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古関すまこ

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古関すまこ
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国籍 日本の旗 日本
職業 舞踏家
振付家

古関 すまこ(こせき すまこ) 舞踏家、振付家。早稲田小劇場、VAVスタジオを経て1977年渡仏。ナンシー演劇祭、アヴィニオン等で注目され、グロトフスキー、Ph.アドリアンらと交流。バロー劇場、コメディー・フランセーズなどで活動。西欧の明晰な舞踊論・演出法と日本的《気》の身体技法との統合、《美と錯乱、悲劇性と道化性》などの出会う地平で、独特の舞踏スタイルを生み出す。

経歴[編集]

東京大学文学部卒。

1971年、早稲田小劇場に参加。鈴木忠志に師事。日本的身体技術、表現論、演劇論を学ぶ。

1974年、VAVスタジオ三浦一壮に舞踏を、坪井香譲に「新体道」を学ぶ。『獣道』『遠眼鏡』(1975)に出演、振り付け助手を務める。

1977年、フランス、ナンシー国際演劇祭招聘参加、グロトフスキーらと共同作業。

1982年、結婚・出産を経てソロ活動再開後、 パリ、アメリカンセンター講師。

1985年-1988年、パリ市芸術振興協会講師 (当時のパリ市長ジャック・シラク氏より勲章授与)

1988年、アヴィニオン演劇祭にて«Artaud Ange Déçu (堕天使アルトー)»を発表し注目を受ける。

1990年、B・ノエル作『聖餐の城』(1968年に発禁のエロティック文学の再刊記念公演)パリ、バタクラン劇場公演。太陽劇団出身気鋭の男優フィリップ・レオタールの相手役となる。

1993年、アンリ・ミリショー作 « Espace aux ombres (影の空間) »。ラ・クリエ劇場、ルノー・バロー劇場公演。ジャン‐ルイ・バローやカミュなどと親交のあった名優カトリーヌ・セレルスと共演。

1995年、パリ郊外イブリー市立劇場にて« Corps »上演。マクベスに題材を得て共同演出、振付け・出演。コメディー・フランセーズヴュー・コロンビエ劇場にてジャン・ジュネ作『女中たち』振り付け担当(テンペスト座,Ph.アドリアン演出)。

1996年、エクサン・プロバンス大学演劇科講師。

1996年-1997年、ヒップホップグループtraction avant compagnieと共にフランス各地、カナダ公演ツアー。

2000年『女中たち』好評につきコメディー・フランセーズ、リシュリュー劇場にて再演される。アヴィニオン演劇祭およびミモス演劇祭参加。南仏セヴェンヌ山地で野外ワークショップ。

2001年、世界文化会館(パリ)にて、新旧の日本紹介(舞踏Tzigan Japanすまこ上演と筑紫舞紹介)。

2002年、俳優座共同作品イヨネスコ « Macbeth »振付け・出演。ルーマニア等ヨーロッパ公演。駒澤大学教職課程非常勤講師となる。

2004年、「蓮華考」(シアターχ)、

2006年、第七回シアターχ国際舞台芸術祭に「情動的複合体」で参加。

2007年、シャイヨー国立劇場にてドミニク・デュピュイ振り付け作品、ドイツ表現主義と舞踏の出会い« Regard par-dessus le col (峠の向こうに見た世界) »に出演。

2008年より、アヴィニオン冬季ダンスフェスティバルに参加。ソロ作品« Femme sans Visage(百顔女) »でチェコ、ギリシャ、フランス、イタリア公演ツアー。

2009年より、放送大学講師。

2010年、第九回シアターχ国際舞台芸術祭に「MC,MC」で参加。

2012年、アヴィニオン冬季ダンスフェスティバルに公式招聘され Les Penitants Blancs 教会チャペルにて公演 ”Et puits...et puis ? » 。第十回シアターχ国際舞台芸術祭に「私という現象は」で参加。

2014年、シアターχにて『動物たちのバベル』アレンジ公演演出・振付け。カントール研究会にて土方・カントールの比較研究講演。

2015年、 岡山市に移住。

2016年、 岡山ルネスホールにて『ロバの夢』(シェイクスピア『真夏の夜の夢』の舞踏的解釈。4人の役者とダンサーによる)公演。ギリシャ、アテネ舞踏ワークショップより「王女メディア企画」発足。

2017年、岡山西川アイプラザにおける「西川図鑑ー舞踏の森図鑑」にてソロ『裏側の表』および子ども二人を含む4人公演『グリムの森で』上演。

現在は放送大学客員教授などを務める一方で、日欧を行き来し公演、ワークショップ、振付等を行っている。

新聞評[編集]

●スマココセキは魂でありパフォーマンスそのものである。衝撃的な表現力に満たされた強い力に、肉体は一瞬のはかない人間存在を超えた地点にたどり着く(ファン・エクスプレスシ1988) ●舞踏はこのダンサーの人生の物語そのものに刻み込まれている。すなわち決別と革命とが・・・。(プロバンサル紙1988) ●まれに見る大きさを持った荘厳な踊りの舞台。今晩観客はこのアーティストの魂の表出に立ち会う体験をした(ル・ペイ紙1989) ●名優カトリーヌ・セレルス盲人だけが持つことのできる幻視力、それはミショーの言う「中にも外にもある空間」「釣り上げられた魚が思う水」を思わせるの長年の念願、アンリ・ミショーの『影の空間』の舞台化は、舞踏家スマココセキとの出会いによって可能となった。(1993年ルノー・バロー劇場でのミショー舞台化の際。ル・モンド紙、高名な文化記者ミッシェル・コルノーによる) 「母親の胎内から切り離された瞬間から人は懐かしく大きなものを希求する。フランスにも日本のも完全には帰属できない感じを持ちつつより大きなものへの帰属を希求している。舞踏はその道の中にある・・・」(2000年アビニオンフェスティバル中ル・モンド紙のインタビュー記事) 高貴なる白い婦人から老女にまた幼き少女へ、あるときは能舞台のあるときはフラメンコの動き・・・(アルトーの『演劇とその分身』にならって)『スマコとその分身』たちが次々と現れる(2012年アビニオン冬季ダンスフェスティバルにてプロバンサル紙)

古関の舞踏論[編集]

《暗黒の真意は光》― 30年のヨーロッパと日本    

舞踏の初期の形態を学んだあと30余年をヨーロッパで活動してきた古関は、その間日本の社会・文化の推移によって変化して現在に至っているその他の流派とは、基盤とする舞踏理論においても創作方法においても異なる点が目立つ。

○まず「突っ立った死体」「暗黒」などの舞踏の中心概念は誤って理解されることが多いと指摘する。たとえば「真の闇は光でいっぱい」[1]「空虚のように、いきいきとして」のように一見反対概念に見える二者の結びつきこそ舞踏の特異性なのだが、それが理解されにくいのだろうと言う。そのため提起の半分だけにもたれて「ジーッと自分の内部を暗そうに見つめる」「技術は関係ないとしていわゆる自分らしい表現をめざす」などの誤解に結びついているのではないかと分析する。

○近年のアール・ブリュット(「生の芸術」英語名は「アウトサイダー・アート」)の動き、あるいは例えばダウン症の書家金澤翔子の書などの前で我々が受ける名状しがたい感動。理性で仕分けされる以前の混沌の原石のような輝きは、力・美しさに満ち、空っぽによる啓示により「正しい・あるべき形」にすら近づく。舞踏はこの豊かな非理性の「積極的な価値」を宣言しているのであって、理性的管理社会に身を置いたままの消極的抵抗としての悪ぶりや自分勝手なデタラメとは根本的に異なると言う。

○この近世以降の人間主義・個人主義・理性中心主義全体への根底的な問いかけは、アタマの哲学論議ではとらえられないカラダの無意識の領分である。筋肉・神経・血流・ホルモンなど自律神経のレベルからの演技を求めたグロトフスキーと「感情と身体が一致する(子供のような)状態」を求めた土方はその点では同じ希求を持っていた。

○具体的な踊り方に関する土方の指示「あっという間の速さ、空っぽのたえざる入れ替え」[2]、「正確な形・精緻な技術」[3]などはそうした自律神経や視床下部の反応として、舞踏理論と必然的に結びついている。しかしこれらの指示は読み過ごされたり文学的解釈で終わったりしているうちに、実際には逆の「ゆっくり(速さなき)持続した(入れ替えなき)不定形の(正確・精緻を書いた)踊り」を舞踏と見なす傾向が生まれている。

古関は原初の舞踏を学び、その後30余年ヨーロッパの演劇・ダンス界で舞踏の位置を確認してきた経験から、独自の訓練や創作を続けようとする。

○現在一般の観客から「暗い・奇怪・分かりにくい」と離れられる傾向に対し、古関は「祝祭というスペクタクルの原点を求める舞踏[4]だからこそ面白くなければいけない」とする主張を持ち、それがフランスでも高い評価につながってきた。近年は日本でもシェイクスピア作品やグリム童話などに想を得た公演に挑む[5]

脚注[編集]

  1. 「どんな世界の出来事もおれの無知にはかなうまい。永遠の昼間。暗いオシイレの中でそう考えた。真の闇の中は光でいっぱいである。」(土方巽『未発表草稿』以下傍線筆者)という舞踏創始者土方巽の言葉による。西洋17世紀の「光(=理性)の世紀」以来、非理性は「暗黒」として「恐ろしさ・悪」に結び付けられてきたが、土方らはその逆転を試みた。    
  2. 「躓き転ぶ寸前にあっさり花になってしまう」「行為は息のむ間もなく私どもを貫通してしまう…空虚のように、いきいきとして」 (土方巽『病める舞姫』) 「過度の充足、突然の闖入によって器は空っぽになり…舞踏は空っぽの絶えざる入れ替えである。」(土方巽『美貌の青空』) 思考から逃れることが困難な人間であるが、その方法の一つが「あっという間・息のむ間もない」速さによって「空っぽ」になることである。「危機」に際して蘇る動物や子供の(アタマを介さない)直接反応である。その空っぽも継続するとダレて意識野に上りがちだからすぐに捨てて新しくせよ、「空っぽのたえざる入れ替え」をせよと言う。
  3. 私の踊りには失敗というものが許されていない。見なくても分かるもの、照明も音楽も表現の問題も一挙に解決できるものがある。ハプニングは不正確だからいやだというのです。」「モダンダンスが一度だってバレエを超えたことはない。優雅さといい、精巧さといい…」(『対談集』) 空っぽの非理性の場に啓示のように「あるべき正しい形、なすべき行為」は現れる。自己満足的なデタラメではなく、反対に初期の舞踏は「ハプニングはいやだ」と言い切りバレエと等価な優雅・精緻を目指していたことを銘記すべきであろう。
  4. 「昔は祭礼だとか、祭るものがあったから人が集まった、いまはないわけですよ」「何万年もの歴史の中で、人間ははぐれてしまった。飼いならされてしまうわけですね。」「子供はできるだけはぐれたものに出会おうとする」(以上『対談集』) 「精神が『自然』の内部に悪霊を見出すほどに生き生きとしていた時代の古代的感受性の現代的再生」(未発表草稿) 今や世界に流布ししばしば誤解を受けている「突っ立った死体」の真意は「祭礼におけるトランス(憑依)」に象徴される先祖から続く限りない命の受け継ぎのことである。また「理性と管理社会に飼いならされる以前のいきいきした動物や子供の直接反応」である。
  5. 古関は「公演は面白くなければいけない」を持論とし、祭り・サーカス・手品などをスペクタクルの原点とする。記憶の深い琴線に触れる部分、例えばシェイクスピア『夏の夜の夢』ならば、夏至の夜のケルト伝来の、恋人を取り換えるなど無礼講や野生をあらわにできる(象徴的に「ロバ」になる)夏至の一夜に、またグリム童話『ヘンゼルとグレーテル』ならば「育てる親―捨てる親」へのアンビバレンツな感情と食欲(お菓子の家)という最大の欲望に焦点を合わせる。そして説明的でリニアーな筋追いを壊す舞踏のシュールレアリズムと、俯瞰する演出者の目(啓示でもあり観客の目でもある)の構成力との間の危うい均衡をとりつつ、そのスキマに遠い異界の記憶が立ち現われることを願う。

関連人物[編集]

外部リンク[編集]


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