ル・グリフォン
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『ル・グリフォン』(Le Griffon) | |
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Le Griffonの木版画 | |
基本情報 | |
クラス | バーク[1] |
経歴 | |
進水 | 1679年 |
最後 | 1679年処女航海の帰航で失踪 |
要目 | |
長さ | テンプレート:Convert/Dual/LonAoffDbSoff[1] |
幅 | 10から15フィート (3から5m)[1] |
その他 | 五大湖上流で最初のフルサイズの帆船[2] |
『ル・グリフォン』(Le Griffon、フランス語発音: [lə ɡʁifɔ̃])は、1679年にロベール=カブリエ・ド・ラ・サールによって建造された帆船である。
『ル・グリフォン』は、ナイアガラ川のケイユーガ島でまたはその近くで建造され進水され、カノン砲7門で武装していた。『ル・グリフォン』の正確な寸法と構造は知られていないが、しかし多くの調査者は彼女が45トンのバークであったと信じている。彼女はそれまで五大湖で最大の帆船であった。1679年8月7日にラ・サールと神父ルイ・エヌパン(Father Louis Hennepin)は『ル・グリフォン』の処女航海で乗組員32人と一緒に出発し、カヌーだけが以前探検していた、海図に載っていない水域をとおってエリー湖、ヒューロン湖およびミシガン湖を横断した。船はミシガン湖の或る島に接岸した。同地では地元の部族がすでにフランス人と交易するために動物の生皮を持って集まっていた。ラ・サールは下船し、9月18日にその船をナイアガラに向けて送り返した。それは、現在グリーン・ベイとして知られる水域の口にあると言われるその島からの帰航で、乗組員6人全員および毛皮の積荷とともに姿を消した。
長年にわたって多くの説があった一方で、『ル・グリフォン』の運命や現在の場所について明確な意見の一致はない。
歴史的文脈[編集]
『ル・グリフォン』はそれまで五大湖で最大の固定リグ帆船であったし[3]、世界のその地域におけるモダンな商業海運への道を切り開いた。歴史家J・B・マンスフィールドは、これが「当時これらの内水域海岸を占領したインディアン部族の最も深い感情を興奮させた」("excited the deepest emotions of the Indian tribes, then occupying the shores of these inland waters")と報告した[2]。
フランスの探検家ロベール・カブリエ、シュール・ド・ラ・サールは、フランスの貿易を拡大するために、中国と日本への北西航路を探した。もし土着アメリカ人らと毛皮貿易独占をつくれば、彼の探求の資金を調達するであろうし、『ル・グリフォン』の建造は「スキームに不可欠なリンク」("essential link in the scheme")であった[4]。エリー湖岸沿いに氷が砕け始めるやいなや、1679年春に『ル・グリフォン』の作業が続けられたいっぽうで、ラ・サールは、ヒューロン湖とミシガン湖の上流の交易所でイリノイ族と毛皮を交易するために、物資と商品を積んだカヌー15隻でフロンテナック砦から男らを派遣した[4]。
最初の船々と準備[編集]
『ル・グリフォン』は、五大湖での最初の船とあるいは見なされ、あるいは見なされない。これは、その指定の対象となる船舶を認定するために必要と見なされる要因によって異なる。デッキング、恒久的なマスト、名前をおびていることは、使用する可能性のある基準のうち少数である[notes 1]。
1673年以前は、それら湖で最も一般的な船はカヌーであった。川や小川で小さなカヌーが使用されていたいっぽうで、湖カヌーはより一般的には長さが最大約35フィート (11 m)の大きな船であった。それらのうちいくつかはたった1本の彫刻された丸太から作られた(「丸木舟」("dug out")または「ピローグ」(pirogue、丸木舟))いっぽうで、ほとんどはバーク・カヌーであった。バトー(Bateau、平底の川船)もまた一般的であった。それらは、長さが最大約35フィート (11 m)で、3トンまたは4トンの貨物を運べる木製のオープン船(デッキなし)であった。それらはときどきマストと帆を備えていたいっぽうで、それらの主な推進力はオールかポールかのいずれかであった。帆は風下に移動するための単なる補足であった。風上へ間切ることの非効率のために、それらは帆船として非実用的であったし、それらは開水域ではあまり安全ではなかった[要出典]。
ナイアガラの滝の下流。オンタリオ湖の最初の船々[編集]
ジェームズ・マンスフィールド[2]は、1678年秋にラ・サールは、フロンテナック砦で約10トン積みの船を建造した、この『Frontenac』と称する船は、五大湖、とりわけオンタリオ湖(当時一部の人々は『Lac de Frontenac』(フロンテナック湖)と呼んだ)、では、最初の真の帆船であった、と言っている。マンスフィールド以来、多くの著者がそれの先例に倣っている。しかしながら、彼の主張を疑うべき理由がある。
ジャスティン・ウィンザーは、1673年8月1日までにフロンテナック伯爵が「フロンテナック砦の補助部隊として使用されるオンタリオでの船の建造をすでに命じていた」("had already ordered the construction of a vessel on Ontario to be used as an auxiliary force to Fort Frontenac")、と述べている[5]。彼はまた、1676年にフロンテナック砦で、ラ・サールは「イングランド人を怖がらせるために頼っていた船複数の竜骨を据え起工した」("laid the keels of the vessels which he depended on to frighten the English")と述べている[5]。J・C・ミルズ[4]は、「カタラキの砦(フロンテナック砦)は目下建造中の船の助けを借りて、オンタリオ湖を指揮するであろう...」("The fort at Cataraqui (Fort Frontenac) with the aid of a vessel now building, will command Lake Ontario...")と言っている、ラ・サールから海事大臣への手紙を引用している[4]。この手紙の日付は示されていないいっぽうで、ミルの参照箇所は、それが1677年以前に、ひょっとするとはやくも1675年に、送られたことを示唆している。フランシス・パークマンは、1677年までに「25ないし40トンの船4隻がオンタリオ湖とセントローレンス川のために建造されていた」("four vessels of 25 to 40 tons had been built for the lake Ontario and the river St. Lawrence")、と言っている[6]と言っている。 H・W・ベックウィズは、1678年9月にラサールは「オンタリオ湖ですでに小型船3隻を所有し、インディアンらとの沿岸貿易に利用していた」("already had three small vessels on Lake Ontario, which he had made use of in a coasting trade with the Indians")と述べている[7]。これらの情報源のいずれも、これらの船のいずれにも名前を認めていない。トンティ、エヌパン、およびルクレルク(ラ・サールの参加者)の日記には10トンの小さな船1隻に言及しているが、それらのうち名前を付けているものはない。
ナイアガラの滝の上流。『ル・グリフォン』[編集]
1678年のラ・サールの主な焦点は、『ル・グリフォン』の建造であった。9月下旬に彼はフロンテナック砦に到着して、一部は最近フランスで入手した建築資材を、新船を建造し得るナイアガラの滝の上流の場所に輸送するために、フロンテナック砦で船を建造する時間も興味もなかった。ベックウィズの結論は、彼はナイアガラに男の第一集団を送るために、既存の船の1つ、約10トン積みの1つを選んだ、ということであった[6]。ラ・サールの仲間には、この船をブリガンティンと呼ぶ人々もいれば、それをバークと呼ぶ人々もいた。それら話は、この小さな船が『ル・グリフォン』の建造で或る役割を果たしたことで一致している[要出典]。
1678年11月18日に、ラ・サールはフロンテナック砦で1か月余りの準備をした後、ラモット大尉と神父ルイ・エヌパンを兵士15人と補給品と一緒に10トンの船に乗せて派遣した。彼らの使命は、『ル・グリフォン』の建造のための場所を選択し始めること、そしてシェルター、保管、防衛に必要な構造物を建てることであった。北風が強かったために、彼らは湖の北岸近くを航海し、途中のさまざまな湾で夜を過ごした。どこか現在のトロントの近くで、彼らは氷に閉じ込められ、氷から切り開いて進まねばならなかった。そこから、彼らは湖を横切ってナイアガラ川河口に向かって出発した。12月5日晩くに彼らは到着したが、しかし悪天候で、夜間に川の打ち寄せる波と流出を走りたくなかったために、沖合数マイルにとどまった。12月6日に、彼らは、川の東岸、ニューヨーク州ルイストンが現在ある所あたりに無事接岸した。彼らはさらに上流に向かって航海しようとしたが、しかし流れがあまりに強すぎた。川を流れ下る氷は小さなブリガンティンを損傷する恐れがあり、ケーブル1本が壊れた後、彼らは船を岸に引上げ、保護のために小さな渓谷の中に運んだ[8]。
ラ・サールの男らはまず宿舎を建てねばならず、次にイロコイ族から身を守らねばならなかった。彼らは太古からの故郷へのこの侵略に敵愾心をもった[4]。ラ・サールはエヌパンとラ・モットに、セネカ族の偉大な村まで重大な使命を帯びて膝までの雪の荒野を75マイル (120 km)行くよう指示し、彼らの善意を得る目的で贈り物と約束をもたらした。「大きなカヌー」("the big canoe")(『ル・グリフォン』)を建造したが、しかし多くの部族員は是認しなかった[2][4]。1678年のクリスマスの日から、ラ・モットと エヌパンは男のうち4人と一緒に、タガロンディーズに住む著名なセネカ族の長にスノーシューで行った[notes 2]ナイアガラの東約75マイル (120 km)[notes 3]。オンタリオ湖の南約2020マイル (32 km)の村[9][要ページ番号]である。彼らは、原住民らが自分たちの計画に干渉しないように、信頼できる停戦を確保したかった。あとに取り残された人々は、必要とされる建造計画を進めた。セネカ族との交渉はまずまず成功しただけだったために、彼らは村を立ち去ったとき、まだ、原住民らが自分たちに計画を終えることを許すかどうか疑問に思った。1月14日に彼らはふたたびナイアガラに到着した[8]。
一方、ラ・サールとアンリ・デ・トンティはすでに、ラ・モットとエヌパンの数日後に2隻目の船でフロンテナック砦を出発していた。これは約20トン積みの「大きなバーク」("great bark")(エヌパンの言葉)であった[8]――ただしトンティの日記によると、これは40トンの船であった[10]。この船は、予想される旅のための物資と備品のみならず、『ル・グリフォン』のための錨、鎖、銃、コード類、ケーブルをも運んだ。ラ・サールは湖の南岸をたどった。ラ・サールは、タガロンディーズのセネカ族を自分で訪問することにした。彼は現在のニューヨーク州ロチェスター近くに上陸させ、ラ・モットとエヌパンが立ち去った直後にタガロンディーズに到着した。彼は、提案された「大きいカヌー」("big canoe")と支援建物に対するインディアンらの寛容を確保することに、より成功した。ラ・サールが戻って船に乗った状態で、一行は再び西に航海し、やがてナイアガラから約25マイル (40 km)のところで、天候が彼らの進行をさまたげた[notes 4][要ページ番号]。ラ・サールと船の水先案内人との間にはなにか意見の相違があったし、ラ・サールとトンティは徒歩でナイアガラに向かった。彼らが同地に到着したとき、ラ・モットとエヌパンはまだ戻っていなかった。同地にいる間に、ラ・サールは『ル・グリフォン』を建造する場所を選んだ[要出典]。
ラ・サールとトンティが立ち去った後、水先案内人と残りの乗組員は補給船と一緒に追跡するはずであった。1679年1月8日に、水先案内人と乗組員は、火をともし暖かく眠れる岸で夜を過ごすことにした。穏やかな夜で、船はしっかりと係留されていると彼らは信じていた。突然強風が発生したとき、彼らは船に戻ることができなかった。船は錨がきかず東に約9マイル漂流し、その後現在のサーティ・マイル・ポイント近くで触底しばらばらになった[notes 5][要ページ番号]。ラ・サールは(伝令または先住民の1人を通じて)この損失のことを聞いたとき、ナイアガラを立ち去り、引上げ努力に参加した。彼らは錨、鎖、そして『ル・グリフォン』にとって重要なほとんどの材料を回収したが、しかし、物資と食料の大部分は失われた。彼らは材料をナイアガラ河口まで引きずり、或るインディアン村で数日間休息しウォーミングアップし、その後、材料を雪の中を一列縦隊で滝の上流の集落に運んだ[要出典]。
ラ・サールは、フロンテナック砦から1679年1月20日に、はしけで輸送される十分な索具、錨、鎖、コード類、カノン砲と一緒に到着し、その後引上げし、陸路30マイル (48 km)建造現場にひきずった。ラ・サールは『ル・グリフォン』の竜骨を据える起工を監督し、彼女の最初のボルトを打ち込んだ。天然のままの道具、緑のと湿った木材、そして寒い冬の数ヶ月は、『ル・グリフォン』の建造の遅い進展を引き起こした[4]。ラ・サールは、失われた物資の代替品を確保するためにフロンテナック砦に旅した間、イタリアの将校アンリ・デ・トンティと神父エヌパンに任せた[2][4]。
ラ・サールが『ル・グリフォン』を建造するために選択した場所は、ケイユーガ島のケイユーガ・クリーク河口のまたはその近くであると最終的に特定されている[6][8][11][要ページ番号]。1679年1月26日に同地で竜骨が据えられ起工された。ラ・サールはエヌパンに最初のスパイクを打ち込む栄誉を与えたが、しかしエヌパンは彼の指導者に任せた。必要な物資を失って、ラ・サールは、トンティの管理下の『ル・グリフォン』の建造を立ち去り、フロンテナック砦に戻るために徒歩で出発した。凍った川は旅行を容易にしたが、食べ物を見つけることはそうではなかった。彼はあやうく餓死しそうになって同地に到着したが、彼を中傷する人々がすでに、彼の債権者らとの疑念と反対をかき立てていた。問題に取り組むことは彼の遠征への復帰を長い間遅らせた[notes 6][要ページ番号]。
ラ・サールが出発した後、トンティはこの小さなブリガンティンを再浮上させ、この難破船のさらなる引上げ作業に使用しようとしたが、冬の天候のために成功しなかった。その後、彼はラ・モットにカヌー複数を使った引上げを請求した。しばらくして、エヌパンはこの小さな船を使ってフロンテナック砦に向かい、ふたたびナイアガラに戻ることになる[8]。
『ル・グリフォン』の進行には問題に満ちていた。男らは寒さと物資の不足に苦しんで、反乱寸前であった。インディアンらとの不安な停戦は、怠業と謀殺の脅威と未遂によって試されていた。トンティは船が進水可能である前にそれを燃やす計画を聞き知ったために、予定より早く進水させ、『ル・グリフォン』は1679年5月前半に水に入った[要出典]。
彼女が造船台で成長したとき、この部族の或る女性先住内通者が、敵愾心をいだくセネカ族が『ル・グリフォン』を燃やすという計画のうらをかいた。セネカ族と不平不満を持つ労働者らの不穏は、ラ・サールが毛皮貿易の独占を打ち破るのではないかと恐れる商人らや交易者らの秘密諜報員らによって絶えず扇動された[4]。セネカ族がふたたび船を燃やすぞと脅したとき、彼女は、儀式ばってカノン砲の轟音とともにナイアガラ川上流のケイユーガ・クリーク水路で計画より早く進水させられた。進水を目撃したイロコイ族の一行は、「大きな浮かぶ砦」("large floating fort")にあまりに感銘を受けたので、フランスの建造者らに、「浸透する心」("penetrating minds")を意味する『Ot-kon』と命名したほどである。これは、超自然的な存在または精霊を意味する、セネカ語『Ot-goh』に対応している[2]。『ル・グリフォン』のカノン砲の騒々しい音は先住アメリカ人らをあまりに驚かせたので、フランス人らは沖合に停泊したとき数か月ぶりに安眠できるほどであった。『ル・グリフォン』は進水させられた後、帆を装備し、カノン砲を7門備え、うち2門は真鍮製であった[2]。フランスの旗が、船体より上に持ち上げられたメイン・デッキに配置されたキャビンの上方でひるがえった[4]。彼女は、ジブーブームにグリフォンを取り付け、その上方をワシが飛んでいる姿をしていた[2][4]。『ル・グリフォン』は、紋章が神話上のグリフォンで飾られていたフロンテナック伯爵にちなんで名付けられたという人々もいる。エヌパンは、彼女は彼女を脅かす火から自分を守るために名付けられた、と言った[2]。
建造[編集]
『ル・グリフォン』のパターンは、大西洋を新世界まで横断する探検家らによって使用される現行のタイプのすぐ後につづいた[2][4]。『ル・グリフォン』の正確なサイズと構造は知られていない。広く参照されている『ル・グリフォン』のアンティークの板目彫刻は、彼女にマストが2本あることを示しているが、しかし多くの研究者は、彼女は、10から15フィート (3.0から4.6m)のビームが1本ある、マスト1本に正方形の帆がいくつかある、長さが30から40フィート (9.1から12m)の45トンのバークであったと信じている[2][1]。
エヌパンの最初の報告は、彼女は約45トンの船であった、と言っている。彼の2つ目は60トンと言っている。彼の2つ目の話には、ラ・サールがしていたことを自分のおかげだとしている無数の誇張と事例があるために、エヌパンの最初の話が、より信頼できると見なされている。いずれにせよ、『ル・グリフォン』は当時のそれら湖で他のどの船よりも大きく、現代の報告が確認できるかぎりにおいて、最初の命名された船であった[要出典]。
処女航海[編集]
ナイアガラ川からサギノー湾に[編集]
1679年7月に、ラ・サールは男12人に、岸から長いラインを伸ばしてナイアガラ川の急流を『ル・グリフォン』を曳くよう指示した。彼らはエリー湖から3マイル離れたスコー島沖の静かな水に係留し、好都合な北東風を待った。1679年7月22日にラ・サールは、毛皮と物資を確保するために、選ばれた男数人、カヌー、交易品と一緒にトンティを先に送った。8月7日に、『ル・グリフォン』は、広げられた帆、乗組員34人、そしてカノン砲とマスケット銃の礼砲とともに出発した[4]。彼らは、カヌーだけが以前に探検した未知の水域をとおって『ル・グリフォン』を操舵しつつあった。彼らはつねに水深を測りながらオンタリオ州ロング・ポイントを回ったとき、彼らは砕ける波音にあわせて、唯一のガリネGalinéeの粗製の10歳の海図のラ・サールの知識によって導かれて、月のない、霧を含んだ第1夜を通りぬけた。 彼らはエリー湖の開水域を航海した。その岸は森林におおわれ、「文明のどれほどかすかな兆しによっても途切れ」("unbroken by the faintest signs of civilization")ていなかった[2]。1679年8月10日に彼らはデトロイト川河口に到着した。同地で彼らは、彼らが船上で受け取ったトンティの野営地の場所を知らせる煙3本で迎えられた[4]。8月12日、聖アッシジのキアラの祝日に、彼らは、セント・クレア湖にはいり、そして彼女にちなんで湖に命名した。彼らはふたたび、セントクレア川の狭い水路を河口まで水深を測って通り抜け、同地で逆風によって8月24日まで遅れた。2回目に、彼らは男12人とロープ複数を使用して、セントクレア川の急流を越えてヒューロン湖の下流の中まで『ル・グリフォン』を曳いた。彼らは北と西にヒューロン湖のサギノー湾に向かい、同地で8月25日正午まで風がないために動きが止まった。ラ・サールは、水先案内人が不注意であるという証拠のために、この時点で個人的な指揮をとった[2][4]。
ヒューロン湖の嵐[編集]
8月25日正午に、彼らは好都合な北風で北西に出発した。風向が突然南東に変わったとき、彼らはプレスク・アイルを避けるために進路を変えた。しかしながら、強風の猛威のために彼らは風上に後退し、朝まで船首を風上に向けて停船せざるをえなかった。8月26日までに、強風の激しさのために、彼らは「トップマストを降ろし、ヤードを甲板に打ち付け、嵐のなすがままに漂流した。正午に波があまりに高くなり、湖はあまりに荒れ、彼らに土地の代わりをするように強いるほどであった」("haul down their topmasts, to lash their yards to the deck, and drift at the mercy of storm.At noon the waves ran so high, and the lake became so rough, as to compel them to stand in for land")[2]神父エヌパンは、嵐の恐ろしいとうげの間に、ラ・サールは、もし神がそれらを救ってくださるならば、ルイジアナに建てられる最初の礼拝堂は船乗りの守護聖人パドヴァのアントニオの記憶に奉献されるであろう、と誓った、と書いた。たしかに風はわずかに減少したが、しかし彼らは夜の間じゅうゆっくりと漂流し、停泊地やシェルターを見つけられなかった。彼らは北西においやられ、やがて8月27日晩に、南の軽風の下でようやくポイント・セント・イグナスを一周し、マッキナック島の自然港の穏やかな水域に投錨した。同地にはヒューロン族、オタワ族、そしてフランス人数人の集落が1つあった[2]
マキノー島[編集]
『ル・グリフォン』がマッキナック島にぶじ到着するや、航海者らは甲板から礼砲を放ち、ヒューロン族は岸で火器で三回一斉射撃した。100超の先住アメリカ人のバーク・カヌーが「大きな木のカヌー」("big wood canoe")を見るために、『ル・グリフォン』の周りに集まった[4]。 ラ・サールは、レースで縁取られた緋色のマントと高く羽毛をつけたキャップ帽を身に着け、両腕を歩哨1人にあずけて脇に置き、オタワ族の礼拝堂で乗組員と一緒にミサに出席し、その後儀式ばって部族長らを訪れた[2][4]。
ラ・サールは、イリノイ族と交易するためにフロンテナック砦から先に送った男15人の一部を見つけたが、しかし彼らは、自分はマッキナック島には決して到達しないと言ったラ・サールの敵らを聴いていた。ラ・サールは脱走者のうち2人を捕らえ、男6人と一緒にトンティを送り、スー・セント・マリーでさらに2人を逮捕した[2][4]。
グリーン・ベイ[編集]
五大湖の上流の短い開水域季節のために、ラ・サールは、トンティが戻る5日前の9月12日にグリーン・ベイに向けて出発することを余儀なくされた。彼らはマキナック海峡からグリーン・ベイの入り口にある島(ワシントン島かロック島のいずれか)[2]に向かって航海した。彼らが島の南岸に投錨すると、そこは友好的なポタワトミ族と、ラサールが先に送った毛皮商人15人に占められていた。交易者らはすでに、『ル・グリフォン』の到着を見越して、毛皮12,000ポンド (5,400 kg)を集めていた。ラ・サールはミシガン湖のヘッドを探検するためにカヌー4隻と一緒にあとに残ることにした。ラ・サールは『ル・グリフォン』に、帰航で拾われるであろう商品をマッキナック島で自分のために降ろすよう指示を出した。 『ル・グリフォン』は4日間激しい嵐を乗り越え、その後9月18日に、水先案内人リュックと乗組員5人が、たった1丁の銃からの別れの礼砲でナイアガラ川に向けて順風の下で航海した。彼女は、50,000ないし60,000フラン(10,000ないし12,000ドル)相当の毛皮の貨物と、ラ・サールが西インド諸島への通路を見つけるために建造するつもりの別の船の索具と錨を運んだ。ラ・サールは二度と『ル・グリフォン』を見ることはけっしてなかった[2][4]。
難船[編集]
神父エヌパンは、『ル・グリフォン』は激しい嵐の中で失われた、と書いた[4]。彼女の破壊で毛皮交易者らを、そしてイエズス会修道士らをさえ、非難する人々もいた。オタワ族らまたはポタワトミ族らが彼女に乗り、乗組員を謀殺した後、彼女を燃やした、と言う人々もいた。ラ・サールは、水先案内人と乗組員が裏切って彼女を沈め、商品を持ち逃げした、と確信していた。『ル・グリフォン』の損失にかんする説のどれにも決定的な証拠はない[2]。
『ル・グリフォン』は、五大湖の難破船かりうどの「聖杯」("Holy Grail")であると報告されている[12]。沈没した古い帆船の多くは『ル・グリフォン』であることが示唆されているが、しかし他の船であることが証明されたものを除けば、肯定的な識別はなかった。1候補はヒューロン湖のマニトゥーリン島西端にある難破船であり、ミシガン州エスカナーバ近くにある別の難破船も提案された。
『ル・グリフォン』は五大湖で最初に失われた船である、と考える人々もいる。それはラ・サールとトンティによって使用された別の船であったが、1679年1月8日の最初の損失であった。上記のように、情報源複数によると、そのサイズは20トンまたは40トンである。それは錨がきかず漂流し、オンタリオ湖サーティ・マイル・ポイント近くで座礁し、そこでばらばらになった。この船は『Frontenac』と命名されていたと言う人々もいれば、ラ・サールの遠征で使用された別の船が『Frontenac』であったと言う人々もいる。これら船2隻を混同している情報源もいくつかある。
『ル・グリフォン』は五大湖探検グループ(Great Lakes Exploration Group)によって発見されたかもしれないが、しかし潜在的な遺物は、発見者ら、ミシガン州、合衆国連邦政府およびフランス政府が関与する訴訟の対象であった[13]。2001年にミシガン州ポヴァティ島付近で最初に発見されて、ソナーは、数フィートの堆積物の下にある、およそテンプレート:Convert/by/AoffSoff (12 × 5.5 m)(『ル・グリフォン』の寸法と似ている)の物体を示している。2010年7月に、五大湖探査グループは、ミシガン州とフランスが難破船を特定するための遺跡評価の次の段階で協力することに合意したことを示すプレス・リリースを発行した[14]。何年にもわたる法的な論争の後、ミシガン州自然資源局(Michigan Department of Natural Resources)は許可証を発行し、2013年6月16日に、合衆国およびフランスの考古学者らが初めて対象物を調べることを可能にする水中ピット1つが掘られた。彼らは、ヒトが作った文化的工芸品であったかもしれない、黒ずんだ木の15インチのスラブを発見した[15]。2013年6月19日に、科学者のチーム複数は、発見された木のポールが緩み、発掘中に湖底に置かれた後、船に取り付けられていない、と判断した。彼らは、それはおそらく数百年前の船に始まる第一斜檣であると結論づけたが、ただし19世紀に漁網に使用された一般的な壺網(pound net)の支柱であると考える人々もいる。当時、他の難船貨物は見つからなかったが、しかし科学者らは他の残骸が遠くないかもしれないと指摘した[16][17]。
2014年6月23日に、スティーブ・リバートはAP通信に、自分が、前年にミシガン湖で木材スラブ1つが見つかった場所の近くのがれきの原で、徹底的な調査ののち『ル・グリフォン』を見つけた、と自分は信じている、と語った[18]。
2014年12月27日に、潜水夫2人、ケビン・ダイクストラとフレデリック・モンローは、一部にとっては装飾のグリフィンに似ているバウステム(bowstem)に基づいて、自分たちが『ル・グリフォン』だと信じている難破船の発見を発表した[19][20]。ミシガン当局がその信憑性を検証する座標を受け取った後、2015年6月9日に潜水したとき、彼らの主張はすぐに正体を暴かれた。ミシガン州の海洋考古学者ウェイン・R・ルサーディは、この難破船は、その長さ90フィート (27 m)と、蒸気ボイラー1つの存在のために、実はタグボートであった、という証拠を提示した[21]。
『ル・グリフォン』の難破の場所に関する意見の一致はまだない。クリス・コールとジョアン・フォースバーグによる2015年の書籍『The Wreck of the Griffon』は、これまでに提案された最高の「発見」("discovery")は、ヒューロン湖北部のマニトゥーリン島西岸の灯台員アルバート・カリス(Albert Cullis)による1898年の発見である、と主張している。彼らは決定的な証拠が見つかっていないことを認識しているいっぽうで、そこで見つかった証拠は当時の歴史について知られていることと一致しているし、彼らはもし『ル・グリフォン』が他の場所で見つかったならばそれはカリスによる発見内容の謎を深めるだろう、と仮定している[22]。
注[編集]
- ↑ この記事においては、「ship 船」という言葉は広い意味で使用され、正方形の帆が装備された3本以上のマストを備えた船を指す技術上の意味ではない。
- ↑ 現在のニューヨーク州ビクターの南約1マイルに、ガノンダガン州立史跡(Ganondagan State Historic Site)として現在保存されている。
- ↑ エヌパンの日記は32リーグ(converts to 96マイル (154 km))と言うが、しかし彼の数字は国中をスノーシューしている間に行われた推定値である。直線距離は約75マイル (121 km)である。
- ↑ キングスフォードは、それが逆風であったか、でなければ彼らが落ち着いていた、と言っている。トンティの日記は、それは逆風だった、と言っている。
- ↑ キングスフォードの本文はサーティーナイン・マイル・ポイントと言うが、現代の海図はその名前を示していない。サーティ・マイル・ポイントは確立された場所であり、物語の残りとよりよく適合する。それはまた、ナイアガラからの約20マイル (32 km)で、1月8日に彼らの前進をもたらすでしょう。ラサールとトンティの出発後に、船が西に進んだかどうかは明らかでない。
- ↑ 情報源は、この遅延がどれくらいの長さであったかについて意見が分かれている。ラ・サールは、特に春の雪解けの後に、何度も旅行したと言う人々もいれば、彼は7月までナイアガラに戻らなかったと言う人々もいる。
出典[編集]
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 “An expedition of historic significance: the search for the elusive Griffon”. Great Lakes Exploration Group. 2009年3月19日閲覧。
- ↑ 2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 2.11 2.12 2.13 2.14 2.15 2.16 2.17 2.18 2.19 Mansfield, J.B., Ed. (1899). History of the Great Lakes: Volume I. Chicago, Illinois: J.H. Beers & Co.. pp. 78–90 エラー: 日付が正しく記入されていません。
- ↑ Harriette Simpson Arnow, Seedtime on the Cumberland, Michigan State University Press. (2013)
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読書案内[編集]
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- MacLean, Harrison John (1974). The Fate of the Griffon. Chicago: The Swallow Press, Inc; Sage Books. モジュール:Citation/CS1/styles.cssページに内容がありません。ISBN 0-8040-0674-1
- Allen, Durward L. (1959). “If you are in need of a mystery, here is a historic puzzle: What happened to La Salle's Griffon?”. Boys' Life (New Brunswick, New Jersey: Boy Scouts of America) 49 (9): 18, 76–77 .
外部リンク[編集]
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