方針を示した。これは推薦物件の学術的価値を審査する諮問機関(文化遺産の場合はイコモス)が推薦希望物件を推薦前に調査して是正指摘事項などを指導することで登録しやすくするもの。但し、推薦には向かないと示唆される可能性もあり、そうなると推薦は絶望的になる。本年の事前評価制度への申込期限が9月15日で、そこから各種調査調整や制度上の都合もあり、登録審査に漕ぎ着けるには最低でも4年を擁し、最短で2027年になる。
  • 2023年9月5日 - 事前評価制度での推薦書をユネスコへ提出。結果は2024年10月1日までに通達される。


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