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パウリ・マルティナ

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1919年撮影(階級は曹長)

パウリ・マルティナ(フィンランド語:Pauli Marttina、ロシア語:Паули Марттина、1898年12月14日 - 1963年1月25日)は、ロシア帝国白軍フィンランドの軍人、作家[1][2][3]

生涯[編集]

フィンランド大公国(現在のフィンランド)ヴィボルグ県[4]ヴィボルグに住む商人一家の元に生まれる。

第一次世界大戦に従軍するも捕虜になり、ロシア革命後のフィンランド内戦アウヌス遠征[5]に参加したオロネッツ義勇軍[6]軍曹として勤務し、終戦までに階級が曹長[7]まで昇進する。

内戦終結後は1920年に設立したフィンランド初の予備役士官過程[8]に参加。同時期に市民権を得る。卒業後はカレリア衛兵連隊[9]に入隊し、1928年まで勤務する(この時の最終階級は中尉)。その後は予備役の教官として転属し、国防軍の諜報活動に加担する。

冬戦争時は東カレリアからの武装難民をゲリラや諜報活動に活用すべきであると参謀本部に提案し、遠隔パトロール部門のリーダーを務め、1940年大尉1942年には少佐に昇進する。そして継続戦争の3日前、マルティナは私服を着た16人の攻撃グループを率い、その任務はドイツ空軍の命令と支援を得て白海・バルト海運河の門を破壊し、ムルマン鉄道を遮断することであり、運河閘門を爆破する事が出来たが、時期尚早に発見された為に失敗する[10]

ラップランド戦争では親衛隊保安局の連絡員を務めるが[11]プナイネン・ヴァルポ[12](共産系の州警察)により1945年夏頃から指名手配を受けた為、軍を退役後スウェーデン経由でベネズエラに亡命。

1950年に帰国後、ヘルシンギン・サノマット社イルタ・サノマット社の外国課の記者として働き、1963年1月25日にヘルシンキで亡くなる。

軍歴[編集]

彼の上司イルヨ・ペイホネン大佐が書いた勤務証明書によると、彼の参謀本部および参謀統計局及び戦時中の本部情報部での勤務では1936年4月15日に始まり、1945年12月31日までだったと言われる。

出版物[編集]

  • Miesten syöjiltä sijoilta : muisteluksia Vienan ja Aunuksen vainovuosilta, WSOY Porvoo 1935
  • Kaukopartio-opas KAPO 1944
  • Vahingossa Venezuelaan : Kevyt kertomus raskaasta retkestä, WSOY Porvoo 1952

脚注[編集]



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